原敬と新渡戸稲造 佐藤竜一 2017.8.6.
2017.8.6. 原敬と新渡戸稲造 戊辰戦争敗北をバネにした男たち
著者 佐藤竜一 1958年陸前高田市生まれ。一関第1高校卒、法政大法卒、日大大学院博士課程前期(総合社会情報研究科)終了(国際情報専攻)。岩手大で「日本の文学」を教える。著書に『世界の作家 宮沢賢治―エスペラントとイーハトーブ』ほか多数
発行日 2016.11.30. 第1版第1刷発行
発行所 現代書館
はじめに
戊辰戦争で盛岡藩は賊藩とされ、新政権ではほとんど活躍の場が与えられなかった
「朝敵」の汚名挽回のため、版籍奉還を早い時期に行い、敗戦後に藩主となった南部利恭(としゆき)は、人材育成に努め、戦乱で休止していた藩校作人館を復活させ、1870年には東京に英語塾・共慣(きょうかん)義塾を創設、旧藩の優秀な子弟を就学させた
共慣義塾からは原敬、新渡戸、田中館愛橘などが輩出、人材の輩出で朝敵の汚名を挽回しようとした目的は充分達成されたといえる
原と新渡戸は盛岡藩が生んだ人材の双璧。生涯盛岡藩出身という意識を持ち続け、賊藩出身というマイナスをバネに奮闘しつつ生きた人
原は、東北出身初の総理大臣、最初の政党内閣。近代国家に脱皮するために成した功績大
新渡戸は、農学者・教育者。国連事務次長として国際平和に貢献
2人は密接な関係にあったことが多々記されているが、それぞれの記録にはお互いのことがほとんど出てこない ⇒ 本書は2人の繋がりを読み解こうというもの
第1章
原敬と大慈寺 ⇒ 原のルーツを紹介。原が菩提を再建する経緯を辿る
第2章
盛岡藩と戊辰戦争 ⇒ 戦争の経緯。原と新渡戸が語学力により人生を切り拓く共通点を紹介
第3章
佐藤昌介と北海道帝国大学 ⇒ 両者と親しかった佐藤の軌跡を辿る
第4章
原敬と岩手公園 ⇒ 原と南部家との関係を追う
第5章
『南部史要』をめぐって ⇒ 原が盛岡藩史編纂に至る経緯
第6章
原敬内閣の誕生 ⇒ 原が首相に就任するまで
第7章
国際連盟をめぐって ⇒ 事務次長として活躍した新渡戸を紹介
第8章
原敬暗殺 ⇒ 1921年の暗殺の経緯
第1章
原敬と大慈寺
原敬のルーツは近江の浅井家。1633年盛岡藩3代藩主に仕えた原政澄が初代で、対馬の高僧・方長老(ほうちょうろう)を慕って盛岡に来て、方長老の加護があって仕官が叶う
盛岡市内の大慈寺が原敬の菩提寺 ⇒ 1884年の大火で焼失。1905年に古河鉱業副社長だった原敬が山門を新築寄贈。3回大臣になると「前官礼遇」といって毎年盆暮れに500円天皇のご下賜金があることから、11年に条件を満たした原は浄財を貯蓄して再建費用に充て、17年本堂再建開始、20年落成。直筆の「宝積」の額を寄贈。「宝積」と原が辿り着いた境地で、出典は『宝積経』。人間は徳を積んで生きる糧となる、人を守りて己は守らず、人に尽くして見返りを求めない意味
大慈寺にあった原敬夫妻の位牌堂(24年、現存せず)と宝物庫(27年、現存)の設計をしたのが葛西萬司 ⇒ 萬司は辰野金吾とともに東京駅を設計、原が萬司の義父葛西重雄と親しかったところから大慈寺でも設計をした
重雄は、地元の古河鉱業の重役で、原も05~06年副社長として、古河家との関係も密接
原が02年の衆議院選挙で圧勝し、以後7回連続当選した背景には、重雄の支援があった
原と葛西家の関係は、萬司になっても続く ⇒ 萬司の設計した東京駅で原敬が暗殺されたのも何かの因縁
第2章
盛岡藩と戊辰戦争
1856年原敬誕生、8代目の4番目(次男)の子どもで幼名は健次郎
家格は、藩主と特殊関係にある高知(たかち)に次ぐ高知家格という由緒ある家柄
原は、母はリツが19年92歳で亡くなるまで尊敬。『原敬日記』の中で敬語を使って表記しているのは天皇・皇后と母リツのみ ⇒ 09年盛岡に別邸新築、10年のリツの米寿には600人を招いて園遊会を催す
盛岡名物のわんこそばは、原敬別邸から始まる。原がそば好きで、原夫人がいろいろな具を出してそば振る舞いをしたのを1884年創業の「直利庵」が真似て商売にした
1868年奥羽越列藩同盟に参加決定するも、秋田の奥羽鎮撫総督軍に敗退、領地没収、家老の楢山佐渡は切腹。12歳の原は、尊敬する佐渡の姿を目に焼き付ける。介錯役が新渡戸の叔父太田時敏だったが、その任に当たることを忍びず東京に逃れたという
南部家は盛岡の南230㎞の白石藩に移らされる、版籍奉還では真っ先に手を挙げてその対価として白石藩知事となるが、嘆願書と70万両払って元の盛岡藩の知事となるも、支払い不可能で廃藩願いを出し許可される ⇒ 原家も賠償支払いに財産を提供
1870年原は14歳で、一般庶民を含んだ学校へと改組した作人館修文所開校とともに入学
原は俳句を嗜み、号を「一山(百文)」としたが、それは戊辰戦争で勝ち誇った薩・長人が敗残の東北人を嘲笑した慣用語で、原は盛岡藩の受けた屈辱を忘れなかった ⇒ 政治家として頂点に昇りつく直前に、自らが中心となって旧南部藩士戊辰殉難者50年祭を盛大に行っていることからも窺える
1872年上京、前年開校した共管、前年開校した共慣義塾に入るが、すぐに退学。マリン神学校に入り洗礼を受けたが生きるための方便で、カトリックの教えとともにフランス語を学ぶ
1875年から日記をつけ始め、1950年没後30年の節目に『原敬日記』として刊行
