武田氏滅亡  武田氏滅亡  2017.8.10.

2017.8.10. 武田氏滅亡

著者 平山優 1964年東京都生まれ。立教大大学院文学研究科博士課程前期課程史学専攻(日本史)修了。専攻は日本中世史。山梨県埋蔵文化財センター文化財主事、山梨県史編纂室主査。山梨大非常勤講師。山梨県立博物館副主幹を経て、山梨県立中央高校教諭。2016年放送のNHK大河ドラマ《真田丸》の時代考証担当

発行日           2017.2.24. 初版発行                   2017.4.10. 3版発行
発行所           角川書店

武田信玄の後継者である勝頼は、天正10311日、織田・徳川・北条の侵攻を受けて滅亡した。戦国の雄・武田氏はなぜ亡国へと追い込まれていったのか。勝頼個人の「暗愚」な資質に原因を求める見方は正しいのか――。甲相越3国和睦構想、御舘(おたて)の乱、高天神城攻防戦という長篠敗戦後の転換点を主軸に、史料博捜と最新研究から、詳述されてこなかった勝頼の成果と蹉跌を徹底検証。戦国史研究に新たなる足跡を刻む決定版!


序章 諏方(すわ)勝頼から武田勝頼へ
1546年 信玄の4男として誕生 ⇒ 元々同盟関係にあった信玄と諏方家だったが、諏方家が佐久に侵攻してきた関東管領上杉と単独講和を結んだことから信玄が同盟違反として攻撃、諏方家を破った後の始末として、諏方の娘を息女とし、そこに生まれた勝頼を諏方の養子としようとしたことから、勝頼だけは諱(いみな)に武田家の通字「信」ではなく諏方家の通字「頼」が冠せられた
永禄11年 信玄は、それまでの甲(武田)(北条)駿(今川)3国同盟を破って駿河今川に侵攻 ⇒ 今川領国の内乱につけ入ったもので、その後飛騨に侵攻、織田に接近するが、織田は上杉と武田の反目維持を狙って謙信に秋波、永禄8年には織田と武田の軍事衝突に発展するが、大事に至らずお互い同盟締結に向け勝頼の下へ信長の養女を輿入れさせ婚姻関係を結んだ事が、それまで不仲だった信玄と母も今川家から来ているうえに今川当主の妹を妻とする嫡男義信との間の亀裂を決定的なものとし、義信は信玄暗殺を企たため、幽閉され永禄10年死去。今川氏は、義信の死去で信玄による侵攻を危惧し、上杉との同盟交渉に入ったことから、信玄は今川領の分割を前提に織田・徳川との密約を結ぶ
信玄の今川攻めに怒った北条氏康は、謙信と同盟して信玄を牽制、さらに信玄の領土拡大に徳川が不信を抱いた結果、信玄は信長を通じて将軍・義昭に謙信との和睦斡旋を依頼
永禄12年には甲越和与が成立、謙信は北条氏からの秋波を拒絶したため、北条氏が孤立
謙信が越相同盟の強化を決意、北条氏は景虎を人質として謙信の下に送るが、その時には武田の優位が動かぬ事態になっていて、信玄によって完全に駆逐される
元亀2年勝頼は、信玄の下に後継者として迎えられ、武田勝頼となる
信玄は、甲尾同盟が継続中も、家康と謙信の同盟成立や信長の上杉接近を嫌って、信長打倒を模索、次なる軍事路線を西に向けることを決意、その対象を織田・徳川に絞る
元亀3年信玄は徳川を攻めて、家康の居城浜松城に迫ると、甲越同盟を斡旋した信長は前代未聞の無道と激怒、二度と信玄と手を結ぶことはないと言った
一揆も含め、情勢は武田軍に有利であり、信玄は三方ヶ原に徳川・織田軍を撃破、将軍義昭も武田方に入って挙兵するが、信玄病気により長篠城に籠ったまま動きを止め、翌年死去(享年53)

第1章        長篠合戦への道
勝頼は、信玄の死を遺言によって3年間秘匿し、病気のため隠居、家督を相続した旨を内外に宣言するとともに、内政に専念
勝頼と信玄以来の重心との間がしっくりいかず、政権基盤は脆弱 ⇒ 信玄の遺言では、勝頼は嫡男成人までの繋ぎとされていた
勝頼の家督相続に続いて、従属していた境目の国衆が相次いで離反、浅井・朝倉らの同盟国が信長の侵攻によって滅亡、武田氏を取り巻く環境は激変
1574(天正2)勝頼は、東美濃に向け軍事行動開始、徐々に織田・徳川の核心に迫り、信長も勝頼の力を見直す。続いて翌年、信玄の3回忌を待たず三河国足助口に侵攻、長篠城を攻めるが、京都で三好康長を破って義昭に与する勢力を一掃した信長が家康に鉄砲3千挺を含む援軍を出したため、武田軍は1万を超える死者を出し退却を余儀なくされ、勝頼は信濃経由甲府に帰陣
弱体化した家臣団や領国支配機構と軍団の再編制を急ぎ、敵味方双方から質の低下を揶揄されながらも、僅か2か月余りで軍勢の再興に成功する

第2章        織田・徳川の攻勢と武田勝頼
長篠の合戦から6か月後には、家康が遠江・駿河の武田領に侵攻 ⇒ 今川の当主も参戦
家康軍は天竜川東岸の二股城を占拠
天正3年と4年の2度にわたって、信長によって堺に追い詰められた将軍義昭が勝頼に命じて謙信・本願寺との和睦を交渉、4年には北条氏も入れた甲相越3国和睦同盟へと発展するが、謙信が北条氏との同盟に断固反対したため実現せず

