ユリシーズを燃やせ Kevin Birmingham 2016.11.14.
2016.11. ユリシーズを燃やせ
The
Most Dangerous Book:The Battle for James Joyce’s
Ulysses 2014
著者 Kevin Birmingham ハーバード大大学院修了。現在ハーバード大の文芸プログラム講師。専攻は19・20世紀の文学と文化、検閲の歴史と文学の猥褻猥褻(わいせつ)性など。本書でPENニューイングランド・ノンフィクション賞(2015年)、トルーマン・カポーティ文芸評論賞(2016年)受賞
訳者 小林玲子 1984年生まれ。ICU教養学部卒、早大大学院英文学修士。
発行日 2016.8.10. 第1刷発行
発行所 柏書房
写真
l 1904年、ジェイムズ・ジョイス ダブリンにて
l 1904年、ノーラ・バーナクル 結婚はしないというジョイスと共に、この年アイルランドを去る。『ユリシーズ』は初めて二人が一緒に過ごした1904.6.16.が舞台
l 1919年、ジェイムズ・ジョイス チューリヒの女性たちには「ヘル:サタン(悪魔)」と呼ばれた
l エズラ・パウンド 無名のジョイスを見出し、『リトル・レビュー』誌上で『ユリシーズ』を連載する段取りを整えた。法的な問題が雑誌に迫ってきても、連載を続けることを主張――たとえ逮捕され、抑圧の炎の中で息絶えようとも
l 『リトル・レビュー』誌の創始者にして編集長マーガレット・アンダーソン。『ユリシーズ』の大部分は1918~21年にこの雑誌に連載
l 1935年、ニューヨークにてジョン・サムナー 猥褻な本を焚書にする。サムナーとニューヨーク悪徳防止協会は1921年、『リトル・レビュー』を猥褻のかどで処分
l ニューヨーク悪徳防止協会の創始者アンダーソン・コムストック 左頬の傷はポルノ作家にナイフで切り付けられた痕
l ジェイムズ・ジョイスとシルヴィア・ビーチ シェイクスピア書店にて
l シェイクスピア書店創業者にして『ユリシーズ』を最初に出版したシルヴィア・ビーチ パリに書店を開いた1919年、ビーチは店の奥お簡易寝台で眠った
l 1922年、シルヴィア・ビーチとジェイムズ・ジョイス(目の問題は悪化していた)
l 1923年、 エズラ・パウンドは作家とパトロンを引き合わせた パトロンのフォード・マドックス・フォード、ジョン・クイン
l ジョイスのパトロンにして最初の英国版『ユリシーズ』を出版したハリエット・ショー・ウィーヴァー。最初の版は1部分が、2版目はすべて焼却された。ジョイスと関わったことは敬虔なウィーヴァー家にとってスキャンダルだった
l 米国自由人権協会の共同創始者にして、ランダムハウスの法律顧問モリス・アーンスト。『ユリシーズ』を「現代の古典」と呼んで擁護
l ジョン・ウルジー判事 1931年頃ニューヨークにて。1933年の有名な判決によって、米国での『ユリシーズ』出版は合法とされた
l ランダムハウスの共同創始者ベネット・サーフ。彼とアーンストはパリから『ユリシーズ』を1部持ち込んだ。彼らの狙い通り1933年に連邦裁判所で裁判が起きる。サーフは『ユリシーズ』がランダムハウスにとって「最初に真に重要な出版物」だと語る
l ジョイスが『TIME』誌の表紙に 『ユリシーズ』の合法化によってジョイスは大きな注目を集めた(連邦裁でウルジー判決が出た直後に発行された)
l 1930年、目の手術後のジョイスに付き添うノーラ・バーナクル。ジョイスは失明を免れるため少なくとも11度の手術に臨んだ
序
『ユリシーズ』は、これまでの本の執筆・出版に関するすべてのことが当てはまらない
ジョイスの叙事詩のどこが特別かという話は散々書かれてきたが、『ユリシーズ』そのものに起きたことは見失われてしまった。なぜスキャンダラスだったのかわからなくなってしまった
英語で書かれた小説として世界最高とまで言われた本が、10年以上にわたり、公式にせよ非公式にせよ、英語圏の大半の国々で猥褻だとして発禁処分にされていた。禁止されていたという事実こそがジョイスの小説をこれほど特別にした理由の1つ。『ユリシーズ』は続く世紀の文学の流れを変えただけでなく、法律における文学の定義そのものを変えた
本書は『ユリシーズ』の伝記。1906年の最初のひらめきから追い、ニューヨークの雑誌で連載され、郵送されるところを監視され、最も積極的な支持者にしてモダニズムの旗手エズラ・パウンドにまで検閲されたことを追う
世間の大半にまず伝わったのは『ユリシーズ』の違法性 ⇒ パリでは一部原稿が焼却され、ニューヨークでは出版前から猥褻のかどで有罪判決を受けた後、パリの小さな書店経営者の米国人シルヴィア・ビーチがジョイスの苦悩に触発され出版を決意。1922年世に出ると、毀誉褒貶相半ばしたが、大西洋の両側の政府は押収し発禁処分とした
それでも『ユリシーズ』は地下で評判を保ち続け、モダニストの革命の原型であり、モダニズムが革命だと考えられようになった最大の理由だった
経験主義の敵は不合理ではなく、秘密主義であり、その極致は猥褻。猥褻はどこまでも個人の領域であり、それを公の場に持ち出すことは違法とされた。猥褻が少しでも経験性を主張するには、社会がよほど突飛な基準を持たなければならなかっただろう。『ユリシーズ』が危険とされたのは、それが経験主義と猥褻、外面と内面の生活の間に序列を認めなかったせいだ
米国では、猥褻をめぐる闘いは時に暴力的。猥褻の基準を決めるのはアンソニー・コムストックという郵政省の役人で、1873年自らの名を関した法律を作って、40年にわたり芸術の基準を一方的に規定した。最初は米国郵便システムを通じて不道徳な出版物を配布・宣伝することを禁じ、やがて全米の州法に拡散
1915年、コムストックの死去によりサムナーが後継者となって規制が緩和されたが、例外的に有罪とされた中に『ユリシーズ』が含まれた
前衛的な作品が安く流通し、読者のいるところならどこでも届くのは郵政省のお陰であり、ジョイスのような作家はそれに頼らざるを得なかったが、彼らは郵便物を検査し、押収し、焚書にする機関でもあったのは皮肉
『ユリシーズ』の驚くべき内容について論争が始まるのは、出版される何年も前からで、連載の当初から論争を巻き起こしたが、ジョイスは一層過激な内容にしていった
肉体がジョイスの小説の中心だったのは、彼自身がそのエロティックな喜びと激しい痛みにとらわれていたため ⇒ 1907~30年代まで、虹彩炎(虹彩に腫れを引き起こす病気)の発作を何度も起こし、やがて急激な緑内障とその他の症状に繰り返し悩まされるようになり、ほぼ失明するほど視力が弱って、失明を免れるために受けた手術はすべて麻酔なしで行われ、「目を切り開かれる」覚悟を決めないままにトラウマとなった
時がたつにつれ、ジョイスが単なる挑発者ではなく、モダニズムの究極の芸術家だという評判を呼ぶが、それでも1931年にフランスの駐米大使だった詩人ポール・クローデルは、「最も醜悪な冒涜に満ち、異端者の憎しみが感じられる小説」だと言って排斥した
ジョイスが検察と闘ったことで小説の社会的な位置づけは決まり、21年以降の法廷闘争は前衛芸術運動の主たる担い手をいわば芸術全体の代表に変え、抑圧を試みる権力と戦う創造性のシンボルとした
『ユリシーズ』は、芸術の障壁をすべて取り払い、芸術の表現形式、スタイル、内容における限りない自由を求めた
イェイツやエリオット、ヘミングウェイもジョイスをサポート、中でも最も重要なパトロンはロンドンのハリエット・ウィーヴァーであり、女性読者のデリケートな感受性を守るためという理由で発禁にされながら、その存在を支えていたのは数人の女性たち ⇒ 1人の女性(ビーチ)に触発され、別の女性(ウィーヴァー)に資金面で支えられ、2人の女性(アンダーソンとヒープ)の手で連載され、もう1人(ビーチ)によって出版された
1920年代にビーチが出版して計11版の『ユリシーズ』によって、シェイクスピア・アンド・カンパニー書店は、故郷を離れた「失われた世代」のよりどころとなり、本の色褪せない魅力がより大きな米国の出版社に法廷闘争の意思を抱かせるのは時間の問題
1931年、ニューヨークの編集者ベネット・サーフは、自らの若い出版社ランダムハウスが勢いよくスタートするために、危険を伴い、大胆で、知名度の高い本を手掛けようと望み、理想主義的な弁護士にして米国自由人権協会の創始者モリス・アーンストと協力し、連邦判事の前で『ユリシーズ』を弁護した結果、ウルジー判事によって猥褻をめぐる法の形が修正されるに至る
ウルジー判事の前に登場したのは1933年秋だが、その4か月前にはナチスが焚書としたため、『ユリシーズ』を持っていること自体生半可な行動ではなかった
『ユリシーズ』が文学的な爆弾から「現代の古典」に作り替えられたのは、モダニズムがアメリカ化される過程の縮図でもあった
『ユリシーズ』出版の歴史は、ジョイスの作品を難解なものにしているものこそ、小説を解放に導く手段なのだということを思い起こさせる
ジョイス以前の小説家は、礼節というヴェールがフィクションと現実の世界を隔てていると信じて疑わなかった。書くことは人間のあらゆる経験を口にしていいわけではないと認めることだった。ジョイスは何一つ口を閉ざすことなく、『ユリシーズ』が34年に米国で合法化され出版された頃には、芸術には制限がないかのような状況になっていた
『ユリシーズ』出版にまつわる格闘の全体像を語った本はこれまでないが、ジョイスの伝記は少なくとも8冊はあり、断片的な言及はされてきた
『ユリシーズ』誕生を可能にしたすべての人間の中で、最も重要なのはノーラ・バーナクル
『ユリシーズ』を取り巻く物語は、高次元なモダニズムがいかに低次元とされる肉体と精神から生れ出たか教えてくれる。極端な経験を――愉悦と痛みを――含む芸術作品は、禁制品から正典(カノン)に変化した。これは文化的な革命のスナップ写真だ
『ユリシーズ』をめぐる闘いは、文学における検閲を終わりにはしなかったし、留保なしの自由の時代を導くこともなければ、前衛芸術の美学を行き渡らせることもなかった。それでもこの闘いは美が快楽より深いこと、芸術が美より巨大だということを痛切に訴えている
いま自らの言葉を禁止されることについて心配せずに済むのは、ある意味で『ユリシーズ』に起こったことのお陰。それが勝ち取った自由は、我々の芸術に対する視点以上のものを創り出した。それは我々が芸術を創り出す方法を形にした
第1部
第1章
夜の街
政治的な混乱と飢饉の結果、1901年、19歳のジョイスには、祖国に対する反感を表明する準備が整っていた
挑発的なノルウェー人劇作家で軽蔑を糧に生き続けたイプセンに惹かれ、触発されて、イプセンのエッセイを配っていた
15歳年上のイェイツに会っても、「あなたは歳を取り過ぎていて、僕に何の影響も及ぼさない」と一蹴していた
パリに留学するが、すぐに挫折、芸術家としての人生を歩み始める
母の危篤を機にダブリンに戻り、中流家庭からも没落、最悪のスラム街での経験を通じて小説を書き始める
エピファニー(ある瞬間や物事に何かが露になること)を人間の中に求め、世界の輝きは女性のエロティックな結びつきから生まれるとし、その女性はパリで出会った女性たちと夜の街の女性たちを混ぜた姿になっていた
真の芸術は、人生を共にする女性を見つけることによってのみ達成されるとした
第2章
ノーラ・バーナクル
ダブリンで行きずりのホテルの客室係だったノーラと会い溺れていく
第3章
渦巻運動ヴォーティシズム
1909年、初の詩集を出したばかりのエズラ・パウンドは、1913~14年崇拝するイェイツの秘書になり、イェイツからジョイスを紹介される
当時のロンドンは、世界一の人口を誇る人種の坩堝で、急進的な革命運動の巣窟でもあった
パウンドは、芸術のエネルギーを表現する言葉として「渦巻」を提唱、渦を起源として、その中にアイデアが絶えずほとばしる。天才的な個人ではなく各所から集まってくる才能の渦で、熱狂的なスタイルがいずれ運動を1つにまとめるのを理想とした
ジョイスは、パウンドが発刊した雑誌に『ダブリン市民』や初の長編小説『若き日の芸術家の肖像』第1章を投稿
第4章
トリエステ
第1次大戦は、数というものに対する人々の感覚を根本から変えた
7百万人の市民と10百万人の兵士が死に、何マイルにもわたる塹壕が1918年の致命的なスペイン風邪の土壌を作り、50百万を超える人が犠牲となった。世界は機関銃、破砕性手榴弾、ウィルスのリボ核酸で疲弊しきっていた
1904年ダブリンを出たジョイスとノーらはパリを目指すが、職を得たベルリッツからオーストリア領のトリエステに行かされる
安月給にもかかわらず飲んだくれて、無政府主義に傾倒し、あらゆる権威を拒絶
1915年、イタリアがオーストリアに宣戦布告、トリエステでも戒厳令が敷かれた
『ダブリン市民』は開戦直前に発刊されたが売れ行きは不芳
第5章
魂の鍜治場
