山本七平の思想 日本教と天皇制の70年  東谷暁  2017.12.29.

2017.12.29. 山本七平の思想 日本教と天皇制の70

著者 東谷暁(ひがしたにさとし) 1953年山形県生まれ。早大政経卒。ビジネス誌や論壇誌の編集者として活動。『ザ・ビッグマン』など編集長歴任後、97年よりフリー・ジャーナリストとして活躍中

発行日           2017.8.20. 第1刷発行
発行所           講談社(現代新書)

文藝春秋2018年新年号の創刊95周年記念大型企画の『文藝春秋を彩った95人』の1人として著者が、「転んだら、起きればいい」と題して掲載
山本が初めて文藝春秋に書いたのは、19718月号の『ベストセラーは悪女の深情け』で、前年ベストセラーとなったイザヤ・ペンダサンの名で書いた『日本人とユダヤ人』がベストセラーとなり、売れ過ぎた本を刊行した小出版社としての悲喜劇を軽妙な筆致で書いている
内村鑑三の直弟子である父親に厳格なキリスト教徒として育てられ、大逆事件に連座して死刑となった親戚がいたという境遇は、周囲を警戒しながらの生活を余儀なくさせた
山本書店設立から7年目の63年、火事で在庫も資料もみな焼けてしまった時、自分に言い聞かせるように「転んだら、起きればいい」と繰り返し叫んでいた
七平の著作を読んでいると、気付かない内に、自分が誰かに叱咤勉励されているような気持になる。それは文章の中に、こうした弱さと強さを同時に抱え込んだ、七平の複雑で厚みのある人格を感じるからではないかと思われる

プロローグ――七平とは何者なのか
七平の著作や言動が、死後25年以上たった今も古びることなく、私たち日本人を納得させ、刺激し、揺り動かして止まないのはいったいなぜだろう ⇒ その理由の1つは、七平が日本人の性格や日本の社会の本質を炙りだす鋭利な評論を、親しみやすい表現で展開したから
「日本人は空気で物事を決めてしまう」 ⇒ 日常生活から国政レベルまで、受け入れられる「空気」を作り出すのに汲々としている
「日本人は水と安全は無料だと思っている」 ⇒ 隣国の核開発も、どこか他人事のよう
「日本人は全員一致に拘る」 ⇒ 少数反対者がいるのを嫌って「全員一致」に持っていこうとする
「日本人は契約ではなく話し合いで仕事をする」
「日本人の宗教は日本教だ」 ⇒ 無自覚なのに、どんな宗教にも一定の存在意義を認める
七平の言葉が生き続ける2つ目の理由は、七平の言葉は読めば読むほど奥の深い、時には逆説を含んだものである ⇒ 七平の分析が貴重なのは、単に日本で起こる現象を指摘して、「これが日本人の特徴だというに留まらず、こうした不思議な現象について独特の観点で分析し、その原因を根本にまで遡って論じている
3つ目の理由が、七平がまるで日本人ではなく日本社会の外にいる人間であるかのように、きわめて冷徹な論理でえぐるように私たち日本人の欠点を言い当てている
3代目のキリスト教徒として、日本人でありながら、信仰においては「異教徒」と見做されるという幼年時代を経験することによって、「日本人とは」「日本社会とは」という問いを常に持ち続ける人生を送ることになったことが背景に。さらに「大逆事件」に連座して死刑となった人物が親戚にいたことから、不可抗力的にアウトサイダー的なマージナルな人間にならざるを得なかった
本書はl0、七平の生涯を辿りながら、私たちに残してくれた日本人及び日本についての鋭い分析を、今の時点で振り返りつつ読み直すことが目的

第1章        社会現象としての『日本人とユダヤ人』――謎のユダヤ人イザヤ・ペンダサンが、見えない宗教「日本経」を発見した衝撃
70年『日本人とユダヤ人』が、年末までに62万部のブームに ⇒ 好意的な評とともに、著者の詮索
草柳大蔵の評 ⇒ 従来の日本人論の中で特にその手法が抜群と絶賛
    日本人との比較にユダヤ人という人種を対比したこと ⇒ 従来は国民だったが、日本人を評価する時には、日本人という人種的な捉え方のほうがより実像を鮮明にし得る
    論証材料に宗教哲学から週刊誌の話題までを駆使し、日本人を上半身、下半身の領域にわたって解明
    本書の目的が日本人の精神像に光を当てることにあるのは言うまでもないが、各章に提示された戦後民主主義の具体像を繋ぎ合わせると、憲法・再軍備・言論の自由など、日本人がタブーとしかかっている諸問題に刃を突き付けている
l  「日本人は安全と水は無料で手に入ると思い込んでいる」と言ったのはこの本が最初
l  聖書知らずの日本人が「狭き門」を宗教的意味も知らずに誤用しているのも、とんでもない誤解を生みだしてしまう恐れがある ⇒ 誰も通らないような小道が通じている門のこと
l  日本人は、自分たちの文化が、水稲耕作によって育まれたものであることを自覚していない ⇒ 1969年イギリスで「日本人が犬を虐待する」と大衆紙が報道、これに対し朝日が大々的に支持する記事を載せたが、ペンダサンは、広い意味の家畜に対する態度が日本人と西欧人では何か根本的に違う、といった一種の違和感の表明であって、目くじらを立てる必要もないと論じ、文化的な優劣ではなく、それぞれの民族が文化を作り上げていく時代に、何を生命維持のための生業としていたかということに注意を喚起
l  日本人の稲作は、特定の社会・経済・政治の目的達成のための一連の計画的行動であり、構成員に対し一斉の同一行動を要求するという決定的な特徴をもたらした ⇒ これも事の善悪ではなく農耕が生み出した文化であり、明治という大変革期にも独裁者は必要とされなかったが、一方でシャカリキに総動員する日本人に対し一種の皮肉な目があることにも注意すべき
l  日本人にとっての政治とは、天皇制と行政が巧妙なこと ⇒ 「理外の理」といって、理屈に合わないことでも通ることがある。幕末松代藩の恩田木工による藩政改革では、既納・未納を含め税金をチャラに、賄賂も過去の分はすべてチャラとした(『日暮硯』)
l  日本人には、さまざまな宗教観や価値観を超えた「日本教」が潜んでいる ⇒ ユダヤ人にユダヤ教があるように、日本人にも「日本教」がある。それを書いたのは漱石の『草枕』で、人の世を作ったのはただの人であり、聖人のトップは西郷隆盛
著者は、1918年神戸生まれのユダヤ人としているが、著者の詳細は不明のまま、「ペンダサン探し」がブームとなる ⇒ 七平も明らかにせず
外国人名での執筆は、欧米では古くからある自国の批評作法
外国人からも、特にユダヤ人側の記述に間違いが多いとして批判が高まり、97年の稲垣武による評伝でも、米大教授のロウラー博士とホーレンスキーという2人のユダヤ系アメリカ人との対話を参考に、構成も文章もコンセプトはすべて七米自身のものと断じた
山本家内では、未亡人と息子が書いた94年出版の『七米ガンとかく闘えり』で七米が認めたようになっていたが、ジャーナリズムではなおペンダサン探しが続く
七平が71年に『ペンダサンと私』を書いた時、自分自身を韜晦しているような筆致に、七平ではないかと気づいた人は多かったがマスコミ内では暗黙の了解事項だった。ただ自身は最後まで認めなかった
出版された70年はよど号事件に始まって万博や三島の自殺など一つの時代が終わって戦後を振り返るときでもあり、海外との接触が多くなって他文化との摩擦を憂慮すべき状況が生まれていたこともあり、ジャーナリスティックに取り上げた比較文化的筆致は新鮮
72年には増刷が続いて72万部に達したため版権を売却、七平が独自の言論を展開する評論家として評価を確立しつつあったこともあり、小出版社にとっては賢明な選択
ペンダサンこと山本七平が放った日本人及び日本社会の根深い問題提起は今も有効であり、何一つ解決していない ⇒ この本に七平の評論活動の原点がある
「日本軍3部作」では、日本軍に潜在していた日本社会に独特の論理に光をあてた
『「空気」の研究』では、日本社会にみられる共同社会の特質や決定の力学について論じ、『日本資本主義の精神』では、江戸時代にまで遡って日本特有の経済システムを解明