第3章        甲相越3国和睦構想と甲相同盟
義昭は、信長に追われた後、再起を期して最初は毛利氏を頼ったが、毛利は信長との衝突を恐れ支援を逡巡した結果、義昭は直接武田と謙信を頼って動き始める
3国和睦構想に関連して、信玄の息女の北条氏政夫人の離別と死去以来疎遠となっていた両家の関係強化を期して、勝頼は北条氏政の妹を正室として娶る
勝頼は、二股城に代わる武田方の砦となった高天神(たかてんじん)城の防衛強化を急ぐ
大井川を挟んでの進退

第4章        御舘の乱と武田勝頼
謙信との断交と甲相同盟、さらには武田・上杉と毛利の連携などから、包囲網の危機感を抱いた信長は、北関東諸大名との連携に動き、北条を明確に敵と認定し、関東出兵を仄めかして諸大名を動かすが、結局は間にある武田が邪魔して出兵は実現せず
天正6年謙信急死(享年49) ⇒ 北条領国への侵攻の出陣を前にしてのこと
謙信が想定していた後継者については、古来から諸説あり ⇒ 元々は景勝単独指名とされていたが、戦後の研究で景虎という説が有力となり、後継者問題と後継者争いとなった御館の乱をどう解釈するかが、東国戦国史のその後の展開の解釈を大きく左右する
景勝は、上田衆に守られてただちに春日山城に入り封鎖したため、景虎との戦端が開かれる ⇒ 御館の乱と言われ、正確な経緯、日時は不詳であり、後世の創作の可能性が高い
実際の御館の乱は、景勝の統制強化に対する越後国衆の謀叛で、反景勝の後ろに前関東管領の上杉憲政がいて、場合によっては景勝に代わって景虎を擁立するとして、景虎を春日山城から御館に移した
越後の内乱(御館の乱)は、戦後史の流れを大きく変動させるきっかけとなる。その過程で、勝頼と北条氏の甲相同盟は破綻し、それが武田氏滅亡への流れを形作る
従来の通説は、氏政が勝頼の後ろで越後攻めをけしかけたことに不信感を持った勝頼が景勝の和睦申請を受諾したと言われてきたが、氏政は謙信との間で北関東の領国を巡って争いが続いており、北関東を落とした後上越国境から越後に侵入したが冬に入って降雪を恐れ撤退
勝頼は、信濃から越後を狙って侵攻、景虎との共同作戦を意図したことから、景勝は最大のピンチに陥り、乾坤一擲の賭けに出て勝頼への和睦打診となる
元々勝頼の出陣は、景勝と景虎の和睦斡旋が目的であり、景勝との甲越同盟も、景虎との戦は除く軍事同盟 ⇒ 勝頼にとっては信長を意識したもの
景勝と景虎の和睦は、結局失敗に帰し、景虎は実兄である北条氏政と連携して景勝と対峙するが、冬になって氏政が兵を引き揚げると劣勢となり、降伏を進めた憲政も景勝の配下に殺害され、景虎も最後は追い詰められて自刃
景勝は勝頼の妹菊姫を娶り、甲越同盟が始まるとともに、勝頼と北条氏との間の領国争い勃発から甲相同盟は破綻していく

第5章        甲相同盟の決裂と武田勝頼
景勝は越後平定を成し遂げ、さらに北関東へと進出を図る
一方で、氏政と勝頼は東上野を巡って領有権争いが本格化、勝頼は常陸の佐竹氏と連携して氏政に対抗
氏政は、織田・徳川との和睦を図る ⇒ 徳川を通じて織田との同盟関係を結ぶことが狙いで、織田の息女が北条に輿入れすることになっていたが、途中で勝頼が死んだため、織田にとって北条との同盟は不必要となり実現せず

第6章        苦悩する武田勝頼
勝頼は、東上野への攻勢を強め、劣勢となった北条氏は徳川・織田との間に同盟を結ぶ
それを知った勝頼は、織田との同盟に走るが、当初本願寺派との対立や、毛利を後ろ盾にした播磨・摂津の勢力に対抗するために東での安定を求めていたところから勝頼も同盟の誘いをかけたものの、天正7年末になると織田側にその必要がなくなり頓挫
天正7年末武田家当主交代し、勝頼はご隠居様となる ⇒ 家督を継いだ信勝は、甲尾同盟の際勝頼に輿入れしてきた織田の養女を母とするところから、織田方への秋波を意識したものであり、同時に人質として武田氏の下にあった信長の5(実は4)源三郎を送還

第7章        武田勝頼と北条氏政の死闘
北条氏との死闘を展開している間に、徳川によって、遠江の最大拠点高天神城が陥落 ⇒ 勝頼は信長との和睦交渉に期待して、援軍すら送らず

第8章        斜陽
天正9(1581)東上野で北条氏が逆襲 ⇒ 沼田城の反乱が転機、以後武田氏への謀叛が続く
勝頼は、甲府から韮崎に本拠を移転 ⇒ 勝頼は在位10年の間、常に「懺人」を登用して政治を乱し、一族の諫言を聞かなかったという。その極めつけが新府城移転であり、武田一族は新府に屋敷を建設しなかったし、敵軍が四方から攻めてきたときも勝頼を守るために動こうとしなかったという
天正8年本願寺との10年戦争を終結させた信長は、武田氏攻略に向けて動き出す
武田・上杉が織田・徳川に追い詰められているころ、石山本願寺で徹底抗戦を続けた高僧・教如が信長打倒の執念で全国の一向宗集団をまとめ勝頼を頼るが、信長の武田氏攻撃が始まってしまったため、全国の一向宗徒に呼び掛けて勝頼を支援しようとしたが間に合わず

