SHOE DOG  Phil Knight  2018.5.15.


2018.5.15.  SHOE DOG 靴にすべてを。
SHOE DOGA Memoir by the Creator of Nike  2016

著者 Phil Knight ナイキ創業者。1938ねんうまれ。ポートランド出身。オレゴン大卒。大学時代は陸上チームに所属。中距離ランナーとして、伝説のコーチ、ビル・バウワーマンの指導を受ける(バウワーマンはのちにナイキの共同創業者となる)1年間のアメリカ陸軍勤務を経て、スタンフォード大大学院に進学。MBA(経営学修士号)取得
1962年オレゴンのブルーリボン・スポーツ社の代表として日本のオニツカを訪れ、同社の靴をアメリカで売るビジネスを始める。その後独自のブランドの「ナイキ」を立ちあげ、社名もナイキと変更。創業メンバーたちとともに、スポーツ用品界の巨人、アディダスとプーマをしのぐ企業へと同社を育て上げる。61年~04年迄同社のCEO、その後16年まで会長を務める。妻ベニーとオレゴンに暮らす

訳者 太田黒奉之(ともゆき) 京大法卒。洋楽好きが高じ、主にミュージシャンの伝記の翻訳を手掛ける

発行日           2017.11.9. 第1刷発行       2018.3.2. 第7刷発行
発行所           東洋経済新報社

君は天職に出会っているか。
負け犬たちの熱狂人生。

夜明け アスリート人生
世界に足跡を残したかった
負けたくなかった
自分の人生もスポーツのようでありたいと思った ⇒ 幸せのカギは、美や真実の本質は、或いは私たちが知るべきあらゆることは、ボールが宙に舞う瞬間にある
究極の夢は、偉大な陸上選手になること
62年の朝、走り続けろと自分に言い聞かせた。目標に到達するまで、止まることなど考えるな。そこがどこにあるのかも考えるな。何が起ころうと立ち止まるな。

1
Ø  1962 オニツカとブルーリボン
スタンフォード時代に起業のクラスでランニングシューズのレポートを発表、それを実現させるために父親に相談したところ、反対されると思っていたら以外にも賛成してくれた
そのときのクラスメートのカーターを誘って日本行きを決行
途中立ち寄ったハワイが気に入って、百科事典の訪問販売の職に就きながらサーフィンを楽しむうちに、カーターに彼女ができ、一人で日本に行く
神戸にあるオニツカのタイガーというブランドが気に入って、ドイツの独擅場だったカメラ市場で日本メーカーが活躍しているように、日本のランニングシューズにも大きな可能性があると考え、アメリカへの輸入販売を持ちかけるために訪日
大学院時代に考え付いたアイディアを実行に移す
いきなりオニツカの工場に出向き、出まかせにブルーリボン・スポーツ代表と名乗り、ちょうどアメリカ進出を考えていたオニツカのニーズと合致し、すぐに見本代として50ドルの前払い金の支払いを約束
その後香港、フィリピン、バンコク、ベトナム、カルカッタ、カトマンズ、ケニア、カイロ、エルサレム、イスタンブール、イタリア、パリ、ミュンヘン、ウィーン、ロンドン、アテネを回って、翌年自宅へ戻る
Ø  1963 会計士として
シューズが届くまで、会計士として働こうとし、公認会計士の資格を取るために9時間の講座を受け、働き始める
Ø  1964 レジェンド・バウワーマン
見本の12足が日本から届き、2足をオレゴン大の陸上部コーチのバウワーマンに送る
バウワーマンは、選手のシューズをより細く、よりソフトに、より軽くしようと、常に新たなデザインや案を考慮・検討 ⇒ 最優先事項はより軽くすることで、靴1足を1オンス(28g)軽くすれば、1マイルに対し55ポンド(25)の負担が軽減される
バウワーマンは、すぐに日本のシューズが気に入って、契約に参加したいと申し出、5149での約束が成立。最初の注文1,000ドルから折半で開始(@3.33ドルx300)
著者の負担分はまたもや父に頼り、1,000ドル借りて発注、今回はすぐに商品が届くと同時に、アメリカ西部でのオニツカの独占販売権を得る
販売は、スポーツ用品店に断られた後、太平洋岸北西部で開催の陸上競技会に行き、レースの合間に選手やコーチと談笑しながらシューズを見せると反応は上々 ⇒ 自然にメールオーダーに向かう
急速に知名度が広がり、@6.95ドルのシューズへの需要が急伸、900足を発注したが、父親の金融支援には限度があり、代わりに書いてくれた保証書のお陰で地元の銀行から融資を受ける
オニツカの独占販売権を持つという東部のレスリングコーチのマルボロマンからクレームが来たので、日本に掛け合いに行き、社長に直接会って西部13州のトラックシューズの販売権を認めさせる ⇒ 創業社長は、著者に自分の若いころを重ねていた