1875年士族から平民になる
1876年司法省法学校(85年東大に併合)入学 ⇒ 2番で合格。8年の就学期間の途中で賄征伐事件(79年)の学校側の対応に反対して放校処分となる。仲間の1人が弘前出身の陸實(みのる、雅号:羯南)
1879年郵便報知新聞社(72年前島密によって創刊)入社 ⇒ この時原に新聞社を紹介してくれた工部省の権大書記官中井弘の長女・貞子と後に結婚
後に藩閥政治を批判し、政党政治を導入したが、その萌芽が当時から窺える
フランス革命を例に挙げながら、モンテスキューやルソーなどの思想家の理論も紹介
新渡戸稲造のルーツ
原敬の6年後1862年の生まれ。盛岡藩重心の家柄。元は花巻市の出で、勘定奉行など
幕府に敵対した責任を取って楢山佐渡が切腹する際の介添え役が、稲造の叔父太田時敏だったが、これを断り上京、稲造は時敏の養子となって南部藩解体後上京
第3章
佐藤昌介と北海道帝国大学
1872年稲造は共慣義塾に入る
1873年東京外国語学校(後の東大予備門)入学、官費生となり、1年上の佐藤昌介と出会う
昌介の父と時敏とが盛岡藩の役人同士旧知の間柄だったことから、すぐに親密となる
原敬と同年生まれで作人館時代の知り合いで、時敏は昌介に稲造の指導を頼む
1876年天皇は東北巡幸の際、青森県三本木の新渡戸家に立ち寄り、同地開拓の現地を視察後、稲造の祖父や父を賞し子孫を激励、母に金一封を下賜、稲造はその話を聞かされて感激し農業を志すようになるとともにそのお金で大いなる関心を抱いていた聖書を購入
1877年札幌農学校入学(第2期生) ⇒ 時敏の事業失敗で学費不要のところを選ぶ
1878年内村鑑三等とともに洗礼を受ける
昌介は、アメリカの農業経営を学ぶため原敬の応援もあって留学を決意。その留学が稲造に影響を与える
原は、郵便報知新聞が大隈重信一派により買収されたため、そりが合わずに退社
1882年稲造は農学校卒業後、開拓史御用掛から農商務省御用掛となったあと、上京して英語を学ぼうとするが、大学のレベルが低すぎて失望、私費留学を決意
1884年昌介のいた設立後間もない気鋭のジョンズ・ホプキンス大学大学院に在籍、国際法、租税・行政論、ドイツ語などを学ぶ ⇒ 同じ大学院で学ぶ7歳上のウッドロー・ウィルソンと出会う
キリスト教に懐疑の念を抱いている時に、徹底した平和主義のクエーカー教に出会い入信するとともに、信者のメリー・エルキントンと出会い交際を始め、91年両家の反対を押し切って結婚し帰国
1887年稲造は、帰国した昌介の斡旋で札幌農学校助教となりドイツ留学を命じられる
1889年稲造は、兄たちの死去に伴い、新渡戸姓に戻る
1891年稲造は札幌農学校の教授に就任、予科、農、工の科目を担当
1918年札幌農学校は北海道帝国大学となり、初代総長が昌介 ⇒ 当時原敬は首相で、帝大昇格に際しては、西園寺内閣の内相時代、牧野伸顕文相に掛け合い、資金面さえクリアすれば可能と言われ、退職したばかりの古河鉱業に掛け合って人材育成のための資金協力を取り付け政府に寄付をさせて昇格を実現させた
第4章
原敬と岩手公園
原が出世街道を歩み始めるにつれて南部家から頼りにされる存在となる ⇒ 原に目を付けたのが太田時敏で、南部家の家令に就任後、原を財政顧問として迎える
原は、井上馨外相の下で外交官の道を拓き、83年天津領事からパリ公使書記官
1900年伊藤博文内閣の逓信相就任
1903年旧藩主南部利恭薨去に際し正三位から従二位へと昇階に尽力 ⇒ 自らは叙勲を拒否したが、他の人々のためには奔走
江戸時代盛岡藩の中枢だった岩手公園の界隈は、72年盛岡状閉鎖、場内のほとんどの建物は取り壊された後、1900年城跡が藩主だった南部家に払い下げられ、06年岩手県が南部受けから貸与を受けて岩手公園として開園しているが、南部家に了承させたのは原
図書館建設には私財を投じ、大量の庭木とともに公園に寄贈
軍人として賊藩の汚名を雪いだのが東條英教 ⇒ 1855年盛岡生まれ、作人館で原と共に学び、陸軍教導団入団、陸大1期生、盛岡藩出身としては最高の陸軍中将。英機は3男
1892年第2次伊藤内閣の外相陸奥宗光の下で通商局長から、95年次官昇格。陸奥との名コンビで不平等条約改正に成功。同時に優秀な人材を確保するために「外交官領事館試験」制度を作り上げる
1895年陸奥の辞任とともに次官辞任。後任は小村寿太郎。叙勲の話は断る
1897年外務省退職、大阪毎日新聞社長就任 ⇒ 1905年陸奥の遺言により、陸奥の次男で古河鉱業創始者の要請により同社副社長就任(10か月間)
南部家嫡男の縁談では、家令の太田時敏、原、東條の3人が相談している ⇒ 皇太子の学友でもあったが、日露戦争に出征して戦死、原は騎兵銅像を建立するも、第2次大戦で供出
当主利恭の実弟で大隈重信の娘と結婚した大隈英磨は、早稲田の初代総長にもなっているものの、たびたび借金の保証人になったりした結果大隈家を離縁されているが、その時も原は太田時敏から相談を受けて南部家への復縁に奔走している
第5章
『南部史要』をめぐって
1903年作人館修文所の同窓会で原が盛岡藩史の編纂を提案 ⇒ 前年、原は衆議院に初当選、私費での編纂を企図、2年の予定が7年がかりとなり1911年漸く盛岡藩700年南部家初代から41代利恭までの歴史書として刊行
