マティスとルオー 友情の手紙  Jacqueline Munck  2017.3.25.

2017.3.25.  マティスとルオー 友情の手紙
Matisse-Rouault, Correspondence 1906-1953 ≪Une Vive Sympathe D’Art
2013

編者 Jacqueline Munck パリ市立近代美術館学芸部長。専門はフォーヴィスムを中心にした近現代美術史。「ジャン・ピュイ ブルターニュのフォーブ」展(1995)を始めとして、「フォーヴィスムあるいは〈火の試練〉ヨーロッパにおけるモデルニテの爆発」展(1999)、「マティスとドラン フォーヴィスムの真実」展(2005)など重要な展覧会を国際的に企画監修。近年では同館で「戦下の芸術 フランス1938-1947」展(2012)を共同企画し注目を集めた

訳者
後藤新治 1950年福岡県生まれ。九大工卒後同大文終了。北九州市立美術館学芸員を経て、現在西南学院大国際文化学部教授
石川裕美 ミネソタ生まれ。ICU教養卒。舞台芸術、美術などの分野でフランス語逐次・同時通訳、翻訳協力などを行う
増子美穂 東京都生まれ。パナソニック汐留ミュージアム主任学芸員。ICU教養卒。成城大大学院文学研究科修了。02年より汐留ミュージアム開館準備室を経て現職

