文豪たちの大喧嘩  谷沢永一  2016.12.16.

2016.12.16. 文豪たちの大喧嘩――鷗外・逍遥・樗牛

著者 谷沢永一 Wikipedia参照

発行日           2003.5.30 発行                 2004.12.10. 3
発行所           新潮社

序 論争の人間味
我国の文壇や学界で華々しい論争が起こることは稀だし、文藝の領域でも寂しい
本書が取り上げるのは11件の論争。論争を通じての作家論であり、人物論であり文壇論

1. 鷗外にだけは気をつけよ
内田魯庵が皮肉一杯に警告した言葉。内田が血気盛んな頃匿名で書いた『文学者となる法』(94年刊)は、文学史風景についての辛辣でマトを射た生態学の系譜に、近代期では最初にして恐らく第1級の範例となった本で、尾崎紅葉率いる硯友社一派から決定的に忌避される原因となった
人生最大の楽しみは、炒り豆を噛んで古今の英雄を罵ること、荻生徂徠に言われるまでもなく自明だが、特に文人相軽ンズの伝統は古今に不変、毒舌の興奮は文壇の応酬を主導する
鷗外芝廼園(しばのその)の水掛論争 ⇒ 内田が警告した対象となる事件で、鷗外は日本一の物識りで、名もない大阪の山田芝廼園という作家を退治するのにも20余頁を無駄にしたほどの大家だと皮肉り、空振りに終わった局地戦ではあったが、論争化鷗外の真骨頂を期せずして浮かび上がらせた典型として、わざと例証に引き出した
鷗外が芝廼園批評を載せたのは『しがらみ草紙』で、50頁のうち17頁を割く
鷗外は、いつも拠るべき雑誌を持つことにご執心で、逆に身近に起こった雑誌の刺激につられて執筆活動に拍車がかかるという傾きがあり、その気質的ともみられる雑誌根拠地志向の、最初の旗揚げが『しがらみ草紙』だった
『しがらみ草紙』は鷗外の自家用とも言える自立雑誌で、その時すでに創刊から2年経過していたが、芝廼園批評の文章はあまりにも論旨に内容乏しく、喧嘩腰
芝廼園は、大阪京町堀の小さな文藝同人雑誌の発行者で、創刊号に落書き的に鷗外をからかった僅か11行の文章を掲載。鷗外がそれを見逃さず論争の口火を切る
『しがらみ草紙』は新たに時事短評欄「山房放語」を設け論争専用コーナーとし、その第1回で14行を費やして芝廼園を、無責任な立場から減らず口を叩くのは「文界の捨鉢外道」だと叱りつけた。同時に鷗外は、「山房論文」という意欲的な論壇時評欄を開設し、同じ第1回で逍遥への論戦を挑んだところだった
それに対し、芝廼園が皮肉たっぷりに言い返したため、鷗外はさらに2頁半を費やして反論しエスカレートしたところで現れたのが、冒頭魯庵の言う「退治」論文