第2章        「三代目キリスト教徒」の異常体験――日本社会の中の「異教徒」として過ごした、山本七平の幼少期の秘密に迫る
キリスト教徒の家に生まれるが、当時キリスト教徒は少数で、それだけに信仰も強かった
人口の比率では今も昔も1%内外で変わりはない
1910年の大逆事件で処刑された大石誠之助は父の叔母の夫 ⇒ 大石家は新宮の名家で、長男は宣教師に洗礼を受けて新宮教会を設立、布教に大きく貢献。誠之助は3
大逆事件は、当時でも大部分が捏造だと言われたが、大逆罪の第1号案件として特高の平沼騏一郎が手際よく切り進め、多くの処刑者を出し、歪曲されたままに終わった
七平は、事件について詳しく論じることはなかったが、その後政治家となった平沼についての報道がされるたびに、家族ともども心穏やかではいられなかったと記している
幼少時から「ヤソ」と呼ばれた心理的苦痛は、教会で「艱難も恩恵である」と言われても不条理としか思えなかった ⇒ 聖書の言葉と現実とのギャップは、後に「不感症」な自分に気づき、七平の独特な思索と言論活動を支えるものの一つとなる
39年青山学院高等商業学部進学
426月徴兵検査(2乙種合格)10月入営、445月フィリピンへ
徴兵検査で、在郷軍人会から来た元山本家に出入りしていた御用聞きが検査場を仕切っており、うって変わった態度で七平に高圧的に接してきたことに驚く

第3章        『私の中の日本軍』と果てしない論争――フィリピンのジャングルの中で、絶望的な戦いを強いられた七平は何を手にしたのか
72年本名で書くようになって取り組んだのが「日本軍3部作」 ⇒ 何を書いたかよりどのように書いたかがポイント
入営するも肋膜炎の既往症のため特別訓練班に入れられ、古参兵のリンチを経験せずに済んだことが、誰もが振り返りたくない屈辱的事態を客観的に記述できた理由だとしている
その後試験を受け、甲種幹部候補生に合格し、速成教育を受けてフィリピンへ。予備役野砲少尉として悲惨を極めたジャングル戦を3か月体験
フィリピンの戦場で、生涯忘れられない経験を2つしている ⇒ 1つは部下2人を死なせたこと、もう1つは親しい気持ちを抱いた少尉の分隊を見殺しにしたこと
日本軍の下部組織全体には、貸し借りという暗黙の了解事項があっては、ルールだけでは動かないことを分かりながら、少し強引に物事を進めていったことが原因で部下を死なせ、後者は七平がマラリアで朦朧としている時に励ましてくれた少尉だった
捕虜生活でも、独特の視点から日本軍に起こった事件を観察。七平は手先の器用さを見込まれて専用の部屋で宝石箱を作る仕事を与えられた ⇒ 日本軍捕虜の収容所では暴力支配現象が普通だが、アメリカ兵捕虜の場合は拘留が長引くと次第に自治組織が形成される
武器対精神力 ⇒ 確定要素対不確定要素 不確定要素を声高に主張して、経済的なバランスを無視することになった日本軍の発想の奇妙さを指摘。一切の分析も計算も討論も不可能となり、ただただ不確定要素をスローガンにして大声で叫ぶ者に引きずられていく
さらにはこの現象が戦後になっても起こっているのではと見えた
『日本教』の中では、「実体語」と「空体語」として分析、両者がバランスをとって人を社会学的に機能させている状態が空気であると指摘
七平の戦争体験期は、あたかも観察者であるかのように、悲惨な戦争に直面した日本人がどのように行動するかという、どこか冷めた目で日本人の「生態」に目が向いている
朝日が取り上げた南京の百人切り報道については、物理的にあり得ないとして否定し、論争の火蓋を切る ⇒ 03年東京地裁で始まった遺族の報道名誉棄損事件裁判では最高裁が控訴を棄却して原告が敗訴となったが、それは事件がなかったことの証明が出来なかったからであり、高裁も事件が現実にあったとは信じることはできないことを認めながらも、全くの虚偽とも認められないところから、ジャーナリズムの意義を配慮して棄却したもの