第6章
原敬内閣の誕生
1892年稲造に長男誕生するも1週間で病死、稲造も神経衰弱で療養、98年渡米し加州モントレーで静養
稲造は、ドイツ留学中にベルギーの法学者ラブレー教授と交流、教授から日本の宗教教育について問われた際、日本には宗教教育はないと答えると、教授から宗教教育なしに道徳教育ができるのかと疑問を呈せられ、日本人独特の倫理観や宗教観があるはずだと思って書き始めたのが英文の『Bushido:The
Soul of Japan副題「日本の魂」』
巻頭には「我が愛する叔父太田時敏にこの小著をささぐ」とある
『武士道』はたちまちベストセラーとなるが、日本語の翻訳が出版されたのは08年 ⇒稲造の祖父や時敏と親しかった切腹した楢山佐渡の影が見え隠れする
1905年原は、不貞を働いた妻を離縁、08年長く内縁関係にあった芸者・浅を入籍、内相辞任の賞与で世界一周に出る ⇒ ワシントンでは日本大使の紹介でルーズベルト大統領に謁見。すでに大使から『武士道』を進呈された大統領との間で新渡戸の話題が出たはず
新渡戸の飛躍のきっかけとなったのは、後藤新平から台湾での勤務を要請されたこと
後藤は1857年水沢(現奥州市)の生まれ。板垣狙撃の際往診したのがきっかけで板垣の知遇を得て政界入り、児玉源太郎総督の推挙で台湾総督府民政長官となり、この時新渡戸を誘う ⇒ 台湾の製糖事業が大きな鍵となっていて、同じ岩手出身で日本初の農学博士となった新渡戸に白羽の矢を立てた
稲造は、総督府技師となって新設の臨時台湾糖務局長に就任、台湾に糖業を根付かせた恩人として現代でも児玉と新渡戸の名が挙げられる
1903年健康に不安のあった稲造を心配して新平は京都帝大法科大学教授を斡旋、植民政策を教える ⇒ 牧野伸顕の推挙で06年一高校長に
09年盛岡に凱旋して訓話をしたが、入学したての宮沢賢治が感化を受け、エスペラント熱をもたらす
06年西園寺内閣で内相に就任した原は、満鉄初代に後藤を抜擢
原敬日記に新渡戸が初登場 ⇒ 14年大隈首相と野党政友会総裁となった原との面談の仲介役、2度目は東北振興の件で渋沢栄一らと会談した際に同席
原は、南部家次男が大隈家から離縁されたことで、大隈とは生涯そりが合わず
1915年対華21カ条の要求 ⇒ 反対すれば国賊と言われた時代、原は国民党の犬養毅と組んで大隈内閣の政策に反対。与党の反対で否決されたが、後年首相に就任した原は、中国の主権回復や修復等中国との関係改善に努めた
1918年原首相誕生 ⇒ 爵位を持たない首相ということで「平民宰相」と呼ばれた
新渡戸は、当時のデモクラシーの風潮に対し訳語として唱えたのが「平民道」で、「平民宰相」原を意識して用いられたと推測
第7章
国際連盟をめぐって
1919年原内閣は、国際連盟規約に人種平等条項を入れるよう要求したが、米英の反対で却下 ⇒ 自らのアメリカでの人種差別体験に基づくもの
1919年常任理事国となった日本から事務次長を出すことになり、牧野の推薦で新設の東京女子大校長だった新渡戸が就任
第8章
原敬暗殺
1921年ワシントン軍縮会議に全権団を送り出した直後に原敬暗殺
原は、亡くなる8か月も前に、妻、息子、弟宛に遺書3通を用意しており、位階勲章等の陛叙は受けず、遺骸は大慈寺に埋葬、墓石には姓名のみ、各方面への寄付金は母上の例を参考にすべし、とあった
暗殺の直接の背景は、皇太子の外遊に右翼が反対していたことで、外遊発表の5日後に遺書を書いている
1933年新渡戸カナダビクトリア州にて客死 ⇒ 26年帰国して貴族院議員となり、太平洋問題調査会の理事長となって、その会議に出席のためカナダに行く途中の出来事
Wikipedia
外務次官、大阪毎日新聞社社長、立憲政友会幹事長、逓信大臣(第11・16代)、衆議院議員、内務大臣(第25・27・29代)、立憲政友会総裁(第3代)、内閣総理大臣(第19代)、司法大臣(第22代)などを歴任した。
陸奥外務大臣時代には外務官僚として重用されたが、陸奥の死後退官。その後、発足時から政友倶楽部に参加して政界に進出。大正7年(1918年)に総理大臣に就任。爵位の受け取りを固辞し続けたため「平民宰相」と渾名された。
原敬は、安政3年(1856年)2月9日、盛岡藩盛岡城外の岩手郡本宮村(現在の盛岡市本宮)で盛岡藩士原直治の次男として生まれた。後に「平民宰相」と呼ばれる敬だが、原家は祖父・直記が家老職にあったほどの上級武士の家柄で[3]、敬は20歳のときに分家して戸主となり、平民籍に編入された。徴兵制度の戸主は兵役義務から免除される規定を受けるため分籍した。彼は家柄についての誇りが強く、いつの場合も自らを卑しくするような言動をとったことがなかったとされる。
