海と生きる作法  川島秀一  2017.6.1.

2017.6.1. 海と生きる作法 漁師から学ぶ災害観 

著者 川島秀一 1952年生まれ。気仙沼市出身。法政大社会学部卒。博士(文学)。東北大附属図書館、気仙沼市史編纂室、リアス・アーク美術館、神奈川大特任教授などを経て、現在東北大災害科学国際研究所教授。『安さんのカツオ漁』(2015、第26回高知出版学術賞)

発行日           2017.3.11. 第1刷発行
発行所           冨山房インターナショナル


はじめに――それでも海は豊かだというべきか
東北大震災で母と家と故郷を失った
長い間三陸沿岸を歩きながら聞き書きを続け記録していった漁労をめぐる生活を全て失う
外界から隔てられた穏やかな汽水域を育てたリアス式海岸は多くの魚が寄り来る天然の漁場。しかし同時に津波も寄り上がるし、幸も不幸も神からの「寄り物」として全て受け入れる諦念と懐の広さとが必要。津波に何度も来襲された三陸沿岸に生き続けた漁師の、そのような運命観、死生観そして自然観に学ぶ時
津波に打ち勝つためにも、それでもなお、海は豊かだということを言うべき
三陸の漁師たちは、海生活してきたのではなく、海生活してきた
海と対等に切り結ぶ関係を持っていなければ今後もなお漁に出かけようとする心意気は生まれない。そういう積極的な生き方にもう少しだけ賭けてみたい
気仙沼市で震災の年に復興計画を作りその時のキャッチフレーズが海と生きる
今を生きる世代が再び海の可能性を信じ復興を成し遂げることが犠牲者への供養であり次世代への希望となろう
この海と生きるということの意味を気仙沼市の復興と共に考えてみようと言うのが本書の狙い


I 三陸の海から
一.  三陸の海と信仰
17世紀後半には紀州から唐桑半島にカツオの一本釣り漁法が伝わった
大きい船の象徴でもあったカツオ船は危険を伴う漁場で操業することから、地域全部を巻き込んで多くの神事や習俗を伝えてきた
海からの「寄り物」をエビスと捉える信仰がある

二.  三陸の歴史と津波――海と人のつながり
震災後に外部から突如入っていきた科学者やゼネコンは生命の安全と言う大看板の下に、生業と生活を切り離すという生易しくない問題をいとも簡単に語り始めた
三陸の港は故意に「埋め立てない」ということで造られ、当初から自然の良港であったのではなく、港そのものが人間の手が加わった文化的遺産だった
高度成長期には埋め立てが湾内の沖へと進み、住宅地までできるようになり、今回の大津波は見事なまでにこれらの埋め立てたところだけ浸水している
人間が埋め立てしたところは、いつかまた海が取り返しにやってきて、自然が揺り戻される。津波常習地である三陸沿岸は、なおさらその経緯を繰り返してきたと思われる
東北文化論の古典であり白眉でもある柳田邦夫の『雪国の春』(1928)
漁船の動力化により、漁獲高が飛躍的に上昇、22年には全国8位に
大正10年代は近海漁業の意気盛んな時代
現在生鮮カツオ水揚げ日本一
夏網のイワシはカツオの餌、冬網のイワシは〆粕として加工
鉄道の発達とともに陸の孤島となったが、もともとは海の十字路。歴史的な厚みがある
震災によって岩手15,000艘、宮城13,000艘の漁船が10%しか残らなかった
函館から岩手県の久慈に向けて228隻の中古船が運ばれた ⇒ 函館火災の時の支援のお返し

三.  「東北」の過去から未来に向けて――津波と三陸沿岸をめぐって
三陸はもともと陸奥・陸中・陸前の3つの総称
1896年の大津波を機に、北上山地の太平洋沿岸という限定的な地名として三陸となった
大津波後の人間の襲来により、確かに助けられた反面、未だ、戸惑いの中で生活している自然災害の後にやってくるのは人災
60年のチリ地震津波以降、構造物で高潮や津波に対処しようと言う考えが生まれる
68年の十勝沖地震では、構造物で陸上への浸水を阻止できたので、津波に対する安全神話が成立
津波対策ができたことと並行して、湾内の養殖業が発展し、冬季に出稼ぎに行く必要がなくなった