第4章        名著『「空気」の研究』はいかにして生まれたか――日本人を支配してやまない「空気」。その本当の恐ろしさを七平自身の言葉から読む
収容所での経験の1つに「アタマの切替え」があり、その現象こそ、七平が戦後日本に対する懐疑を抱き、日本社会の根深い特質を考え始める最大のきっかけだったのではないか
情況の変化に対応し、新しい対象を臨在感で把握して回心せよということ
『「空気」の研究』によって、七平は、日本人は「空気」に流され、判断を誤りやすいことを警告した思想家と言われる
空気=ムード」が、全てを制御し統制し、強力な規範となって、各人の口を封じてしまう現象は、戦前と変わりない

第5章        山本書店店主と『日本資本主義の精神』――鋭く日本社会を分析した七平の目は、戦後日本の繁栄とその急速な没落を見抜いていた
『日本資本主義の精神』では、いかに日本の経済学者が現実無視の経済論を展開しているかという批判から始まり、日本と欧米ではそもそも企業の論理は違うのに、欧米の大企業を前提としたような議論では二重の間違いを犯すとする。企業が経済活動をするために形成する集団(=機能集団)と、企業内部の社会を成り立たせているコミュニティがいつまでも併存していて、二重性を持った企業組織として初めて十全な効果を生み出すようになった。そこに日本資本主義の特色がある
江戸時代の藩に注目し、そこに現代企業の原型を見る

第6章        20年かけた『現人神の創作者たち』――戦時中、若者たちの血を要求した「現人神」の謎を、孤独な探求が解き明かしていた
江戸時代の儒学をめぐる論争史であり、「現人神」という天皇に関する神話的な思想が、一体いつ生まれ、誰が創ったのか
中国からの亡命者である朱舜水に始まる水戸学の流れと、山崎闇斎派の日本的な朱子学の流れが合流することで、「君、君たらずとも、臣、臣たらざるべからず」の教義が結実し、無条件の尊王思想が生まれた。そしてその思想が、七平の世代に膨大な犠牲を強いた「現人神」を生み出した

第7章        戦後社会と『昭和天皇の研究』――戦前・戦中の昭和天皇の「お言葉」を分析し、近代日本と立憲君主制の本質を洞察
昭和天皇の立憲君主的な性格を受け入れ、「現人神」の教義ゆえに生じた犠牲への責任は、示唆こそあっても、全く論じられていないのはどうしたことか
3つの事例、①二・二六事件、②開戦の御前会議、③聖断、を「昭和天皇の自己規定」という1つのテーマに盛り込んだ「問題史」の体裁をとる ⇒ 自らをどこまで立憲君主として律したのか
明治憲法下でも憲法遵守に実に厳密だった ⇒ 「憲法絶対」との発言が多い
二・二六事件では、当時中学生だった七平が、なぜ反乱軍は放送局占拠の計画がなかったのかと指摘
自らを立憲君主として規定していた昭和天皇が「2つの例外」を認め、それらを肯定的には考えていなかった
1つは、開戦前の御前会議の席で、明治天皇が日露開戦に際して賜った御製を読み上げたこと。「よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ」 ⇒ 開戦反対の意思を口にできない昭和天皇が、明治天皇の御製で心中を吐露したものだが、軍関係者たちがこの御製の意味を開戦の是認と解釈するようになる
もう1つの例外が終戦の聖断で、重臣たちがポツダム宣言に対応するすべを見出せなかったために、天皇自ら決断したもの
2つの例外を通じて、昭和天皇の「自己規定」を称えながら、その反面、重臣たちの「政治責任の放棄」を示唆 ⇒ 政治制度がいつの間にか政策決定者たちが決断のできない欠陥制度に頽落していたことを批判
戦前の宮廷政治では、2つの例外以外にも、いろいろな形で天皇が自分の意見を言う機会はあった ⇒ 御内意、御希望、内奏
現在の宮内庁は、かつてならば庁内にとどめおかれた各種の天皇の意思表示を、安易にマスコミを通じて「外」に晒す傾向が強まっているが、象徴天皇制の「変質」を招く危険性があるものであり、宮内庁の職員が判断すべきことではない

第8章        『禁忌の聖書学』と日本人――七平が心に秘めたキリストへの信仰と、日本繁栄への思いは根底で繋がっていた
七平最後の書
最期まで聖書の世界と日本教の世界を行き来していた
信仰や崇拝には非合理があってもいいが、現実の世界を形づくっている制度や人間には合理主義を求めるという、いわばキリスト教を通じて学んだ西欧流の宗教を含んだ近代主義

エピローグ――七平が洞察した「未来」の日本
機能的組織とコミュニティ組織が合体した日本企業の強さは、局面が変わるとそのまま弱さに転じると指摘していたが、日本企業はバブル崩壊後に「日本的経営」が終わったとみるや、今度は「アメリカ的コーポレートガバナンス」に飛びついた
その象徴が「社外取締役制度」で、とってつけたような目的のために導入されたに過ぎない
七平死後も日本を動かしてきたのは「空気」「空体語」「現人神」で、常に「情況倫理」を乱用して政治や経済を動かそうとする人々がいる