第9章        武田氏滅亡
天正10年信玄の娘婿だった信濃国木曽郡の木曾義昌が信長方に寝返り、その討伐のために勝頼出陣したのに対し、信長も安土より武田領国への侵攻について各方面に指示
浅間山が48年ぶりの大噴火 ⇒ 信長はこれを大吉事と捉え、武田氏を「東夷」「朝敵」と指弾、噴火によって武田氏を守護する神々がすべて吹き飛んだと喧伝。甲斐・信濃を始めとする東国でも異変が起こるときには、浅間が噴火すると信じられてきた
駿河国にいた武田一族の穴山梅雪が織田・徳川軍に内通するに及んで、勝頼は本国甲斐が危うくなるところから新府城に撤退するも、重臣たちにまで見放された
武田氏滅亡の地は「天目山」と言われるが、「天目山」とは天目山棲雲(せいうん)寺のある地域一帯の名であって山の名前ではなく寺院の名であり、実際に勝頼主従と戦って滅ぼした滝川一益が戦った地は「田野」であり、棲雲寺と木賊(とくさ)村のある一帯の山の名前を木賊山といいその麓の地であることは間違いなく、「天目山の戦い」という呼称は誤りであり、本書では武田氏最期の合戦を「田野合戦」と呼ぶ
勝頼父子と北条夫人が自刃したとされる場所には、菩提寺の天童山景徳院があり、勝頼一族と家臣、侍女らの墓所がある
武田氏の領国でも、後難を避けるためには、武田方に敵対したという事実を織田方にアピールしなければならなかったため、逃避行には予想外の困難があり、韮崎から甲府に落ちる過程はさらに悲惨で、田野に落ちたときはまさに進退窮まった状態
ただし、勝頼の最期は、自刃説と戦死説が対立したままで、今も謎のまま
殉死者には、勝頼の高遠時代以来の家臣が多く、そのほかに諏方衆もいるが、武田譜代が少ないことから、勝頼はやはり武田勝頼ではなく、どこまでも諏方勝頼としての運命を背負っていたとの印象が強い

第10章     勝者のふるまい
織田信忠は、甲府で勝頼父子の首実検をして、東美濃にいた信長に報告、信長は喜んで狂歌を詠む:「かつよりとなのる武田のかいもなくいくさにまけてしなのなけれは」
父子の首級は飯田に運ばれて晒された後、京都に運び獄門に処せられた
信長は、高遠城に入り論功行賞を行う ⇒ 最初に伺候したのが木曾義昌、次いで家康と、家康について謁見した武田一族の穴山梅雪で、本領安堵を承認してもらう
信長が諏方に滞陣していた時の逸話として巷間伝えられるのが、明智光秀の打擲(ちょうちゃく)事件で、勝頼を破った後の祝宴で光秀が信長に祝辞を述べた際、我らが骨を折った甲斐があったと言ったことが信長の癇に障り、光秀がどこで骨を折って武功を立てたのかと面罵し、欄干に頭を押し付けて打擲したという。光秀は武田氏滅亡の1か月前頃から勝頼に内通して信長打倒のための協力を要請していたという話があり、勝頼は先年同じ様に信長の武将から謀叛を持ち掛けられて乗ったために酷い打撃を受けており、光秀の話を一蹴。光秀は、穴山梅雪が信長に従属したことから、内通の事実が露見することを恐れ、謀叛に踏み切る決心をしたとも期されている。それぞれの逸話は信用できないとしても、光秀が信長に怨恨を持つに至ったきっかけの1つが対武田戦であったことは事実だろう
信長の下に出仕する武田氏の旧臣が相次ぎ、勲功に従って新たな知行割が行われ、武田領国は完全に解体されたが、武田氏滅亡の直前に参戦した氏政は完全に無視され、贈答品も全て突き返されたという
注目すべきは徳川家康が駿河1国を知行として宛がわれ、それまでの同盟者の位置から、完全に織田一門格の大名になりつつあり、戦後の知行で信長との主従制下に組み込まれ、完全に織田大名になったこと
その後、厳しい残党狩りが行われ、信玄登用の譜代、甲斐の有力国衆はほぼ族滅
信長は武田解体の後、いよいよ毛利攻めに邁進、子息や家臣らには四国長宗我部や上杉景勝征討を委ね、天下統一を目指すが、6月本能寺の変にて横死を遂げる ⇒ 武田滅亡よりわずか80日後

終章 残響
勝頼ほかの首級の行方 ⇒ 天下に仇なす者が討たれると京都で晒されるのが慣例で、信長は慣例に従ったが、3日間晒された後播磨国に送られて晒される予定だったが、武田氏に庇護された臨済宗の高僧らが奔走した結果沙汰止みになった。播磨国で晒すのは、毛利氏に対し武威を示すための政治的パフォーマンスだったのかもしれない




武田氏滅亡 平山優著 悲運の武将勝頼の軌跡追う
2017/5/27付 日本経済新聞
有力な戦国大名だった甲斐の武田氏。一般には長篠合戦で織田・徳川連合軍に勝頼が大敗したことで弱体化し滅亡に至ったと思われているが、ことはそう単純ではない。偉大な父・信玄と比較され、後に暗愚とも評された勝頼だったが、長篠合戦で有力な家臣を失いながらも軍団再編に力を注ぎ、一時は信玄時代よりも広大な領国を誇った。
 では、武田氏はなぜ滅んだのか。日本中世史が専門で『長篠合戦と武田勝頼』『検証 長篠合戦』でこうした歴史論争に一石を投じた著者が本書では主に長篠合戦後の勝頼の軌跡を追った。滅亡の要因を安易に示すことは避け、東国戦国史の最新研究を踏まえつつ、事実関係を丹念に積み上げていく。
 信長に対抗するため足利義昭がもくろんだ「甲相越三国和睦構想」や隣国・上杉氏で謙信の死後起きた跡目争い「御館の乱」などに勝頼がどのように臨んだかを詳述。諸勢力の利害関係が交錯し流動する情勢下では歴史の流れにあらがいようがなく、「あとがき」にも記されたように、勝頼には「運がなかった」としか言いようがない。
 近年「織田信長=革命児」といった後世に定着した見方を覆す歴史研究が増えている。750ページに及ぶ大部となった本書は、勝頼再評価の流れを加速させそうだ。(KADOKAWA・2800円)