1913年、ウィーヴァーは英国の婦人参政権を求める急進的な団体「女性社会政治同盟」に不満を持ち、大胆不敵な雑誌『フリーウーマン』が廃刊になる際、自ら支援を申し出、最終的には『エゴイスト』という新しい雑誌を創刊。ほとんどの出版社が拒否する中、ジョイスの『若き日の芸術家の肖像』を連載しようとするが、ロンドンの印刷業者がネックで、下品な言葉や表現を片端から削除した
英国の検閲制度は大戦中にますます強度を増し、没収・焚書にとどまらず、たとえ猥褻が「芸術」だと出版社や印刷業者が主張しても、モラルに反する書物を出版した人々を投獄する権限が警察に与えられた
第6章
小さなモダニズム
モダニズムの前哨基地は小規模な手製の雑誌
ジョイスにとって最も重要だった雑誌は、1914年シカゴで創刊された素朴な月刊誌『リトル・レビュー』で、熱心な購読者を持ち、ヘミングウェイ、エリオット、イェイツなどといった寄稿者を集めた。初代編集長はマーガレット・アンダーソン。無政府主義に賛同し、女性がやりたいことをやれない不条理に抵抗、長ズボンをはいて葉巻を吸った
1916年、アンダーソンはジェーン・ヒープに出会う
第7章
モダニズムのメディチ
アメリカの成功した弁護士ジョン・クインは、著名な美術品のコレクターだったが、自らの影響力をモダニズムに注ぎ、1912年にニューヨークで大々的な展示会を開催。モネやルノワールといった巨匠の隣にカンディンスキーやマティス、ムンク、デシャンといった先鋭的な作品を並べた
モダニズムの雑誌『リトル・レビュー』を積極的に支援
第8章
チューリヒ
イタリアの地下で進むレジスタンスの支援者だとみなされ、トリエステからチューリヒに亡命。収入の道も断たれ、一家4人で極貧の生活を送る
『リトル・レビュー』に『ユリシーズ』の連載が1917年から始まることが決まるが、直前に初めて強烈な緑内障の発作に見舞われる ⇒ 手術を受けるが、それがトラウマに
幸運にも支援の手は世界のあちこちから届く
第2部
第9章
郵便と権力
1917年、米国がドイツに宣戦布告すると、諜報活動取締法が成立。郵政長官の命令のもと、各地の郵便局長以下30万人の公務員が手足となって、戦勝への努力を貶め、妨げるものを摘発。政府は言葉の行き来する手段を抑えることで検閲の力を手に入れ、戦争がさらなる検閲を正当化。そのなかで政府はジョイスを発見。
連邦政府の成長はいわば郵政省の成長の物語であり、強い郵政省は米国の検閲制度に欠かせないもの。議会は郵便制度の目的が「我が国の市民の文明的な程度を高め、愛国心の名のもと一体化させる」ことだと宣言
米国人を生み出したインフラは、モダニストにも便益をもたらす ⇒ 全国各地の愛読者に安価な配達料金で雑誌を届けることができた
1873年、ニューヨーク悪徳防止協会会長のコムストックが新たな連邦法の草案を手に入れたときから米国の検閲制度の歴史が本格的に始まる ⇒ コムストック法への大統領の署名とともにコムストックは郵政省の特別執行官となり、拳銃とバッジを携帯、全米で違反者を逮捕する許可を与えられたごく少数の特別執行官だった
反国家的文書の判定は郵政省法務局長が決定、抑圧の空気が出版界全体を怖気づかせた
『リトル・レビュー』も、クインの弁護の甲斐なく、猥褻と判断される。アンダーソンは今や平和主義者として知られていたが、それは反逆者とほぼ同義語
クインは、ジョイスのことを同郷の絆のためにやがて称賛を超えて熱中するようになるが、死を間近に控えて、『ユリシーズ』連載第1回を読んで、病気という重荷が全ての不快な細部を耐えがたいものにしたのか、怒りに満ちた口調で、「これは便所の文学、公衆便所の芸術と呼ぶべき代物。寝室芸術、キャバレー芸術と呼ぶ名誉にも値しない」と言い、全米の判事や陪審員の誰より早く、『リトル・レビュー』に有罪判決を下した
『ユリシーズ』を最初に検閲したのはエズラ・パウンドで、アンダーソンとヒープに送る前に、下品な表現を30行ほど削除
1919年、『リトル・レビュー』が郵政省の翻訳局に到着。フランス語の散文が含まれていたためで、国内での配布を禁じられ、『ユリシーズ』も猥褻のかどで政府の検閲に回された
第10章
ウルフ夫妻
1918年、ウィーヴァーは『エゴイスト』上でジョイスの小説を連載しようとしたが、印刷業者の抵抗に遭い、自分たちの印刷所を立ち上げたばかりのヴァージニア & レナード・ウル夫妻に持ち掛けたが、夫妻はジョイスを称賛はしたが、『ユリシーズ』は失敗作だと言って印刷を断った
第11章
狂気
手紙を書こうとすると、「野生の荒々しい獣の狂気」がジョイスを包み、言葉をそれ自体の世界から引きはがす役割を果たした。猥褻な言葉は、猥褻な思考と一体になった。ジョイスの性的な想像の典型は、ノーラが卑猥な言葉をささやき、彼女の口がそれを形作るのを考えること
ジョイスと汚い言葉の関わりは7歳の時まで遡る。教会の罰を記録したノートには、「乱暴な言葉」を使ったことで、神父がジョイスの手を4度叩いたと書かれている
『ユリシーズ』はノーラのための物語であり、初めて過ごした晩の記念。ジョイスが『ユリシーズ』の中で永遠の生命を与えた1日は、初めてノーラと2人きりで過ごした日
第12章
シェイクスピア・アンド・カンパニー書店
シルヴィア・ビーチは、第1次大戦で人口の1/5近くを失って廃墟同然の街ベオグラードに米国赤十字の事務官として到着するが、すべてが男社会で、女性の居場所がないことを知って愕然とし、1919年パリに戻って自らの理想だった書店を開く ⇒ シェイクスピア・アンド・カンパニー書店と名付け、英語の貸本を中心としたが、タイミングが絶妙で、すぐにフランスのアンドレ・ジッドなど著名な文学愛好者たちが訪れた
米英の経済的な急成長とフランの下落が、パリを完璧な国際都市に仕立てる。1915~20年の5年でフランは1/3に下落、米国人の訪仏者は戦前の15千人から40万人に急増、多くがこの地に留まった
書店は、英語話者の溜まり場から、コミュニティに変化、金のない社交センターと化し、国際文化都市の中の文学的な結節点となる。一部の作家は自分宛ての郵便物をこの書店に送るようにしたが、それだけで安定した住所だった。「失われた世代」の家となる
セーヌの左岸、モンパルナスが芸術家コロニーの中心で、多様な人々の離合集散の場所として栄えた
1920年、ジョイスがパリに居を移した際の歓迎会に偶然出席したビーチは、初めてジョイスと直接話をする機会を得て震えた
第13章
ニューヨークの地獄
大戦終了後、米国では生活苦から無政府主義者や共産主義者による無差別爆弾テロが頻発、政府は司法長官の名をとった「パーマー・レイド(パーマーによる左翼狩り)」で警備を強化したが、捜査官たちは行く先々で、言論を通じて国内の過激派を結び付けていた書類や本などを押収。書店は反体制的な活動の根城で、『リトル・レビュー』も捜査活動の網にかかる。ヘミングウェイやスタインベック、ジョイスなどの個人ファイルも作成された
『ユリシーズ』はスキャンダラスな本が教養ある人々の間で高い評価を受けた最も華々しい例で、道徳的な頽廃を厳しく取り締まる中、告訴を恐れず、法廷闘争も辞さない新世代の出版社が輩出していた
コムストックの後釜としてニューヨーク悪徳防止協会を引き継いだサムナーは、過激主義者と性解放論者を2つ同時に叩く機会を探し、すぐに『リトル・レビュー』に目をつけ、同誌とジョイス、ワシントンスクエア・ブックショップを告訴すれば一度の告訴で1920年のこの国を取り巻きつつある不道徳、過激主義、外国の思想を叩くことができる
地方裁判所で始まった予備審問にクインが出廷。クインの友人でサムナーに反感を持つ判事が担当。クインは自身の論拠を19世紀半ばの英国の法律に求める。1920年に英米の法学のもとになった猥褻の定義は、1868年英国人判事によって定められていた。「猥褻かどうかとは、その猥褻と判断された文書の性質が、それらの非道徳的な影響に対して無防備な人々を襲い、堕落させ、そのような出版物が手に入るかによる」 ヒクリン・ルールとして知られるが、やがて猥褻法となる。猥褻出版物禁止法が定めたように「良識ある人々」に有害な本によって利益を得るポルノ作家を標的にするのではなく、猥褻をその本が社会の最も無防備な読者に与える影響をもとにしていた。法の要点は、まっとうな意識を守ることから、歪んだ意識を封じ込めることに変わった
第14章
コムストックの亡霊
サムナーは反官僚的な権力を自認し、コムストックの好戦性をプロフェッショナルな域に高めた ⇒ 暴力ではなく、大衆への訴えかけにより理性の力で賛意を得ようとしたが、コムストックと同類であることを示す執拗さが隠されていたことは否めず、コムストックの亡霊がのしかかっていた
第15章
エリアがやってくる
『リトル・レビュー』は天才のために存在していた。だからこそアンダーソンとヒープは「悪魔のように」毎号闘った
アンダーソンにとって、『ユリシーズ』と『リトル・レビュー』の猥褻裁判は言論の自由をめぐる闘いではなく、天才の自由を賭けた闘い
第16章
ニューヨーク州市民 vs アンダーソン、ヒープ
1913年、連邦判事が初めて現行の基準に疑問を呈した。「猥褻」という言葉は、社会が猥褻と見做すものに照らし合わせるべきではないか? 猥褻、性的、扇情的の意味は固定化されているわけはなく、それらは流動的で、地域的で、何年にも渡って社会の中で育まれるのだ、としたが、予備審問に過ぎなかったため、誰も注意深くは読まなかった
クインは、この判事の判断を引用しつつ、ジョイスの作品は最大限に洗練された読者にしか理解できず、理解不能である限り猥褻とは言えないと主張。実際ジョイスとは混乱(カオス)の別名で、テキストはきちんとした句読点もない
判決は、軽い罰金刑で済み、法廷にいた裕福な女性が代わりに払って2人は投獄から免れた
芸術家にモラルを押し付けたら、彼は芸術を失う。『リトル・レビュー』は芸術家が陽の当たる場所にいられる唯一の媒体
2人には運があった。核心にある猥褻さを表す、よりスキャンダラスな部分が、あらかじめパウンドによって削除されていた
有罪宣告の後、ジョイスは風景画をもう少しあからさまに描こうと決める。読者がホメロスとの関わりに気づかないので、ジョイスは便利なチャートを書き上げるが、その鍵となる指針が世間に広がり過ぎてしまいそうになると、出版社にその印刷を禁じた
第17章
「キルケ」焚書
『キルケ』の挿話は、タイピストからも拒絶され、クインも出版の努力を諦めたが、シルヴィア・ビーチが『ユリシーズ』の出版に挑む ⇒ ビーチにとって世間の批判は関係なく、ジョイスに、そして現代文学の中心に近づきたいという思いが衝き動かした
1921年秋出版予定。私家版で千部印刷。1冊150(12)~350フラン(28ドル)。豪華な私家版の初版本だとしても突拍子もない値段で、今日の400ドルにも相当したが、評判はたちまち広がり、書店には人が押し寄せた
ニュースに眉を顰めた1人がバーナード・ショーで、1905年にニューヨークで上演した『ウォレン夫人の職業』で出演者と裏方が逮捕され、コムストックの犠牲者となっていた。ショーは『ユリシーズ』を読んで、「吐き気を催す記録だが、真実そのもの」と評価したが、ビーチのことは「芸術の起こす興奮に酔っている。自分とは違う」と切り捨て、本を買う積りはなかった。「アイルランドの、とりわけ年配の人間が本に150フランを払うと考えているなら、私の国の人間が分かっていない」ともいった。パウンドはそれを聞いて、ショーのことを、真実と向き合うのが怖い、「九流の臆病者」と呼んだ
最後が『ペネロペイア』と『イタケ』の挿話だったが、虹彩炎の発作が起きる中、盲目になることによって物語の大きな構造が見えてきたことから、あるかなしかのモチーフと大きなテーマに気づき、10の異なる挿話を見直し始める
第3部
第18章
はぐれ者の聖書
1921年6月、ようやく第1挿話のゲラが完成するが、膨大な数の修正が殴り書きされて戻ってくる。ジョイスはまだ書き続けていたのだ。『ユリシーズ』の印刷は動いている物体を捕まえようとするものにも似ていた
1922.2.2. ジョイスの40歳の誕生日に完成。たちまちニュースが広がり、購入者が殺到
1か月後に最初の書評が載り、「ジョイスは天才」だと評価、その後もおおむね好意的だったが、反動はすぐにやってきた。ロンドンの『サンデー・エクスプレス』紙では、「すでにこの国やほかの文明国の亡命者やはぐれ者の聖書となっている」ことを証明できると主張
アイルランド国内でも、小説の「悪徳まみれ」を激しく非難
最も痛烈な反応はノーラの無関心で、ジョイス文学の批評における金字塔ともいうべき一言を残す。「この人は天才だと思うけれど、ずいぶんと汚らしい頭をしているのね」
ウィリアム・フォークナーも絶賛して、「信仰を持って接すればいい」とアドバイス