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山本 七平(やまもと しちへい、1921大正10年)1218 - 1991平成3年)1210)は、山本書店主。評論家として、主に太平洋戦争後の保守マスメディアで活動した。
経歴[編集]
年譜[編集]
19211218 - 東京府荏原郡三軒茶屋(現在の東京都世田谷区三軒茶屋)で、クリスチャンの両親(山本文之助、八重)の間に長男として生まれる。名の「七平」は神の安息日(日曜)生まれから命名される。兄弟姉妹は姉2人と妹1人。両親は和歌山県新宮市出身。父方のいとこおばの夫は同市出身の玉置酉久(大石誠之助の次兄)。
1937 - 青山学院教会洗礼を受ける。
19429 - 太平洋戦争中のため、青山学院専門部高等商業学部21歳で繰り上げ卒業する。10月、第二乙種合格で徴兵され、陸軍近衛野砲兵連隊へ入隊。その後、甲種幹部候補生合格、愛知県豊橋市豊橋第一陸軍予備士官学校に入校する。
19445 - 103師団砲兵隊本部付陸軍砲兵見習士官・野戦観測将校(のち少尉)として門司を出航、ルソン島における戦闘に参加。1945815日、ルソン島北端のアパリで終戦を迎える。同年916日、マニラの捕虜収容所に移送される。
1947 - 帰国。
1956 - 世田谷区の自宅で聖書学を専門とする出版社、山本書店株式会社を創業する。のち山本書店は新宿区市ヶ谷に移転。
1970 - イザヤ・ベンダサン著『日本人とユダヤ人』を山本書店より発売する。
1977 - 文藝春秋より『「空気」の研究』を発売する。
1979 - 大平内閣の諮問機関「文化の時代」研究グループの議長を務める
1984 - 中曽根内閣の諮問機関「臨時教育審議会」の第一部会専門委員を務める
1991 - 膵臓癌により千代田区四番町の自宅で死去した[1]。遺骨の一部はイスラエル散骨された。
受賞歴[編集]
1981 - 29菊池寛賞受賞
1989 - 和歌山県文化表彰にて文化賞受賞
イザヤ・ベンダサンとの関係[編集]
山本による説明[編集]
当初『日本人とユダヤ人』の著者ではないかと言われることについて、山本は「私は著作権を持っていないので、著作権法に基づく著者の概念においては著者ではない」と述べる一方で、「私は『日本人とユダヤ人』において、エディターであることも、ある意味においてコンポーザーであることも、否定したことはない。」とも述べている[2]
後に、1987PHP研究所主催の研究会では以下のように説明している。
山本書店を始めた頃に帝国ホテルのロビーを原稿の校正作業にしばしば使用していたところ、フランク・ロイド・ライトのマニアということがきっかけで、ジョン・ジョセフ・ローラーとその友人ミンシャ・ホーレンスキーと親しくなった。キリスト教が日本に普及しないのはなぜかという問題意識のもと、3人でいろいろ資料を持ち寄って話し合っているうちに、まとまった内容を本にしたのが『日本人とユダヤ人』である。ベンダサン名での著作については、ローラーの離日後はホーレンスキーと山本の合作である。ローラーは在日米軍の海外大学教育のため来日していたアメリカのメリーランド大学の教授で、1972年の大宅壮一ノンフィクション賞授賞式にはベンダサンの代理として出席した。ホーレンスキーは特許関係の仕事をしているウィーン生まれのユダヤ人、妻は日本人[3]
山本死後の扱い[編集]
稲垣武は、上記研究会での説明および夫人の山本れい子の証言をもとに『怒りを抑えし者』(PHP研究所、1997年)「第9章ベンダサンとその時代」において、『日本人とユダヤ人』は、2人のユダヤ人(ローラーとホーレンスキー)との対話を参考とはしているが、構成も文章も山本のものと結論付けている。
同様に、『山本七平ライブラリー』編集部もライブラリー13および14文藝春秋1997)の奥付の初出一覧の脇に、ベンダサン名の諸作品はほぼ山本の著作、もしくは山本を中心とする複数の外国人との共同作業、と考えられるというコメントを付している。
2004『日本人とユダヤ人』が角川oneテーマ21シリーズ(角川書店2004年)から山本七平名で出版されたり、ベンダサン名で連載された「ベンダサン氏の日本歴史」(『諸君!』文藝春秋19731月以降22回掲載)が山本著『山本七平の日本の歴史』(ビジネス社、2005年)として単行本化されるなど、山本の死後10年以上経過してからはベンダサン名の著作が事実上山本のものとして扱われることが多い。
『七平ガンとかく闘えり』(KKベストセラーズ1994)では、息子である良樹の筆で、ベンダサンはあなたではという母の問に対して「まあ、そういうことなんだよ」と答えたと記されている(34ページ)。
思想[編集]
日本社会日本文化日本人の行動様式を「空気」「実体語・空体語」といった概念を用いて分析した。その独自の業績を総称して「山本学」と呼ばれる。
山本は、『現人神の創作者たち』のあとがきで、「もの心がついて以来、内心においても、また外面的にも、常に『現人神』を意識し、これと対決せざるを得なかった」と語っている。山本は、クリスチャンであるだけでなく、父親の親族に大逆事件で処刑された大石誠之助をもっていた。これらのことが、山本の日本社会・日本文化・日本人に対する思考の原点であるといえよう[誰によって?]
特に、日本人のかつての教養であった中国古典に関する論考には独特なものがあり、『論語の読み方』『「孫子」の読み方』『帝王学「貞観政要」の読み方』など、多数の論考がある。山本によれば、これらの漢籍に対する研究は、内村鑑三ら、戦前のキリスト教徒が「キリスト教徒なら孟子を読むべきだ」と主張していたこと、山本の父が内村の雑誌を読んでいたことに起因しているといっている[4]。特に『「孫子」の読み方』には、旧日本軍の将校時代に感じた「余りにも非論理的な精神力万能主義の為に旧日本軍が負けた」という考察から、精神論を廃した「孫子」を再度捉え直そうという姿勢が見られるという[5]
その山本が、最も力を入れて執筆した作品が、『現人神の創作者たち』と『洪思翊中将の処刑』である。