鷗外のやり方は、相手のセリフの気に障った片言隻語を端から取り上げて入念に叩き潰していくもので、特に「水掛論」という野次には一番おかんむりで、「我等の醜美論は審美学存亡の問題なり」として、衆に代わって美学存亡の問題を究め論じるのだと主張
鷗外も小説に専念一幸型の作家は論争の相手とせず、評論に対する評論や議論に対する批評を得意として、自分に先行する文藝評論家や藝術評論家を軒並み狙い撃ちした
相手が黙るまで攻撃の手を緩めない鷗外の芝廼園に対する振る舞いに論争化鷗外の基本姿勢が現れたと観た魯庵や逍遥は、総体として横綱相撲の華と品格を欠く、愛嬌なきカタキ役としての姿を後世に語り伝えた
鷗外忍月の醜美論争 ⇒ 石橋忍月(山本健吉の父)は、明治20年以降文藝評論家として目覚ましい活動を始め、ジャーナリスト的文藝批評の創始者と言われ、彼の批評を読むことによって黎明期にあった明治新文学の縮図を見ることができた。90年、26歳で新聞『国会』に入社。鷗外がドイツ留学中に自分より3歳若い忍月が批評界の第1人者と目されているのを見せつけられ闘争心に火が付く。忍月が91年から紙面を埋めるためにハルトマン美学の簡単な紹介を載せたことをハルトマン信奉の鷗外が見逃さずに忍月攻撃に乗り出し、『国民新聞』に『読醜論』と題して寄稿、忍月の立論に対する徹頭徹尾の批判を展開
醜美の論争というより原書の誤読論で、美学論理の片鱗すら示すことなく、ただ忍月の一言一句を早呑み込みや一知半解などとして切り捨て、生半可の立論を叩き伏せることによって、自分こそが美学の正統を保持しているのだと、高らかに鬨(とき)の声を上げた
忍月は一旦は逃げるが、相手のメンツを立ててやることができない鷗外は追及を加速
ドイツから帰国した翌89年に『読売新聞』の『小説論』によって文藝評論の活動を始めた鷗外は、最初の評論で忍月をチクリと刺す一節を加えて以降、機会あるごとに忍月批判を取り上げていた。90年の舞姫論争で両者は激突、以降2人の構想は遺恨試合の様相を呈し、次から次へと短期間に衝突を重ね、懲り懲りした忍月が何も応じなくなって自然消滅するまで、明治評論史上屈指の対峙として継続
啓蒙家の虚像が肥大化した戦後期、鷗外もまた近代啓蒙家聖者列伝に加えられる光栄を得たが、賞辞としての啓蒙家の名に値するのかは疑問。「審美学論争」にしても、原書に通暁し、威嚇的に振り回し、読者の知らないヨーロッパ学界の権威ある学説を仰山たらしく原語を鏤(ちりば)めながら一方的に復唱して見せただけであり、啓蒙家として評価するに足る真摯な内実を、その例証を何時どこで示したと認め得るのか、改めて再検討すべき

