電卓四兄弟 カシオ「創造」の60年 樫尾幸雄 2017.6.20.
2017.6.20. 電卓四兄弟 カシオ「創造」の60年
著者 樫尾幸雄 1930年東京生まれ。日大専門部機械科卒。日本製鋼所を経て52年、樫尾製作所入社。57年のカシオ計算機設立時取締役。91年副社長。14年特別顧問。00年科学技術庁長官賞「科学技術功労賞」受賞。05年旭日小綬章受章
聞き手 佐々木達也 1964年兵庫生まれ。讀賣新聞東京本社編集委員兼調査研究本部主任研究員。88年入社。千葉支社を経て93年から経済部で経済報道を担当。経済部次長を経て14年から現職
発行日 2017.3.25. 初版発行
発行所 中央公論新社
讀賣新聞朝刊2016.9.15.~10.27.連載「時代の証言者 電卓4兄弟 樫尾幸雄」に加筆
² 個性融合 町工場が世界へ
57年世界初の純電気式計算機を開発 ⇒ 「電卓の元祖」と呼ばれ、電話交換機などに使われるリレー(継電器)という素子を基幹部品として使った計算機
長男・忠雄 ⇒ 1917年生まれ。46年樫尾製作所設立。金属加工事業開始
次男・俊雄 ⇒ 1926年生まれ。発明家。研究開発を担い、樫尾の頭脳
三男・和雄 ⇒ 1928年生まれ。2代目社長、現会長。営業マン
四男・幸雄 ⇒ 1930年生まれ。俊雄のアイディアの商品化
² 八畳一間に八人家族
樫尾家のルーツは高知県。父親は農家。23年に震災後に上京
² 次男 召集1か月で帰還
42年、忠雄が荒川区で独立。旋盤技術で軍需工場の下請け的な仕事を請け負う
忠雄は病弱で召集を免れたが、俊雄は8月1日に召集、末には帰還
² B29部品に長男感嘆
墜落したB29爆撃機の部品を見て、彼我の技術力の格差に愕然
親戚のいた三鷹に引っ越し。焼けた旋盤を修理して新たな仕事を始める
俊雄が逓信省を辞めて忠雄の会社に入る
² ヒット1号「指輪パイプ」
俊雄の最初の製品が「指輪パイプ」 ⇒ 仕事をしながら煙草を吸う装置
露天商を通じて直接売り、ヒット商品になり、その後の計算機開発の資金をもたらす
各家庭に配給された小麦粉でうどんを作る機械を作り、受託加工したらこれもヒット
² 見えた計算機の可能性
49年ビジネスショーで輸入物の電動式計算機を見たのが、計算機の開発に乗り出す契機
実際の計算は、手回し式の計算をモーターでやるというもので、当時はあまり注目されていなかったが、俊雄が開発を決断
² 試作機「5年早ければ」
50年 計算機の開発に着手 ⇒ 最初は機械式で、歯車を高速回転させるが、摩耗に耐えられる強い鋼材の入手が困難だったところから、機械式を電気的なオン・オフの切り替えに置き換えることを考案。54年、ソレノイドというコイルを巻いた電磁石の一種を使ったソレノイド式計算機の試作機が完成したが、連乗(掛け算の答えにさらに掛ける計算)が出来ず開発を断念
² 鮮やか過ぎる方向転換
新たにリレー(継電器)という素子を使う ⇒ コイルに電流を通し、磁力で鉄片を動かすことで接点を繋げたり切ったりする部品。特許取得
² 恩をあだで返した発表会
金属製のリレーも含め、部品はすべて忠雄の旋盤技術から生み出される
欧州の電動計算機を輸入販売していた札幌の大洋セールスが興味をもって試飲援助してきたが、札幌のデモで稼働せず、援助も打ち切られる
² 思わぬたすけ舟で商品化
札幌のデモを見ていた内田洋行が資金提供を申し出、同社とは教材用の顕微鏡の部品を納めていて、信頼を勝ち得ていた
57年リレー式計算機完成、商品発表会。国産初の機械式計算機が誕生
14桁の計算ができるところから、「14-A」と命名。485千円
² スマートに素早く計算
最初に納入したのは大手銀行、大蔵省など
接触不良のトラブルが多く、接点の部分を二股にするダブル接合方式を考案
² 注文続々 新工場フル稼働
他にも残留磁気によるトラブル発生。ステンレスの導入で解決
57年、カシオ計算機設立。武蔵野市に新工場建設
58年、東京都の発明展で特別賞。現物は上野の国立科学博物館に寄贈、展示されている
製品につけるロゴを「CASIO」としたのは、世界市場への進出を意識(カシオペアを連想)
² 顧客の声 開発に生かす
60年、科学技術用計算機 ⇒ 複雑な計算を自動的に処理
61年、タイプライターと一体化した計算機、印刷も可能
終身雇用の維持と能力主義資格制度の導入
² ゴルフに没頭 在庫の山