発行日           2017.1.6. 印刷       1.16. 発行
発行所           みすず書房

編者によるまえがき
日本のコレクターや美術愛好家がルオーやマティスの絵画に注目し、深い関係を結んですでに久しい
1953年、国立博物館でのルオーの大規模な回顧展に際し、コレクターの福島繁太郎(18951960)1924年初めてルオーと出会い、作品を入手した時のことを回想。自分が日本人で最初にルオーを発見したと思っていた折、梅原家の床の間にルオーの《グワッシュ》(不透明水彩絵の具で描いた絵)を見て驚く
西洋美術の渡し守の役割を演じた福島男爵は、自分の鑑識眼を頼りにセザンヌ、ピカソはもとより、ドランやマティス、ルソー、シャガール、モディリアーニへとその収集の幅を広げていく。33年帰国後も彼らとの親交は続き、卓越した文化大使として活躍、日本の美術批評界に受け入れられるよう尽力
里見勝蔵(18951981)のように、ルオーの影響を受けるあまり、作風が近似する画家が現れる
出光佐三(18851981)のコレクションも有名
パナソニック汐留ミュージアム・ルオーギャラリーは、1画家に捧げられた類稀なコレクションを保有
2006年、マティスがルオーに宛てた手紙がルオー財団によって整理・再確認されたのは、マティス・アーカイヴズが保管するルオーの手紙に呼応するもの
2人の書簡の再発見は互いの「芸術に対する熱烈な共感」を明らかにしたが、この共感は、1892年にルオーがパリ国立美術学校に入学し、翌年マティスが聴講生として登録するギュスターヴ・モローの教室での出会いから、1953年の南仏シミエにおける最後の邂逅に至るまでの、生涯の長きにわたり2人の画家を緊密に結び付けている
今回新たに確認された往復書簡は、マティスがピレネーのコリウールに滞在した1906年に始まり、フォーヴ全盛期のサロン・ドートンヌにおける勢力争いの様子を伝える07年の手紙の後一旦途絶えるが、30年代に入りニューヨークで画商を経営するマティスの息子がルオーに画商として接触を図ったことで再開
手紙のやり取りは、それぞれの子孫や配偶者も巻き込み、世代を超えて続く
さらに第2次大戦中、とりわけ41年マティスが大手術を受けニースで回復期を過ごした後、彼が「2度目の人生」を歩み始めてから頻繁となる
マティスは、「生きる喜び」というフランス絵画の嫡流の中に位置づけられてきたが、「生きる喜び」は配線を味わいナチスの軛(くびき)の下にあったフランスで絵画の偉大なる伝統の面目を保ったとされている。総体としてのフォーヴィスムが、キュビスムや抽象美術、エコール・ド・パリと対置され、フランスにおける伝統の継承と革新を証言する純粋に国民的な潮流を担う旗手として位置付けられた
マティスは、制作の行き詰まりを、病から立ち直った時期に詩と真正面から向き合うことで見出したが、ルオーもボードレールの『悪の華』の挿絵を制作する過程で同じものを見ている。マティスは、同じボードレールの詩に浸りながら、ルオーが挿絵を描いたものとは異なる33編を選び、女性の魅力を35点の蠱動(こくどう)的な絵画にまとめた
ルオーが死の舞踏や骸骨、しかめ面などで「悪」を引き受けたとすれば、マティスは対照的に「華」を演出
40年代と50年代の2人の手紙には、出版の計画、健康上の悩み、芸術に関する考察、そして若かりし頃の思い出話が交叉する。ルオーにとってこの時期はまだ画商アンブロワーズ・ヴィラールの遺産相続人との裁判が続いており、ヴォラールがパリの私邸にルオーのために用意したアトリエには、何百点もの作品が残されたまま封印されていた。さらにモロー教室の同窓生で、自分の剽窃者だとルオーがみなしていたボノムの作品が市場に数多く出回ったことで、ルオーの苛立ちと不安は一挙に高まる。友人の要請に応え、マティスはルオーを援護する証言を文書で送っている
この暗鬱な時期に、ルオーは《人は人にとりて狼なり》のような、苦悩する人物像や贖罪の犠牲者を何点か描く。40年、テリアードはフランスを讃えるプロパガンダのための雑誌特集号への協力をルオーに依頼。そこにはマティス、ボナール、マイヨールらも参加。こうしてルオーは再び流浪と迫害の中に生きるサーカスの人々という馴染みの主題へと立ち戻る。43年ルオーはテリアードと協働企画を行った唯一の時期だが、彼との間で複数の本の企画が持ち上がっていたにもかかわらず、出版にこぎつけたのは15点のグワッシュ原画の複製が入った『気晴らし』(1943年刊)のみだった
1903年にモローの私邸を美術館として開館することで師の存在を広く後世に伝えようと奔走したルオーやテヴァリエールやモンテスキューなど、98年に他界したモローと親交の深かった人々の努力にもかかわらず、モローの名声は画家本人の作品よりも弟子たちの存在によって高まったと言える。10年、エセール画廊で初めてモローの弟子たちの展覧会が開催されると、批評界は「モロー教室」を「ヴォラール組」と同様に、20世紀初頭の美術界においてモデルニテの萌芽を促し育んだ苗床として評価するようになる。キュビスムの台頭で画家たちの関心がもっぱら造形的な事柄や現実の再構築へと注がれていた頃、またモローの芸術が今や訪れる人もほとんどいない彼の「神秘の国」で古色蒼然たる響きを奏でていた頃、師の評価が弟子たちによって決まるというこの逆転した受容を分析して、「モローは画家であると同時に、いやそれ以上に神話学者であり思想家であり詩人だった」と言われた。弟子たちの献身的な努力にもかかわらず、モローの私邸兼アトリエからは客足が遠のくばかりで、その作品はいよいよ時代に取り残されていくかのように見えた
モローの絵画と美術館は、シュルレアリスト達によって再び見出されることになる。70年、サルバドール・ダリは自身の私邸美術館の開館に際し、モロー美術館の階段を舞台に、モローの有名なオルフェウスの首を運ぶ《トラキアの娘》に直接霊感を受け、オルフェウスに見立てた自らの首を台に乗せて運ばせるパフォーマンスを行った
41年に2人が交わした手紙は、ほとんどが過去の共通の思い出へと向けられていたが、文面には常に師の面影が顔を覗かせていたし、12年後に実現した最後の邂逅の場でも話題の中心は師であった。マティスは回想録の出版を計画、ルオーもその初期段階から頻繁に手紙を交わす相談相手となり、マティスの妻アメリ―宛てにも、「入院中に20代の頃のことについてかなりの文章を書き溜め、その内容を私に語り、確認する必要を感じているはずだ」と書いている
ルオーの長い手紙には思い出話や逸話が多く含まれ、行間からは2人の画家が出発点を共有し同じような道を歩みながら、やがては独自の画風を開花させていった様子を読み取ることができる。マティスの娘マルグリットは一時期、ルオーからモロー教室に関する一連の文章執筆のための資料収集を依頼されるが、彼女はこの2人の画家の出発点について的確に要約している。「互いの芸術がこれほど際立った違いを見せる2人が、師の言葉をいかに受け止め、それをどのように自分のものにしていったのかを見ていくことほど興味深いものはない、2人の芸術はあまりにも大きく異なっているため、その理解には天と地ほどの隔たりがあるはずだ」
2人の画家は「火」のような人モローのリベラルな教育についても、「優しい知的な輝きを放つ鼓吹者だった」と、語る
モロー教室は2人が芸術家としての人生を歩むうえで決定的な2つの「預言」がなされた共通の場でもあった。師は、マティスには、「貴君は絵画を単純化していくでしょう!」と告げ、ルオーには、「食料もなく荷物も持たずに砂漠を」横断していくことを予告。愛弟子のルオーには、彼自身の持つマティエールへの愛着を明かし、様々な流行や影響、つまり一過性のものから身を守るようにも助言した。「貴君は荘重で簡素な芸術を愛し、その本質は宗教的なので、貴君が手掛けるものはすべてこの刻印が押されることになる」
ルオーがしばしば言及しているように、モローの偉大な功績は「弟子たちに師の真似をさせるのではなく、彼らに自分自身を気づかせた」点で、「自分が触れたり見たりするものは信じない、見えないもの、感じるもののみを信じる。私の頭脳や理性は束の間のものであり、疑わしい現実だ。心が感じるもののみが永遠であり、疑いなく確かなものだ」と教えた
ルオーは彼なりの方法で、「芸術による救済」を模索し、その道程を支えてきたキリスト教信仰は、暴力的なまでに純粋なヒューマニズムに溢れ、造形的な三位一体(形態、色彩、調和)と精神的な三位一体(道化師、画家、キリスト)の融合を可能にした。対してマティスは、人物像をいわば「存在論的非合法性」の中に棲まわせ、彼自身の表現手段から巧みな写実を奪いとってしまった。表現とその手段の完全な一致を見るに至ったというべきか
08年の記述でもマティスは、表現の概念そのものがルオーとは対極にあることを認識しており、それゆえルオーの作品を自分の身の回りに置くことを好んだ。ルオーとゴッホの絵を並べて比較しながら、ルオーの力強く威厳に満ちた絵の傍らでは、ゴッホの絵がまるで18世紀の絵のように見える、と言っている
若い時期に抱いた互いの芸術に対する共感は、2人が肩を並べて歩んだ20世紀前半を通じてさらに強固なものとなる。困難な時代の中で、人生の終焉が近づいた頃、共有する若き日の思い出を互いに手繰り寄せ、その断片を継ぎ合わせた。ルオーは、アメリーへの手紙で、過ぎ去った日々への回顧の眼差しによって、彼らが画家として出発した頃の熱狂を何らかの方法で再現して見せることを約束
最初の出会いから50年以上の歳月が流れ、2人の絵画表現は両極に分化。「画狂人」たる巡礼者ルオーは、絵の具のマティエールをこね回し、描き直し、塗り重ね、削り取ったかと思うと突然盛り上げる。カンヴァスン枚数を重ねるごとに、娼婦からグロテスクな人々へ、サーカスからキリスト教的田園風景へと、主題は周期的に繰り返され、その中からある時は「悲劇的な美」が、またある時には宗教的な内省が姿を表し、画面の至るところで「生きることは辛い業」との嘆息がこだまする
一方のマティスは、絵画制作の現在を「手探り状態で」前進し続ける意思によって、彼を「物から記号へ」と導いたあの極端な単純化に到達する。これには、年老いたルオーでさえ最後の邂逅の折、「近作である切り紙絵の《トルソ》を興味深げに眺め」足を止めるほどだった
本書は、2人の画家を取り巻く友情と家族と芸術のネットワークの証。06年にパリで開催された「ルオーとマティス往復書簡」展の準備の際行われた調査研究を引き継ぎ、それを発展させたもの