2. 鷗外はじめて苦境に立つ ~ 鷗外忍月の舞姫論争
『舞姫』発表の1か月後、忍月が同じ『国民の友』に作品評『舞姫』を掲載。二葉亭四迷の『浮雲』を評した際は『浮雲の褒貶』として評価と批判の両面にわたる総体論を旨としたのに対し、最初から傑作との評価の高い『舞姫』の「瑕瑾」を暴くという調子で、不審ばかりの質問状を突き付けた。当時評論家の一般はその場限りに無数の変名を案じて興じるのを常としていたが、忍月は何故かこの時だけ自らの小説の登場人物の名前を使ったので、誰が書いた挑戦状か明解だった。さらには内容的にも、題名の選び方や主人公の性格の描き方などに文句をつけた度し難い散漫な放言に終始
鷗外の反応は珍しく2か月も遅れ、さらに反論を『舞姫』の登場人物の名前でしている
道徳論と文学論を区別する常識の大前提がまだ確立していない時代の話
『女学雑誌』の主宰者にして明治女学校校長の巖本善治も、主人公の不貞を詰り筆誅を加えていたこともあって、鷗外は論理以前の次元で決定的に損な立場を強いられたため、強弁でその場凌ぎをして論争に終止符を打った

3. 論理に勝って気合い負け逍遥 ~ 鷗外逍遥の没理想論争
89年『しがらみ草紙』創刊の頃から鷗外は逍遥を究極の標的に擬していた ⇒ 創刊宣言で逍遥の『小説神髄』を、「所詮は無用の長物に過ぎない」と当て擦する
鷗外は、そもそも極東の日本国の明治の文学理論に、英独仏諸国からの直伝に非ざる自前の醗酵があり得るとは夢にも考えなかった。医学上の研究業績にしても、研究方法は西欧渡来に限られ、帝大医学部を出ていない民間医一般、加えて漢方医に対する蔑視と弾劾は激烈を極めたように、我が国の現段階に創意などある筈がないと固く信じていた。それゆえ、逍遥の『神髄』にも種本があるに違いないとして、遂に総体としての『神髄』の内容論旨を1回も評さぬままに終わる
その後も逍遥が一文を出す毎に批判と挑発を繰り返したが、逍遥が乗って来ずに空振りを繰り返したため、91年『しがらみ草紙』の『山房論文』で逍遥の文学観を正面から撃たんと決戦の意気込みを示し、前年頃から文学新聞の旗幟を鮮明にした『読売新聞』の文藝欄主筆格となって旺盛な評論活動を始めた逍遥に対し、その評論内容は一切無視して、批評法だけを糾弾。鷗外の主張した「理想」はハルトマンの鸚鵡返しに過ぎなかった
18年の大学令まで、私立学校は大学として認知されず、02年早稲田大学と名乗っても専門学校令によるのみ。82年創立以来の東京専門学校に学制上の格式に乏しく、運営と発展に資する方途を求めて、継続的な講義録の編集発行を行ったことが早稲田の名を全国に喧伝させる手段となった。『早稲田大学創業録』が我が国における通信教授の先鞭
逍遥は、早稲田の文学科の創設をほとんど一手に引き受け、『山房論文』新設の翌月に「文学専門の雑誌」として東西文学講義録を兼ねた『早稲田文学』を創刊。暫く様子を見たところで鷗外の満を持した攻撃が始まり、逍遥も本格的に反論を載せ、以後6か月にわたる明治文壇に最大の論争として語り伝えられた「没理想論争」となる
逍遥が述べたのは、評釈態度の初歩的な論点2
1つは、評釈者の態度で、第1義の評釈はただありのままに字義語格等を評釈して修辞学上に及ぶ解明であり、第2義の評釈は作者の本意若しくは作に見える理想を発揮して批評評論する「インタルプリテーション」であり、ここで言う「理想」とは思想ないし世界観であり、作品に内在するもの、作者の胸奥に作るものだとしで、自らの今後の評釈態度を第1義の行き方に限るとした。第2義の評釈は、一旦識低き人にあうと、徒に猫を解釈して虎の如くに言い做し、迂闊な読者をしてあらぬ誤解に陥れる恐れありと警告。今は漱石、鷗外、太宰治その他を「ちまちまといじくりまわしている国文学者」と下に見たため、後の学者連中が揃って逍遥に冷たいのも宜(むべ)なる哉
2つ目は、第1の一般論をさらに限定して、シェークスピアを評する場合の態度として、逍遥が見るところシェークスピアの傑作は、いかなる読者の「理想」もその影を其の中に見出し得るのであり、。彼の傑作はほとんど万般の「理想」を容れて余りあるものゆえ、解釈者が解釈者個人の「理想」を振り翳して一人合点に評釈する太平楽は無意味だとした
万事自己流の逍遥は、没理想論の範囲を拡大して次元を高め、文学世界を包括する原理論として次第に整備する過程で、予て独墺流の美学詮議に馴染んでいなかったため、自らの用語を定義する手続きを怠り、もとより評論は意おのずから通ずるものと情意的理解を当てにしたところがある
逍遥とは正反対の鷗外の攻撃は峻厳そのもの。一方の逍遥の応答は謙遜の自省で、卑屈なまでに気を配った綿々たる釈明に終始したが、最後に、鷗外が見たというシェークスピアの理想の正体を我々にも教えてほしいと詰め寄り、没理想論争が正念場を迎える

