ヒトラーの裁判官フライスラー  Helmut Ortner  2018.1.8.

2018.1.8. ヒトラーの裁判官フライスラー
Der Hinrichter: Roland Freisler ~ Mörder im Dienste Hitlers           2014
処刑人:ローラント・フライスラー ~ ヒトラーに仕えた殺人者
原著初版は1993年、訳の底本は2014年の最新版

著者 Helmut Ortner 1950年生まれ。高名なジャーナリスト。メディア界の重鎮。造形芸術を志し、良心的兵役拒否者として代替民間役務に就いた後、大学で社会教育学や犯罪学を修め、卒業後ジャーナリスト、著述家、雑誌発行人として頭角を現す。ドイツ人の過去との取り組みを検証する一連の作品で注目され、本書を含む3部作は高い評価

訳者 須藤正美 1956年生まれ。都立大人文学部博士課程単位取得満期退学。特にカフカを始めとするユダヤ系文学者の作品、ドイツ人とユダヤ人の関係史などを研究、早大、中央大、明治大、慶應大などで講師の傍ら、文芸・実務翻訳に従事

発行日           2017.4.10. 第1刷発行       6.30. 第2刷発行
発行所           白水社

2017年の推薦図書で唯一2人の評者が推薦した本

記憶と忘却について――日本語版読者の皆様へ          ヘルムート・オルトナー
1945.5.9.在京ドイツ大使ハインリヒ・シュタイマーは、大使館のハーケンクロイツを半旗にして、ヒトラーの追悼式を開催。始まりはワーグナーのジークフリード牧歌で終わりはバーデンヴァアイラ―行進曲(フュルスツ作曲でヒトラーが登場する式典では毎回演奏)
日本では、勝利者側の意向で天皇が戦争責任を免れたことにより、彼の国民たちは自分たちが免責されたと感じたため、日本にはあらゆる価値が崩壊する「ゼロ時間」が一度も存在しなかった
一方ドイツでは、多くの人が責任を自覚して過去を自らの歴史として引き受ける代わりに、体験したことや起きてしまったことを記憶の裡から押しやろうとした。ドイツ人は自らの過去から逃走した民族となった
戦後のドイツ連邦共和国では、忘却と加害者たちの社会復帰という現象が顕著。それが意味したのは、ナチス独裁体制下の特定の措置国家(国家的に認可されたシイの体系としての国家)的な行動に対する無罪放免を法秩序の主たる要素とするということ
歴史は何十年もの間、第1級の主犯しか扱って来なかったが、現場で手を下した2級、3級の人たちはどのようにして加害者、命令に従う犯罪者となるのか。どのようにして「ごく普通の男たち」が嗜虐的な死刑執行人となるのか。ドイツの人々は、まだ遅すぎない時点においてこうした苦い問いに答えを見出すことに着手 ⇒ 過去70年で最も人々に心を捉えた政治的・歴史的テーマ
2017年ドイツ人が「過去の克服」と呼んだ時期、「第三帝国」の実態と当時の様々な経験に対する自己批判的な取り組みという困難なプロセスは終わった。ヒトラーを選んだ人々はいなくなり、加害者も共犯者も同調者もさらには被害者も歴史の舞台からすでに退場したいま、次の世代はこの罪の連鎖の一部である必要はあるのか
本書の中心に立つのは最も狂信的なナチスの裁判官の1人、人民法廷長官のフライスラー。最も多くの死刑判決を言い渡す。法服を纏った狂信的な殺人者の物語であると同時に、他の範例となるべきもの。彼のような存在を可能としたのはほかならぬドイツの人々だった
本書が、自国の歴史のナラティブ(物語性)を認識するための一助となることを祈念する

過去の現前
たいていのドイツ人は相変わらず、3345年にかけて何をしたのか、何を許してしまったのかという問題を直視しようとしていないのではないか
終戦から続く数年間、国民全体が責任を自覚して我がこととして受け止めようとせず、自分たちの過去から遁走したが、現在はどうだろうか
本書が扱うのは、罪と許し、無力と怯懦(きょうだ)、勇気、正直さ、抵抗、加害者と被害者、記憶の抑圧と否認、そして想起について
その範例として人民法廷を取り上げる
フライスラーはナチスの法解釈をとりわけ几帳面に実践した一人の執行人に過ぎなかったところから、本書では彼から出発してナチス法の諸構造に迫り、両者が互いにどのような照応関係にあったかを明らかにするという方法を選ぶ
本書が忘却に抗って投じられる一石とることを願う。なぜなら我々を自由ならしめるもの、それは忘却ではなく記憶に刻むこと

プロローグ
ある死刑判決 またはローラント・フライスラー第2のキャリア
ヒトラー暗殺未遂を知って感想を述べた反戦思想を持つ女性が、仲間の裏切りでフライスラーから死刑を宣告、刑務所の勇気ある当直仕官が全員射殺命令に反して釈放証明書を発行してくれたお陰で一命を取り止めた ⇒ 辛酸の代償は1回限りの920マルクの見舞金のみ
一方で、フライスラーの未亡人はミュンヘン郊外の高級住宅街で旧姓に戻ってひっそりと生息、戦争犠牲者援護給付と損害補償年金のほか、寡婦年金も受給、そのうえ85年には社会保険料未納が発覚して国内で激しい議論となったが、給付決定の取り消しは法律上の理由で不可能とされた
ナチスの大物たちの遺族が戦後、受給権を得て補償を受けたし、様々な恩恵を受けていたし、褐色の制服を纏っていた無数の裁判官たちが国家公務員として新生共和国に仕えることになった