フィッツジェラルドも同意見で、ビーチに『グレート・ギャッツビー』を一部わたし、表紙の裏にジョイスの足元に跪く自画像を描いた。ジョイスは聖なる光輪と巨大な眼鏡という姿で表現されていた。フィッツジェラルドは28年にジョイスとの対面を果たし、『ユリシーズ』にサインをもらい、ジョイスに命じられたら窓から飛び降りるとまで言って忠誠心を示したのに対し、ジョイスは「あの若者はどこかおかしいに違いない」と心配したという
ジューナ・バーンズは、『ユリシーズ』に圧倒され、「私はもう1行だって書きません」と宣言
エズラ・パウンドも文明の時代が終わったと考え、「キリスト教の時代は明らかに終わった」と書いた
エリオットも「芸術のために現代世界を存在させる第1歩」(重要なのは、その逆ではないという点だ)と書き、『ユリシーズ』は秩序を作り、現代の歴史である実りのなさと無政府主義という巨大な風景に形と重要性を与えるとした
ヴァージニア・ウルフは、エリオットが「あの最終挿話のような天才の産物の後で、また筆を執る人間がいるだろうか」「この作品は19世紀をそっくり破壊した」というのを聞いて驚いたが、彼女自身そこまでの感銘は受けておらず、冒頭の挿話を印刷するのを拒否してから4年たってもまだ懐疑的で、ようやく大金をはたいて買って読み始めたものの、嫌悪感は美的な不快感やショック以上のものだった。ところが、ある批評に「この本は『オデッセイア』のパロディで、3人の全く異なる人物の意識から紡ぎだされた」と書かれていたのを見て読み直さなければならないと思い、数か月たってジョイスを読む前に書いていた短編の執筆を再開し、やがて長編小説に作り替え、2年後の24年には、ロンドンでの1日を舞台に、3人の人間の意識に分け入る小説を完成させ『ダロウェイ夫人』と題して刊行。後にモダニズム文学の代表作とまで言われるが、ジョイスの影響がウルフの血管に入り込み、彼女を完全になぎ倒した
イェイツも、当初の感想は「気が狂ったような本」だったが、後に「大変な間違いを侵した。あれは恐らく天才の作だ」と友人に白状した
スイスの心理学者カール・ユングも同じような意見の変遷を経験。最初はジョイスが統合失調症だと思ったが、数年後に再読した時には「新しい、全世界的な意識が抽出された錬金術の実験室だ」と叫んだ
いまとなっては『ユリシーズ』は時代を変えたというよりエキセントリックで、ジョイスの小説がなぜ革命的だったのか理解するのは難しいかもしれない。ジョイスの作品がどれほど完璧に社会通念を打ち壊したか理解するには、その通念がどれだけ厳しかったか思い出すのがいいかもしれない
『ユリシーズ』が革命的だったのは、それが限界まで大きな自由を求めるにとどまらず、完全な自由を求めたこと
汚い言葉は、規範を叩き潰して自由を手にするほんの一部の手段でしかなかった
伝統の代わりに、文明は1日の出来事になった。現代世界のカオスは、この世界を理解するために新たな思考の方法を要求した――芸術を可能にする人生のために。そしてそれこそが『ユリシーズ』がもたらしたものなのだ
第19章
本密輸業者
小説は1年前ニューヨークで有罪判決を受け、パリでの出版は英国の新聞でスキャンダルだと批判されていたが、出版から間もなく「書籍」と記された荷物として米国入りを果たす
『ユリシーズ』の需要は前代未聞で、12ドル版が50ド~100ドルにまで跳ね上がり、誰もが『ユリシーズ』を話題にした ⇒ それゆえサムナーもたちまち『ユリシーズ』が米国に辿り着いたことを知って押収に動き出す
それだけ流通にネックがあり、密輸入に頼らざるを得なかった
作家になるためにパリに居を決めた新婚で22歳のヘミングウェイは、21年にまずビーチの書店を訪れ、パウンドには散文を『リトル・レビュー』に載せてもらい、ジョイスとも会って一緒に酒を飲む仲になる。後世では彼は22年に会ったガートルード・スタインに薫陶を受けたことが注目されるが、彼を文学の世界に誘ったのはシェイクスピア・アンド・カンパニー書店。書店で書くことを学び、フローベールとスタンダールを発見、ビーチはジョイスとパウンドをヘミングウェイの師匠にした
書店は彼の郵便局となり、またアドバイスとゴシップの主たる水脈となる
ヘミングウェイが、まだ発禁になっていなかった(発禁は24~49年)カナダ経由で米国に密輸出するルートを紹介 ⇒ 25部をデトロイト経由で、この本の犯罪の歴史が始まったワシントンスクエア・ブックショップへ届けることに成功
第20章
王の煙突
『ユリシーズ』完成後、ジョイスの人生は崩壊。ノーラは子供を連れて里帰りし、いつ戻るとも知れず、いい方の目も緑内障を起こす
ウィーヴァーとジョイスは7年間の文通の後初めて会ったが、ウィーヴァーはジョイスの虹彩炎に爛れた目を直視できなかった
ウィーヴァーは、エゴイスト・プレス社から英国での最初の『ユリシーズ』出版を決意、出版社を説得。特に注文の多かった米国向けには、背表紙の意図をほどいて1冊をばらばらにし、新聞紙の間に各ページを忍ばせて送り、無関税で上陸することに成功
すぐに海賊版が現れるとともに、密輸ルートから紛失の報告が届くようになる。22年末になると米国の役所が片端から押収していることが判明、ウィーヴァーが警察の監視下に置かれていた。米国では法務官が猥褻と判断した後焼却された
英国でも同年3月に市民が書評を内務省に送ったことをきっかけに発禁の検討が始まり、11月には押収命令が出、猥褻の決定が下され、税関での没収・焼却が正当化された
ウィーヴァー宛ての500部の『ユリシーズ』は「王の煙突(ファルマスの波止場にある禁制品の焼却場)」で燃やし、焼却の記録を燃やした
第21章
薬のデパート
1920年代はジョイスにとって過酷 ⇒ 他のモダニストも検閲や削除という運命を味わったが、ジョイスほどここまで呪われた芸術作品1つに我が身を捧げた人間はいない
ある版をすべて焼却するということは、本の普及を抑制するのに十分
焚書の最も残酷な一面は、ジョイスの孤立を深めたこと。検閲は熱心な支持者の間では彼のオーラを強めたかもしれないが、こうして増した彼の名声は彼を無口に、用心深くして、写真撮影こそ許したが、インタビューに応じることは1度もなく、徐々に狭い友人の輪の中で恐る恐る会話をするようになった。急速に悪化した視力がそれに拍車をかける
何度かの手術と、幾種類もの薬を投与され、何度もパニックの発作を起こすようになり、酒と睡眠薬で薬から逃れる最後の手段を試した
虫歯が感染症の主たる原因だと考えられていて、大半の歯を抜いた
両眼に包帯を巻いて、薬で朦朧としながらも、ジョイスは意識の奥底を探り、大判の紙に鉛筆で大きな字を書いた。それは『フィネガンズ・ウェイク』の始まり
目の周りにヒルを置き、目の中の血を吸い取らせては、新たなヒルを目頭に置くことを繰り返した
第22章
悪の輝き
ジョイスの本は英語圏の国で違法とされながら、ビーチは8版まで出版、9年で24千部しか売れなかったが、彼女の書店は育ちつつある「ジョイシアン」の巡礼の終着地となり
入手が困難になった状況下、『ユリシーズ』の放つ悪の輝きは本物だった
英国では、内務省のみならず、公共メディアも同様に敵対的。1931年、BBCは20世紀の文学手法の変遷を番組に取り上げたが、『ユリシーズ』に触れなければジョイスについて語っても良しとしたが、”ジョイスの小説についての本”を取り上げようとしたところシリーズを打ち切ると脅かされ、制作者は「ジョイスの最も重要な作品の題名を口にすることをBBCから禁じられている」とリスナーに告げた
理想の検閲とは沈黙の誘発で、発禁そのものを秘密に留めることができれば完璧
第23章
現代の古典(モダン・クラシック)
1920年代、出版は国内で台頭しつつある著名人文化の中心に近いところにあったが、そこに置いたのはポニー&リヴライト社のリヴライトで、出版記念パーティを考え出した
『ユリシーズ』こそ手に負えなかったが、ギャンブラーで、モダニストのきわどい作品を出版していた
資金的に逼迫していたリヴライトに乗り込んだベネット・サーフは、1925年には実質上の編集者となり、友人と2人で20万ドルで会社を買収、ランダムハウスと名称を変更、ウォール街の最盛期に出版業界の主流となっていた特定の収集家を相手にした既刊本の高価な豪華装丁版を出して急成長を始める ⇒ ビーチが『ユリシーズ』の初版で使った手法で、もともとは猥褻な本が警察の目をかいくぐるために思いつかれた
大恐慌を乗り切って市場のシェアを伸ばし、30年には百万部売り、1965年に40百万ドルで売却された
第24章
トレポネーマ
ジョイスは『ユリシーズ』を書いた後の年月を、より濃密で曖昧模糊とした小説に深く潜り込むことに費やした。『フィネガンズ・ウェイク』はうねる夢の言語で書かれ、言葉は定義の枠を超え、語法は土手を破る川の水のようで、言葉遊びは愉快であると同時に破壊的
まったく意味不明の言葉の羅列で、文章とは言えず、内容もハチャメチャ
パウンドも全くお手上げだったが、ジョイスはそれから12年も同じ調子で書き続けた
ジョイスの暴飲暴食と浪費壁は年月とともに手に負えないものとなっていき、最大の支援者だったビーチも金策や、海賊版への対応など力仕事ばかりを押し付けられて、次第にジョイスから距離を置くようになる ⇒ ジョイスはビーチに『ユリシーズ』を全世界で出版する権利を託したが、それは当時海賊版の世界を牛耳っていたサミュエル・ロスと戦うために必要とされる法律的な支払の負担を逃れるためだった
娘が統合失調症で精神病院に入院させられたのもジョイスにとってはショック
目を侵したバクテリアは、梅毒トレポネーマで、梅毒のせいで視力を失おうとしていた
ジョイスのキャリアを形作った個人主義は、彼が知る限り最も硬直した序列的な権力構造だったカトリシズムの影を抜け出すことがなかった。何年も『ユリシーズ』を書き続けたのち、出版の数日前に口にした単語は「贖罪」だった
第25章
捜索と押収
合衆国憲法修正第1条(言論の自由)は、『ユリシーズ』を守ることができず、これまでに政府が焚書にしたどの本の保護に対しても無力。判事たちも修正第1条の効力の範囲を連邦政府だけだと捉えていたので、ニューヨークやオハイオといった州では禁止が可能で、憲法が連邦政府と州政府の両方の介入から言論の自由を守るという考え方は1925年以前には広まらなかった
『ユリシーズ』出版の合法化に向けた動きに手を突っ込んできたのがランダムハウスのサーフで、人権派弁護士だったモリス・アーンストに裁判の可能性について持ち掛ける
ジョイスも、ビーチから出版の権利を取り戻し、前払い金1000ドル、15%の印税という条件でサーフに版権を渡す
アーンストの戦略は、10年間も政府の強固な権限を認めたコムストック法に対抗する代わりに、猥褻本の輸入を禁止する関税法を犯すこと。コムストック法が「猥褻、みだら、性的、不潔、不道徳あるいは醜悪」なものすべてを禁止したのに対し、関税法は「猥褻な」本の輸入のみを禁じていたため、ハードルは低かったのと、関税法は対物的な裁判を認めるだけで、被告は本そのもので輸入した人間は対象外とされたため、誰も投獄されない
アーンストの議論の要は、『ユリシーズ』が現代の古典で、古典が猥褻であるはずがないという点
関税法には、財務省が古典と認めたら発禁にされた本の輸入が許可される、という例外規定が最近の法律の更新で追加されていた
1933年、ついにモダニストに好意的だったウルジー判事の下で裁判が始まることになる
第26章
合衆国 vs 『ユリシーズ』
ウルジー判事のマサチューセッツにある夏の別荘の書斎で連邦裁が招集された
1913年の判決で、猥褻を「生ける基準」として、時代に応じて変わるものとしていた
連邦検事も、『ユリシーズ』を好意的に捉えるようになり、ウルジーの判決文はジョイスの本を合法化する以上の働きを見せた。推薦者になったのだ
『タイム』誌はウルジーの意見を、「その権威、説得力、米国の将来の出版に対する影響において歴史的」と評し、本が出版されると眼帯その他を身に着けたジョイスを表紙に載せた
合法化された後の出版日は1934.1.25. 再び政府が告訴しようとしたときのために、ウルジー判決文も印刷し、何十年もランダムハウス版に掲載された。恐らく米国の歴史において最も読まれた判決文となった
問題は1つだけあった。印刷のために出版社に送られたのは、最新のシェイクスピア・アンド・カンパニー書店版ではなく、サミュエル・ロスの海賊版だった
第27章
掟の銘板
米国政府は控訴、控訴審は13年の判決を書いたランド判事他2人が担当。「特定箇所が、卑俗で、冒涜的で、猥褻だが、エロティックな個所は全体の中に埋め込まれ、よって効果は薄い」と、ウルジーの賛辞を慎重に言い直した判決を下し、最高裁へは控訴されなかった
英国では、1936年に内務省と法務省、公訴局が会談し、これ以上の行動を起こさず、税関や郵政官僚にも対応の必要がないことを知らせ、15年の闘いに終止符を打った