Wikipedia
武田 勝頼(たけだ かつより) / 諏訪 勝頼(すわ かつより)は、0-6から07にかけての60の戦国大名甲斐武田家20代当主。
通称は四郎。当初は諏訪氏(高遠諏訪氏)を継いだため、諏訪四郎勝頼、あるいは信濃国伊那谷高遠城主であったため、伊奈四郎勝頼ともいう。または、武田四郎、武田四郎勝頼とも言う。「頼」は諏訪氏の通字で、「勝」は信玄の幼名「勝千代」に由来する偏諱であると考えられている。父・信玄は足利義昭官位偏諱の授与を願ったが、織田信長の圧力によって果たせなかった。そのため正式な官位はない。
概要[編集]
信濃への領国拡大を行った武田信玄の庶子として生まれ、諏訪氏を継ぎ高遠城主となる。武田氏の正嫡である武田義信が廃嫡されると継嗣となり、元亀4年(1573)には信玄の死により家督を相続する。
強硬策を以て領国拡大方針を継承するが、天正3年(1575)の長篠の戦いにおいて織田・徳川連合軍に敗退したことを契機に領国の動揺を招き、その後の上杉氏との甲越同盟佐竹氏との甲佐同盟で領国の再建を図り、織田氏との甲江和与も模索し、甲斐本国では新府城への府中移転により領国維持を図るが、織田信長の侵攻(甲州征伐)により、天正10年(1582年)311日、嫡男・信勝とともに天目山で自害した。これにより平安時代から続く甲斐武田氏は(戦国大名家としては)滅亡した。
近世から近現代にかけて神格・英雄化された信玄との対比で、武田氏滅亡を招いたとする否定的評価や、悲劇の当主とする肯定的評価など相対する評価がなされており、武田氏研究においても単独のテーマとしては扱われることが少なかったが、近年では新府城の発掘調査を契機とした勝頼政権の外交政策や内政、人物像など多様な研究が行われている。
生涯[編集]
出生から武田家世子へ[編集]
天文15年(1546)、武田晴信(信玄)の四男として生まれる。生誕地や生月日、幼名は不明。母は信虎後期から晴信初期に同盟関係であった信濃国諏訪領主・諏訪頼重の娘・諏訪御料人(実名不詳、乾福院殿)。
武田氏は勝頼の祖父にあたる信虎期に諏訪氏と同盟関係にあったが、父の晴信は天文10年(1541年)6月に信虎を追放する形で家督を相続すると諏訪氏とは手切となり、天文11年(1542年)6月には諏訪侵攻を行い諏訪頼重・頼高ら諏訪一族は滅亡する[2]。晴信は諏訪残党の高遠頼継らの反乱に対し、頼重の遺児・千代宮丸(寅王丸)を奉じて諏訪遺臣を糾合し、頼継を制圧する。
晴信は、側室として諏訪御料人を武田氏の居城である甲府躑躅ヶ崎館へ迎え、天文15年(1546年)に勝頼が誕生する[3]。頼重遺児の千代宮丸は諏訪惣領家を相続することなく廃嫡されており、同年828日には千代宮丸を擁立していた諏訪満隆が切腹を命じられており[4]、反乱を企てていたと考えられている[5]
躑躅ヶ崎館で母とともに育ったと考えられているが、武田家嫡男の義信や次男・信親(竜宝)に関する記事の多い『高白斎記』においても勝頼や諏訪御料人に関する記事は見られず、乳母傅役など幼年期の事情は不明である。なお、『甲陽軍鑑』では勝頼出生に至る経緯が詳細に記されているが、内容は疑問視されている[6]。信玄が諏訪御料人を側室に迎えることには、武田家中でも根強い反対があったとも考えられている。
信玄は信濃侵攻を本格化して越後国の上杉氏と対決し、永禄5年(1562)には川中島の戦いにおいて信濃平定が一段落している。信玄は信濃支配において、旧族に子女を入嗣させて懐柔する政策を取っており、勝頼の異母弟である盛信は信濃仁科氏を継承して親族衆となっているが、勝頼も同年6月に諏訪家の名跡を継ぎ[注釈 2]、諏訪氏の通字である「頼」を名乗り諏訪四郎勝頼となる(武田氏の通字である「信」を継承していない点が注目される)。勝頼は跡部右衛門尉ら8名の家臣団を付けられ、武田信豊らと共に親族衆に列せられている[8]
勝頼は城代・秋山虎繁(信友)に代わり信濃高遠城主となり、勝頼の高遠城入城に際しては馬場信房が城の改修を行う[8][注釈 3] 勝頼期の高遠領支配は3点の文書が残されているのみで具体的実情は不明であるものの、独自支配権を持つ支城領として機能していたと考えられている。ほか、事跡として高遠建福寺で行われた諏訪御料人の十七回忌や[注釈 4]、永禄7年(1564)に諏訪二宮小野神社に梵鐘を奉納したことなどが見られる。
初陣は、永禄6年(1563)の上野箕輪城攻め(武蔵松山城攻めとも)。長野氏の家臣・藤井豊後が、物見から帰るところを追撃し、城外椿山にて組み打ちを行い討ち取った[9]。その後の箕輪城、倉賀野城攻め等でも功を挙げた。その後、信玄晩年期の戦のほとんどに従軍し、武蔵滝山城攻めでは北条氏照の家老・諸岡山城守と三度槍を合わせたとされ、小田原城攻めからの撤退戦では殿を務め、松田憲秀の家老・酒井十左衛門尉と馬上で一騎討ちを行ったとされる[10]
