住友銀行秘史  國重惇史  2016.11.19.

2016.11.19. 住友銀行秘史

著者 國重惇史 1945年山口県生まれ。68年東大経卒。同年住友銀行入行。渋谷東口支店長、業務渉外部部付部長、本店営業第1部長、丸の内支店長を歴任。94年同期トップで取締役。日本橋支店長、本店支配人東京駐在を経て、97年住友キャピタル証券副社長。銀行員時代はMOF担を10年務めた。その後、99年にDLJディレクトSFG証券社長(ネット証券)になり、同社を楽天が買収したことから、05年楽天副社長、楽天証券会長、イーバンク(現楽天銀行)社長、同行会長を経て、14年に楽天副会長就任。同年辞任。現在はリミックスポイント会長兼社長

発行日           2016.10.5. 第1刷発行
発行所           講談社

何かが起きている、このバブルを謳歌している日常の裏で、恐ろしい出来事が起きている。
この手帳をつけ始めたのも、これは住友銀行史、いや、日本の金融史、経済史に残る大きな事件になると思ったからだった

企画部で最初に担当して仕事が平和相互との合併
1985年春、平和相互の株式の1/3がイトマンの手に入った
住友は手ごろな地方銀行と合併して首都圏に店舗網を広げたいと狙っていたが、直前に関西相互との合併話が、関西相互の内部からの強い反対で流れたところだった
当時イトマンの顧問弁護士だったのが現さくら共同の河合弘之弁護士(現在脱原発弁護団)

1990.3.20.1991.7. イトマンを巡る住友内部の動きをつぶさに記載したメモの書き起こし
MOF担として、住友が闇の勢力に食い物にされようとしているのを察知し、銀行を救うために動いた全行動の記録
磯田帝王を会長から引きずりおろし、イトマンの河村社長を辞任に追い込んだ
当時住銀の天皇と言われた磯田会長をトップとする磯田体制こそが住銀に生じた歪の原因

日経の特ダネ記者・大塚将司に、1988年秋ごろから、「イトマンがおかしくなる。住友にとって重大な影響を与える」と言って取材を持ちかけていたが、株も地価も右肩上がりの中で、取り上げることには難色を示すが、1年半後には執拗に住銀の内部に取材をかける
著者が頼りにしたのは、不良債権処理担当だった融資第3部長の吉田哲郎(62年京大)
906月ごろからは常務の西川善文(61年阪大)が頭に

磯田は、ヤクザが絡んでいることを知りながら、住友の裏の取引をイトマンの河村にやらせていた手前、「変なことをすると河村が殺される」として動けない

西武百貨店系列の高級宝飾店PISAの嘱託社員だった磯田の娘・黒川園子を通じて、伊藤寿永光や稲川会の石井進が大量に絵画を買っていた。イトマンにロートレックのコレクション売却を持ちかけたのも園子で、不可解な絵画取引の始まり

イトマンのレターヘッドを使って、著者がイトマン従業員一同の名で内部告発文書を、大蔵省土田銀行局長宛てに発出 ⇒ 13,000億の資産のうち6,000億が不稼働資産化
内部告発文書の第2弾では、商社などによる不動産の担保価値を大幅に上回る過剰融資への厳しい対応を要請