日本滞在中に富士登山に行き、知り合ったアイスクリーム会社の社長令嬢と恋に落ちるが、すぐにフラれてしまうが、代わりに妹が仕事を手伝うことに
Ø  1965 巨漢ヘイズ
65年当時、ランニングはスポーツですらなく、変わり者が邪なエネルギーを発散させるためにやること
スタンフォード時代の友人で優秀な1マイル走者ジェフ・ジョンソンと再会し、カリフォルニアでの販売員という形で従業員第1号として月400ドルで採用
初年度の売り上げ8,000ドルを銀行に預けた後、翌年度は16,000ドルの売上を計画していたが、銀行が急成長に難色を示す
公認会計士試験の4つの部門すべてに合格し、プライス・ウォーターハウスに就職し、正規の会計士となって自分に箔をつけた。そのときの上司がヘイズ
陸軍の予備役で借り出される ⇒ 任務は7
64年の東京オリンピックにコーチとして参加したバウワーマンは、配下の2人のメダル獲得に成功した後、オニツカ社長と会い、特にオニツカ社長が敗者の魂を固持していたことがバウワーマンを感心させ、2人の獅子が固い絆で結ばれる
バウワーマンは実験を繰り返し、アメリカ人の体格に合った靴をオニツカに作るよう注文、最初は反応が鈍かったオニツカも徐々にバウワーマンの追究に手を貸し始める
Ø  1966 手紙魔ジョンソン
サンタモニカに販売店第1号をオープン
マルボロマンがイーストコーストでの販売にちょっかいを出してきたので、再びオニツカと交渉して3年の独占販売権を認めさせるが、東海岸にオフィスがあるという前提
Ø  1967 ウッデルの参加
オレゴン大の走り幅跳びの選手でその後腰椎損傷で車いす生活になったバウワーマンの教え子だったウッデルを4人目の正社員として採用
67年バウワーマン著『Jogging』が100万部を超すベストセラーとなり、ブーム到来
Ø  1968 ペニーとの結婚
67年、靴の販売に専念するためにプライス・ウォーターハウスを辞め、月給700ドルでポートランド州立大の教授助手をしながら生活を支えた
教え子の中にいたペネロペ・パークス(世界を旅したオデュッセウスの献身的な妻の名)に一目惚れし、時給2ドルで会社のパートに誘い入れ、サクラメントの全米陸上選手権に連れ出すことに成功し、そこで婚約成立、68年に結婚
Ø  1969 フジモト
68年の売り上げが15万ドルとなったところで大学を辞め、靴に専念することとし、年俸の18,000ドルとした
バウワーマンがメキシコオリンピックで米陸上チームのアシスタント・コーチを務め、史上最高の成績を収めると同時に、表彰式で人種差別への抗議行動をとった選手を支持
メキシコでは、ドイツの兄弟2人が経営するアディダスとプーマがいがみ合って買収合戦を展開。タイガーもブースを出したが1人の例外を除いて誰も立ち寄らず、練習ではタイガーを履いているが本番でタイガーを履いた選手はいなかった
オニツカの輸出部を率いるキタミに不信感を抱き、配下のフジモトを情報源にして様子を見る
Ø  1970 8,000ドルの借金
資金繰りが逼迫し、ウッデルの両親から、8,000ドルの借金をする
オニツカから3年の契約延長を獲得するが、オニツカの輸出業務における対応はちぐはぐで、納期遅れや注文品との相違など間違いが多い
逼迫する資金繰りの打開策検討の過程で日本の総合商社からの融資に興味を持ち、東銀に飛び込むと、同じビルの上階にあった日商岩井を紹介され、オニツカに日商岩井経由の話の可能性を打診
東部の販売店から、オニツカから直営の販売店にならないかと打診を受けたと言って、現状を照会してきたので、オニツカの真意を探るためにフジモトに照会したところ、米国での販売戦略見直しの動きがあることを知って、キタミをアメリカに招くが、彼からは51%の支配権の買収提案があり、断れば他の18社との交渉に入ることを知る
Ø  1971 ナイキ・ブランド誕生
取引銀行のファースト・ナショナルからも融資ストップを通告され、71年の売上1,300万ドル(ママ)の会社を救うために、知人の紹介でバンク・オブ・カリフォルニアに飛び込むとともに、日商岩井にも支援を要請。日商岩井は出向社員のスメラギがオニツカの配送状況を聞いて他のメーカーを紹介しようと言ってきた
64年のオリンピックでアディダスの製品製造を請け負ったメキシコの工場を視察し、3,000足のフットボールシューズを発注すると同時にロゴとブランド名を決定 ⇒ ブランド名は”nike”(ギリシャの勝利の女神ニケ:最初のロゴは小文字)
メキシコの製品は不良品であることが判明、代わりにスメラギが世界中の工場についての情報を提供、その中から靴の魔術師と言われたジョナス・センターの下で働いていた男を紹介してもらい、日本の靴製造工場を回る
シュードッグとは、靴の製造、販売、購入、デザインなどすべてに身を捧げる人間
人が1日に歩く歩数は平均7,500
Ø  1972 シカゴの展示会