ジョイスの遅ればせながらの勝利は、彼自身ではなく読者の本質を明らかにするもので、『ユリシーズ』の合法化は文化の変容を意味した。焚書となった本が今や「現代の古典」と見做され、西洋文明の遺産の一部となった
『ユリシーズ』がたちまち発禁本から古典に変化したという事実以上に問題だったのは、そんな猥褻にも前提があるわけではないのが明らかになったこと。すべては文脈によって変化するのだ。米英政府も、文化に不変の抽象性などないと認め、永続的な価値もなければ、「古典」と「不潔」、伝統と堕落を隔てる消えない印もないとした。絶対的な権力も、社会を見る唯一の視点も、我々の前に聳える決定的な概念もない
エピローグ
猥褻は1873年同様、今日でも違法。何が変わったかといえば、それが定義される方法
堕落の印を探すのではなく、美と対置して猥褻の度合いを測るようになった
『ユリシーズ』以降、小説が読者を「堕落させ、腐敗させる」可能性は低くなった。それどころか、それらの小説は、最も恐るべきフィクションとは我々の無垢だと知らしめた
学問の世界におけるジョイスは1960年代にブームを迎え、それ以降も拡大
『ユリシーズ』に一部あるいは全部を捧げた出版物は、本が約300冊、論文が3000件以上あり、そのうち50冊は過去10年に書かれたもの
毎年の6月16日、世界中の人間が「ブルームズデイ」を祝いに集まる。登場人物に扮して朝食に臓物を食べ、昼食にはブルゴーニュ・ワインとゴルゴンゾーラチーズ・サンドイッチを口にする。それぞれ作中の場面を演じ、何百とある作中の曲を歌い、この日のために再現された夜の街を散策する
(書評)『ユリシーズを燃やせ』 ケヴィン・バーミンガム〈著〉
2016.10.2. 朝日
■発禁・密輸の本が古典になった
アメリカへの持ち込みが禁止された。ついてはカナダ経由の輸送が計画され、アーネスト・ヘミングウェイが密輸業者を紹介した。
まるで兵器か麻薬の話のようだが、一冊の本をめぐる挿話である。
全編、意味のある文章にはみえない「フィネガンズ・ウェイク」を書いたことで二十世紀の文学史に名を刻んだジェイムズ・ジョイスだが、前作「ユリシーズ」の衝撃もそれにまさるとも劣らなかった。
英語の本であるのに、イギリスとアメリカで発売禁止になり、パリで印刷されたというだけではない。
印刷所は、その「猥褻(わいせつ)」で「不潔」な文章を活字に組むことを拒否した。それ以前に、タイピストたちが次々に仕事を放棄し、はなはだしくは、清書前の原稿を火の中に投げ込んだりした。
まるでコメディのようにきこえるが、当事者の誰もが真剣であり、ジョイス本人が心底真面目だった。
本書はその「ユリシーズ」成立に至るまでの、作品をめぐる伝記である。
ほとんど視力を失いながらギリギリまで文章に手を入れ続け、出版社に金を要求し続けるジョイスの姿はわがままな芸術家というイメージをはるかに突き抜けてしまっている。
かつて発売禁止にされた本というものにはたいてい、今読めばどこが問題だったのかわからない、という文章が続くものである。
ここでジョイスが頭抜(ずぬ)けているのは、もしかして今でも、場合によっては「ユリシーズ」は発売禁止になりうるのではと思われるところである。
今「ユリシーズ」を書店で手に取ることができるのは、とりあえず古典ということになってしまったからかもしれない。
かつては表現の自由が制限されていた。その事実は、現在が自由であることを意味しない。古典が古典となるまでの道を確認し直す、よい機会をあたえてくれる本である。
評・円城塔(作家)
*
『ユリシーズを燃やせ』 ケヴィン・バーミンガム〈著〉 小林玲子訳 柏書房 2916円
Wikipedia
『ユリシーズ』(Ulysses)は、アイルランドの作家ジェイムズ・ジョイスの小説。当初アメリカの雑誌『リトル・レビュー』1918年3月号から1920年12月号にかけて一部が連載され、その後1922年2月2日にパリのシェイクスピア・アンド・カンパニー書店から完全な形で出版された。20世紀前半のモダニズム文学におけるもっとも重要な作品の一つであり[1]、プルーストの『失われた時を求めて』とともに20世紀を代表する小説とみなされている[2][3]。
物語は冴えない中年の広告取りレオポルド・ブルームを中心に、ダブリンのある一日(1904年6月16日)を多種多様な文体を使って詳細に記録している。タイトルの『ユリシーズ』はオデュッセウスのラテン語形の英語化であり、18の章からなる物語全体の構成はホメロスの『オデュッセイア』との対応関係を持っている。例えば、英雄オデュッセウスは冴えない中年男ブルームに、息子テレマコスは作家志望の青年スティーヴンに、貞淑な妻ペネロペイアは浮気妻モリーに、20年にわたる辛苦の旅路はたった一日の出来事にそれぞれ置き換えられる。また、ダブリンの街を克明に記述しているため、ジョイスは「たとえダブリンが滅んでも、『ユリシーズ』があれば再現できる」と語ったという[4]。
意識の流れの技法、入念な作品構成、夥しい数の駄洒落・パロディ・引用などを含む実験的な文章、豊富な人物造形と幅広いユーモアなどによって、『ユリシーズ』はエズラ・パウンド、T・S・エリオットといったモダニストたちから大きな賞賛を受ける一方、初期の猥褻裁判をはじめとする数多くの反発と詮索とをも呼び起こした。
ジョイスがはじめてホメロスの『オデュッセイア』に出会ったのは、チャールズ・ラムの子供向けの再話である『ユリシーズの冒険』を介してであり、この作品によってオデュッセウスのラテン名「ユリシーズ」が彼の記憶に刻まれたものと見られる。学生時代には、ジョイスは「私の好きな英雄」と題した作文でオデュッセウスを取り上げている[5][6]。『ユリシーズ』執筆中の時期には、友人のフランク・バッジェンに対して「文芸上の唯一のオールラウンド・キャラクター」は、キリストでもファウストでもハムレットでもなくオデュッセウスだと力説している[7]。
ジョイスが『ユリシーズ』と題した作品を書こうと思い立ったのは、1906年であり、実在するダブリン市民ハンターをモデルとした短編として『ダブリン市民』に収めるつもりであったが、これは構想だけで筆が進まず頓挫した[8]。また、ジョイスは、『ダブリン市民』を執筆中、この連作集のタイトルを『ダブリンのユリシーズ』にすることも考えていたと述べている[9]。その後、『若き芸術家の肖像』を半分ほど書き上げた頃、『オデュッセイア』がその続きとなるべきだと考え[9]、1914年末から1915年初頭頃に『ユリシーズ』に着手した[8]。
ジョイスは、作品の全体像を最初から持っていたわけではなく、ある程度書き進めながら着想を掴んでいった。1915年6月の段階では、22の挿話で構成することが考えられていたが、その後17に減り、最終的に18に落ち着いた[10]。作品の舞台はダブリンであるが、執筆の場はチューリヒであり、1920年からは住居をパリに移し、1922年の最初の刊本印刷の間際まで入念な推敲が続けられた[11]。
『ユリシーズ』の物語は18の章(挿話)に分かれており、『リトル・レビュー』連載時には各挿話に『オデュッセイア』との対応を示唆する章題が付けられていた(刊本では除かれている)。ジョイスは友人や批評家のために、『ユリシーズ』と『オデュッセイア』との構造的な対応を示す計画表(スキーマ)を作成しており、これには『オデュセイア』との対応関係だけでなく、各挿話がそれぞれ担っている象徴、学芸の分野、基調とする色彩、対応する人体の器官といったものが図示されている。「計画表」にはいくつかの異なったバージョンがあるが、差異は副次的なもので大きな食い違いはない[12](計画表自体は#梗概に併記している)。
また、ジョイスは、後述する『ユリシーズ』に対する猥褻裁判の担当弁護士でジョイスのパトロンでもあったジョン・クィンへの書簡(1920年)のなかで、『ユリシーズ』の構成が『オデュッセイア』の伝統的な三部分割に対応していることを示している[12]。すなわち、作家志望の青年スティーブン・ディーダラスがその中心となる最初の三挿話は第一部「テレマキア」を構成し、父オデュッセウスの不在に悩むテレマコスの苦悩を描く『オデュッセイア』前半部に対応する。本作の中心人物である中年の広告取りレオポルド・ブルームが登場しダブリン市内のあちこちを動き回る第四挿話から第十五挿話までが第二部「オデュッセイア」(のちに「ユリシーズの放浪」の名称のほうが受け入れられた[13])を構成し、オデュッセウスの冒険を描く『オデュッセイア』の基幹部に対応する。そして、ブルームがスティーブンを連れて妻モリーの元に戻って来る最後の三挿話が第三部「ノストス」(帰郷)を構成し、オデュッセウスの帰還を扱う『オデュッセイア』後半部に対応している。
小説のプロットを神話と対応させるこの方法は、『ダブリン市民』に所収の「死者たち」から徐々に試みられていたものである[14]。T・S・エリオットは、これを「神話的方法」と呼び、『ユリシーズ』出版に際してこの手法の開発を科学上の新発見になぞらえて賞賛した[15]。
ジョイスは『ユリシーズ』の18の章をそれぞれ「同業者には未知で未発見の十八の違った観点と同じ数の文体」で書くことを試みている[16]。前半の文体を特徴付けているのは「内的独白」ないし「意識の流れ」と呼ばれる手法であり[17]、主要人物の意識に去来する想念を切れ目なく直接的に映し出してゆく。この手法に関しては、ジョイスは交流のあったフランスの作家エドゥアール・デュジャルダン(英語版)の『月桂樹は切られた』から影響を受けたことを認めている[18]。
「意識の流れ」は一人の人物に焦点を合わせる手法であるが、『ユリシーズ』の後半では語りの視点が複数化・非個人化するとともに作者固有の文体というべきものが消失し、古今のさまざまな文章のパスティーシュを含む実験的手法がとって代わる[19][20]。特にその実験が顕著なのが第14挿話であり、ここでは古代から現代にいたる、30以上の英語文の文体見本となっている。そして、最後の章では、主人公ブルームの妻モリーの滔々とした独白、つまり他者の声によって終わる[21]。こうした後半の文体について、ディヴィッド・ヘルマンは、前半の語りの主体である「語り手」に対して、「編成者」という名称を使用している[22]。
また、『ユリシーズ』の文章は、膨大な量の駄洒落や引用、謎かけや暗示、百科事典的な記述と羅列といったものを含んでいる[23]。生前、ジョイスは、「非常に多くの謎を詰め込んだので、教授たちは何世紀も渡り私の意図をめぐって議論することになるだろう」とも語ったという[24]。『ユリシーズ』は、英語原文にしておよそ26万5千語の長さを持っており、その中で固有名詞や複数形、動詞の変化形なども含め3万30種もの語が使用されている[25]。
本作の出だしの舞台であるサンディコーヴのマーテロー塔。ジョイスは、実際にここで6日間を過ごした。現在では、ジェイムズ・ジョイス記念館になっている。
午前8時。ダブリン南東にあるサンディコーヴ(英語版)海岸のマーテロー塔から場面がはじまる。ここで寝起きしている医学生バック・マリガンが、同居人の作家志望の青年スティーブン・ディーダラス(彼はジョイスの前作『若き芸術家の肖像』の主人公で、ジョイス自身がモデル[27])を階上へと呼びかける。陽気でからかい口調のマリガンに対して、スティーブンは彼がスティーブンの母の死に関して言った心無い言葉と、マリガンが招いているイギリス人学生ヘインズに対する不信感のためにわだかまりを持っている。三人はいっしょに朝食をとり、食事中にやってきたミルク売りの老婆からミルクを買い、その後連れ立って外へ出る。マリガンは裸になって泳ぎ、スティーブンに塔の鍵と飲み代を要求する。スティーブンは去り際に、今夜は家に帰るまいと考える。
場面=塔、時刻=午前8時、学芸=神学、色彩=白・金、象徴=相続人、技術=語り(青年の)、神話的対応=スティーブンがテレマコスおよびハムレット(シェイクスピア)に、マリガンがアンティノオス、老婆がメントルに対応する。
午前10時。スティーブンは、塔の近くの私学校で学生たちに歴史を教えている。授業後、居残った学生の一人サージャントに数学の算術を教え、その醜い生徒を愛しているはずの母親のことを考える。その後、校長のディージーに会って給料をもらい、そのついでに歴史談義を聞かされ、口蹄疫に関する論文の投書のために新聞への口利きを頼まれる。別れ際に、校長は、「アイルランドは、一度もユダヤ人を迫害しなかった。なぜなら、決してユダヤ人を自国に入れなかったからだ」というユダヤに対する侮蔑的な見解を述べる。
第3章および第13章の舞台となるサンディマウント海岸。
学校を出たスティーブンは、ダブリン市内のサンディマウント海岸にやって来る。彼は、哲学・文学上の思索や家族、パリでの生活、母の死といったことに思いを巡らす。また、通り過ぎていく老婆や夫婦を見てそれぞれ産婆だと思ったりジプシーだと考えたりする。そして、岩の後ろで放尿し、鼻をほじる。この挿話は、スティーブンの内面が意識の流れの技法によって書かれており、彼の教養を反映した外国語などを交えながら文の焦点がめまぐるしく切り替わる。