明治3年(1870年)、原は再開された藩校「作人館」(現・盛岡市立仁王小学校)に入り、さらに翌年、上京して南部家が盛岡藩出身の青年のために設立した「共慣義塾」に入学したが、途中で学費が途絶えて数か月で辞めた。ついで明治5年(1872年)には費用のかからないカトリック神学校に入学した。翌明治6年(1873年)には横浜に移って神父宅に寄寓し、ここで受洗して「ダビデ」の洗礼名を受けている。明治9年(1876年)、司法省法学校を受験したところ、受験者中2番の成績で合格したが、学業途中で寄宿舎の待遇改善行動に関係したという理由で退校処分にあっている。法学校を追放された原は、中江兆民の仏学塾に在学の後、明治12年(1879年)、郷里の先輩のつてで、郵便報知新聞社に入社した。入社当初はフランス語新聞の翻訳を担当していたが、次第に論文も執筆するようになった。しかし、明治十四年の政変をきっかけに大隈重信の一派が同社に乗り込んでくると、彼らと反りが合わず退社した。また、明治12年3月に山梨県甲府市で創刊された『峡中新報』へも「鷲山樵夫」の筆名で寄稿している。
パリ時代の原敬
郵便報知新聞社を辞めた原に政府の高官が目をつけ、御用政党の機関紙『大東日報』の主筆とした。しかし、経営不振のため8か月目で同社を離れた。この『大東日報』が縁で政府に接する機会を得た原は明治15年(1882年)、外務省に採用され外務省御用掛兼務になり、入省の翌年には天津領事に任命されて同地に赴いた。次いで明治18年(1885年)には外務書記官に任ぜられてパリ駐在を命じられた。そして、およそ3年余りパリ公使館に勤務し、帰国後は農商務省参事官、大臣秘書官となった。駐米公使だった陸奥宗光が明治23年(1890年)に農商務大臣になると、陸奥の引きで原の運命が拓けることになる。すなわち、第2次伊藤内閣が発足すると陸奥は外務大臣に就任し、彼の意向で原は通商局長として再び外務省に戻った。さらに日清戦争後の明治28年(1895年)には、外務次官に抜擢された。当時、陸奥外相は病気療養中であったため、文部大臣・西園寺公望が外相臨時代理を兼任したが、実務は原がとることとなった。翌・明治29年(1896年)、陸奥が病気のため外相を辞任すると、原も朝鮮駐在公使に転じた。しかし、間もなく第2次伊藤内閣が崩壊し、第2次松方内閣が成立すると、大隈が外相となって入閣したため、大隈嫌いの原は見切りをつけて帰国し、外務省も辞めた。明治30年(1897年)には大阪毎日新聞社に入社し、翌・明治31年(1898年)には社長に就任した。
明治33年(1900年)に伊藤博文が立憲政友会を組織すると、原は伊藤と井上馨の勧めでこれに入党し、幹事長となった。同年12月、汚職事件で逓信大臣を辞職した星亨に代わって伊藤内閣の逓信大臣として初入閣する。原は政友会の結党前と直後の2度、貴族院議員になろうとして井上に推薦を要請している。一般には原は生涯爵位などを辞退し続け、その身を最期まで衆議院に置いてきたとされている。また、後年には貴族院議員を指して「錦を着た乞食」とまで酷評している。その原が貴族院議員を目指したのは、無官でいることからくる党内の影響力低下を懸念してのことといわれる。結局、星亨の後任となって入閣したため、貴族院入り問題は立ち消えになった。また、爵位授与に関しても実はこの時期に何度か働きかけを行っていた事実も明らかになっている(原自身が「平民政治家」を意識して行動するようになり、爵位辞退を一貫して表明するようになるのは、原が政友会幹部として自信を深めていった明治末期以後である)。
明治34年(1901年)6月、桂太郎が組閣し原は閣外へ去るが同月に星が暗殺され、その後は、第1次桂内閣に対する方針を巡る党内分裂の危機を防ぎ、松田正久とともに政友会の党務を担った。また、地方政策では星の積極主義(鉄道敷設などの利益誘導と引換に、支持獲得を目指す集票手法)を引き継ぎ、政友会の党勢を拡大した。党内を掌握した原は、伊藤や西園寺を時には叱咤しながら、融和と対決を使い分ける路線を採って党分裂を辛うじて防いだ。
しかし、原の積極主義は「我田引鉄」と呼ばれる利益誘導政治を生み出し、現代につながる日本の政党政治と利益誘導の構造をつくりあげることとなった。明治末期には原のこうした手法を嫌う西園寺との間で確執が生じている。
日露戦争が始まった明治37年(1904年)12月、桂首相は政局の安定を図るため、政友会との提携を希望して原と交渉を行い、政権授受の密約を結ぶ。翌・明治38年(1905年)、桂内閣は総辞職し、明治39年(1906年)になって約束通りに西園寺公望に組閣の大命が下ると、原は内務大臣として入閣した。これ以降、桂と政友会との間で政権授受が行われ、「情意投合の時代」とか「桂園時代」と呼ばれる政治的安定期を迎えることになるが、原は出来る限り山縣有朋との関係を調整することに努力する一方で、徐々に山縣閥の基盤を切り崩して、政友会の勢力を拡大することも忘れなかった。
なお、原は後に第2次西園寺内閣と第1次山本内閣でも内相を務めている。内務大臣時代、藩閥によって任命された当時の都道府県知事を集めてテストを実施し、東京帝国大学卒の学歴を持つエリートに変えていった。大正3年(1914年)6月18日には大正政変の道義的責任を取るとして辞任した西園寺の後任として第3代立憲政友会総裁に就任した。
事件直後の原遭難現場
シベリア出兵に端を発した米騒動への対応を誤った寺内内閣が内閣総辞職に追い込まれると、ついに政党嫌いの山縣も原を後継首班として認めざるをえなくなった。こうして、大正7年(1918年)に成立した原内閣は、日本初の本格的政党内閣とされる。それは、原が初めて衆議院に議席を持つ政党の党首という資格で首相に任命されたことによるものであり、また閣僚も、陸軍大臣・海軍大臣・外務大臣の3相以外はすべて政友会員が充てられたためであった。
