名伯楽 粕谷一希の世界  藤原書店編集部  2017.4.26.

2017.4.26. 名伯楽 粕谷一希の世界

編者 藤原書店編集部

発行日           2015.5.30. 初版第1刷発行
発行所           藤原書店

粕谷一希
私の生涯は本に明け暮れてしまった
東畑精一の言葉「読書とは読むものではなく持つものだ」をよいことに、玄関から、廊下、物置まで本に埋まっている
主題は、ジャーナリズムとは何かで貫かれている
学問が体系的思考だとすれば、メディアはコラムを単位に艶やかな伸び伸びとした文筆が第一である、果たしてそれに値するかどうか

塩野七生 『ある出版人の死』
単なる編集者ではなく出版人としたい人
出版という手段を駆使して、当時の思想界の動きを変えようとした人
敗戦後長く日本の言論界を支配して来た観念的理想主義に抗して、同じ理想主義でも現実的な視点に立つことの重要さを、数多くの才能に書かせることで日本に広めようとした人
彼が舞台としたのは『中央公論』で、当時発行部数15万部
旗手は、福田恒存、永井陽之助、山崎正和、高坂正堯、萩原延壽。福田を除き、皆30代、40代の若さで、「粕谷学校」を構成、お互い切磋琢磨していた
自分も彼らから随分影響を受け、その後の執筆活動に反映されている
『粕谷一希随想集』3巻は、その粕谷文学の集大成。一昔前の日本に花開いた、知性の集合の感さえある
(2014.6.24.) 初出『文藝春秋』20148月号

弔辞――同時代イデオロギーの横着ぶりを嫌った君へ 芳賀徹(東大名誉教授)
48年、最後の一高生として一緒に入学
竹山道雄先生にドイツ語を習う。先生には頭が上がらなかったが、最後まで門下生の1人として、その思想と教養と知的勇気との優れた継承者だった
中央公論を辞した後都市出版を興し、雑誌『東京人』では、芦原義信、高階秀爾と芳賀徹が編集委員になって粕谷編集長を支えた
藤森照信、陣内秀信、鈴木博之ら建築史の俊秀をも、川本三郎のような脱・反体制の文人をも陣営に加えて、東京論、都市文明論を盛り上げたのは、変わることのない目利き粕谷の大手柄
同時代の支配的イデオロギーの横着ぶりを嫌って、いつもそこから離れてリベラルの目で学界、論壇、文壇を眺めては、志を同じくする、あるいは、未来への予感を共有する先達または若手俊英を見つけ出しては、日本の新しい文化を共に編集していく大きな仕事を生涯かけてやってきた
(2014.6.6.護国寺桂昌殿にて)

旧制5中時代の粕谷一希 高橋英夫(評論家)
43年、府立五中に一緒に入学
五中は、大正リベラリズムの頃に創設され、リベラルな校風で、モットーは「立志、開拓、創作」
学徒勤労動員に駆り出され、粕谷の雑司ヶ谷の自宅は4月の空襲で全焼
その頃、粕谷は200人以上の同級生の前で、日本の将来はどうなるのか一緒に考えてほしいと、憂国少年の魂の叫びで呼びかけた
一緒に属していた文芸部では、創作展(学園祭)で河井栄治郎論を書いたが、最後に力尽きたと書いていた

媒介者としての編集者  三谷太一郎(日本学士院会員、東大名誉教授)
74年、私が中央公論社主催の吉野作造賞受賞した時に粕谷が編集長として出会い
民主主義と自由主義との関係について議論したが、その種の話題を好む編集者だったが、イデオロギー的立場に固執する人ではなく、編集者は文化のいろいろな分野について広く関心と知識を持ち、それらを媒介する役割を果たすことが重要な務めだが、そのような役割を果たすことができる高い能力を持っていたという意味で優れた編集者だった
00年に来た書簡で、日本の社会と国家の「衰亡の兆し」を指摘し、「それだけに知識人の権力――社会権力を含めて――との距離の取り方が大切になってくるように思います」と書いていた
編集者であるとともに著作家でもあり、その評論集の中に、「作家が死ぬと時代が変わる」とあったが、粕谷氏については、「編集者が死ぬと時代が変わる」という感を深くしている

