広辞苑はなぜ生まれたか 新村恭 2017.12.8.
2017.12.8. 広辞苑はなぜ生まれたか 新村出の生きた軌跡
著者 新村恭 1947年京都市出身。新村出の末孫。名古屋で育ち、65年都立大人文学部入学、73年同大学院史学専攻修士課程修了。岩波書店、人間文化研究機構で本づくりに携わる。現在フリーエディター、新村出記念財団嘱託
発行日 2017.8.17. 第1刷発行
発行所 世界思想社
はじめに
『広辞苑』を読んで驚くのは、自然に関する言葉の豊かさ。動植物や気象、季節の移り変わり、月や星について表わす言葉がたくさんある。同じもの、同じことを幾通りものいい方で表現でき、同じ様であっても細かく見ると少しづつ違っている言葉もある。昔の人々が自然に対して如何に鋭敏な感覚を持っていたか、驚くとともに尊敬する。編者の新村出の生き方と重なってくる
I 新村出(しんむらいずる)の生涯
1876年萩の乱鎮圧の指揮をとったのが県令で新村の父関口隆吉。首謀者前原一誠は処刑
同年生まれたのが出
元老院議官に栄転した父とともに上京。佐原の漢学塾に入る
父が静岡の県令から知事になったことに伴い、静岡中学に入り、初めて英語に接する
89年静岡の鉄道事故で父逝去、同年徳川慶喜のそば仕えだった新村家の養子
一高・東京帝大文科博言学科卒、同大助手。28年帝国学士院会員
一高入学後文学に目覚め、上田萬年の新井白石についての講演を聞いて運命を永久に決定
99年帝大卒、卒業式に初めて臨幸の明治天皇から銀時計下賜、大学院へ進む
00年結婚。相手は幕臣旗本の娘豊子で、当時では珍しい恋愛結婚
01年東京高等師範学校教授。文部省内の国語調査委員会に補助委員として参加
03年東京外国語大講師嘱託(言語学)、翌年東京帝大文科大学助教授(国語学国文学)
当時生徒の金田一京助は出を「現代国語学産みの親」としている
07年上田萬年の推挙により京大助教授、07~09年言語学研究のためヨーロッパ留学
最初がベルリン大学で1年。『ドイツ文典』を編纂したグリム兄弟に触発され、グリムの学風に従って自分の研究を進めていく
3か月ライプツィヒ大学、3か月ロンドンのオックスフォード、2か月パリのソルボンヌで聴講、シベリア鉄道で帰国 ⇒ 異国文化の見聞と理解に役立ち、大きな転機、ターニングポイントとなった
京大時代 ⇒ 外国人教授中心の東大と違って東大から移った日本人研究者が中心
出は言語学担当、11年からは図書館長兼務(~定年の36年まで)し図書館の特殊文庫の収集に貢献、蔵書の基礎を固めた ⇒ 日本各地はもとより、3度の海外出張を機に蔵書を増やしていく。学術・文化・教育に関して開明的・進歩的立場を貫く
南蛮学 ⇒ 天草版『伊曽保物語(=イソップ寓話)』が起点。留学中に大英博物館で筆写したものを京大文科大学誌『藝文』に連載。イソップの訳者としても名を残す。また『南蛮』と名のつく本を何冊も刊行、南蛮語の音の響きを楽しんだという
35年次男の猛が同人誌掲載を理由に治安維持法で検挙・拘束され、執行猶予付きで釈放
国語国字問題 ⇒ 戦後アメリカ教育使節団が来日しGHQに対し、漢字を覚えることが生徒に過重な負担になっているとして、いずれ廃止して表音文字にすべきとし、仮名よりもローマ字のほうが利が多いと勧告。新聞などから意見を求められた出は、言葉というものは上から一気に変えるべきものではないし変わるものでもない、言語政策は時間をかけて少しづつ行うものという信念を述べる。国字の問題は漢字の整理問題にあり、ローマ字問題もまた漢字の取り扱いから出発せねばならぬ、漢字が本字で仮名が仮りの字という旧い観念を一掃し仮名本位で行くべき、漢字仮名交じり文/仮名漢字交じり文しかない、というのが終始一貫した考え。自らの執筆に於いては旧仮名が「正式」であるというのは変わらなかった