健康維持のために始めたゴルフに4人とも熱中、シャープの電卓の発売で、在庫の山に
2年前に英国の会社が電子計算機を開発したが、真空管をトランジスタに置き換えた計算機は技術的な課題が多く、開発は頓挫していた
² 「リレー方式」時代遅れに
リレー式に拘り、技術改良したが、売れ行きは不芳
営業担当の和雄が、秘かに開発途上の電卓を披露、セールスマンの支持を得る
² 電卓へ 切り替え決断
全面的に電卓に切り替え
平日ゴルフはストップ
² 経営危機から巻き返し
内田洋行との契約打ち切り、直販へ
在庫を引き取り、利息計算をできるように改良し銀行専用の計算機として処分
多くの組み立て作業は人海戦術で開発
² 日本メーカー 海外席巻
シャープより1年遅れで、65年開発に成功
70年の国際見本市では、日本製の電卓が世界を席巻 ⇒ 他にはキャノンとソニー
70年、上場
トランジスタからIC、LSIへ ⇒ 日立とNECから半導体の供給を受け、純国産を貫く
² 家庭向け 文具店で販売
64年以降、事務機器や計測器のメーカーも参入、40社ほどが競う「電卓戦争」へ発展
カシオの最初の電卓は380千円だったが、LSIの開発でコストが下がり、71年には50千円を切る製品が登場、サイズも縮小
文具店を組織化して、直接販売へ乗り出し、企業から家庭へと標的をシフト
² 時代の要請 「ミニ」誕生へ
ボウリングに熱中、スコアを簡単に記録するために、小型の計算機を考案したのが、6桁表示で10千円を切る「カシオミニ」で、72年発売開始し大ヒットにつながる
² 「答え一発」 新市場開拓
4桁から6桁にしたので、価格は12,800円。当時の大卒初任給が30千円
「答え一発カシオミニ」のテレビCMが効果的
² 「軽薄短小」 生命線に
72年、貿易摩擦の影響で、電卓も輸出の自主規制を行うが、6桁の「ミニ」は一般的な8桁の電卓の範疇から外され、海外で売れ行きが伸びる
オイルショック後の省資源、省エネルギーの考え方から生まれた軽薄短小が、会社の生命線に ⇒ 名刺サイズ登場
オイルショックの影響はほとんどなかった ⇒ 狂乱物価の中でもLSIの価格は下がった
² 忠告に反論 時計参入
74年、反対を押し切って時計に参入 ⇒ 世界で初めてオートカレンダーの機能を持った時計「カシオトロン」で、月日、曜日を表示。G-SHOCKのヒットにつながる
² 量販店へ時計売り込み
時計業界はセイコーとシチズンが独占、新規参入には特に部品調達で手こずる
金属ケースや液晶を独自に開発、販売網も時計専門店は避け、家電量販店と百貨店を使う
² G-SHOCK 「逆上陸」
83年、G-SHOCK発売、85年末頃から米国で爆発的ヒット ⇒ アイスホッケーの選手がスティックで叩いても壊れないという頑丈さが魅力。平成に入って逆上陸
95年、世界初の液晶モニター搭載のデジカメ発売
² 次男の情熱 電子楽器
80年、最初に発売した電子楽器がキーボードの「カシオトーン」
音楽好きの俊雄の夢が実現
² 携帯、半導体――苦い経験
10年3月期赤字の原因は携帯電話 ⇒ 100億単位の投資が必要。auの主要機種となったが、販売不振で撤退
半導体開発でも、薄型製品用にフィルムの上にLSIのチップを搭載する「チップオンフィルム」という技術を開発、別会社として上場までしたが、円高による海外シフトに乗り遅れ撤退
² ウッズの球筋 三段ロケット
81年、ゴルフトーナメントのスポンサー―に
98年、日本ツアー初参戦のウッズと一緒にラウンド
82年、カシオ科学振興財団設立 ⇒ 大学の研究者たちに助成。ノーベル賞の赤崎教授や天野教授にも助成
² 革新の原点 次代にリレー
13年、俊雄の成城の自宅を「樫尾俊雄発明記念館」として、幹部の研修などに活用
97年、元国鉄保有地に本社ビル新築
² 最大の功労者は従業員
座右の銘「人事を尽くして天命を待つ」
エンジニア魂
1人1人が個性と長所を伸ばすことの大切さ
2017.5.21. 朝日
(書評)『電卓四兄弟 カシオ「創造」の60年』 樫尾幸雄〈著〉佐々木達也〈聞き手〉
■世界に挑んだ「国産」の戦後史
【読む前】 え、カシオって「樫尾」っていう人の名字だったの?! 樫尾さんって四兄弟だったの? そんな知識しかない私でも興味深く読めそうな、四男・樫尾幸雄さんのインタビューをまとめた本。