原内閣の政策は、外交における対英米協調主義と内政における積極政策、それに統治機構内部への政党の影響力拡大強化をその特徴とする。原は政権に就くと、直ちにそれまでの外交政策の転換を図った。まず、対華21ヶ条要求などで悪化していた中華民国との関係改善を通じて、英米との協調をも図ろうというものである。そこで、原は寺内内閣の援段政策(中国国内の軍閥・段祺瑞を援護する政策)を組閣後早々に打ち切った。
さらに、アメリカから提起されていた日本・アメリカ・イギリス・フランス4か国による新4国借款団(日本の支那への独占的進出を抑制する対中国国際借款団)への加入を、対英米協調の観点から決定した。第一次世界大戦の後始末をするパリ講和会議が開かれたのも、原内閣の時代だった。この会議では、アメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソンの提唱によって国際連盟の設置が決められ、日本は常任理事国となった。しかし、シベリア出兵についてはなかなか撤兵が進まず、結局撤兵を完了するのは、原没後の大正11年(1922年)、加藤友三郎内閣時代のこととなった。
内政については、かねてから政友会の掲げていた積極政策、すなわち、教育制度の改善、交通機関の整備、産業及び通商貿易の振興、国防の充実の4大政綱を推進した。とりわけ交通機関の整備、中でも地方の鉄道建設のためには公債を発行するなど極めて熱心であった。
また、教育政策では高等教育の拡張に力を入れた。大正7年(1918年)、原内閣の下で「高等諸学校創設及拡張計画」が、4,450万円の莫大な追加予算を伴って帝国議会に提出され可決された。その計画では官立旧制高等学校10校、官立高等工業学校6校、官立高等農業学校4校、官立高等商業学校7校、外国語学校1校、薬学専門学校1校の新設、帝国大学4学部の設置、医科大学5校の昇格、商科大学1校の昇格であり、その後この計画はほぼ実現された。これらの官立高等教育機関の大半は、地方都市に分散設置された。
また私立大学では大正9年(1920年)に大学令の厳しい要件にも関わらず、慶應義塾大学、早稲田大学、明治大学・法政大学・中央大学・日本大学・國學院大學・同志社大学の旧制大学への昇格が認可され、その後も多くの私立大学が昇格した。
この高等教育拡張政策は第一次世界大戦の好景気を背景とした高等教育への、求人需要、志願需要の激増に応えたものである。そして高等教育拡散は高等遊民の増加を招き、皇室への危険思想につながるとしてこれに反対した山縣有朋を説得したものであった。
さらに、軍事費にも多額の予算を配分し、大正9年(1921年)予算は同6年(1917年度)予算の2倍を超える15億8,000万円にまで膨れ上がった。多額の公債発行を前提とする予算案には野党憲政会、貴族院から多くの反対意見が上がった。
また原は、地方への利益還元を図って政友会の地盤を培養する一方で、同党の支持層に見合った規模での選挙権拡張を行っている。大正8年(1919年)には衆議院議員選挙法を改正し、小選挙区制を導入すると同時に、それまで直接国税10円以上が選挙人の資格要件だったのを3円以上に引き下げた。翌年の第42帝国議会で、憲政会や立憲国民党から男子普通選挙制度導入を求める選挙法改正案が提出されると、原はこれに反対して衆議院を解散し、小選挙区制を採用した有利な条件の下で総選挙を行い、単独過半数の大勝利を収めた。
首相就任前の民衆の原への期待は大きいものだったが、就任後の積極政策とされるもののうちのほとんどが政商、財閥向けのものであった。また、度重なる疑獄事件の発生や民衆の大望である普通選挙法の施行に否定的であったことなど、就任前後の評価は少なからず差がある。普通選挙法の施行は、憲政会を率いた加藤高明内閣を待つこととなる。
原は政友会の政治的支配力を強化するため、官僚派の拠点であった貴族院の分断工作を進め、同院の最大会派である「研究会」を与党化させた。このほか、高級官僚の自由任用制の拡大や、官僚派の拠点であった郡制の廃止、植民地官制の改正による武官総督制の廃止などを実施し、反政党勢力の基盤を次第に切り崩していった。しかし、一方で原は反政党勢力の頂点に立つ元老山縣との正面衝突は注意深く避け、彼らへの根回しも忘れなかった。このように、原は卓越した政治感覚と指導力を有する政治家であった。
大正10年(1921年)11月4日、関西での政友会大会に出席のため側近の肥田琢司らと東京駅に到着直後、国鉄大塚駅転轍手であった中岡艮一により殺害されほぼ即死(原敬暗殺事件参照)。享年66。戒名は大慈寺殿逸山仁敬大居士[4]。
原の政治力が余りに卓抜していたために、原亡き後の政党政治は一挙にバランスを失ってしまった。病床にあった山縣も嘆きが大きく、翌年2月に病没した。
山縣有朋は原の死に衝撃を受けたあまり発熱し、夢で原暗殺の現場を見るほどであった。その後「原という男は実に偉い男であった。ああいう人間をむざむざ殺されては日本はたまったものではない」と嘆いている[6]。