バウワーマンのアドバイスで作った新製品を72年のシカゴで開催された全米スポーツ用品協会展示会に出品 ⇒ 日本ゴムから来た試作品は、品質が低いものだったが、新しいブランドとスウッシュ(人が走り去っていくときの音)のロゴが人気を呼んで予想以上の受注となる
オニツカは展示会の機会をとらえてブルーリボンの買収を公表するとともに、キタミがNIKEを見つけて契約違反により契約打ち切りを通告してきたので、独立を決意
71年の独自ブランドの売上が200万ドル
ヘッドコーチとしてミュンヘンオリンピックに参加したバウワーマンは、テロ事件に巻き込まれアメリカ領事館に海兵隊の応援を依頼したのがオリンピック委員会から叱責され、コーチ引退を決断
シアトルに来たナスターゼが、ナイキを履いて優勝するのを見て、10,000ドルで専属契約を結ぶことに成功、初のトップアスリートが広告塔となる
Ø  1973 偶像を破壊する
72年の売り上げ320万ドルに対し、純損失が57,000ドルに
オニツカが契約違反による損害賠償で提訴、こちらもアメリカで応訴
Ø  1974 専属弁護士ストラッサー
売り上げは順調で、オニツカやプーマを凌ぎアディダスの売れ行きに迫りつつあった
裁判は、商標の問題に限定して判断がくだされ、勝訴となり、賠償金は40万ドルと提示されたが、半額で折り合いそれを元手に銀行からさらに多くの融資を獲得
この裁判を契機にストラッサーが初の専属弁護士となる
変動相場制移行で、円高が進み、新たな工場をニューハンプシャーに見つける
ジミー・コナーズが活躍し始めナイキを履いていたので5,000ドルで契約を申し出たが、サインする前にウィンブルドンに行ってしまい、帰ってきた全米オープンでも優勝したので、他のメーカーに3倍で取られてしまった
Ø  1975 日商岩井
銀行の信用限度が100万ドルでその下に日商岩井が100万ドルの信用枠を供与していたが、ついに資金繰りが破綻して銀行が詐欺で告訴、日商岩井が監査に入り、スメラギが独自の判断で請求書の発行を遅らせていたことまで判明、その熱意を財務部長のイトウが認めて日商岩井が銀行の債務を肩代わりしてくれた

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Ø  1975 プリとの別れ
ユージーンでの競技会の後、伝説の陸上選手で大会のホストだったプリフォンテーンが自動車事故で死去、享年24.最後の5000mのレースでは13238の自己ベストでフランク・ショーターに勝って、2000mから6マイルに至る各距離で全米記録を保持したまま亡くなる
Ø  1976 バットフェイス(ダメ男)
製造の大部分を日本ゴムに依存していたため、円高ドル安の影響をまともに受け、製造を台湾にシフトを検討
ユージーンで行われたオリンピック予選会では、長距離をナイキが独占したが、本番でショーターが履いたのはタイガーで、しかも敗れた
76年の売上は2倍の1,400万ドル
何回目かの株式上場を検討したが結論はノー
経営課題検討チームを発足させる ⇒ その名をバットフェイスとした
ロゴの変更 ⇒ 大文字にして、スウッシュの中に入れる案も
経営陣の仲間は、誰もが誤解され不当に評価され、無視されていた。いずれも最初に敗者の烙印を押された根っからの負け犬だが、そんな連中でも力を合わせれば勝つことができる。何より私のやり方に対しても共感してくれ、私も彼らを全面的に信頼しているからこそ、互いに忠誠心が生まれる
Ø  1977 ゴールラインは存在しない
宇宙工学の技師が靴のクッション性を高めるために空気を注入することを提案してきたのを受け入れ、エアシューズが誕生
NBAには多く採用されたが、カレッジチームとの契約はなかったので、まずは地元のオレゴン大に売り込み77年漸く契約を取ったのを皮切りに続々とNCAAの名門を陥落させる
ハリウッドにも進出、人気者がナイキのシューズを履いているのを見て契約を結ぶ
ある日違法の完璧なコピーを郵便で受け取り、工場主に対し製造を中止しなければ訴えると脅し、ちなみにうちで働いてみる気はないかと付け加え、彼の工場と契約し、違法コピーの問題と製造をシフトさせる力をつけるという一石二蔦を生む。日本への依存も完全に終了
最初に日本の商社の効用を教えてくれたチャック・ロビンソンがキッシンジャーの側近から離れたところで、経営のアドバイスを求め、90%もの借金漬けではだめで、上場は義務であり、キャッシュフローの問題を解決しないと会社を失うかもしれないと警告される
米国関税局から、関税査定法によるアメリカン・セリング・プライスに従って2,500万ドルの請求が来る ⇒ 国内の零細業者のロビー活動が功を奏して、ナイロン製のシューズにかかる輸入関税を製造費の20%から、国内業者の類似品の販売価格の20%に引き上げることになったもので、過去に遡及して課税