56年(『広辞苑』刊行の翌年)文化勲章受章、同時に京都市名誉市民に
57年豊子逝去、享年80
67年出逝去、享年92
II 真説『広辞苑』物語
『広辞苑』に繋がる辞書の刊行は、出の意図によるものではなく、信州出身の出版人・岡茂雄の企画であり、出版社の存在の大きさを考えさせられる
岡と出のつながりは25年の著作が始まり。次いで中高生・家庭向けの国語辞典の刊行を持ち掛けられ、一旦は興味なしとして拒絶するも、高師系の教え子の助力を条件に引き受ける。ところが資料が膨大となって岡書院では処理しきれず、渋沢敬三の仲介によって博文館(明治・大正期の出版界を牽引、博報堂の親元)から刊行することになる
32年大槻文彦の『言海』を修訂・増補した『大言海』の仕上げを依頼され刊行
35年『辞苑』刊行 ⇒ A5版2286頁、収録約16万語、定価4円50銭、赤表紙で「赤本」と呼ばれた。国語辞典ながら百科項目を多く入れたのが特徴で、見出しは表音式仮名遣いの順により、語釈は口語体、図は百科項目を中心に計2370点近く収録
『辞苑』の書名の由来は、中国晋の葛洪の『字苑』(4世紀)からとる
40年改訂作業に、外来語に強く失職中の次男猛を参画させたが、猛が理想を追い過ぎてかえって混乱を招き、刊行が遅れるうちに終戦、戦後改訂新装版としての『広辞苑』誕生
48年岩波書店との辞書作り開始 ⇒ 博文館に出版の意思のないことを確認したうえで岩波との作業が始まったが、当時は編集作業は編者負担で刊行後印税差し引きの形だったため、出の負担となっていた編集費用を博文館に返済しようとしたが、岩波から借りて返すのであれば同じこととして博文館が受け取らなかった。博文館の本心は出との関係維持にあったようで後に博文館の後継となった博友社と岩波との間の訴訟問題に発展。金銭で和解
冨山房で辞書作りの経験のある国文学者市村宏が編纂主任に就任、出は大綱を統べるだけに留まる。新しい言葉の蔓延で項目の取捨選択が大仕事
書名は出版社のイニシアティブが強く、当初出は『辞海』を念頭に置いていたが、金田一京助が同名の辞書を出版、さらに『新辞苑』にしようとしたがこれも博友社で登録済みとあって、急遽『広辞苑』となったもの
55年刊行 ⇒ 菊版、本文2298頁、収録約20万語、定価2,000円、装幀安井曽太郎、年内3刷
落ち度を3点あげている
①
誤植 ⇒ 人名の生没年、陶淵明は100年違っていた
②
当然入れるべき人が欠落 ⇒ 狩野直喜他
③
先行辞書からの孫引きによる失敗
終生修訂の仕事を確実に進め、刷ごとの修正、第2版に向けての準備に没頭
もともと新村出が理想としていたオックスフォード大辞典のような大型辞書にはなり得ず、小学館で大型国語辞書『日本国語大辞典』の企画が動いた時には出も編集顧問に名を連ね、念願叶ったともいえるが、生前の刊行はならなかった
新村出の一生、生き様 ⇒ 言語学・国語学の高度体系化には進まず、専門的なものより多くは一般向きの随筆。学風は歴史主義的で、言葉がどのようについかわれてきたか、語源・語誌に興味を持ち、文脈に広く通じ博覧強記。好奇心が強く、興趣にのりやすい。図書館人として、一般読者のニーズを感受することができた。大学定年後一切宮仕えはせず、広く文化を愛好、教育の重要性を深く認識、敵を作らない温厚な性格で幅広い交友関係を持ち、年齢の上下を含めて誰とでもフランクに質疑応答等することができた。筆まめで、人間関係を大切にした。人がよく、熱心な要請を断るのが下手。現実の中で柔軟な対応をするタイプ
