幕末の女医、松岡小鶴  門玲子  2016.11.25.

2016.11.25. 幕末の女医、松岡小鶴 柳田国男の祖母の生涯とその作品(180673)
          西尾市岩瀬文庫蔵『小鶴女史詩稿』全訳

著者 松岡小鶴(こつる) 文化3(1806)~明治6(1873)。播磨国神東(じんとう)郡田原村辻川(現神崎郡福崎町)の医者・松岡義輔と妻なみ(桂氏)の長女として生まれる。天保2(1831)26歳の時、隣村の川辺村網干の中川至を婿に迎え、翌年男子・文(のち操)が誕生。天保8年母なみ没。翌9年に至と離縁、以後1人で文を育てる。天保11(1840)、父義輔没。その後父の医業を継いで、当時珍しい女医となる。文を学問修行のため手放してからは、近隣の子女を集めて、詩文や学問を教えた。弘化2(1845)には姫路藩より表彰を受けた。文は儒者として、姫路の熊川舎の舎監を務め、維新後は各地の学校で漢学を教えた。柳田国男を始めとする操の5人の子供たちは、医者、学者、歌人、画家として活躍。小鶴の著書には、『小鶴女史詩集』『松岡小鶴女史遺稿』などがある

編著者 門玲子 1931年石川県加賀市生まれ。53年金沢大文卒。作家、女性史研究家。総合女性史研究会「知る史の会」。『江戸女流文学の発見――光ある身こそくるしき思ひなれ』(毎日出版文化賞)

発行日           2016.8.30. 初版第1刷発行
発行所           藤原書店

²  私が『小鶴女史詩稿』を初めて見たのは、愛知県西尾市の岩瀬文庫で毎年開催される「こんな本があった!」報告展の05年の展示の時。『小鶴女史詩稿』は、『柳田国男の祖母の詩文集』として紹介されていた
江戸時代の女性の文章を主として読み込んできた私は、すぐそれに目を留めた。柳田国男の祖母とあるのにも惹かれたが、女性の文章で全編漢文というのに強い印象を受けた。なぜなら女性の文章は伝統的に和文が多いから
江戸初期以降の女流作家たちのたいていは、同時代の男性知識人たちから理解され、公正な評価を得ている。小鶴もまた、周囲から高く評価され、見知らぬ武士からも理解と共感を得た。17,8世紀の欧米の女性作家たちは必ずしもそうではなかったようだ
²  松岡小鶴について初めて学者から聞いたのは、コロンビア大の名誉教授で、柳田国男にとってとても大切な存在だと聞かされた
²  『小鶴女史詩稿』の後半の「南望篇」は、1人息子文()への強烈な母性愛と、家門を興そうとする使命感から、息子への叱咤激励の言葉に満ちている。前半の「詩稿・文稿」は少し趣を異にする。詩稿の19首の作には、題詠もあるが、折にふれての感懐、歴史上の悲運の人物への強い共感を詠んだもの、また微小な生き物に託して老荘的人生観をユーモラスに詠んだ作など、他の女流詩人にあまり見られない主題が扱われている。文稿の8通の書簡では、最も親しかった若き大庄屋三木通深、その他の人々にあてて、自身の人生観や、人の生き方への批評、儒教仏教や人の生死に関する形而上的な思考の過程を披歴している
²  これらの死文を読むと、小鶴の膨大な読書量が推察されるが、どの書簡でも、自分が正式に学んでいないため、言葉が拙く、文章が体を成さず、自分の考えを十分に表現し得ないことへの強い嘆きが語られている。小鶴の生涯にわたるうつうつとした日々の中心にその嘆きがある
²  江戸女流文学の作者たちは、十分な学力を身につけ、詩作し文を作り、様々な問題を考え批判してきたが、決して自分の置かれた現状を破ろうとまではしなかった。小鶴ももちろん革新的ではないが、なぜか現状に甘んじていられない、説明しがたい鬱勃とした気持ちを持て余している様子が見受けられる。そして何者かが自分をより明晰な、理の通る世界へ連れ出してくれるのを待ち望んでいるように見える。そこを考えると、小鶴は単に江戸女流文学の最高永に位置するだけの人ではなく、やがて来る維新後の女性の文学者、思索者、女権拡張活動家たちの魁となる場に位置する人ではなかったかと思う
²  このような女性が、播州田原村をほとんど出ることなく、うつうつとして68年の生涯を送った。そのことに私は強く打たれ、小鶴の存在を知ってほしいと願わずにはいられない