90.5. 日経にイトマン問題の第1報が載る ⇒ イトマン債務圧縮を急ぐ。住銀、融資規制受け協力
イトマンは、決算発表で真っ向から反論。提示した新規プロジェクトの内容は絵空事
磯田が所有していた経堂のマンションは、イトマンの子会社に賃貸されていた
90.6. コーリン(後の光進)問題浮上 ⇒ コーリンは住友の支援先だったが、著者同期の青葉台支店山下支店長による小谷光浩への浮き貸しに発展
90.6. 内部告発文書第3号 ⇒ イトマン従業員一同から大蔵省土田局長宛て。イトマンを巡る一連の動きが不動産融資総量規制の抜け穴になっていることを指摘
磯田の女に住友から貸金があることがスクープされそうになってもみ消す
内部告発文書第4号 ⇒ 発出・宛先とも同様。イトマンの放漫経営を助長しているのは、金融機関の貸し出し姿勢だと言って、大蔵省による指導の強化を要請
90.7.  内部告発文書第5号 ⇒ 発出・宛先とも同様。日経が伝えるイトマンの決算内容と会社側の楽観的な見通し説明に憤慨。大蔵省の融資規制に対する公然たる挑戦だとして、毅然たる態度を望む
磯田会長の梅子夫人が、「占いによると6,7月の異動は不可」とのことで、人事が延期
中野正健(34年慶應、91年退任後住銀ファイナンス社長)の息子は、慶應ラグビーで日本1になったときのキャプテン。業務渉外部時代の上司で、面談記録の「逐語起こし」は不評だったが、本人が上司に示す目的ゆえに必要だった
日銀による銀行検査でもイトマンを摘発してもらうべく、考査局に詳細を漏らして働きかける
イトマンの銀行団へは内部告発文書の第2号を、証券局へは第1号、週刊誌へは第2号、新聞社へは第1号を、それぞれ送り付ける
野一色総務部長(38年東大)のエピソード ⇒ 巽頭取の国会喚問(91.8.民主党仙谷由人が質問)で野一色はコーリン、著者はイトマンを担当したが、野一色は想定問答集に付箋をつけて「これで完璧」と自慢げだったが、本番ではどの付箋かわからずかえって混乱。著者人物評:ああいうなまくらな人は周囲の全員が物足りなく思っているのではないか
住銀全役員、役員OB宛てに内部告発文書を用意
伊豆下田の寺に磯田夫人が帰依、そこへ西貞三郎副頭取(28年和歌山商業、87年副頭取、12年没)が多くの地蔵を寄贈、寄贈のたびに頭取就任を祈願していた
90.8.磯田会長宛に、娘の絵画取引や経堂のマンションの賃貸に関した個人のスキャンダルについて問い質した内容の手紙を出す
磯田は辞めると言いながら、巽に引き留められたこともあって、なかなか決断しない
その間、後釜を狙った専務以上の保身の動きが活発化
90.8. 住銀内部に、対イトマン調査チーム発足。別途イトマンには5人のチームを派遣
磯田個人のスキャンダルの告発と、早期辞任を迫る文書を、頭取経験者5人、大蔵省国金局、証券局にもばらまく
90.10.7. 磯田自ら辞任発表。西も退任で、巽・玉井体制が確立。伊東敏夫秘書室長もつんぼ桟敷
イトマン問題専従チーム発足。トップは西川善文常務、サブが吉田融資3部長
90.11. 伊藤寿永光解任 ⇒ 伊藤が磯田に接近、河村が伊藤の変節に激怒
イトマンの会社更生法申請は、直前になって大蔵省から預金保険法に基づく銀行取り付け時の預金者救済手順が決まっていないという理由でストップがかかる
住友はその後、イトマンのメーンバンクとして、貸し手の金融機関を集めて説明会を開き、玉井が「住銀が責任を持つので、貸出残高を落とさないで」と要請。大阪銀行の副部長が一筆書けと言ったのに対し、「天下の住銀の副頭取の玉井が、皆の前で言っている。それでも書いたものがいるのか」と息巻いたため、誰も反論できなかったという
90.12. 住友からイトマンに転出していた加藤吉邦専務自殺 ⇒ 不動産、絵画取引に関与していたが、そこに大阪府民信組が絡む
梅子夫人が、住友の役員の悪口を言ったり、頭取経験者の夫人仲間で役員人事を批判。都合のいいところだけ磯田を使って、との不満をぶちまけている様子
西武百貨店つかしん支店の外商担当福本課長にイトマンが購入した絵画の鑑定書作成を依頼、福本は許永中の指示で、西武百貨店塚新店美術部の名で偽造鑑定書145通を作成
91.1.25.のイトマンの取締役会をZデーとして、河村社長退任を画策 ⇒ 「三越方式」で、事前に取締役に根回しをして、緊急動議で退任を決議するやり方。関電の芦原代取名誉会長を解任したケースも参考にするが、準備期間は2週間
玉井副頭取に説明するが、準備不足と失敗のリスクを懸念して動きを止められる ⇒ イトマン内部から動議が出せるよう、全36人の取締役の説得に動き回る
巽・玉井vs河村のトップ会談で辞任を迫るも、喧嘩別れに
読売・朝日が、イトマンの絵画取引の裏を暴く記事掲載
91.1.25. 河村解任決議成立 ⇒ 解任の決に起立しなかった3人も議事録に承認のサインをした
巽の次に頭取になったのは森川副頭取(国際畑、地味な実務家)。一連の騒動に関係がなく、頭取レースの下馬評に全く挙がっていなかった人物
91.7. 河村、伊藤寿永光、許ら6人を逮捕