77年度の売上は70百万ドル
Ø  1978 2,500万ドルの請求
アディダスの売上がシューズよりアパレルのウェイトが高いことを知ってナイキでもアパレル進出を検討
新製品テイルウィンド発売したが、すぐに欠陥が見つかりリコール
Ø  1979 中国進出
財務省から、ナイキ製品がアメリカン・セリング・プライスの対象外であることの覚え書きをもらって税関に交渉に行ったが、相手にされなかったので、オレゴン州の上院議員を動かす
日本に続いて韓国、台湾でも通貨の変動と人件費の高騰、政情不安に悩まされ、新たな製造工場として中国を検討
Ø  1980 株式公開
関税の問題は上院議員を動かしたおかげで和解に持ち込まれ、9百万ドルで妥協
中国進出については、中国政府からの招請状が届き、中国全土を回って中国の工場と契約
株式の公開については、議決権なしの株を公開することで、株主の経営への参画を拒否することができた
全株式50百万株のうちクラスA17百万の56%をインサイダーが保有(うちナイトの保有は46%)、クラスBのうち2百万株を@22ドルで売り出し ⇒ 同じ週にアップルも同額で公開

夜 死ぬまでにしたいこと
40年経ってCEOを退任。06年の売上はアディダスの100億に対し160
世界の無数のナイキのオフィスの電話番号の下4桁は6453(nike)で、右から読めばオレゴン大のトップアスリートが1アイルで残した最高タイムと同じ
世界最古の靴は9000年前のサンダルで、それが見つかったのは1938年オレゴンの洞窟だったが、その年こそ私が生まれた年
父親に反抗し続けた長男が、エルサルバドルの湖で素潜りに挑戦して溺死 ⇒ 息子の名を冠した体育館をオレゴン大に寄贈
日商岩井の存在がなかったらどうなっていただろうかといつも思う。元CEOのハヤミ・マサルとは上場後に知り合ったが、私は彼にとって最も有益な顧客であり彼の教えを熱心に聞く生徒だった。私がこれまで出会った中で最も賢い人かもしれない。他の賢者と違い彼の知恵ある言葉は聞く者に大きな安らぎを与えてくれたが、私もその安らぎの恩恵を受けた1
起業家にとって、アメリカは誰もが思うようなユートピアではない。自由な起業家精神をよくは思わぬトロールが常にいて、妨害し挫折させ出る杭を打つ。昔からそれは変わらない。起業家は常に頂上を目指すが、その頂上はかつてないほどに険しくなっている
断念することも必要で、断念する時期と別のことを試みる時期を知ることも大事
運の力も大きい。自分を信じろ、信念を貫け。信念は自分で決めろ






SHOEDOGフィル・ナイト著
ナイキ創業者の挑戦と苦楽
2017129 2:30 日本経済新聞
世界一のスポーツ用品メーカー、ナイキの創業者の自伝である。シュードッグとは、「靴に取りつかれた者」。米国オレゴン州に生まれ、学生の頃からアスリートだった著者は、ランニングシューズに取りつかれ、スタンフォード大学院時代に「かつてドイツの独擅場だったカメラ市場で日本メーカーが活躍しているように、日本のランニングシューズにも大きな可能性がある」と考えた。
卒業後の1962年、そのアイデアを実行に移す。バックパックの世界旅行の途中、日本の大手メーカー「オニツカ」(現アシックス)を訪問し、米国での販売代理店契約を獲得する。何の後ろ盾もない若者が、外国の大企業に単身乗り込んでイチかバチかの大勝負。既成の価値観に挑戦的な人生の始まりだった。
オレゴン大学時代の恩師で、オリンピック・チームの陸上コーチも務めたビル・バウワーマンの協力を得た著者は、「ブルーリボン・スポーツ社」を起業。新開発したシューズを日本で製造、米国で輸入販売して急成長した。会社にはアスリート仲間や友人の会計士、弁護士ら優秀だが個性が強すぎて既成社会になじめない連中が次々と集まり、苦楽を共にする。
曲折の末、71年、独自の「ナイキ」(ギリシャ神話の勝利の女神)ブランドを立ち上げた。会社の急成長は資金繰りの逼迫と表裏一体で何度も破綻の危機に直面するが、将来性を見抜き成長を助けたのは、またもや「日本」の商社、日商岩井(現双日)だった。ナイキは世界経済の環境変化にいち早く対応し、生産拠点を日本から台湾、中国へと移して成功を収め、80年の株式公開を経て、世界のトップ企業へと成長した。
著者の人間としての魅力は言うまでもなく、苦楽を共にした同僚や家族、恩人の日本人ビジネスパーソンなど、周囲の人々への深い愛情が伝わる素晴らしいアメリカンドリーム物語である。同時に、起業と経営上の様々な苦労や、世界経済の変化を肌で感じながらリスクを取って成功した生き証人の記録として大きな存在感がある。6070年代の日本の復興と高度成長、アジア諸国の経済成長の移り変わり、国を越えた人間同士の尊敬。学ぶべきことが満載である。
原題=SHOE DOG