第1章        祝典
34年人民法廷設置の祝典 ⇒ レームの反乱を機に、帝国に向けられた「暴力の刃」の危険から守るための有効な法律の制定が急務であることを強調
法的にはナチス法の下で特定の目的のために設立された特別裁判所で、初代長官はベルリン特別裁判所長官だったフリッツ・レーン。フライスラーは司法省司法次官
フライスラーは、最初期からのナチ党員で、ドイツ司法界を一新するナチス法を実際に適用することがポストに就いた

第2章        カッセル生まれの弁護士
1893年フライスラー誕生。父は公務員から王立建築学校の教授となり、フライスラーもギムナジウムからイェーナ大へ進学、法律を学ぶ
1次大戦では士官候補生として歩兵連隊入隊 ⇒ 少尉に昇進し鉄十字勲章受章するも、戦後はモスクワで捕虜となり、ボリシェヴィキとしてのキャリアも積んだと言われる
23年ドイツに戻って司法試験合格、弟とともに弁護士事務所開設し刑事事件担当
24年市議会に参画後、ヒトラーのナチ党再編に伴い鞍替え、9679番の党員となる
政治的な立場についても、個人的な問題についても、執拗に、過剰な攻撃を仕掛けて自己の主張を通していくやり方には批判もあったが実績は周囲が認めざるを得なかった
33年ヒトラーの政権掌握とともにプロイセン州司法省局長に叙任、すぐに次官
矛盾だらけの男で、心中にはナチスの原理原則が抜き難く染み込んでいたが、一方で反ナチス的でなければ他人の非党派的な姿勢に敬意を払うこともいとわなかった
冷たく傲慢な男で野心満々で、政治状況のお陰でとんとん拍子の昇進を果たすことに

第3章        1つの民族、1つの帝国、1人の総統、そして1つの司法
ドイツ裁判官連盟の常任委員会が、「国家再興」の時に際し、あらゆる支援を行う用意がある旨をアピール
新たな権力者は、法を自らの政治目的や人種差別的信念に隷属させるための大統領令を頻発し、遂には帝国議会からヒトラーへの「全権委任法」を成立させる
ナチスが訴えたような政治的な救済という公約に対して、ドイツの司法関係者の抵抗力は極めて弱く、政権の考えにやすやすと同調、ナチスの政権掌握を完全に合法的であり最高度に必要なことと評価する裏では、「裁判官の自由」について、ヒトラーなら自分たちの独立性を揺るがすような真似はすまいと思い込んでいた
ヒトラーが議会演説で、裁判官の罷免不能性にだけ言及してその独立性には触れなかった点と、今後司法の中心とすべきはもはや個人の権利ではなく、民族の権利であるとした点を司法関係者は聞き落としていた
ニュルンベルク法の成立を待つまでもなく、非アーリア系の出自を持つ裁判官は罷免され、共産主義はもとより、共和的な職業連盟に所属していた者も排除
法曹関係者も競うようにしてナチスの政策を合法化するような論理や新語を使い始め、人間を蔑視するナチス司法の樹立と発展に法学が果たした貢献は広範に亘る

第4章        国務長官兼著述家
プロイセン州国務長官と案ったフライスラーは、文句のつけようのないナショナリズム信奉者であり、時流を読む特殊な嗅覚に恵まれた、並外れて有能で熱心な男と見做された
声高に要請された司法改革を建議、根本はヒトラーの議会演説であり、ナチスの諸原理に基づく刑法の拡張
無数の出版物と講演で「韋駄天ローラント」との評判を確保、総統に対する際限のない崇拝ぶりと狂信的なナチス礼賛が嵩じ、特に政治犯に対しては最悪の裏切り者として厳しく対処
34年ヒトラーが、突撃隊長が同性愛者だということを知っていたと主張する文書を掲載した地方紙を告訴、フライスラーが弁護士として、ヒトラーが承知していたとする箇所をすべて黒塗りにさせる判決を勝ち取ったことでさらに評価を高める
フライスラーの思考を規定していた3つの要素
    裏切者の役割 ⇒ 第1次大戦でドイツが敗北したのは前線の背後で行われた裏切り者のせいであるという「匕首伝説」への根強い信仰であり、二度と繰り返されてはならない
    ナチ党員にとって「裏切り」とは「民族共同体」に対する裏切り。ナチ体制は民族共同体の最高の表現形態であることを自認
    ナチスの「指導者原理」で、その権限は小さな市町村から帝国の中枢部にまで及ぶ。いかなる制約も課されない、絶対的なものであり、法廷でもこの原理を適用 ⇒ 特に人民法廷設置後は、指導者としての裁判官の役割が前面に押し出された

