昭和天皇の戦争  山田朗  2017.7.8.

2017.7.8.  昭和天皇の戦争『昭和天皇実録』に残されたこと・消されたこと

著者 山田朗 1956年生まれ。東京都立大大学院博士課程単位取得退学。明治大文教授。日本近現代政治史・軍事史

発行日           2017.1.27. 第1刷発行
発行所          岩波書店

軍部の独断専行に心を痛めつつ、最後は「聖断」によって日本を破滅の淵から救った平和主義者――多くの人が昭和天皇に対して抱くイメージは果たして真実だろうか。昭和天皇研究の第一人者が従来の知見と照らし合わせながら『昭和天皇実録』を読み解き、「大元帥」としてアシア太平洋戦争を指導・推進した天皇の実像を明らかにする

はじめに
本書の目的
昭和天皇の公式伝記である宮内庁編纂『昭和天皇実録』全60巻が2014.9.9.一般公開。約12,000ページに及ぶ膨大な記録。18年本文完成、19年索引刊行(予定)
『実録』は過去の戦争の時代を検証する素材として使われるが、天皇・宮中を中心に描いた詳細な「昭和史目録」の機能をもち、歴史学研究にとってもその意義は大きい
『実録』には、4010月の記述に、侍従武官のいない時に宮中の側近に対し、「支那が案外に強く、事変の見通しを皆が誤り、特に専門の陸軍すら観測を誤ったことが今日各方面に響いてきていると」、との感想を述べられたとある
一方で、既に刊行されている多くの書籍においても、「植民地支配と侵略」や天皇の戦争指導を分析する素材として、『実録』はまだ部分的にしか検証されていないのが実情
435月のアッツ島玉砕直後から始まった天皇の決戦要求は8月に頂点に達したが、『実録』においては、決戦を要求する天皇の発言を裏付ける『真田穣一郎少将日記』があるにもかかわらず、その発言は完全に消されているように、『実録』においては、天皇の戦争・戦闘に対する積極的発言と見做されるものは、きわめて系統的に消されてしまっている
本書では、昭和天皇と戦争・軍事という要素を縦糸に、残されたこと・消されたことを横糸にして『実録』の記述の特徴と問題点、資料としての価値について分析してみたい
本書の構成
第I部           大元帥としての天皇――軍事から見た『実録』の特徴
昭和戦前期における天皇と国家戦略・軍事戦略との関係、天皇と国民統合・軍隊統率との関係など様々なファクターを全体的に検討
第1章        国務と統帥の統合者としての昭和天皇
昭和天皇が国策・軍事戦略に深く関わった場としての国策決定のための御前会議と大本営会議、そして天皇の判断材料となったと考えられる統帥部による戦況奏上(直近の戦況についての報告)を検証 ⇒ 叙述されることと叙述されないことの境界線がポイント
第2章        軍事と政治・儀式のはざま
大元帥としての天皇が出席する様々な軍事儀式のうち観兵式と陸海軍の特別大演習に焦点を当て、その軍事的意味と政治的な役割を考察 ⇒ 大規模に実施されたこれら軍事的儀式において国民統合・将兵の団結に天皇が非常に重要な働きをしている半面、システムとしての儀式が、天皇の健康状態や天候、宮中の服喪の習慣などによってしばしば中止されるという脆弱な側面を内包していたことを明らかにする
第II部         昭和天皇の戦争――即位から敗戦まで
天皇の戦争指導に焦点を当てて『実録』が何を歴史的記録として残し、何を残さなかった(消去してしまった)かを検証する
第3章        軍部独走への批判から容認へ――満洲事変期
大元帥・昭和天皇の思考・行動の基本パターンが形成される張作霖爆殺事件から二・二六事件に至る時期に焦点を当て、この時期天皇は対外膨張主義に傾斜する陸軍の「暴走」を憂慮しつつも、田中義一叱責と内閣総辞職、政府方針未確認のままの熱河作戦裁可など天皇自身の勇み足もあり、非常に厳しい立場に追い込まれてしまう。天皇は事態を憂慮しつつも大陸における権益拡大と国威発揚ということに対しては、どのような姿勢をとったのか、具体的に検証。また、二・二六事件に際しては、天皇とそれを支える役割を担うはずの皇族軍人たちとの関係を考察
第4章        戦争指導・作戦指導の確立――日中戦争期
政・戦略の統合を図るために御前会議の開催を求めたり、将官人事への介入を図るなど、日中戦前半期(3740)の天皇の言動に注目するとともに、張鼓峰事件や宜昌(ぎしょう)作戦に見られるように、当初天皇は現地軍の行動を容認したり慎重だったかに見えたが、実際の戦闘が起きるとその成功を称賛したり、積極策を促すなど、急角度に言動を変化させ、作戦行動に大きな影響を与えたことについて検証
第5章        アジアとの戦争/欧米との戦争――南進と開戦
武力南進期から緒戦期(4042)の事例を検証。『実録』で強調される天皇の慎重・平和主義の内実を、『実録』と他の資料を比較検討することで明らかにしたい
第6章        悪化する戦況と「国体護持」――戦争指導と敗戦
前半でガダルカナル攻防戦からその後のニューギニア・ソロモンを巡る天皇の決戦要求などを取り上げて、『実録』ではほとんど消されてしまっている天皇の戦争指導について検証するとともに、『実録』では具体的に記されていない、天皇に提供されていた軍事情報について確かめておく
後半では「終戦」の「聖断」とは、どのようなプロセスを経て実現したものなのか、『実録』の「聖断」ストーリーの欠落点を改めて明らかにする

