象が歩いた(‘02年版ベスト・エッセイ集)  日本エッセイスト・クラブ編  2017.3.3.

2017.3.3. 象が歩いた ‘02年版ベスト・エッセイ集
2001年中に発表されたエッセイ(自薦、他薦を問わず)から2次に亘る予選を通過した240編が候補作として選ばれ、、日本エッセイスト・クラブの最終選考によって53編のベスト・エッセイが決まる。今回の選考者は、斎藤信也、佐野寧、十返千鶴子、深谷憲一、村尾清一の5

編者 日本エッセイスト・クラブ

発行日           2002.7.30. 第1
発行所           文藝春秋

岡部さん(フリーライター)が載っているといわれて読む

『消息、断つ』
1979年春、 大学4年でフランス遊学の帰路、パリ発アンカレッジ経由東京行きの大韓航空機。アンカレッジ手前で突然急降下、2時間の低空飛行、救命胴衣着用の指示、湖上に胴体着陸。ソ連領空侵犯でソ連戦闘機から銃撃を受け、機内後方は2人死亡で血の海
日本のテレビニュースが、消息絶つの報を伝えたのは低空飛行の最中で、「全員絶望」「C. イワヤ」と出て、家族は固まる
町の公民館に収容。翌夕刻ヘルシンキに移送。パリを出てから3日後に無事帰路に就く
心の本当のところで「死」は意識になかった
事件から20年後、亡くなった父の日記を読んでいたら、あの日がページが最も長い
第二次大戦にも行き、剣道で鍛えた父がただただ悲嘆にくれるとの記述に、泣かずにいられなかった
生前に見ていたら、もっと良い娘になれたのに。父娘とは、肚(はら)を割って言葉を交わしたり理解し合うことはなく、謂れのない憎しみで刺々しくなっていくものなのだろうか。心の底から謝りたかった
葬儀は父の弟子たちの手に委ねられ、父の部屋にまるで家探しするように入ってきて、懐かしいものを探して祭壇に並べた。努力で勝ち取った師と弟子の紐帯は、ただそこに生まれましたという意思のない血の絆よりも美しく思えた。私は負けたと思った
大車輪の葬儀前夜に出てきた日記が、いま、語るように枕元にある
(『秋田さきがけ』1013日、1117日、1229)

大韓航空機撃墜事件 19839月。乗客乗員269名全員死亡


『干支の宿命』  阿川佐和子
01年は年女。巳年、さそり座と言えば、暗黙の脅しをかけられる
「お金に苦労しない」のが巳年の利点で、ちょっと合ってる
(『銀座百点』『いい歳旅立ち』)

『学而』  浅田次郎
貧乏に転落した後、親の不始末によって自分の人生まで変えられたのではたまらないと、親の反対を押し切って駒場東邦中を受験・合格
ホステスをしていた母が買い揃えてくれた広辞苑、研究社の英和辞典、大修館の中漢和は、学徒動員のさなか、学問をする代わりに飛行機を作っていて、子どもに何一つ教えることができなかった母の言うに尽くせぬ思いが込められていた           
論語の第1編「学而編」の冒頭、「子のたまわく、学んで時に之を習う、また説(よろこ)ばしからずや」とある通り、私はお仕着せの学問を好まなかったが、常に自ら喜んで学び続けてきた。今も読み書くことに苦痛を覚えたためしはない。その力の源泉はすべてこの3冊の辞書にある
73の享年に至るまで、都営団地に独り暮らしをした母の残された書棚には私の全ての著作に並んで、小さな国語辞典とルーペが置かれていた
あの日から、3冊の辞書を足場にして一人歩き始めた私のあとを、母は小さな辞典とルーペを持って、そっとついてきてくれていた。そんなことは少しも知らなかった
(『小説新潮』)


『イエス、イッツ・ミー』  山本一力
1962年高知から渋谷の中学に転校。土佐弁丸出しで浮いてしまった中学生は、カンサスシティの同じ年の女の子パメラがペンフレンドを探しているという話しに飛びつく
ワシントンハイツに新聞配達に行って中の男の子と遊びながら英語を覚え文通が始まる
町の写真を見て、東京よりはるかに都会であることに驚く
結婚を境に書くのがおろそかになり、そのうち途絶えたが、ある日アメリカ大使館から「パメラなにがしがあなたを探している」という連絡があり、宛先不明でミズーリに返送された手紙の束を渡される
そうまでして文通相手を探してくれたパメラに詫びて、文通再開するが、2年もしてパメラの離婚を機にまた疎遠に
20数年後、ふと閃いて医者になったことを思い出しインターネットで検索すると、21件ヒット。思わず電話すると留守電に。翌日、残したファックス番号に手紙が来て、「イエス、イッツ・ミー」とあり、いまは毎日のEメールが長いブランクを埋めてくれている
(『文藝春秋』)