出会い 塩野七生
物書きになるなど夢想もせずローマで2年遊んでいた半世紀前、『中央公論』編集長の準備か、欧米を歴訪中の粕谷氏がパリからローマに来る際、飲み過ぎて1便乗り遅れたために急遽パリ在の編集者から依頼があって空港に出迎えにいったのが出会い。最も日本人的な男、というだけの紹介で探し当てローマ滞在中も付き合うことに。その際粕谷氏から大学での専門を聞かれ、哲学科で学び卒論のテーマはルネサンス時代の美術史と答えたところ、「ルネサンスの女たち」という題で100枚書いてみないかという提案を受けた
手許には日本に帰る航空運賃代40万円しか残っていなかったが、そのすべてを投入し書き始めたところ、1人だけで125枚になった
帰国して編集長になっていた彼の許に原稿を送ったときの返事が、まだ走り出してもいない新人にはどう対処すればヤル気を起こさせることができるかの見本のような内容で、そのお陰で書き続けることになった
その後の半世紀における付き合いの間、一度も自分の作品の評価を問うたことがなかったのは、コワかったから。でも一方では安心していて、デビュー当時ですら私の考え方を矯正しようとは絶対にしなかった彼のこと、彼自身の考えとは少しばかり違っていても許容してくれるのが、一級の編集者であると同時に一級の知識人でもあった、私が知っている粕谷なのだ

共通点は河合栄治郎と誕生日 杏林大名誉教授 田久保忠衛
40年前、共同通信?のワシントン支局から帰任した頃、粕谷編集長、永井陽之助(東工大教授)氏とともに国際問題を論じる機会があり、初対面にもかかわらず勝手放題に論じた
永井氏は、粕谷氏が非武装中立論など空想的外交・防衛論の全盛期に時代の潮流に挑むために登壇させた「現実主義者」として、高坂正堯や衛藤瀋吉らとともに当時の日本の論壇の華だったが、無謀にも論戦を挑んだ
学生時代から河合栄治郎に傾倒、粕谷氏が河合の評伝を書いたという共通点があったからこそ、私の「脱線」を大目に見てくれていたのだろう

編集者とは何か 東工大名誉教授 中村良夫
82年、日本文化会議で粕谷氏を中心に都市論の懇談会があり、雑誌『東京人』の構想が芽生えた頃、自分も『風景学入門』を出したら身に余る批評をいただき感謝している
粕谷氏が風景学に関心を持ったのは、和辻哲郎に傾倒していたことと唐木順三との交流が背景にあり ⇒ 今や和辻哲学は現象学的地理学の分野で西欧でも注目されており慧眼。唐木については、粕谷氏は「小林秀雄ばかりが思想家じゃない」と言って、唐木の「詩と哲学のあいだ」という春風駘蕩たる発想法と文体に共感を持っていた
塩野の才覚をいち早く見抜いた人。彼女と日比谷の同期と知って3人で食事をしたが、塩野とは初対面で、高校の頃は母親も心配する引き籠りだったというから人はわからない
編集者とはこのようにして、人と人をつなぎ、触発し、言葉を引き出し、混沌の中から未だ見ぬ知の天地を編み上げる天職か、とおおいに感じ入った
粕谷氏が逝って1年、いまにして想えば、旧制高校譲りの教養主義を担って退場していったその後姿を覆うように、ネット社会の中で痩せた思想の金切り声が聞こえるようだ