²  190607年 サロン・ドートンヌ事件
サロン・ドートンヌは、03年マティス、ルオー、ボナールの参加で創設、今日まで続く美術展。保守的と言われたフランス芸術家協会などのサロンが春開催されたため、対抗して「秋(オートンヌ)」に開かれ、装飾芸術が絵画と同等に扱われるなど画期的な展示を行う
  マティス→ルオー 1906.8.30. コリウールにて
サロン・ドートンヌへの出品について問い合わせ。正会員ではないが、20号と25号を2点、10号を2,3点出品するつもり。この夏は、小型の絵ばかりで、ひたすらタブロー(油彩画)を心掛けた。
君が収穫の多い夏を過ごし、例年のように華々しく話題をさらうような展覧会を期待している。
5月にアフリカを旅してきた。アルジェ、コンスタンティーヌなどを訪れたが、実に印象深い旅行だった。中でも砂漠は凄かった。砂漠が本当に人を寄せ付けない場所だということが分かった。1,2年前に君が行ってみたいと言っていたのを思い出したが、到底君の気に入るような場所ではないと思う。
アラブの習慣や人々の様子に惹かれることはなく、すべてがインチキ臭い。疎外感を味わった。彼らとの間に共通点らしきものがなかったせいだが、あらゆるものを見るにつけ、自分が歳とって熱気が冷めてしまったことを自覚した
旅の途中で、アラブ人の邸宅で執り行われた子供の割礼の儀式に立ち会う。ドラクロワの《ユダヤ人の婚礼》を目の当たりにするような見事な光景だった
  ルオー→マティス 1906.9.10.(推定) ジ=レ=ノナンにて
これからパリに帰る所。出品用紙を送る
アルジェリアの話には興味をそそられた、いつか行ってみたい
年末か来春には個展を開くべく、今夏はずいぶん描き溜めた

マティスとコリウール
フランスとスペインの国境にある海沿いの町。マティスが画家仲間たちと頻繁に訪れたサン=トロペから25㎞のところ。カタルーニャ地方の海岸線はフランスの国土が最もアフリカに近づく場所で、ムーア人の痕跡があちらこちらに残されている。山と海に挟まれた 土地で、壁に石灰を塗った家々は、濃いピンク、赤、黄色に塗られ、太陽が射すと一層まぶしく色とりどりに輝いた
分割主義に傾倒し、04年サン=トロペで点描技法を試みたマティスだったが、表現手法の限界を感じていた。翌夏、これまで画家が誰も訪れたことのないコリウールに来て、やっとのことで港の見下ろせるアトリエを借りる。後年この海の記憶が《ダンス》を生むエネルギーになったと語っている。漁師たちの浜辺での踊りにマティスが加わった思い出が作品の構図を生んだという
すっかりこの地に心打たれて仲間を誘うが、来たのはマティスに恩のあるドランだけで、2人の画家は同じモティーフを使い、競作を試みる。荒削りな質感とユニークな色使いで絵の具をキャンバスにたたきつけ、造形的なアプローチで光り輝く世界を描写。色彩のための色彩の勝利をこの光の土地で画家は確信した。
すっかり解き放たれたマティスは、コリウールの色彩、オレンジや紫、青緑や赤で構成された妻アメリーの肖像画《帽子の女》(1905)をサロン・ドートンヌに出品するが、世間の批判を浴び、批評家により「フォーヴ(野獣たち)」と命名された。フォーヴの画家たちは、色彩を重要な要素とし、純粋な色彩の表現の可能性を追求した。色彩の爆弾のような画面に、「最も汚らわしい絵」との批評まであったが、マティスが興味を感じたのは、色彩のハーモニーを捉え、イメージを創造することだった。コリウールでの滞在がマティスの創造生活の重要な転換期となる

²  1930年 ふたりのマティス
  ピエール・マティス(アメリーとの間の次男)→ルオー 1930.7.16. パリにて
数年前からルオーを1点所有している。道化師と女曲馬師の大きなサイズの絵。裏に書き込みがあるので判読して欲しい

