独裁者たちの最期の日々  Diane Ducret編  2017.4.18.

2017.4.18.  独裁者たちの最期の日々(上・下)
Les Derniers Jours des Dictateurs            2012

編者 
Diane Ducret ソルボンヌ大、高等師範学校卒。哲学修士号。テレビの文化ドキュメンタリー作品の制作に携わり、歴史番組で司会者を務める。Femmes de DictateurFemmes de Dictateur 2(『女と独裁者――愛欲と権力の世界史』)はベストセラーに
Emmanuel Hecht レクスプレス書籍部編集長

訳者 清水珠代 1962年京都市生まれ。85年上智大仏文卒

発行日           2017.3.15. 第1
発行所           原書房

本書は、世界に惨禍を巻き起こした主な独裁者たちの最期の日々に初めて焦点を当て、史実を追いながら、その今日的意味を問い掛けている。
信頼できる資料に裏付けられた臨場感あふれる24章はいずれも、多くの新たな事実を掘り起こした有意義なルポルタージュに基づいている。
これらの独裁者たちの肖像は、殺戮、陰謀、クーデター、革命が繰り返された残虐極まりない半世紀の歴史そのものだ。
秩序と繁栄の希望を餌に、民を欺き続けた体制の姿でもある。


まえがき――弔いの鐘が鳴るとき
世界の現状は、いまなお常軌を逸した政治体制に支配されている
さらに忘れてならないのは、暴政とまではいかないにせよ、強制力によって国民を自由から遠ざけている専制的政権
歴史の専門家とジャーナリストがそれぞれ歴史の大筋に今日的視点を織り込んで真実を伝えた24
暴君の死は、1つの世代がどの世代に属するのかを決める境界線になる
暴君の失脚によって真に人間らしい要求と自発的な連帯が生まれる
強迫観念の威力がなくなると、もはや独裁者は何者でもなくなる ⇒ 彼らは権力を掌握していると思っているが、権力が彼らを掌握している
冷血漢の処刑に対して人々が感じる不快感から、さらに苦い味を残す
独裁者の最期は、えてして伝説のクライマックスとなる。その不吉なあらましが過去のものだと思ってはならない

第1章        ドゥーチェの二度目の死
筆者 エマニュエル・エシュト(レクスプレス書籍部編集長)
1945.4.28. ムッソリーニは愛人とともに殺された。その時の状況にはいまだ謎が残る
翌朝ミラノに運ばれた遺体を群衆が吊し上げられ、さらし者にされた
ムッソリーニの政治家としての死は19437月、首相解任決議に基づき国王の命令で逮捕。以後1年半にわたり拘束されながら移動する
ヒトラーによって救出され、ヒトラーの傀儡政権であるサロ共和国を率いる
連合軍のイタリア上陸で退却を余儀なくされたが、その途上で拘束され殺害された
その時の状況については諸説あって定かではない

第2章        ヒトラーの自殺
筆者 ジャン=ポール・ブレド(パリ第4大学名誉教授。ドイツ史専門家)
連合軍の包囲網が狭められる中、ヒトラーは自分の姿をフリードリヒII世に重ね合わせ、7年戦争の時挟み撃ちに会いながら戦線離脱を拒んだとき、「ブランデンブルクの奇跡」が起こり、女帝エリザヴェータが亡くなり、後継者のピョートルIII世がプロイセンとの戦闘を中止させたが、今回もヤルタから憔悴しきって帰国したルーズヴェルトが亡くなり、後継のトルーマンはルーズヴェルトの政策を打ち切り「アジアの厄介者」に矛先を向けるだろうと踏んだが、とんでもない計算違いだった
3帝国末期の苦しみは、ヒトラーの倒錯したナルシシズムを増長させた。1941.11.27.ヒトラーは、敗北したとしても、ドイツ国民の運命に一滴の涙もこぼさないであろう、とすでに述べている。この仮定が現実となった最後の地下壕の中でも同じ言葉を繰り返した。5百万のドイツ人が、ヒトラーと祖国のために命を懸けたというのに、ヒトラーは、ドイツ国民は自分にふさわしくない、ゆえに滅びるべきだなどと罵倒した。ヒトラーのこの反応は、国家社会主義の奥深くに潜むニヒリズムをも表している
ヒトラーは、若い頃からワーグナーのファンで。《リエンツィ》の上演に何度も足を運び、死と自滅を選んだ反逆者の主人公に自分を重ね合わせていた

第3章        ペタン元帥は4度死ぬ
448月、ドイツ軍によってヴィシーから連行
8か月後、フランスにおいて国家反逆罪で起訴されていることを知ったペタンは、自己弁護するためにフランスに帰ることをヒトラーに頼んだが無視され、取り巻きがスイスに逃す。スイスはペタンを温かく迎えたが、あくまで法廷に出ることを目指して帰国・勾留される。裁判では815日に1413で死刑判決が下され、対独協力罪が加わって財産は没収、階級と勲章も剝奪されるが、2日後臨時政府主席ドゴールが89歳を過ぎた老元帥に「人道的」恩赦を与え、無期禁固刑に減刑
ペタン自らがかつて政治犯を送り込んだ要塞での拘禁生活は、抑鬱状態との闘いだったが、老衰で死ぬと思われていたのが、異様なほど健康状態がよく、新政府にとって厄介な囚人
49年から健康状態が悪化、51年には軍人保健局の監視下に置かれ、肺疾患が悪化し、7月死去
他界した後も、皆にとってペタンはまだ生きていた ⇒ 「ヴェルダンの勝者」を巡り、相続の争いに始まり、遺骨の安置、名誉回復のためいくつもの団体が設立された
73年、極右勢力の一派が遺体を掘り起こしドゥオモン納骨堂に収めようとしたが失敗、一族内で対立が起きているのをいいことに、政府は遺体をもとのユー島に埋葬し今日に至る。これが元帥の4度目の死