粕谷さんを巡る「歴史」と「人物」 藤原作弥(元日銀副総裁)
時事通信の米国特派員から帰国した際、『中央公論』に米国関連の記事の翻訳・解説の執筆依頼があったのが出会い。次に会った時、突然小説を書いてみないかと打診され当惑
交流が続いたのは日銀人事局長の吉田満氏という共通の知己が接点。日銀記者クラブ詰めで吉田の『戦艦大和ノ最期』など愛読して歓談していたが、粕谷氏も『歴史と人物』の編集長として「戦中派の死生観」なるテーマを追って山本七米、吉田満ら散華の世代を取材していた関係で日銀でばったり会い驚いた
吉田氏が私の社内報に掲載された連載コラムを粕谷氏に紹介、その勧めでノンフィクション『聖母病院の友人たち』が生まれ、日本エッセイストクラブ賞を受賞、作家活動がスタートしたので、粕谷氏は恩人
新聞記者から学者に転じた京都学派の先達で東洋史学者内藤湖南に強い関心を抱く。湖南は『秋田魁新聞』の主筆だった因縁もあり、私の祖父をよく知っていた
東京都政に重きをなした粕谷氏のご母堂も秋田出身
粕谷氏自身は、東京生まれのシティボーイ。古き良き東京を愛し、新しい都市文化の在り方を考え続けた知識人で、都市出版社を興し雑誌『東京人』発行に繋がる
粕谷氏から「後藤新平の会」に誘われ直ぐ入会、後藤の孫の鶴見俊輔とも知り合う
粕谷市の織り成す人間関係を見ていくと、彼の言う通り「歴史(history)は物語(story)

リベラリズムと都市への関心 藤森照信(東大名誉教授)
日本では長いこと、器としての都市への関心は薄く、都市に住む人々もそこに盛られた文化のほうにアイデンティティを求めた
私の大学院生時代、文学者たちが器としての都市の魅力を語り始める。その次のステップへとリードしてくれたのが粕谷氏で、陣内秀信、鈴木博之ら若い建築史家に発言の場を与え、より広い世界に導いてくれた
86年『東京人』創刊は当然の成り行き。ただ、粕谷氏は戦後リベラルの立場を貫いた編集者として知られるが、リベラリズムがどうして都市と結びついたのかは分からず仕舞い

良き書生だった大編集者、粕谷さん 川本三郎(評論家)
72年、過激派取材によって朝日新聞を解雇され、フリーのもの書きになったものの、不安な日々の中、粕谷氏から声がかかる。保守派の論客として知られた粕谷氏が、新左翼運動に共感した人間に関心を持ってくれたことに意外な気がしたが、人間としての懐の深さあ、後輩を心配する優しさは、自身が誰よりも愛していた中央公論社を、その志ゆえに辞めざるを得なかったという辛い体験に裏打ちされたものだということを後に知る
76年に『中央公論』の編集長を解任され、2年後に退社。組合との確執、いわゆる進歩的文化人たちとの不和、嶋中社長との意見の違いなどから疲れ切ってのこと
敗れてゆく者への共感があり、とりわけ戊辰戦争で敗れた旧幕臣への思いが強い。その点では徹底して勝者の薩長を嫌った永井荷風に通じるところがある
戦艦大和で生き残った吉田満に敬意を抱き、『鎮魂 吉田満とその時代』を書いたのも、敗者への共感ゆえだろう
粕谷氏にとって大事なのは、考えよりもその人間だった
最後の旧制高校世代。知性、教養、品格、友情を重んじる旧制高校文化を体現する、大人になっても変わらない書生っぽさがあった
『東京人』を創刊された際、執筆者の1人に迎えてくれ、『荷風と東京』を書くよう促してくれた。50代になって初めてものを書くことの楽しさを知ったし、敬愛できる編集者の下で仕事ができる喜びを知った

『東京人』創刊への粕谷氏の思い 陣内秀信(法政大教授)
80年、保守系知識人が集う日本文化会議で初めて会う。「東京の文化としての都市景観」と題した学際的な研究会で議論し、私の東京研究をまとめた『東京の空間人類学』を粕谷氏に高く評価していただいた
ニューヨークに『ニューヨーカー』があるように、東京にもこの都市の歴史や文化を論ずる『東京人』があっていいだろうと思い立って実現させた
川本氏が荷風のあとを継ぐ東京歩きの達人として心と技を磨けたのも、粕谷氏のお陰
「江戸東京学」も、『江戸東京学辞典』も、江戸博物館も、粕谷氏の『東京人』が切り拓いた世界と軌を一にしながら生まれたものばかりで、東京における都市文化のトポスの底知れぬ面白さを掘り起こし続けた功績は計り知れない