『原敬日記』は、一般には明治8年(1875年)に帰省した際の日記から、暗殺直前の大正10年(1921年)10月25日までに書かれた日記の総称であるが、原が暗殺を予期し認めた遺書の中で「当分世間に出すべからず」と厳命(宮中某重大事件や大正天皇の病状問題の記述が考慮されると考えられる)した。実際初刊は、没後30年近くを経た1950年-51年に、乾元社全9巻であった。近年は、原が大正天皇と近かったことから、大正天皇と『原敬日記』の関係についても研究されている。
原家
位階
勲章
外国勲章佩用允許
新渡戸稲造
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新渡戸稲造
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1933年頃に撮影
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生誕
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遠益、こと
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国際連盟事務次長も務め、著書 Bushido:
The Soul of Japan(『武士道』)は、流麗な英文で書かれ、長年読み続けられている。日本銀行券のD五千円券の肖像としても知られる。東京女子大学初代学長。東京女子経済専門学校(東京文化短期大学・現:新渡戸文化短期大学)初代校長。
目次
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陸奥国岩手郡(現在の岩手県盛岡市)に、藩主南部利剛の用人を務めた盛岡藩新渡戸十次郎の三男として生まれる。幼名は稲之助。新渡戸家には西洋で作られたものが多くあり、この頃から稲之助は西洋への憧れを心に抱いたという。やがて作人館(現在の盛岡市立仁王小学校)に入り、その傍ら新渡戸家の掛かり付けの医者から英語を習う。祖父は江戸で豪商として材木業で成功し、再び盛岡藩に戻り新渡戸家の家計を大いに助けた。明治天皇の巡幸の際に、新渡戸家でご休息なさった陛下の御前に跪いた稲之助に、父祖伝来の生業を継ぎ農業に勤しむべしとの主旨の御言葉を賜り、以後農政を志すようになったという。
東京に着くと、稲造は叔父の洋服店を訪ね、養子となって太田稲造と名のるようになった。まず英語学校で英語を学び、翌年には元盛岡藩主南部利恭が経営する「共慣義塾」という学校に入学して寄宿舎に入るが、授業があまりにも退屈なために抜け出すことが多かったという。この日頃の不真面目さが原因で、叔父からは次第に信用されなくなっていった。それは、ある日の冬に自分の小遣いで手袋を買ったにもかかわらず、「店の金を持ち出した」と疑われるほどであったという。それからというもの、稲造は人が変わったように勉強に励むようになった。
13歳になった頃、できたばかりの東京英語学校(後の東京大学)に入学する。ここで稲造は佐藤昌介と親交を持つようになり、暇を見つけては互いのことを語るようになる。この頃から稲造は自分の将来について真剣に考えるようになり、やがて農学の勉強に勤しむことを決意する。
内村鑑三、宮部金吾と共に札幌農学校時代
札幌農学校(後の北海道大学)の二期生として入学する。農学校創立時に副校長(事実上の校長)として一年契約で赴任した「少年よ大志を抱け」の名言で有名なウィリアム・クラーク博士はすでに米国へ帰国しており、新渡戸たちの二期生とは入れ違いであった。在学中、札幌丘珠事件が発生し、解剖担当者にあたったという。稲造は祖父[1]達同様、かなり熱い硬骨漢であった。ある日の事、学校の食堂に張り紙が貼られ、「右の者、学費滞納に付き可及速やかに学費を払うべし」として、稲造の名前があった。その時稲造は「俺の生き方をこんな紙切れで決められてたまるか」と叫び、衆目の前にも関わらず、その紙を破り捨ててしまい、退学の一歩手前まで追い詰められるが、友人達の必死の嘆願により何とか退学は免れる。他にも、教授と論争になれば熱くなって殴り合いになることもあり、「アクチーブ」(アクティブ=活動家)というあだ名を付けられた。
クラークは一期生に対して「倫理学」の授業として聖書を講じ、その影響で一期生ほぼ全員がキリスト教に入信していた。二期生も、入学早々一期生たちの「伝道」総攻撃にあい続々と入信し始め、一人一人クラークが残していった「イエスを信ずるものの誓約」に署名していった。農学校入学前からキリスト教に興味をもち、自分の英語版聖書まで持ち込んでいた稲造は早速署名し、後日、同期の内村鑑三(宗教家)、宮部金吾(植物学者)、廣井勇(土木技術者)らとともに、函館に駐在していたメソジスト系の宣教師メリマン・ハリスから洗礼を受けた。クリスチャン・ネームは「パウロ」であった。この時にキリスト教に深い感銘を受け、のめり込んで行く。学校で喧嘩が発生した際、「キリストは争ってはならないと言った」と仲裁に入ったり、友人たちから議論の参加を呼びかけられても「そんな事より聖書を読みたまえ。聖書には真理が書かれている」と一人聖書を読み耽るなど、入学当初とは似ても似つかない姿に変貌していった。その頃のあだ名は「モンク(修道士)」で、友人の内村鑑三等が「これでは奴の事をアクチーブと言えないな」と色々と考えた末に決めたあだ名である。