第4章        魔のソファ スターリン断末魔の5日間
妄想症で、死を恐れ、護衛に守られていた
1953.3.1. 陽が高くなってもスターリンの別荘は静か、夜10時になっても起きてこないので警備隊長が恐る恐る部屋を開けてみるとスターリンがパジャマ姿で床に倒れていた。倒れたのは朝7時ごろで、すぐにベリヤ、マレンコフ、フルシチョフ、ブルガーニンの4人組が呼ばれたが、医師団が呼ばれたのは倒れてから48時間後。重い脳出血で、悲観的な見方しかなかった
その日、ソヴィエト最高会議幹部会が開かれ、マレンコフが職務代行となり、すぐに「非スターリン化」が始まる
倒れた4日後に息を引き取るが、検視の結果、広範にわたる動脈硬化により脳内出血がさらに悪化したことが分かったものの、このことは長年秘密にされた
スターリン死去が世界中で報じられると、熱狂的なスターリン礼賛の声が上がる。当時、「陽気なジョージア人」スターリンの所業に、いかに闇の面があったかを知るものは稀であり、疑う者さえほとんどいなかった
「赤い悪魔」スターリンの犯した多くの罪は、徐々に明らかになっていった。しかし、多くの服役者の釈放、ベリヤの処刑(53)、フルシチョフのスターリン批判(56)、平和共存政策の一時的提示と、レーニン廟からのスターリンの遺体の撤去(61)といった出来事にもかかわらず、ソヴィエト連邦およびロシアはスターリンと縁が切れていない

第5章        トゥルヒーリョ、熱帯のカエサル
1961年、サント=ドミンゴでの路上でカーチェイスの上、射殺
アメリカが1年以上前から仕掛けていた罠にはまって死んだ
チボ(ヤギの意、トゥルヒーリョのこと)は、アメリカから轟々たる非難を浴びた独裁者
その後他国(ウガンダ、トーゴ、中央アフリカ、北朝鮮)の独裁者は、判で押したようにトゥルヒーリョ流統治を行った
白人と黒人の混血を隠すために白粉を塗り、四角いチョビ髭をはやす
異様なほどの虚栄心に煽られて集めた装飾品で飾り立て、友人フランコからは「遍歴騎士(パラダン)」と綽名された
田舎者で無教養、電報局職員から不良少年に成り下がった後、サトウキビ農園の管理人となって、そこで富を維持するために秩序と暴力を用いることを学ぶ
16年、アメリカ海兵隊のドミニカ上陸を機に、国家警備隊の兵士となり、熱心な「協力者」として振舞い、アメリカ占領に抵抗する同胞に対し容赦しなかったのが目に留まり、新たな国軍となった警備隊で着々と昇進。アメリカ式効率主義にかぶれた彼は、アメリカを第2の祖国と思うようになり、陣地の隅々にまで規律が徹底されていることに感動を覚えた
24年、アメリカがサント=ドミンゴから撤兵する際、保守派のバスケスを大統領に、新将軍トゥルヒーリョに軍隊を委ねた
30年、トゥルヒーリョはクーデターに成功。バスケスの失脚を救おうとせず、分裂した自由主義政党から唯一の候補者として指名され、大統領選では牙を剥き出し、残虐な武装集団を作って陰で操り、徹底した弾圧を加え、投票者数を上回る得票で当選
52年、アイゼンハワーはトゥルヒーリョを国連に迎え、会見で10分を割いたが、紹介者による肩書の読み上げだけで10分経ってしまい会見は終了
彼が率いる単独政党に就労者はすべて加入が義務付けられ、トゥルヒーリョは国民の生活のあらゆる領域に介入する軍隊の最高司令官になった
カエサルの顰に倣い、共和国のうわべをゴテゴテに飾り立てた
大統領在位は18年間だけだったが、後継者はトゥルヒーリョの傀儡で、すべては彼の支配下にあり、トゥルヒーリョの像が1870も建てられ、首都も「トゥルヒーリョ市」と改称
100ドルと引き換えに子供の名付け親になり、自らをキリストに例える一人芝居を演じた
政権掌握の日を起点にしたカレンダーを作り、1年は一族を中心に祝日が組まれた。一族は瞬く間にドミニカ随一の大地主になり、大統領の個人資産は国家予算を上回った
2百万の国民に対し、軍事情報機関が10万人の諜報員を置き、国民を監視下に置く
マリオ・バルガス=リョサの『チボの狂宴』、ガルシア・マルケスの『族長の秋』、ジャン・コーの『トロピカナス』などでも独裁政治を取り上げ、酷評している
38年、国境付近に住むハイチ人をドミニカの農民が虐殺、黒人の一掃を主張していたトゥルヒーリョの軍が加勢
2次大戦で一度救われている ⇒ 日米開戦時、アメリカ側につきルーズベルトを喜ばせたが、ドイツの潜水艦の停泊を認めるとも仄めかしたので、騙されなかった
冷戦でさらに勢いを増したトゥルヒーリョは、政権発足25周年を、国家予算の1/3を使って派手に祝った後、56年以降の米ソ緊張緩和により立場が危うくなる
55年のアルゼンチンのペロンを皮切りに中南米の独裁政権が次々に崩壊、59年にはキューバのバティスタが失脚。周辺国の暴君たちはこぞって最後の楽園サント=ドミンゴに亡命。トゥルヒーリョは彼らを受け入れる代わりに法外な謝礼を取る
60年のベネズエラ大統領ベタンクールの暗殺未遂事件、ニューヨークで起きたバスク系反政府派ガリンデスの誘拐事件に対し、世界中からの非難を浴びる
61年、ケネディはトゥルヒーリョ打倒計画にゴーサインを出すが、同時にキューバのカストロの排除も計画、ピッグス湾の失敗で、トゥルヒーリョは命拾いしたかに見えたが、武装した陰謀加担者は計画を実行
息子が遺体を引き取ってフランスに運び、彼に対し真の寛大さを示したフランスの墓地に眠る
今日、サント=ドミンゴに「ヤギ」の31年に亘る独裁政治の爪痕は一切残っていない。「祖国の恩人」の記憶を捨て去ることで、民主主義への長い道のりは開かれた