『考える場所――司馬遼太郎記念館』   安藤忠雄
司馬さんは歴史を通して、常に現代を見据えていた。かつての美しかった日本人の心を描きながら、現代の精神の荒廃、公の秩序の崩壊を心から嘆いていた
司馬の小説は、そのほとんどが時代の転換期、時代の胎動期における人間の生き方を描いたもので、大きな時代のうねりの中で個人の果たし得る力というものを信じて、その可能性を証明するために小説を書いていたのだと思う
私が司馬に惹かれるのは、その憂国の言葉に決して完全な絶望がないところ。日本と日本人を最後まで信じ続けたところであり、司馬の綴る言葉の裏にあるその心に感動し、励まされる
記念館を、司馬の心を伝え、共有できるような場所にしたかったので、執筆活動を続けた創造空間を、形こそ違えそのまま建築として現すことを主題とした。何より、人間が考えるための場所を作りたかった
新館の中心となったのが天井高11mの特別展示室。壁面をすべて書架で覆い、司馬が生涯を通して背負ってきた本で囲い込んだ空間。司馬が何か新しい本を書かれるたびに、神田の古本屋街から、ある特定のテーマに関する書籍類が忽然と姿を消したという逸話の通り、膨大な資料文献には驚かされる
不揃いなステンドグラスを通して差し込む光は、司馬の夢と希望の象徴であり、人々が作家の創造世界を追体験するための道標となればと期待して計画を進めた
司馬は、ふつう庭木としてあまり使われないような雑木や、道端に咲く野の花を愛したという。自邸の前庭にはその雑木が生い茂っている。私にはそれが司馬文学を理解する上での非常に大切なことのように思われ、新館の前面にも同じ司馬の愛した雑木の森を拡張。これが生い茂って司馬宅の前庭と一体となったときが、本当の意味での記念館の完成
(『文藝春秋』)


『犬たちと私』  水谷八重子
戦争中に疎開した熱海で飼っていたピーター以来、私の周りには常にいつも犬がいた
熱海では老婆3人と一緒で、番犬の役をしたピーターだけが私を安心させてくれた
ある朝ピーターがいなくなって、外で死んでいるのが見つかり、いままで「悪意」というものに出逢ったことのない私の胸に「憎しみ」という感情が湧き起こったが、一体どう処理をしたのやら、今はまるで覚えていない。そこのところが、やはり甘やかされたお嬢ちゃん育ちなのだろう
(『暮らしの手帳』)


『冬の思い出』  林真理子
思い出というものは、主に夏の記憶によるものが多いが、この冬故郷の山梨に帰省した際、駅前が市街化調整と称して古い商店街が壊され、生まれ育った町がすっかり変わろうとしていることから、子どもの頃のいくつかのシーンを断片的に淡く思い出した
寒い冬の思い出、新春の福引で2等を当てて以来よく宝くじをひかされたこと、お天神講で冬の最中に子供たちが米と味噌を持ち寄ってつくった夕食の旨さ、家が商売をやっていたために開け放しの店が寒かったこと等々
親を失った時、故郷はどういう風に変化するのだろうか。今よりもはるかに遠去かるはずであるが、思い出はさらに美しく透明になるのか。それを知るのはまだこわい
(『オール讀物』)


『父の万年筆』  久世光彦(てるひこ)
子供のころから万年筆への思いは深かった
兄は16年の春、中学入学のお祝いがパイロットの万年筆、姉も女学校入学のお祝い
万年筆は大人の世界への入り口であり、学問や教養の象徴
父の書棚には、昭和の初めの「円本ブーム」のころいくつか揃えた「文学全集」が並び、その最初のページには作者の写真が載っていたが、いずれも難しい顔で万年筆を握っていた
不思議なことに父が読んだ形跡はない。職業軍人だった父が、文武両道を極めたいと考え、やたらと本を買い込んだので、母はその支払いに苦労したらしい
俳句に目覚めた父は、いつも清書に33年製のモンブランの太い万年筆を使った
中学生になった昭和23年、誰も万年筆をくれなかったし、思い出しもしなかった
復員した父は、元少将だったので、あらゆる公職から追放され、失意の日を焼け跡を耕した畑で過ごした
昭和24年父は胆嚢炎で亡くなり、モンブランは棺の中の父に握らせ、ノモンハンやソ満国境を父と一緒に行軍した虚子編の歳時記は今も私の書棚の隅にある
(『學鐙』)