四.  津波と生活文化の伝承
継承者がいなくなった家をどのような方法で受け継いでいくかという家の再興の問題がある ⇒ 村々の再興に直結し、災害以前の生活の知識や技能の伝承につながる核になることでもある
津波でほとんど絶滅した村の再興に、相続人を見出し再興を果たしている
生き残った家の者は、次・三男を廃絶の危機に陥っている家に入れ、分家を増やす傾向が目立つ
総じて津波で残された女性と、移動性の高い漁師が結びついて家を継ぐ例が多かった
ホトケ(死者)を守ると言う感覚があった
家の再興の仕方においても、地域社会に蓄積された知識や慣行、いわゆる在来知がその役割を果たした
生活文化を伝承させるための知恵として他地方からの漁具や漁法の積極的な受容がある

五.  自然災害から回復する漁業集落の諸相――東日本大震災と三陸漁村
震災で集落の性格がかえって現在化したところが多い
目に見えない住民同士の結びつきは、むしろその関係性を基礎にして震災直後の対応や復興を始めたところが多い
1つは集落の中で本家と分家関係を色濃く残していた集落で、本家を中心にリーダーとして復興を図る
もう1つは、契約講の会長をリーダーにして震災直後の対応と復興への道を始めた集落もある
海を見ながら生活をしてきた村では、防潮堤の建設を拒否したところもある

六.  三陸大津波と漁業集落――山口弥一郎『津波と村』を受け継ぐために
津波常習地とは、津波を生活文化の中に受け入れている、あるいは、津波と共に生活してきたという、災害に対して積極的に向き合ってきたという意味合いが強い
津波の災害ににもかかわらず原地にまた舞い戻るケースが多いのは、主に3つの理由による。1つは、毎日の漁にとって不便なところにいられないという、漁業という生業に関わる経済的関係。2つ目は、民俗学的問題で、津波の恐ろしさを経験していない他所から来た者が原地に居座って漁業で成功すると、高台移転を行なった者がいてもたってもいられなくて、結局は原地に戻ってくるという傾向がある。3つ目は、海へ向かっての供養の問題等の海と人間との抜き差しならない関わりについての問題

II 漁師の自然観・災害観
一.  海の音の怪
海の音が時々声に聞こえる ⇒ 声に聴き直すことによって恐怖を感じる体験をする
船の姿もないのに艪声が聞こえる現象を船幽霊と呼ぶ
漁師は目だけでなく耳も鋭い感覚を持つ ⇒ 耳で見る力によって海の音にも素早く反応海の音や声が説明可能である場合には怪しい音にならず、ある時は地震や津波などの自然災害として的確に判断する場合もあった

二.  津波と海の民俗
津波に係る記念碑や伝説が付与されていた記念物も、津波浸水線に建立された場合は今回も残っている ⇒ 気仙沼市の「みちびき地蔵」もその一つ
津波襲来の音は、一旦潮が引いた後沖で艦砲射撃のような爆音がする
三陸沿岸の人たちは死者に対してどのような供養の仕方をしたか
水死体が上がった場合、引き上げた浜でお施餓鬼棚をかく ⇒ そこには死者に関わる身内だけではなく、過去の死者の供養のためにも皆が参集する風習がある

三.  魚と海難者を祀ること
海難者の供養が大漁につながるという伝承
海で発見した遺体は、必ず引き上げる ⇒ 船員の1人が死者に代わって漁船に大漁を約束させた後、進行方向に向かって右側(オモカジ)から上げて左側から下ろす
魚と海難者の霊と同時に同じ場所で供養をしている事例も散見
大船渡市の三陸町では、イワシで殺されイカで生かされたという伝承 ⇒ 1896年と1933年の津波で、津波前にはイワシが豊漁、津波後はイカが大漁
津波前は大量と言う話はよく耳にする
岩手県のある村で96年の地震の際津波の犠牲者が極端に少なかった理由は、津波の前沿岸ではマグロ・イワシ・鯖が異常な大漁で魚を追って沖で漁をしていたためだと言う
海洋生物の命と人間の命の交換関係をこれらの伝承の中にも見いだすことができる