第6章        ゴ・ディン・ジエム、「自己流愛国」大統領の死
アジアの共産主義化を阻止しようとしたアメリカの盾の役割を果たした南ベトナム大統領は、瞬く間に厄介な同盟国、さらには招かれざる客となった。63年、アメリカがジエムを見捨てたことは、南ベトナム政体の崩壊が早まり、内戦が深刻化するという想定外の結果をもたらす
54年のインドシナ戦争終結以来、強権支配を行ってきたが、世情は混沌として来て手に負えなくなりつつあった
アメリカはあの手この手でおだて挙げ、南ベトナムを反共産主義の拠点として確保しようとした
63年、それまで何度も繰り返され都度失敗に帰したジエム政権転覆の試みが成功、混乱の中でジエム兄弟が殺害され、独裁体制は終わる
ホー・チ・ミンはジエムを「自己流愛国者」だといったが、2人とも不屈の愛国心と独立心を持ち合わせていたことは同じ
ジエム政権の失政が決定的になったのは、60年に結成され北ベトナムから軍事援助を受けていた南ベトナム共産主義者を意味した「ベトコン」への対応と同時に、少数派であるカトリックの極度の優遇に不満を抱いた仏教徒の抵抗で、63年の仏教徒の祭礼での流血事件は仏教徒の抗議運動を瞬時に全国に広げ命取りに ⇒ 仏僧の焼身自殺の写真は世界中を駆け巡り、ジエムに対する強い国際的非難を呼び起こした
アメリカ国務省の少数グループが、最後通牒という形で極秘電報を打ち、クーデターへのゴーサインを出すが、留守中に出された電報に対しケネディや重要な側近たちは批判と不満をぶつけたものの、ベトナムへの内政干渉拡大に歯止めを掛けられなかったケネディは、思いもよらぬジエムの追悼演説を行い後悔と危惧をにじませた ⇒ 直後にケネディ暗殺
クーデターにより南ベトナムの政治と社会はますます不安定となり、クーデターが次々と起こり、ベトナムの米作農民にとってもジエム兄弟の死に期待が膨らんだが、強く願った平和は結局遠ざかってしまった

第7章        パパ・ドクの静かな死
「パパ・ドク」ことフランソワ・デュヴァリエは、「黒人主義」とブードゥー教を基盤として貧しい国ハイチで親衛隊を味方につけ14年間圧政を敷き、71年死去
アメリカ占領下のハイチで、臨床医として社会人の第1歩を踏み出す。献身的な医者としての業績が認められ、労働省及び公共保健省の長官に就任
56年、軍部のクーデターによって大統領に担がれた途端に、人種的報復主義を唱え、白人も混血も排除し純血種の楽園を夢見た1804年即位の皇帝デサリーヌを念頭に置き、「黒人主義」を貫ぬく ⇒ 支持してくれた将軍たちを追い落とし、「コミュニスト」を抹殺
61年再選されると、「終身大統領」の地位を手にし、一院制を導入して服従を強いられる議会を設置、恐怖政治を敷く
熱狂的な個人崇拝を伴い、自らを「この世ならぬ存在」と吹聴。妄想症で執念深い
キリスト教とブードゥー教を混ぜ合わせた信仰により、「文盲化」という壮大なキャンペーンによって人々を啓蒙し、「デュヴァリエ主義的終油」と称して武器を使った反対派撲滅を徹底。ポルトープランスから司教を追放したためヴァチカンから破門された後も、ブードゥー教の司祭と呪術師は大事にしてすべてに優先した
71年、脳充血で半身不随になった際、国民投票は反対ゼロで大統領の家系存続のシナリオを承認し、憲法が改正され、大統領令によって19歳の息子の年齢を3歳上げて大統領適格とし、「世界初の黒人による共和制国家」が世襲君主制を打ち立てた
国民の90%は文盲、60%は失業、車の走行可能な道は80㎞のみ
86年、民衆が蜂起、息子は米軍機で国外へ逃亡、後フランスに亡命

第8章        フランコの果てなき苦しみ
7510月、最初の冠状動脈不全を起こし、その後急性心不全、翌月死去
72年に10.7%の経済成長率の世界記録を達成してスペインに新時代を切り開いた「奇跡の」成長は鈍化し、75年には1.5%に下落、物価は75年初には21%高騰、フランコ体制は硬直化し、経済危機が起こり、社会にくすぶる不満は爆発寸前
73年には、バスク・ナショナリズム運動を進めるバスク分離主義者によって首相が爆殺
法王も政権の圧政を非難したが、フランコは意に介さず
69年、フランコは王政復古を考え、前国王アルフォンソ13世の孫ファン・カルロスを後継者に指名し、自らの意のままにしようと早くから帝王学を仕込む
75年、フランコ臨終の頃、ファン・カルロスはひそかに民主的反体制派の代表と接触し、フランコ体制との決別を決意
フランコのいないスペインなど想像できなかったが、死去に際しては想定された混乱も起きずに数万人の国民が葬儀に参列、ピノチェトやレーニエ大公も参列したが、ヨーロッパ主要国の元首は1人も来なかった

第9章        毛沢東の長い死
74年、毛はALSが進行して体が不自由になっても実権を手放そうとしなかった
文革の成果を守ろうとする江青率いる極左と、それを断ち切ろうとする鄧小平率いる右傾派の対立が激化。毛は混乱回避のため鄧を幹部に復帰させる
毛の忠実な部下でありながら、文革の批判者で政治的には対立していた周恩来が、ぼうこうがんで76年初に死去。毛は文革への批判が止むと期待したが、追悼集会が民衆の不満噴出の機会となり、暴動へと発展、鄧を逮捕したが軍の支持が背景にあって処分は保留
5か月後に毛は心筋梗塞の発作を起こし、9月に死去。7億の国民が心から悲しむ姿が仏テレビ局から世界中に放映された
個人崇拝ではなく、誇大妄想的狂気によってずば抜けて多く犠牲者を出した独裁者の神格化だった。610百万の虐殺、20百万の労働改造所(強制収容所)の死者、飢餓による43百万の死者(5961年の「大躍進」の時は特に悲惨)。スターリンでさえここまで見事にはやらなかった
文革の完全な破綻、強気、全国民に与える屈辱が、国外だけでなく中国人民にすら徐々に知れ渡りつつあったのに、文革に根拠のない夢を描いたパリの思想家は多かった ⇒ フランスのメディアの取り上げ方は異常で、毛の業績に尋常ではない熱い称賛を与え、中国の最高権力者の中で最も容赦なく冷酷で残虐だったにせよ、「多少の犠牲」と「いくつかの過ち」と引き換えに祖国を封建制から脱却させた人物と見做した
きわめつきはジスカール・デスタンの言葉、「毛主席とともに世界の思想の灯は消えた」
時を経るにつれ、毛の死についての論調が変わって来た。06年のユン・チアン等による毛沢東伝の大著は理想主義者でも理論家でもない、冷血漢としての毛を余すところなく描いている