『現人神の創作者たち』は、いかにして尊皇思想が生まれたかを探求した作品である。山本は、日本に亡命してきたの儒学者朱舜水を起点とし、山崎闇斎浅見絅斎安積澹泊栗山潜鋒三宅観瀾らの議論を追いながら、尊皇思想が形成されていく様子を描いた。そして、その尊皇思想が、社会全体にどのような影響を与えたかを、赤穂事件をめぐる当時の言論状況をたどることであきらかにしたのであった。山本は、尊皇思想の影響は今もなお残っているのだと語っている[要出典]
『洪思翊中将の処刑』は、朝鮮人でありながら帝国陸軍で中将まで昇進した洪思翊を扱った作品である。洪は、帝国陸軍の軍人である一方で、抗日運動家と秘密裡に関係を持ち、その家族を支援するなど(自身が抗日運動に参加することは拒んでいる)、きわめて複雑な生き方を強いられた人物であった。洪は、太平洋戦争後、戦犯として処刑されるが、軍事法廷において一言も発することはなかった。山本は、この作品で、その沈黙の意味をあきらかにしようとしたのであった[要出典]
学術上の業績[編集]
山本学は、社会学の中心理論である「構造-機能分析」に限りなく近いという専門の社会学者からの指摘がある。したがって山本の本は社会学を学ぶ者にとって重要な文献となるようである[6]
山本は終始一貫して在野の評論家として過ごしたが、在野の期間が長かった小室直樹などから評価され、アカデミズムでもしばしば取り上げられた。1979年に『日本資本主義の精神』が刊行されたとき、世は経済体制は資本主義社会主義のどちらが優れているか、ということがまだ真剣に議論されていた時代である。この山本の本はユニークな日本人・日本経済論として読まれ、あまり重要視はされていなかったようであるが、のちのソ連解体共産圏諸国の改革を経ると、現在では資本主義か社会主義かという経済体制はあまり重要ではなく、その国に資本主義の精神があるか、あるとすればどのような特徴を持った精神かということが重要で、その特徴によってその国の経済の強みや弱みが生まれる、ということが理解されてきているようである。したがってこの山本の本は、早い時期に日本の資本主義の精神の特徴を論考していた点で、高く評価されるべきものと思われる[7]
『現人神の創作者たち』は、日本の政治思想史、天皇制研究で他の代表的な研究、たとえば丸山真男『日本政治思想史研究』『現代政治の思想と行動』、藤田省三『天皇制国家の支配原理』などに匹敵する研究という評価もされている[8]
エピソード[編集]
「臨時教育審議会」の委員の会合が終わった後のインタビューで、「もちろん制限はあると思います。国が教育をするわけじゃないですから」と答えていた。教育の主体はあくまで親、ということを言いたかったものと思われる。戸塚ヨットスクールの問題については、「暴力では教育はできないんですね、聖書にも~という話があって、暴力では教育はできないんですね」と答えていた。また家庭内暴力については、「飽食暖衣、逸居して教なくんば即ち、禽獣に等し、ということですね」と答えていた。
外国人を相手にした講演会で、日本の家庭において、女性の地位が低いのはなぜかという質問に答えて、「では皆さんの国で、亭主が自分の給料を全て妻に渡す国がどれくらいあるか」と反論した。
小室直樹との親交は長く、小室が研究に没頭して倒れ入院したとき、山本は小室の生活を支援するため、小室が『ソビエト帝国の崩壊』(光文社、1980年)を執筆するための手助けをした。いくつかの偶然が重なったとはいえ、結果的に小室を論壇に登場させたその功績は大きいと思われる。また山本と小室には、二人の長時間にわたる討論によって成立した『日本教の社会学』という本がある。
司馬遼太郎対談集『八人との対話』(文藝春秋 1993320日 第一刷)において、司馬遼太郎は、山本七平との対談において、「正義というものが最初にあって、正義の気分があって、それを社会科学にしたのがイデオロギーだ。わたしは勝手にそう思ってるんです。山本さんの正義論というのをぼくはさんざん読んで、ぼくもその通りだと思うんです。だから、正義については論じません。」と述べている。
評価[編集]
『小林秀雄対談集 歴史について』(文藝春秋 1972年)で、小林秀雄が、河上徹太郎日出海との対談で『日本人とユダヤ人』に触れ、「ベンダサンという人が『語呂盤』という言葉を使っている」ことを紹介し、「フランスの教育におけるテーム(作文)の重大性というものはとても日本では考えられぬということを、以前パリにいたとき、森有正君がしきりに言っていた。テームの問題には、数学の定理まであるということを彼は言っていた。面白く思ったから覚えているのだが、それが、今度ベンダサンの本を読んで、はっきりわかった気がした。」「もっと微妙なことを言っているが、まあ読んでみたまえ。面白い。」と述べている。
『私の中の日本軍[要ページ番号]において、自らの軍隊経験から、日本刀23人切ると使い物にならなくなると主張した。また、同じ刀を使った場合でも、状況によって切れ味は1,000倍も違うとも評した。この部分は、文学者の文学的表現と言われる。また、戦地という劣悪な状況下で日々酷使され、満足に手入れも出来ず自然とナマクラになってしまった刀に限った話であり、本来の日本刀の性能について誤解を招くものだという批判がある[9]。さらに、同書における『戦ふ日本刀』からの引用は、自説に都合の良い部分のみを引用した不正確なものだという批判もある[10]。また、山本は本多勝一との百人斬り競争における論議において、イザヤ・ベンダサンの名義で、持論である「日本刀は23人斬ると使い物にならなくなる」という論理を中心に本多を批判した。この論理はこの論争の後に一般に広がった。