ニューヨークのピエール・マティス画廊
マティスの次男のピエール(190089)は、20年代よりニューヨークを拠点に活動開始した若き画商。31年自分の画廊立ち上げ、33年画廊として初のルオー展を開催。福島からも何点か貸し出し。ルオーもそのために大きめの作品を何点か仕上げている
画家本人が所有する作品が少ないため、展覧会の開催は不可能とみられていた
展覧会は成功裏に終わる
34年にはデトロイトでルオーとマティスの2人展を企画。各20点展示
37年、47年にもルオー展を開催

²  1934年 画商との確執
  マティス→イザベル(ルオーの娘) 1934.12.13.(消印)
ルオーを技術面で支えるはずだった腐食銅板画師を選定したのはヴォラールだから、支払った技術料は返金してもらうと同時に、彼らの無能がもたらした作品損傷に対しても補償金が支払われるべき。ルオーは譲歩すべきではないし、芸術家権利協会の弁護士に相談してみてはどうか

ルオーとヴォラール(18661939)
両者の関係は30年以上。実りあるも緊張を孕む。野心家で天才的鑑識眼のあった大画商は、ルオーの芸術の数少ない熱烈な理解者
ヴォラールは、インド洋上の仏領の島からパリにやってきて、僅か2年で95年に最初のセザンヌ回顧展を開催するなど大胆な企画を次々に打ち出し、印象派の巨匠たちやアバンギャルド画家たちを交互に扱い、彼らの紹介に貢献する大画商となる
1890年代、ヴォラールは画廊を訪れたルオーを見たことがあるが、知り合うのは1907年。ルオーの制作した陶器を見て一目惚れ。6年後、ヴォラールはルオーのアトリエにある全作品770点の買取を申し出。17年に専属画廊となる
1次大戦中は、ルオーがヴォラールのコレクションの保全管理担当者となって、膨大な作品の疎開に奔走、逆にヴォラールはルオーの作品制作に必要な機材を仕送り
25年、ヴォラールは、先に買い取った未完の作品をルオーが完成できるように自宅をアトリエとして提供。ヴォラールはルオーに数々の出版企画を提案、完璧主義のルオーにヴォラールは熱心に付き合い、当時の最高技術を注ぎ込んだ最上級の版画集2冊となった
専属画商のヴォラールが作品のほとんどを所有しており、ルオーは金銭的にも創作活動の上でもヴォラールに多くを依存。「完成」出来ずに展覧会に出品できないことも多く、ヴォラールは完成できないルオーに苛立ち、ルオーの方は注文の多さに不満
36年頃には2人の仲は悪化、愛憎に満ちた2人の関係は39年ヴォラールの交通事故死で突然終わる
ヴォラールの相続人は直ちにアトリエを封鎖。大量の未完成作品の帰属を巡り提訴。47年ルオーが勝訴するが、返却さるべき807作品のうち119点はすでに市場に流通。ルオーは最終的に315点を執行官立会いの下で自ら焼却。自らの作品の完成度に拘り抜いた75歳の老画家が、完成させるには高齢過ぎると判断した結果だった

²  193738年 絵付けと舞台美術
マティスが最初に引き受けた舞台美術は1920年ディアギレフ率いるロシア・バレエ団の《ナイチンゲールの歌》。直感を頼りに色紙を切り抜いて大道具や衣装を制作。切り絵は、修正の検討をしたり、色彩の分量を図ったり、背景を補完することに役立ち、この手法をその後も活用することになる
  イザベル(ルオーの娘)→マティス 1937末頃  
オペラ座のバレエの舞台美術の話がルオーとマティスに来たが、マティスが引き受けるかどうかの問い合わせ
  マティス→イザベル(ルオーの娘) 1938.3.27. ニース  
ルオーが舞台美術の仕事を断ったことは残念としつつ、舞台美術の仕事は、手助けするスタッフもいるしアイディアを出すだけなので適任だと誘うが、新しい仕事に着手するのは困難と断る
  イザベル(ルオーの娘)→マティス 1938.3.末頃  
レジオン・ドヌール勲章の代理授与者になることを依頼 ⇒ ルオーがオフィシエ賞を昇叙されるにあたり、受勲者が、授与される勲位と同等以上の勲位を有する者をあらかじめ指名・推薦し、勲位局総裁がその被推薦者を「代理授与者」として任命した後、「代理授与者」が総裁に代わって授与することになっている

²  1941年 占領地区(ナチス占領下にある北西部)と自由地区(ヴィシー政権下の南部)
ルオーは占領軍に家を略奪され、作品や陶器などが破壊された。マティスは、ナチス侵略以前からニース近郊のシミエに移住して、制作の拠点とした
ルオーの2人の娘婿が捕虜、1人は仮釈放されたが、もう1人は収容所に
マティスは41年、消毒の不完全な場所での腸の大手術の後、重い合併症に罹る
ルオーは、結石に悩まされる
  ルオー→アメリー(マティスの妻) 1941.7.15.  
マティスが入院中に、2人が20歳の頃のことについて文章を書き溜め、ルオーにその内容の確認を頼む