『広辞苑』は、望むと望まざるとにかかわらず、その生き方の結実と思える。新村出の咲かせた「大輪」であり、その生みの親は岡茂雄
III 交友録
l 徳川慶喜の8女国子――初恋の人 ⇒ 出が養子に入ったのち、慶喜邸に出入りして夏には海水浴にまで同行するなど一緒に遊び英語の家庭教師もつとめるが、華族女学校に通う別世界の人で、叶わぬ恋だったと述べている。国子は慶喜の娘の中では長生き60歳で亡くなったが、出は野火止・平林寺の墓に詣でて歌を詠んでいる
l 高峰秀子 ⇒ 出が53年に77歳で初めて見た映画が親近感を持っている森鷗外原作の『雁』で、主演の秀子(29)に一目惚れ、谷崎の『細雪』に出演したことで谷崎との家族ぐるみの交遊が始まった秀子を谷崎が連れて58年に新村邸を訪問したのが最初の出会い、以後出が永坂の松山邸を訪問するなど行き来が行われた
秀子夫妻訪仏の際は猛が通訳をし、猛が愛知県知事選の革新系統一候補となったときは秀子が応援演説に来た
l 佐々木信綱 ⇒ 和歌は出にとって趣味を超えた生活の一部。和歌を通じての友人が多いがその筆頭が信綱。信綱が4歳年長。05年高師国語学会での出会いが最初。文通が始まる。『英訳万葉集』(40年、岩波)『契沖全集』(26年、朝日新聞社)では共同作業。戦争に対するスタンスには大きな違い
l 川田順 ⇒ 信綱の高弟。住友本社の常務までいって50代半ばで歌の道に入る。出の和歌の師。出の最初の歌集『重山集』(41年)は川田のサポートで刊行された。皇太子の和歌指南役で歌会始の選者でもあった川田の人選で47年天皇巡幸の際京都にて谷崎、吉井勇、出、川田の4人で御前座談会。48年弟子との不倫を機に絶交したため出の金婚式記念の和歌集の指導は土岐善麿に依頼しているが、国子が和歌に興味を示して信綱に入門した際川田と深い仲になったことも伏線にあったのではないか。56年には復縁し、出が川田の喜寿祝の発起人になっている
l 柳田国男 ⇒ 民俗学者の菊池暁が両者の書簡の往復を紹介して民俗学の本質に迫ろうとしているほか、岡茂雄も両者の仲違いをとりなしている
l 谷崎潤一郎 ⇒ 谷崎が京都在住の時は、出の家を頻繁に往復していた
l 土岐善麿 ⇒ 大谷大学で講義する時は必ず新村邸に立ち寄って懇談。よく能舞台に同行。『新村出全集』の編集委員
l 大野晋 ⇒ 橋本新吉の弟子。『広辞苑』の協力者
l 真渓涙骨(またにるいこつ) ⇒ 京都の仏教系紙『中外日報』の主人。『新憲法随想』(49年)ほか出の時事に関わる私見・論説の掲載紙
l その他の歌人 ⇒ 吉井勇、斎藤茂吉、萩原井泉水
l 流水会 ⇒ 府立図書館の漫談会。出の命名で毎月のように集まっていた
(ひもとく)辞書の編纂 活きたことばを採集する人々 サンキュータツオ
2017年12月3日05時00分 朝日
これほど辞書編纂(へんさん)に注目が集まった時期はない。2011年に三浦しをんの小説『舟を編む』が刊行、ヒットして以降、映画、アニメ、更に漫画化されたこともあり国民的に興味が持続、増幅している。10年の「常用漢字表改訂」以降、関心の高さと符合するように各国語辞典も改訂の時期を迎えてきた。
■広辞苑の物語
近年では辞書編纂に関する書籍も多い。本年刊行された『広辞苑はなぜ生まれたか』は『広辞苑』編者・新村出(しんむらいづる)の孫で、フリー編集者・恭(やすし)氏による出の伝記だ。編纂は、家族の理解を得られないと物理的に不可能な仕事だ。専門知識だけでなく、執筆陣や出版社など関係者との人脈、ノウハウ面も親族で継承されるらしい。たとえば言語学や国語学の金田一家や、『新明解国語辞典』の山田家、『大日本国語辞典』の松井家、そして新村家。本には、出の編纂で昭和10年に博文館から刊行された『辞苑』が次男・猛(たけし)による改訂作業で、戦後になって岩波書店から『広辞苑』として発売された経緯が事細かに記される。
