香港 返還20年の相克  遊川和郎  2017.10.5.

2017.10.5. 香港 返還20年の相克

著者 遊川和郎 亜細亜大学アジア研究所教授。1959年広島県生まれ。東外大中国語科卒。198183年上海復旦大留学。9194年外務省専門調査員として在香港日本総領事館で香港・中国の経済関係を中心に調査研究。日興リサーチセンター上海駐在員事務所所長、在中国日本国大使館経済部専門調査員、北大准教授、同大学院教授などを経て現職

発行日           2017.6.21. 11
発行所           日本経済新聞出版社

はじめに
返還を平穏に行うため、中国は香港を「変えない」で引き取ることを最優先した
壮大な実験の結果は、はっきり見えているのは、「中国で許されないことは香港でも許されない」というシンプルな事実
「高度の自治」「港人治港」「50年不変」という大方針が持っていた重みはいつの間にかどこかへ行ってしまい、返還当時の極端な不安が薄れるとともに国際社会が寄せる関心もそれほどではなくなった
むしろ香港市民は住宅高騰や自由空間の縮小に不満を感じ、「独立」まで叫ぶ人たちまで現われたのは誤算で、20年かけてチベットやウィグルのような敏感な地域をもう1つ作ってしまったようなものではないか。両当事者にとってハッピーではない状況が生じている
20年の棚卸をしながら、香港と中国のあるべき姿、今後の展望を試みる

序章
97年の返還前の数年、日本からの観光客のブームで、96年は240万人(現在は100万人前後)

第1章        香港返還前史
返還はどのようにして実現したのか。変換の経緯、返還時の約束など、焦点を整理


第2章        共存共栄関係の終焉
返還の前後で何が変わったのか、主に経済面、社会面から比較、検証
93年本土登記の青島ビールが第1号の中国銘柄として香港市場に上場 ⇒ H(レッドチップ)
03年 中国本土と香港の経済連携緊密化取り決めCEPA締結により、中国本土へ輸出する香港製品にかかる関税免除、中国国内から香港への観光自由化、中国人の香港での出産ラッシュ

第3章        形骸化する12制度
12制度の現実、形骸化を、法の支配の崩壊、法輪功や天安門事件など中国国内で敏感な問題に対する扱い、国家安全条例導入をめぐる動き、メディア支配の実態などから検証
99年香港の終審法院の判決 ⇒ 香港特別行政区が独立した司法権を持つとしたが、中国側の反発で、全人代常務委員会の解釈が優先すると修正された
立法会の議員の選挙でも、中国側は意に沿わない反対派・過激派の立候補を極力排除しようとし、行政長官の選挙にも介入
2014年の雨傘運動の後、言論の自由、出版の自由も侵害

第4章        累積した経済政策の誤り
特に住宅、不動産問題、財閥優遇に焦点を当てながら、歴代行政長官の迷走、失政を明らかにする
返還前は世界経済の安定もあって株と不動産が大幅に上昇、空前の好景気を謳歌
返還直後からアジア金融危機が直撃、株と不動産のバブルが崩壊し、経済成長率はマイナスに
政策面でも年間85千戸の新規住宅建設を宣言しながらいつの間にか立ち消えになったり、ハイテク産業への投資を推進しながらストップしてみたりと場当たり的な政策が多く、バラマキが多く富裕層優遇が続く
返還後の経済・社会問題で最も大きな歪みを生んだのが住宅・不動産問題 ⇒ 元々香港経済のなかでの不動産業のウェイトが高いだけに、住宅・不動産政策の成否が景気動向を左右するし、財界の利権とも大きく関わる香港の中心的課題
政府の大量の土地放出に応じたのは中国系の資本で、高値での応札ラッシュが続き、現実を乖離した不動産価格の形成に繋がり、一般市民の住宅は実用面積15㎡未満の超狭小住宅に追い込まれる

第5章        迷走する民主化と軽量化する行政長官
民主化をめぐる問題、そのインフラ不足を行政長官選び、雨傘運動から検証
初代長官には経済都市の舵取りには政治家よりも企業経営に長けた財界人のほうがいいとの意見が大勢を占めて、Orient Overseas2代目会長が就任したが、中国への忠誠心に対する基準がどんどん厳しくなり、景気の悪化とともに破綻をきたして求心力を失い民衆の反感をかった
2014年全人代常務委員会の発表した制度改革案によって立候補者が指名委員会の同意を必要とすることがわかると改革案に反対して、リベラルな民主活動派と学生が雨傘運動を展開するが、市民生活への悪影響から民衆の支持を得られず79日で終結