永禄8年(1565)、異母兄で武田家後継者であった義信の家臣らが信玄暗殺の密謀のため処刑され、義信自身も幽閉されている[8][注釈 5]。同年11月には勝頼と尾張の織田信長養女(龍勝院)との婚礼が進められており、この頃の信玄は従来の北進戦略を変更し、織田家と同盟して信濃侵攻や東海方面への侵攻を具体化しており、家臣団の中にも今川義元の娘を室とする義信派との対立があったという[要出典]。次兄の竜宝は生まれつきの盲目のために出家し、三兄の信之は夭逝していることから、勝頼が信玄の指名で後継者と定められた。
永禄10年(1567)、高遠城で正室の竜勝院殿との間に嫡男・武王丸(信勝)が誕生する。元亀2年(15712月には甲府へ召還され、叔父の武田信廉が高遠城主となっている。同年916日、正室・竜勝院殿が死去している[11][注釈 6] 勝頼は稲村清右衛門尉・富沢平三の両名を高野山成慶院へ派遣し、竜勝院殿の供養を行っている[11]
家督相続[編集]
武田氏は相模後北条氏甲相同盟を結び、諸勢力とともに将軍足利義昭信長包囲網に参加し、元亀3年(1572)には西上作戦を開始するが、勝頼は武田信豊穴山信君とともに大将を努め、同年11月に徳川方の遠江二俣城を攻落し、12月の三方ヶ原の戦いでも織田・徳川連合軍と戦う。
元亀4年(1573412日、信玄が西上作戦の途中で病死したため、武田姓に復し家督を相続し、武田氏第20代当主となる。しかし表向きは信玄が隠居し、勝頼が家督を相続したと発表されていた[注釈 7]
織田・徳川の反攻[編集]
信玄の死により、織田信長徳川家康らは窮地を脱した。そして信長は信長包囲網の一人である足利義昭を河内国に追放した。同年の天正への改元後、さらに越前国近江国に攻め入って朝倉義景浅井長政を滅ぼした。また家康も武田氏に従っていた三河国山間部の山家三方衆奥平貞能貞昌親子を寝返らせるなど、信玄存命中は守勢であった織田・徳川連合軍の逆襲が始まった。
これに対して勝頼は、勢力拡大を目指して外征を実施する。天正2年(15742月、東美濃の織田領に侵攻し、明知城を落とした。信長は嫡男・織田信忠と共に明知城の後詰(援軍)に出陣しようとしたが、それより前に勝頼が明知城を落としたため、信長は岐阜に撤退した。
6月、遠江国の徳川領に侵入し、信玄が落とせなかった高天神城を陥落させて城将・小笠原長忠を降し、東遠江をほぼ平定した(高天神城の戦い)。さらに9月、天竜川を挟んで家康と対陣、その後浜松城に迫り、浜松城下に放火した。
長篠の戦い[編集]
天正3年(1575)、勝頼は先年徳川家康に寝返った奥平親子を討伐するために兵15,000(一説には8,000から1万)を率いて三河国へ侵入し、5月には奥平信昌が立て籠もる長篠城への攻撃を開始する。しかし、奥平勢が善戦する長篠城は武田軍の攻撃を支え、長篠城攻略に時間を費やすこととなる。そして、織田信長・徳川家康の連合軍およそ38,000(一説には織田軍12,000。徳川軍4,000)が長篠(設楽ヶ原)に到着し、馬防柵を含む陣城の構築を開始した。これに対し、勝頼は長篠城の抑えに兵3,000を残し、主力12,000(一説に兵6,000)を率いて設楽ヶ原へ進出し、織田・徳川連合軍と対峙する。長篠決戦前日の戦闘で勝利していたこともあり、武田軍の士気は高かった。しかし、もはや野戦ではなく、むしろ攻城戦に近い状況(攻城戦はより単純な兵力差が影響する)を感じ取った信玄以来の重鎮たちは撤退を進言したという[8]。しかし、勝頼は織田・徳川との決戦を選択し、521日早朝に開戦することとなった。
521日、午前6時頃から午後2時頃まで戦闘は続けられるが、数で劣る武田軍では連合軍防御陣の犠牲となった土屋昌次が戦死する。攻めの勢いを喪失したその後、武田軍は総崩れとなるが、敗走する中で馬場信春、山県昌景内藤昌豊原昌胤真田信綱昌輝兄弟等、将士を失ってしまう。また、本戦に先立つ鳶ノ巣砦の攻防戦では、主将の河窪信実三枝昌貞(守友)などが、その直後に引き続き行われた長篠城近辺の戦闘で高坂昌澄が戦死している。勝頼は菅沼定忠に助けられ一時的に武節城へ篭ったが、伊那郡へ退却した。
この敗北で、武田軍は1万人以上の死傷者(一説には武田家1,000、織田徳川連合軍600の損害)を出したといわれている。
長篠敗戦後の織田・徳川氏の反攻[編集]
長篠の戦いによる敗退後、織田・徳川軍はさらに反攻を強め、奥三河の田峰城・武節城・作手城を奪還。天正3年(1575年)6月に徳川家康は遠江二俣城を包囲し犬居谷の光明城を攻撃した。犬居谷を制圧すれば武田の遠江侵攻ルートと二俣城の補給を遮断することが可能だった。家康旗本衆の活躍により、勝頼から犬居谷防衛を任せられた天野藤秀は光明城を明け渡し撤退した。犬居谷の制圧を終えた家康は高天神城の補給拠点として機能していた諏訪原城を攻撃した。8月には諏訪原城を落城させ牧野原城に改名した。勝頼は戦死した山県昌景の後任として、穴山梅雪を江尻城代とし駿遠の防衛を委ねた。家康が諏訪原城を攻撃した際、2,000の駿河衆が大井河を渡り家康と対峙している。
