ピカソになりきった男  Guy Ribes  2017.3.28.

2017.3.28.  ピカソになりきった男
Auto Portrait D’un Faussaire  2015

著者 Guy Ribes 1951(?文中に81年に30歳との記述あり)仏ロアンヌ近郊(中東部)生まれ。両親は売春斡旋人で、幼少を娼館で暮らす。8歳で絵に目覚め、以降、絵道具を肌身離さず持ち歩く。路上生活の後、リヨンの絹織物デザイン工房の職人を経て、フランス海軍に入隊。除隊後、水彩画のアーティストになり、絵で生計を立てる。75年頃に偉大な画家たちの模倣を始め、84年ある人物との出会いで本格的に贋作作家の道に入る。05年逮捕、10年に禁固4年、執行猶予3年、1年間の保護観察付処分の刑を受ける。12年、映画《ルノワール 陽だまりの裸婦》のスタッフとして、絵の制作とルノワール役のミシェル・ブーケが絵を描くときの手の役で協力

翻訳者 鳥取絹子 翻訳家、ジャーナリスト

発行日           2016.8.13. 初版第1刷発行
発行所           キノブックス


本書は、天才贋作作家の手記
ある美術評論家は、「ピカソが生きていたら彼を雇ったであろう」とギィを評する
05年に逮捕されるまで、数十年裏ビジネスに手を染めていた
贋作だが、名画のコピーではなく、巨匠が描いたかもしれない全くの新作の創造
彼の贋作は、ピカソ、ダリ、シャガール、マティス、ルノワールなど、美術館の目玉となるようなものばかり
実刑が確定し、彼が描いたと自認した贋作はすべて没収、もしくは破棄されたため、実際の作品の写真はないが、恐ろしいことに、ギィは、「いまだに俺の贋作はオークションやギャラリーに並んでいる」と。さらに、「俺の事件は氷山の一角に過ぎない」と、実名を挙げて贋作ビジネスのからくりまで明らかにしている
娼館に生まれ、青春期を路上で過ごし、やがて贋作ビジネスと出会い、派手な生活を送り、最終的には逮捕される
破天荒な彼の人生と、億単位の金が動くアート市場の実像
「ピカソになり切った男」ギィの筆は生々しくも、清々しい

逮捕された瞬間の気持ちは、安堵感だった。長く肩にのしかかっていた重荷が、一瞬にして吹き飛び、これで自分自身の戻れる、偉大な巨匠の高みを忘れ、自分の足でうまく切り抜けられるようになる、と思った
10年にわたり、贋作の才能を利用されて大掛かりなペテンを行う仲間のために仕事をしていた。30年近くの間、俺は自分の様式で他人に成りすましていた。自分自身の絵を忘れ、贋作の迷宮にはまり込んで、自分を見失うほどになる
司法取引を受け入れ、贋作の秘密の全て、アートの世界とならず者の世界が巡り合ったこれまでの人生の全てを告白