クライマックスは、河村社長の辞任・逮捕
05年、河村、伊藤寿永光、許永中の判決確定。それぞれ懲役7年、1076か月
逮捕から14年が経っていた
著者が本店営業第1部長のときの93年、住金物産とイトマンを合併させ、110年続いた中堅商社イトマンは消え去った

なぜ本書をこのタイミングで世に出すことになったか ⇒ 20年近く前に知り合いの講談社の編集者にメモの存在を漏らしたところ、イトマン事件の記録は、日本の経済史の1場面として、絶対に残すべき、と言われたことが脳裏に残っていた。事件から4半世紀過ぎ、人生70になったのを機に、事件を語れる人間の1人として記録を残しておくのも、自分に与えられた役割の1つではないかと考えるようになった
人事を巡る権謀術策は住銀に限らず、日本のすべての大企業に共通するテーマ。その意味では本書は、「日本大企業秘史」とも言える。著者の経験が組織で生きている読者に多少なりとも役立てば望外の喜び





イトマン内部告発文、私が送った 元住銀部長が「秘史」
文・大鹿靖明 写真・堀英治
朝日 201610110506
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■國重惇史さん
 戦後最大の経済事件と呼ばれたイトマン事件。旧住友銀行(現三井住友銀行)の巨額資金が、中堅商社イトマンの地上げなどにからんで闇社会に流れたとされ、住銀首脳の辞任につながった。
 当時、旧大蔵省内部告発文を送ったのは自分だった、と近刊の自著「住友銀行秘史」(講談社)で四半世紀を経て明かした。
 「このままでは闇社会の食い物にされる」。住銀の部長だった1990年3月、実情を耳にして真相究明を決意。以来、記録をつけた手帳8冊をもとに執筆した。
 描かれた動きは、まるで新聞記者だ。社有車の運転手の詰め所に毎年末、一升瓶を持参して情報源を開拓。役員フロアをはじめ行内の隅々にまでシンパをつくった。10年間のMOF(モフ)担(旧大蔵省担当)で培った人脈も活用した。
 イトマンの封筒と便箋(びんせん)で社員を装った告発文には、旧大蔵省銀行局長だった土田正顕氏も生前、「こちらを誘導するような正確な内容」と感嘆。親しい記者の報道を通じて経営陣を揺さぶり、検事にも資料を提供した、と言う。
 住銀取締役などを経て楽天副会長を務めたが、2年前に女性問題で辞任。編集者の説得に根負けしなければ、事件のことは「墓場まで持って行くつもりだった」。
 当時の役員の姿も実名で詳述した。「上層部は保身しか考えない。あなたの会社も、と伝えたかった」(文・大鹿靖明 写真・堀英治)

Wikipedia
イトマン事件(イトマンじけん)とは、大阪市にあった日本総合商社伊藤萬株式会社をめぐって発生した、商法上の特別背任事件である。戦後最大の不正経理事件である(四国の製紙会社のイトマン株式会社とは関係がない)。

経緯[編集]

背景[編集]

伊藤萬は、1883明治16年)に創業され一族経営で繊維商社をメインとした会社で、かつては東証1部、大証1部に上場していた。1973昭和48年)のオイルショックで経営環境が悪化したことをきっかけに、主力行の住友銀行(現:三井住友銀行)の役員だった河村良彦を社長として起用し、繊維商社から総合商社への方向転換を図った。
他方、株式会社協和総合開発研究所の社長(経営コンサルタント)だった伊藤寿永光は、当時仕手筋として名を馳せていた「コスモポリタン」会長や大阪府民信用組合理事会長に対し、雅叙園観光(結婚式場の雅叙園とは全く関係なし)仕手戦に関して融資していた200億円の貸金が焦げ付いていた。伊藤は、このように資金繰りに窮する中、住友銀行の磯田一郎会長やその腹心である河村に急接近し、伊藤萬の経営に筆頭常務として参加するようになり、伊藤萬を介して住友銀行から融資を受けるようになった。
また、雅叙園観光の債権者の一人であった許永中も、同社の再建処理を行う上で伊藤との関係を深めるようになり、伊藤を通じて伊藤萬との関係を持つようになった。

