ロシア革命100年の謎  亀山郁夫・沼野充義  2018.3.18.


2018.3.18.  ロシア革命100年の謎

著者 
亀山郁夫 1949年栃木県生まれ。名古屋外大学長。『カラマーゾフの兄弟』の新訳は社会現象となり、プーシキン賞、毎日出版文化賞受賞
沼野充義 1954年東京生まれ。東大教授。『ユートピア文学論』で読売文学賞受賞

発行日           2017.10.20. 初版印刷        10.30. 初版発行
発行所           河出書房新社

本書は、20172月~6月に計7回の対談を行ったものに加筆修正を加えたもの


序章 ロシア革命とは何だったのか?
2次ロシア革命は、2月革命とボリシェヴィキによる共産主義革命のあった10月革命の2つからなる
ロシア革命がなぜ可能となったのか。起源はロシアの近代化が始まるピョートル大帝の時代に始まる
1825年デカブリストの乱 ⇒ ロシア史上初めて、ツァーリズム打倒と農奴解放を要求。ナポレオン戦争当時の将校がロシアの後進性の打破、克服を目的とした武装蜂起
中核となったのは1816年サンクトペテルブルグで青年将校が結成した秘密結社
1861年アレクサンドル2世のもと農奴解放が実現するが、生ぬるさにいら立ってナロードニキ運動が誕生 ⇒ テロの時代に突入、アレクサンドル2世の暗殺となったが、その後皇帝権力による徹底弾圧のもとで停滞の時代に戻り、1905年の第1次ロシア革命へ
ロシア人のメンタリティには、根本的に「ドゥホーヴノスチ」という精神性、霊性を信じている ⇒ このメンタリティを暴力的に引き裂いていくのが西欧の合理主義であり、アメリカ的な価値観だという被害者意識がある
ロシア語の単語11つが持つ意味の広がりや奥行きがあって、構造的に、直観力と創造力に頼る部分がかなりあるので、厳密なコミュニケーションには適さない ⇒ ロシア人同士では単語レベル以上のものを暗黙に了解している部分が極めて大きいために、単語を発する行為を通してロシア人は一種の霊性の中に入っていく、発語そのものが儀礼的な意味を帯びている。そんなところにグローバリゼーションの圧倒的な進展により英語がここまで支配的になってきてしまい、ロシア語で語られる場が大きく奪われていくと、自分たちの持つ言語と文化あるいはそれを注ぎ込んでいる精神性、霊性を全部引き剥がされていくという被害者意識が生まれてこざるを得ない
スラヴ人は「言語の民」 ⇒ 西側では勝手にslaveと混同して「スラヴ=奴隷」という俗説が強く流布してしまったが、言葉の使い方に関しては遥かにレベルが上
19051月血の日曜日事件がペテルブルグで発生 ⇒ 19076月にかけての第1次ロシア革命へと繋がり、反政府運動や暴動が全国に飛び火、ゼネストや戦艦ポチョムキンの反乱、日露戦争に敗戦し皇帝への信頼が根本から揺らぎ、崩壊へのプロセスが始まる
1907年辺りから始まったアヴァンギャルド(前衛)芸術の革命が政治の革命に先行
テロリズムは19世紀のロシアで生まれ、当時の知識階級の中ではすでに嫌悪感がない、高貴な行為とみなされた

第1章        農奴解放からテロリズムの時代へ――ドストエフスキーの父殺し
1866年のドストエフスキーの『罪と罰』が出発点 ⇒ ロシア革命に先行し準備した文学のパワーであり潜在的な力を持つことになるが、テロリズムを意識した物語である反面、宗教的な面も併せ持つ
1881年ドストエフスキーの死の謎 ⇒ 肺動脈破裂とされているが、その直後に起こった皇帝暗殺は、ドストエフスキーの葬儀に集まった民衆のパトスがこのテロを後押ししたともいえる

第2章        1881年からの停滞――チェーホフと黄昏の時代
アレクサンドル2世の治世はロシア文学にとって奇跡的な豊穣の時代 ⇒ ツルゲーネフの長編6作、ドストエフスキーの長編5作、トルストイの2大巨峰など、世界文学の歴史を見てもこれだけの長編小説群がこれほど短期間に書かれたのは類を見ない
美術でも「移動展覧会」、音楽の「5人組」といったグループ単位で素晴らしいアーティストが次々登場、音楽ではムソルグスキー、美術ではレーピン
チェーホフはそのあとの時代で、先行する2大作家に比べるとミニマリストに近く、具体的な政治制度の転覆までのイメージもなければ、それを実現する具体的考えもなかった