『秘伝』  井上ひさし
コカ・コーラの成分の99%までは知られているが、「7X」と呼ばれる謎の成分は、100年以上も科学者や競合メーカーが分析しているのに、まだ不明。コカノキの葉とコラノキの実はわかっているのだが
アトランタの南軍の退役軍人で薬剤師のペンバートン博士がこの飲料を調合したのは1886年だが、この「7X」は、「米国産業史上最も固く守られた秘密」、その処方箋は地元銀行の金庫に入っているとも、社長から社長へ口伝で伝えられているともいわれている
両国の「坊主しゃも」は、黙阿弥の芝居に登場する江戸期からの軍鶏屋。おかみさんは家付き娘で父から教わったタレの秘密を守り、婿にも明かさない。タレを調合する時はご主人をお使いに出すそうだ
そういえば、屋台の焼鳥屋をやっていたころの母も、タレを作るときは私を外へ追い出した。「うちの屋台はこのタレでもっている」と大層なことを言っていたが、秘かに見ていたら、その辺にざらにあるタレに味の素をたっぷり入れるだけのことだった
自分に何か秘伝があるか。行き詰まった時に鼻毛を抜いて原稿用紙の端に植えながら打開を図ることか。あんまりばかばかしい手だから、やはりこれは秘伝にしておいた方がよさそうだ
(『小説現代』)


『伊東温泉』  宮城野(みやぎたに)昌光
伊東温泉「いな葉」には大学生のころからよく行った
観光ガイドには「大正時代から残る木造3階建ての宿」とあるように、玄関は唐破風(からはふ)を思わせる造りで、建物全体に風情がある。印象深いのは、湯の熱さ。熱くて入れないが、浴室内の湯気で汗をかくだけで十分。1日に2度入った翌日に、猛烈に気分が悪くなって苦しんだことがあり、以後どこの温泉に行っても風呂は1回でやめている
下呂温泉の木曾屋に泊まった時も、二度入ったら気分が悪くなったので、湯の温度に関係なく、風呂に2度入ってはならないと決めた
熱い風呂が好きなので、「いな葉」の風呂には挑戦的な気分で入る。まだ若い頃、湯の温度を見に来た初老の従業員から、背中を流そうと声を掛けられ、名状しがたい気分の良さを覚えた。なぜそういう状況になったのか、30年以上経ってもわからない
旅館の良否は、部屋、料理、風呂で決まるが、実はサービスが最も重要かもしれず、よけいなサービスをしているところが多い。「いな葉」がしてくれた最高のサービスとはそれであると今でも思っている。数年前にその人について聞いてみたがもう旅館にはいなかった
伊東の街を歩くと、20代のほろ苦さがよみがえる。何故か伊東に来るたびに、小説家になりたいという意(おも)いが強くなって、「いな葉」に長逗留して小説を書くのが夢だった。夢を夢のまま、そこに預けておくのも悪くない、と近頃は思うようになった
(『小説新潮』)


『老いるということ』  渡辺淳一
最近の老人ホームは明るく清潔で、楽しげでもある
身の回りのことは自分でできる軽費老人ホームや正常な老人が入るケアハウスの実態に共通しているのは、男女比が圧倒的に女性優位なこと。大体37から28
夫が5歳年上だとすると、平均寿命の差7歳を加えて、妻は夫の死後1人で12年生きなければならないので、自ずから人生設計も違ってくる
数の比から言ってお爺さんのほうがもてるが、それには元気であることが必須
元気なお爺さんを巡って争奪戦が繰り広げられる。ホームの中には、2人が互いに好き合っているとわかると積極的に同室にしたりするところもあるらしく、2人とも生き生きするという
お爺さんとお婆さんの恋では、圧倒的にお婆さんが強い。お爺さんは逆に意気地がなく、男の気の弱さはお爺さんになってきわまり、女の気の強さはお婆さんになってきわまる
人間いかに老いても、好き嫌いは厳然としていて、アルツハイマーに罹っても好きな相手を見間違えることはない
老いとは、限りなく純化すること。虚飾を捨て、人間の地そのものに戻る。天真爛漫、純粋無垢なので自己中心、子供そのもの
健康な老人が最後まで持ち続けるのは食欲と異性愛だけ。「色呆け」は正常の証
老人ホームほど、人間というものを考えさせてくれる場所はない
(『オール讀物』)