1929年以降、テリアード(18971983)とマティスは親交を結び、実り多い協働関係が始まる。37年、雑誌『ヴェルヴ』創刊に際して表紙に最初の切り紙絵が登場、45年には同誌がマティス特集を組むなど、マティスはテリアード出版から4冊の書籍を上梓
テリアードとルオーの関係は、ヴォラールの事故死後もファビアーニ(18991989)が権利を取得したため、協働関係は控えめだったが、ヴォラールの着手した企画をテリアードが引き継いだ例はあり、直筆本を基本理念とする書籍も発行している
マティスが書き始めた『モロー教室』について、ルオーは自らの思い出をマティスに書き送り、マティスはルオーに後を引き継いでほしいと頼む

マティスの手紙は、細く美しい筆記体で、字も大きく、読みやすいが、ルオーの手紙は修正や挿入でぐしゃぐしゃ、小さな字でぎっしり書かれているので読みにくい。ただし、マティスの娘宛の書簡は対照的に、ほとんど訂正なしに書かれている

ピエールはルオーに、アメリカでの代理人になりたいと申し出(ヴォラールとの契約が障碍となって実現せず)
同時に、余儀なく祖国を離れて暮らすフランス人画家たちの作品を、ニューヨークの自分の画廊に迎え入れたり、「フランスの栄光」のために作品を寄贈することでアメリカの諸機関を支援するよう、コレクターたちにも働きかけたので、ミロはピエールのことを「熱意溢れる渡し守」と呼んだ
ルオーの家がナチスに略奪された際は、写真を基に作品を探し出すことを申し出たり、ピエールのルオーへの忠誠は続き、ルオー亡き後はイザベルへと引き継がれた
ピエール・マティス画廊の主要な史料を保管するピアポンと・モルガン図書館が、2人の往復書簡の交換をルオー財団と行ったことで、2人の関係をより詳細に知ることができる

²  1944年 解放前後
マティスは、ニースがいつナチスに爆撃されるかわからないため、数㎞先のヴァンスに居を移し、ル・レーヴ荘と名付ける

²  1945年 ボノムという画家
レオン・ボノムは、国立美術学校時代のルオーとマティスの同級生。無名のまま若くして亡くなるが、初期のルオーの作品と作風が似ていたため、「ボノム」とサインがあっても、2人の作品は市場で混同されることもあった
  マティス→ルオー 1945.11.27. ヴァンス  
ボノムをよく知っている人に偶然会ったこと、ボノムの水彩画の束が売りに出ていたこと、ニューヨークでもボノムの絵を買った人がピエールの画廊に見せに来て、ルオーの作品だと信じており、「お人好し(ボノム)」というサインが水彩画のタイトルだと思い込んでいたらしいことを伝えている
ルオーからは、贋作が雪崩を打って出回っていることに対する不快感が伝えられている

²  1946年 「黒は色である」
「黒は色の王者である」とルノワールは語る。「レンブラントの再来」と言われた国立美術学校時代、黒は作品の主役であり、その後道化師の孤独、娼婦の悲しみ、キリストの慈愛を描く際も黒は象徴的に用いられた。初期の版画において、ルオーは、黒一色でこそ人間の悲劇とキリストの救いが表現できると信じた。晩年、鮮やかな色で聖なる世界を描くようになると、黒の縁取りはステンドグラスのような効果を画面に与えた
  マティス→ルオー 1946.11.4. モンパルナス大通りにて
マーグ氏が「黒は色である」と銘打った展覧会を開くことと、黒に関連した絵画作品の紹介を頼まれたのでルオーこそ適任だと思ったことを伝える
  ルオー→マティス 1946.11.中旬 
「黒は色である」というのを全ての出発点にしようと思う

ルオーの初期版画 ⇒ 40代前半から56歳に至るまで制作に従事した、貧困や戦争による苦悩と悲劇、社会的権力への憎悪、そしてキリストによる救済をテーマにした合計100点の大作《ミセレーレ》を皮切りに版画制作にのめり込む

²  1947年 ヴォラール裁判
43年ヴォラールの遺産相続人に対しルオーが提訴、47年勝訴(「画商との確執」の項参照)
ルオーがヴォラールの用意したアトリエで定期的に制作していたことを、マティスが証言

²  1949年 聖なる芸術
ドミニコ会のクーチュリエ神父の呼びかけで始まったスイス国境のプラトー・ダッシーの教会装飾のプロジェクトに、ルオーとマティスは、ボナール、レジェ、シャガールなどともに参加。神父は、宗派を超えて、優れた現代美術科の作品によって教会を、ひいては宗教美術を活性化しようとした
  マティス→ルオー 1949.12.15. ニースにて
近代美術館で一緒に展覧会ができることを喜ぶ。ドニやゴーギャンも一緒に展示

2人そっくりの構図の絵
《アクロバット》(マティス)と《軽業師》(ルオー)
《青い裸婦II(マティス)と《横向きの裸婦》(ルオー)

²  1951年 古いなかンま
48年、マティスはヴァンスの礼拝堂の建築・内装の全てを任され、切り紙絵を基にステンドグラスや空間全体のデザインを行う
51年、礼拝堂完成の記事を見たルオーは、南仏出身の古い仲間マイヨールを思い出す。国立美術学校の同窓生で、南仏訛りで喋り、「なかまcopain」のことを「なかンまcopaing」と発音。2人はそれを面白がって、親しみを込めて手紙の中でしばしば用いた