生い立ち ⇒ 46年、売春斡旋禁止法で両親が刑務所へ入り、一気に路頭に迷う。学校の地下にあった印刷所のデザイン工房で絵に興味を持つ
偶然転がり込んだ居酒屋の主人が盗品隠匿業者で、審美眼と盗みの修行をする
ついで、絹織物の本職の図案師の手伝い見習いで、デザイン技法を習得
路上で絵を描いて糊口をしのぎ、ときにはやくざのために絵を描くことも
偽札偽造団に加わって逮捕、その後ヤクザの抗争に巻き込まれることを恐れて海軍に入隊
除隊後、熱心に絵を描き始め、技術的に軽やかさと速さが求められる水彩が得意になり、2つのパターンを作って一部だけを入れ替えるという手法で大量に制作し販売
ギリシャでは、絵が売れて軍事政権下で狂乱の日々を送るが、やがて追放となりフランスに舞い戻る
魂のこもらない水彩画を、10分に1枚の大量生産をする一方、近代の巨匠への興味が募り、情報を入れまくる
商業水彩画家のレッテルを貼られて追い詰められ、ますます近代アートに夢中となり、もっと偉大なアーティストのやり方で絵を描いてみれば、上の段階に進めるのではと考え、それが自分を乗り越え、偉大な画家の仲間入りができる方法ではないかと思ったのが、贋作に手を染めるきっかけ
80年代半ば、印刷所で有名な美術印刷業者と出会い、もぐりの印刷所でダリのリトグラフの「後刷り」(初刷りした版で再び刷ること)を見せられる。ダリは、リトグラフになった作品の複製の権利を売っていたが、印刷屋の方で勝手に、紙の質毎に同じ枚数の複製を印刷したり、国が違えばまた同じ枚数の複製を作成していた。ダリの方でも、サインの種類を増やして、678種類も作成したので、後に真贋を見極める鑑定家を悩ませることになるほどで、彼を取り巻く近親者たちが彼に制作を鼓舞して制御不能となり、結局80年代にリトグラフの贋作が大量に市場に出回り、ダリを称して「アヴィダ・ドラーズ(ドルの亡者)」と呼ばれたのも偶然ではない。白紙にサインをしていたとの話もあり、彼の手によらないものまで印刷され、自動的に「本物」のダリになった
印刷業者の下で腕を磨いた後、贋作を金に換えてくれたのは有名な美術出版業者で、彼の指導の下、さらに贋作の精度を上げていく
完璧な贋作の作り方  画家を調べ尽す、その時代の画材を入手、③その画家になりきる
贋作造りが1つの欲求となり、金銭以上のものとなったが、自分がすべてを模倣できないこと、すべてを継承できないことはわかっていた
同じ贋作でも、すべてを模倣したものと「~風」の絵には大きな違い。前者は同じイメージは再現できても内面の力強さの再現は無理だが、後者は新しい作品なので、画家から奪うものは何もないどころか、素晴らしい作品と認められれば他の作品の中に加えられるだろう
贋作が一部の人間との共謀で本物になっていく過程に関わる
著名な鑑定家から異議を申し立てられた事件では、イダ・シャガールが、「父が描いているのを見たので間違いない」とまで証言した
美術史上でも、自分が模倣されているのを知りつつ順応している画家や、画家同士で模倣しているケースがたくさんある ⇒ ドラクロワはベラスケスやラファエロを真似し、ヴァン・ダイクは好んでルーベンスの贋作を描き、マティスはティツィアーノ・ヴェチェッリオや同時代人の何人かを模倣。レジェとヴラマンクも困窮時にはコローやセザンヌを模倣。コロー自身、友人たちが模倣するために自作のスケッチを貸したり、自分で手を加えたりサインまでしていた。フェルメールの傑作《画家のアトリエ》も、絵の価値を高めるためにオランダで彼より高く評価されていた「ホーホ」のサインに変えられている。モネは、彼の弟子であり助手で、後に義理の娘になったオシュデに模倣され、その絵はどちらのものかわからないほどだった
ルネサンスの時代、画家たちは模倣して腕を磨いており、贋作の概念は現在の意味とは全く違う。当時は若いアーティストたちが鑑定家を騙して巨匠の作品と思わせるに至ったとき、彼らの修業期間が終わったことを意味した。成功した模倣は彼らの才能のこれ以上ない証になった。ラファエロのものと思っている作品を掴ませられた男が、贋作と分かった後でも、「これほど完全に他人を真似ることができるとしたら、自然の力を超えている」として、その後もラファエロ自身のものだと信じると宣言したという逸話が残っている
現在は、人はもう作品を楽しまず、名前を買っているので、偉大な名前の需要が贋作の供給を生む。そして贋作は非難の的になる
ピカソがキュビズムを創始した時代、彼はルネサンスから受け継がれた伝統を破って裏側にサインしたが、「所定」の場所にサインがないと自慢できないとして一部のコレクターには不評だった
贋作を不快に思うのは、アートを金儲けの対象として見るようになったから
不思議なグレーゾーンに位置する作品もある ⇒ 何度も修復されたピカソその絵を見て、本人が「これはもう私のものではない!」と言い、販売カタログから引き抜くことが検討されたという
ペテン師と組んで、贋作を売りまくり、豪勢な生活を過ごしたが、次第にエスカレートし、精根尽き果てる時がくる。贋作の持つ魔法のような面、作品に入り込む喜び、絵画の巨匠たちとともに歩み、デッサンや絵を描く一時の間その人物になりきることの興奮、仕事を始めたころに味わった高揚感はすべて消え、お金とペテンしか残っていなかった
訴訟件数が増え、警官側に情報がもたらされ、秘かな監視網が配置されていたところで、俺は仲介役を通さずに贋作を売ったために逮捕され、一網打尽となった
5年後に出た判決は、禁固4年、執行猶予3年、1年間の保護観察付処分
拘留はされなかったが、連帯責任として民事上の賠償を命じられ、すべてを取り上げられ破産
「画家とは結局なんですか?」という質問に、ピカソはこう答えた。「それは、自分が好きな他人の絵を描きながら、コレクションを続けたいと願うコレクターのことだ。私はそうやって始め、するとそれが別物になっていく」。そして彼は付け加えた。「巨匠をうまく模倣できないから、オリジナルなものを作ることになる」
俺の問題は、巨匠を模倣して時間を使い、そしてうまくできるようになったこと。贋作を始めたのは、自分の絵がうまくいかなかったから
裁判の後、これまで蓄積したスタイルや影響をすべて捨て、全く別の絵のシリーズに挑戦
フランスの地方のラジオ局で、俺を題材にしたドキュメント「ある贋作作家のポートレート」が放送され、その番組が契機となって、オーギュストとジャン・ルノワール、画家と映画監督の親子を描いた映画で、ルノワール風に書かれた絵と、オーギュストの手を「演じる」画家が必要とされ、映画スタッフとして雇われた
続いて、トラボルタが監督となった映画「ザ・フォージャ」(邦題「天才贋作画家 最後のミッション」)で、トラボルタに贋作アートについて説明した