四.  災害伝承と自然観
震災によって生じた津波や原発事故等の非日常的な出来事を語り継ごうとする動きに対する様々な関わり
自然災害に関わる様々な媒体の伝承を扱いながら、災害に対して人間がどう向き合ってきたのかと言うことを中心に、この列島に住む人々の災害観をはじめとして自然観や生死観の一端に触れる
津波の予兆に関する言い伝えとして、前後に大漁がある
『大学』の中にも、「天運循環」、「往きて復らざるなし」という言葉がある
天運循環の考え方は、自然災害だけでなく大漁についても当てはめられていた
海に対する信頼と謙虚さを含んだ自然の持つ回帰的な力に沿って生きようとする考え方

III 海の傍らで津波を伝える
一.  津波石の伝承誌
津波で陸(オカ)に寄り上がった大岩のことを一般的に「津波石」と呼ばれる
三陸沿岸と沖縄の先島諸島が主 ⇒ 沖縄は1771年の大津波
津波の警告のための記念碑として残され、竜神として祀られている
津波石であっても神の贈り物として捉えている大きな自然観がみられ、防潮堤のように人間と海との関係を切り離す考えとは全く逆の災害列島に住む者の自然観や災害観がある

二.  津波碑から読む災害観――人々は津波をどのように捉えてきたのか
災害文化と言う用語は1960年代のアメリカの社会学界が使い出した言葉で、災害の衝撃から人々が立ち直るまでの期間の人間行動を対象にし、そこに一定の特有な傾向を見出そうとする研究
防災の教訓以外の側面を学び取ろうとする努力
1792年、有明海の津波では沿岸に打ち寄せられた亡骸を「寄り人様」と言って、供養碑を建て、いまだに毎年お祀りが行われている
四国の碑文は、津波が来るたびに過去の津波と比較し、その次の津波の警戒をすることがこの地域の特徴
紀伊半島では、1707年の地震津波と、1854年の南海地震津波に関する碑が大半 ⇒ 後者は安政の碑が圧倒的に多い
伊豆半島の津波碑は、それほど多くない ⇒ 1703年の元禄津波が目立つ制度

三.  災害伝承と死者供養
災害の風化を叫ぶ人は被災者以外の人々で、被災者は風化しないことの方が問題
当事者によって黙って「生きられる文化」を取り上げる ⇒ 生活の中に「生きられてきた記憶」とはどのようなものか
1783年の浅間山の噴火により、嬬恋村で648人の死者。うち村内の鎌原では477人が死亡。噴火の時村人93人が逃げて助かったと言われる鎌原観音堂では、年間を通して供養の行事が行われている
各地で災害伝承を組み込んだ儀礼や年中行事が、災害の「生きられた記憶」として、あるいは社会的でかつ身体的な記憶として伝えられてきた
歴史的な出来事である災害が生活文化の中で伝えられていく

四.  津波伝承と減災
災害への備えを子孫に伝えようとする現象は各地で見られる
マニュアル化をしようとする動きもあるが、自然災害は時にマニュアルを超えることもあることから、逆に危険でもある
津波常習地の「習う」は「慣れる」にも通じ、津波を生活文化の中に受け入れている積極的な意味合いの言葉である
三陸沿岸に住む者の心に即した言葉であり、自然に対して無理に対立したり避けたりすることではなく、飼い馴らしていく発想でもあった
波の音を聞き、潮の匂いや風、海面からの反射光の中で生きる力を得ている人々にとっては、定量化こそできないがこれらも貴重な生活環境である
どんな力をもってしても、海辺に住み続けようとする人々の意思まで踏みにじる事はできない