第5章        裏切者と民族の敵
当時の刑法、特に大逆罪と国家反逆罪に関する諸法について考察
ナチス的思考の3本柱 ⇒ 裏切りの役割、民族共同体の概念、指導者原理
それが最も徹底して適用されたのが人民法廷
懲役刑どまりだったものを死刑まで導入、裏切りを働く意図だけであっても厳罰で臨むなど、適用範囲・要件の大幅緩和
さらには弁護を困難にする39年の帝国司法大臣指令で、起訴状の写しに秘密保持されるべき部分を収録してはならないとされたため、弁護人は公判の直前に文書を閲読して初めてその内容を知ることになり、事前準備が出来なくなった。被告人にも非開示
秘密国家警察(ゲシュタポ)との密接な協力も、人民法廷の信頼度を高めた
かかる事態の進行に対し、司法の独立とゲシュタポ独自の刑事司法部の進出への懸念を表明したのはかつてドイツ国法学会会長だったハンス・フランクのみ ⇒ 国民の側に法の不安定性を無条件に示せば、権力の側は一層安定するという考えが主流になってきているが、ドイツ的性格はそれ自体の内に極めて強い正邪の感覚を持っているので、硬直した暴言を使うより、民族共同体としての高揚も献身的な意欲もうまく沸き上がり長続きすると主張、暗にヒトラーとナチスを批判した結果、全ての司法職からの辞任を求められた
424月ヒトラーは国会演説で司法に対する怒りを表明、国家のために司法があることを強調し、従わない裁判官は罷免するとした ⇒ 批判して辞職した司法関係者は1人もいなかった
10月の人事異動で、ドイツ法律アカデミー総裁の予定だったが、帝国司法大臣に昇格したティーラックの後任として人民法廷長官となる ⇒ フライスラーは司法大臣になりたかったが、すぐに狂信的ともいえる態度で長官と折り合いをつける

第6章        政治の1兵卒
「閣下の政治の1兵卒」として、任務に忠実に当たるとの決意表明をヒトラー宛に書く
フライスラーは、自らの任務が政治的視点に基づくものであり、決して純然たる法律家としての考量によるものではないことを十分自覚 ⇒ 帝国内の異民族によるあらゆる種類の大逆・国家反逆行為を悉く撲滅することを人民法廷の業務とする
モットーは「法は民族に資するもの」で、司法活動の根本原理となる ⇒ 総統とドイツの勝利のための戦いにおいて、いかなる判決も厳しすぎることはない
432月「白バラ」事件起訴 ⇒ 死刑判決が下され即日執行、最後の言葉が「自由万歳!
人民法廷が最も頻繁に扱ったのは、防衛力破壊の事案 ⇒ 41年ヒトラーが発した「夜と霧」命令に基づく一連の「夜と霧」裁判は頻度の点では第2(ドイツ占領地域でのテロやサボタージュに対しては厳罰で臨むとし、夜霧に紛れて殺害された)
フライスラーは、全てのドイツ人が国家社会主義に「喜んで」帰依すると考えると同時に、総統を手放しで称賛
コブレンツの連邦公文書館の「殺人(処刑)記録簿」には、数千件の死刑の野蛮な司法、情け容赦ない裁判官の存在が示されている

第7章        民族の名において
公正な判決の宣告ではなく敵の殲滅が人民法廷の使命であり、長官のフライスラーは徹底した狂信主義をもって自らの使命を実践
ヒトラー・ドイツ人とは、協力した者、傍観していた者、目を背けた者たちからなる民族
フライスラーが熱弁をふるって喧伝した「民族の自己浄化」が十全に機能
人民法廷が下した死刑判決は5243
判決文に見られる粛清的な言説は、決してフライスラーの「悪魔的性格」に由来するものでもなければ特殊な人物の怒りに我を忘れた暴言でもない。それは非人間的な司法を、暴君的な体制を、そして眼を眩まされた民族を体現する言説なのだ

第8章        720
ヒトラー暗殺事件の裁判が戦争法廷ではなく人民法廷とされ、被告の発言を制限し、刑の宣告から2時間以内に執行(公開処刑)することが求められた
ヒトラーはフライスラーに期待 ⇒ 「我々のヴィシンスキー」だと語ったことがある。ヴィシンスキーはスターリンの「大粛清」時の検事総長で、数多くの「粛清裁判」で無数の人に重罰を求刑、レーニンの戦友も容赦になかったという
ヒトラーが人民法廷長官をスターリンの検事に喩えたことは大変示唆に富む ⇒ かつてヒトラーはフライスラーを「ボリシェヴィキそのもの」と語ったことがある
ベルリンの大法廷は、第18名を裁く ⇒ 本来将校は軍事法廷で裁く決まりだったので、ヒトラーが全員軍から除籍し、法に則って「名誉法廷」で裁くこととした
一部は銃殺を希望したが、ヒトラーは全員を畜肉のように吊るすと宣言、ヒトラーの個人的希望によって食肉用大型フックに吊るされ、断末魔の苦しみが撮影され、公開された
その後も大量の関連裁判が続くことになるが、ある弁護士が「絞首刑など怖くない、怖がっているのはあなただ」と言い返したので、フライスラーは激高、「もうじきお前は地獄だ」というと、「間もなく地獄で一緒になるのを楽しみにしている」と返された