第10章     フワーリ・ブーメディエンの最期の日々
78年末、大統領を思って国中が泣いた。仏植民地化に抵抗した国民解放軍の総合参謀総長の死には、すべての若者が称賛し悲しみ、ブーメディエン万歳が繰り返された
3か月前シリア訪問の際腎不全と診断、翌月モスクワへ向かい病名がはっきりしないままソ連医師団による最高の治療が施され、11月アルジェに戻った直後に昏睡状態に
世界中から名医が集められ、病名は骨髄、脾臓、リンパ節に広がる悪性血液疾患の1つ、ワルデンシュトレーム病とされた
国内東部の貧しい農家の息子が、第3世界を率いる国の1つとして地位を確立した、独立後のアルジェリアを代表する顔となった。過去に犯した誤りはすべて忘れられ、崇拝に変わる。学生時代から地下活動鵜に入り、民主的自由の勝利のための運動に参加、民族解放戦線のゲリラ、軍人として活躍。元の名を捨て、イスラム神秘主義者にあやかって改姓
規律、厳格さ、効率を体現、62年にアルジェリアが独立した際は、革命評議会副議長として陰で支え、3年後クーデターで政権の座に就く
東ヨーロッパの全体主義の手法を会得したナショナリストで、ソヴィエト式計画化を導入
68年、フランス軍撤退、71年大規模な油田とガス田の所有権返還、国有化を宣言
カストロやナセルに劣らず北の民主主義諸国を脅かしたが、当時は人権や独裁についての問題は今日ほど関心を持たれていなかった。警察の指導的役割の問題、反対派の弾圧における拷問の可否、基本的人権の徹底的侵害は、重要な事柄として取り上げられなかった
国内での「工業化工業」を優先させたあまり農業国を揺るがす結果となり、四半世紀で人口は50%も増加したが、失業率は3倍となり若者は街に溢れた。にもかかわらず、若者たちは祖国とその歴史を誇りに思い、1党制下の世界しか知らないままにブーメディエン万歳を叫んでいた

第11章     ポルポトは6度死ぬ
44か月(7579)にわたってカンボジアを支配し、大量虐殺を行った後にも20年近い彷徨を続け、クメール・ルージュ(67年当時国家元首シハヌークが左翼ゲリラに付けた蔑称)の象徴的指導者として政界での生き残りをかけて徹底抗戦した
タイ国境にある地味な墓は、観光庁によって史跡に指定されている
ポル・ポトが死んだのは98年だが、それまで4度の死を経験 ⇒ 権力の失墜、企ての失敗、希望の消滅、活動の停止の4
25年生まれ。62年共産党の書記長に就任。5度の内戦や、アメリカやベトナムの軍事介入を経て、75年クメール・ルージュが政権掌握、77年統一ベトナムと交戦状態になり、79年ポル・ポト政権崩壊。その間人口の1/5に当たる1.5百万が殺された
2度目の死は81年、カンプチア共産党の解散 ⇒ 反ベトナム連合政府設立を期し、シハヌーク他の非共産主義勢力との裏工作を行い、82ASEANの後押しで連合政府誕生、クメール・ルージュは孤立を脱し、ポル・ポトが実権を握って、ベトナム人への根深い敵意を拠り所に、クメール・ナショナリズムとして最も人種差別的な行為に走る
3度目の死は91年パリで成立したカンボジア和平協定によるもの ⇒ 自由選挙の体制を整えるまでの間国連の保護領にするかのような内容。ゴルバチョフによる改革の余波で89年にベトナム軍が撤退し、ポル・ポト派が再び政権を奪取する好機だったが、93年の国民議会選挙ではカンプチア人民共和国を率いたフン・センとシハヌークの息子ラナリットとの連立政権が誕生、シハヌークも王位に返り咲く
アメリカも冷戦終結によって、90年には反ベトナム勢力、ひいてはポル・ポト派への支援を打ち切り、95年にはASEANに加盟したベトナムと国交回復
中国もクメール・ルージュへの資金と武器の援助を終了、国民議会からは非合法化される
4度目の死は97年、ポル・ポトの疑心暗鬼から内部抗争となり拘束され、クメール・ルージュの裁判にかけられ、終身禁固刑。95年脳卒中で左半身不随となり、片目は失明同然
5度目の死が98年、国際法廷に引き渡す工作が行われている最中に死去。服毒自殺説が強い。遺体は葬儀もなしに古タイヤとともに焼かれた。再婚した若い妻は間もなく彼の最後の秘書と再婚、相手は政権党の重鎮にして裕福な実業家

第12章     パフラヴィ― II世、最後の皇帝(シャー)
79年、イスラム原理主義を掲げるシーア派が企てたイスラム革命によって失脚、夫妻でエジプトへ亡命。3年前から血液の癌でフランスの権威の治療を受けていた
サダトの英断で亡命を受け入れたが、その後はイランの同盟国のはずの国々もいい顔をせず、沈黙を守ったため、諸国を治療のために果てしなく彷徨うことになる
パフラヴィ―は20世紀終盤の風潮にそぐわない独裁政権を打ち立て、石油という授かりものをドル箱に欧米に接近し、あえてペルシャの伝統を覆そうとした。個人崇拝も甚だしく、秘密警察のサヴァクは反対派を抹殺
パフラヴィ―の父レザー・シャーも第2次大戦中、現実味のない中立を保つことに失敗しヒトラー率いるドイツに傾斜した際、石油資源確保のために連携した英露の圧力を受けて退位、南アフリカに亡命して死去している
41年、パフラヴィ―はイランの領土を占領した強大国の支持を得て皇帝に即位。英露が撤退した後はアメリカの圧力が増す。共産党による国王暗殺未遂事件を契機に非合法化するが、モサッデグ率いる国民戦線が外国に隷属することに断固反対し石油の国有化を狙って51年には石油労働者のストライキを後押しする
イギリスは、世界の石油会社に働きかけてイラン石油のボイコットを行い、減産に追い込まれたイランの経済は悪化。モサッデグは国王に退位を迫ったため、53年ローマに亡命するが、英米が糸を引いた反モサッデグの軍事クーデターによって王位は復権、モサッデグは投獄され、そのまま死去
復権したパフラヴィ―は、5967年にかけて欧米の権益を守り、社会の変革を断行、アメリカ依存で強制的になり、反体制派を秘密警察を使って沈黙させた
603度目の結婚でようやく世継ぎ誕生
63年国民投票に続き、皇帝は「白色革命」を開始。根本的な農地改革、婦人参政権導入などの近代化政策を推し進めたため、伝統主義者からは長い歴史を持つ国家の社会的、経済的基盤を覆したと非難され、教育を受けた自由主義的中産階級からも背かれ、シーア派聖職者からも最貧困層からも反発を招く ⇒ アヤトラ(シーア派指導者)ホメイニの逮捕を契機に、反体制派が蜂起
67年戴冠式が行われた頃が皇帝の絶頂 ⇒ アメリカを重要な同盟国としながら、ソ連にも接近、70年にはソ連とともに世界最長のガスパイプラインを開通させる
71年の建国2500年の祝典は豪華絢爛。古代ペルシャ王の後継者をもって自任、イスラム歴を廃止、帝国歴を採用、アケメネス朝ペルシャに回帰
77年から、パフラヴィ―は重病に侵されながらも強権的支配をさらに強化、イスラム教徒と共産主義者の両面から帝政への恨みが増すとともに、欧米諸国も距離を置くようになる
73年の石油危機後の原油価格高騰で政府は潤ったが、その反動で反体制派の不満は増大、貧富の差は拡大。75年から石油輸出が減ると財政も逼迫
78年、軍が反乱軍に発砲、軍の支持を失った皇帝は退位せざるを得ない状況に追い込まれ、国外脱出へ
トルコとイラクに亡命した後ジスカール・デスタンに匿われていたホメイニ師がパリから革命を指示。欧米諸国もイラン・イスラム共和国を承認するしかなかった
パフラヴィ―は、アスワンからモロッコ、アメリカ、パナマ、エジプトと1年半に亘って彷徨い、80年死去。最後に息子に、「国民に寄り添うように」と、忠告を与えたという