小鶴女史について ~ 門玲子
父義輔(17701840)、母なみ(姫路出身、1837年没、旧姓桂)
父は京で医を学び、貧富の差なく治療し、自分から報酬を求めなかったため、暮らしは常に貧しかった
医業の傍ら、音韻の研究や算木を使って平方根や立方根を求める算法も行う。さらに絵図を書くことも好む
代々天台宗だったが、義輔の母が熱心な日蓮宗の信者で息子も改宗したため、天台宗から藩に訴えられ、何年か処払いに処せられ、しばらく今日で流寓生活を送る
1800年長男誕生するも6歳で没。没後長女小鶴誕生
故郷に戻った義輔は、医業の傍ら塾を開いて近辺の子供たちに学問を教えていたが、小鶴はそれを聞き入って、熱心に自学自習していた
並外れた高い知性と鋭敏な感性を持ち、男性に伍しても劣らぬ志と能力の萌芽を抱いていたが、鬱状態に悩まされ、様々な身体の不調に見舞われている
年頃になっても鬱々と楽しまぬ小鶴に、父は婿を迎えることにして、1831年隣村から婿を迎えて跡取りとした
婿中川至は小鶴の4歳下
32年長男文(のち操)誕生
37年母なみ没
38年、夫至が義輔の逆鱗に触れ離縁になるが、小鶴も思うところがあって、あえて反対しなかった ⇒ 生涯小鶴の心の傷となった
小鶴は、父の医業を継ぐ決心をする
医業の傍ら、熱心に1人息子を教育。姫路藩の儒者角田義方に見てもらい、13になると隣村の塾に入門させ、初めて離れて暮らしたため、小鶴は頻繁に手紙で様子を訊ねる
文は優秀さで頭角を現し、姫路藩の藩校好古堂に入学
「南望篇」は、天保15(1844)に文が藩校に入った時点で終わる。後日息子が母の思いを知るよすがにしようとして、自序を巻頭に置き、文に宛てた書簡と詩を1冊にまとめた
小鶴は、医業よりも近隣の子女たちに漢学を教えることに情熱を傾けるようになり、1845年には姫路藩より表彰
1850年、19歳の文が精神的不安定、素行の悪さから藩校を退学させられる ⇒ 藩校を抜け出して密かに父に会いに行った
退学後の文は、医を学び、故郷に戻って開業。母子生活が再開、母子愛が『小鶴女史詩稿』の中で、ただの記録ではなく文章表現にまで至っている点に、この小冊子の稀有な価値が感じられる
操は、医学のほかにも儒者として国学も猛勉強
18598歳年下のたけを隣村から嫁にもらう。文字は書けなかったが、気丈で聡明、抜群の記憶力の持ち主だった
1860年、長男鼎誕生
1863年、操は姫路の熊川(ゆうせん)舎という、町の有力者たちが出資する学校の舎監に招かれ、一家は姫路に移住したが、小鶴は村に残る
1873年小鶴逝去。自ら「孝貞烈女」と諡して没した
柳田国男が生まれるのはその2年後。鼎が松岡家の家督を継ぐが、一家は操の妻たけの故郷加西郡北条町に移住し、国男も1883年北条町の高等小学校に入学
鼎は、81年帝国大学医科大学別科に入学。医師の速成を目指す科で、自ら学資を稼ぐほかに、郷里の実家に仕送りまでしている
福崎町にある柳田国男・松岡家記念館には、30冊に及ぶ鼎の小振りのノートが展示されているが、猛勉強を偲ばせる
3男の泰蔵(のち通泰)も、医者の家に養子となり、通泰と名乗っていたが、86年には帝国大学医科大学に入学、鼎と二人で実家に仕送りをし、国男以下の弟たちの面倒を見た
1886年、別科を卒業した鼎は、茨城県(現利根川町)で開業し、国男を引き取るが、そこで国男が子間引きの絵馬を見て強い衝撃を受けた。故郷の田原村では、堕胎や子間引きの風習を、小鶴が人の道に外れた所業だと村人を諭して廃止させていたため、国男にとっては初めて聞く話でショックを受けたのだろう
91年、国男は通泰に引き取られ、開成中学入学、翌92年には郁文館に転向