4. 鷗外の追撃を断ち切った逍遥
鷗外の論争の戦術は、泰西の学理を無尽蔵に繰り出して絶対に妥協せず撤退しないという決意のみが全てで、自ら現代ヨーロッパの最高学説を紹介し教諭している以上、対者の屈伏は時間の問題
一方の逍遥は、対抗策として論議の集中を狙って論点を要約し、鷗外がシェークスピアに見出だした「理想」の内容を、その実質を解明せよと迫り、もって最後通牒とした
鷗外がしつこく拘ったのは、我こそ本邦審美学の濫觴(らんしょう、盃を浮かべる源流のこと)とした美学講座を念頭に置く本家争い。93年に独立の美学講座が創設されても鷗外は講師に招聘されず。後に遂に男爵にたり得なかった生涯の恨みを『月草』に吐露しているが、鷗外の顕著な信条とする先取得点の功績にのみ固執して、自分こそが美学のもとを開いたと主張
逍遥の本性は、応病投薬を思考原則とする実際派。美学理論は作品解釈の補助教材に過ぎないものと、生来の戯文調で応じ、気軽に腰を屈めたのが運の尽きとなった
9か月に及ぶ没理想論争の終結を最後として、鷗外の『山房論文』欄は姿を消し、『しがらみ草紙』の終刊まで鷗外の所謂「批評」は二度と現れない
鷗外・楽堂の傍観機関論争 ⇒ それから1年後、今度は医事と医政を巡る1年半続く、鷗外の論争歴でも最大の事績。ただし、3/4以上は『医界時報』の主筆たる楽堂山谷徳治郎らからの中傷に対する反駁の堂々巡りに終始
鷗外が医界評論を始めたのは帰国直後、『東京医事新誌』の主筆となって医事の批評談義を創始。石黒忠悳等医学界実権派の全てを敵に回し弾劾に突き進んだが、その最終戦がこの論争で、5年来の医界廓清(かくせい:悪を正す)立言を集大成する不退転の論陣
石黒は学問界では実績も少なく、第1,2回の日本医学会も単なる教育祭に過ぎず、学問権を真学者たる北里柴三郎や小金井良精らの手に取り戻せと主張
「教育素」ある医学士のみで学会を組織し、全国の開業医を統括せよと主張するが、鷗外の言う「教育素」ある医学士とは東京帝大医科大学の卒業生のみを指し、僅か458名のみ
ドイツから帰国した88年から日清戦争に出征する94年まで続くが、果たして鷗外の医界及び文壇の成長に寄与せんとした批評活動の狙いがどこまで受け入れられたかは再検討が必要

5. 樗牛が鷗外に罠を仕掛ける ~ 鷗外樗牛の情劇論争
一人前の文藝評論家と見做されるためには、丸谷才一曰く、「本式の評論に加えて、文藝時評、座談会及び対談、論争、全集や叢書や文庫本の解説、書評や帯の推薦文といった藝を身につけていなければならない」
明治30年代を通じ、高山樗牛こそは卓抜した論争術をもって論壇で威信を堅持し続けた
当時まだ東京にしかない帝大の文科大学哲学科に在学中から、博文館の総合雑誌『太陽』の「文学」欄の記者として執筆を開始、一旦仙台の二高の教授に赴任、9702年、僅か32歳で夭折するまでの5年間、評論壇に独行闊歩、常に各方面で様々な論争を次々と誘発し、必ず山場を作っては劇的に盛り上げていく着眼の秀抜さは見事
鷗外が樗牛の評論にあった勝手に言葉を作る「造語癖」に難癖をつけたのが始まりで、樗牛はいきなり「鷗外老いたり」と鬨の声を上げる。時に樗牛26歳、鷗外35
最初に樗牛が問題として取り上げたのは、鷗外が自己流の頑固な術語趣味を以って、他を全面的に制圧したがる独善の性癖。性格劇以外はすべて「情劇」と呼ぶべきとして『早稲田文学』を批判したのに横槍を入れたもの。常に抽象一般論に籠ってばかりで文学藝術の現場を決して評論しなかった鷗外に対し、樗牛は鷗外の最も不得手とする領域を見定め、個別評論へ誘い出し、鷗外の立論態度が非現実的だという印象を衆目の前に際立たせようとした
逃げ腰の鷗外に対し、樗牛は追撃をかける
この時期までの鷗外の評論活動には致命的な欠点があった ⇒ 啓蒙家をもって自任するくせに、鷗外の用語と文脈は常に生硬で説明不足、拠り所とするドイツ語の原典を知らぬ読者には理解不可能な個所が多く、就中術語と定義に類する部分にその弊が顕著
一方の樗牛は、生粋のジャーナリスト精神に貫かれ、一篇一篇の短い文章の埒内で、必要とする限りの論旨を常に言い尽くし、権威ある原典に下駄を預ける便法を潔しとせず、一般読者に理解できる平明調を志した
この両極端を行く対照が如実に現れているのが、「造語」問題に端を発した応酬
樗牛が登場する以前の論争者は、常にひたすら学識の深浅を競った。樗牛は初めて意識的に、広く全国の文学的公衆に向かって、いかに平明率直に訴えかけるか、そこに狙いを定めて論を立てたのが奏功して、読書界の新興中産階級を掘り起こし、95年の『太陽』創刊号は第10刷を数えたという ⇒ 月2回発行で、スエズ以東最大の発行部数(十数万部といい、全国に実質30万の読者)を誇る
鷗外が乗ってこないため、樗牛は鷗外の城内ともいうべき「ハルトマンの審美学」に論争を挑み、鷗外は馬脚を露す寸前まで追い込まれる