時刻は再び午前8時に戻り、舞台はダブリン市内エクルズ通りのレオポルド・ブルーム宅に移る。ブルームは、38歳のハンガリー系ユダヤ人で『フリーマンズ・ジャーナル』の広告取りである。ブルームは、妻のためにパンと紅茶の用意をし、途中で豚の腎臓を買いに肉屋まで出かける。家に戻ると手紙と葉書が届けられており、そのうち一つは娘のミリーから、もう一つは歌手をしている妻モリーのコンサートマネージャであるブレイゼズ・ボイランからのものであった。ブルームは、娘からの手紙を読みながら、妻とは別に朝食を取る。ブルームは、妻がボイランと浮気をするつもりだと考え、その考えに苦しめられる。ブルームは、家の外の便所で排泄し、教会の鐘を聞いて、急死したディグナムのことを思う。
場面=家、時刻=午前8時、器官=腎臓、学芸=経済学、色彩=オレンジ、象徴=ニンフ、技術=語り(中年の)、神話的対応=寝室のベッドにかかっている絵画『ニンフの湯浴み』のニンフがオデュッセウスを7年間引き止めたカリュプソに対応する。
ブルームは、郵便局に向かい、密かに文通している女性マーシャ・クリフォードから、自分の変名「ヘンリー・フラワー」宛ての手紙を受け取る。郵便局を出たところで知人のマッコイに出くわし、厄介に感じながら言葉を交わす。それから人気のない場所に入り、手紙を読む。その後、カトリック教会に入り込んでミサを聞いた後、薬局で妻の香水の調合を頼み、ついでに自分用にレモンの香りのする石鹸を買う。店を出て、知人のバンダム・ライアンズに新聞を見せてやり、その際に図らずも彼の競馬予想のヒントとなる言葉(Throwaway)を口にする。それから、入浴中の自分をイメージしながら浴場に向かう。
場面=浴場、時刻=午前10時、器官=生殖器、学芸=植物学・科学、象徴=聖体、技術=ナルシシズム、神話的対応=ブルームが見かける馬車の馬、教会の聖餐拝受者、ポスターの兵士、また彼の思い浮かべる入浴者とクリケットの観客が、ロートパゴス族の蓮の実を食べて理性を失ったオデュッセウスの部下たちに対応する。
ブルームは、ディグナムの家から会葬馬車に乗り込み、北郊のグラスネヴィン墓地に向かう。同乗者には、スティーブンの父サイモン・ディーダラス(ジョイスの父がモデル[28])がいる。ブルームは、馬車が彼の息子スティーブンとすれ違ったことを彼に告げ、生後すぐに死んだ自分の息子ルーディのことを考える。また、馬車はボイランともすれ違う。車中の話が自殺に関することになると、カニンガムは、ブルームの父が服毒自殺していることを知っているので、話を逸らそうとする。馬車はさまざまな場所を通って墓地に到着する。ここで埋葬に立ち会う間、ブルームは、マッキントッシュに身を包んだ見慣れない男を目にする。ブルームの想念は、しばらく死者を巡って展開していくが、結局のところ「温かい血のみなぎる生命」(warm fullblooded life)を受け入れる。
場面=墓地、時刻=午前11時、器官=心臓、学芸=宗教、色彩=白・黒、象徴=管理人、技術=インキュビズム、神話的対応=馬車が通り過ぎるドダー河、グランド運河、リフィ河、ロイヤル運河が冥界の四河に対応。会葬に立ち会うコフィ神父がケルベロスに、墓地の管理人がハデスに、死者ディグナムがキルケの宮殿から墜ちて死んだオデュッセウスの部下エルペノルに対応する。
ブルームは、『フリーマンズ・ジャーナル』のオフィスで立ち働いている。酒屋キーズの広告デザインのことで印刷工の監督と相談し、その広告の件を取りまとめるために競売所へ向かう。その間、同じ新聞社にディージーの投書を携えて来ていたスティーブンは、その場にいた若手弁護士オモロイ、マクヒュー教授、編集長クロフォードらを酒場へ誘う。ブルームとスティーブンは、ここでは出会わない。戻ってきたブルームは、広告の話をまとめようとするが、クロフォードに邪険にあしらわれる。スティーブンは、酒場への道すがら一同に二人の老婆の寓話を披露する。この挿話は、新聞記事のような小見出しを持つ断章形式で書かれている。
ディヴィ・バーンのパブ。ブルームは、ここで昼食のサンドウィッチを食べる。
ブルームは、新聞社を出て、古い広告を見るため国立図書館に向かう。その道すがら、オコネル橋でカモメたちのためにケーキを買って投げてやり、それから通りのサンドウィッチマンを見て、ミリーがまだ小さかった頃の幸福な生活を回想する。すると、昔の恋人ミセス・ブリーンに声をかけられて立ち話になり、彼女の夫が中傷的な葉書に対する名誉毀損裁判を起そうとしていることや、モリーの友人であるマイナ・ピュアフォイが難産で苦しんでいることなどを聞かされる。その後、ブルームは、昼食のためにバートン食堂に入りかけるが、客たちの汚らしい食べ方に嫌気がさしたのでやめ、代わりにディヴィ・バーンのパブで赤ワインとゴルゴンゾーラ・チーズのサンドウィッチを摂る。そして、図書館に向かうと、門前でボイランの姿を見かけて混乱し、あわてて隣の博物館に駆け込む。
場面=昼食、時刻=午後1時、器官=食道、学芸=建築、象徴=巡査たち、技術=蠕動、神話的対応=飢えが人食いのライストリュゴネス族の王アンティパテスに、歯がライストリュコネス族に、飢えがその囮に対応する。
アイルランド国立図書館。第9挿話の舞台。
国立図書館にて、スティーブンは年長の文学者たちを相手にシェイクスピアの『ハムレット』論を披露する。彼のハムレット論はシェイクスピアの伝記研究を基にしたもので、シェイクスピアの妻アンに対する性的劣等感やアンの不倫などを前提として、シェイクスピアの心情はハムレットではなく亡霊ハムレット王に投影されているというのがその骨子。途中からマリガンが加わり嘲笑的な批評を加える。図書館を後にするときに二人はブルームの姿を目にし、マリガンは彼が同性愛者だということを冗談半分に示唆する。
場面=図書館、時刻=午後2時、器官=脳、学芸=文学、象徴=ストラトフォード・ロンドン、技術=弁証法、神話的対応=文学談義の中のアリストテレス、神学、ストラトフォードがスキュレに、プラトン、神秘主義、ロンドンがカリュブディス、スティーブンがオデュッセウスに対応。
この挿話ではダブリンを行き交う多様な人々の様子が19の断章によって活写される。中には立ち話をするスティーブン、妻のために猥本を買うブルームなどの姿も混じるが、いずれも他の市民と同じ程度の扱いになっている。最後の断章ではアイルランド総督の騎馬行列が現れ、この小説の様々な箇所に登場する人物たちを次々に通り過ぎてゆく。
場所はオーモンド・ホテルのバー。序曲的な前触れのあと、二人の女給(ミス・ドゥースとミス・ケネディ)が噂話をする様子が描かれる。そこにサイモン・ディーダラスがやってくる。一方マーサへの返事を書くために便箋を買ったブルームは、ボイランの姿を見かけ、彼の後をつけて同じホテルに入る。ボイランがバーで酒を飲む傍ら、ブルームは友人グールディングに挨拶して、彼とともに傍の食堂でレバーとベーコンのフライを食べる。ボイランは店を出てモリーの待つブルーム宅に向かい、ブルームはサイモンたちの歌声に耳を傾けながらマーサへの返事を書き、そしてボイランとモリーとのことを考えて苦悩する。店を出たブルームは川沿いに歩き、目に入ったウィンドウに書かれていた愛国者ロバート・エメット(英語版)の最後の言葉を思い出しながら大きな屁をする。この挿話ではモチーフにあわせた音楽的な文体が採用されている。
場所はバーニー・キアナンの酒場。ここでは男たちが、この酒場の常連で「市民」と呼ばれるナショナリストを囲んで酒を飲んでいる。そこにカニンガムらと待ち合わせをしていたブルームが入って来る。「市民」はデマのためにブルームが競馬で大穴を当てたと勘違いし、またブルームがユダヤ人であることから彼に絡み口論になる。最後にブルームは仲間に庇われながら馬車に乗り込み、君たちの神はユダヤ人だった、と言い捨てて「市民」からビスケットの缶を投げつけられる。この挿話は酒場に居合わせている名前の明らかでない取立て屋によって語られており、彼の粗野な文体の合間合間に、アイルランド文芸復興期の文章、学会報告の文章、聖書の文章といった壮麗な文章のパロディが差し挟まれている。
サンディマウント海岸で、三人の若い娘が子供を連れて遊んでいる。前半はこの中の一人ガーティ・マクダウェルの、婦人雑誌ないしノヴェレッタの文体を模した語りによって書かれており、彼女は恋愛についての夢想をするうちに、遠くから中年の男が自分を見ていることに気がつく。これが仲間とともにディグナム婦人を訪ねてきた後のブルームで、彼女は花火が上がるどさくさにスカートの裾を捲り上げてブルームを挑発し、彼はそれを見ながら自慰をする。彼女が去っていくとき、ブルームは彼女が足に障害があることに気がつき、ここからブルームの独白に切り替わる。ブルームはその場にへたりこんだまましばらく休み、彼女や妻、娘、ディグナム婦人のことなどに思いを馳せ、産科にマイナ・ピュアフォイを見舞いに行くことに決める。
ブルームは、産婦人科病院にピュアフォイを見舞い、そこで医師ディクソンに誘われて、医学生の宴会に加わる。そこにはスティーブンがおり、後にバック・マリガンも加わり性や妊娠について歓談する。ピュアフォイが無事に男児を出産すると、スティーブンの一声で一同はバーク酒場へ移動したので、ブルームも几帳面について行く。この挿話は、英語文体史を概括するパスティーシュの集積で成り立っており、古代の呪いから始まって、ラテン語散文、古英語の韻文、マロリー、欽定訳聖書文体、バニヤン、デフォー、スターン、ウォルポール、ギボン、ディケンズ、カーライルというふうに次々と文体が変わってゆき、最後にスラングまみれの話し言葉となって終わる。
場面=病院、時刻=午後10時、器官=子宮、学芸=医術、象徴=白、技術=胎生的発展、神話的対応=産婦人科病院が太陽神の島トリナキエに、病院長ホーンが太陽神ヘリオスに、生殖力あるいは豊穣がその牛に対応。(オデュッセイアでは、部下たちが禁忌を破って島の牛を食べてしまい、神の怒りによって全滅する。オデュッセウス1人が残される。)
スティーブンと仲間のリンチは、娼家街に繰り出す。ブルームも彼らの後を追い、ベラ・コーエンの娼家で彼らを見つける。この間、ブルームとスティーブンも頻繁に幻覚を見る。スティーブンは、死んだ母親の幻覚に怯え、ステッキでシャンデリアを壊して逃げ、路上でイギリス王に対する軽口を聞き咎めたイギリス兵に殴り倒される。ブルームがスティーブンを介抱しようとすると、彼は死んだ息子ルーディの幻覚を見る。この挿話は、全編がト書き付きの戯曲形式で書かれており、プロットは頻繁に登場人物の見る幻覚によって中断される。
ブルームは、スティーブンを休ませるため、近くにあった「御者溜まり」という喫茶店にスティーブンを連れてゆく。ここで酔った老水夫マーフィーに話しかけられ、スティーブンの父サイモンについてのほら話などを聞かされる。また、この店の主人「山羊皮」は、パーネル失脚の原因となったフィーニックス公園暗殺事件(英語版)に連座した人物と噂される人物で、御者の一人がパーネルの帰国を予測する。ブルームは、コーヒーと甘パンを注文してやるが、スティーブンは食べることができない。二人は歴史、アイルランド、ユダヤといった、互いのアイデンティティに関わる事柄について議論し、またブルームは写真を見せて妻を紹介する。店を出ると音楽の話になり、ブルームはドイツ民謡を唄うスティーブンの美声に驚く。この挿話は、持って回ったくだくだしい文体が採用されている。
ブルームは、スティーブンを連れて自宅に帰ってくるが、鍵を持って出るのを忘れたため、柵を乗り越えて半地下エリアに飛び降り台所から入らなければならない。ブルームは、スティーブンにココアを入れてやり、古代ヘブライ語と古代アイルランド語の詩について話をする。ブルームは、スティーブンに泊まってゆくように言うが、スティーブンは断り、二人は裏庭に出て彗星を見、一緒に小便をした後別れる。ブルームは、妻モリーのいるベッドに入り、そこに性行為の後を発見し嫉妬と諦めを感じる。この挿話は、教義問答を模した形式で書かれており、問いかけに対する答えは過度な科学的詳細さで行われている。
8つのパラグラフからなるモリーの独白で、句読点のない滔々とした文章になっている。その内容は、ブルームとボイランとの比較やモリーのこれまでの人生の回想、ブルームとの出会いや彼との生活、ブルームが連れてきたスティーブンのことなどである。最初は、ボイランとの行為を満足をもって振り返るが、やがて彼の粗野さに気付き、ブルームの優しさを再確認する。最後は、16年前にブルームからプロポーズされたときの回想と、それに伴って現れるYesという言葉で終わる。(and yes I said yes I will Yes.)