第6章        劣化する国際経済都市
経済構造の硬直化、都市間競争での遅れ、植民地経済からの転換等の課題について考え、香港の未来を総合的に展望する
香港の経済・社会は元来、支配層の居心地を第1に制度設計されている。富裕層ほどその恩恵も多い低税率は「レッセフェール」を体現したもので国際ビジネスセンターとして生存していくには下ろせない看板
返還後の財閥優遇策による華人財閥の寡占化が進んだことで、逆に新興勢力が入っていく余地が限られ、財閥のランキングは30年間変わっていない ⇒ 新産業や新ビジネスがないので新陳代謝が起こりにくい経済構造
香港と上海はともにアヘン戦争によって産み落とされた双子 ⇒ 解放後の上海が高い成長率で中国経済を引っ張った時代も終わり、上海が香港に取って代わることはなく、香港は依然として国際金融センターとしての地位を維持
ただ、香港では配当金が非課税だったのに、08年にはH株の個人投資家への配当金に10%の源泉税が課され、海外への配当金にも同様の措置が取られることとなり、いつ何が起きるかわからない、という中国行政の怖いところが現れている
中国企業が金融市場のプレイヤーとなったことで香港市場の劣化が進み、世界の最高峰を目指した競争ではなく、そこそこの次元での共存関係に落ち着きつつあるのが現実
物流機能に限って言えば、香港は中国国内の上海、深圳などに次々と抜かれ世界5位に転落。さらに13年の上海自由貿易試験区の始動によって外国船籍でも寄港が可能となったことから貨物の中継港機能は上海に取って代わられる可能性が高い
航空貨物では、現在でも7年連続で世界1を確保しているが、周辺に続々と国際空港が作られ競争は激化 ⇒ 実際の輸送距離・時間が勝負なので、地理的に香港の機能が失われることはなく、地域全体で物流需要が高まれば、ともに発展していくことは可能だろう
17年には李克強首相が「香港独立に前途はない」と述べた後に、大湾区(ベイアリア)構想を発表、香港・マカオに広東省珠江デルタ9都市を含む地域を全体として開発する構想がある一方、習近平の「一帯一路(海と陸のシルクロード)」の提唱では海運から鉄道へのシフトも予想され、今後の香港の役割も変化
イノベーション支援で深圳に後れを取り、ドローン最大手の起業を逃した
資源を持たない小国が生き延びるためには何が必要か、またその指導者はどうあるべきかなど、香港にとってもシンガポールの存在は示唆するところがある
16年シンガポールの装甲車が香港税関に差し押さえられた事件 ⇒ 台湾で軍事演習を行った帰路に勃発、中国政府は「シンガポール政府が1つの中国の原則を厳格に守ることを要求する」と発表、中立から米国寄りの姿勢をとるようになったシンガポールへの警告で、2か月後には差し押さえを解かれた
香港の繁栄とは何か ⇒ 世界中の人が余計なことに悩まされずに快適なビジネスを行うインフラが提供されていることだろう。世界の都市ランキングでは、米ヘリテージ財団が香港を23年連続で世界で最も自由な経済体と評価、2位シンガポール、日本は40
ランキングには、中国政府による法の支配への憂慮は反映されない
現実の施策を見る限り、香港の価値を中国にとっての利用価値にすり替えられている懸念が大きい ⇒ 香港を国際公共財として存在させることこそが重要で、中国のための私有物にしてしまってはその価値が激減する。それを中国が再認識すべき

終章 竜宮城のリニューアル
かつての香港は『慕情』で展開された「竜宮城での生活」であり、新しいオーナーの下で「50年不変」の約束がどこまで守られるのか
1党支配では絶対に誤りを犯さないことを前提に問題が修正されないまま蓄積していくのが最大の問題で、無理に無理を重ねて身動きが出来なくなっているのが現状
返還前に漠然と抱いていた不安がほとんど的中した20年と言える ⇒ 中国は目覚ましい経済発展を実現したが、体制維持の窮屈さは逆に増していることが問題で、最終的には「12制度」の「1国」の在り方が問われている



香港 返還20年の相克 遊川和郎著
2017/9/9付 情報元
日本経済新聞 朝刊
フォームの終わり
 返還から20年が経過した香港は、中国の圧力の中で「一国二制度」の形骸化が問題になっている。変化を迫られる香港の歩みを検証し、今起きている事件も詳述した。中国大陸の政治・経済的な動きとの関係性もわかりやすく描く。今年の共産党大会を経て2期目に突入する習近平指導部の大きな課題は、意識面での中国離れが著しい台湾問題だろう。香港の現状分析は、台湾の将来を考えるうえでも欠かせない。(日本経済新聞出版社・1800円)


出版社推薦文
英国から中国への返還が実現して20年。東洋の真珠とも呼ばれる世界的なフリーポートは、返還後も中国本土へのゲートウェイとして優位性を誇示してきた。
しかし、経済は中国本土に圧倒され、返還時に約束された「一国二制度」は「一国一制度」へと収斂しつつある。習近平政権は香港の自由を実力で奪い、各方面で対立が表面化。一部の若者からは「独立」の声もあがる。
上海、北京、広州など中国本土が急成長するなか、香港の相対的な地位低下が続いている。中国の国内総生産に占める香港の割合は3パーセントを割った。製造業は、コスト競争力はもとより、研究開発でも本土の後塵を拝す。国際金融センターとしての相対的地位は健在だが、行政の介入がマイナスに作用。傘下の本社登記地をケイマン諸島に移した李嘉誠など、大富豪たちの動静にもこれまでとは違う変化の兆しが見られる。英国流の教育制度は排除され、英語を話せる香港人も減少の一途をたどるなど、香港の優位性を支える基盤にも軋みが見られる。数多くの興味深いエピソード、背後にある文化や制度の変容から、混沌とも雑然とも形容される香港の実像を浮き彫りにする。
香港返還から今日に至る政治、経済、社会の深層に迫り、あらためて返還の意義を考えるとともに、今後の中国に対する視座を与える一冊。