6. 評論から手を引く羽目になった鷗外 ~ 鷗外樗牛のハルトマン論争
鷗外は梗概と要約の名手で、泉鏡花の『化銀杏』も寸評を加えようとしたが、論旨はバルザック短編の紹介に流れたのを捉え、樗牛は鷗外の説教が文学批評にあらずと批難して自らの評論を書いたところ、鷗外がそれを曲解して樗牛を非難したため、樗牛の鷗外批判はハルトマンの審美学批判に発展、審美学の歴史的発達も研究せずに、最新の学派というだけでハルトマンを尊崇倚信(いしん)するが如きは1人前に達しない小児の幼稚な思い込みに過ぎないと一蹴
鷗外はハルトマンの権威を弁護するだけ。鷗外にとっては樗牛が何主義者かだけが問題
1次ハルトマン論争は、鷗外にとって生涯の大きな転機に ⇒ 96年以後、作品合評に閉じ籠り、2度と審美学的評論には手を出さなかった。審美学、経験美学実証美学への肯定加担を公約するとともに、評論ではない狭義の審美学の、結局は翻訳ながらも研究へと方針転換をした

7. 対決を回避して遁走する鷗外 ~ 鷗外樗牛の審美綱領論争
97年、『太陽』の編輯主幹に復帰した樗牛は、「本邦現今の文藝界における批評家の本務」を掲げて、本領とする専門的な美学論文の批評に着手 ⇒ ハルトマンを取り上げ峻烈な「歴史的批評」を展開、前人の説を踏襲し多少の補綴を加えた小細工ばかりとした
99年、鷗外は共著で学問としての審美学である『審美綱領』を発刊
帝大文科を地盤とする2大雑誌『哲学雑誌』(哲学研究の専門雑誌としては当時唯一の存在)と『帝国文学』の両方に、樗牛の鷗外批判論文ともいうべき評論が、異例ともいうべき同文、同時掲載される
鷗外は、共著者への手紙という奇策に出て、直接樗牛を相手にせず、論争場裏には踏み込まないまま最小限の面子だけは保とうとする防衛策に出た
鷗外が工夫し採用した防衛戦術は、こののち長く我が国各界で、既成の社会的威信及び名声を頼りに、実質的な論争を回避する張子の虎たちが、常に愛用した虚仮威し様式の原型となる ⇒ 提起された争点が本質的な重要性を持たないとして真っ当に相手と張り合わず、対立が生じた原因をすべて論敵の内に秘めた鄙吝(ひりん)賤劣な動機に見出し、論理とは無関係な次元でケリをつけるやり方
樗牛の一撃は、審美学者として触れ込みの大きかった鷗外を完全に浮き上がらせる結果を招いたが、鷗外が乗ってこないまま、論争は生煮えで終わる