この頃から稲造は目を悪くし、眼鏡をかけるようになった。やがて眼病を患い、それが悪化して勉強への焦りから鬱病までもを患ってしまう。数日後、病気を知った母から手紙が送られてきて、1880年7月に盛岡へと帰るが、母は三日前に息を引き取っていた。それは稲造にとってあまりにも大きすぎる悲しみであったがため、鬱病がさらに悪化してしまった。その後、母の死を知った内村鑑三からの激励の手紙によって立ち直り、病気の治療のために東京へ出る。その後、洗礼を授けたハリスと横浜にて再会し、『サーター・リサータス』(Sartor Resartus)という一冊の本を譲り受ける。この本は稲造の鬱病を完全に克服し、やがては稲造の愛読書となり生涯に幾度となく読み返した。
農学校卒業後、級友達とともに道庁に奉職し、畑の作物を食い散らすイナゴの大群を退治するためにあちらこちらの農村を駆け巡るが、学問を志して帝国大学(のち、東京帝国大学、東京大学)に進学。しかし当時の農学校に比べ、東大の研究レベルの低さに失望して退学する。1884年(明治17年)、「太平洋の架け橋」になりたいとアメリカに私費留学し、ジョンズ・ホプキンス大学に入学。この頃までに稲造は伝統的なキリスト教信仰に懐疑的になっており、クエーカー派の集会に通い始め正式に会員となった。クェーカーたちとの親交を通して後に妻となるメアリー・エルキントン(日本名・新渡戸万里子)と出会う。米国の某地で日本についての講演をした際に、聴衆の一人であったメアリー・エルキントンが稲造を見初めて告白をしたという。
その後札幌農学校助教授に任命され、ジョンズ・ホプキンス大学を中途退学して官費でドイツへ留学。ボン大学などで聴講した後、ハレ大学(現マルティン・ルター大学ハレ・ヴィッテンベルク)より農業経済学の博士号を得る。そのいきさつとして、米国留学にて農業を経済学と結び付けて考える必要を感じた稲造は、独学で社会科学を学び新たな学問を創設しようと試みたのであるが、ドイツ留学にて農政学が既にゴルツやブッヘンベルゲルにより創始されていたことを知った。この間、『女学雑誌』にドイツから女性の摂取すべき栄養や家政学についての寄稿を行っている(巌本善治は文中で新渡戸を「社友」と評している他、帰国後に新渡戸は巌本が主催する明治女学校で講演を行っており、その内容も『女学雑誌』に収められている)。帰途、アメリカでメアリーと結婚して、1891年(明治24年)に帰国し、教授として札幌農学校に赴任する。この間、新渡戸の最初の著作『日米通交史』がジョンズ・ホプキンス大学から出版され、同校より名誉学士号を得た。だが、札幌時代に夫婦とも体調を崩し、農学校を休職してカリフォルニア州で転地療養した。
この間に名著『武士道』を英文で書きあげた。日清戦争の勝利などで日本および日本人に対する関心が高まっていた時期であり、1900年(明治33年)に『武士道』の初版が刊行されると、やがてドイツ語、フランス語など各国語に訳されベストセラーとなり、セオドア・ルーズベルト大統領らに大きな感銘を与えた。日本語訳の出版は日露戦争後の1908年のことであった。新渡戸の『武士道』は読み継がれ、21世紀に入っても解題書が出版され続けている[2]。
台湾総督府の民政長官となった同郷の後藤新平より1899年(明治32年)から2年越しの招聘を受け、1901年(明治34年)に農学校を辞職して、台湾総督府の技師に任命された。赴任を請われた時、1日1時間の昼寝を赴任条件とした[3]。民政局殖産課長、さらに殖産局長心得、臨時台湾糖務局長となり、児玉源太郎総督に「糖業改良意見書」を提出し、台湾における糖業発展の基礎を築くことに貢献した[4][5]。
その後、1903年(明治36年)には京都帝国大学法科大学教授を兼ね、台湾での実績をもとに植民政策を講じた。1906年(明治39年)、京都帝国大学より植民政策の論文で法学博士の学位もうけた。同年、牧野伸顕文相の意向で、日露戦争後の日本のリーダー育成にふさわしい人物として、新渡戸は東京帝国大学法科大学教授との兼任で、第一高等学校校長となった(1906-1913年)。それまでの東洋的文化色が強かった同校に、西洋色を取り入れようと努めた。愛読書でもあるカーライルの『衣服哲学』の読書を学生に薦めるなどした。その新たな学風づくりの試みは、河合栄治郎などに影響を与えた。1911~1912年、日米交換教授の制度創設により、アメリカで日本理解の講義を行うため、渡米。帰国後、健康を害したこともあって、1913年に一高校長を辞職。東京植民貿易語学校校長、拓殖大学学監、東京女子大学学長などを歴任。その他、津田梅子の津田塾に対しても顧問を務めており、津田亡き後の学園の方針を決定する集会は新渡戸宅で開かれた。
1909年(明治42年)、新渡戸の提唱で「郷土会」が発足した。自主的な制約のない立場から各地の郷土の制度、慣習、民間伝承などの事象を研究し調査することを主眼とした。メンバーには、柳田國男、草野俊介(理学博士)、尾佐竹猛(法学博士)、小野武夫(農学博士)、石黒忠篤、牧口常三郎、中山太郎(民俗学者)、前田多門らが加入していた。