²  1952年 ユネスコ世界会議
ユネスコが、第26回ヴェイネツィア・ビエンナーレを機に芸術家を集めた世界会議を開催。ルオーは画家代表として、「画家の作品に関する権利」と題し、未完成作品の所有権、複製に対する著作権、展覧会開催の権利などについて提言
  マティス→ルオー 1952.8.
ルオーがユネスコで芸術家の権利に関して講演することを聞いて、激励する
ルオーからは、娘を通じて講演の原稿が届き、付け加えることがあればと言ってくる

²  195253年 最後の邂逅に向けて
ルオーが初めてイタリアへ旅行
532月にルオーが娘とともにニースでアパルトマンを借りて、マティスに会おうとするが、お互いの体調などの関係で会えず

イザベルが、ルオーにまつわる知られざる思い出を寄せ集めた文集の刊行を目的として、マティスに対して質問状を送っている。一般的な質問が多く、マティスの回答もこれまで出版された多くの書籍などの中にすでに、より詳細に述べられている内容ばかり
「フォーヴィスム」の語の由来については空白だが、1905年のサロン・ドートンヌでルイ・ヴォークセルが「野獣(フォーヴ)に囲まれたドナテッロ」と評した逸話はフォーヴィスム命名の歴史の一部となって久しい。52年にマティスは、「批評家が貼ったレッテル」に過ぎず、当時の画家たちは1人として認めていなかったとし、同時にフォーヴィスムの起源を服飾に求める「赤い毛皮のコート」の逸話も退けた。マティスにとってのフォーヴィスムとは、「表現の統合を目指した最初の試み」であり、49年には、20年後においてもなおも「巨匠たちの、とりわけ色彩画家(コロリスト)たちの中で生命力が枯渇しない部分」として存在し続け、また自らの全画集の基礎を築いた出来事でもあったと述懐している
ルオーとマティスの会見は53.2.28.それぞれの娘も同席してシミエで実現 ⇒ イザベルがメモを取って、それを基に彼女は複数の異本を書き残している

²  1954年 エピローグ
翌年もルオーがニースを訪れ、再開を申し出たが、実現はしていない
翌年、マティス死去


訳者あとがき
2011年、翌年のルオーのサーカス展交渉のためパリ市立近代美術館を訪問の際、対応してくれた学芸部長で本書の著者マンク氏より、近々刊行されるルオーとマティスの往復書簡集を、13年の日本でのモロー展に合わせて出版することを提案され、翻訳権も汐留ミュージアムにもらえることになった
ルオーの手紙は、難解なうえに長いものもあって、手書きということも手伝ってすべてを翻訳するのは難行。そのうえ、いくつかの書簡には別ヴァージョンが存在
今回の書簡の公開によって発見された新事実の中で興味深いのは、フランス占領期における2人の日常生活と創作活動、それと早世した共通の友人ボノムを巡るやり取り
占領期の2人は、タブローを離れることを余儀なくされ、雑誌や挿絵本、タピストリー、ステンドグラス、舞台美術、聖堂建立とむしろ多様で多産な創作活動を行うことができた。「気晴らし」のなせる業だろうか。2人のその間の手紙が生きた証言となっている
ルオーの贋作者の汚名を着せられたボノムを巡り、マティスとの緊張したやり取りが続くが、ルオーの心は次第に大きく揺れていく。種々の証言がボノムがルオーの作品を剽窃したことを明らかにしているが、マティスは、2人の作品を比べれば「表現は軽く、内容もどことなく空疎な感じ」と、一見してすぐわかると言い、ルオーを貶めようとしてなされた誹謗中傷には根拠がないことを伝えている
本書のサブタイトルの「芸術に対する共感」の意味するところ ⇒ マティスはルオーの油彩画《支配人とサーカスの娘》を一時預かり、ルオーに対しては「この絵と共に暮らせてとても幸せ」と言いながら、一方で息子のピエールに対してはこの絵を見ると心がかき乱されるので戸棚にしまい込んだと伝え、「向かい合って座る2人は、まるで虎に射すくめられた仔羊のようだ。力強く痛々しいほどの表現力がある、絵全体がルオーの肖像画だ。このような絵を描く人間は不幸である。夜も昼も苦悩に喘ぎ気が休まるときがない。彼は絵に情熱を注ぐことで自身を救済し、彼の苦悩を知らない人々を救済する。普通の人々がこの画家の苦悩を理解することはない」と書いている。これが「共感」である


マティスとルオー 友情の手紙 [編]ジャクリーヌ・マンク
■間柄示す、彩り豊かな言葉の橋

 マティスもルオーも画家なのだから、後世の受け手はまずは作品だけ観(み)ていればよい、とも言える。けれど、この書簡集に触れた結果、少なくとも私にとっては、それぞれの絵を思い浮かべるときの歓(よろこ)びはさらに増したと打ち明けたい。本書に収められた書簡は、1895年の出会いから1953年南仏での最後の会見までの、半世紀以上にわたる交流をたどる。
 二人はパリ国立美術学校のギュスターヴ・モロー教室で出会う。それぞれ絵画表現は異なるが、出発点には、教室での経験の共有があった。恩師モローに対する敬愛の念も、晩年まで分かち合う。モローは方法を押しつけず、学生たちが自分自身を発見するように促したという。その自由な気風が、集う人々の可能性を開花させたのだろう。
 41年、マティスが病を患い手術を受けた後、書簡の往復は増える。その時期のルオーの手紙にも、若い日の思い出はつづられる。「ここでは歯に衣(きぬ)着せずに本当のことを話そう。モロー先生と出会うまで、僕は痩せこけて黙りこくった一匹の狼(おおかみ)だった」。ルオーの手紙には、その画風からはにわかに想像できないような笑い声が宿る。
 別の日の、マティスの手紙には、ルオーのある絵の保管にまつわる話題が登場。「他人には指一本触れさせないよう大切にしまってあり、見るのは僕一人のはずなのに、どうしたことだろう、これまで何人もの人からこの絵の話を聞いた」。文字から伝わる声に、どきどきさせられる。
 画商との駆け引き、贋作(がんさく)騒動、家族のこと、二人が晩年に見いだした「聖なる芸術」というテーマ。それほど親しい間柄だったと思われていなかった画家たちの間に、こんなにも彩り豊かな言葉の橋が架けられていたとは驚きだ。時期によって手紙の往復には濃淡がある。文字にされることはほんの一部分。書き切れないところがいい。それこそ書簡の魅力なのだから。
    ◇
 Henri Matisse 1869−1954/Georges Rouault 1871−1958/Jacqueline Munck パリ市立近代美術館学芸部長