徳川軍はさらに小山城を包囲するが、勝頼は8月中旬に13,000の兵を率いて小山城へ出兵したため、徳川軍は撤退する。二俣城と高天神城への補給を終えた勝頼は甲府へと帰還した。
長篠合戦以後、三河国から武田方が締め出されたのを皮切りに、天正311月には信長の下命を受けた嫡男・織田信忠を総大将とした織田軍によって東美濃の岩村城を陥落させられ、織田方に降伏した飯田城代・伊那郡代である秋山虎繁は処刑された。遠江国でも、1224日に徳川軍の包囲に耐えかねた二俣城が開城し、依田信蕃が高天神城に撤退したことによって高天神城が孤立した。
翌天正4年(1576)春に勝頼は高天神城救援のため遠江国へ出兵し、徳川方の横須賀城を攻める。『甲陽軍鑑』によれば城主の大須賀康高の抗戦により、勝頼は相良城へ撤兵した。
天正5年(1577)閏7月には徳川家康が高天神城を攻めると、勝頼は719日に出兵し922日に江尻城へ入る。1020日には小山城を経て大井川を越えると、1020日ににおいて徳川方と抗戦する。勝頼は1025日に撤兵している。
天正6年(157833日に徳川家康は駿河田中城を攻撃し、715日には高天神城攻撃の拠点となる横須賀城を完成させている。勝頼が越後上杉氏の御館の乱の発生により信越国境へ出兵中の8月に家康は小山城を包囲し、田中城への攻撃を開始する。このため、勝頼は越後国から撤兵すると、10月に田中城・高天神城へ入る。113日には横須賀城へ侵攻し、家康と抗戦している。その後も両軍は交戦し、1017日には島田、1019日には青島で合戦があり、勝頼は田中城へ撤兵している。
御館の乱と甲相同盟の破綻[編集]
長篠合戦後、武田氏は領国再建のため越後上杉氏・相模後北条氏との同盟強化に着手する。信玄後期に後北条氏とは甲相同盟を復活し、上杉氏とは本格的な軍事的衝突こそないものの緊張関係が続いていた。
天正4年(1576)には安芸国の毛利氏のもとに亡命していた将軍・足利義昭が武田氏(甲斐)・後北条氏(相模)・上杉氏(越後)三者の間で「相越甲三和」の和睦を提唱し、同年613日には勝頼へ義昭書状が届けられた。916日に勝頼は毛利輝元に対して六ヶ条の軍役条目を送り、928日には義昭側近の一色義長に対して、義昭の和睦案の受け入れを表明した。勝頼は上杉氏とは和睦交渉を続け、天正5年(1577)正月22日に北条氏政の妹を後室に迎えるなど、双方と外交関係を強化していたが、上杉・後北条間の外交関係は険悪な状態が続いていた。
翌天正6年(1578313日、越後国で上杉謙信が病死すると、北条氏政の弟(遠縁との説もある)で、上杉氏に養子として出されていた上杉景虎(旧名・北条三郎)と謙信の甥で養子の上杉景勝の間で家督を巡り御館の乱が起こる。勝頼は氏政から景虎支援を要請され、5月下旬には武田信豊らを信越国境へ派遣し、629日には自らも越後国へ出兵し、景勝・景虎間の調停を試みる。景勝方から和睦が持ちかけられると、これを受け入れている[注釈 8]
これにより勝頼は景勝と和睦し、条件であった上杉領を接収すると、一方で景虎方との和睦調停も継続し、819日には春日山城において両者の和睦を成立させる。勝頼は徳川家康の小山城・田中城への攻撃を受けて827日に帰国する。その間に景勝・景虎間の和睦は破綻し、天正7年(1579324日には景勝方の勝利により乱は収束する。
勝頼は乱の終結において明確な景勝支援は行っていないが、これにより後北条氏との関係は険悪化する。同年9月に両者は手切となり甲相同盟は破綻し、領国を接する駿河・伊豆・上野方面において抗争状態に突入する。後北条氏は徳川家康と同盟を結び、駿河国において武田氏は挟撃を受ける事態に陥った。これに対し勝頼は、妹の菊姫を景勝に嫁がせ、上杉との関係を軍事同盟に発展させるが(甲越同盟)、内乱後の深刻な後遺症により上杉領国外への影響力は失っていた。そのため甲越同盟は対北条同盟でなく対織田信長の協約として機能し、勝頼は同年108日に常陸国の太田三楽斎を介して佐竹義重との同盟交渉を試み、甲佐同盟を結ぶ。さらに里見義頼小弓公方らとの連携を模索し後北条氏に対抗する。殊に上野戦線では真田昌幸の活躍もあって北条方を圧倒した。
一方、織田信長との関係は、長篠の戦い以降は小康状態が続いており、勝頼は佐竹義重を介して信長との和睦を模索する(甲江和与)。天正71116日には信長養女を母とする嫡男・信勝への官途奏請を行い、信勝はしている。
徳川・後北条氏との戦い[編集]
天正7年(1579年)2月には上野国厩橋城の城代・北条高広が武田方に降伏している。423日に勝頼は駿河江尻城へ出兵すると、425日には高天神城に近い国安に本陣を置いた。家康は馬伏塚城から見付に本陣を置くと両軍は対峙し、勝頼は427日に国安から撤兵し、429日に大井川を越えると524日に甲府へ帰還した。