第13章     イディ・アミン・ダダ、黒い卑劣漢の破滅
03年、アミンは亡命の地サウジで死去。79年に「カンパラの人食い鬼」と呼ばれながら8年間恐怖の中で惨めな逃亡を続けたあと一度死んでいる
「世界最大の国家元首」であり、自称「スコットランド最後の王」(06年このタイトルで映画化されている)は、24年間の亡命生活の後、祖国で死ぬ権利を要求したが、30万の国民を虐殺(人口の3)80万の孤児を作った罪をあがなうべきとして却下された
雲を突くような大男で東アフリカのイギリス植民地軍の現地人兵士だったアミンは、炊事係から身を起こし、52年マウマウ団の乱の鎮圧で頭角を現し、ウガンダに戻ると国内の反乱の弾圧にも貢献、62年の独立間近かには虐殺によって軍法会議にかけられたが、イギリスの後ろ盾で助かり、独立時には参謀長に昇格
独立後は首相のオボテと「金粉付き双子」と呼ばれたように、コンゴの反乱に乗じた武器の密売や、象牙や貴金属の不正取引を結託して行うが、やがて2人は離反、オボテの国外訪問の際に乗じて71年流血なしに権力を掌握
イギリスは思いのままに操れるとアミンの動向に期待したが、徹底した弾圧、固い同盟関係にあったイスラエルと国交断絶しカダフィを助言者としてパレスティナを支持、人口の5%にも満たないイスラム教徒で、アラブの首脳に始まってモスクワ、北京、ハバナ、パリでも歓迎される状況に、すぐに失望
74年には神のお告げと言って、ウガンダに数世代に亘って住み国内産業とビジネスの半分以上を支配していたインド人とパキスタン人を国外に追放したため、チャーチルが「アフリカの真珠」と呼んだ国は荒廃
75年、アフリカ統一機構の議長を1年間務め、有頂天になったアミンは、76年パレスティナ人グループのハイジャック犯を歓迎したが、犯人はイスラエル軍特殊部隊に射殺されて失敗に終わる
失地回復を目指して、アミンはカダフィの支援も受けてタンザニアに出撃するも、ウガンダ民族解放戦線軍とともに逆襲され国外に逃亡、以後24年間リヤドに匿われて、虐殺数10万とも30万ともいわれる83か月の恐怖政治に関し何の処罰も受けなかった

第14章     ティトーの長い夜
45年、ティトーはソ連からユーゴの自立を成し遂げるが、80年亡くなるとユーゴは内部から崩壊し始めた
80年初頭、87歳のティトーの体調が急変、動脈硬化が全身に広まり断末魔の苦しみに耐えあらゆる手段で延命治療を受けたが、
6共和国と2自治州の連合はティトーの指導力とカリスマ性によってのみ存続し、後継者を決めていなかったので、死後は8つに分裂し大混乱が予想された
ティトーは、第3世界諸国の非同盟主義のリーダーとして、国連での非同盟諸国の票と引き換えに金を稼いだ
1次大戦では、オーストリア=ハンガリー軍のクロアチア隊に入り、ロシア戦線で捕虜となり、革命で脱出、祖国に帰る。ユーゴの共産党に入り頭角を現し、ティトーという偽名を使って地下活動に入る。効率的な粛正が評価され、反対派を徹底的に排除。スターリンよりスターリン的だった
2次大戦の勃発により、ティトーは独ソ不可侵条約を盾に取り自国の中立を主張、摂政が日独伊3国同盟加盟条約に調印すると41年にクーデターを起こし、ソ連が参戦するとようやく対独抵抗運動を呼びかけるが、連合軍に支援されたミハイロヴィッチ将軍の対独抵抗組織を敵視、連合軍が将軍から自分に乗り換えたことを確認して、不正選挙によってティトーはユーゴの首相(後に大統領)に就任
48年にはスターリンと訣別。反主流派共産主義者を始め、反対派への徹底した弾圧政治を断行
ティト-の葬儀には、東西の首脳が一堂に会した。数百年来の敵同士だった民族を人為的に結び付けた人物の棺の前に、敵同士の指導者たちがやはり人為的に集合していた
10年後の90年、ベオグラード対ディナモ・ザグレブのサッカー試合は数時間の乱闘に発展、クロアチアとセルビアとの紛争の始まりで、第1次大戦後難産で生まれ、憎悪によって滅びた国ユーゴスラヴィアの崩壊の始まり
ユーゴは80年の寿命、ティトーより8年短い