(大田黒奉之訳、東洋経済新報社・1800円)
著者は38年生まれ。ナイキ創業者。64年から04年まで同社のCEO(最高経営責任者)、その後16年まで会長。
《評》経済評論家
小関 広洋


(売れてる本)『SHOE DOG 靴にすべてを。』 フィル・ナイト〈著〉
2017.12.10. 朝日
 失敗と悔悟のリアリティー
 年間3兆円以上の売り上げを誇る世界的なスポーツメーカー「ナイキ」の創業者が、1962年の設立から18年後に株式上場するまでを振り返っている。こう書くと、「ああ、よくある成功物語だね」と思う人も多いだろう。たしかに、日本でも米国でもその手の書籍はあふれかえっている。だが本書はある一点において、類書とは異なる側面を持っている。それは自慢話がほとんど書かれていない、ということだ。
 それどころではない。破産しそうになったり、裁判を起こされたり、揚げ句は法律に抵触しそうなきわどい行為で難局を切り抜けたり、契約先との関係に悩んだり、大量に手紙を送ってくる部下に対していっさい返事を書かずに無視したり。昔話とはいえ、よくもまあ無様なことをありのままに書けるものだと驚かされる。
 本書の基調にあるのは「負け犬」感かもしれない。著者は書く。「私たちの誰もが誤解され、不当に評価され、無視されていた」「上司からは避けられ、運に見放され、社会に拒絶され、見た目や品の良さなどには恵まれなかった」。だから創業メンバーのミーティングの名前はバットフェイス(ダメ男)。しかし負け犬だからこそ、頑張れるんだという信念が本書にはある。
 昨今の日本の出版界には、成功の話ばかりがあふれている。「こうしたら金持ちになれる」「出世できる」と説く自己啓発本。「私はこうして成功した」と経営者本。しかし明文化できる成功法など、本来は存在しない。そんなものがあれば、全員が成功者になっているだろう。
 著者は大成功した世界的経営者で、だからこそ安心して読めるということがあるにしろ、創業初期の苦闘を描いた本書は失敗や悔悟のリアリティーにあふれている。非現実的な成功法や空虚なスローガンではなく、現実的な人生の戦い方を学びたいと思う人たちが、ベストセラーを支えているのではないか。
 佐々木俊尚(ジャーナリスト)
     *
 大田黒奉之訳、東洋経済新報社・1944円=5刷15万部 17年11月刊行。著者は38年生まれ。担当編集者は「ピンチの連続が書かれていて、小説みたいという反響がある」。


プロボクサー村田諒太(1)
SHOE DOG』奇跡の上に人は生きている
日本経済新聞 夕刊2018329 15:30 
僕は中学時代、ボクシングが嫌になって逃げ出している。逃げるという言葉にはマイナスのイメージがあるが、もしも逃げていなかったら高校時代の恩師との出会いはなかったかもしれない。
あの時、あの場にいなかったら。隣の席が違う誰かだったなら。人生は全く別のものになっている。
ナイキ創業者、フィル・ナイトの自伝『SHOE DOG』(大田黒奉之訳、東洋経済新報社)を、僕はそんな奇跡の連なりの物語として読んだ。いまやスポーツメーカーとして様々なジャンルの商品を出すナイキだが、題名の「靴に取りつかれた者」のとおり、原点はランニングシューズだ。
アスリートだった24歳の著者が日本に向かい、靴メーカー・オニツカ(現アシックス)の米国での販売代理店契約を獲得するところからその歴史は始まる。急成長ゆえ資金繰りは常に綱渡りで、破綻の危機を繰り返す。様々な人間模様や仲間への愛情が描かれ、自分のスポンサーである企業の理念や背景を知ることができた一冊でもある。
ビジネス書として話題になったが、僕が何より感じたのは、ナイト氏に起きた出会いも選択も奇跡であり、人はその上に生きている、ということだ。彼だけじゃない。誰もの人生がそうだ。
そして奇跡を呼び寄せる力があるとすれば、あきらめないことだと思う。偉人たちは、何が起きてもあきらめない。挫折を、挫折で終わらせないのだ。
 むらた・りょうた 1986年生まれ。ロンドン五輪ミドル級金メダリスト。WBAミドル級チャンピオン。


Wikipedia
ナイキ(Nike, Inc.)は、アメリカ合衆国オレゴン州に本社を置くスニーカーやスポーツウェアなどスポーツ関連商品を扱う世界的企業。設立は1968[1]ニューヨーク証券取引所に上場。
社名は、同社社員のジェフ・ジョンソンが夢で見たギリシャ神話の勝利の女神「ニーケー (Nike)」に由来する。
歴史[編集]
オレゴン大学の陸上部で活躍し、スタンフォード大学経営大学院在学中にビジネスプランの論文「日本の運動靴は、日本のカメラがドイツのカメラにしたことをドイツの運動靴に対しても成し遂げ得るか」を書いた創業者のフィル・ナイトは、卒業後に出向いた神戸でオニツカタイガー(現アシックス)の品質と低価格を気に入り、1962年にオニツカのアメリカ販売権を取得[2]