マティスとルオー
-友情50年の物語-
2017 44日(火) 528日(日) 会場:あべのハルカス美術館
左:《肘掛椅子の裸婦》アンリ・マティス 1920 DIC川村記念美術館蔵
右:《秋の夜景》ジョルジュ・ルオー 1952
   パナソニック汐留ミュージアム蔵
展覧会概要
フランス近代絵画の巨匠として輝かしい足跡を残したアンリ・マティス(18691954)とジョルジュ・ルオー(18711958)。パリの美術学校の同級生であったふたりは、生涯にわたって家族ぐるみの交流を続け、互いの創造活動を尊重し、支援し合いました。近年発見された往復書簡とともに、それぞれの個性を浮き彫りにする国内外の名品を通して、半世紀にわたるふたりの厚き友情と芸術の軌跡を紹介します。


Wikipedia
アンリ・マティスHenri Matisse, 18691231 - 1954113)は、フランス画家フォーヴィスム(野獣派)のリーダ-的存在であり、野獣派の活動が短期間で終わった後も20世紀を代表する芸術家の一人として活動を続けた。自然をこよなく愛し「色彩の魔術師」と謳われ、緑あふれる世界を描き続けた画家であった。彫刻および版画も手がけている[1]
生涯[編集]
1869、フランス・ノール県のル・カトー=カンブレジ (フランス語 Le Cateau-Cambrésis) に、豊かな穀物商人の長男として生まれる[2]。その後一家はピカルディ地域圏のボアン=アン=ヴェルマンドワへと移動し、彼はそこで育った。1887、父の命でカトー=カンブレジの裁判所の管理者の資格を得るためにパリへと出るが、1889盲腸炎の療養中に母から画材を贈られたことで絵画に興味を持った。後に彼のいうところでは「楽園のようなもの」を発見した[3]彼は、画家に転向する決意をする。この決意は父親を非常に失望させた[4][5]。まず1891パリの私立美術学校であるアカデミー・ジュリアンに入学し、絵画を学びつつ官立美術学校であるエコール・デ・ボザールへの入学を目指した。ボザールへの入校は許可されなかったが、熱意を評価した教官ギュスターヴ・モローから特別に個人指導を請ける事ができた。この時、ボザールに入校してモローの指導を受けていたジョルジュ・ルオーとは生涯の友情を結ぶ。
カンブレジ地方の田園風景
1898にはアメリー・パレイルと結婚した。
マティスの初期の作風は写実的なものを志していたが、次第にフィンセント・ファン・ゴッホ ポール・ゴーギャンら後期印象派の影響を受け、自由な色彩による絵画表現を追究するようになる。『緑のすじのあるマティス夫人の肖像』(1905年)、『ダンスI』(1909年)など、大胆な色彩を特徴とする作品を次々と発表し、モーリス・ド・ヴラマンクアンドレ・ドランらと共に野獣派と呼ばれるようになる。しかし、フォーヴィスムとしての活動は1905年から3年ほどの間だけで、それ以降は比較的静かで心地の良い作品を描くようになる。(そのころのマティスの言葉:『私は人々を癒す肘掛け椅子のような絵を描きたい』)本人は、フォーヴィスムと呼ばれ見なされることをひどく嫌った。
線の単純化、色彩の純化を追求した結果、切り絵に到達する。マティスにとってはさみ鉛筆以上に素画に適した道具だったのである。『ジャズ』シリーズなど切り絵の作品を多数残している[6][7]
晩年、南仏ヴァンスドミニコ会修道院ロザリオ礼拝堂の内装デザイン、上祭服のデザインを担当。この礼拝堂はマティス芸術の集大成とされ、切り紙絵をモチーフにしたステンドグラスや、白タイルに黒の単純かつ大胆な線で描かれた聖母子像などは、20世紀キリスト教美術の代表作と目される。
また、緑好きが高じて一風変わったアトリエを作った。テーブルの上に所狭しと並べられた多様な花。身の丈を越す巨大な観葉植物など、まるで植物園のようであった。さらに大好きな鳥を多い時には300羽も飼っていたと云われている。草花が満ち溢れ、鳥たちが憩うアトリエから数々の傑作を生み出した。巨匠が晩年辿りついた癒しに満ちた世界。名画誕生の舞台となった緑いっぱいのアトリエであった。
そして体力がなくなっていったマティスは油絵から切り紙絵へと変更する。アシスタント色紙を作ってもらい、はさみで切り抜いて作品を作り上げていった。体調の変化で作品にも変化が現れ、自然から受ける感覚、感触をダイレクトに現すようなことができるようになっていった。形を見るというより、花や植物から感じる安らぎを心の目で見ると、はさみを使うという身体的な動きを通して機能化して表現、生命そのものの記号になるように求めていったのである。
2004日本国立西洋美術館ほかで日本初の大規模なアンリ・マティス展が開かれた[8]。作品は初期の絵画から晩年までにわたり、制作作業を収めたドキュメンタリーフィルムも公開されている。
代表作[編集]
『ブーローニュの森』(1902年)、プーシキン美術館
『豪奢、静寂、逸楽』(1904-1905年)、オルセー美術館
『緑のすじのあるマティス夫人の肖像』(1905年)、コペンハーゲン国立美術館
『ダンスI』(1909年)、ニューヨーク近代美術館
『金魚』(1912年)、プーシキン美術館
『ナスタチウムと「ダンス」』油絵/カンヴァス1912年)、メトロポリタン美術館
『画家の娘』(1918年)、大原美術館
『模様のある背景の装飾的人体』油絵/カンヴァス(1925-26年)、ポンピドゥーセンター・国立近代美術館
『トルコ椅子にもたれるオダリスク』油絵/カンヴァス(1927-28年)、パリ市立近代美術館
『音楽』(1939年)
『ルーマニアのブラウス』油絵/カンヴァス(1940年)、ポンピドゥーセンター・国立近代美術館
『眠る女と静物』油絵/カンヴァス(1940年)、ナショナル・ギャラリー
『夢』(1940年)
『ジャズ・サーカス』(1947年)、ニューヨーク近代美術館
『赤い室内、青いテーブルの上の静物』油絵/カンヴァス(1947年)、ノルトライン=ヴェストファーレン州立美術館
『大きな赤い室内』油絵/カンヴァス(1948年)、ポンピドゥーセンター・国立近代美術館
『エジプトのカーテンのある風景』(1948年)
『ブルー・ヌードII』切り紙絵(1952年)、ポンピドゥーセンター・国立近代美術館
『インコと人魚』切り紙絵(1952年)
『スイミング・プール」切り紙絵(1952年)
『花と果実』切り紙絵(1952-53年)
『上祭服』 (1950年頃)、ニューヨーク近代美術館 [9]