【概要】 戦争中に8畳一間に8人家族で暮らしていた樫尾家。旋盤工をやっていた長男の忠雄氏が戦後すぐの1946年、金属加工の「樫尾製作所」を設立。次男の俊雄氏は発明家。三男の和雄氏は行動力があり、営業担当。兄たちの姿から多くのことを吸収し、次男のアイデアを形にする技術者の幸雄氏。下請けの下請けからはじまった事業が、計算機の開発を手掛け、世界的な企業になるまでの話は、そのまま戦後の日本経済を象徴する。
【読みどころ】 本書を読めば電卓を語ることは以下のことを語るのと同義であるとわかる。ステンレスの利用でコストを下げられること。液晶の技術。工場を造るということ。販売網を確保するということ。方式を変える必要に対応するということ。半導体の歴史。時計で成功することと、携帯電話で失敗するということ。電子楽器ができるということ。役割分担と家族の絆、社員への感謝は大事だということ。ゴルフのしすぎはよくないということ。
電卓の前身の「電気式計算機」は、戦後の経済成長を支える銀行や企業といった大きい組織で必要な「外国産」の「高価」なものだった。そこに町工場が「国産」でより「高性能」なもので戦いを挑む。そして次第に「個人」向けに市場を拡大していく。創意工夫、チームワークで競争力の高い商品を開発していく経緯の具体的かつ痺(しび)れるエピソードが淡々と語られる点が最高。
【効能】 「技術は生鮮食品のようなもの」という幸雄氏の持論は、放っておくとすぐに腐って使い物にならない、鮮度が大事という考え。これは技術だけに限った話ではない。生き方の指針として明日への活力としたい。「やる気」が出る一冊。
評・サンキュータツオ(学者芸人)
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『電卓四兄弟 カシオ「創造」の60年』 樫尾幸雄〈著〉 佐々木達也〈聞き手〉 中央公論新社 1404円
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かしお・ゆきお 30年生まれ。カシオ特別顧問▽ささき・たつや 64年生まれ。読売新聞東京本社編集委員。
Wikipedia
カシオ計算機株式会社(カシオけいさんき、英: CASIO COMPUTER CO., LTD.)は、電卓、電子辞書、電子楽器、時計、デジタルカメラなどを扱う日本の電機メーカー。本社所在地は東京都渋谷区本町1-6-2。東証第1部上場(証券コード6952)。通称カシオ(CASIO)。
「カシオ計算機」の社名が象徴するように、創業時は機械式計算機(リレー式計算機 14-Aなど)などを生産、後に電子式卓上計算機(電卓)を発売する。その後、電卓デバイスを基礎に事業分野を拡大し、現在の主な事業分野は電卓、電子文具、時計などの個人向け情報機器や、システム機器、電子デバイスなどの製造と販売。近年は電波時計やデジタルカメラ、電子辞書、TFT液晶などを主力商品として積極的に展開している。かつては携帯電話も手がけていたが現在は撤退している。
かつての本社は新宿の住友三角ビルにあったが、後に初台に自社ビルを建設した。
かつての本社は新宿の住友三角ビルにあったが、後に初台に自社ビルを建設した。
社是は「創造 貢献」で、これは「世の中になかったものを創造することによって社会に貢献する」という意味である。英語ではそのまま「Creativity and Contribution」と訳されている。
「計算機」の名の通り、電卓以前のリレー式計算機14-Aから電卓の時代を通って成長した企業・ブランドであり、電卓及びそれに類する電子製品のメーカーとして知られる。
特に大ヒットした電卓カシオミニにおいて顕著だったが、大胆な価格設定と割り切ったスペックでどこでも簡単に使える、といった新しい切り口の製品を発売し、時には新しい商品分野のブームの端緒となるようなヒット商品も作る。「糸井重里の萬流コピー塾」において題「ワープロ」への投稿で (松) の評価を取った「今買うな、カシオがきっと、何かやる」[1]や、パソコン雑誌『PC-WAVE』の「目の付け所がカシオ」(シャープの宣伝コピー「目の付け所がシャープでしょ」のパロディ)といった言葉がある。