天皇平和主義者論は、『実録』においても拡大再生産されているが、問題は天皇の「平和主義」の中身を考察すること
『実録』の公刊を機に、書き残されたことと消されたことを整理し、消されたことであっても決して私たちの記憶から消してしまってよいものでないということを確認したい
『実録』で書き残されたことからも軍事大国の君主としての天皇の「平和主義」の中身が見えてくるであろうし、消されてしまったことを浮き彫りにすることで、書かれなかったことから、逆に歴史の真実を読み取りたい


1章 
412月の大本営政府連絡会議では、世界を「大東亜圏」「欧州圏」「米州圏」「蘇聯圏」の4大圏に分割することを今次大戦の講和会議において主張することを決めたが、正式文書の記述に比べて『実録』は原文書のような刺激的な文言については触れていない
435月に決定された「大東亜政略指導大綱」では、マレーシア、シンガポール、インドネシアに当たる領域はすべて帝国領土と決定し重要資源の供給地とされているが、『実録』では全く触れられずに、大東亜各国の指導者を東京に集め、大東亜共栄圏の確立を宣明することだけにとどめている
従来、国策決定のための御前会議においては天皇は若干の例外を除いて発言せず、不同意の場合はのちに参謀総長あるいは軍令部総長を呼んで仰せられたく政府側から言われていたためで、他方大本営会議においては活発に発言していたことが分かっている

2
天皇が陸軍将兵を閲兵し、諸部隊の分列行進を観る観兵式は、恒常的なものとしては、陸軍始観兵式(毎年18)、天長節観兵式と陸軍特別大演習の際の観兵式がある
『実録』には全く地図・写真などの図像資料、映像資料が使われていないことが惜しまれる。宮内庁サイドで記録した写真等あるばずだが、なぜ史料として使用されていないのかは謎

3
29年、張作霖爆殺事件に関する田中首相のうやむやに葬ろうとする奏上に対し、話が違うとして天皇が語気強く辞表を迫ったという記述は、天皇の感情を直接に見て取れるような記述をしないという傾向に対し例外的とも言える叙述となっている
田中叱責が昭和天皇による治世の始まりを世に知らせるための綱紀粛正策の1つであったということが読み取れる ⇒ 鈴木貫太郎侍従長のアドバイスが強く影響
32年のリットン調査団報告書への対応として、『実録』には円満な解決を外相に伝えたというのみで、『昭和天皇独白録』のように西園寺が「閣議がはねつけるよう決定した以上、lこれに反対するのは面白くない」と言ったので、天皇は自分の意思を通すことを思いとどまったとあり、田中内閣総辞職の直後に、その事件にあって以来、「私は内閣の上奏するものはたとい自分が反対であっても裁可を与えることにした」と、自分の意に沿わなくても裁可した最初の事例として掲げられている
天皇の真意・願望は別として、こうした天皇の現状追認の姿勢は、状況をリードしてきた軍部、とりわけ関東軍の増長を招き、ますます天皇の憂慮を深めさせる
二・二六事件についての『実録』の記述は非常に詳細。終始一貫「叛軍討伐」を強く主張しているが、天皇の激しい怒りの源が何であったのかはよくわからない
皇道派の傀儡となって軍令部総長だった伏見宮が天皇に拝謁して組閣と戒厳令回避を迫ったところから、天皇は皇族が皇道派・青年将校側に取り込まれることを警戒していたことを示す記述が『実録』にある

4
376月、日中全面戦争開始の2週間前、満洲国とソ連との間で国境紛争が起こっており、後のノモンハンに至る伏線ともなっているが、天皇にはその発端から状況が伝えられ、天皇から「支那と開戦した場合」についてのご下問があったことは需要
天皇は、中国(蒋介石政権)との開戦は避けられないとの見通しの下に、国務と統帥をどのように一致させるか(国家意思の統一)という点で苦慮 ⇒ 政・戦略の統合を図るために御前会議が必要だと考えたが、自らイニシアティブを発揮すべきかどうかについては迷う
39年、陸軍の山下奉文(皇道派)中将と石原莞爾少将の人事に天皇が両名とも陸軍の統制を破壊する行為をしたととして強い不満を表明
日中戦争開始後も、天皇は政・戦略の統合を図るために御前会議の開催を求めるなど積極的に事態の打開を図ったと言えるが、実際に戦闘が起きるとその成功を称賛したり、積極的作戦を促すなど、急角度に言動を変化させているにもかかわらず、『実録』は天皇の具体的な行動には触れないか、触れても慎重論のみにするなど、天皇の積極面は消されている