第15章     あの世に駆り立てられたブレジネフ
根は現状維持主義を選んだ陽気な享楽主義者
典型的な機関専従員(アパラチク)。ウクライナからモルダヴィア(旧ルーマニア領)共産党を率いるが、52年心筋梗塞。その年フルシチョフとともに中央委員会に入り、政治局に昇格、64年フルシチョフを追い落として第1書記に就任し18年間の政権が始まる
75年には国力が最高潮に達し、以後は停滞
ブレジネフ自身も共産主義の教条を信じなくなり、68年に激務から神経系統に支障を来たし、睡眠薬依存症から742度目の心筋梗塞を発症、近代化の大計画は放置された
ブレジネフの影は薄くなり、KGB議長のアンドロポフが後釜を狙い、ブレジネフ一族の不正を暴くべく手を巡らせていた
アンドロポフは、67年から政府高官の健康管理の責任者としてチャゾフを引き入れ、ブレジネフにも睡眠薬と称して偽の薬を渡していた疑いがある ⇒ すでに引退を表明し次の人事を決めていたブレジネフの死の前日、議長退任を宣告されていたアンドロポフだけが面会に訪れ、死の当日警備員が倒れていたブレジネフを発見した際にも適切な処置をさせなかったのはチャゾフの指揮によるものとの憶測がある
その2年後、次の座を狙うチェルネンコがチャゾフの手を借りて、アンドロポフの持病の悪化を招き死期を早めさせることになろうとは、アンドロポフは知る由もなかった
指導者のせいで、国民はどうしようもない冷笑的態度が染みついていた。2012年になってもロシアは相変わらずその代償を払って終わっていない。「資本主義」は「共産主義」に取って代わったが、冷笑的態度は依然として残っているどころか、ますますひどくなっている
今のロシア人は、1980年頃彼らの多くがソヴィエトの(腐敗しきった)システムに心の底から強く反発していたことを忘れている。「国民は記憶を持たない」とヘーゲルは言った

第16章     見捨てられたマルコス
86年、マルコス一家はアメリカ軍の2機のヘリでクラーク米軍基地経由、ハワイに亡命
レーガン大統領は最後までマルコスを支援
65年大統領になったマルコスは、抗日戦争での戦功により、戦後の政界でスピード出世を遂げ、何期が議員を務めた後63年上院議長
72年、3期目の立候補ができないため、共産主義者の反乱が拡大する恐れがあるという理由で戒厳令を布告、アメリカも黙認
アメリカの太平洋地域における影響力維持にフィリピンは不可欠な存在であり、マルコスは「役に立つ男」だった
腐敗と失政によりマルコス批判が強まるなか、レーガン政権はマルコス支持を続ける
86年、マルコスは大統領選を2年前倒しで行い、基盤を固めるために暴力行為と不正によって僅差で、暗殺された政敵の未亡人アキノを破ったが、軍事クーデターが準備され、大群衆が反マルコス運動に参加するに至って、さすがのレーガンもマルコスに見切りをつけ引導を渡し、政権は平和裏にアキノ夫人に受け継がれた
マルコス夫妻の優雅な亡命生活も長くは続かず、数年前から苦しめられた病のため、3年半後に死去

第17章     「至高の存在」ストロエスネル最期の静かな日々
ストロエスネル将軍は、軍部に支持されパラグアイに35年間専制政治を敷いた。南米先住民の言葉、グアラニー語を話せたこともあり、大農園のように国を治めた
89年に追放され、最後の17年間はブラジリアで亡命生活を送り、パラグアイでの処罰は免れたが、ブラジルでは2重の刑に処せられた。退屈と孤独だ
公式伝記作者が「国運の天才的導き手」と呼んだストロエスネルは、皮膚癌と肺の合併症により死去。アスンシオンで最期を迎えたいとの希望は叶わず、遺骨も戻すことが許されなかった
南米では、83年にアルゼンチンが、85年にブラジルとウルグアイの独裁政権が崩壊、残るはストロエスネルとピノチェトのみ。ピノチェトも90年崩壊
35年間という記録的長期の政権の独裁ぶりは、人口3.8百万のパラグアイをあらゆる密売人の黄金郷とし、酒・たばこ・麻薬、すべてがこの闇取引の中継点を通過、軍が商取引の40%を仕切り、合法同然
諸外国の犯罪人の永久の隠れ場所になる
ストロエスネルは、ヒトラーやムッソリーニを称賛する反共産主義の闘士であり狂信的、独特の密告集団を組織し、秘密警察が目を光らせた
35年間に2百万が亡命
父はドイツからの移住者、母が地元の農婦、パラグアイの公用語であるグアラニー語を習得。ボリビアとの戦争に従軍、47年の内戦時、アルゼンチンの支援を受けて反動派を撃退し、南米最年少の将軍に昇格。54年にクーデターを起こして大統領を倒し、対立候補のないまま大統領に就任、以後35年に亘り非常事態が続き、民主的な見せかけのため、3か月ごとに延長され、8回に亘って形式上の選挙が行われ、都度大統領に選出された
国を大農園のように見立て、家長のように統治、すべてに目を通し、大学の修了式で好みの女性を選んだ
国民の2/3は貧困に喘いでいたが、イグアスの滝の上流に建設されたイタイプ発電所により、電力のブラジルへの輸出で経済成長率が急伸
アメリカにとって、パラグアイの反共主義は好都合だったが、アルゼンチンとブラジルに民主政権が成立すると、レーガンはストロエスネルを見捨て、ヨハネ・パウロII世もアスンシオンを訪問し制度の自由化と人権尊重を説き、ストロエスネルの命運も尽きる
89年、娘の義父ロドリゲス将軍によるクーデターでブラジリアに亡命
「至高の存在」と称えられた前任大統領フランシア(在任181440)の記憶もかすむほどの圧政を敷いた

第18章     チャウシャスク夫妻の血塗られたクリスマス
89年、近隣諸国で続いた無血革命に怯え、ベルリンの壁崩壊を聞きながら、イランへの公式訪問から帰国した直後、ティミショアラで勃発した暴動の余波を受け、ブカレストでの暴動も手がつけられなくなり、スタンクレスク将軍(のちの国防相)が救国戦線と大統領の間に入って、大統領をブルガリアに亡命させ、新政権を誕生させる
亡命途中でヘリが国境を越えられずに、大統領夫妻は兵舎に逃げ込むが、クリスマスイブの夜新政権による急ごしらえの裁判で死刑が宣告され、翌日兵舎に銃殺隊が向かい刑を執行。歴史的な共産主義の裁判のまたとない機会が失われた