創業者の名字「樫尾」をローマ字で書けば「KASHIO」だが、これをあえて「CASIO」としたのは創業当初から世界で親しまれる企業になるという目標があったため。このロゴであることから日本以外では日本企業と思っていない人も多い。特にイタリアの企業と間違われやすい。ちなみにイタリアの名子役サルヴァトーレ・カシオ(Salvatore Cascio 出演作:ニュー・シネマ・パラダイスなど)は実際にカシオのCMに起用されたことがある。
(2015年6月現在)
代表取締役社長 樫尾 和宏(かしお かずひろ)
(以下の記述においては、「世界初」といったような表現に付随している形容に注意。たとえばQV-10の場合「液晶モニターつき」という部分が「世界初」なのであるが、同機の成功要因はそのような個別の機能というよりも、価格の安さなどを含む総合面にあり、一部メディア等が囃しがちな「世界初」に注目することは、むしろ要点を見逃す原因となる)
1957年(昭和31年)6月 - 商用機「14-A」を世界で初めて開発した[2][3]。開発に携わった忠雄・俊雄・和雄・幸雄の樫尾四兄弟によってカシオ計算機株式会社が設立される。初代社長は四兄弟の父親である茂が就任する。
1965年(昭和40年)9月 - 電子式卓上計算機「001」発売。
1978年(昭和53年)1月 - 初の名刺サイズ電卓「カシオミニカード」(LC-78;厚さ3.9mm)発売。
1983年(昭和58年)11月 - クレジットカードサイズの電卓「フィルムカード」(SL-800)発売。
1985年(昭和60年)3月 - 超薄型デジタルウオッチ「ペラ」(FS-10)発売、業界初のミリオンセラーとなる。
1998年(平成10年)1月 - 渋谷区初台に建設された自社ビルに本社移転。
1998年(平成10年)11月 - Windowsパソコン「CASSIOPEIA FIVA」を発売。
2006年(平成18年) - 世界最薄のプロジェクター「XJ-S30/35」を発売。
ラベル印刷機ブランド
プロジェクターのブランド。かつてはPDA・ペンコンピュータ・モバイルパソコンのブランド名
画像共有サイトのブランド
温度・気圧・方位計測センサーを搭載したアウトドア向け製品。
チタン製メタルウォッチ
メタルウォッチ
女性向けメタルウォッチ
Smart
Outdoor Watch(スマートアウトドアウォッチ)
Android
Wear搭載スマートウォッチブランド。WSD-F20はPROTREKブランドにも属する。
※番組休止時にも一部の番組を除き提供している。
など
1965年(昭和40年)9月、それまでのリレー式から電子式に革新を図った、電卓「001」を発売した。これは、前年のシャープによる電卓の発表・発売に追随して一部の技術者が基礎研究として試作していたものを基に、急遽製品化したものであるが、これには次のようなエピソードがある。実は同年の初頭頃はまだ、九九を回路化した高速乗算機能を持つ「リレー式として究極の」機種「81型」の発売を予定していた。しかし、同機が完成した同年4月の代理店向け発表会において、乗算こそ高速なものの除算ではやかましい音をたてて秒単位の時間がかかる同機は、電子式を既に前年に目にしているその場の代理店の者たちに「これはもう時代遅れだ」と思わせるに十分であった。新機種を一顧だにしない出席者に対応すべく、急遽、本来の発表会の予定には全く無かった試作機を持ってこさせてデモを行い、電子式計算機・電卓を発売する予定とした。翌日にリレー式の開発の終息が通知され、計算機部門の総力で電子式に取り組むこととなり「81型」は「幻の新機種」となった。なお「81型」はその後廃棄処分されたため、カシオ社内にも現存しない[7]。
2012年5月15日に死去した前会長・樫尾俊雄の2012年3月期の役員報酬は13億3300万円であった[9](うち退職慰労金が13億1900万円)。この金額は、当時、上場企業の役員報酬の個別開示が義務付けられた2010年3月期以降で過去最高額であった[10]。なお忠雄の死去の翌年の2013年5月、東京・成城学園前駅近くの自宅を改装し「樫尾俊雄発明記念館」として自身が手がけたカシオ製品を展示している。
カシオ社の安価なデジタル腕時計は、「チープカシオ」の名で親しまれている。安価ながら高い機能性とデザイン性が注目され、コレクターも存在する。ヨーロッパでは、「カシオビンテージ」とも呼ばれる[12][13]。
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