三木家は、姫路藩の大庄屋で、通深(竹臺)はその7代当主(182457)。小鶴とは幼少からの知人で、だいぶ年下だが、小鶴が深い信頼を寄せた。7歳で松岡義輔方へ入学。昌平黌でも学ぶ。85年に小学校を卒業した国男が1年預けられ、三木家の膨大な蔵書を読み耽ったという

『小鶴女史詩稿』の読後感 ⇒ 息子文に対する強い母性愛と、文を何とか1人前の儒者にしたいという意欲にあふれているが、それは強い使命感によるもの。父祖の代からの医業を継ぎ、兼ねて儒者として家門を起こさねばならぬという使命で、それは自分がもっと学びたかったという満たされぬ気持に裏打ちされたもの
三木宛の書簡では、「貧賤にして書籍乏し、婦女にして師友無し、、又加うるに鬱病を以って心志了了たらず」と訴えている
客観的にみれば、辻川は人の往来も多く、豊かな土地で、小鶴は貧しかったが、周囲から絶えず援助してくれたり、親身な親戚もいたりで、決して恵まれない境遇ではなかった
にもかかわらずそれに満足できなかった小鶴がいて、自分流に必死に学び、独特の漢文を身につける
小鶴の死後10年もたたない頃、田原村からそう遠くないところで、自由民権の諸士に伍して女権運動について演説を行った女性が輩出した

小鶴女史詩稿
本稿の成立について――門玲子
31丁からなる小冊子、転写本
前半は詩稿と文稿とからなり、息子文の手で編纂され文による序が付されている
詩稿には、絶句・律詩・古詩併せて19首、文稿には諸家に宛てた書簡8通が含まれる
成立は1855
後半は「南望篇」と題する詩文集。小鶴自身による編纂。巻頭には長文の自序が付されている。1844年成立
自序には、44年に小鶴の手元を離れて学ぶことになった分を気遣い、励ますために詩文を送り、その中で彼女は1人暮らしの淋しさを訴え、文の勉学を励まし、あるいは怠惰を戒める。すべて漢詩文で書かれ、多くの古典を引用し学者文人の逸話を例にして説いている
女性の筆になるものは、親族の間に秘蔵されていていつしか失われることが多い時代に、小鶴の強い意志は、その所在から遥かに遠い三河で生き延び続けた
現在松岡家記念館にある『松岡小鶴女史稿稿』は『小鶴女史詩稿』の異本で、息子や孫の鼎の手によって、かなり文章が整えられている

識語 1855年 松岡文 
太平の時代が長く続き、人々が文化の恵みを享受することは、上は公卿から、下は士人庶民に至るまで、教育を受けないものはないほどで、教育を受ければ、すなわちその中から優れた者たちが続々と現われる。各分野で数えられないほどになった。ただ独り婦女のみ、文芸など難しいものは教えられず、時折文芸を好む者があっても、この者は女性の徳を身につけなかった。文芸の才と女性の徳を求めても、兼ね備えるものは寂しいほど名お聞くことは少なかったが、私の母は先生が門人に学問を授けているのをじっと聞き入って少しずつ学問が身に染み込み、そして遂に婦人の道の大よそを理解した。いわゆる才徳兼ね備えた婦人を、私は親しく自分の母に見ることができる。私は何時しか月日が経って、母の文章が埋もれてしまうことを恐れ、母の文詩の中から抜き書きし、ほぼ間違いを正し、1通を清書して、これを家に伝える