前年の御館の乱・甲相同盟の崩壊を経て、天正77月には東上野に出兵し、敵対関係となった北条氏邦と対陣している。『甲陽軍鑑』によれば、氏邦は鉢形・秩父衆を率いて武蔵広木城大仏城を陥落させ、これに対して勝頼は西上野衆を率いて両城の奪還を試みるが、兵を引いている。同年9月には徳川・北条間に同盟が成立し、北条氏政が沼津から三島へ侵攻し、913日に勝頼は駿河黄瀬川において氏政と対陣する。家康も氏政に同調し、当目坂城持船城を落城させ、由比・倉沢へ侵攻した。勝頼は10月に江尻城まで兵を引き家康を待ち構えると、家康は撤兵した。129日には甲府へ帰陣する。
天正8年(15803月に氏政は伊豆口へ侵攻すると、足柄峠へ布陣する。4月には梶原備前守率いる北条水軍が沼津へ侵攻すると、勝頼は浮島ヶ原へ布陣すると、伊豆沖で武田水軍に北条水軍を迎撃させた。同年9月に勝頼は東上野へ出陣し、利根川を越えると新田金山城を攻め、膳城を落とした。
膳城での戦いは「膳城素肌攻め」といわれており、『甲陽軍鑑』によれば元々勝頼が平服で視察していたところ、酒に酔って喧嘩をしていた膳城の城兵が武田軍に襲いかかってきたので、勝頼は反撃して城を攻撃し、落城させたのであったという。
新府城の築城と甲江和与の模索[編集]
天正9年(1581)正月に、勝頼は現在の韮崎市中田町中條に新たに新府城を築城し、躑躅ヶ崎館要害山城の所在する甲府城下町からの本拠移転を開始した。一方、後北条氏に対しては、同年314日には佐竹義重を介して安房国の里見義頼とも同盟を結んだ。
322日には徳川軍の攻撃によって高天神城は窮地に陥るが(高天神城の戦い)、この頃信長との和睦を試みていた勝頼は信長を刺激することを警戒し、後詰を派遣することができずに城は落城した。高天神城を後詰を送らず見殺しにしたことは武田家の威信を致命的に失墜させ、国人衆は大きく動揺したという[注釈 9]。また、織田氏はこれを契機に高天神城落城の喧伝を行い、織田・徳川からの調略が激しくなり、日頃から不仲な一門衆や日和見の国人の造反も始まることになる。
329日、伊豆久竜津(くりょうつ)において武田水軍梶原備前守率いる北条水軍と戦い、勝利する。武田水軍はさらに伊豆半島の西海岸を襲撃した。5月に勝頼は遠江国へ出兵している。同年9月も勝頼は伊豆国へ出兵し、10月には後北条方の笠原政尭(新六郎)が守備する駿東郡戸倉城を攻める。政尭は抗戦するが、11月には政尭が武田方に内通したため、勝頼は駿河沼津城の城代である曽禰河内守を援軍として派遣し、勝頼自身も伊豆へ出兵すると、三島に本陣を置く北条氏政と対陣した。1224日には勝頼は新府城へ移る。
勝頼は信長との和睦交渉を継続し、前年には勝頼側近の大竜寺麟岳らと協議し、武田家に人質として滞在していた織田信房(御坊丸)を織田家に返還し、信房を仲介に信長との和睦を試みた(甲江和与)。一方、信長は朝廷に働きかけ、正親町天皇に勝頼を「東夷(=朝敵)」と認めさせ[12]石清水八幡宮などの有力寺社で祈祷が行われるなど[13]、武田氏討伐の格好の大義名分を得ていた。信長は勝頼との和睦を黙殺し、12月には翌天正10年(1582)に武田領攻撃を家臣に通告する。
勝頼の死と武田氏滅亡[]
天正10年(1582年)2月、信玄の娘婿で木曾口の防衛を担当する木曾義昌が美濃国の豪族・遠山友忠に仲介を頼み、岐阜の織田信忠に忠誠を誓った。義昌は弟の上松蔵人を人質として美濃に送った。同時期に駿豆国境を守る曾根河内守と江尻城代・穴山梅雪が織田・徳川氏に内応を約束している。勝頼は外戚の木曾の反逆に対し、武田信豊を大将とする木曾討伐の軍勢を送り出した。しかし雪に阻まれ進軍は困難を極め、義昌が陳弁し武田への忠誠を約束した為、討伐軍は進軍を停止した。その間に織田信忠が伊那方面から、金森長近飛騨国から、徳川家康が駿河国から、北条氏直が関東及び伊豆国から武田領に侵攻を開始(甲州征伐)。そして、織田軍の侵攻の始まった214日に浅間山が噴火した[14]。当時、浅間山の噴火は東国で異変が起こる前兆だと考えられており[15]、さらに噴火の時期が朝敵指名および織田軍侵攻と重なってしまったために、武田軍は大いに動揺してしまったと考えられる[16]
これらの侵攻に対して武田軍では組織的な抵抗ができなかった。伊那口防衛を任せられた下条信氏親子は家老・下条九兵衛の寝返りにより三河国へと逃亡。河尻秀隆の軍が伊那口の滝ノ沢城を接収し、森長可率いる先鋒軍が鳥居峠を経由して下伊奈へと侵攻した。信濃松尾城主の小笠原信嶺は狼煙をあげて織田軍の侵攻を手引きし、飯田城の保科昌直は高遠城に逃亡した。勝頼の叔父・信廉は在城する対織田・徳川防戦の要であった大島城を捨て甲斐国に敗走し、伊那戦線は崩壊した。勝頼は今福筑前守を大将とする木曾討伐軍に鳥居峠の奪取を命じたが、木曾軍に翻弄されて敗走。深志城からの攻撃を計画していた馬場美濃守は安曇・筑摩の反乱に足止めされていた。駿遠方面では家康が小山城を奪還。抵抗する依田信蕃の田中城主を迂回して駿府に入った。用宗城朝比奈信置を敗走させると田中城の依田信蕃を下し、内応を約束していた穴山信君の歓迎をうけた。