親族の評伝では真偽もあやしくアテにならない、と思うかもしれない。しかし、親族だからこそ入手できる書簡などの一次資料に綿密にあたっている点、さらに著者が『広辞苑』の編纂に直接関わっていない点を見ても、内容の客観性は信用に値する。辞書はたしかに「人」が書いたものであり、また市井の人々にもっとも身近な研究書でもある。そのことを実感させてくれるように、新村出の人となりや研究に関しても、紙幅をたっぷり割いた書籍である。
■街角でもメモ
『辞書に載る言葉はどこから探してくるのか?』は、新語収録に非常に積極的な『三省堂国語辞典』(以下『三国〈さんこく〉』)の編集委員・飯間(いいま)浩明氏の「ワードハンティング」ぶりがうかがえる用語採集の記録だ。『三国』は、見坊豪紀(けんぼうひでとし)という人物が生涯をかけて「活(い)きた用例」を拾い続け、編んだ辞書である。見坊は雑誌や新聞だけでなく、街に出て広告を見たり人々が話すのを聴いた。その中から馴染(なじ)みのない言葉をメモし、実際に使用されていた例として「用例カード」に保存した。これらは145万枚にも及ぶ「見坊カード」として、現在でも三省堂の倉庫に保管されている。
飯間氏は、秋葉原や深川など様々なニュアンスをもつ「街」に出かけ、現代らしくデジカメで撮影した用例とともに、持論を展開する。例えば高円寺でみつけた「ジャンプ傘」の文字。日本人なら誰もが知るワンタッチで開く傘だが、商標でもないのに、どの国語辞典にも掲載されていなかった。飯間氏は考える。昔からあるのに、なぜ採用されてこなかったのか。一般浸透度の問題か、使用例の少なさか。「ジャンプ」を調べても、「傘」を調べても、おそらく「ジャンプ傘」の意味は推測できない。〈これは次の改訂にいれなければ〉と考える。次の版ができるまでの編者の思考の過程ものぞけ、楽しめる。
『辞書になった男』は『三国』とおなじ三省堂から『新明解国語辞典』という別の辞典が出版された経緯に迫る。大学の同門だったふたりの編者の人間ドラマも描かれる。NHKのドキュメンタリー番組制作のため取材を行った著者が内容を書籍化した。近年判明した真実も多く読み応え充分。
辞書を愛する私としては、一人でも多く辞書熱を高めてくれると、仲間が増えてうれしい。
Wikipedia
昭和初期に出版された『辞苑』(じえん)(博文館刊)の改訂作業を引継ぎ、第二次世界大戦後新たに発行元を岩波書店に変え、書名を『広辞苑』と改めて出版された。中型国語辞典としては三省堂の『大辞林』と並ぶ両雄で、携帯機器に電子辞書の形で収録されることも多い。収録語数は、第六版で約24万語。
『広辞苑』の出発点となる素案は、大正末期から昭和初年にかけ、民族・民俗学や考古学の名著を多数世に送り出した岡書院店主の岡茂雄による。1930年(昭和5年)末、不況下の出版業が取るべき方策を盟友岩波茂雄に相談の折、「教科書とか、辞書とか、講座物に力を注ぐべし」との助言を得て、中・高生から家庭向きの国語辞典の刊行を思い立ち、旧知の新村出に依頼したのが発端となる。当初、新村は興味がないと断るも、岡の重ねての依頼にしぶしぶ引き受ける。その際、新村の教え子の溝江八男太に助力を請い、その溝江の進言により百科的内容の事典を目指すこととなる。書名は、岡が新村のために企画した、長野県松本市での「国語講習会」での懇談の席上、新村考案の数案の中から決められた。「辞苑」とは、東晋の葛洪の『字苑』にちなんだもの。