1917年末、ジョイスは、援助者のエズラ・パウンドとハリエット・ショー・ウィーヴァー(英語版)に完成した最初の三挿話を送った。パウンドとウィーバーは、連載に積極的であったが、検閲などの問題でロンドンのウィーバーの雑誌『エゴイスト』ではなく、アメリカの雑誌『リトル・レビュー』での掲載の手はずを整え[29]、『ユリシーズ』は同誌1918年3月から1922年9・12月号までの23号にわたり第14挿話までの連載が行われた。また、1919年には『エゴイスト』にもごく一部であるが作品が掲載されている。しかし、1919年に、『ユリシーズ』を掲載した『リトルレビュー』の1月号と5月号がアメリカ郵政当局により没収を受けた。1920年9月には第13挿話の後半を載せた同誌の8-9月号に対してニューヨーク悪書追放協会によって告訴され、翌年2月に編集者二人に50ドルの罰金が科せられるとともに『ユリシーズ』の出版が禁じられた[30]。これによって一時出版が絶望的になり、ジョイスはいくつの出版社に断られたが、最終的にパリの英語文学専門の個人書店であるシェイクスピア・アンド・カンパニー書店の経営者シルヴィア・ビーチ(英語版)が刊行を引き受けることになった[31]。
ビーチは予約制の限定本とすることによって出版資金を集め、『ユリシーズ』は、1922年2月2日のジョイスの40歳の誕生日に無事刊行された。限定1000部の『ユリシーズ』は、装丁によって値段に幅が設けられており、350フランの本が100部、250フランが150部、150フランが750部刷られた。ただし、最低価格の150フランでも、当時のパリのアトリエの家賃半月分に匹敵する値段である[32]。予約者名簿のなかにはイェイツ、ヘミングウェイ、ジッド、チャーチルの名があったが、バーナード・ショーは作品に書かれている現実と法外な値段の高さを理由に断りの手紙をよこしている[33]。『ユリシーズ』出版は、T・S・エリオットやヘミングウェイには絶賛を持って迎えられたものの、ヴァージニア・ウルフのように反発する文学者もおり賛否両論が起こった[34]。週刊誌は、この出版をスキャンダラスに取り上げ、ダブリンではこの作品に自分たちが書かれているかどうか囁かれた[35]。
シルヴィア・ビーチは、その後も1920年代を通して『ユリシーズ』の刊行を続けた。1922年10月には、先述のショー・ウィーバーのエゴイスト・プレス社によってイギリスでも出版が行われた(ただし、印刷はフランスで行われた[31])。1932年には、ドイツのオデッセイ・プレス社が『ユリシーズ』のヨーロッパでの出版を引き受けることになった。1933年12月には、アメリカで『ユリシーズ』を「現代の古典」として認め、発禁処分を解除する判決が出され[36]、その1ヶ月後にはランダム・ハウス社がアメリカでの『ユリシーズ』の最初の出版を行った。しかし、この過程で、それまで自身の収益を度外視して出版に献身してきたビーチとジョイスとの信頼関係に亀裂が走ることにもなった[37][38]。1984年、ハンス・ヴァルター・ガーブラーとドイツの編集チームが『ユリシーズ』の最初の大規模な改訂を行い、ガーランド出版よりニューヨークとロンドンで対照校訂版を出した。1992年には、著作権保護期間が切れ、いくつかの出版社が『ユリシーズ』を出版したが、これらは概ねガーブラー以前の版を典拠とした。以降は、ガーブラーに匹敵する大規模な改訂は行われていない[38]。
『ユリシーズ』の影響を受けた最初の文学作品は小説ではなく、『ユリシーズ』を出版前から熱心に読んでいたT・S・エリオットの詩『荒地』(1923年)であった[39]。前述のように『ユリシーズ』に対して辛辣だったヴァージニア・ウルフの『ダロウェイ夫人』(1925年)にも、「意識の流れ」やテーマなどの点で『ユリシーズ』と多くの共通点があり、ジョイスを強く意識していたことを伺わせる[40]。「意識の流れ」は、ウルフの他にもシャーウッド・アンダーソン(『黒い笑い』)、トマス・ウルフ(『天使よ故郷を見よ』)、ウィリアム・フォークナー(『響きと怒り』)などで模倣されており、神話的方法はジョン・アップダイク(『ケンタウロス』)など、百科全書的手法はトマス・ピンチョン(『重力の虹』)などにもつながる[41]。また、ジョイスの影響を受けているナボコフは、『ユリシーズ』のロシア語訳を企てて果たせなかった[42]。ドイツ語圏で『ユリシーズ』の影響を受けた作家には、意識の流れや引用などの『ユリシーズ』的な手法で都市小説『ベルリン・アレクサンダー広場』を書いたデーブリーン、18時間のあいだのヴェルギリウスの意識の変化を追った長編『ヴェルギリウスの死』を書いたヘルマン・ブロッホ(彼はジョイスの助力を受けて亡命した)などがいる[41]。その他、辺境の土俗性に注目し『百年の孤独』を書いたガルシア・マルケスなど、『ユリシーズ』から直接間接に影響を受けた作家は枚挙に暇がない[43]。日本では伊藤整、丸谷才一がそれぞれ作家としての活動初期に『ユリシーズ』を翻訳し影響を受けている[44][45]。
ディヴィ・バーンのパブ店頭での「ブルームズデイ」の催しの光景。(2007年)
そのダブリンの描き方を嫌悪し、ジョイスを半世紀近く拒絶してきたアイルランドも、その後は国際的作家としてジョイスを受け入れている。現在、ダブリンには、本書の出だしに登場するマーテロー塔(現在ジョイス記念館になっている)をはじめ、主人公ブルームがレモン石鹸を買った薬局(同じ石鹸が陳列されている)、昼食を摂ったディヴィ・バーンのパブ(同じ軽食とワインが提供されている)、ブルームの足取りを追うプレートなど、各地に作品にちなんだ名所ができ重要な観光産業となっている[46][47]。また、『ユリシーズ』の物語が展開する6月16日は、現在ブルームズデイとして祝われ、各地で催しが行われている。
戯曲形式で書かれている本作第十五挿話(キルケ)は、1958年にマージョリー・バーケンティンによって『夜の街のユリシーズ』として舞台化された。1967年にはジョーゼフ・ストリック監督による『ユリシーズ』が公開され、ミロ・オシーがブルームを演じた。これは、原作全体の映画化であるが省略された部分も多く、また総じて自然主義的な演出で、批評家はおおむね批判的であった[48]。2003年には、ショーン・ウォルシュ監督による、『ユリシーズ』を原作とする映画『ブルーム』が公開された。ブルーム役は、スティーヴン・レイで、モリーを演じたアンジェリン・ボールはアイルランド・アカデミー賞で映画女優賞を獲得している。
『ユリシーズ』に基づく楽曲には、ルチアーノ・ベリオ『テーマ(ジョイスへの賛辞)』(1958年)、ジョージ・アンタイルのオペラ『「ミスタ・ブルームとキュクロプス」より』(1925-26年、未完)、マティアス・シェイベルのテノール・合唱・オーケストラのための歌曲(1946-47年)などがある[49]。
伊藤整・永松定・辻野久憲共訳 『ユリシイズ』(全2巻、第一書房、1931-1933年) - 伊藤・永松(辻野は1937年に死去)により、戦後改訳され『ユリシーズ』(新潮社〈現代世界文学全集 第10・11巻〉、1955年)が刊行。のち新潮社『世界文学全集』(第21・22巻、1963年)にも収録された。伊藤は編著『20世紀英米文学案内.9 ジョイス』(研究社出版、1969年)と著書『ジョイス研究』(英宝社、1955年)を刊行している。
森田草平・龍口直太郎・安藤一郎・名原廣三郎・藤田栄・村山英太郎共訳 『ユリシーズ』(全5巻、岩波文庫、1932-1935年) - 岩波文庫版は伏字が多く、1952年に伏字を起こし、三笠書房(全3巻)で再刊されている。
丸谷才一・永川玲二・高松雄一共訳 『ユリシーズ』(河出書房新社〈世界文学全集Ⅱ-13・14〉1964年) - 丸谷は第十四挿話を古事記、万葉集から西鶴、漱石などの文体で翻訳した。後に同じ訳者による改訳が刊行された(全3巻、集英社、1996-97年。全4巻、集英社ヘリテージ文庫、2003-04年)。丸谷才一の解説により、編訳書『ジェイムズ・ジョイス 現代作家論』(早川書房、1974年、新版1992年)が出されている。
柳瀬尚紀訳 『ユリシーズ』(河出書房新社、1996-97年、3冊) - 既訳を痛烈に批判する柳瀬による翻訳。1-3章、4-6章、12章の3冊が単行本で刊行されている。他に、11章(『新潮』2011年9月号)、7-8章(『文藝』2015年秋季号)、9-10章(『文藝』2015年冬季号』)、17章(『文藝』2016年夏季号)を公表している。柳瀬には抜粋訳を含む編著『ユリシーズのダブリン』と、評伝の訳書『肖像のジェイムズ・ジョイス』(いずれも河出書房新社)、著書に『ジェイムズ・ジョイスの謎を解く』(岩波新書)がある。『謎を解く』では第十二挿話が犬の視点で書かれていると主張し、訳もこの解釈に従ったものになっている。しかし、柳瀬が2016年7月に死去したことに伴い、残る13-16、18の各章の訳は、未発表のままに終わった。『文藝』の担当編集者によると、柳瀬と死去前日に電話で打ち合わせをおこなったときには、「8月20日には第15章の原稿を渡せるよ」と話し、2017年暮れには全訳が「本になるはずだった」という[50]。
Wikipedia
ジェイムズ・オーガスティン・アロイジアス・ジョイス(James Augustine Aloysius Joyce、1882年2月2日 – 1941年1月13日)は、20世紀の最も重要な作家の1人と評価されるアイルランド出身の小説家、詩人。画期的な小説『ユリシーズ』(1922年)が最もよく知られており、他の主要作品には短編集『ダブリン市民』(1914年)、『若き芸術家の肖像』(1916年)、『フィネガンズ・ウェイク』(1939年)などがある。
ジョイスは青年期以降の生涯の大半を国外で費やしているが、ジョイスのすべての小説の舞台やその主題の多くがアイルランドでの経験を基礎においている。彼の作品世界はダブリンに根差しており、家庭生活や学生時代のできごとや友人(および敵)が反映されている。そのため、英語圏のあらゆる偉大なモダニストのうちでも、ジョイスは最もコスモポリタン的であると同時に最もローカルな作家という特異な位置を占めることとなった。
ジェイムズ・ジョイスは1882年にダブリンの南のラスガーという富裕な地域で没落してゆく中流のカトリック家庭に、10人兄弟の長男として生まれた(他にも2人兄弟がいたが腸チフスで亡くなっている)。母メアリ・ジェーン・ジョイス(旧姓マリー)は敬虔なカトリック信者で、父ジョン・スタニスロース・ジョイスはコーク州出身で、小規模な塩とライム(塩焼き消石灰)の製造業を営む、声楽と冗談を好む陽気な男であった。ジョイス家の先祖となった人物はコネマラの石工だったが、父ジョンと父方の祖父はいずれも裕福な家と婚姻関係を結んだ。1887年にジョンはダブリン市役所の徴税人に任命され、家族はブレイ郊外の新興住宅地へ引っ越した(その後ジョイス家は経済的に困窮して幾度にもわたる引越しを余儀なくされたため生家は現存せず、ジェイムズ・ジョイス・センター、ジェイムズ・ジョイス記念館はそれぞれ別の場所に建てられている)。このころジョイスは犬に噛まれて生涯にわたる犬嫌いとなった。他にジョイスの苦手なものとしては、敬虔な叔母に「あれは神様がお怒りになっている印だよ」と説明されて以来恐れるようになった雷雨などが知られている。
6歳(1888年)
1891年、アイルランドの政治指導者で父ジョンも熱烈に支持していた「王冠なき国王」C・S・パーネルの死に際して、当時9歳のジョイスは「ヒーリーよ、お前もか」("Et Tu, Healy?")と題した詩を書いた(ティモシー・ヒーリーはパーネルを裏切り政治生命を絶った人物)。ジョンはこれを印刷し、バチカン図書館にコピーを送りさえした。同年11月、ジョンは破産宣告を受けて休職、1893年には年金給付の上で解雇された。この一件からジョンは酒浸りになり、経済感覚の摩耗もあいまって一家は貧困への道をたどりはじめることとなる。
ジョイスは1888年からキルデア州の全寮制学校クロンゴウズ・ウッド・カレッジで教育を受けたが、父の破産により学費を払えなくなったため1892年には退校せざるをえなかった。自宅やダブリンのノース・リッチモンド・ストリートにあるカトリック教区学校クリスチャン・ブラザーズ・スクールでしばらく学んだのち、1893年にダブリンでイエズス会の経営する学校ベルベディア・カレッジに招聘されて籍を置く。ジョイスが聖職者となることを期待しての招待であったが、ジョイスはそれ以上、カトリックの信仰を深めることはなかった(ただし、ジョイスの小説やエッセイにおいては"Epiphany"や"Jesuit"などのカトリックの用語が頻出し、カトリック神学者トマス・アクィナスの哲学もジョイスの生涯を通じて強い影響をもちつづけた)。
1898年、ジョイスは設立されてまもないユニバーシティ・カレッジ・ダブリンに入学し、現代語、特に英語、フランス語、イタリア語を学び、有能さを発揮した。また、ダブリンの演劇や文学のサークルにも活発に参加し、『Fortnightly Review』誌にイプセンの戯曲『わたしたち死んだものが目覚めたら』("Når vi døde
vågner" 、1899年)の書評「イプセンの新しい演劇」("Ibsen's New
Drama")を発表したりなどした。この書評はジョイスの最初に活字となった作品であり、ノルウェーでこれを読んだイプセン本人から感謝の手紙が届けられている。この時期のジョイスは他にもいくつかの記事と少なくとも2本の戯曲を書いているが、戯曲は現存していない。また、こうした文学サークルでの活動をきっかけとして1902年にはアイルランド人作家W・B・イェイツとの交友が生れている。ユニバーシティ・カレッジ・ダブリンでの友人たちの多くはのちのジョイスの作品中に登場している。