1964年、オレゴン大学の陸上コーチであったビル・バウワーマンと共同でナイキの前身であるブルーリボンスポーツ(BRS)社を設立し[2]日本からオニツカタイガーのランニングシューズを輸入しアメリカ国内で販売し始めた。
BRS社は次第にオニツカの製品開発にも関与するようになり、バウワーマンのアイデアによってオニツカは1968年に「タイガー コルテッツ」をデザインする。これは「タイガー マラソン」と並ぶBRS社の看板となった。しかし、たび重なるオニツカの輸送や発注トラブルに不満を抱いたBRS社は、日本の総合商社である日商岩井(現・双日)の融資を得たこともあり、自社でシューズを生産することに決定した[2]1971年にオニツカとの提携を終了する。
1971618日、ナイキの象徴である「スウッシュ」がデザインされた最初のシューズが発売された。「スウッシュ」がギリシャ神話の勝利の女神である「Nike」が翼を広げたデザインに見えなくもないことから、社員の助言でシューズのブランド名を「Nike(ナイキ)」とし、社名も「ナイキ」に変更された[2]。創業当初はメキシコの工場で生産していたが、高品質なシューズを生産するために日商岩井の仲介によりオニツカタイガーの競合社である福岡県の日本ゴム(現・アサヒシューズ)の工場でトレーニングシューズを生産することになり、1972年より生産を開始した。
一方で、オニツカとの提携終了後もバウワーマンの名付けた「コルテッツ」の名称をオニツカが使用していたため裁判を起こすこととなった。裁判は1974年に決着し、ナイキはオニツカから「コルテッツ」の使用権を獲得する。オニツカはナイキに1億数千万円の和解金を支払うことになり、「タイガー コルテッツ」は「タイガー コルセア」(現・「アシックス コルセア」)に名称が変更された。また、「ナイキ コルテッツ」はその後もナイキの看板となっている。なお、以上はあくまでナイキ側の視点で、オニツカ側の視点では、オニツカの海外の販売店が日商岩井に唆されてオニツカを裏切りオニツカのライバル商社と提携した上にオニツカを訴えて和解金を支払う羽目になるという、「高い授業料を払わされた」ことになっている[3]
新興メーカーながら、1970年代より積極的な広告キャンペーンによりシェアを獲得。技術開発も盛んに行い、1978年にはソールに「エア」を搭載した「エアソール」を初めて使った「ナイキ テイルウインド」を発売する。1980年代から1990年代にかけてはバスケットボール選手のマイケル・ジョーダンとタイアップした「エアジョーダン」シリーズや、ソールに搭載されたエアが可視化された「ビジブルエア」の前衛的なデザインからラッパーのファッションとしても愛好された「エアマックス」シリーズが世界的に大人気となった。特に1995年に発売された「エアマックス95」は、エアシリーズで初めて前足部のエアまでも可視化されたデザインから、1990年代に大ブームとなったハイテクスニーカーの代表作として、単なるスニーカー以上の人気となった。日本でもスニーカーブームのピークとなる1995年から1998年頃にかけてはエアマックス95の値段が高騰し、履いているエアマックス95を強奪されるエアマックス狩りが社会問題となった。
2012よりイギリスリーボックに代わってNFLの公式アパレルとなった[4]
現在において、ナイキは運動靴のみならず多くのスポーツ製品を手がけている。
2017年にナイキの創業者フィル・ナイトの自伝『SHOE DOG』が発売された。
ロゴマーク[編集]
スウッシュ (Swoosh) は、1971商標登録されたナイキのロゴマークである。ロゴマークは、勝利の女神ニーケーの彫像の翼をモチーフにデザインしたとされている。また、「勢いよく動く」という意味で、その形状は躍動感やスピード感を表現している。日本では、「スウォッシュ」と誤読・誤記されることが多い。
ナイキのロゴのデザインは、1971にナイキの創設者でもあるフィル・ナイトが会計学の講師をしていたポートランド州立大学で出会った、キャロライン・デビッドソンが制作した。ナイトは、グラフィックデザインを専攻していたキャロラインが製図の課題をしていたところを捕まえ、ロゴのデザインを依頼。まだデザインを仕事にして間もないキャロラインは、スウッシュのデザイン料として僅か35ドルの請求書をナイトに提出した。キャロラインはその後もナイキ初期の多くのツールのデザインを手がけることになった。デザイン制作が代理店に移った後の19839月、キャロラインは当時スポーツブランドとしてナイキを成功させていたナイトの呼び出しを受け、ナイトからダイヤモンド入りの金のスウッシュリング[5]とナイキ株を受け取った(具体的な株数は不明)。
主なテクノロジー[編集]