しかし編集が進むに連れ、零細な岡書院の手に余ると判断した岡茂雄は、大手出版社へ引継ぎを打診。岩波茂雄には断られるも、岡の友人渋沢敬三を通して事情を知った博文館社長大橋新太郎より強い移譲の申し入れがあり、『辞苑』は博文館へ移譲された。『辞苑』移譲後も、編集助手の人事や編集業務上の庶務、博文館との交渉等の一切は岡茂雄が担当し、新村出を中心とする編集スタッフを補佐した。1935年(昭和10年)に『辞苑』は完成。刊行されるやベストセラーとなる。
『辞苑』刊行後、岡茂雄はすぐに改訂版の編集を新村出に進言。しかし『辞苑』編集中の博文館の新村に対する態度には心ないものがあり、これを不快に感じていた新村は改訂版作成に難色を示す。しかし岡と溝江の説得に思い直し、『辞苑』改訂に取り組むこととなった。岡茂雄は1935年(昭和10年)頃に出版業界から身を引くが、『辞苑』改訂版の編集では引き続き庶務その他一切の雑務を担当しつつ、編集・執筆者間の連絡調整にも腐心して、新村等の作業を補佐し続けた。改定作業半ばに外来語を考慮していないことに気付き、少壮気鋭のフランス文学者であり、思想上の理由で投獄され丁度釈放されたばかりの、新村の次男新村猛を編集スタッフに加えるよう進言したのも岡茂雄である。
しかし作業は遅れ、完成の目途が立たない内に第二次世界大戦が勃発。編集作業はさらに遅滞し、空襲開始と共に編集部は場所を転々とし、最後は博文館社長邸の一室で新村猛と2名程の婦人スタッフで実務に当たった。遂に印刷用紙を保管していた倉庫と、数千ページ分の銅版(活字組版)を保管していた印刷所が空襲で被災し、『辞苑』改訂版の編集は中絶する。しかし、万が一を恐れた岡茂雄が、版下の清刷りを必ず5通印刷し、博文館と岡、溝江3名に各1通、新村家に2通をバックアップとして保管していたお陰で編集作業の成果は残り、後の『広辞苑』へ引き継がれる。
戦後、疎開先から帰京した岡茂雄が『辞苑』改訂版刊行の意思を博文館に尋ねるが、社長以下博文館側は拒絶、その旨は新村出にも報告された。その後、新村猛の交渉により、改訂版は岩波書店から刊行されることとなる。その際、博文館との軋轢を懸念した岡茂雄は、書名の『辞苑』の引継ぎに異を唱えたが、結局書名は『広辞苑』と決まる。その後岡の予想通り、岩波書店と博文館の間で裁判沙汰が起こることとなった[1]。
戦後生じた大きな社会情勢の変化、特に仮名遣いの変更や新語の急増などにより、編集作業はさらに時間を要することになる。新村父子をはじめとする関係者の労苦が実り、1955年(昭和30年)5月25日に岩波書店から『広辞苑』初版が刊行された。『辞苑』改訂作業開始より既に20年が経過していた。
1991年11月15日には第四版が発行され、さらに翌年の1992年11月17日にはこれをもとにした『逆引き広辞苑』が発行された。『逆引き - 』には見出し語のみで語義は掲載されていないが、言葉を最初の文字からではなく最後の文字から引くという独特さ、詩作の際の押韻やクロスワードパズルなどの言葉遊びにも利用可能な点が話題を呼んだ[2]。
1998年11月11日に発行された第五版では23万余語を収録。累計発行部数は初版 - 第五版までで1140万部[3]、第六版は2009年6月時点で37万部[3]。中型国語辞典では売り上げ1位を誇る。発行部数のピークは1983年12月発行の第三版であった。
