科学の発見  Steven Weinberg  2016.9.28.

2016.9.28. 科学の発見
To Explain the World ~ The Discovery of Modern Science    2015

著者 Steven Weinberg 1933年アメリカ生まれ。理論物理学者。カリフォルニア大バークレー校、MIT、ハーバード大などを経て、現在はテキサス大オースティン校の物理学・天文学教授。量子論の統一理論への第1歩となる「電磁力」と「弱い力」を統合する「ワインバーグ=サラム理論」を67年に発表し、79年ノーベル物理学賞受賞。一般向けの著作も多数あり、現代で最も尊敬される科学者の1人。本書はテキサス大で教養学部生向けに行った科学史の講義を元に執筆。現代の科学的方法論がいかに発見されたか、という観点から過去の科学者を裁いた本書は、歴史家や哲学者の大反発を呼び、2015年欧米の論壇で最も物議を醸した1冊となった

訳者 赤根洋子 翻訳家。早大大学院修士課程修了(ドイツ文学)

解説 大栗博司 理論物理学者。カリフォルニア工科大教授。東大カブリ数物連携宇宙研究機構主任研究員。専門は素粒子論。

発行日           2016.5.10. 第1刷発行                 6.30. 第3刷発行
発行所           文藝春秋

ギリシャの「科学」はポエムに過ぎない。物理こそ科学の先駆けであり、科学の中の科学である。化学、生物学などは2等の科学だ。数学は科学ではない……・
「美しくあれかし」というイデア論理を打ち立てたギリシャ時代の哲学がいかに科学ではないか。アリストテレスやプラトンは、今日の基準からすればいかに誤っていたか。容赦なく現代の科学者の目で記述することで、「観察」「実験」「実証」をもとにした「科学」が成立するまでの歴史が姿を現す

はじめに ~ 本書は不遜な歴史書だ
本書では、世界の探求の方法を人類がどのようにして習得するに至ったかを語りたい
現代科学は、自然というものに合わせてうまくチューニングされた技術であり、世界についての確かな事実を知るための実践的な方法である
本書は、科学の中でも、物理学と天文学に重点を置いて論じる。科学が最初に現代的な形になったのは、物理学、特に天文学に応用された物理学においてだった
現代科学は、コペルニクス、ガリレオ、ニュートンらによる1617世紀の科学革命の時代にヨーロッパで行われた研究からその方法を学んだ。科学革命は、中世ヨーロッパ及びアラブ諸国で行われた研究から生まれた。その源流は、さらに古代ギリシャの科学にまで遡る
現代の基準で過去に裁定を下す。知の巨人たちがいかに現代科学の概念から隔たっていたかを示すことで、現代科学の発見がどれほど困難だったかを理解してもらうことが目的
現代科学の結果は無機質で、人間的判断とは関係ないのは勿論、科学理論の証明は、中立的な実験によって行われる

第1部        古代ギリシャの物理学
科学の発展に果たした古代ギリシャ人の役割は特別。ヘレニズム時代およびローマ時代にギリシャ人が科学や数学の分野で成し遂げた業績は、1617世紀にヨーロッパで科学革命が起きるまで凌駕されることはなかった
科学に影響を与えてきた5つの分野――詩、数学、哲学、テクノロジー、宗教――に絡めて講じる

第1章        まず美しいことが優先された
タレスが紀元前585年の日食を予言したと言われ、万物は単一の基本的物質で構成されるとし、それは水だと言ったが、なぜそういう結論に至ったのかは資料がない
ソクラテス以前の自然哲学者は、見かけの現実の奥にある、より深いレベルの現実を探求しようとして、水や土、火あるいはアトムといった、世界のすべての物質がそれでできているようにはとても見えないものを万物の根源と考えようとした
彼らが犯した過ちは、より深いレベルの現実に関する自らの理論が、見かけ上の世界をどう説明するのか、詳らかにしてなかったこと。見かけ上の世界の理解を一段低く見做すという、知的スノビズムの傾向があり、それは科学を長年にわたって害して来た姿勢の1例に過ぎない。様々な時代において、円軌道は楕円軌道よりも完璧だ、金は鉛よりも高貴な金属だ、人類は類人猿よりも高等だ、などと言う考え方がずっと存在してきた
物質の基本的構成要素を特定しようとする試みは、時代によって元素の種類は変わったものの、2000年以上にわたって続いた
現代科学のある重要な特徴がタレスからプラトンに至る思想家にはほぼ完璧に欠けている。それは自分の理論を実際に確かめようとしていないこと。自分の理論の正しさを論証することさえ試みていない
アリストテレスは、自分より前の時代のギリシャ哲学者をフィジオロギ(=自然を研究する人)と呼んだが、現代の物理学者とは共通点はなく、彼らの理論はただの言葉に過ぎず、その意味では詩人と見做されるべき存在であり、「詩」とは「美的効果のために選択された文体」を指す
現代の科学者は、観測によって検証できる正確な結論を引き出すための理論を提唱し、その理論に従って、自然についての自分の推論を確かめる。古代ギリシャの自然哲学者やその後継者の多くはそれを行わなかった。その理由は、その実例を見たことがなかったからで、彼らは自ら「実際には、確かなことは何も知らない」と告白している
タレスからプラトンに至る自然哲学者たちに何より欠けているのは、必ず実証を求めるという態度