Wikipedia
香港返還とは、199771に、香港の主権がイギリスから中華人民共和国へ返還、再譲渡された出来事である。繁体字では「香港主權移交/香港回歸」、簡体字では「香港主移交/香港回」、英語では「Transfer of the sovereignty of Hong Kong」と表記されるが、異論もある(下記参照)。
背景[編集]
1842南京条約(第1アヘン戦争の講和条約)によって、香港島清朝からイギリスに割譲された。さらに、1860北京条約(第2次アヘン戦争(アロー号戦争)の講和条約)によって、九龍半島の南端が割譲された。その後、イギリス領となった2地域の緩衝地帯として新界が注目され、1898展拓香港界址専条によって、99年間の租借が決まった。以後、3地域はイギリスの統治下に置かれることとなった。
1941年に太平洋戦争が勃発し、イギリス植民地軍を放逐した日本軍香港を占領したが、1945年の日本の敗戦によりイギリスの植民地に復帰した。その後1950年にイギリスは前年建国された中華人民共和国を承認した。この後イギリスは中華民国ではなく中華人民共和国を返還、再譲渡先として扱うようになる。
1970年代、香港政庁は住宅供給のため、租借地であり厳密には中国領である新界にも開発の手を伸ばしたが、1970年代後半になって香港の不動産業者が、1997年の租借期限以後の土地権利について不安を訴えるようになった。公有地の放出を重要な収入源としていた香港政庁は、不動産取引の停滞を防ぐ観点から、新界の統治権を確定する必要があると考えるに至った。
二国間交渉[編集]
1979香港総督として初めて北京を訪問したクロフォード・マレー・マクレホースは、中華人民共和国側に香港の帰属をめぐる協議を提案した。しかし、中国側は「いずれ香港を回収する」と表明するに留まり、具体的な協議を避けた。それでもイギリス側は「1997年問題」の重要性を説き続け、19829月には首相マーガレット・サッチャーが訪中し、ここに英中交渉が開始されることになった。
サッチャーは香港の統治を継続できるよう求めていたが、中国側は「港人治港」を要求してこれに応じず、鄧小平はサッチャーにイギリスがどうしても応じない場合は、武力行使や水の供給の停止などの実力行使もありうることを示唆した。当初イギリス側は租借期間が終了する新界のみの返還を検討していたものの、鄧小平が香港島や九龍半島の返還も求めた上で実力行使を示唆してきたためイギリス側が折れた恰好となった。
19841219に、両国が署名した中英連合声明が発表され、イギリスは199771日に香港の主権を中国に返還し、香港は中国の特別行政区となることが明らかにされた。中国政府は鄧小平が提示した一国二制度(一国両制)をもとに、社会主義政策を将来50年(2047まで)にわたって香港で実施しないことを約束した。この発表は、中国共産党一党独裁国家である中国の支配を受けることを良しとしない香港住民を不安に陥れ、イギリス連邦内のカナダオーストラリアへの移民ブームが起こった。
返還後[編集]
返還後に香港特別行政区政府が成立し、董建華が初代行政長官に就任した。旧香港政庁の機構と職員は特別行政区政府へ移行した。また、駐香港イギリス軍は撤退し、代わりに中国本土から人民解放軍駐香港部隊が駐屯することになった。
201412月、香港の「高度の自治」を明記した1984年の「中英共同宣言」について、1997年の返還から50年間適用されるとされていたが、201411月に駐英中国大使館が、「今は無効だ」との見解を英国側に伝えていたことが明らかとなった[1][2]。これに先立って、中国当局は英下院外交委員会議員団による宣言の履行状況の現地調査を「内政干渉」として香港入り自体を拒否していた[3]
「返還」表記[編集]
清から割譲されイギリス領となった香港島や九龍半島南端とは異なり、新界租借地であるため、返還以前も主権は中華人民共和国(イギリスが中国共産党政府を承認する1950以前は中華民国)側にあった。中国当局は「新界に限らず、香港全域がイギリスに占領された中国領土である」と国際連合脱植民地化特別委員会において主張した。イギリス側から見た言い方の場合の公文書の表記は「Restore(返還)」であるが、イギリスを初めとする欧米の報道では「Handover(引き渡し)」の表記も多く使用されている[4][5][6]
脚注[編集]
^ 香港「高度の自治」に圧力 英外交委が報告書 47NEWS(よんななニュース)201536
^ ANNE E. KORNBLUT (199777). “CHINESE STRUT ON B'WAY HONG KONG HANDOVER IS KEY FOCUS” (英語). デイリーニューズ. 201126日閲覧。
^Hong Kong handover: New uses for an old home” (英語). インデペンデント (199771). 201126日閲覧。
^Empire's Sunset? Not Just Yet.” (英語). ニューヨーク・タイムズ (199771). 201126日閲覧。


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