5
417月『実録』では、杉山参謀総長から仏印交渉の状況につき奏上を受けた天皇が、武力に寄らない支那事変解決の方法の有無をお尋ねになり、総長から他に方法がないと答えると、納得せずに、国力不十分な中武力行使による目的達成の可否、その期間についてご下問になったとの記載 ⇒ 当日の杉山メモでは、天皇は従来にも増して強く武力行使方針を忌避、それは『実録』にある支那事変解決のためではなく、英米に対する武力行使の有無であることがわかるとともに、天皇は統帥部が英米戦不回避を主張する割には具体的な作戦の見通しについて一向に語らないことにも不安を持っていたことがわかる
419月『実録』では、両総長による已むを得ない時の開戦である旨の言上を受け、作戦終了の見込みを5か月とした根拠は如何にと論難され、強い言葉で参謀総長を叱責、永野軍令部総長が死中に活を求める手段であり成功の算多き事を言上すると、強い口調で勝算の見込みを尋ねるなど、全般に淡々とした記述の多い『実録』にしては異例な叙述だが、問題は、その後約2か月間の天皇の変化
天皇が、外交交渉の頓挫で、「諦め」て戦争を決意するという、統帥部にとっては、天皇が納得するレトリックを編み出すことが最大の課題となった
4111月統帥部は、戦争の勝敗は、外交戦略的には独ソ講和斡旋によるソ連の枢軸国側への取り込みの成否にかかるという腹案をもって天皇の開戦決意へと導くが、『実録』には全くその記載がない
41128日『実録』では、天皇は、開戦直前なぜか海軍軍装で外相から交渉結果を聞き、早朝緒戦の戦果を聴き、宣戦布告を裁可。木戸メモでも天皇は開戦当日は泰然自若としていたとある
『実録』では、天皇が作戦に対して積極的な姿勢を見せる発言はほとんど紹介されていない(消されている)が、実際には外交戦略の展開を督促しつつ、進展中の作戦についても、はかばかしくないと見るや、直ちに積極的作戦を促した
425月『実録』では、珊瑚礁海戦の戦果に関する奏上を受け、天皇が満足の意を示し、残敵全滅に向けての措置につきご下問があったと記載があり、作戦に対する天皇の積極的姿勢が窺われる