この情報に接した武田軍の将兵は人間不信を起こし、将兵は勝頼を見捨て、隙を見ては逃げ出した。唯一、抵抗を見せたのは勝頼の弟である仁科盛信が籠城する高遠城だけであった。また母の実家である諏訪家の一門・諏訪頼豊は「勝頼から冷遇されていた」と言われているにも関わらず、甲州征伐に乗じて諏訪家再興をしようとする家臣の意見を聞かずに鳥居峠の戦いで戦死している。
同年3月、勝頼は未完成の新府城に放火して逃亡した。勝頼は小山田信茂の居城である岩殿城に逃げようとした。しかし、信茂は織田方に投降することに方針を転換し、勝頼は進路をふさがれた。後方からは滝川一益の追手に追われ、逃げ場所が無いことを悟った勝頼一行は武田氏ゆかりの地である天目山棲雲寺を目指した。しかし、その途上の田野で追手に捕捉され、嫡男の信勝や正室の北条夫人とともに自害した(天目山の戦い)。享年37。これによって、甲斐武田氏は滅亡した。
辞世は「おぼろなる月もほのかに雲かすみ 晴れて行くへの西の山のは 」。
死後[編集]
勝頼父子の首級は京都に送られ長谷川宗仁によって一条大路の辻で梟首された。勝頼は跡継ぎの信勝が元服(鎧着の式)を済ませていなかったことから、急いで陣中にあった小桜韋威鎧(国宝。武田家代々の家督の証とされ大切に保管されてきた)を着せ、そのあと父子で自刃したという話が残っている。その後、鎧は家臣に託され、向嶽寺の庭に埋められたが、後年徳川家康が入国した際に掘り出させ、再び菅田天神社に納められた。
後に徳川家康により菩提寺として景徳院が建てられ、信勝や北条夫人と共に菩提が祭られている。江戸以降に再興する武田家は勝頼の兄で盲目のため出家していた次兄・海野信親(竜宝)の系譜である。
評価[編集]
同時代では、織田信長や上杉謙信が書状において勝頼を武勇に優れた武将として評価している。
江戸時代初期に成立した『甲陽軍鑑』において勝頼は「強すぎる大将」と記され、慎重さに欠け跡部・長坂ら特定の家臣を寵愛し、武田家滅亡の原因を作ったとする評価が存在した。
これに対し、近代には山路愛山徳富蘇峰が評論において勝頼の再評価を試みた。戦後には上野晴朗『定本武田勝頼』(1978年)や平山優(「武田勝頼の再評価-勝頼はなぜ滅亡に追い込まれたのか-」『新府城の歴史学』(2001年)が勝頼の事跡を検討し、再評価を試みた。
勝頼期の文書[編集]
信玄期の拡大領国を継承した勝頼は、在治期間は短いものの、信玄期に次ぐ残存文書が残されている。戦国大名武田氏の印判状は信虎期に創始され、晴信(信玄)期に竜朱印状が創始され家印として定着し、信玄後期には「伝馬」「船」など用途別印も用いられた。
勝頼期の発給文書は信玄期の方式を踏襲しているが、特徴として竜朱印状の比率が高いことが指摘され、これは『甲陽軍鑑』に記される天正2年(1574年)の信玄死去に際して800枚の竜朱印用紙が準備されたとする内容を裏付け、「晴信」印文の竜朱印は天正8年(1580年)まで用いられている。信玄死去の天正2年と葬儀の行われた天正4年(1576年)は領国内における継目安堵の文書が数多く発給されており、天正8年には甲越同盟の影響による北条・徳川との対立が激化したため軍役関係の文書が数多く発給されている。
天正3年(1575年)末には獅子朱印が創始されているが、これは同年5月の長篠の戦いにおける敗戦の影響から領国体制の再建を意図したものであるとされ、領国内の諸公事や納物徴用において用いられている。また、勝頼期には支城領支配の定着による一族文書の増加が指摘され、支城領主は独自の印判を用いている。
系譜[編集]
父:武田信玄(晴信)
母:諏訪御料人(諏訪頼重の娘)
正室:龍勝院殿(遠山直廉の娘、織田信長の養女)。
継室:桂林院(北条夫人)(北条氏康の娘)
貞姫:宮原義久
武田勝親(武田勝三)
香具姫:内藤忠興室(人質として勝頼に預けられていた小山田信茂の娘)
嫡男・信勝がいたが、天正10年(1582年)に父・勝頼と共に死んでいる。他に娘もいたが、詳細はわかっていない。
娘の1人・貞姫は、小山田信茂の娘の香具姫、仁科盛信の娘らとともに、信玄の娘である松姫に連れられ、武蔵国八王子に落ち延びた。以降、松姫や遺臣らにより養育され、のちに古河公方足利家の系統の江戸幕府高家旗本宮原義久の正室となり、嫡男・宮原晴克を生んだ。宮原義久の生母は上総武田氏の一族である真里谷武田家真里谷信政の娘である。宮原氏の子孫は高家旗本として幕末まで続いている。


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