ジョルジュ・ルオーGeorges Rouault, 1871527 - 1958213)は、野獣派に分類される19世紀20世紀期のフランス画家
ルオーは、パリの美術学校でマティスらと同期だったこともあり、フォーヴィスムの画家に分類されることが多いが、ルオー本人は「画壇」や「流派」とは一線を画し、ひたすら自己の芸術を追求した孤高の画家であった。
1871年、パリに指物(さしもの)職人の子として生まれた。ルオーの家族が住んでいたベルヴィル地区のヴィレットは、当時は場末の労働者街であった。ルオーは14歳の時、ステンドグラス職人イルシュに弟子入りする。後年のルオーの画風、特に黒く骨太に描かれた輪郭線には明かにステンドグラスの影響が見られる。ルオーは修業のかたわら装飾美術学校の夜学に通った。1890年には本格的に画家を志し、エコール・デ・ボザール(国立美術学校)に入学、ここでマティスらと知り合った。同校でルオー、マティスらの指導にあたっていたのは象徴派の巨匠、ギュスターヴ・モローであった。教師としてのモローは自己の作風や主義を生徒に押し付けることなく、ルオーとマティスという、モロー自身とは全く資質の異なる2人の巨匠の個性と才能を巧みに引き出したのである。ルオーは終生、師モローへの敬愛の念が篤く、1903年にはモローの旧居を開放したギュスターヴ・モロー美術館の初代館長となっている。ルオーは同美術館に住み込みで働いていたが、給料は安く、生活は楽ではなかったようだ。
ルオー20歳代の初期作品にはレンブラントの影響が見られ、茶系を主とした暗い色調が支配的だが、30歳代になり、20世紀に入ったころから、独特の骨太の輪郭線と宝石のような色彩があらわれる。画題としてはキリストを描いたもののほか、娼婦、道化、サーカス芸人など、社会の底辺にいる人々を描いたものが多い。ルオーは版画家としても20世紀のもっとも傑出した作家の一人で、1914年から開始した版画集『ミセレーレ』がよく知られている。
1917年、画商ヴォラールはルオーと契約を結び、ルオーの「全作品」の所有権はヴォラールにあるものとされたが、この契約が後に裁判沙汰の種になる。ルオーは、いったん仕上がった自作に何年にも亘って加筆を続け、納得のいかない作品を決して世に出さない画家であった。晩年、ルオーは「未完成で、自分の死までに完成する見込みのない作品は、世に出さず、焼却する」と言い出した。ヴォラール側は「未完成作品も含めて自分の所有である」と主張したが、「未完成作の所有権は画家にある」とするルオーの主張が1947年に認められ、ルオーは300点以上の未完成作をヴォラールのもとから取り戻し、ボイラーの火にくべたのである。それが彼の芸術家としての良心の表明だった。ルオーは第二次大戦後も制作を続け、1958年、パリで86年の生涯を終えた。国葬を賜った。
代表作[編集]
キリストの顔(1933)(パリ、ポンピドゥー・センター
郊外のキリスト(ブリヂストン美術館
エバイ(びっくりした男) (国立西洋美術館)




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