粕谷さんの支え 森まゆみ(地域雑誌編集者、作家)
86年、史遊会で初めて会う
84年に『谷根千』を創刊した直後で、都の肝いりで創刊された大きな雑誌『東京人』の傘下に入りたくないという反抗心が強かったが、やがて原稿を書くようになった
91年離婚、貧困の母子家庭となった頃、粕谷氏の勧めで樋口一葉の評伝を書いたが、さらに「若いうちに大きな人の胸を借りておくといい」と言って鷗外を勧められ連載の場を与えてくれ、両方とも私の主著となった
学者には厳しかったが、フリーの物書きの暮らしには同情があって、原稿料も大学に職のある方よりは多くもらっていたと思う
09年地域雑誌を終刊する際、「雑誌には時代と共に生きる使命があり、それを果たしたならば潔くやめるのがいい」と言ってくれ、漸く肩の荷が降ろせる気がしてありがたかった

世代を超えて 今橋映子(東大教授)
93年『異都憧憬 日本人のパリ』の公刊を見て、直接声がかかったのが最初の出会いで、世代の隔てなく一緒に仕事をしていけると言われ励まされた
5年後の2作目は都市出版から刊行、「パリ神話」再考を目論む意図を汲み取って自由に書かせていただいき感謝している
バブル時代に学生だった私たちの世代にも興味津々で、私の学問世界での師芳賀徹、高階秀爾と盟友であった粕谷氏は、私の専攻する比較文学、比較文化という学問領域の「行く先」にも心を砕いてくれた

粕谷さんと東京史遊会 加藤丈夫(国立公文書館館長)
96年スタートした会の発起人代表粕谷氏が書いた趣意書には、1980年代初頭に日本社会と経済が成長から成熟に移行し始めた頃、巨大都市東京を新しい目で見直そうとする機運が各方面から高まり、愛情をもって東京を語り、東京の品位と魅力を高めていこうとする運動の輪を広げ、歴史に根差した東京、国際社会からも愛される東京を豊かに実現していきたいという念願から、未来は単なる青写真ではなく、歴史に遊び多様な人士との交流と対話から生まれるとの信条から東京史遊会と命名した
賛同して発起人となったのは、芳賀徹、高階秀爾、芦原義信、近藤道生、福原義春、北島義俊、金平輝子など。ついには読書人のサロンとなる
総合誌の全盛時代の編集長として幅広い交友関係を結んだが、自身の中では付き合う人が読書人かそうでないかを厳しく区別していたのではないか。「本を読まない人は駄目だネ」と言ったのを聞いたが、読書を通じてこそ過去に学び、現在の世の動きを正しく捉え、未来を考えることができるという信念があった

「醤油組」の天下の戦後を超えて 新保祐司(文芸評論家、都留文科大教授)
粕谷氏は評論家としても戦後日本に対する明晰な批評を遺した人、戦前からの良質な教養を受け継いだ真の知性であったといえる
氏の言葉で特に深く心に突き刺さったのは、「醤油組の天下」という寸鉄人を刺す言葉で、78年の鶴見俊輔氏への手紙の中で、「戦後の論理には、醤油を飲んで徴兵を逃れた、いってみれば醤油組の天下といった風潮があり、『きけわだつみの声』の編集方針も意識的に反戦学生の声だけが集められ、反戦感情・反戦運動を盛り上げていき、それは半面正当に思われたが、微妙なところで何かエゴイズムの正当化といった作為的な思考のスリカエがあるように思われ、当時から馴染めなかった」と書いている
「醤油組」によって「戦後の論理」は支配されたが、「醤油組」の倫理的問題は、単に戦争に行きたくないという「エゴイズム」を「反戦」とか「平和主義」といった美辞麗句で「正当化」したことで、さも「正義」の人であるかのように振舞う悲喜劇が蔓延、戦後の生ぬるいヒューマニズムの見苦しい風景となった
「醤油組」とは対照的な生き方をした吉田満に深く共感したのは当然の流れ
『随想集』第1巻の巻頭に掲載したのは、「『戦艦大和ノ最期』初版跋文について」。GHQの検閲で発禁となったこの名作が世に現われたのは占領が終わった52年。初版には、吉川英治、小林秀雄、林房雄、河上徹太郎、三島由紀夫が跋文を寄せた。氏はこれらの文学者を「戦後の風潮に同調しなかった人々」と称賛した後、「晩年、吉田が改めて戦争の記憶に回帰し戦後日本に欠落したものを問い続けたのも作者の十字架で、飽食の中で忘却している悲劇の感覚をもう一度、日本人に喚起したかったからだろう。それに答え得るか否かは、残された者の課題である」と書いている
「醤油組」の卑しい精神からの所産に過ぎないものは、日本の精神の本質にとって何の意味もない。戦後長く続いた「醤油組」の天下は今や漸く終わろうとしているかに見えるが、集団的自衛権の問題に表れているように根強く日本の社会の中に残っている。「醤油組」の天下を完全に終焉させることは、戦後の日本人の偽善性という倫理的問題を解決することであり、卑怯者の天下ではなく勇者の天下の日本国に改造しなければならない
氏は、「敗者のほうが勝者よりも豊かな教訓を得る。日本人は今こそ20世紀前半の自民族の悲劇を誇りを持って語り始めたらよい」とも書いている。歴史認識の問題、あるいは歴史観というものに立ち向かっていく心構えの根底には、この「誇り」がなければならない