『飯と雑穀』  津本陽
食べ物の好き嫌いはないし、外国でもひと月くらいなら日本食がほしいとは思わない
旧制和歌山中学1年で開戦、食欲旺盛で、体操、教練、40㎞の夜行軍など体力を消耗すると食欲がとめどもなく湧き出す
家にいる間は、食欲を充たすのに不自由はなかったが、昭和19年学徒動員で明石の川崎航空機工場へ行くと、重労働者並みの14合というので安心していたら、8割は雑穀が混ざり、副食物も粗末。下痢が続き、盲腸炎の死者が出るに及んで、漸く週末1泊の帰京旅行が許可された
食堂が配給をピンハネしていることが判明して、集団脱走する事件を起こし差別扱いに
空腹はすさまじく、外で買い食いしたり、食券を偽造したりして腹を満たす
遂に食堂襲撃の同志が集まり、雑穀の入らない肉飯の日を狙って賄い征伐へ
食堂襲撃は二度と出来なかったが、いくらか留飲の下がった事件だった
いま考えてみれば、なぜ米の飯をあれほど食べたかったのか、不思議である
(『小説宝石』、光文社刊『わが人生に定年なし』)


『評伝を書く楽しみ』  工藤美代子
73で楽しみの方が苦しみより大きい
この20年ほどもっぱら評伝を書いている。書いている間は、ほとんど恋愛状態
対象を選ぶ基準は、気分任せ。どんなに平凡に見える人生を送った人でも、1冊の本が書けるくらいの経験はしていると思う。相性のいい人と悪い人がいる
いま取り組んでいるラフカディオ・ハーンは、大成した部分よりも、もっと根っこの方にある弱い悲しい部分になぜか心惹かれる。その部分が自分とは最も相性のいいところ
逆に、會津八一はメチャクチャ相性が悪いと思った。美貌の女流画家・亀高文子への一方的な想いが諦められない八一に腹を立て、原稿を書きながら初めて泣いた
評伝を書く楽しみを最初に教えてくれたのは、最初の本である『晩香坡(ヴァンクーヴァー)の愛』(1982)の主人公、花形女流作家の田村俊子。地位も名声も捨ててカナダに渡った足跡を尋ねると、それまでの評伝と違った事実が次々に出てきてのめり込んだ
評伝を書くことが楽しいのは、生身の人間と違って、評伝を書く対象となる人物のことは、安心してとことん愛することができるから
(『學鐙』)


『縁つながりのアテの話』  青木奈緒
樹木に関心を寄せた祖母・幸田文が仕事の合間にあちこちの木に逢いに出かけた
まっすぐ育つ木曾の夏のひのきのあまりの優秀さに、自分とはどこか無縁なものという淋しさを感じたと書いている
そこで心を寄せたのがアテと呼ばれる厄介なもの。何らかの環境の変化でまっすぐ育たなかった木がアテ。汚名を着せられたアテを挽いてその業を切り開くときは、自分も身を切り裂かれるつらさがあると文章に託している
そんな人の手に余る哀しさを持つアテが、思いがけず役に立つことがある
祖母が再建を手伝った三重塔を手掛けた宮大工を訪ねた際、アテの柱を何本か組み合わせると大きな力を出すということを聞かされる。300年のスパンで考え・後世に技術を伝える仕事をしていることに改めて驚く
もう一つ、祖母から受け継いで興味を持っているのが山の崩壊という現象。その現場で、木がアテにならざるを得ない、その原因に着目。木の断面を見てアテが生じた時を探れば、その木が育った斜面の土砂が動いた時を知ることができる。崩れる山にあってアテが伝えているのは、人工的なものを離れた自然の尺度で、自分の日常生活で使うちっぽけな尺度にどれほどの意味があるのか、改めて考えさせられた
(『學鐙』)




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