1903年、学士の学位を得てユニバーシティ・カレッジ・ダブリンを卒業したのち、ジョイスはパリへ留学する。医学の勉強が表向きの理由であったが、貧しい家族がジョイスの浪費癖に手を焼いて追い払ったというのが真相である。しかし、癌に冒された母の危篤の報を聞いてダブリンに引き返すまでの数ヶ月間も、あまり実りの無い自堕落な生活に費やしていたという。母の臨終の際、ジョイスは母の枕元で祈りを捧げることを拒否した(母と不仲であったためではなく、ジョイス自身が不可知論者であったことによる)。母の死後、ジョイスは酒浸りになり家計はいっそう惨憺たるものとなったが、書評を書いたり教師や歌手などをして糊口をしのいだ。
1904年1月7日、ジョイスは美学をテーマとしたエッセイ風の物語『芸術家の肖像』("A Portrait of the
Artist")を発表しようと考え、自由主義的な雑誌『Dana』へ持ち込んだが、あっさりと拒絶された。同年の誕生日、ジョイスはこの物語に修正を加えて『スティーブン・ヒーロー』("Stephen Hero")という題の小説に改作しようと決意した。このころ、彼はゴールウェイ州コネマラからダブリンへやってきてメイドとして働いていたノラ・バーナクルという若い女性と出会った。のちの作品『ユリシーズ』はダブリンのある1日のできごとを1冊に封じ込めたものであるが、この「ある1日」こそ、二人が初めてデートした「1904年6月16日」にほかならない(ブルームズデイ参照)。
ジョイスはその後もしばらくダブリンにとどまり、ひたすら飲み続けた。こうした放蕩生活をしていたある日、ジョイスはフェニックス・パークで一人の男と口論の末喧嘩になり逮捕された。父ジョンの知人アルフレッド・H・ハンターなる人物が身元引き受け人となってジョイスを連れ出し、怪我の面倒をみるため自分の家へ招いた。ハンターはユダヤ人で、妻が浮気をしているという噂のある人物であり、『ユリシーズ』の主人公レオポルト・ブルームのモデルの一人となっている。またジョイスは、やはり『ユリシーズ』の登場人物バック・マリガンのモデルとなるオリバー・セント=ジョン=ゴガティ(のちに本業の医者としてだけでなくW・B・イェイツから称賛されるほどの文筆家としても知られるようになる)という医学生とも親しくなり、ゴガティ家がダブリン郊外のサンディコーヴに所有していたマーテロー・タワーに6日間滞在している。その後二人は口論になり、ゴガティが彼に向けて銃を発砲したためジョイスは夜中に逃げ出し、親戚の家に泊めてもらうためダブリンまで歩いて帰った。翌日、置き忘れてきたトランクは友人に取りに(盗りに?)行かせている。この塔は『ユリシーズ』劈頭の舞台となっているため現在ではジョイス記念館となっている。
その後まもなく、ジョイスはノラを連れて大陸に駆け落ちした。
ジョイスはノラと自発的亡命に入り、まずチューリッヒへ移住してイギリスのエージェントを通してベルリッツ語学学校で英語教師の職を得た。このエージェントは詐欺に遭っていたことが判明したが、校長はジョイスをトリエステ(第一次世界大戦後にイタリア領となるが、当時はオーストリア・ハンガリー帝国領だった)へ派遣した。トリエステへ行っても職を得られないことが明らかとなったが、ベルリッツのトリエステ校校長の取り計らいにより、1904年10月からオーストリア・ハンガリー帝国領プーラ(のちのクロアチア領)で教職に就くこととなった。
1905年3月、オーストリアでスパイ組織が摘発されてすべての外国人が追放されることになったためプーラを離れざるをえず、再び校長の助けによりトリエステへ戻って英語教師の仕事を始め、その後の10年の大半を同地で過ごすこととなる。同年7月にはノラが最初の子供ジョルジオを産んでいる。ジョイスはやがて弟のスタニスロースを呼び寄せ、同じくトリエステ校の教師としての地位を確保してやった。ダブリンでの単調な仕事よりも面白かろうというのが表向きの理由であったが、家計を支えるためにはもう一人稼ぎ手が欲しいからというのが本音であった。兄弟の間では主にジョイスの浪費癖と飲酒癖をめぐって衝突が絶えなかった。この年の12月、ロンドンの出版社に『ダブリン市民』の中の12編を送っているが出版は拒否された。
やがて放浪癖が昂じてトリエステでの生活に嫌気がさしたジョイスは、1906年7月にローマへ移住して銀行の通信係として勤めはじめる。『ユリシーズ』の構想を(短編として)練りはじめたり『ダブリン市民』の掉尾を飾る短編「死者たち」の執筆を開始したのもローマ滞在中のことである。しかしローマがまったく好きになることができずに1907年3月にはトリエステへ帰ることとなった。この年の7月には娘ルチアが誕生している。執筆に関しては、同年5月に詩集『室内楽』("Chamber Music")を出版したほか、「死者たち」("The Dead")を脱稿し、『芸術家の肖像』を改題した自伝的小説『スティーヴン・ヒーロー』を、『若き芸術家の肖像』("A Portrait of the Artist as a
Young Man")として再度改稿へ着手している。
1909年の7月にジョイスは息子ジョルジオを連れてダブリンへ帰省した。父に孫の顔を見せることと、『ダブリン市民』の出版準備とがその目的である。8月にはモーンセル社と出版契約を結び、ゴールウェイに住むノラの家族との初対面も成功裏に済ませることが出来た。トリエステへ帰る準備をしながら、ジョイスはノラの家事の手伝いとして自分の妹エヴァを連れて帰ることに決めた。トリエステへ戻って一月後、ダブリンで最初の映画館「ヴォルタ座」を設立するため再度故郷へ帰る。この事業が軌道に乗った1910年1月、もう一人の妹アイリーンを連れてトリエステに戻る(ただし映画館はジョイスの不在中にあっけなく倒産してしまう)。エヴァはホームシックにより数年でダブリンへ戻ってしまうが、アイリーンはその後の生涯を大陸で過ごし、チェコの銀行員と結婚した。
1912年6月、『ダブリン市民』について収録作の一部削除などの注文をつけてきたモーンセル社の発行人ジョージ・ロバーツと決着をつけるため再びダブリンへ舞い戻る。しかし意見の相違から両者は決裂し、3年越しの出版契約は白紙化されることとなってしまう。落胆したジョイスはロバーツにあてつけた風刺詩「火口からのガス」("Gas from a
Burner")を書いてダブリンを離れる。そしてこれがジョイスにとって最後のアイルランド行となった。父親の嘆願や親しいイェーツの招待を受けても、ロンドンより先に足を向けることは二度となかった。
この期間、ジョイスはダブリンへ戻って映画館主になろうと試みるほか、計画倒れに終わったもののアイルランド産ツイードをトリエステへ輸入するなどさまざまな金策を立てている。ジョイスに協力した専門家たちは彼が一文無しにならずにすむよう力を貸した。当時のジョイスはもっぱら教師職によって収入を得ており、昼間はベルリッツ校やトリエステ大学(この当時は高等商業学校)の講師として、夜は家庭教師として教鞭を振るった。こうして教師職をかけもちしていたころに生徒として知り合った知人は、ジョイスが1915年にオーストリア・ハンガリー帝国を離れてスイスへ行こうとして問題に直面したさいに大きな助力となった。
トリエステでの個人教師時代の生徒の一人には、イタロ・ズヴェーヴォのペンネームで知られる作家アーロン・エットーレ・シュミッツがいる。二人は1907年に出会い、友人としてだけでなく互いの批評家として長い交友関係をもつこととなった。ズヴェーヴォはジョイスに『若き芸術家の肖像』の執筆を勧め励ましただけでなく、『ユリシーズ』の主人公レオポルド・ブルームの主要なモデルとなっており、同作中のユダヤ人の信仰に関する記述の多くは、ユダヤ人であるズヴェーヴォがジョイスから質問を受けて教示したものである。ジョイスが眼疾に悩みはじめることとなったのもトリエステでのことである。この病は晩年のジョイスに十数度にわたる手術を強いるほど深刻なものであった。
1915年
第一次世界大戦が勃発してオーストリア・ハンガリー帝国での生活に難儀したジョイスは、1915年にチューリッヒへ移住した。この地で知り合ったフランク・バッジェン(Frank Budgen)とは終生の友人となり、『ユリシーズ』や『フィネガンズ・ウェイク』の執筆に際しては絶えずバッジェンの意見を求めるほどの信頼を置くようになった。またこの地ではエズラ・パウンドによりイギリスのフェミニストである出版社主ハリエット・ショー・ウィーヴァーに引き合わされた。彼女はジョイスのパトロンとなり、個人教授などする必要なく執筆に専念できるようその後25年にわたり数千ポンドの資金援助をした。ジョイスとエズラ・パウンドが対面するのは1920年のことになるが、パウンドはイェーツとともに尽力してまだ見ぬジョイスにイギリス王室の文学基金や助成金をもたらしたり、ジョイスのために『ユリシーズ』の掲載誌を紹介するなどさまざまな協力をした。終戦後にジョイスは一度トリエステへ戻るが、街はすっかり様変わりしていたうえに弟(戦争中は思想犯としてオーストリアの収容所に拘留されていた)との関係も悪化してしまう。1920年、パウンドの招待を受けてジョイスは一週間ほどの予定でパリへ旅立つが、結局その後20年間をその街で過ごすこととなる。
自身の眼の手術と統合失調症を患った娘ルチアの治療のためジョイスはたびたびスイスを訪れた。パリ時代にはT・S・エリオットやヴァレリー・ラルボー(Valery Larbaud)、サミュエル・ベケットといった文学者との交流が生れた。パリでの長年にわたる『フィネガンズ・ウェイク』執筆中はユージーン・ジョラスとマライア・ジョラス夫妻がジョイスの手助けをした。夫妻の強い支持とハリエット・ショー・ウィーヴァーの財政支援がなかったならば、ジョイスの著書は出版はおろか脱稿さえしなかった可能性が高い。ジョラス夫妻は伝説的な文芸雑誌『トランジション』にジョイスの新作を『進行中の作品』("Work in Progress")の仮題で不定期連載した。この作品の完結後につけられた正式タイトルが『フィネガンズ・ウェイク』("Finnegans Wake")である。
1941年1月11日、十二指腸潰瘍穿孔の手術を受ける。術後の経過は良好であったが翌日には再発し、数度の輸血の甲斐もなく昏睡状態に陥った。1月13日午前2時、眼を覚ましたジョイスは再び意識を失う前に妻と子供を呼ぶよう看護婦に伝えた。その15分後、家族が病院へ駆けつけている途中にジェイムズ・ジョイスは息絶えた。
埋葬されたチューリッヒのフリュンテン墓地は動物園の隣にあり、ジョイスの好きだったライオンの鳴き声が聞こえるのがルチアの気に入ったという。ジョイスの10年後に亡くなった妻ノーラ(1904年に駆け落ちして1931年に正式に結婚した)、1976年に没した息子ジョルジオも彼の隣に埋葬された。
『ダブリン市民』
ジョイスの著作においてはアイルランドでの経験がその根本的な構成要素となっており、すべての著作の舞台や主題の多くがそこからもたらされている。ジョイスの初期の成果を集成した短篇集『ダブリン市民』は、ダブリン社会の停滞と麻痺の鋭い分析である。同書中の作品には「エピファニー」が導入されている。エピファニーとはジョイスによって特有の意味を与えられた語で、ものごとを観察するうちにその事物の「魂」が突如として意識されその本質を露呈する瞬間のことであり、ジョイス以降こうした事物の本質の顕現をテーマとする作品のことを「エピファニー文学」と呼ぶようになった。短篇集の最後に置かれた最も有名な作品「死者たち」は1987年に『ザ・デッド/「ダブリン市民」より』として映画化され、ジョン・ヒューストンの最後の監督作品となった。
『若き芸術家の肖像』
若き芸術家の肖像
『若き芸術家の肖像』は中絶された小説『スティーヴン・ヒーロー』をほぼ全面的に改稿したものであり、オリジナルの草稿はノラとの議論で発作的な怒りに駆られたジョイス自身によって破棄された。「Künstlerroman」(ビルドゥングス・ロマンの一種)、すなわち才能ある若い芸術家が成熟し自意識に目覚めるまでの自己啓発の過程を伝記的物語の形で追った小説である。主人公スティーヴン・ディーダラスは少なからずジョイス自身をモデルとしている。内的独白の使用や登場人物の外的環境よりも精神的現実への言及の優先といった、後の作品に多く見られる手法の萌芽もこの作品において散見される。
戯曲『追放者たち』と詩篇
最初期には演劇に深い関心を寄せていたにもかかわらず、ジョイスが発表した戯曲は『追放者たち』一篇のみである。この作品は「死者たち」を原型として1914年の第一次世界大戦勃発の直後から書きはじめられ、1918年に上梓された。夫婦関係に関する研究という点から、この作品は「死者たち」と『ユリシーズ』(「死者たち」脱稿直後から執筆を開始した)の橋渡しの役割を果たしたといえる。
ジョイスはまた数冊の詩集も出版している。習作を除くとジョイスが最初に発表した詩作品は痛烈な諷刺詩「検邪聖省」("The Holy Office"、1904年)であり、この作品によってジョイスはケルト復興運動(Celtic Revival)の著名なメンバーたちの中で名を上げた。1907年に出版された最初のまとまった詩集『室内楽』("Chamber Music"、ジョイス曰く「尿瓶(chamber pot)に当たる小便の音のこと」)は36篇からなる。この本はエズラ・パウンドの編集する「Imagist Anthology」に加えられ、パウンドはジョイス作品の最も強力な擁護者となった。ジョイスが生前に発表した他の詩には「火口からのガス」("Gas From A