8. 樗牛が逍遥に嚙まれて謝る ~ 樗牛逍遥の史劇論争
鷗外と並んで樗牛が論敵にしたのが逍遥
論壇では独り狼だった樗牛も、帝大を軸芯とする狭い学界に対しては慎重
匿名の小説『瀧口入道』が『読売新聞』に発表されたのを別にすれば、樗牛の論文(『老子の哲学』)を初めて掲載した東京の雑誌は『早稲田文学』 ⇒ 逍遥が逸早く樗牛の異才を見出しその群を抜く力量に期待した故の抜擢
かかる背景から、樗牛が逍遥を批評する時には特に念を入れて恭敬の態度で臨み、『論文の書き方』を講じた際も、鷗外の文体が、学者に非ざれば解し難き文であるのに対し、逍遥は高遠なる理義を平明な文字で言い表しているとして評価、明治の文壇及び学界の進歩に果たしつつある逍遥の役割に1目も2目も置いていた
樗牛が逍遥への批判を開始したのは、鷗外へ仕掛けるよりも前 ⇒ 95年の『桐一葉』に失望の意を表明。悲劇にもかかわらず正史に忠実のあまり、主人公の性格が悲劇的ならざる結果になっているとした
逍遥は、鷗外からも同じような批判をされ黙殺したため、樗牛の第1弾は不発
『太陽』の編輯主幹に復帰してすぐにも逍遥批判を再開。『牧の方』の戯曲形式から非極の構造に至るまで基本原理に悉く違背、藝達者の時代遅れと決めつけた
逍遥も遂に立ち上がり、抽象論と作品の具体相との間に生じる矛盾と軋轢をシェークスピアの例で説明、鷗外や樗牛の輸入の原則論だけで裁断に走る批評を断罪
樗牛にとっての生命線である「美学」とは、定義と分類を職務とする一種の作法だったため、逍遥のいう史劇とは単なる詩ではなく史実を踏まえたものでなければならないとの説に太刀打ちすべくもなく、素直に自分自身を「卓上論者」と認め謝罪する
ただし、樗牛がそれで引っ込んだのではなく、秘かに第3弾を狙っていた

9. 手練手管の度を越した樗牛の小細工 ~ 樗牛逍遥の歴史画論争
樗牛は逍遥を劇作家と認め、次の論争を逍遥の教育理論に絞り、倫理教育を巡って小競り合いをした後、98年の日本美術院と日本絵画協会との聯合第1回展覧会に多くの歴史画が出展されたことに関し樗牛は美学的考察の方法論議を繰り広げ、逍遥に論争を挑む
直前に逍遥は『早稲田文学』を終刊とし、以後は社会、教育方面に全精力を移すと宣言していたため、2人の論争は樗牛主幹の『太陽』で展開
歴史画においては、絵画が主で歴史は従だと決めつける樗牛に対し、逍遥はそう簡単に律しきれるものではないと反論
結局議論は、抽象論の平行線に終わり、当代論壇の大立者2人が総合雑誌という新興の檜舞台で論争を交えるという樗牛の企画は当たったものの、逍遥の論文掲載に細工をして恥をかかせようとした樗牛に対する逍遥の強く密かな、打ち消し難い不信感だけが残る

10. 樗牛が釈明の機を逸する ~ 樗牛逍遥の美的生活論争
1900年、樗牛が文部省留学生として欧州派遣となり、帰国後は新設の京都帝大文科大学の美学講座の初代教授となることが内定したが、まさにその時に宿痾の病状(肺結核)が俄かに進行したため静養を余儀なくされ、『太陽』編者の辞も書けないまま、あとを大町桂月に譲る
翌年、樗牛は病を押して『文明批評家としての文学者』(副題「本邦文壇の側面評」)を書き復帰、続いて『美的生活を論ず』を発表すると、論壇を挙げての騒然たる論駁が生じる
この美的生活論争は、その規模及び分量と、問題の集中性と時間的密度を勘案すれば、明治文壇史上に空前絶後の大事件と評価され、樗牛の比肩なき天性のジャーナリストの面目躍如となる
021214日樗牛死去。『太陽』は不世出の論壇時評家を失う。一管の筆を以て論ずるところ殆ど悉く騒壇の話題を浚った樗牛が遂に沈黙
樗牛の6年の文壇批評家生活を顧みた謙退と自嘲の知的感傷性に溢れた一文は、後に明治大正の文学愛好家子女に広く涙を絞らせ、美文家の名を以て遇され続けることになる
生前の全集発行は22年の島崎藤村が嚆矢。それ以前はすべて没後。樗牛も死後20か月で全集が発行され、以後20数年に版を3回変えながら恒常的に重版を続けたのも、樗牛の若い晩年に書かれた哀愁の文体に拠るところ大
樗牛が自ら到達した批評理念とは、批評上の客観主義を斥け、批評に於ける主観主義の歴史的な正統性を説き、その効能を唱える。人間本然の要求を無視する規律は、いかなる場合に於いても人生の目的を阻碍する障壁であり、形式的な道徳論議の首枷から脱し、人性の自然を直視し確認すべしと説く
樗牛の論調がニーチェの受け売りだとの誤解が蔓延したところへ、突如逍遥が、明治文学史上に最も峻烈な全面攻撃に出たため、美的生活論争は遂に根の深い遺恨試合と化す