2008年1月11日に発行された第六版は24万余語が収録される。製本の際に薄くて丈夫な新しい紙を作るために、紙にはチタンが入っている。また、チタンを入れることで薄くても透けない効果がある。第五版よりページ数が約60ページ増え、厚さでは僅かに薄くなったが、チタン入りのため重くなった。第六版の発行に際しては、第五版に掲載された全23万語の見出しと説明文を縮小コピーした駅貼りポスターの作成[3][4]や、ユニクロと提携して挿絵の図案をあしらったTシャツを販売する[3][5]などの販売戦略を行った。そのこともあって、2009年6月時点で第六版の発行部数は当初目標の22万冊を大きく上回っている[3]。この販促手法が評価され、岩波書店は第1回日本マーケティング大賞を出版業界で唯一受賞している(奨励賞)[3]。
『広辞苑』は、時事用語を多く扱う百科事典である『現代用語の基礎知識』・『イミダス』・『知恵蔵』のように、新語が毎年追加される性質の書籍でないことから、改版時に採用される新語にあっては、若者言葉が一般的に日本語として定着しているかどうかの目安とされることがある(例:フリーター、着メロ等)。1980年代初頭に流行した「ナウい」は2008年改訂の第六版において収録された[7]。逆に、「猛暑日」は2007年4月1日より気象庁が使用を開始したかなり新しい用語だが、「今後は頻繁に使われるであろうと判断したため[8]」、2008年の第六版で収録された[9]。
なお、特撮関係のキャラクターで記載されている項目は(第六版では)「ゴジラ」と「ウルトラマン」の二つのみで、その他『商標』の掲載についてはあまり積極的ではなく、商標権を持つ企業名(商標権者)まで掲載しない場合が多い。広辞苑編集部の上野真志は、第五版まで世相・時代相を表す用語は第二次世界大戦前までに限定していたからで、第六版で昭和40年代まで拡大したと説明している[10][11]。
また、第二版刊行時に約2万項目を削除し、新たに約2万項目を追加した。これは初版で多く収録されていた古代中国の漢文用語や国史の古典用語を整理したためである。なお第六版では、「上高森遺跡」の捏造が発覚したため削除された例など、新たな事実判明・発覚での改変も行っている。
なお日本人の人名は物故者(故人)の掲載のみに限定し、存命の人名については掲載していないが、他の国語辞典もほぼ同様の処置を取っている(学研「新世紀ビジュアル百科辞典」は辞典と名乗るが、存命の人名も掲載している)。
1955年の初版では『慰安婦』を「戦地の部隊に随行、将兵を慰安した女」と定義し、1983年の第3版では「戦地の将兵を慰安する女性」と定義している。1970年代以降になって「従軍慰安婦」問題が社会問題となり、外交における日韓問題にまで発展すると、4版(1991年)以後で「従軍慰安婦」項目が登場し、「日中戦争・太平洋戦争期、日本軍将兵の性的慰安のために従軍させられた女性」と記載された。
さらに、第5版(1998年) では「日中戦争、太平洋戦争期、日本軍によって将兵の性の対象となる事を強いられた女性。多くは強制連行された朝鮮人女性。」と記述され、この記載に対して谷沢永一と渡部昇一らが、史実と異なる記述であり、イデオロギーに基づく記述は辞書に値しないと批判した[12][13]。その後、現行の第6版(2008年)では、後半部は「植民地・占領地出身の女性も多く含まれていた」と改訂された。
しかし、その第6版では「朝鮮人強制連行」の項目で、「日中戦争・太平洋戦争期に100万人を超える朝鮮人を内地・樺太(サハリン)・沖縄・東南アジアなどに強制的に連行し、労務者や軍夫などとして強制就労させたこと。女性の一部は日本軍の慰安婦とされた。」と、慰安婦が強制連行されたとの説明内容を維持している。
広辞苑の各版を比較分析した水野靖夫は、全体的に共産主義に肩入れした記述が目に付くと指摘して、例えば日英同盟の説明文は、初版では「ロシヤのアジアへの侵出」となっていたが、第2版以降では「ロシアのアジア進出」に書き換わっていることなどを取り上げている[14]。