第1部        南望篇――松岡小鶴著・編 天保15年成立
自序
生まれつき弱い体質で、13の時病気に罹り、全治しないまま16,7になって益々重くなった。四肢ともにだるく、重く、みぞおちの辺りが痞(つか)え苦しい。鬱々として閉じこもり、いつも他人に会わない日々は7,8年続いた
父母は、兄が早世したため、私を廃人扱いせず、婿を取って後継ぎとした
父は婿と性格がたいそう合わず、私もまた夫とは志も習慣も大いに違っていて、密かに恨んでいたが、婦人は夫に対してはひたすら従い、生涯それを違えてはならないと思って耐えている間に8年が過ぎる
父はあるとき、とても憤激することがあって、私に一言の説明もなく離縁を決断。夫はわび状を書いたが、私は何か心に含むことがあって父の翻意にすがることはなかった
夫婦の守るべき道は、まさに偕老同穴して、死生を共にすることであり、私は大罪を犯したことに自責の念が深くなかったことは未だ一度もない
夫に別れてから後、父に対し、医業を守っていくこと、わが子文を教育し、先祖の医業と血筋を継がせることを申し出、許しを請う
家は貧しく、私自身も病気がちで、両親の看病や供養に方(あた)っては、反省するところが多い。性質も篤実ではなく、父の喪に3年間哭泣(こくりゅう)して悲しむことができず、それもまた1つの大罪
父亡き後、医業に精励したが、すでに2つも大罪を犯している
今年(1855)文は13歳となり、親元を遠く離れて学問の道に進む。私の想いを訴える所がなくなり、鬱悶が極まった。子を思う心の内を拙い詩に託し、母の真心を粗雑な手紙に述べたものが一篇を成すまでになったので、小冊子を作り、題を南望篇と名付けた
この篇を書き記すことによって、文が成長した後に、今日の事を思い出させようとすると同時に、母の子に対する深い心を知ってほしいと願う

   我が子文、初めて安田村に遊学した、そこでこの手紙を送った
別れてから様子がいつも念頭にあって離れない。他人様に心配かけてはいけない
ともすればすぐにぼうっとして、まるでお前が傍らに在るように感ずるのは、お前が私を思っている情のせいなのか、どうだろうか
そうはいっても、お前は1人の男子である、謹んで師の教えを守り学んでほしい
他の女性の襟を涙で濡らすような事を学んではなりません。懸命に勉強しなさい。孝子は愚かなことに気を取られず、危ういことに近寄らず、ただ病に罹らぬように自愛しなさい
   我が子文に返事する
ようやく返事が届き、まるで珠玉を手にしたようだ。初めて儒学生の母となれたような気がする
   児に寄せる
   袷衣(こうい)を縫い上げて、子に送る。それに一絶を添える
   児に寄せる
   児を警(いまし)める
   児に寄せる手紙
   児に寄せる
   わが子文はもう安田村の師の許を去り、更に仁寿山に学んでいる。久しく手紙が来ないので、がっかりして、この詩を寄せることにする
   児を警(いまし)める
   同題
   橘に寄せる
   同題
   児に与える手紙
   想いを書して児に寄せる
  
   児に寄せる手紙
   児に寄せる
   弘化4年の秋、わが児文はようやく16歳。師の教えを守って、殿様の御前で書を講じた。二首の詩を寄せてきたので、次韵(じいん)してまた贈った
   同題

第2部        詩稿・文稿――松岡小鶴著・松岡文編 安政2年成立
詩稿
    舟旅で、ほととぎすを聞く
    中秋、月を望む
    若者の歌
    玉川古歌に擬す
    草舎偶咏
    明妃の曲
    又 ある人の詩に次韵する
    中川君が訪ねてこられた。韵を分けて、先を得た
    宮女の悲しみを詠んだ回文詩
    蚤を憎む
    水竹楼について詩を作り、贈る
    父の死去に際して、惠文上人が線香と気高い調べの一詩を手向けてくださった。その詩に次韵し、以って謝意といたします
    五日
    九日旅情 児文の詩に次韵する
    画に題す
    水亭 蛍を観る
    誓詞 并に序
    夕暮れに、偶々裏庭の湿地で一匹の大きななめくじを見つけた。明朝にまた見かけた。依然として動いていない。そこでこれはもう死んでいるか、と思った。じっと見つめると、向こうも角をそばだてるのが見える。(なんだかなめくじの気持ちが分かるような気がして)にっこり笑って、この詩を作った
    感を書す ⇒ 道真公が、その栄華と凋落にもかかわらず一貫して類ない徳と澄み切った忠誠心は決して黒ずんだり磨り減ったりせず、死後には名誉を回復して天神として祀られている