粕谷氏を惜しむ 石坂泰彦(「史遊会」会員)
「史遊会」は粕谷氏を中心とした12,3人の集まりで、大学教授や大会社の役員、OBに始まり多種多様な集まり。友人のNHKプロデューサー多胡實之の紹介で入会し、毎回の講師を囲み楽しい会
粕谷氏の著書『歴史をどう見るか――名編集者が語る日本近現代史』は深く感動した名著
学生運動たけなわの東大に在学、マルクス・レーニン主義一辺倒の学生運動に待ったをかけた数人の良識グループの1員だったことがあり、日本の知識人の良心を失ったと言える

大いなる文化人を失った 青山佾(明大大学院教授、元東京都副知事)
86年、『東京人』創刊の頃初めて出会う。東京論盛んなりし頃で、東京都も鈴木知事の肝煎りで、東京の文化を発信する雑誌を作りたく、協力して発刊することになった
当時生活文化局でこのプロジェクトの担当者として、粕谷氏と激論を重ね、最初は季刊に始まり、最後は月刊と段階を踏んだのは妥協の産物でもあり双方の知恵でもあった
30年近くたって、『東京人』は都の財政的支援から脱し、独力で発行し続けている
『ニューヨーカー』よりもう少し歴史的視点が色濃く入り、ニュース性よりも掘り下げを重視したが、読者の知的な楽しみを好む傾向とともに歩むという文化性ではよく似ている