ワッフルソール[編集]
焼き菓子のワッフルからヒントを得て開発されたソールパターンで、独特のパターンはクッショニングやグリップに優れておりアスファルトやダートなど様々な路面状況に対応できる。初期プロダクツには「ワッフル」の名を冠するオレゴンワッフル・ワッフルトレーナー・ワッフルレーサーなどがある。他にもLD-1000LD-V・エリートなど当時のフラグシップモデルに多数採用されていた。
AIR(エア)[編集]
衝撃を吸収するためのミッドソールの中に仕込んだエアバッグのこと。1978に発表された。発案者は元NASAの技術開発者フランク・ルディである。特許取得番号は4219945、受託人はロバート・ボガードで、クッション性を確保するためのエアバッグはビニールパックの内部にガスを充填したものであり、搭載位置は試行錯誤の末、ミッドソールの中に仕込むという方法を発明し、ここに完成した。 もともとは6フッ化硫黄が充填素材として用いられていたが、環境保護の問題や耐久性の観点から2001年頃から充填素材として窒素ガスが使用されるようになった。 ナイキにおける初搭載モデルはメンズシューズはテイルウインドであり、レディースはテンペストである。
Lunarlon(ルナロン)[編集]
内側のコア部分に柔らかいフォームを使用し、外側のブリッジ部分には硬いフォームを使用した2層構造にすることで高いクッション性・高弾性・履き心地を実現している。
主な製品[編集]
コルテッツ[編集]
1971に最初のコルテッツであるレザーコルテッツを発表以来、現在まで生産され続けているナイキを代表するモデル。素材はレザー・ナイロン・スウェードなどがあり、そのバリエーションは多岐にわたる。
エア・フォース1[編集]
AIR FORCE1:「ナイキエア」を搭載したバスケットボールシューズ第一号で、1982に発売された。デザイナーはBRUCE KILGORE(ブルース・キルゴア) ヒールに備えたエアクッションや、アウトソールのピボットポイント、フィッティングを高めるためのアンクルストラップなど発売当初としては最新鋭の機能を備えていた。
エア・ジョーダン[編集]
AIR JORDANマイケル・ジョーダン(元・NBAシカゴ・ブルズなど)の名を採ったバスケットボールシューズ。1985に最初のモデル「エアジョーダンI」が発売された。以降、年1回のペースでモデルチェンジされる。
エアマックス[編集]
詳細は「ナイキ エアマックス」を参照
世界初のビジブルエア搭載のシューズである。初代のシューズはティンカー・ハットフィールドがパリのポンピドゥーセンターから着想を得てデザインしたエアマックス1であり、1987に発売された。 このシューズを皮切りに人類はエアソールを「履く」ばかりか「見る」こととなるのだが、ビジブルエアの目的は、デザインというよりもエアバッグにかかる圧を逃がすためにミッドソールにウインドウを開けるという機能面を考慮しての考案である。 以降、舗装路におけるビジブルエア搭載のランニング・トレーニング用シューズ最上位モデルにその名が冠せられているが、エア・スタブやエア180などの例外もある。 特に1995に発売された通称「エアマックス95」は爆発的に売れ、数多くの偽物の流通や「エアマックス狩り」などもあってマスコミにとりあげられ、社会現象化した[6]ことで良くも悪くもナイキの社名と製品を有名にした。 本来、ナイキはネーミングに関して厳格で、市場では区別のためにエアマックスの後に数字や西暦の下二桁を付した名称で認識されたモデルも正式名は常に「AIR MAX」であったが、近年その傾向は薄れ正式なモデル名にも認知度の高い通称を採用するようになった。 エアマックスシリーズは、当初はエアバッグを含むソールを如何に進化させるかに重点を置いていた。 2代目となるエアマックスライトでは、2種類の素材(ファイロンとポリウレタン)をミッドソールに使用したり、4代目となるエアマックス4(後にエアクラシックBWへ改名)ではウインドウを大きくするなど、随所においてソールの進化が見られる。
ショックス[編集]
かかとなどにコラム(柱)を搭載し、クッション性と反発性を高めたシューズ。2000に発売され、2001にはビンス・カーターのシグネイチャーモデル「Nike Shox VC」が発売された。
サッカースパイク[編集]
マジスタ[編集]
特殊の糸で編み上げたフライニットを、ナイキのサッカースパイクとしては初めて採用した新しいモデル。ケヴィン・デ・ブライネアンドレス・イニエスタセルヒオ・ブスケツマリオ・ゲッツェなどといった攻撃の組み立てが優れた選手達が着用している。
マーキュリアル[編集]
クリスティアーノ・ロナウドネイマールエデン・アザール他トッププレーヤーが着用している。爆発的なスピード重視の選手向けに作られたシューズで、アッパーにマジスタ同様、フライニットを搭載している。また、フライワイヤーで抜群の軽量性とホールド感を実現。