浅見定雄は、『にせユダヤ人と日本人』において、『日本人とユダヤ人』における翻訳の誤りを指摘し(たとえば、聖書の「蒼ざめた馬」を山本は間違った訳であると言うが、これは正しい訳である[11]など)、山本の語学力を批判した。山本が訳者となった、浅見自身の師である聖書学者の著書を題材に、山本が高校生レベルの英文を理解できず、明らかな誤訳をしているとして、「ヘブル語アラム語はおろか、英語もろくに読めない」[12]人物だと批判した[13]。また浅見によると『日本人とユダヤ人』によって、一般に流布されていた「ユダヤ人は全員一致は無効」という話も、実は完全な嘘あるいは間違いであり、「こんな無知な人が何をどう言おうとも、現代イスラエル国の裁判所や国会で全員一致が無効とされるわけではなく、また世界各地のユダヤ人が、さまざまな集会から家族会議まで、あらゆる生活場面で全員一致をやっている事実が消えてなくなるわけでもない」[14]と批判した[15]。また「ニューヨークの老ユダヤ人夫婦の高級ホテル暮らし」というエピソード[16]も、実際にはあり得ない話で、「この話は全部、一つ残らず、まったく、ウソ」[17]であると批判した。そして、同書が「『フィクション』ではなく『評論』」である以上、「解釈の違いは別にして評論の対象は実在しなければならない」にも関わらず「本書は作り話の上に成り立っている」ことから、「本書の価値はゼロどころかマイナス」[18]であると批判した[19]
浅見は他にも、あるホステルの主人が、ユダヤ人を「においで嗅ぎ分けた」という話[20]や、「関東大震災で朝鮮人が虐殺されたのは、体臭が違うからと語った老婦人」なども、山本がでっち上げた作り話だと断じた[21]。浅見はこの他にも、数多くの誤りを指摘している。
山本は、かつて田中角栄が有罪となったロッキード事件でコーチャン氏がアメリカ議会の公聴会で宣誓したか否かについて「キリスト教徒は誓わない」と断じて当時の宣誓文を翻訳した宗教学者佐伯真光の訳文を批判し、両者で激しい論争となった。その経緯は本多勝一編『ペンの陰謀』「佐伯/山本論争」に詳しい。
山本を絶賛する評伝を書いた稲垣武は、『怒りを抑えし者 評伝 山本七平』の中で以上の批判をまともに扱っていない。参考文献からは、山本を批判する文献はほぼ無視しており、批判したのが誰なのかも書いていない(例外として、本多と山本の共著の形になっている一冊のみ挙げている)。浅見についても、「落ちた偶像となった進歩的文化人らが、『日本人とユダヤ人』の著者と目された山本七平を、右翼・保守反動の権化と蛇蝎視し、特に同じキリスト教徒であるプロテスタント左派が、山本に悪意に満ちた攻撃を加え続けたのも当然であった」(前掲406ページ)と、名指しせずにプロテスタントである浅見を意識した非難をするに留まり、「悪意に満ちた攻撃」の内容については触れていない。
小室直樹は、『論理の方法』(東洋経済新報社、2003年)[要ページ番号]の中で、丸山真男の業績について論じているところで、「丸山教授の偉いところは、知識がそんなに少なくても大発見をしたところです。驚くべき大発見をしています。物事の本質を見抜く能力が凄い。その意味で山本七平氏もよく似ています。山本氏もそれこそ典型的な浅学非才の人。キリスト教の大家なんて言うのは嘘です。専門家と称する人が『聖書』の読み方が間違っているなどと言うのだが、あの人の偉いのはそんなところにあるのではない。ほんの僅かな知識で本質をずばりと見抜く。だから日本史なんて少ししかやらないにもかかわらず、崎門の学、山崎闇斎の学こそ明治維新の原動力になったということをはっきり知っている。」と述べている。
辛口の書評で知られた谷沢永一は、「昭和四十五年から六十二年まで、足かけ十八年間における山本七平の著作三十二冊から、その急所を引き出し、山本学の大筋を読者に眺めわたしていただきたいとひそかに願った」として書かれた著作があり、たとえば『「空気」の研究』について、この「空気」というのはちょっとコメントをつけにくいが、言われたらいちどにわかることである。これを最初に持ち出した着眼はすごいと思う。日本人のものの考え方、意思決定の仕方に、もしエポックを見つけるとするなら、この『「空気」研究』が書かれたときではないか。」と述べている[22]
山本は著書『空想紀行』[要ページ番号]で偽フォルモサ人のジョルジュ・サルマナザールが書いたとされる偽書『台湾誌』を紹介した。イギリス社交界でもてはやされた偽のフォルモサ人(フォルモサは台湾列島にあるオランダ人が領有した台湾とは別の島と主張)であるサルマナザールと、本当に中国で18年間布教をし極東情勢を知っていたイエズス会のファウントネー神父の真贋対決で、サルマナザールは縦横無尽の詭弁で勝利を得た。サルマナザールは極東情勢がほとんど伝わっていなかった英国で、イギリス国教会と対立するイエズス会が極東情勢を故意に隠蔽していると非難し、ファウントネー神父もその陰謀の片棒をかついでいるとするなどの詭弁を繰り返しているが、山本はこのときのサルマナザールの詭弁の論法を分析し、『対象そのものをいつでもすりかえられるように、これを二重写しにしておくこと。これは"フェロモサ""タイワン"という関連があるかないかわからない形でもよいし』などと細かく分析し『以上の原則を守れば、今でも、だれでも、サルマナザールになれるし、現になっている。』と記述している。これは自らが偽ユダヤ人として活躍した山本の面目躍如たるものがあるとする人もいる[23]
自らを外国人と称し、発言に重みを増す行為はヤン・デンマンポール・ボネなども行っていたとされる。また、『醜い韓国人』の著者が韓国人ではなく日本人ではないかと言われた際にも、韓国側から当時公然の秘密であったイザヤ・ベンダサンの事例が提示され(雑誌SAPIO)、日本の出版界の体質が批判された[要出典][24]
著書[編集]
日本論[編集]
『存亡の条件 日本文化の伝統と変容』ダイヤモンド社、1975 のち講談社学術文庫
『比較文化論の試み』富山県教育委員会、1975 のち講談社学術文庫
『「空気」の研究』文藝春秋、1977 のち文庫、同改版
『受容と排除の軌跡』主婦の友社、1978
『日本人の人生観』講談社学術文庫、1978
『日本資本主義の精神 なぜ、一生懸命働くのか』光文社カッパブックス、1979 のち文庫、PHP文庫、ビジネス社
『勤勉の哲学 日本人を動かす原理』PHP研究所、1979 のち文庫
『日本人的発想と政治文化』日本書籍、1979
『「あたりまえ」の研究』ダイヤモンド社、1980 のち文春文庫
『日本的革命の哲学 日本人を動かす原理』PHP研究所、1982 のち文庫
『現人神の創作者たち』文藝春秋、1983年、ちくま文庫(上下) 2007