「声低く」語られた叡智の言葉――『粕谷一希随想集I』解説 新保祐司(文芸評論家、都留文科大教授)
「賢者」の風格を感じさせるが、それを体得せしめたものは、氏の戦後という時代との関係であり、戦後の軽薄な時代思潮に対する決して同調しない態度であり、戦前の思想に対する深い敬意と造詣であり、それは、「京都学派」に対する評価にもうかがえる
長い戦後の不自由な時代に自分は、「隠れ非マルクス主義者」として生きてきたように思うと振り返る
河合栄治郎や和辻、九鬼周造など、戦前の思想家についての理解と愛情の深さが、戦後の価値観に囚われた戦後知識人と粕谷氏とが一線を画すところ
近代日本におけるジャーナリストの系譜を考えるならば、池辺三山、滝田樗陰、徳富蘇峰などに繋がる存在と言え、日本の近代の戦前まで続いていた良質な教養の伝統の遺臣のように感じられる
「節を守る」ということが、氏の人物論の要になっている
氏のような人間によってのみ随想というジャンルは初めて書かれ得る。エッセイと呼ばれる雑文とは本質的に違う。たわいもない雑文が溢れている現在では、折々の事象や様々な思想に触発されて、即興的に文章を創造する随想という形式は極めて稀になった。日本語の文章で思想、あるいは哲学を語れるのは、随想という形式であるようにも思われる。氏の文章を集めたものを、あえて「随想集」と銘打った所以
随想という方法の冴えをよく示しているのは、一群の対比列伝で、小林秀雄と丸山真男、安岡正篤と林達夫、東畑精一と今西錦司といった対比の妙は、深く広い教養を持つ氏ならではの思いつき
氏の戦後に対する疑惑は、『戦艦大和ノ最期』の吉田に対する深い共感となって表れている。初版の跋文について紹介した後(前述参照)、この本の記録が永遠に感動を呼び起こすのは、戦士の美徳を真摯に描いているからであり、それが民族敗亡の美学たりえているからだとし、『平家物語』も清盛の驕りによって一族は滅びるが、重森弥維盛の姿があって、人々はその滅亡に涙する。「海の底にも都はあり申そうぞ」との一句に胸を衝かれる。帝国日本もまた自らの傲りによって自滅したが、その中にも美しく見事に生き、死んだ人々の存在を確認することなしに、悲劇の感覚は生まれない
戦後日本に欠落したものこそ、この悲劇の感覚であり、大東亜戦争を振り返るとき、悲惨と言って悲劇と言わない。氏の吉田満に対する深い共感は、逆に戦後という時代に対する深い違和感に通じている
戦後日本に対する批判の核心は、それまで編集者として、「当世風」をそれなりに慎重に考慮しなければならなかった氏が、「人生の最終段階を迎え、意を決して」書いたこと
吉田満と鶴見俊輔の対談「〈戦後〉が失ったもの」を読んで氏が鶴見に手紙を書き(前出新保祐司の稿参照)、異論を展開している ⇒ 編集者生活の最初の3年間鶴見の関わるプロジェクトを担当して、ある種の違和感を感じていたが、それは「戦後」に対するもので、その後20年間の歳月がその距離を広げた
吉田に対する共感は、唐木順三の「反時代的」な姿勢について示した共感に共通する
吉田への共感は、吉田が「宗教的人間」だったことにもある。死線を超えた吉田は、「死・愛・信仰」への思索を深め48年にはキリスト教に入信。この「宗教的人間」は、「欲」に生きるとしても「エゴイズムの正当化」を知らない
「エゴイズムの正当化」があることに、氏の戦後への「違和感」の根本がある ⇒ 鶴見への手紙でも、「戦後は醤油組の天下」だったとして痛烈に批判している
氏の青春時に深い影響を与えたのが波多野精一。近代日本最高の宗教哲学者で、氏が学んだことは、「世界が自然、文化、愛という3層から成り立ち、これまで個人主義の人格主義が称えていた人格の成長とか自我の発達という概念は、自己実現としての文化の世界のことであり、真の人格主義は愛の世界にあって、他者実現を目指さねばならない」、「文士や芸術家は自己表現ということを自らの生命と感じ考えるが、そうした文学や芸術作品も、社会(他者)に奉仕するものでなくてはならない」、「人格の成長・発展こそ人生究極の目標であるとする近代の個人主義的人格主義に、薄い膜を張ったように納得できなかったのは、まさに愛の世界、愛の行為としての他者実現が視野に入っていないから。人間の活動として、自己表現としての文化(自我)の世界よりも、愛としての他者実現の方が重い価値を持つことを明言していることに、初めて安らぎを感じた」
氏の編集者としての人生の選択も、編集者としての優れた業績も、この安らぎに基づく
氏にとって編集という仕事は、「他者実現」としての仕事だった
氏自ら林達夫についての文章に、「声低く語れ、とは林さんの名言の1つ」とあるが、戦後の追い風に乗って声高に叫ばれた思想は結局消え去り、「声低く」語られたものが残っていくのだ。「声低く」語られた氏の言葉を聴き取らなければならない

に関するいくつかのこと 粕谷幸子
子供は年子の2人姉妹
一度だけ、夫が喧嘩を売りつけた。風流無譚事件の後始末で連日深夜の帰還。お互い疲れていたところで、夫がいきなり、「オマエさんは、オレがよくて結婚したのか、中央公論がよくて結婚したのか」と聞いてきた。愚問である。「どちらかが好きだったらいいじゃないですか」と、後から考えたら名言で答えた
2人の接点は、お酒と映画(時代劇)
カーネギーの墓碑銘に「己より優れたるものを周囲に集めることに秀でたる者、ここに眠る」とあるが、夫にもいただきたい
夫の残してくれた財産もあるし、亡くなった後も皆様のおかげでどんどん増えた分もあるから、生活面での心配はいらないとは言ったが、その財産は残された家族がこれから先生きていくために必要に応じて利用すればいい。私しか知らない幾つかの思い出話は、私自身が、何時、何処にででも勝手に使ってもいい私占有のへそくりということになる
金は遣えば無くなるが、頭は使えば使うほど良くなるは、夫の口癖で、私の訓練次第で、へそくりは増え続けるということになるかもしれない