第3章        革命の縮図――トルストイの家出
99年トルストイの『復活』⇒ ラディカルな体制批判的なところがロシア革命の鏡として捉えられている
1910年トルストイの家出 ⇒ 家庭の不和に加えて自らの意に反して裕福な暮らしをしていることへの忸怩たる思いなどが原因と言われるが、当てもなく家出し直後に死去
トルストイには社会に対する根元的な批判があって、そういう面を取り上げて彼は革命的な思想家と見做され、レーニンが革命思想に繋がる同志という側面を評価している

第4章        世紀末、世紀初頭
1890年代の終わり位から哲学者ウラジーミル・ソロヴィヨフの圧倒的な影響のもとで、一種の終末論が若い知識人の心を捉えていく
弾圧を通じて暴力的に革命を起こすしかないと思うような人たちが育ちつつあった ⇒ デカダンと革命運動が同時代に並行して進行した時代
革命家たちは西欧に亡命し、世界革命を目指した ⇒ ヨーロッパ共通の教養の土台で文明を考えようとした

第5章        1905年の転換――ロシア・アヴァンギャルドの方へ
20世紀初頭の芸術革命 ⇒ 日露戦争の敗戦がロシア正教の神の敗北と捉えられ、芸術家全体がキリスト教の原理から離れ、縛りを克服してある意味自由になった

第6章        1917年「僕の革命」――マヤコフスキーの運命
革命後の文学では、未来派の詩人として出発したマヤコフスキーが光る

第7章        内戦、ネップ、亡命者たち
2月革命はブルジョワ市民と労働者、兵士が一体となって専制を打倒したが、臨時政府を成立させた勢いとはまた別の方向から、ソビエトのような力へと結集させる力の誕生も促した
民衆的な盛り上がりとして1917年の革命があったものの、レーニンやボルシェヴィキによって簒奪されてしまう
2月革命で成立した政府は戦争続行派で、レーニンの戦争を否定するアジテーションが絶大な効果を生み始め、赤軍と白軍の内戦へと突入
10月革命直後の選挙でボリシェヴィキが第2党に留まったために、レーニンは翌年初クーデターによって憲法制定会議を解散させてすべての権力を手中にする
レーニン時代は、まずは戦時共産主義、といっても非常に原始的な収奪システムだったために大混乱を招き、1921年にはネップという新経済政策で市場経済の導入が図られ、資本主義に逆戻りしたような時代となる
文壇でもラップ(ロシア・プロレタリア作家協会)が猛威を振るい、アヴァンギャルドの作家たちも滅茶苦茶に糾弾され、32年には全ての芸術団体で主義主張を捨てさせ、画家は美術家同盟、作家は作家同盟、音楽家は音楽家同盟というジャンルごとの同盟に糾合してしまう ⇒ パステルナークですら30年代にはスターリンを讃える詩なんかを書くし、マヤコフスキーも叩かれ過ぎて迷った挙句に自殺
20世紀ロシアの小説を代表する傑作、ショーロホフの『静かなドン』やゴーリキー
37年を機に亡命した作家が帰国 ⇒ 第1次亡命は2月革命で帰国した人たちが10月革命でボルシェヴィキと袂を分かって亡命(ラフマニノフ、ストラヴィンスキー、プロコフィエフ、カンディンスキー、シャガールなど)、第2の波が第2次大戦中ドイツの占領地からの亡命や難民で多くが帰国せずにそのまま亡命者になったもので多くはアメリカに渡った。第3次は70年代でユダヤ系ソ連市民がソ連の生活に不満を持ってアメリカやイスラエルに亡命(ソルジェニーツィンなど)
亡命ロシア人作家で一番有名なのがナボコフ ⇒ 貴族の出、父親は2月革命後の外務大臣、10月革命後西側に亡命、ケンブリッジ大で学び、ベルリンで作家活動を始め、ナチスを逃れてパリに出て、さらにアメリカに渡り『ロリータ』で大成功

第8章        スターリニズムの恐怖と魅惑
30年代のロシア文学の最高峰はブルガーコフ ⇒ 風刺的でファンタスティックな作品が多く、体制側からは要注意人物とされた。代表作は『巨匠とマルガリータ』(発表は戦後)
反体制派では、グロスマンの『人生と運命』、ソルジェニーツィンの『収容所群島』、パステルナークの『ドクトル・ジバゴ』
スターリン政権下、作家は「二枚舌」を使う ⇒ 賛美すると同時に批判する。ショスタコーヴィチやエイゼンシュテイン。国境を閉ざされた中ではやむを得ない選択
スターリニズムは歴史の必然。程度の差こそあれ、スターリン個人の問題ではなく、個々人の野心に絡む忖度というメカニズムとナチズムの脅威で、独裁というのは忖度をダイナモにして成立していく、そこに様々な自然的な要因(災害)が絡みついていった結果