第9章        終焉
戦局の悪化につれ、司法大臣は人民法廷が「政治的な指導責任」を果たすべきと指示、最も過酷な刑罰を支持した ⇒ 裁判の簡略化と判決の断固たる執行を要求
フライスラーは人民法廷の牽引者として、情け容赦のない不正義のシステムを如実に体現
45年になっても人民法廷の裁判の中心は、「無名の人々」と、相変わらず720日事件の反対派の「有名人士たち」の案件
ベルリン空襲の最中でも裁判は続行、2月の爆撃でフライスラーは死去(享年51、少将)
ティーラックも含め、多くの人にとってフライスラーは精神的に異常な人物を見做されていたが、異常でもなければ、責任逃れしようとする人々にとって便利な隠れ蓑でもない
法の過激化と人民法廷における司法実践の独走が始まったのは、フライスラーが長官にいたときだけではなく、様々な受検法に基づいて制定されていた法に合わせて誰もが行動し、ただ彼のみが、たとえそれらの法律が憲法から逸脱する場合であっても、総統と党の要請を優先させたということ
司法の過激化は戦況の深刻化と表裏一体、フライスラーのような人間は容易にすべての出来事が合法であるとの狂信に囚われる
ニュルンベルク法廷の判決では、フライスラーを「ドイツ司法全体で最も残虐で最も血に飢えた陰鬱な裁判官」と呼び、ヒムラーやハイドリヒとともに「その極端で唾棄すべき性格で世に知られる」男たちの1人とした
45年以降フライスラーはドイツ司法のスケープゴートともアリバイともされ、生き延びたナチス法律家たちは彼を悪魔呼ばわりすることで、自らの罪を彼に肩代わりさせた
そうすることで彼らは自分を、困難な時代の中で是非はともかく、法律が定めた通り自らの職責を果たした法律家だったのだと感じることができ、自分を加害者や共犯者というより、むしろ被誘拐者、犠牲者だったと見做すことが可能となった
フライスラーは、時代が生んだ1人の容赦を知らぬドイツ人だったし、その彼を可能にしたのは他ならぬドイツの人々だった

第10章     ゼロ時間にあらず
ドイツの民は恥の感情を抱いたか?
何が起きたのか、自分たちが何に加担し、何を許してしまったのかを理解できたのか?
戦後のゼロ時間、それはドイツの人々に欠かせない「浄化」の時間でもあらねばならなかった ⇒ 戦勝国による政治的・道徳的な浄化プロセスが1つの民族に突き付けられた
戦勝国が「非ナチ化」と呼んだ措置がドイツ人の集団的な復権のための前提条件として構想された
「制裁措置実施」のための5つのグループ分け ⇒ ①重罪者、②有罪者(積極分子、軍人、受益者)、③軽罪者、④同調者、⑤無罪者(審問機関で自らの無罪を証明できた人)
この民族は、敗者とは感じていたものの、必ずしも有罪とは見なしていない
アメリカ地区では131項目のアンケートへの回答が求められ、特に法曹関係者は追加のアンケートがあって、関与した裁判のケースの詳細が問われた
イギリスやフランス地区では、物資の供給体制や行政業務を危機に陥らせないために、ナチ体制の上層部の排除を最優先としたため、浄化はさほど厳しくなかった
非ナチ化手続きが様々な国内問題を起こす ⇒ 浄化が原因で、指導的な地位を含め深刻な人手不足が起こったり、「無条件拘禁」の重罪者が収容しきれず、戦勝国側の民主化要求が妨げられたりした
ナチス大物の浄化に最も徹底して取り組んだのはソヴィエト地区 ⇒ 人事の抜本的刷新が行われ、末端の同調者は社会復帰させようという考えが主流。司法関係者の90%は解雇され、国民法学校を設立して素人学生に司法のイロハを教えて登用
イギリスが最もいい加減で、新規採用の裁判官、検察官の50%がナチ党員の過去を黙認された
47年末には、連合国側の非ナチ化に対する関心は低下し、ドイツの連邦州に移管
多くのドイツ人の考えは、国家社会主義は全体としていいもので、それを実行に移す方法が不味かったというものであり、そう考えるドイツの人々に非ナチ化が委ねられることになった
「ただ義務を果たしただけ」という言い訳が元ナチス法律家の間で盛んに使われ、しばしば「自分はそうすることで事態のさらなる悪化を食い止めた」という開き直りの主張までなされ、自己正当化がまかり通った
主要戦犯に対する裁判の一環としてアメリカ側が行った12件の裁判の内の第3の裁判で472月司法界の大物16名の法律家が戦争犯罪、人道に対する犯罪、組織犯罪を理由として有罪とされた ⇒ 司法が最後までナチスのテロシステムの一翼を担い、その共犯者であり続けた事実を示したが、甘い判決で、それさえほとんどが刑期を繰り上げて釈放
62年に連邦検事総長となるフレンケルに至っては、帝国検察庁で冷酷無比のナチスの法律家として異民族に厳罰で臨んだ男だったが、戦後のキャリアには全く妨げとならなかった
ナチス司法に協力した者で、政治的・倫理的な信用の失墜を理由として、新政権での地位を固辞しようと考える者はいなかったし、任命を受けて、自分はあらゆる独裁政治の断固たる敵対者であると謳い上げた
東独当局が当人のナチス時代の経歴をはっきり証明する資料の提供を申し出たが、「冷戦」状況下にあって東独の裁判所に手助けを求めることは憚られた
東独では「ヴァルトハイム裁判」があって、ナチス司法と変わらぬスタイルでかつてのナチ党員多数に死刑判決が出された
「再ナチ化」に怒りを覚えた者はほとんどいなかったどころか、多くのドイツ人は過去についてもはや何も知りたいと思わなかった
51年基本法131条施行法は、かつてのナチ党員たちを連邦官庁で「廃物利用」すること、もしくは彼らに正規の年金を支給することを保証。その結果、瓦解したナチス独裁制の「有能な専門スタッフ」がいたるところで指導的な地位を占めることとなった
一方で、被害者たちへの「償い」は遅々として進まず、5年後に漸く「連邦賠償法」が成立
こうして丸々1つの法律家世代が、過去を「克服済み」として、悠々自適の早期年金生活に入っていった
経済復興と政治革新に取り組ませるために人を選んではいられないということになり、ドイツの歴史上もっとも暗澹たる章は「大々的な再社会化作業」をもって終了したため、ナチス犯罪の追求は遅々として進まず、見逃しえないほどの無関心さしか示されなかった
68年フライスラーの陪席裁判官だったレーゼの控訴審で無罪判決 ⇒ 「異常な状況」においても全てがいかに公正に行われたかを明確にすべきで、裁判官が法を枉げたという事実は全く確認できなかったというのが判決理由。さらに、全体主義国家であっても自己主張の権利があり、危機の時代においてはその国家が尋常ならざる威嚇的手段に手を出したとしても、その点を捉えて非難することはできない、とまで言って過去を正当化
79年人民法廷を丸ごと赦免することに我慢ならなかった男が、ナチスの人民法廷の訴訟手続きに関与したすべての容疑者を相手取って刑事告発を行い、存命する67人の関係者を法廷に引きずり出したが、7年の捜査の後、容疑者の半数が老齢で死去した86年にベルリンの検察庁は捜査を中止
85年連邦議会は全会一致で、「かつての人民法廷が法治国家的な意味での裁判所では全くなく、ナチスの恣意的な支配を貫徹するためのテロの道具であった」ことを確認 ⇒ 「白バラ」事件の映画化で、判決が今なお有効とされたことに連邦裁判所長官が抗議、議会議員団からも人民法廷での判決を破棄するよう求める動きが出て、妥協の産物として議会の「確認」となったもの
容疑者に刑法上の償いをさせる時期は既に過ぎ去っていて、私たちに残された唯一の義務は、ナチスの不正な司法を、そしてフライスラー等の法律家たちの名前を記憶に刻み込むことであり、そのような司法がなぜ可能となり、いかなる場所へと人々を導いたのか、それを常に想起することである