第19章     セックスとドラッグとノリエガ
8389年、軍職と国家元首を代わる代わる務め、CIAに協力しながら、コロンビアの犯罪組織メデジン・カルテルと取引をしていた
6070年、アメリカはノリエガをパナマとの重要なつなぎ役に選ぶ
83年、パナマ国防軍司令官に昇進、密かにCIAに協力して情報を提供する一方、コロンビアとの取引で資金洗浄を請け負う
87年、ブッシュは、ノリエガとキューバ、ニカラグア、リビアとの密接な関係を懸念し、パナマ運河の支配権を失うことを恐れた
89年、ノリエガは、大統領選で負けた結果を無効とし、クーデターに関与した将軍を追放、「戦争状態」を宣言。駐屯していた米海兵隊員が射殺された事件を機にブッシュは軍事介入に踏み切るが、領土は制圧したものの、ノリエガは友好国の大使館にも受け入れられずに最後にヴァチカン教皇大使館に逃げ込む
90.1.3. 大使の説得に応じて投降、米軍によってフロリダで収監された

第20章     モブツ、「大ヒョウ」の敗走
策略と暴力で32年間統治したコンゴ/ザイールの「略奪のボス」は、97年逃亡に追い込まれ、100日後亡命先のモロッコで死去
全盛期、「至高の指導者」「舵取り」「パパ元帥」と呼ばれノーベル文学賞作家ナイポールは『暗い河』に、破天荒で不気味な登場人物「ビッグ・マン」として彼を描き出した
つましいカトリック教徒の家に生まれ、7年間強制的に軍隊に入れられた後、新聞社でコンゴ国民運動を創設した反植民地主義者のルムンバと出会い、ベルギーとの独立交渉に参加、60年の独立時にはルムンバ首相のもと大臣補佐、参謀総長に抜擢。3か月後には軍事クーデターに成功、CIAに睨まれたルムンバを除去したことでアメリカの秘密情報機関とも近くなる。西側はモブツを共産主義に対する盾として友好関係を結んだため、65年に全権を握ると憲法を失効させ、議会を解散。暴力、策略、虚言によって「大ヒョウ」の独裁政権が固められた。政治体制の中心に恐怖を据え、マッキアヴェッリの君主論を愛読
お気に入りのスローガンは、ナチズムと同じ、「1人の指導者、1つの民族、1つの党」
サバンナの国を率いたバントゥー系の王の後継者であろうとした
71年、国、川、通貨がザイールと改称。個人崇拝を進め、経済の「ザイール化」のため外国の実業家から資産と権益を取り上げたため大混乱を引き起こす
74年、キンシャサでモハメド・アリとジョージ・フォアマンの「世紀の戦い」
自分の国を略奪し、一族を徹底的に優遇。外国からの援助金を詐取、鉱山会社の収益金を横領
ベルリンの壁の崩壊とアフリカに吹いた民主主義の風がモブツを譲歩させ、7年間の混乱の過渡期が始まる ⇒ 国家会議が政府を批判する人民裁判に様変わりし、モブツの宿敵で反乱軍を率いたカビラがアメリカの支援を得てモブツ政権を打倒。バックにいたのはウガンダのツチ族。クリントンは95年末からモブツ打倒を画策していたという
97年、キンシャサでは配下の将軍が投降、裏切り、逃亡し、モブツと家族はトーゴ共和国へ向け亡命。15年後の今、丘の宮殿も専用船も亡霊の潜む廃墟でしかない

第21章     サダム・フセイン、「最後の決戦」
0612月、凍てつくバグダードの絞首台の下でフセインの生涯は終わった
大量虐殺と人道に対する罪で8週間前に絞首刑の判決を受け、体面を保つために銃殺を要求したが、そうした「名誉」は認められなかった
イスラムの英雄サラディンとネブカドネザル王の後継者を最後まで自任し、信仰告白を唱えて死んだ
60年代半ばの獄中生活の間、スターリンの著書や伝記を貪るように読んだ

第22章     ベン・アリーの退散
23年間チュニジアの専制支配をつづけたアリーは、大衆の圧力に抗しきれず国外に逃亡したが、政権崩壊は「トラベルシ家」の崩壊でもあった。大統領夫人の実家はマフィアそのもので、国家財政を全面的に牛耳っていた
11年、アリーはサウジのジッダに亡命、国際指名手配となっているのでアラビア半島を出ることはできない
アリーは大規模のデモ行進を前に、政権維持に望みをかけて、14年の任期満了時に自身の退任と制度の自由化を約束したが遅すぎた
10年末、1人の失業中の青年が警察官に無許可販売を咎められ商品を没収されたため焼身自殺を図った際、座り込みをした若者と警官隊の間で悶着が置き、ジャスミン革命が始まり、1か月で独裁政権が崩壊
民衆の異議申し立て運動は、政府の腐敗も糾弾、トラベルシ一族が国家経済を私物化してきたとしてやり玉に挙げる ⇒ 数日後にはネット上で政治経済の展望のなさ、汚職の蔓延を訴える声が上がり、民衆の抗議運動が暴動に発展、流血の弾圧がネットで配信され流れを変える
87年にアリーが腐敗した政権を倒し権力を握ったときには大きな期待が寄せられたが、就任直後にブルギバ大統領を引きずりおろし、終身大統領を廃止したが、抑圧されたイスラム主義者が反体制に走り91年のテロを契機に内戦となり、政府の弾圧は激化。トラベルシの娘と再婚したのも92年で、厄介な義理の兄弟を10人も抱える
警察国家となったチュニジアは、監視網が巡らされ、上辺だけの多党制で反体制派を抑圧
中産階級に対する利益誘導型の政治手法により、消費の循環に国民を組み入れようとしたが、若者を労働市場に取り込むことはできず、特に内陸部では「奇跡の発展」から取り残され一触即発の騒乱が続いた
もう一つの不満は、トラベルシ一族への優遇措置と国家経済の全面支配・私物化
高慢ちきな妻が人事にも介入、パンプス好きはイメルダに勝るとも劣らなかった