Wikipedia
粕谷 一希(かすや かずき、193024 - 2014530)は東京府出身の日本の評論家編集者、出版事業家。都市出版株式会社相談役保守派の編集者として多くの書き手を送り出し、戦後日本の論壇に保守主義現実主義の潮流を築いた[1]
来歴・人物[編集]
東京雑司が谷に生まれる。東京府立第五中学校一高を経て、東京大学法学部卒業。学生時代には河合栄治郎和辻哲郎波多野精一猪木正道蠟山政道丸山眞男の著作を読み、高坂正顕鈴木成高西谷啓治高山岩男など敗戦後否定されていた京都学派の戦中の本を読んだ[1]
1955中央公論社に入社。「中央公論」編集部を振り出しに社内を転々と移る。その保守の思想信条を社長の嶋中鵬二に見込まれ、嶋中事件が起こった1961に「中央公論」編集部次長に抜擢された。
1967より「中央公論」編集長。永井陽之助高坂正堯萩原延寿山崎正和塩野七生庄司薫高橋英夫白川静などを世に送り出す。
思想の科学天皇制特集号廃棄事件で執筆者陣や労働組合の抗議を受け、『中央公論』編集長を解任されて同誌から派生した月刊誌『歴史と人物』編集長に就任。3年で『中央公論』編集長に返り咲く。しかし1976年に、山口昌男が担当していた連載時評の最終の二回分で、天皇制を文化人類学的に論じ(のち『知の遠近法』、岩波書店に収録)、部下がこれを掲載差し止めする事件が起き、編集長を解任された。後に粕谷自身は未読だったが、自分が読んでも書き直しをお願いしたかもしれないと回想している[2]
1978、労働争議に関連して辞表を提出退社。1980年、最初の著書『二十歳にして心朽ちたり』を上梓。1982年、江藤淳は「ユダの季節」を書いて、粕谷、中嶋嶺雄、山崎正和が徒党を組んで仲間褒めをしていると批判した[3]
1986、「東京人」誌を創刊。1987、都市出版株式会社を創業し、同社の代表取締役社長を長く務めた(そのときの部下の一人が坪内祐三)。退任後は相談役となる。
竹山道雄著作集、猪木正道著作集、高坂正堯著作集の出版にも携わった[1]
2014530日午後6時、心不全のため東京都豊島区の病院で死去[4]84歳没。
著書[編集]
  • 『二十歳にして心朽ちたり』新潮社 1980洋泉社MC新書 2007 
  • 『戦後思潮 知識人たちの肖像』日本経済新聞社 1981。藤原書店 2008(改訂版)
  • 『対比列伝 戦後人物像を再構築する』新潮社 1982
  • 『都会のアングル』TBSブリタニカ 1983
  • 河合栄治郎 闘う自由主義者とその系譜』日本経済新聞 1983
  • 『面白きこともなき世を面白く 高杉晋作遊記』新潮社 1984
  • 『東京あんとろぽろじい 人間・時間・風景』筑摩書房 1985
  • 『中央公論社と私』文藝春秋 1999
  • 『鎮魂吉田満とその時代』文春新書 2005
  • 『反時代的思索者 唐木順三とその周辺』藤原書店 2005
  • 『作家が死ぬと時代が変わる 戦後日本と雑誌ジャーナリズム』日本経済新聞社 2006
  • 内藤湖南への旅』藤原書店 2011
  • 『歴史をどう見るか 名編集者が語る日本近現代史』藤原書店 2012
  • 『粕谷一希随想集 (全3巻)』 藤原書店 2014。刊行中に没す
    • I 忘れえぬ人びと、II 歴史散策、III 編集者として




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