ヒトラーの裁判官フライスラー [著]ヘルムート・オルトナー
[掲載]20170521 朝日
政権に忠実な官吏の無責任体質
 ナチス・ドイツの独裁下で国家反逆行為などを裁く人民法廷の長官を務めたローラント・フライスラー。ナチスに抵抗した学生グループ「白バラ」やヒトラー暗殺未遂事件の被告らに死刑判決を下した裁判官だ。
 ドイツ人ジャーナリストの著者は、フライスラーの評伝として、ナチスの恐怖政治と完全に一体化した法律家の狂信的な行動を描くだけにとどまらない。多くの裁判官が、人道的な刑法を廃絶して国家の権利を第一とするナチスの法支配に「嬉々(きき)として」従った経緯を克明にたどり、敗戦後に何の反省もない彼らの態度を徹底的に批判する。
 1934年創設の人民法廷による死刑判決は5243件。本書では、第2次大戦中の43,44年にフライスラーが関わった判決文10件を代表例として紹介している。一般市民が職場の同僚らに何げなくもらした体制への不平不満が「死に値する大罪」と見なされた。判決文は不条理劇の脚本のようだが、悪夢のような世界は現実にあった出来事だ。
 しかし、著者は、これがフライスラーの「悪魔的性格」によるものではなく、「ナチスの法解釈をとりわけ几帳面(きちょうめん)に実践したひとりの執行人に過ぎなかった」ことを指摘する。フライスラーは452月のベルリン空襲で死亡したが、人民法廷に関わった他の法律家たちは戦後どうなったか。多くの者がナチス政権下の法に従っただけとして処罰を免れ、復職まで許された。
 法律家たちはナチスに協力した自分を時代の犠牲者とみなし、後悔の念もないという。どの国、どの時代にも現れそうな無責任体質の人々で、ナチス時代が現代と地続きなのではないかと思わせる。
 「今さらナチスの過去について書く意味があるのか?」。著者が執筆中に何度も尋ねられたという言葉だが、自己正当化のあまり「歴史健忘症」に陥りがちな我が国の傾向にあらがうため、本書を読む意味があることは間違いない。
    