IV 動き始めた海の生活
一.  「情けのイナサ」を再び――仙台市若林区荒浜の漁業の再興
仙台市若林区の荒浜では、一方的に市が「災害危険区域」に指定、立入禁止にしているが、移転には依然賛成派と反対派が対立している
海に向かって生きることのリスクを承知しながら、それでもなお海に深い信頼を寄せて再び海で生きようとしている漁師たちが確実にいる。漁業の復興は、この海の傍からしか始まらない。この災害列島で脈々と伝えられてきた漁師たちの自然観や生命観、災害観等を足場にしない限り漁業の真の復興はありえない

二.  和船の復元と漁労の復興――閖上(ゆりあげ)と歌津
山々が海の近くまで重なり合う三陸沿岸ではシロウオ漁の時期は山菜取りも盛んだが、その土地に住んでいるだけで価値のあるものに対しては農協も漁協でも災害の損害額として算出できないだろう
その土地を離れ高台移住して生命の安全性は保障されたとしても、その優先性のためにどれだけの多くの精神文化や生活技術が失われるか。津波がものを流失した後さらに止めを刺すように全てを破壊することにしかならないように思われる
これらのような周縁的な生業は、本業とか副業あるいは単なる遊びと分けて考えることができない領域の生業であった。そして大震災からの復興の中でも最も見逃されてきた世界でもある
沿岸の磯舟は船底が平たく海川専用の汽水域の船。船大工が震災前からいなくなり歌津の泊に1人いる(41年生)
船釘は、現在福山市の鞆の浦でしか作っていない 小さな町工場で3代目(34年生)1人で作業
造船中の儀礼は、①カセギゾメ(仕事始め)シキスエ(船底)タナアゲ(外側の板)船下ろしの順番
儀礼の順番は、塩をトリカジ、オモカジの順で撒く、煮干しを2つ折りにした半紙の上に置く、わかめを同様の半紙に置く、大根を半紙に置く、お神酒を杯に注ぐ、塩をトリカジ、オモカジの順番で撒く、墨壷から墨糸を3回引いてみせる、お神酒を煮干し、わかめ、大根に注ぐ、⑨お神酒を船のミヨシ(舳へさき)に注ぐ、米をトリカジ、ミヨシの順で撒く
棟梁と船主が、集まった人々に餅を撒き、船を港に下ろし、船主が右回り3度艪を漕いで回って終了
周縁的な生業が基幹的な産業とほぼ同時に再開していることに注意。被災者にとって、経済的な理由だけではなく、何か後回しにできない、再度、生き抜くための力となっているのだ

三.  海は一つの大きな生き物である
「海は一つの大きな生き物」と教えてくれたのは漁師
海の色、潮の流れ、海上の風の動き、それらによって彼らの目的である魚の捕獲の多寡が決まる。魚との知恵比べとは海という自然との力比べのこと
魚より頭が良くなくては漁師になれない 自然の急変を読み取る生物の行動を、さらに読みとる漁師たちもまた、テクノロジー中心の防災方法だけを受け入れている近代的な都市生活者より、危機察知能力が一段と高い
海は人を殺しもするが生かしもする。海が一つの大きな生き物である限りときには人間を裏切るしかしどんな目にあっても最後に海を信頼しなければ人間は幸せを語ることができなくなる津波で被災した後も漁師とその仕事場である海を信じ続ける