1920年(大正9年)の国際連盟設立に際して、教育者で『武士道』の著者として国際的に高名な新渡戸が事務次長のひとりに選ばれた[6]。新渡戸は当時、東京帝国大学経済学部で植民政策を担当していたが辞職し、後任に矢内原忠雄が選ばれる。新渡戸らは国際連盟の規約に人種的差別撤廃提案をして過半数の支持を集めるも、議長を務めたアメリカのウィルソン大統領の意向により否決されている。
エスペランティストとしても知られ、1921年(大正10年)には国際連盟の総会でエスペラントを作業語にする決議案に賛同した。しかし、フランスの反対にあい、結局実現しなかった。同年、バルト海のオーランド諸島帰属問題の解決に尽力した。1926年(大正15年)、7年間務めた事務次長を退任した。
1928年(昭和3年)、札幌農学校の愛弟子であった森本厚吉が創立した東京女子経済専門学校(のち新渡戸文化短期大学)の初代校長に就任。1929年(昭和4年)、学監を務めた拓殖大学から名誉教授号を受ける。
札幌農学校時代の仲間と共にメリマン・ハリスの参り。1928年
1932年(昭和7年)、上海事変の直後の2月4日、地元新聞記者を前にオフレコで語った内容「近頃、毎朝起きて新聞をみると、思わず暗い気持ちになってしまう。わが国を滅ぼすものは共産党か軍閥である。そのどちらが恐いかと問われたら、今では軍閥と答えねばなるまい。軍閥が極度に軍国主義を発揮すると、それにつれて共産党はその反動でますます勢いを増すだろう。共産主義思想はこのままでは漸次ひろがるであろう」「国際連盟が認識不足だというのか? だが、いったい誰が国際連盟を認識不足にしたのか? 国際連盟の認識不足ということは、連盟本部が遠く離れているのだから、それはあるだろう。 しかし、日本としては当然、国際連盟に充分認識せしめる手段を講ずべきではなかったか? 上海事件に関する当局の声明はすべて三百代言的というほかはない。私は、満州事変については、われらの態度は当然のことと思う。しかし、上海事件に対しては正当防衛とは申しかねる。支那がまず発砲したというのか? だから、三百代言としか思えぬというのだ」との発言が新聞紙上に取り上げられ、当時、日本の海軍省によって日本側からの先制攻撃ではなかったとの発表がなされていたこともあり、軍部や在郷軍人会や新聞等マスメディアから激しい非難を買い、多くの友人や弟子たちも去る。同年、反日感情を緩和するためアメリカに渡り、日本の立場を訴えるが、満洲国建国と時期が重なったこともあって「新渡戸は軍部の代弁に来たのか」とアメリカの友人から反発を受け、失意の日々だった。
翌1933年(昭和8年)、日本が国際連盟脱退を表明。その年の秋、カナダのバンフで開かれた太平洋問題調査会会議に、日本代表団団長として出席するため渡加した。会議終了後、当時国際港のあった西岸ビクトリアで倒れ、永眠する。
新渡戸稲造と妻メアリー
キリスト教徒(クエーカー)として知られ、一高の教職にある時、自分の学生達に札幌農学校の同期生内村鑑三の聖書研究会を紹介したエピソードもある。その時のメンバーから矢内原忠雄、高木八尺、南原繁、宇佐美毅、前田多門、藤井武、塚本虎二、河井道などの著名な教育者、政治家、聖書学者らを輩出した。
妻メアリー・エルキントン
1891年(明治24年)にアメリカ人女性メアリー・エルキントン(Mary
P. Elkinton 日本名:万里子)とフィラデルフィアで結婚している。二人の間には遠益(とおます)という長男が生まれたが生後8日で夭折している。養子に孝夫(よしお)がいる。
祖父の新渡戸傳は、幕末期に荒れ地だった南部盛岡藩の北部・三本木原(青森県十和田市付近)で灌漑用水路・稲生川の掘削事業を成功させ、稲造の父・十次郎はそれを補佐し産業開発も行った。傳は江戸で材木業を営み成功するといった才能もあった。この三本木原の総合開発事業は新渡戸家三代(稲造の祖父・傳、父・十次郎、長兄・七郎)に亘って行われ、十和田市発展の礎となっている。このように新渡戸家は稲造だけでなく傳を始めとした英才を輩出していたが、必ずしも恵まれた境遇ではなかった。稲造の曾祖父で兵法学者だった新渡戸維民(これたみ)は藩の方針に反対して僻地へ流され、祖父・傳も藩の重役への諌言癖から昇進が遅く、御用人にまでのぼりつめた父・十次郎もまた藩の財政立て直しに奔走したことが裏目に出て蟄居閉門となり、その失意のあまり病没している。
Bushido: The Soul of Japan (1900)
Inazo Nitobe (1900). Bushido: the soul of
Japan, an exposition of Japanese thought. Philadelphia: The Leeds and Biddle
Company.
『世渡りの道』文藝春秋〈文春学藝ライブラリー〉、2015年。
1911年発刊『修養』(実業之日本社)の前半部分、総説
- 第九章に当たる。
※その他、様々な出版社から新版再刊されている。
『新渡戸稲造全集』全23巻別巻2、教文館、1987年完結
^ 組織の上で事務総長に次ぐ地位にあったのは
Deputy Secretaries-general(総長代理)とUnder-Secretaries-General(事務次官)で、それぞれ複数任命されていた
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