第9章        ロシア革命からの100年――レーニンとスターリン
ソ連というのは、世界的に巨大な影響力を持つだけの、壮大な社会主義の実験国家 ⇒ ソ連は崩壊したが、必ずしも失敗とは言えない
2月革命によって立憲民主主義的な国家建設を始めたところ、10月革命によってレーニンによる巨大な暴力で統制される国家となり、さらにスターリンという前代未聞の大テロルによる独裁体制へ
1932年にロシアで社会主義リアリズムが標榜されたのが、ポストヒストリカル(歴史以後)に入った転換点 ⇒ 政治も文化も西洋の価値観その他から完全に隔絶。文化面ではモダニズムの終焉、ポストモダニズムの始まりで、ゴルバチョフの登場と同時に終わるし、政治面ではスターリン文化革命の始まり
スターリンは芸術家、劇場国家みたいな面があった
スターリン時代のロシアはナショナリズムが強くなって、本来共産主義はインターナショナルのはずなのに祖国の意味が強調されるようになる。その頂点にグルジア人が立つとはどういうことか ⇒ ロシア人には政治に対する物凄い嫌悪があって、政治は汚いものなので、他国民に委ねようとする傾向がある
ロシア人は天才に対する信仰がある ⇒ 国境を越えて、無条件に信奉
ナチスと同列でスターリン時代のソ連も同じ全体主義国家と見てしまいがちだが、ロシア人にとってナチスと戦って破ったというのは大変光栄であり、全国民の誇り。ファシストを破って世界に平和をもたらしたのはソ連の手柄だと素朴に誇るロシア人は今でも多く、ソ連は偉大なる善であり、正義を体現するものというのが愛国的なロシア人の認識なので、そこをアメリカは全く理解していないのは問題
文化的首都ペテルブルグが900日包囲され破壊的被害を受け、スターリングラード攻防戦でも60万の市民がほぼ全滅している ⇒ 人類への貢献といってもよい根本的な悲劇を経験しながら、その後のふるまいでソ連は否定されてしまう

第10章     ロシア革命からの100年――雪解けからの解放
4553年は揺り戻しの時期 ⇒ スターリン末期の悲劇的な状況
スターリンの死によって「雪どけ時代」が始まる ⇒ エレンブルグの小説『雪どけ(オッチェペリ)』が時代の象徴。56年にはフルシチョフによる非スターリン化路線
68年のプラハの自由化撲滅事件で雪どけ時代は終焉
ソルジェニーツィンも66年以降は国内で作品を発表できなくなり、海外で出版
フルシチョフ時代は、一種の罪滅ぼしでスターリン批判をやったが、それなりに評価はできる。ただし芸術文化に対しては寛容とはいかず、本質的に抑圧的だった
6482年のブレジネフ時代は、冷戦の壁に守られた時代 ⇒ 疑似ユートピア的停滞

第11章     ロシア革命からの100年――ポストモダニズム以後
ポストモダンは、それに先立つ「モダニズム」を否定しながら出て来たもの ⇒ 西欧では20世紀初頭に出て来た新しい様々な流派を広く、かなり漠然と指し示す
モダニズムとは、認識論的。知られるべき何が存在するのか、誰がいかにそれを、どの程度確実に知ることができるのか、を問う
ポストモダニズとは、存在論的。世界とは何か、どんな種類の諸世界が存在し、それらはどのように互いに異なるのか、を問う

終章 ロシア革命は今も続いている
総括すると気になるのは内戦。第1次大戦を離脱したものの、大戦で失われた人名の数と劣らない数の人間が内戦の中で死んでいる ⇒ 革命が犯した原罪で、現在に対する償いこそが、ソ連社会主義を支える大きな倫理的な基盤でなければならなかった
ところが、そういう罪に対する償いであり、逆に言えばレーニンが穢れているという事実を、74年のソ連政治を司った誰一人、真剣に考えたことがなかった
革命が美化され過ぎた。理想の実現のために内乱期に犯した罪というものの自覚を、その後のソビエト政府の中枢を担った人たちが反芻しなかったし、そもそも理想が犠牲によって成り立ったということの自覚がなかったところに、根本的な壁があった
現代においても、ソ連崩壊の原因の1つとなっているペレストロイカによって、革命が犯した原罪を最初に自覚した瞬間、ソ連は終わってしまった ⇒ ゴルバチョフが無血革命でソ連崩壊を導いた功績は大
チャーチルの言うように、「ロシア人にとって最大の不幸はレーニンが生まれてきたこと。第2の不幸は彼が死んだこと」というのは正鵠を射ている
ゴルバチョフが、今でもロシアでは人気も評価も低いのは、ロシア人の心の奥に今もってマゾヒスティックな願望が息づいていて、彼らの強権願望と相反するデモクラティズムをどう融合すればソビエトが生き延びることができたか、大統領制を導入してもその結論が出てこなかったから
現在もロシア革命と同じ状態ともいえる。凄まじい強権と、国民が潜在的に持っているカオス的なものへの物凄い願望が蠢いて、血こそ流さないが、プーチンという巨大なボルシェヴィキと、2枚舌でマゾヒスティックに権力を受け入れる国民という構図は変わらない
革命の理念自体は今でも世界的に生きている
ロシア革命が目指した理念が今後も人類の指針として生きているのだとしたら、それをいかに語れるのかが、いま問われている