 Helmut Ortner 50年生まれ。ジャーナリスト、編集者。ヒトラー暗殺未遂犯の評伝なども手がける。


福岡弁護士会弁護士会の読書 2017.7.12.
ヒトラーの裁判官、フライスラー」
(霧山昴)
著者 ヘルムート・オルトナー 、 出版 白水社
第二次対戦下のドイツでヒトラーに反対して声をあげた「白バラ」グループに死刑を言い渡したナチスの裁判官として有名なフライスラーの人生をたどった本です。
「白バラ」グループとして捕まった学生たちは死刑判決を受けた、その日のうちにギロチンにかけられました。むごいものです。
フライスラーは51歳で敗色濃いベルリンで空襲にあって死亡しますが、その妻は裁判官の配偶者として戦後も長く年金を受給しました。つまり、フライスラーは死後も資格を剥奪されることなく「裁判官」だったわけです。同じように、ナチス時代の裁判官たちは、戦後の東西ドイツで司法界にとどまっていたのです。まあ、この点は、日本と共通していますね・・・。
ドイツ弁護士会は、ナチスが政権をとると、まもなく、「民族および帝国の健常化に貢献するために」全力を傾注することをナチス政府に確約した。
1933
10月初め、ライプツィヒで開催されたドイツ法曹大会には、全国から2万人以上の法律家が参集したが、次のようにナチスに誓った。「我々はドイツ民族の魂に誓わん。我々がドイツ法曹人として、我らが、総統閣下に付き従い、我々の日が尽き果てるまで、ともに歩み続けるであろうことを」
日本も、大日本弁護士報国会をつくって戦前の弁護士たちは戦争に協力していきました。
1933
年に、ドイツの弁護士19500(ママ)のうち、4394人、22%がユダヤ系だった。大都市では、もっと比率が高かったし、弁護士会の役員にもユダヤ人弁護士が幹部を占めていた。ドイツにはたくさんの優秀なユダヤ人弁護士がいたのに、全員、資格が奪われてしまったのです。
大都市では裁判官の10%をユダヤ人が占めていた。
フライスラーにとって、政治犯は最悪の裏切り者であり、国家の敵であった。24時間以内に起訴がなされ、24時間以内に判決が下され、犯罪者は直ちに処罰されなければならない。情状酌量を認めた時代は、もう終わらせなくてはならない。
人民法廷は、第一審かつ最終審であり、判決についての法的救済手段は一切認められなかった。被告人には起訴状が渡されず、弁護人は裁判の直前に起訴の内容を知るだけで、あらかじめ準備することは出来なかった。審理が終わると、弁護人は、起訴状を返還しなければならなかった。
したがって、ナチスの権力者にとって、いかなる形であれ、反対者を徹底的に排除し、せん滅させる場として、人民法廷に全幅の信頼を置くことが出来た。
1943
1月から19441月まで、「防衛力破壊」を理由として124件の死刑が宣告され、即時執行された。
1943
2月のスターリングラードでの敗戦以降、たいて死刑が言い渡された。「公正な判決」など、論外だった。
フライスラーが単独で裁判長をつとめた1943年上半期、1730件の有罪判決が出され、そのうち804件で死刑判決、無罪判決はわずか95件のみ。
死刑があまりにも多すぎて、刑務所のなかには死刑が追いつかないほどだった。親族には決して通知されず、死刑囚の遺書は捨てられた。
人民法廷の長官として、フライスラーは、数千人も人々を死へ送り込んだ。まさしく法服をまとった殺人鬼だった。人民法廷が1942年に言い渡した1200件の死刑判決のうち、半分以上の650件がフライスラーの第一部が下したものだった。1943年の1662件の死刑判決のうち、約半数の779件がフライスラーの第一部によるもの。1944年の2100
件の死刑宣告のうち第一部が下したのは866件だった。
では、何が死刑判決の根拠になったのか。本書にはその死刑判決の理由がいくつか紹介されています。気心の知れた仲間内でヒトラーに対して漠たる疑念を冗談めかして語っただけの人がいます。それが密告によって、人民法廷にひきずり出され、見せしめ的に「国家反逆罪」「防御力破壊罪」といったものものしい罪名のもとで死刑が言い渡されたのです。
つい先日、日本で成立してしまった共謀罪の恐ろしさを実感させられます。
ほかにも、他愛のないジョークでしかないもの、今からみたら的を射た洞察が、その正しさゆえに、国家の存続を脅かす危険思想の発露とみなされて、死刑を言い渡され、即日、ギロチンで処刑されていったのです。まさしく、嘘でしょ、こんな冗談で死刑になるなんて・・・、と叫びたくなります。密告者だって、まさか死刑にまでなるとは思っていなかったことでしょう...
ナチス・ドイツの反省にアベ政権下の日本人として、大いに学ぶところがあるように思いました。日本の裁判官って本当に大丈夫なんでしょうか・・・。ゾクゾクしてきました。
20174月刊。3400円+税)