第23章     カダフィ、迷えるベドウィンの浮かれたパレード
ナセルを崇拝、恐怖政治を敷き、欧米諸国を相手に鼬ごっこを繰り広げた挙句、下水管の中で惨めな死に方をした
カダフィの最期はグロテスクどころではなく、凶暴で屈辱的で不名誉。悪魔祓いの儀式にも似ていて、嫌われ恐れられた暴君の権威を失墜させることによって長年の恐怖と過去の恥辱を洗い流した
最期の1か月前トリポリから逃げ出したカダフィは、忠誠心が強いと言われるベドウィン族を必死にかき集めたが、離脱が相次いで頼りにならず、壊走行が始まる。憎悪にかられた群衆によって滅多打ちにされ死去。遺体は卸売市場の冷蔵室に保管され、見物の行列が5日間続いた
一時期アラブ・アフリカの指導者で最高齢だったカダフィの政権維持のコツは、意図的な無秩序の術と天才的な言い逃れで、年長者への忠誠がいかに重要かを心得、部族の長、イスラム教の教団、高官、革命家に対して絶えず機嫌を取りながら、金儲けしか眼中にない若手親衛隊にも気を配った。日和見主義でリビアに課された村八分を少しでも早く解くために、タイミングよく改心した嫌われ者を演じた
テロリストによる航空機爆破事件に対しリビア政府は補償金を払い、安い値段で面目を施したし、英米との秘密交渉の結果、生物・化学・核兵器開発計画を放棄して、「悪の枢軸」から寝返ったリビアに対し西側諸国は制裁を解除
愛国者カダフィは、ベンガジの士官学校から、「自由将校団」なる地下組織を結成して、69年無血革命に成功。ポンピドゥーは「アラブ世界の希望」と評価した
権力の座に着くや、近隣諸国との統合構想を立て持ち掛けた相手は14に上るが、直後に失敗。サダトはカダフィを「悪魔に憑かれた男」と呼び、愛のない縁組をひたすら妨害

第24章     金正日(キム・ジョンイル)、親の七光り
11年、金正日死去 ⇒ 地方視察に向かう途上、専用の装甲列車の中で心臓発作、死亡
遺体は永久保存処置が施され霊廟に父と並んで安置され、国中に服喪令が発布
金正日の政権下、国中が飢えに苦しみ、その一方で核兵器を保有、国内総生産の1/3が防衛費に充てられ24百万の空腹の民と獄中に20万の政治犯がいた
30年代初めから、金日成は朝鮮半島北の満洲の山中で日本の専制的支配に抵抗し、共産党傘下の抵抗組織に加わった
42年金正日は、白頭山の上に輝く星の下で生まれたとされるが、イデオロギーと完璧に結びついた金一家についての話は、あらゆる点で捏造。実際はロシア・ハバロフスク近郊の貧しい農家で誕生、母金貞淑(キム・ジョンスク)も金日成が手を付けた沢山の女たちのうちの1人に過ぎない。金日成もソ連軍に組み入れられた東北抗日聯軍の単なる1司令官だったが、祖国を開放した直後に「祖国統一民主主義戦線」の下にすべての同盟と政党を統合させ、徹底的な粛清体制を敷く
放蕩息子は贅の限りを尽くした宮殿で暮らし、官邸からは忘れられた存在と思われていた。北朝鮮のブリジット・バルドーと呼ばれていた人気女優の成恵琳と結婚、生まれた長男の正男をこよなく可愛がったが父には内密にしていて、党が女優の存在を認めず、父が田舎出の金英淑を金正日の相手としてあてがい、娘が誕生
80年、金日成の正式な後継者に指名され、94年心臓発作で亡くなった父の後を継ぐ
金正日は、新し伴侶として舞踏家で女優の高英姫を選ぶ
金正日政権は、未曽有の社会的貧困を抱えて始まるが、軍事をすべてに優先する「先軍政治」を提唱
北朝鮮建国の際スターリンから金日成に贈られた金正日の専用列車の中で、13?に及ぶ治世を終えた
後を継いだのは末っ子の異母弟・金正恩。正男は大人になり損ねた人間で、北朝鮮から手当を支給されるよそ者になった(172月殺害)
金正日は極貧の亡命生活の中革命の道を歩み始め、過酷な独裁政治を行い、自身は安らかに生涯を終える。貧困に喘ぐ民衆を尻目に、マルクス主義王朝を強引に維持し、平静を保つ。共産主義は頂点に達し、最後は王権神授説に基づいた君主制に辿り着いた






独裁者たちの最期の日々(上・下) [編]ディアンヌ・デュクレほか
[掲載]20170416 朝日
制裁の恐怖、自律的な判断奪う

 以下の3問に正答できれば本書は不要である。
 問1 「スコットランド最後の王」と自称した独裁者は誰か?
 (1)ヒトラー (2)パフラヴィー二世 (3)アミン
 独裁者たちは、しばしば歴史上の偉人の後継者を自任し、過去の栄光の再現を夢みて暴走した。ヒトラーは絶望的な地下壕(ごう)でプロイセンのフリードリヒ大王の肖像画を仰ぎ、200年前の奇跡の再来を祈った。イランのパフラヴィー(パーレビ)二世は、2500年前のアケメネス朝ペルシャに回帰して、反発するイスラム教徒を弾圧した。
 ウガンダのアミンは、拠(よ)るべき先人を見いだせなかったため、大英帝国に対抗する架空の英雄像の皮をかぶり、「スコットランド最後の王」と自称して国家元首の座に登り、30万人のウガンダ人を虐殺した。
 問2 危篤状態で48時間放置された独裁者は誰か?
 (1)スターリン (2)毛沢東 (3)フランコ
 独裁は恐怖によって支えられるのを常とする。独裁者の意に背けば苛烈(かれつ)な制裁が待つという恐怖が、人びとから自律的な判断力を奪い、部下たちは従順に命令を遂行するだけのロボットと化す。スターリンが脳出血で倒れた時、周囲の誰も医者を呼ぶ決断ができず、たまりかねた女中頭らの直訴で医師団が到着したのは、48時間後であった。
 毛沢東の周囲も同様で、死期が近いとの診断結果を誰も彼に告げなかった。フランコは死期を察知し、カルロス王子を後継者に指名したので、スペインは混乱なく王政に復帰した。
 問3 独裁者の登場は防ぐことができるか?
 (1)不可避 (2)回避可能
 下水管で横死したカダフィ(リビア)、カーチェイスに散ったトゥルヒーリョ(ドミニカ共和国)。本書に居並ぶ各国の24人を前にすると、世に独裁者の種は尽きまじとの感がつよい。
 けれども、みずほの国は不思議とその災厄からまぬかれている。
    
 Diane Ducret ドキュメンタリー作品を制作。歴史番組の司会者もつとめる。著書に『女と独裁者』。


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