6
428月以降、東部ニューギニアとガダルカナル島での攻防戦以降、天皇の作戦指導が加速するが、『実録』では僅かに戦況について質問する程度の記述に留まる
天皇は、陸海軍の協調や、具体的な戦力の配置・配分まで口を挟む
4212月の『実録』では、「如何にして敵を屈服させるかの方途如何が知りたい」といった天皇の事態打開を欲する強い言葉は省かれ、天皇の主導性は消されている
421231日の大本営会議において、占領地域からの撤退という方針の大転換を決めたが、『実録』では、簡潔に「作戦変更につき上奏を受けた」とあるのみ
433月『実録』では、ガダルカナル撤退後の作戦方針が大本営会議において決定されたが、作戦内容について通り一遍の報告があったとしか記載されていない ⇒ 天皇が意欲的に作戦指導をしたことは他の資料から明らかであり、アリューシャン作戦の致命的失策であった見通しの悪さ、陸海軍の協同作戦のまずさを厳しき叱責、陸海軍の姿勢自体、作戦方針自体を批判するとともに、その政治的影響を憂慮する姿も記録に残されている
アッツ島玉砕以降、天皇は日本軍の「勇戦」を称揚しつつも、必ずと言っていいほど「決戦」「前進」「戦力拡充」を促すようになる。中部ソロモンでの決戦を要求したのも天皇であり、陸海軍が「担任地域」を理由になかなか協同した作戦を行わないことに対しても批判
438月の『実録』では、僅かに「シチリア島における戦況につき奏上を受けた」とあるのみだが、実際の天皇と参謀総長とのやり取りは非常に濃密であり、天皇の戦略判断を示すものだったことが分かっている
446月、米軍がサイパンに上陸すると、天皇は久しく沈滞していた意欲を奮い起こし、統帥部を叱咤激励、東條参謀総長に対しサイパンの確保を強く要求
4410月の『実録』でも、フィリピン沖海戦で始まったとされる神風特別攻撃隊による突撃戦果を含む戦況の奏上を受けたとの記載のみで天皇の反応についての記載はないが、神風特別攻撃隊という特異な作戦にショックを受けて何らかの説明を求めたのは確かで、「よくやった」との発言は『実録』にはないが、前線部隊に伝えられ、さらなる特攻作戦を強行させる重要な要因の1つとなった
451月、米軍のルソン島上陸に当たり、統帥部両総長が本土決戦計画の最初の全体計画を上奏するが、天皇は軍部の「決意」と実際の戦況の落差に疑問を深めつつあった
452月の『実録』は、粛軍の断行奏上に対し、天皇は今一度戦果を挙げなければ粛軍の実現は困難との感想を漏らしたと記述、天皇が戦争終結への転換の勧告すら拒否しているのは、統帥部の言う「台湾決戦」に期待していたことが窺われる
454月の『実録』では、沖縄戦に際し、現地軍が地上兵力の不足を理由に決戦を避け、陣地に立て籠もって徹底した持久戦を行う方針だったのに対し、天皇が攻勢に出ない理由を尋ね、兵力不足ならば逆上陸を敢行しては如何と提案したと記載。これが「海上特攻隊」の急遽出撃に繋がる。天皇は「航空部隊だけの総攻撃か」と下問し他に使いどころのない大和他の艦艇も投入する結果に
沖縄戦について、天皇は、海軍はよくやっている、断固やらなくてはならぬ、航空部隊の戦果を満足に思う、今後益々しっかりやる様に、等の言葉を周囲に発しているが、『実録』には記載がない
454月の『実録』では、ドイツ崩壊と日本も戦争続行が不可能であり今後の措置を考えるべきことにつき奏上があり、天皇も早期終戦を希望する旨の発言があったと記述
天皇が戦争終結に傾斜するのは、沖縄戦の戦況が挽回不可能であることがはっきりした時点であり、そこでは覚悟せざるを得なかったというのが実情
88日、『実録』は、戦争終結に至る過程を天皇の主導性と木戸内大臣の補佐という流れで叙述しているが、両者ともソ連の仲介に期待を持っていたことは確かで、原爆投下によって漸く終結に踏み切った
戦争終結に果たした天皇の役割について、『実録』からは天皇の戦争終結への傾斜、考え方の変化がよくわからない。2月の近衛の終戦の上奏に対し、もう一度戦果を挙げなければと言った天皇が、5月には無条件降伏やむなしとの転換を示すのだが、『実録』は天皇が元々戦争終結を望んでいたというストーリー性のもとに叙述されているため、天皇が一貫して戦争終結を牽引した存在として描かれている
『実録」の記述では、天皇の軍事面でのアドバイザーやスタッフが不在であることがよくわかり、大本営命令の発令者である天皇を支える一元的な司令部が存在していなかったことが確認できる
同様に、戦争直後の記述を見ても、天皇をはじめとする国家指導層の中で、国際法上の停戦実施となる降伏文書調印を急いだ形跡は見られず、ソ連軍による千島占領への危機感、対応などの記述も見当たらない

おわりに
『実録』では、過度に「平和主義者」のイメージを残したこと、戦争・作戦への積極的な取り組みについては一次史料が存在し、それを『実録』編纂者が確認しているにもかかわらず、その殆どが消されたことは、大きな問題を残した
『実録』で浮かび上がるのは、第2次大戦において、日本という国家には、世界規模の、なおかつ高度なテクノロジーを集約した戦争を統括し、遂行できるシステムがなかったことであり、当時の天皇を頂点とする仕組みは大戦争を行うにはあまりにもキャパシティに乏しく、刻一刻変化する戦況に対応するにはあまりにも風通しの悪い硬直したもので、システムとして状況に対応できない日本の在り方が改めて浮き彫りになった



昭和天皇の戦争「昭和天皇実録」に残されたこと・消されたこと』 [著]山田朗
[掲載]20170416 朝日
表紙画像
 「昭和天皇実録」(実録)は、「官」の編んだ「公式の記録」である。従って、「天皇=平和主義者」との特定の意図で記述されているとして、著者はとくに戦争に関する部分を取りあげて、どのような部分が割愛されているかを実証的に裏づけた。
 いうまでもなくこの実録のみでは昭和天皇の実像が確認できるわけではない。「民」の側もこれまで実証的に天皇の姿を記録してきたが、両論相俟(あいま)って、大元帥の天皇像に息吹が与えられる。昭和天皇は、日中戦争の初期は現地軍の行動を抑制し、事態の打開を図るとの記述が実録にはあるが、戦闘が本格化するや前言を翻して積極的作戦を促す。その面が「消されている」という。太平洋戦争下では、アッツ島の玉砕を契機に統帥部に強い口調で「決戦」を命じたことが、既存の史料で明らかだが、その記述はない。
 著者は実録記述の功罪を示し、読者に、天皇と戦争の読み方を説いている。


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