『一九九〇年の日本』福武書店、1983、のち 「一九九〇年代の日本」PHP文庫
『危機の日本人 日本人の原像と未来』角川書店、1986、のち角川ワンテーマ21
『日本型リーダーの条件』講談社 1987 のち文庫
『日本人とは何か。神話の世界から近代まで、その行動原理を探る』PHP研究所、1989 のち文庫
『日本人の土地神話』日本経済新聞社 1990
『日本人とアメリカ人』PHP研究所 1993/祥伝社 2005
『日本はなぜ敗れるのか 敗因21か条』角川ワンテーマ212004
『日本人と組織』角川ワンテーマ212007
『なぜ日本は変われないのか 日本型民主主義の構造』さくら舎、2011
『日本人には何が欠けているのか タダより高いものはない』さくら舎、2012
『日本はなぜ外交で負けるのか 日米中露韓の国境と海境』さくら舎、2014
『戦争責任と靖国問題 誰が何をいつ決断したのか』さくら舎、2014
『戦争責任は何処に誰にあるか 昭和天皇・憲法・軍部』さくら舎、2016
自らの軍隊経験を中心に述べたもの[編集]
『ある異常体験者の偏見』文藝春秋、1974 のち文庫
『私の中の日本軍』文藝春秋、1975 のち文庫
『一下級将校の見た帝国陸軍』朝日新聞社、1976 のち文春文庫
評伝[編集]
洪思翊中将の処刑』文藝春秋、1986/ちくま文庫(上下) 2007
小林秀雄の流儀』新潮社、1986、のちPHP文庫、新潮文庫、文春学藝ライブラリー
『近代の創造 渋沢栄一の思想と行動』PHP研究所、1987/祥伝社、2009
『乱世の帝王学 山本七平の武田信玄』徳間文庫 1988、のち角川ワンテーマ21
昭和天皇の研究 その実像を探る』祥伝社、1989、のち文庫、新装単行版/祥伝社新書 2015
『江戸時代の先覚者たち 近代への遺産・産業知識人の系譜』PHP研究所 1990
徳川家康』プレジデント社、1992/ちくま文庫(上下)、2010
田中角栄の時代』祥伝社、2016
池田大作と日本人の宗教心』さくら舎、2017
中国古典に関するもの[編集]
『論語の読み方 いま活かすべきこの人間知の宝庫』祥伝社ノンブック、1981年、のち新版
『帝王学 -貞観政要」の読み方』日本経済新聞社、1983 のち文春文庫、日経ビジネス人文庫
『参謀学 -孫子」の読み方』日本経済新聞社、1986 のち文庫
『指導力 -「宋名臣言行録」の読み方』日本経済新聞社、1986 のち文庫
『現代の処世 飽食時代の菜根譚』講談社 1986
コラム・時事評論[編集]
『無所属の時間 新しい視点を生む物の見方・考え方』旺史社、1975 のちPHP文庫
『「常識」の研究』日本経済新聞社、1981 のち文春文庫
『時評「にっぽん人」』読売新聞社、1981
『派閥 なぜそうなるのか』南想社 1985年、のち「「派閥」の研究」文春文庫
『「御時世」の研究』文藝春秋 1986
『「常識」の非常識』日本経済新聞社、1986 のち文春文庫
『「常識」の落とし穴』日本経済新聞社、1989 のち文春文庫
聖書・キリスト教関連[編集]
『日本人と聖書 対談集』TBSブリタニカ、1977
『聖書の常識』講談社、1980 のち文庫、講談社文庫、文春学藝ライブラリー
『聖書の旅』白川義員写真 文藝春秋、1981 のち文庫
『旧約の風景』善養寺康之写真 講談社 1982
『ガリラヤの道』善養寺康之写真 講談社 1984
『山本七平の旧約聖書物語』三省堂、1984 のち徳間文庫、ビジネス社(上下)
『十字架への道』善養寺康之写真 講談社 1984
『人間としてみたブッダとキリスト 山本七平・宗教を語る』原書房 1984
『歴史の都エルサレム』善養寺康之写真 講談社 1984
『ビジネスマンのためのマーシャール』講談社 1988
『禁忌の聖書学』新潮社 1992 のち文庫
『山本七平とゆく聖書の旅』山本良樹編 山本書店 1997
その他[編集]
『現代の超克』ダイヤモンド社、1977
『空想紀行』講談社、1981
『人間集団における人望の研究 二人以上の部下を持つ人のために』祥伝社ノンブック、1983
『一つの教訓・ユダヤの興亡』講談社 1987
『経営人間学 「資本主義の精神」の先駆者たち』日本経済新聞社 1988
『昭和東京ものがたり』全2巻 読売新聞社 1990、のち日経ビジネス人文庫
『静かなる細き声』PHP研究所、1992
『人生について』PHP研究所、1994 のち文庫
『宗教について』PHP研究所、1995
『指導者の帝王学 歴史に学ぶ現状打破の思想』PHP研究所 1996
『宗教からの呼びかけ』山本書店 2000
『山本七平の日本の歴史』ビジネス社、2005年、新版2015
『「知恵」の発見』さくら舎、2014
『精神と世間と虚偽 混迷の時代に知っておきたい本』さくら舎、2016
作品集[編集]
『山本七平ライブラリー』全16 文藝春秋、1997
『山本七平全対話』全8 学習研究社、1984-1985
イザヤ・ベンダサンの著作[編集]
『日本人とユダヤ人』山本書店、1970年 のち角川文庫、のち角川ワンテーマ
『日本教について あるユダヤ人への手紙』文藝春秋、1972年 のち文庫
『にっぽんの商人』文藝春秋、1975年 のち文庫
『日本教徒 その開祖と現代知識人』角川書店、1976年 のち文庫、角川ワンテーマ
『日本人と中国人 なぜ、あの国とまともに付き合えないのか』祥伝社 2005、のち祥伝社新書
『日本教は日本を救えるか ユダヤ教・キリスト教と日本人の精神構造』さくら舎、2013
共編著[編集]
『日本人と原子力 核兵器から核の平和利用まで』対論:小松左京今井隆吉秦郁彦 ワールドフォトプレス 1976
『イスラムの発想 アラブ産油国のホンネがわかる本 対話』加瀬英明 徳間書店 1979年、祥伝社新書 2015
『日本人と「日本病」について』岸田秀対談 文藝春秋、1980 のち文庫、文春学藝ライブラリー
日本教の社会学』小室直樹対談 講談社、1981年、ビジネス社、2016
『日本人の社会病理』小此木啓吾対談 講談社 1982 のち文庫
『夏彦・七平の十八番づくし 私は人生のアルバイト』山本夏彦 サンケイ出版、1983 のち中公文庫
『意地悪は死なず』山本夏彦対話 講談社、1984 のち中公文庫