ハイパーヴェノム[編集]
ナイキの中でポピュラーな種類として展開してきたTOTAL 90に代わる新シリーズとして2013年に登場した。相手DFに恐怖感を与えるような俊敏性と正確、ホールド性を兼ね備えたサッカーシューズ。主にロベルト・レヴァンドフスキピエール=エメリク・オーバメヤンエディンソン・カバーニハリー・ケインらが着用している。
ティエンポ[編集]
ボールタッチを重視したカンガルーレザー使用のサッカーシューズ。アンドレア・ピルロジェローム・ボアテングジェラール・ピケセルヒオ・ラモス、そしてカルロス・テベスなどが着用している。
社風[編集]
ナイキは今までにスポーツシューズを数多く世に送り出し、商業的に成功した。 自社工場を持たない委託生産方式を採り、小売店への出荷は基本的に買取制とし、厳密なマーケティングに基づき余分な在庫を持たないなどの方針を採っている。しばしば奇抜かつ斬新なデザインを提案している。
工場の人権問題[編集]
ナイキの製品デザインは自社で行うが、自社工場を持たずに生産は外部の工場に委託している。以前よりナイキは海外工場において労働力の不当な搾取をしていると噂されていた。1997NGOによって実際にナイキのベトナムなど東南アジアに所在する委託工場における児童労働、低賃金労働、長時間労働、セクシャルハラスメント強制労働などの問題点の存在が明らかになった[7]。こうした事実を知ったアメリカのNGO団体および学生たちは大学キャンパスやインターネットを使用し、ナイキの社会的責任を批判した[7]。運動は製品の不買や訴訟問題に発展した[7]
これに対してナイキは1999年にグローバル・アライアンスを設立し、世界各国の自社を含む多国籍企業における労働環境の調査を行い、環境の改善に対して迅速に取り組めるよう対応している[8]
ナイキのスポンサー活動[編集]
サッカー欧州3大リーグ(イングランドプレミアリーグスペインリーガ・エスパニョーライタリアセリエA)の公式試合球を提供している。
アジアサッカー連盟オフィシャルスポンサー(連盟主催試合ではナイキのサッカーボールを使用する)。
日本プロ野球パシフィック・リーグ全選手へアンダーレイヤー(NIKE PRO COMBAT)を提供している(2012より。ただし、他社契約選手を除く)[9]
マラソンフェスティバル ナゴヤ・愛知(名古屋ウィメンズマラソン・名古屋シティマラソン)のシルバースポンサー(2012の第1回開催より)。
アイスホッケーの各国代表チームの公式スポンサーを提供している。
NFL20101013にライセンス契約を結び、リーボックに代わって全32チームのユニフォームを提供している。
タイガー・ウッズとのスポンサー契約[編集]
20091214日、ナイキのナイト会長は不倫スキャンダルで注目を集めるタイガー・ウッズとのスポンサー契約を継続する考えを示した。また、アメリカのスポーツ専門誌「Street & Smith's SportsBusiness Journal」にて、「彼は本当に偉大な存在。彼のキャリアが終わりになる時、今回の軽率な行為は小さな過ちだった」と振り返られている。
日本でのスポンサー契約[編集]
ナイキはJリーグ鹿島浦和広島3クラブとトップパートナー契約を結んでおり、ユニフォームにスウッシュのロゴマークが入っている。
2001年から2015年まで、ナイキは埼玉西武ライオンズのユニフォームサプライヤーとなっていた。このユニフォームの左胸にスウッシュが入ったが、これが日本プロ野球で初めてブランドロゴがユニフォームに入った例でもあった。また、ナイキは2012年から日本プロ野球としては初めてパ・リーグと公式サプライヤー契約を結び、全6球団にナイキの機能性アンダーウェア「NIKE PRO COMBAT」をすべてのシーズンを通して提供している[9]
宮下公園改修問題[編集]
渋谷区は区内の宮下公園が老朽化したため改修を計画したが、不況下で財源難だったため20096月にナイキ(ナイキジャパン)に対して命名権を売却し有料公園として改修する方針を決めた[10][11]。ナイキは同公園を「宮下NIKEパーク」と命名する代償として年間1700万円を支払い改修費用を全額負担することとなったが、改修工事に際し多数のホームレスを立ち退かせるなどしたため[12]市民団体などによって反対運動が行われた[10]。その後もナイキは命名権料は支払うが、名称は宮下公園のままとすることを表明した[13]。なお、宮下公園では行政代執行のうえ、同年9月に工事が開始され、20114月に完了した。


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