11. 西洋思想史を居丈高に説教して空振り
樗牛によるニーチェの受け売り論争をよそに、逍遥は歴史画論争での樗牛の仕打ちに対する復讐の念に燃え、樗牛を文壇から葬り去ろうと立ち上がる
『読売新聞』の1面最上段に24日にわたって匿名で戯文調の『ニイッチェ大師』を連載。美的生活論すなわちニーチェと信じ込んでいる逍遥は、ニーチェ批判を通して樗牛を攻撃するが、樗牛は最早一切反応を示さずに終わる
樗牛によれば、美的生活論の発想源がニーチェではなくホイットマンだったところから、逍遥は空振りを続けたことになり、後年の『逍遥選集』には読売の連載を収録していない
樗牛は、立派な文藝評論家ではあったが、俳諧には全くの門外漢で、単なる遊戯文学としてしか評さず、尾崎紅葉が、「好漢惜しむらく海苔の味を解せず」と言ったら、ある時樗牛が聞いて、「俳諧と海苔の味とどういう関係があるのだ?」と力んだので、紅葉は、「そんなことをいう男だから、俳諧が解らんのだ」となった


谷沢流「登場人物・事項」コラム
『太陽』⇒ 95年、博文館から創刊。総合雑誌という我が国に独特の型を作ったとみなされ、軍艦の構造説明から鶏の飼い方まで掲載。近年筑波大等から本誌の研究が出ている
『中央公論』⇒ 87年、西本願寺の経営する普通学校有志学生が『反省会雑誌』を創刊。これが転々して庶務主任だった麻田駒之助の経営となり『中央公論』と改めた。そこへ翻訳アルバイトに入った滝田樗蔭は、総合雑誌が今まで小説を載せなかった習慣を打破し、07年以降文壇の檜舞台となる。小説抜きで総合雑誌の型を作ったのが大橋乙羽、それに小説を加えて日本的総合雑誌の型を完成したのが滝田樗蔭
『月草』⇒ 文藝評論集。鷗外著。表紙の表記は都幾久斜、扉の表記は月久佐、本文での表記は月草。96年発刊。巻頭に逍遥批判を中心とした没理想論争関係文6篇を置いた。後年、成瀬正勝は鷗外が論争文に手を加えていると指摘した。それに対し逍遥は一字一句変更していない
夏目漱石 ⇒ 明治期が人物評論最盛期であり、人物評論家は堂々たる文士、あるいは一部世間では小説家以上に敬重せられていた傾きがある。新聞雑誌に決して悪口を書かれなかった人が3人いる。雪嶺と兆民と漱石。鷗外は嫉妬して対抗意識を以て真似たが漱石は気にもかけなかった。全集29
二葉亭四迷 ⇒ 『浮雲』により新文学の魁となり、ツルゲーネフの『猟人日記』の一節を翻訳した『あひびき』は文壇に深甚なる影響を与えた。尾崎紅葉は『金色夜叉』に借用、国木田独歩は二葉亭訳を愛読し、『武蔵野』の辞句を改めた。さらに『女難』『正直者』『春の鳥』は二葉亭訳『片恋』を模している。安田保雄『比較文学論考』(69)の考証によって二葉亭の影響力の大きさが浮かび上がる
『文藝時評』⇒ 史上初めてこの標目が出現したのは『太陽』の00年末の広告欄。樗牛の後任として博文館に入った大町桂月の発案で世に出たが、戻って来た樗牛は嫌って廃した