Wikipedia
ローラント・フライスラー(Roland Freisler18931030 - 194523)は、ドイツ法律家裁判官
第二次世界大戦中、ナチス政権下のドイツにおける反ナチス活動家を裁く特別法廷「人民法廷」の長官を務め、不法な見せしめ裁判で数千人に死刑判決を下した。
経歴[編集]
弁護士になるまで[編集]
18931030日、プロイセン王国ツェレにアーヘン王立建築学校で教官を務める技術者ユリウス・フライスラーの息子として生まれる[1][2]
1912年にイェーナ大学で法学の勉強を始めたが在学中に第一次世界大戦が勃発して軍に志願、士官候補生、次いで少尉として従軍し、1915年にロシア軍の捕虜となってシベリア捕虜収容所に送られている。
収容所内でうまく立ち回り、1917年にロシア革命が起きた後は、ウクライナでボリシェヴィキ政治委員を務めていた。この共産主義者だったという前歴は、後のナチ党政権下で彼に対する陰口のネタになった。ヒトラーからも「あの元ボリシェヴィキ」と侮蔑されたという逸話もあり、フライスラーは終生これに悩まされたという[3]
終戦後の1920年、ドイツに帰還。イェーナ大学に復学し、1922年に法学博士号を取得。従軍期間のブランクを考えれば速い博士号取得といえる。1924年にカッセルでやはり法律家だった弟オスヴァルト・フライスラードイツ語版)と共に弁護士事務所を開設した。ローラントは瞬く間に刑事事件専門の一流弁護士として名を馳せた[4]
ナチ党顧問弁護士[編集]
1923年のミュンヘン一揆の裁判を傍聴して一揆首謀者のナチ党党首ヒトラーに強く惹かれたという。ヒトラーが投獄され、ナチ党も禁止されていた1924に「民族社会主義ブロック」(ナチ党の偽装政党大ドイツ民族共同体ドイツ民族自由党の選挙戦共同組織)に参加し、同党からカッセル市議会議員に当選した[4]。のちにはヘッセン・ナッサウ州議会議員にもなる[5]
1925年に再建されたナチ党に入党。党員番号は9,679だった。以降ナチ党お抱えの顧問弁護士となる[6]
ヴァイマル共和政期のドイツは各党が私兵組織(ナチス党の突撃隊親衛隊以外にも、共産党赤色戦線戦士同盟社会民主党国国旗団国家人民党鉄兜団、前線兵士同盟など)を擁していたので政治的暴力活動が後を絶たなかった。ナチ党の突撃隊員も多くの者が暴力行為を働いた容疑で裁判にかけられていた。そのためフライスラーの仕事が絶えることはなかった[6]19319月にはベルリン突撃隊指導者ヘルドルフ伯爵エルンストが反ユダヤ主義暴動を組織した廉でベルリン警察に逮捕されて裁判にかけられたが、フライスラーが弁護士に付いて辣腕をふるった結果、軽い判決で済んでいる[7]
1928年に結婚し、二男をもうける。
1928年のナチス地区指導者による党中央への報告では「演説者として優れたレトリックを持っている。大衆向きではあるがよく考える人には拒絶されるだろう。フライスラー同志は演説者としては使えるが、指導者としては信用できず他の意見に流されやすいため不適格である」と評されている。彼はナチス突撃隊で士官の階級だったが、1934年の「長いナイフの夜」以降は突撃隊から離れている。
1932にはプロイセン州議会議員に当選[8]
ナチ党政権誕生後[編集]
ナチ党が政権を獲得したのちの19332月にプロイセン州司法省局長に就任[9]。フライスラーは3月にカッセルからベルリンへ移るにあたってライバルだったユダヤ人弁護士マックス・プラウドの自宅に突撃隊員を差し向け、彼を自宅から引きずり出した。プラウドは突撃隊員に鞭で打たれながら街中を走り回らされ、この一週間後に死亡した。フライスラーの最初の犠牲者であった[9]
19336月にはプロイセン州司法次官に昇進した[9]。また1934年からは中央政府の司法次官を兼務した。その職責で、司法のナチ化を進め、ナチ党を支持しない裁判官は罷免した[9]1933年末に司法大臣ギュルトナーと法律問題担当国家弁務官フランクが「刑事委員会」を組織して国家社会主義的な新刑法創設の作業をはじめると、フライスラーはフランクが定めた国家社会主義的スローガンを条文にする役割を果たした[10]。今日のドイツ刑法にも一部が残っている。
優れた法律知識を持ち熱心なナチ党員でありながら、次官で出世が止まっていたのは、彼が独善的で後援者がいなかったこと、弟オスヴァルトがナチ党員でありながらカトリック教会の反ナチ活動家を弁護して無罪判決を勝ち取り、党の威信を下げたことなどが指摘されている。弟オスヴァルトはヒトラーの怒りを買って党を除名されたが(オズヴァルトは19393月に自殺とも殺人とも言われる不審死をした)。彼自身はヨーゼフ・ゲッベルス宣伝相のとりなしを受けている。フライスラーとゲッベルスはナチス左派という立場で近かったためであるとされる[11]
第二次世界大戦中の1941129にギュルトナーが司法大臣在職のまま死去。フライスラーはその後任となることを希望し、ゲッベルスがヒトラーにフライスラーを司法大臣に起用するよう提案してくれたが、ヒトラーは「元ボルシェヴィキ?ありえない」と述べて却下したという[12]。結局、民族裁判所(人民法廷)長官オットー・ティーラックが後任の法相に起用され、その後任としてフライスラーは人民法廷長官となった。この異動に関してティーラックは反対したものの、ヒトラーは「いや、フライスラーを君の後釜にしようというわけではないのだ。これは私があの元ボルシェヴィキにやる最後のチャンスなのだ」と述べたという[13]
1942120ヴァンゼー会議には司法省代表で出席している[8]
死の裁判官[編集]
ヒトラー暗殺未遂事件の人民法廷におけるフライスラー(中央の法服姿の人物)
人民法廷とは、国家反逆罪の被告を裁くため1934年に設置され、後に扱う刑法の範囲が拡大された。フライスラーの長官就任後、死刑判決の数が激増した。彼が担当した裁判の9割は死刑あるいは終身禁固刑判決で終わっている。たいてい判決は開廷前から決まっていた。彼の長官在任中に人民法廷は約5000件の死刑判決を下したが、うち2600件はフライスラー自身が裁判長を務める第一小法廷が下したものである。この死刑判決の数は、人民法廷が設置された1934年から1945年の期間中、他の裁判長により下された死刑判決の合計よりも多い。