ロシア革命100年の謎
革命100年強権はやまずロシア、リベラル派は弱体
法政大学教授 下斗米伸夫
2017129 2:30 [有料会員限定]  日本経済新聞
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革命から100年、プーチン大統領はこの10月末にソ連の犠牲者を追悼する「嘆きの壁」を作った。保守主義者を自称するプーチン氏にとって、ロシア革命は過去の通過点にすぎない。だが世論の一部では「大国」をつくったスターリンへの根強いノスタルジアもある。
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世論には「大国」をつくったスターリンへの根強いノスタルジアもある
イラスト よしおか・じゅんいち

右と左、自由と専制、革命と反動、勝利と悲劇。20世紀のロシア・ソ連ほど振幅の激しい社会もない。なかでも分水嶺は1917年の十月革命で、2月の立憲民主的革命が共産党独裁へと変わった。
もし2月のリベラル路線が続いていたらどうなったのか。最後の書記長・ゴルバチョフから、『ロシア革命とソ連の世紀』(全5巻、岩波書店・2017年)編者のひとり、歴史家の池田嘉郎までが、仮想設定を論じている。なぜリベラルな潮流は倒れ、社会主義の夢想に到ったのか。革命がもたらした激震ゆえに、議論は本国でも、世界でも多様だ。
歴史は必然か
記念の年にふさわしい論点整理の再入門としては、亀山郁夫と沼野充義が「文学と政治」という切り口から対論した『ロシア革命100年の謎』(河出書房新社・17年)が最適だ。19世紀にはドストエフスキーやトルストイら、世界的作家が宗教や革命をめぐる葛藤を描いたからだ。それらが20世紀のソ連をめぐるイデオロギー対立や国内変動と、どう結びついたのか。歴史は必然だったのか。亀山も説くように、神と人、そして革命をめぐるロシアの謎がある。
革命はユートピアなしに存在しない。だがそこに、社会主義への計画が存在していたのか。側近のモロトフ回想によると、レーニンには革命時、国家の死滅、貨幣や市場の廃止といった抽象的理念しかなかった。具体策をめぐり、党内で論争と抗争、そして粛清も起きた理由だ。
体制側のテロがとどまることはなかった。戦時でもない193233年だけで、400万~500万の餓死者(研究者フレヴニュークの推計)を出したスターリン体制。経済学者の上垣彰は、スターリンが農民を犠牲にして強行した工業化が、経済成長にも他国のモデルにもならなかったと断定する(『ロシア革命とソ連の世紀』第2巻「スターリニズムという文明」)。それを文明とは呼べない。
スターリンが亡くなると、収容所とセットになった巨大官僚制にも変化が訪れる。収容所は解体された。だが共産党機関の自己保存は変わらず、フルシチョフからゴルバチョフまで、前任者の「批判」を身代わりに、自己の正当化を図る。『最後のソ連世代』(半谷史郎訳、みすず書房・17年)の作者、アレクセイ・ユルチャクも指摘するように、体制の「閉じた論理」が途切れることはない。
それでも、抑圧の漸次的緩和とともに、犠牲者の復権運動がエリート子弟から始まって市民社会が出現し、カウンター・カルチャーが現れる。「資本主義と社会主義の違いは何か? 資本主義は人間が人間を搾取するが、社会主義は逆だ」といった小話(つまりどちらも同じ)に代表されるシニシズムが、価値観を確実に揺るがしていく。改革運動の行き着く先にソ連はついに崩壊した。
「正統」な継承者
革命事業の「正統」な継承者は今となっては中国だ。だが21世紀型「中国独特の社会主義」の経済的基盤は、ビットコインとアリババのようなIT資本主義にある。
中国とともに国際舞台で米国などの覇権に対峙するロシアだが、革命の総括では中国と異なる。2018年大統領選挙をめざすプーチン氏は、正教会と協調するなど保守的な政治姿勢を示している。その反対派として革命の継続を主張するロシア共産党も、革命に批判的な自民党も、クリミア併合を支持する。他方リベラル派は1917年同様、弱体だ。
このようなロシアの革命前から現在までの逆説的文脈を一冊で学ぼうとなると、小田健『ロシア近現代と国際関係』(ミネルヴァ書房・17年)が参考になろう。歴史から現代の政治経済、外交までを対象にし、しかも一貫した筆致で記述している。


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