文稿
  恵文上人に贈る手紙
  三木竹臺に贈る手紙 ⇒ わが子への教育の礼状
  角田先生に差し上げる手紙 ⇒ 姫路藩校の教授だった角田の引き立てにより、わが児文が姫路藩校に学んでいることの恩義を感謝しつつ、文が怠惰に耽るところがあれば知らせてほしいと依頼
  竹臺の手紙への返事
  竹臺に贈る手紙
  中川立達に贈る手紙 ⇒ 小鶴の父の友人の息子で、別れた夫至の従兄。従弟と義父との諍いの仲裁に入るために来訪した際の言動を通じてその人柄に感服した旨を伝える
  正墻適處(しょうがきてきしょ)に贈る手紙 ⇒ 宛先は鳥取藩の儒者。姫路の藩校で文と交流があり、文を通じて小鶴の詩文を見たいと言ってきたことに対し辞退した
  竹臺に贈る手紙 ⇒ 竹臺が儒者として仏教を排斥しながら、歯痛を地蔵尊に祷って治したことの矛盾を遠慮なく批判。2人の間で頻繁に生と死の問題を論じ合っていた

       富山藩 岡田信之(昌平黌に学び、後に藩主師範。藩政改革にあたり、維新後は師範学校の教師)
この巻こそ、女史がその令息に示す詩文が多数を占める。字句はのびのびとよく意味が通り、趣は深く広がりがある。読む人を感嘆させずにはおかない。ましてその令息はどんなに感動したことか。この巻こそ、誠に儒者たる者の厳しい戒めとなり、人の子を守る盾とも城ともなるもの



(書評)『幕末の女医、松岡小鶴 1806-73 柳田国男の祖母の生涯とその作品』 門玲子〈編著〉

2016.10.23. 朝日
 ■風変わりな漢文ににじむ人生
 松岡小鶴(こつる)は、柳田国男の祖母にあたる人物だ。その漢詩や書簡を現代語訳し、生涯とともに紹介する内容としては初の試みとなる本書。編著者の門玲子は、女性史研究家として長年、とくに江戸期の女性による文学を読み続けてきた。
 そんな中、愛知県西尾市の岩瀬文庫が所蔵する『小鶴女史詩稿』と出会う。関心を持った理由の一つは、女性が書いたものとしては珍しく全編漢文で書かれていることだという。
 小鶴は文化3(1806)年、播磨国神東郡田原村辻川の生まれ。同地で明治6(1873)年に没している。父の跡を継いで医業に従事しながら一人息子の文(のち操)を育てる。柳田国男は、小鶴の死後2年して生まれたので、祖母と直接会ってはいない。だが、祖母と親交のあった庄屋・三木通深(竹臺)の蔵書を、まだ子どものうちに自由に読む機会を与えられるなど、祖母の代の名残に触れて育った。本書は竹臺に宛てた書簡も含む。柳田国男が生を享(う)ける以前の環境を想像できる。
 女性に開かれた学びの場はまだ少なかった時代。小鶴は、父が自宅の塾で塾生たちに教える学問に聴き入り、家の蔵書を読んで自習した。結果、身についたものは、少し風変わりな漢文。息子が儒者となることに期待を掛けながらなおも消えなかったのは、自分も学びたかったという思い。その残念さの滲(にじ)み方が正直な点に、小鶴の書き物の魅力がある、ともいえる。
 学問のために家を離れて暮らす息子に宛てた詩や書簡が人柄を伝える。たとえば橘(たちばな)(みかんの類)の詩。「言ってはいけないよ。酸っぱくて口にすることができないなんて/この橘には、母の真心の香が添えてあるのだから(道〈い〉う莫〈なか〉れ酸を生じ口にす可からずと/添え来る阿母赤心の香)」。子にとっては、ありがたくも鬱陶(うっとう)しい来信だったかもしれない。小鶴の人生が行間から見えてくる。控えめに、けれども明確に。
 評・蜂飼耳(詩人・作家)
     *
 『幕末の女医、松岡小鶴 1806-73 柳田国男の祖母の生涯とその作品』 門玲子〈編著〉 藤原書店 3456円
     *
 かど・れいこ 31年生まれ。作家、女性史研究家。98年『江戸女流文学の発見』で毎日出版文化賞。


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