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谷沢永一(たにざわ えいいち、1929627 - 201138[1])は、日本の文芸評論家書誌学者関西大学名誉教授。専門は日本文学近代)。渡部昇一との共著が多い。
人物[編集]
受賞など[編集]
1980年、書評コラムを集めた『完本 紙つぶて』でサントリー学芸賞1989年、大阪市民表彰文化功労。1997年、大阪文化賞森鴎外坪内逍遥の論争を論じた『文豪たちの大喧嘩 鴎外・逍遥・樗牛』で、2004に第55読売文学研究・翻訳賞。2006年『紙つぶて 自作自注最終版』で毎日書評賞を受賞。
思想[編集]
  • 恩師の影響により十代で日本共産党員になったが、大学在学中に転向した。皇室を重んじる保守の論客の一人である。
  • 文学史家としては、普通の学者が無視するような「雑書」に丹念に目を通し、そこから新たな発見をすることの重要性を語っている[要出典]
  • 1995年発行の「人間通」は、著者独自の人生論でありベストセラーになった[要出典]
交遊関係[編集]
  • その書評の厳しさに、山口瞳は「の谷沢」と形容した[要出典]。交友の深い人物として、渡部昇一開高健藤本進治がいる。また個人的な交際はないが、紅野敏郎とはともに近代文学の研究者として、本を媒介に「同志」関係であった。兄貴分として朽木清(大阪市立大学教授)と藤本昭(神戸大学教授)の名を挙げている。
  • 教授在職中は読売テレビおもしろサンデーにコメンテーターとして出演。共演した司会の桂文珍と書籍の情報を交換するうちに才能に惚れ込み、文珍を関大文学部の非常勤講師に迎えた[2]
  • 元日本共産党員であり、最初の著作『大正期の文藝評論』は小田切秀雄の勧めによって書かれた。1976年に東京大学の三好行雄と論争した際は、小田切編纂の『明治文学全集 北村透谷集』がきっかけであったから、小田切と手を切ったのはそれ以後のことである。
批評・論争[編集]
  • 数々の批判、論争を行っているが、本人によれば不敗。
  • 1977前後に思想家吉本隆明とのあいだで論争(罵倒合戦)があった際には、谷沢嫌いの呉智英から「吉本の敗北が明白だった」(『バカにつける薬』)という評価を受ける結果を収めた。
  • 『紙つぶて』において長年、紀要の内容、教授や助教授の不勉強を具体例を挙げて批判した。
  • 19956月発行の『こんな日本に誰がした』(副題:『大江健三郎への告発状』)では、大江健三郎を、国内と国外で発言をきっちり分けるという卑屈な男であり、オウム真理教教祖と同じタイプの人間だと断言して批判した。
  • 19962月発行の『悪魔の思想』では、日本を貶めた進歩的文化人12名(大内兵衛、大江健三郎、大塚久雄加藤周一久野収向坂逸郎坂本義和竹内好鶴見俊輔丸山真男安江良介横田喜三郎)を実名と具体例を挙げて批判した。
  • 19966月発行の『誰が国賊か』では、バブル経済崩壊は、官僚である大蔵省銀行局長が行った総量規制という法律でも無い行政指導が原因だったと、実名を挙げて批判した。
  • 藤岡信勝とは犬猿の仲であり、保守・右翼系でありながら、新しい歴史教科書をつくる会の『新しい歴史教科書』には、その内容に猛反発。2001に反論書『「新しい歴史教科書」の絶版を勧告する』で、その歴史認識を批判した。最後は「国は歴史教育から手を引け」という山崎正和の理論で締めくくった[3]
その他[編集]
  • 学内行政では、学長選挙において大西昭男をサポートし、大西は515年にわたり学長を務めた[4]
  • フジサンケイグループの論客としても知られ、産経新聞大阪版でコラム「産経抄」を担当したこともある。多筆であり大学教授の合間に新聞及び雑誌への投稿、並びに著作の執筆を精力的に行い、友人の開高が見かねて「自重するように」と短文を認めたこともあるという[5]
  • 著書内において、森銑三の「井原西鶴の真の著書は『好色一代男』だけで、それ以外の『西鶴著』の本はすべて他の作家の筆による」という、他の文学史家には長年無視されている説を支持している。
  • 文学者ではなく、書誌学者という名称を好んで使っていた。
  • 関西大学図書館にはたびたび蔵書を寄贈してきたが、その中でもルバイヤートなど稀覯書の98冊については「谷澤永一コレクション」として図書館の貴重資料となっている。コレクションの内容は、堀口大學訳『月下の一群』関係13冊 福田英子関係2冊 藤村操『煩悶記』1冊 ルバイヤット関係82冊である。


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