Burner"、1912年)、詩集『ポームズ・ペニーチ』("Pomes Penyeach"、1927年)、"Ecce Puer"(1932年、孫の誕生と父の死を記したもの)などがあり、これらは1936年に『詩集』("Collected Poems")として一冊にまとめられた。
『ユリシーズ』
1906年に『ダブリン市民』を完成させたジョイスは、レオポルド・ブルームという名のユダヤ人広告取りを主人公とする「ユリシーズ」というタイトルの短篇をそれに追加することを考えた。この計画は続行されなかったが、1914年にはタイトルと基本構想を同じくする長編小説に取り組みはじめる。1921年10月に執筆を終えたのち校正刷りに3ヶ月かけて取り組み、自ら定めた締め切りである40歳の誕生日(1922年2月2日)の直前に完成させた。
エズラ・パウンドの尽力により、1918年から「The Little Review」誌での連載が開始。この雑誌は同時代の実験的な芸術や文学に関心を寄せるニューヨークの弁護士ジョン・クインの支援のもとにマーガレット・アンダーソンとジョン・ヒープによって編集されたものである。『ユリシーズ』はアメリカ合衆国で検閲に引っかかり、1921年に猥褻文書頒布の咎でアンダーソンとヒープに有罪判決が下ったのを受けて連載は中断の憂き目に会う。アメリカで発禁処分が解かれるのは1933年のことである。
この一件も手伝い、ジョイスは『ユリシーズ』の単行本化を引き受けてくれる出版社を見つけるのは困難であることに気づいたが、1922年にはパリ左岸でシルヴィア・ビーチの経営するシェイクスピア・アンド・カンパニー書店から上梓することができた。時期をほぼ同じくして T・S・エリオットの詩『荒地』("Waste Land")が刊行されていることから、この1922年という年は英文学におけるモダニズムの歴史上とりわけ重要なメルクマールであるといえる。ジョイスのパトロンの一人ハリエット・ショー・ウィーヴァーによって出版された英語版はさらなる困難に直面した。アメリカ合衆国へ出荷された500部が米国政府当局によって押収ののち破棄されたのである。翌年、ジョン・ロドカー(John Rodker)は押収されたものの代わりに新しく500部増刷したが、これらもフォークストン(Folkestone)でイギリスの税関によって焼却処分された。この本が発禁書という不明瞭な法的立場に置かれたため、やがていくつもの「海賊版」が登場することとなった。これらの海賊版の中でも特に有名なものはアメリカの悪徳出版業者サミュエル・ロス(Samuel Roth)によって刊行されたものである。1928年に裁判所から出た禁止命令によって出版を取り止めたロスは刑務所へ送られることとなったが、罪状がやはり猥褻罪であり著作権侵害ではなかったところにもこの本の置かれた立場の微妙さが見て取れる(なおロスはこのさい『進行中の作品』の仮題で連載が開始されていた『フィネガンズ・ウェイク』も同時に盗用している)。
1922年の初版のカバー
『ユリシーズ』において、ジョイスは登場人物を表現するために意識の流れ、パロディ、ジョーク、その他ありとあらゆる文学的手法を駆使した。1904年6月16日という一日のあいだに起きる出来事を扱ったこの小説の中に、ジョイスはホメロスの『オデュッセイア』の登場人物や事件を現代のダブリンへ持ち込んだ。オデュッセウス(ユリシーズはその英語形)、ペネロペ、テレマコスはそれぞれ登場人物レオポルド・ブルーム、その妻モリー・ブルーム、スティーヴン・ディーダラスによって代置され、神話中の高貴なモデルとパロディ的に対比される。この本はダブリンの生活およびそこに満ちた汚穢と退屈さを余すところなく踏査している。ジョイス自身も「たとえダブリンが大災害で壊滅しても、この本をモデルにすればレンガの一個一個に至るまで再現できるだろう」と豪語するほどの自信をもっていた。ダブリンに愛想を尽かして故郷を捨てたジョイスだが、この街への郷愁なしにここまで完璧な細密画を描くことは不可能であり、ダブリンに対して愛憎半ばするジョイスのアンビヴァレンスが窺われる。ダブリンの描写をこのレベルまで仕上げるためには、ダブリンのすべての居住用・商業用建築の所有者や入居者を網羅した『Thom's Directory』(1904年版)という本が活用された。また、それ以外にも情報や説明を求めたジョイスはまだダブリンに住んでいる友人たちを質問攻めにしてもいる。
この本は全18章からなる。それぞれの章がおよそ1時間の出来事を扱っており、午前8時ごろから始まって翌朝の午前2時過ぎに終わる。また1章ごとに異なる全部で18通りの文体が用いられているだけでなく、『オデュッセイア』で語られる18のエピソード、これと関連する18種類の色、学問や技術、身体器官が適用・言及される。これらの組み合わせによって形成される作品全体の万華鏡的な梗概(「ゴーマン・ギルバート計画表」)は、この本が20世紀のモダニズム文学の発展に対して寄与した最も大きな貢献の一つに数えられる。他の注目すべき点としては、準拠枠としての古典的な神話の使用や、重要な事件の多くが登場人物の胸中において起きるというこの本の細部に対する強迫観念にも近い執着などが挙げられる。しかしながらジョイスは「私は『ユリシーズ』を過剰に体系化してしまったかもしれない」と述べ、ホメロスから借用した章題を削除したりもしており、『オデュッセイア』との照応関係はさほど重視していなかった節もある。
『フィネガンズ・ウェイク』
眼帯をしたジョイス(1922年)
『ユリシーズ』の執筆を終えたジョイスは、自分のライフワークはこれで完了したと考えたが、まもなくさらに野心的な作品の制作計画を立てた。1923年3月10日から、ジョイスはやがて『進行中の作品』("Work in
Progress")の仮題をつけられ、のちに『フィネガンズ・ウェイク』("Finnegans Wake")の正式タイトルを与えられることになる作品にとりかかり、1926年には最初の2部を完成させた。この年ジョイスはユージーン・ジョラスとマライア・ジョラスに会い、彼ら夫婦の編集する文芸雑誌『トランジション』(Transition)で『進行中の作品』を連載してはどうかとの申し出を受けている。
その後数年ジョイスはこの新作を迅速に書き進めていったが、1930年代に入ると進捗状況は芳しくなくなる。停滞の要因としては、1931年の父の死、娘ルチアの精神状態に関する懸念、視力の低下を含むジョイス自身の健康上の問題などが挙げられる。こうした困難を抱えながらも執筆はサミュエル・ベケットを含む若い支持者の力を借りて進められた。このころジョイスは同郷の詩人ジェームズ・スティーヴンス(James Stephens)と親しくなるが、スティーヴンスが優れた文才をもっているばかりでなくジョイスと同じ病院で同じ日に生まれたこと(ジョイスの勘違いで実際には一週間違い)、その名前がジョイス自身と小説中におけるジョイスの分身スティーヴン・ディーダラスのファーストネームの組み合わせであることなどから、迷信深かったジョイスは自分とスティーヴンスには運命的なつながりがあるのだと信じるようになった。さらには『フィネガンズ・ウェイク』を完成させるべきはスティーヴンスであり、原稿を渡して残りの部分を仕上げてもらってから「JJ & S」の名で出版しようという奇妙な計画まで立てた(「JJ & S」は「ジェームズ・ジョイス&スティーヴンス」の頭文字であるが、有名なアイリッシュ・ウイスキーのブランド「ジェムソン」(John Jameson & Sons)の商標[1]にかけたシャレである)が、結局はジョイスが一人で完成させることができたのでこの計画は実行されなかった。
『トランジション』誌において発表された冒頭部分に対する読者の反応は賛否両論で、パウンドや弟スタニスロースのようにジョイスの初期の著作に対して好意的だった人たちから否定的なコメントが寄せられもした。こうした非好意的な反応を退けるべく、1929年には『進行中の作品』の支持者たちによる批評をまとめた論文集が刊行された。『進行中の作品の結実のための彼の制作をめぐる我らの点検』(Our Exagmination Round His Factification for Incamination of Work in
Progress)と題したこの論文集の著者にはベケットのほかウィリアム・カルロス・ウィリアムズ(William Carlos Williams)らが名を連ねた。ベケットは巻頭論文「ダンテ・・・ブルーノ・ヴィーコ・・ジョイス」を寄稿した(これがベケットの初めて活字になった文章である)のを機にジョイスと20世紀の文学史上最も有名な交友関係を結ぶこととなり、しばしばジョイスの秘書的な役割をも果たして『進行中の作品』の制作にも協力した。
ジョイス宅で開かれた彼の47歳の誕生日パーティー(1929年2月2日)の席上、ジョイスは最終的に決定した『進行中の作品』の正式タイトルが『フィネガンズ・ウェイク』であることを明かし、1939年5月4日に単行本として出版された。
意識の流れや暗喩、自由連想などといったジョイスの文学的手法を極限まで押し進めた『フィネガンズ・ウェイク』は、プロット構成や登場人物の造形に関する従来の慣例をことごとく打ち破っているばかりでなく、複雑で多面的な地口をもとにした特異かつきわめて難解な言語によって書かれている。ルイス・キャロルの『ジャバウォックの詩』とも似たアプローチであるが、その複雑さや規模の大きさはこれをはるかに凌駕する。『ユリシーズ』が“都市生活の中の一日”であるとするなら、『フィネガンズ・ウェイク』は“夢の論理の中の一夜”ということができる。『フィネガンズ・ウェイク』において『ユリシーズ』が「“usylessly
unreadable Blue Book of Eccles”(どうあがいても読むことのできそうにないエクルズの青い本)」として言及されている部分は有名だが、多くの読者や批評家からこれはむしろ『フィネガンズ・ウェイク』にこそふさわしい言い回しだとされてきた。しかしその後の研究によって読者は主な登場人物の配役やプロットについての合意を得ることができるようになった。
本書における言語遊戯的な語の使用は広範な言語を結集し多言語間にわたる語呂合わせによって生み出されたものである。ベケットをはじめとする助手たちは、これらの言語が書かれたカードを照合して新しい組み合わせにして使えるようにしたり(?)、すでに視力がかなり衰えていたジョイスのため口述筆記をするなどの協力をした。
また本書で提示される歴史観はジャンバッティスタ・ヴィーコの強い影響下にあり、登場人物が相互に及ぼしあう影響関係にはジョルダーノ・ブルーノの形而上学が重要な役割を果たしている。ヴィーコは、歴史が混沌とした未開状態からはじまって神政、貴族政、民主政を経て再び混沌へ帰り、螺旋を描きながら循環するという歴史観を提唱した。ヴィーコの循環的歴史観の最も明らかな影響例は、本書の冒頭と末尾に見て取ることができる。原文における最後の一節は本書冒頭の一節とつながっており、合わせて一文をなすことによって本全体に一つの大きな円環構造を形作らせているのである。
実際にジョイスは、不眠症を患いながら読了したあとで最初のページへ戻って再び読みはじめ、そして永遠に循環して読み続けるのが『フィネガンズ・ウェイク』の理想的な読者だと語っている。
ジェームズ・ジョイス・タワー
ジョイス記念館マーテロー・タワーはジョイス・タワーとも呼ばれダブリンの南の郊外、サンディコーヴに建つ。これはその昔、ナポレオンの侵略に備えて湾岸警備のために英国が各地に建造した要塞(マーテロー塔)の一つであり、これをその後地元の富豪が購入し、改装した。若き日のジョイスは友人(塔の持ち主オリバー・セント=ジョン=ゴガティ)を訪ねてこの塔に滞在したことがあり、その時の経験は『ユリシーズ』の第一章でスティーヴン・ディーダラスがバック・マリガンと口論するシーンの元ネタとなる。
『ユリシーズ』の主人公レオポルド・ブルームがダブリンを彷徨した1904年6月16日にちなみ、毎年6月16日、ダブリンにジョイスの読者が集まり様々な催し物を行う、いわば『ユリシーズ』記念日。集まった人々は登場人物に扮するなどして当時の服装に身を包み、劇中に登場する場所への訪問、『ユリシーズ』の朗読や劇の上映、またパブめぐりなどを行う。もともとアイルランドのダブリンが本家だが、近年アメリカ合衆国、日本、ブラジルなどでもブルームズデイを祝う試みがなされた。
ダブリン市内にあるジェイムズ・ジョイスの銅像
※膨大な数につき、訳書も含め近年刊行のみ記す
『ジェイムズ・ジョイス伝』 みすず書房(全2巻) 1996年
リチャード・エルマン、宮田恭子訳
著者は、研究続篇を小沢書店、みすず書房で刊行。リンク先参照
著者は、丸谷訳を批判し、詳細に作品の意味を解説。
エドナ・オブライエン 『ジェイムズ・ジョイス』 入門書
ボブ・ケイトー、グレッグ・ヴィティエッロ編、写真多数の評伝
柳瀬尚紀 『ジェイムズ・ジョイスの謎を解く』岩波新書
ジェイムズ・ジョイス研究会訳 『ジェイムズ・ジョイス事典』
小川美彦 『ジェイムズ・ジョイスの世界』英宝社 1992年
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