おわりに
人間は海からの光や風に生きる力をもらっている漁協等には海に向かって使い古されたソファーや椅子が置かれていてなんとなく集まってきては海を見ながら雑談する一見すると何も意味がないような場所に見えてもここからしか海と人間の関わりは出発できないそれは防潮堤に小窓を切り抜いて海を見せるような、生活感情を無視した幼稚な発想とは対極にある場所
鳥羽市の相差(おうさつ)では、海に面して建てられた地蔵がある。海で亡くなった海女さんの供養のため。海で命をとられたが、それでも海を見させてあげたい、そして海で働く自分たちを守ってほしいとの思いが籠る
仲間を奪った海を恨むことなく、またはその海へ働きに行く
大震災の後に三陸沿岸の漁師が再び海へ活路を見い出したのも、同じ心のありようである
今を生きる者も死者も、それぞれが海を見つめている。海がどんなに危険であろうとも、それを抱え込んできた、漁業という生業に伴う生活文化や生活感情がある
漁業に関わる人々が豊かなのは、魚介類などの水産資源が豊かであるだけではない。海に関わり、ままならぬ自然の中で、人間や生物の生死をじっと見つめてきたからこそ、豊かな考え方を育んできた
最近の社会はリスク管理がおおはやり、効率重視だが、漁師が関わる海の世界は、半分以上は気まぐれな海と魚の世界に翻弄されている。不漁と大漁のメリハリのある生活の喜びが、実は漁師の人間的な豊かさを保証するもの
人間と海との関わりは、その漁業という生業を通して特徴的な共同性がある
漁師の語る「寄りもの」は、神から浜に住む者全員に与えられるものであり、大漁は皆で分け、厄を祓うのも皆で分け合う。海のリスクは、それに関わる者たち全員で助け合うのが漁師たちの暗黙の約束
漁業の豊かさは、海という大きな生き物から恵みと災害との両面を与えられるという、そのような自然との向き合い方の中から生まれたものに違いない
海という自然を信じ、自らの内なる自然の声にも耳を傾け、それを全体として捉える生き方が、ときに海難や災害に巡り合っても、いつかは大漁の喜びに恵まれ、そこに生きる意味を見いだしているのだ
かかる漁師などの生活者の災害観を前提にしない限り、防災や減災の対策は机上の空論として、悉く失敗するだろう




海と生きる作法 漁師から学ぶ災害観 [著]川島秀一
[掲載]2017年04月02 朝日
■恵みと災い、両面受けいれ共生 
三陸の気仙沼市出身の民俗学者である著者は、東日本大震災による津波で実家が流失し、母を亡くした。気仙沼は生鮮カツオの水揚げ日本一を誇る港町で、震災の年も宮崎や高知、三重などの漁船が来港して、復興の第一歩となった。陸の孤島と呼ばれる三陸だが、それは東京を中心に鉄道網が敷かれた明治以降のことで、黒潮と親潮が交わる世界有数の漁場は海の十字路であった。紀州の熊野も陸の孤島と称されるが、気仙沼にカツオ一本釣りの漁法を伝えたのは海を越えて到来した紀州船だった。
 本書の題名は「海に生きる」ではなく「海と生きる」。海と生活してきた三陸の漁師たちは、海がもたらす恵みと災いという両面を受け入れて長いあいだ共生してきた。例えば、漁師の親子や兄弟は別々の船に乗ることが一般的で、「それは海難事故などで、一度に一家の働き手を失うことを避けた慣行でもあった」。また、会津生まれの民俗学者山口弥一郎が昭和8年の三陸大津波の後に記した『津浪と村』にある「津波常習地」という言葉の検討を通しての、津波を生活文化のなかに受け入れてきた漁師生活の伝統へのまなざしは、机上の高台移転計画や防潮堤の安全神話への根源的な批評となっている。自然災害から生命だけでなく生活も守るのが真の復興であり、それは漁師たちが、マニュアル化できないそれぞれの土地土地に即した多様性を持った集落の歴史の中で既に培ってきているのかもしれない。
 漂流遺体を村の神として祀(まつ)ったり、魚と人間を一緒に供養する行事が日本列島には枚挙に暇がなく、そこに海難者と魚との回帰的な生命観が窺(うかが)えることなど、震災前から各地の漁師の聞き書きを行ってきた著者ならではの写真を添えた報告も興味深い。そして、「風化」という言葉を用いているのは、被災者ではなく、被災者以外の人々であることが多い、という指摘にも深く頷(うなず)かされた。
    ◇
 かわしま・しゅういち 52年生まれ。東北大学災害科学国際研究所教授。著書に『安さんのカツオ漁』など。


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