事件の発生[編集]

19905月の日本経済新聞の報道で、伊藤萬の不動産投資による借入金12000億円に及んだことが明らかになったことをきっかけに、許は、河村に、美術品貴金属などを投資すれば経営が安定するとの話を持ちかけた。これを受けて、伊藤萬は許永中の絡む三つの会社から、許永中の所有していた絵画骨董品などを総額676億円で買い受けた。さらに磯田の娘(黒川園子、PISA役員)も不明朗な絵画取引に加わったとされる。これらの美術品は鑑定評価書の偽造(西武百貨店つかしん支店美術部員が許/伊藤に乗せられて偽造した後、海外に高飛び))などが行われ、市価の23倍以上という法外な価格であったが、河村や伊藤はこれを認識しながら買い受け、これによって伊藤萬は多額の損害を受けた。異常な取引が続いた背景には河村が磯田の後ろ盾でワンマン体制を取っており、誰も河村を止めることができなかった事情があった。
そのほか、伊藤や許は、伊藤萬に対して、地上げ屋の経営や、建設の具体性の見えないゴルフ場開発へ多額の資金を投入させた。
その結果、伊藤萬本体から360億円、全体では3000億円以上の資金が、住友銀行から伊藤萬を介して暴力団関係者など闇社会に消えていった。中には伊藤萬の経営に対し批判的記事を書いた新潮社日本経済新聞社へのマスコミ工作と称して流出した資金もあった(実際にマスコミ工作が行われたのかは裁判でも明らかになっていない)。
1991元日朝日新聞が「西武百貨店→関西新聞→イトマン 転売で二十五億円高騰」「絵画取引十二点の実態判明、差額はどこへ流れた?」との大見出しで、絵画取引の不正疑惑をスクープした。
1991723日、大阪地方検察庁特別捜査部特別背任の疑いで上記伊藤・許・河村を含む6人の被疑者逮捕し、その後起訴した。
2005107日、最高裁上告棄却決定により、許について懲役76月・罰金5億円、伊藤について懲役10年、河村について懲役7年の刑がそれぞれ確定した。
しかし、これらの巨額資金の行方は今もって謎に包まれている。

その後の経緯[編集]

伊藤萬は199111日にCIを導入し、片仮名の「イトマン」に商号変更したが、1993住友金属工業(現:新日鐵住金)の子会社でこれまで金属・鋼材類の製造・販売を行った住金物産(現:日鉄住金物産)に吸収合併され、本体は延べ110年の歴史に幕を下ろした。合併により伊藤萬の株式は上場廃止となったが、吸収した住金物産がその後大証に上場、20061226日には東証1部にも上場を果たした。なお、イトマンが運営していたイトマンスイミングスクールは、現在はナガセ系列となり運営されている。
このイトマン事件に絡んで許が経営に関与していたといわれる関西新聞19914月に手形不渡りで倒産し新聞も廃刊。さらに同じく許が関与していたとされる近畿放送KBS京都)は、1989年に関連会社役員だった許らが中心となってノンバンクから土地開発会社に146億円の融資を受けた際に社屋や放送機材等が根抵当権に設定にされて、一時はそれらが債権者であるノンバンクが差押えをした上で社屋などの競売を申請したことで放送局として存続の危機に立たされたが、1994に同社の労働組合員が未払い賃金である組合員の労働債権をもとに会社更生法を申請、翌年4月に適用決定に至り、廃局の事態は免れた。その後は100パーセントの減増資によりイトマン事件関係者含む旧経営陣及び株主を排除し、京都放送に商号を変更して再建への道を歩む。200710月には会社更生法の解除申請が受理された。



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