粘板岩の「那智黒」の項目では、実際の産出地が三重県熊野市であるにも関わらず、1955年の初版から産出地が「和歌山県那智地方」と誤って記載されていた、と2013年に複数のメディアで報道された。報道によると、熊野市からは1997年頃に訂正の申し入れが岩波書店になされたが、その後に刊行された第五版・第六版でもそのままになっていたとしている[15]。これに対して、岩波書店は、1997年頃に熊野市から指摘を受けて検討した結果、『紀伊続風土記』等の江戸時代の史料に那智地方で産出する旨の記述があることから、1998年刊行の『広辞苑 第五版』で解説文を「那智地方に産した」という過去形に変更しており、現在の採石地が那智地方であるとは説明していないと主張するとともに、これら一連の報道は「事実経過を歪曲し、また『広辞苑』の記述を誤りと決めつけた不当な内容となっている」とウェブサイト上で反論している[16]。
2008年に発行された第六版では、その記載内容について複数の誤記が発見されている。まず、「芦屋・蘆屋」の項目では、「在原行平と松風・村雨の伝説などの舞台」と記載されているが、正しくは「須磨」である。広辞苑編集部は、ウェブサイト上で「お詫びと訂正」を行い、早期の訂正を行いたいとしている[17]が、これは第五版から残っていた誤りである。さらに、「横隔膜ヘルニア」の項目では、「横隔膜の欠損部や筋肉の弱った所を通って腹部内臓が腹腔へ逸脱する現象」などと記載されているが、腹腔内の内臓が腹腔に逸脱するというのはおかしく、この文脈であれば「胸腔へ逸脱」とすべきである。編集部は2008年1月にこの誤りを認め、第二刷から訂正したいとしている[18]。
2017年10月24日に発表された2017年11月3日予約受付開始2018年1月発売の第七版では[19][20][21]。「フェミニズム」などの項目の記載を巡って明日少女隊がウェブスター辞典、オックスフォード英語辞典を引き合いに出して説明文の書き換えをするように公開質問をし、広辞苑編集部は指摘を考慮し説明文を見直す対応を取った[22][23]。
机上版(B5判) - 第六版では「あ - そ」「た - ん」までの二分冊となった。
総革装広辞苑(菊判)
総革装広辞苑机上版(B5判) - 発売は第六版のみ。通常の机上版と同じく二分冊である。
DVD-ROM版 - 使用にあたってはコンピュータを用いる。書籍版に比べて収録項目は同数であるが、文学作品・憲法等の文献資料、カラー画像、動画、鳥の鳴き声、クラシックや日本民謡の楽曲を含み、検索機能が付加されている。
電子ブック版 - 電子ブックプレイヤーを用い、収録項目は書籍版と同数。書籍版とCD-ROM版の中間的なデータと機能を有する。電子ブックプレイヤーのバンドル版と市販品では、マルチメディアデータの収録状況に差がある。
電子辞書版 - 電子辞書内に収録された一辞書として広辞苑を含む場合がある。収録語数は書籍版と同数だが、地名項目が市町村合併に伴い増補されているものもある。辞書の立ち上げはCD-ROM版や電子ブック版、携帯電話版よりも早く、ほぼ瞬時に起動する。更に、携帯電話版を除くと最も軽量、小型でもある。
^ “第30回 [前編]『広辞苑』とデジタル辞書 〜第六版刊行の舞台裏” (日本語). 連載Front Edge. KDDI (2008年5月28日). 2008年10月14日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2011年10月27日閲覧。
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