『「色即是空」の研究 般若心経の読み方』増原良彦共著 日本経済新聞社 1984
『近代日本の虚像と実像』大濱徹也対談 同成社 1984
『西暦2000年そのとき日本は』柳田邦男共編 講談社 1984
『人を動かす人を活かす』星野仙一対話 かんき出版 1989
『父と息子の往復書簡 東京-ニューヨーク』山本良樹 日本経済新聞社、1991
『漢字文化を考える』中西進共編著 大修館書店 1991
『民族とは何か』村松剛渡部昇一対談 徳間書店 1992
『山本家のイエス伝』山本れい子、山本良樹共著 山本書店、1996 「すらすら読めるイエス伝」講談社文庫
翻訳[編集]
人間の歴史 ミハイル・イリーン 岩崎書店 1954
文明の歴史 イリーン 岩崎書店 1954
ルネッサンス イリーン 岩崎書店 1955
からだの科学 頭から足のさきまで A.ノヴィコフ 山本書店 1956
生物の生態 N.J.ベリール 山本書店 1956
歴史としての聖書 ウェルネル・ケラー 山本書店 1958
聖書の生いたち F.ケニヨン 山本書店 1959
概説聖書考古学 G.アーネスト・ライト 山本書店 1964
旧約聖書の人びと 4 F.ジェイムズ 山本書店 1967-1968
聖書の考古学 ガーリャ・コーンフェルト 講談社 1981
聖書をこう読む マンフレート・バルテル 小川真一共訳 講談社 1982
日本人への警鐘 ラッセル・ブラッドン ダイヤモンド社 1983
権力の解剖 「条件づけ」の論理 JK・ガルブレイス 日本経済新聞社 1984
アッティラ王が教える究極のリーダーシップ ウェス・ロバーツ ダイヤモンド社 1990
参考文献[編集]
稲垣武 『怒りを抑えし者 「評伝」山本七平』(PHP1997年) ISBN 4569553230
会田雄次佐伯彰一対論 『山本七平と日本人 一神教文明のなかの日本文化をめぐって』(廣済堂出版、1993年) ISBN 4331504182
小室直樹 『日本資本主義崩壊の論理 山本七平日本学の預言』(光文社カッパ・ビジネス(新書)、1992年) ISBN 4334012655
高澤秀次 『戦後日本の論点 山本七平の見た日本』(ちくま新書2003年) ISBN 4480061193
山本れい子ほか 『山本七平 ガンとかく闘えり』(山本書店、増補改訂版1999年)
谷沢永一 『山本七平の叡智』(PHP研究所、新版2007年) ISBN 4569693466
東谷暁 『山本七平の思想 日本教と天皇制の70年』(講談社現代新書2017年)
脚注[編集]
^ 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)345
^ 山本七平「ベンダサン氏と山本七平氏」『実業の日本』197710/11899号)49-50
^ 山本七平「一出版人の人生論」『VoicePHP研究所19923月、特別増刊山本七平追悼記念号、28-30
^ 『論語の読み方』の冒頭の文章より
^ 文庫版『「孫子」の読み方』(日経ビジネス人文庫)所収の守屋淳による解説。守屋によれば、この書物の孫子の解釈は、元軍人として東南アジアで幾度も死線をくぐり抜けた山本の体験が如実に反映されたものとして、戦争を体験していない学者に比して貴重なものであるという。
^ 『日本教の社会学』(講談社)参照
^ 文庫版『勤勉の哲学』(PHP文庫)の中の解説、小室直樹『日本資本主義崩壊の論理』(光文社)など参照
^ 小室直樹は、『三島由紀夫が復活する』(毎日コミュニケーションズ)の中で、「戦後における天皇制研究のきわめてすぐれたものとして、我々は、丸山真男教授と彼の門下生によるもの、山本七平氏によるものを持っている。」と書いている。ここでの、彼の門下生とは藤田省三、山本七平氏によるものとは、『現人神の創作者たち』を指していると思われる。小室の『天皇恐るべし』(ネスコ)、『天皇の原理』(文藝春秋)などの論考には上記書物からの影響が見られる。
^ 秦郁彦「いわゆる「百人斬り」事件の虚と実(二)」『政経研究』20062[要ページ番号]
^ 秦郁彦「いわゆる「百人斬り」事件の虚と実(二)」『政経研究』20062 P96-P97
^ 「すばらしき正訳『蒼ざめた馬』」『にせユダヤ人と日本人』朝日文庫版(朝日新聞社、1986年)、pp.93-106ISBN 4-02-260416-6
^ 『にせユダヤ人と日本人』朝日文庫版p.68
^ 「山本七平式英文和(ゴ)訳の方法」『にせユダヤ人と日本人』朝日文庫版pp.265-283
^ 『にせユダヤ人と日本人』朝日文庫版p.73
^ 「全員一致は有効」『にせユダヤ人と日本人』朝日文庫版pp.63-74
^ 英語版(リチャード・ゲイジ訳)の『日本人とユダヤ人』からは完全にこのエピソードはカットされている。浅見は、英訳本では、原書の記述の中で、アメリカ人の常識から見て事実ではない、おかしいと思える箇所が多数にわたり説明無しにカットされたり勝手に書き換えられており、この部分のカットもその一例であると指摘している(『にせユダヤ人と日本人』朝日文庫版p.22)。
^ 『にせユダヤ人と日本人』朝日文庫版p.16
^ 『にせユダヤ人と日本人』朝日文庫版p.23
^ 「実在しない『ユダヤ人』の話」『にせユダヤ人と日本人』朝日文庫版pp.16-28
^ 浅見は、この記述も英訳本からはカットされていることを指摘している。もしカット無しに英訳されていたら、この部分だけでも裁判となり、事実調査が行われただろうと述べている(『にせユダヤ人と日本人』朝日文庫版p.119-120)。
^ 「無理もない、『しのびよる日本人への迫害』」『にせユダヤ人と日本人』朝日文庫版pp.115-123
^ 『山本七平の智恵』PHP研究所、1992[要ページ番号]
^ 原田実『トンデモ偽史の世界』楽工社[要ページ番号]
^ 『醜い韓国人』は韓国人協力者はいるものの、韓国人なら当然知っているような事柄にも誤りがあり、ほとんどの内容は加瀬英明が書いたものとされている[要出典]


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