その裁判は不当なものだった。フライスラーが怒号するように罪状をあげつらう中、被告はほとんど弁護をさせてもらえず、反論も許されない。白バラのメンバーの際の裁判が物語るように、弁護人は形式的に存在するだけだった。フライスラー裁判長は被告とのやり取りで「"Ja"(はい)"Nein"(いいえ)か!明確に答えろ!」と高圧的に臨み、また被告の言葉の端々を捉え話をすり替えたりして、裁判を被告の不利な方向に持っていった。とりわけ1944720日に起きたヒトラー暗殺未遂事件の被告に対する裁判の際は甚だしく、プロパガンダ映画のため記録しようとしても、彼の怒号のせいで被告の声を録音することが不可能なほどであった。特に、ウルリヒ・ヴィルヘルム・シュヴェーリン・フォン・シュヴァーネンフェルトに対するやり取りの映像は有名で、ヒトラー暗殺計画を取り扱うテレビ番組などで非常によく流される。この映画は、あまりにも狂人じみたフライスラーの態度が、国民に被告人らへのシンパシーとナチスへの不信感を抱かせるおそれがあるという理由で公開されることはなかった。また被告の一人エルヴィン・フォン・ヴィッツレーベンは法廷でベルトズボン吊りを外され、衆人環視の中笑いものにされた。ヒトラー暗殺計画の参加者のほか、「白バラ」のメンバーなど反ナチス抵抗運動の参加者たちも彼の不当な裁判で裁かれ、処刑されていった。
死とその後[編集]
194523日、ファビアン・フォン・シュラーブレンドルフに対する裁判中、裁判所がアメリカ軍の空襲に遭い、瓦礫の下敷きとなったフライスラーは死体で発見された。防空壕に逃げ遅れて爆弾の破片に当たったとも、空襲警報を無視して書類保管室で裁判資料を見ていて下敷きになったともいわれる。彼の後任にはヴィルヘルム・クローネドイツ語版)が就任したが、彼はフライスラーよりもはるかに穏健派であり、シュラーブレンドルフの罪状を取り消している(ただし終戦まで釈放はされなかった)。
フライスラーの遺言によると、2つの不動産が夫人の所有であり、遺産ではないとされていた。しかし、両不動産は戦後没収され、後になって遺産への賠償金10万マルクの代償だと説明された。未亡人が異議を出したが、連合軍の審査機関は異議を認めなかった。
戦後、フライスラー夫人は姓を結婚前のものに戻し、ミュンヘンに移って、戦争中の夫の行いについて知ろうとはしなかった。1985年になって、フライスラーの未亡人に対する年金支給額が1974年に400マルク引き上げられていたことが報じられた。年金庁はマスコミに引き上げの理由を問われ、フライスラーの専門的知識を考えれば戦後高位に就いたはずなので、夫人も高額の年金を受ける権利を有すると答えた。この措置がバイエルン州議会で問題となったが、バイエルン州政府は(道義的にはともかく)法的には問題ないと判断した。司法界では戦後もナチス時代との連続性があったことが指摘されていたこともあり、「過去とどう向き合うか」について西ドイツ社会で大きな議論を呼んだ。未亡人が死去した1997年になり、戦争犠牲者への年金を定める法律が改正され、ナチス時代に人道に対する罪を犯した者、あるいは法治国家の原則に反した者は、当時の職務に対する功労の年金が遺族にも支給されないことになった。
人物[編集]
感情的で気まぐれと評判だった。政治的敵対者でない者が個人的に交友する分には好人物だったが、機嫌が悪いと横柄になることが多かったという(政治的敵対者には常に横柄であった)[14]
彼は他の党幹部から怪しげな共産主義者という疑いの目でいつも見られていた。それ故に彼は誰よりもナチス的でなければならなかった[15]。しかし彼に好意を抱いてくれた党幹部は少ない。ハイドリヒは彼のことを「不潔な役者」と呼び、ヒムラーに親衛隊に入隊させないよう頼んだ。ボルマンも「異常者」と呼んで彼を嫌った。しかしゲッベルスだけは比較的好意的であり、ギュルトナーの死後、フライスラーを法相に推薦している。ゲッベルスは彼に「同種」の匂いを嗅ぎつけていたという[12]
語録[編集]
「我々は司法に於ける装甲突撃隊である」
「法の守り手は国民生活を把握しておかねばならない」
「ドイツ国民の血が汚されない様、ドイツ司法が厳罰を以て食い止めなければならない」
「ドイツ国民の安全のためには極刑が必要である」
「判決を下すことではない。国家社会主義の敵を撲滅することが重要なのである」
「国家社会主義国家ではもはや権力分立は存在しない。その帝国は分割されることなく総統の手の内にある」(1933年)
「忠誠をこめて。あなたの政治的兵士・ローラント・フライスラー」(19421015日、ヒトラーに宛てた手紙の結び)
「自分でも偏った裁判をしていることは嫌なほど理解している。しかしこれも単に政治的な目的のためだ。自らの使えるあらゆる権限を以て1918年の如き事態を繰り返さないことこそ重要なのだ」(194310月)
「見苦しい!何故ズボンを弄くっているのかね?この薄汚い老いぼれめ!!」(ヒトラー暗殺未遂事件の裁判でエルヴィン・フォン・ヴィッツレーベンに対して)
人物評[編集]
「フライスラーは口だけの人間で、行動が伴わない」(ヨーゼフ・ゲッベルス、1936826日付の日記)
「フライスラーは鋭い知性の持ち主だった。ひょっとすると、実際には精神的な基礎はなかったのかも知れない。しかし頭の回転が速くアイデアに富み口達者で、話し方にしても身振りにしても嬉しそうで自慢げだった」「大抵の場合、公判が始まる前に判決は既に決まっているかの様な印象を受けた」(オイゲン・ゲルステンマイヤー、戦後西ドイツの政治家、720日事件に関わっていた容疑で投獄され人民法廷で裁判に臨んだ)
「革命派の告発者の血を引いている者でさえ、フライスラーほど派手で巧妙で悪魔の様なものはいない」(ルドルフ・ディールス
「裁判官が被告を嘲り笑いものにする安直なやり方は、ドイツ高等裁判所の品位にあまりにそぐわない。こと記録されている一連の発言の中、裁判官が被告ヘプナーに向かってロバだのイノシシ狩りの猟犬だの呼び捨てることが被告に相応しいかについて議論を吹っ掛けていることについては如何なものか、というのもある」(エルンスト・カルテンブルンナー


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