(書評)『ピカソになりきった男』 ギィ・リブ〈著〉
2016.10.23. 朝日
 贋作、本物、それほど重要か?
 娼館で生まれた俺は子ども時代、リヨンで路上生活をしていた。周りは悪ばかりだった。俺は刑務所行きの運命にあると思われていた。取りえは独学でモノにした絵くらいだ。一貫性のない、なんでもありの。そのためには片っ端から美術書を読破、作家と同一化できるほど勉強したさ。自分の絵よりピカソに取り組む自分を想像して興奮したものだ。性格もモラルも路上生活が財産で、贋作が悪い?なんて、思ったこともないね。
 俺には仲間がいた。贋作の天才への道を切り開いてくれるやつさ。手始めにシャガールに挑戦。あっという間に30枚のシャガールが完成。完売だ。夢を見ているようだったね。20世紀を代表するアーティストに追いつく画家になっていたんだから。
 正真正銘の贋作作家になるための俺の修業は禅僧か錬金術師か魔術師か、それともペテン師、それ以上の超越的存在としての精神と魂を磨き上げながら偉大な画家と同等のレベルに達していた。それが他人になるための修業と悟性さ。もし画家が10点描いたとすると、11点目を作ることだ。その画家のように考え、その人物を演じ、他人に転換し、滅私する瞬間が不可欠だ。そのためには技術も、習得した知識も全て忘れる必要があった。そして贋作が完成すると、完全犯罪の痕跡を消すために、証拠物件は全部壊したよ。
 制作時、俺は空っぽになって、魔法の手になったような神秘体験をした。ピカソが俺の指に憑依(ひょうい)して一緒にいるようだった。まるで時を旅しているようになった。本物であろうと贋作であろうと創作には違いないんだから。
 巨匠たちも修業時代、他人の作品を模写したり贋作も描いたりした。それが他人の作品との区別もつかず作家不明のままどこかに存在しているぜ。「ひとりの人間がこれほど完全に他人を真似ることができるとしたら、自然の力を超えている」とイタリアの画家ヴァザーリも言ったものさ。本物、贋作がそれほど重要な問題だろうかね。
 やがて俺と組んでいた2人の仲間が突然、死を迎える。贋作は俺を少しずつ変え、賭けはだんだん危険なものになっていった。仲間を失い、やがて贋作のキャリアに終止符が打たれた。
 売らなきゃ贋作でも罪にならない。また贋作者の署名が入れば合法だって? ピカソは、画家とは「自分が好きな他人の絵を描きながら、コレクションを続けたいと願うコレクターのこと」と言明する。俺の書評をするYの出発も贋作だという。
 いつか芸術の意味も拡散して芸術の居場所もなくなるさ。デュシャンの便器にそのヒントがありそうだよな。
 評・横尾忠則(美術家)
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 『ピカソになりきった男』 ギィ・リブ〈著〉 鳥取絹子訳 キノブックス 1728円
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 Guy Ribes 48年フランス生まれ。絹織物デザイン工房の職人などを経て水彩画家に。84年から本格的に贋作を始め、2005年に逮捕。有罪判決で執行猶予に。



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