第2章        なぜ数学だったのか?
ギリシャではまず数学が生まれた。数学は観察・実験を必要としない。思考上の組み立てのみで発展する。美しくあることが優先されるあまり、ピタゴラス学派は、「醜い」無理数の発見を秘密にし、封印することにした
実証する必要性を認めたとしても、実行することはとてつもなく困難だったと思われる原因は、ギリシャ数学の不完全さにあった  古代ギリシャ人にとって数学とは幾何学のこと
紀元前530年ごろに活躍したピタゴラス学派は、魂の転生を信じていた  大きな業績を残したのは物理学よりも純粋数学。「ピタゴラスの定理」は誰もが知っているが、どのようにしてこの定理を証明したかは誰も知らない
古代ギリシャ人は有理数以外の概念を持たなかったので、2の平方根といった数量は幾何学上の意味しか持たず、この制約が算術の発達をさらに妨げる
純粋数学重視の伝統は、プラトンの学園「アカデメイア」に受け継がれ、その入り口には「幾何学を知らざる者は入るべからず」との銘文があった
更なる問題は、数学に触発されて、「理性だけの力で真実に到達する」という誤った目標が自然科学に設定されたこと。プラトンはソクラテスに、天文学は幾何学と同じ方法で研究すべきと主張させ、ソクラテスは「天体を観測することは、数学において幾何学の図形を見ることが有益であるのと同様に、知性への刺激として有益かもしれない。だが、どちらの場合も真の知識は思考によってのみ得られる」と言っている
数学は、物理原則の結果を推論する手段であると同時に、物理学の原理を表現するのに必須の言語で、しばしば新しい科学理論のインスピレーションの源となるが、自然科学ではない。観察を伴わない数学それ自体では、世界について何も説明することはできない
現在では、科学と数学の区別はほぼ確定しているが、「自然とは何の関係もない理由で発明された数学が、物理理論に役立つのはなぜか」という謎は残る。また両者に摩擦が起こるのは、数学的厳密さを巡っての対立で、純粋数学の研究者があくまで厳密さを求めるのに対し、物理学者は深刻な誤りさえ避けられればそこまでは求めない

第3章        アリストテレスは愚か者?
アリストテレスの物理学は、自然はまず目的があり、その目的のために物理法則があるというもの。物が落下するのは、その物質にとって自然な場所がコスモスの中心だからだと考えた。観察と実証なき物理学
プラトン以降、ギリシャの自然哲学は、それまでの詩的スタイルから理詰めのスタイルへと方向転換
アリストテレスは、「アカデメイア」で学んだあと、学園「リュケイオン」を開く
プラトンが、魂によって洞察される物事の純粋な真の姿であるイデアの存在を信じていたのに対し、ソクラテスは、インスピレーションよりも理性に頼って自らの結論を証明しようとした。その限りでは優れた観察眼を持った鋭敏で進歩的な人物だったが、彼の思想を貫く原則には、現代科学と相容れないものが含まれている
   「事物のありようは、それが果たす目的によって決まる」という目的論が満ち溢れ、それが分類学への拘りにも表れているが、その後の科学の障害となったことは明らか
   自然か人工かの区別に拘り、真に興味深いのは自然現象ゆえ、自然現象の観察を通じて様々な発見をしたが、実験目的で人工的な状況を作り出すことなど考えられなかった
科学の進歩とは、単なる流行の変化ではなく、客観的なもの。現代科学の実践を見たことがない古代人にとって、その方法は何1つとして明らかではなかったところから、彼の死(紀元前322)は、科学にとっては遥かに明るい時代の夜明けとなった

第4章        万物理論からの撤退
ギリシャ人が支配したエジプトでは、以後17世紀まで最高の知が開花。万物を包括する理論の追究から撤退し、実用的技術に取り組んだことが、アルキメデスの比重や円の面積などの傑出した成果を生んだ
アレクサンドロス大王の死後、エジプトを支配したのがプトレマイオス朝(ヘレニズム時代)で、科学者は、万物を包括する理論の構築から撤退し、現実的な成果を上げることのできる具体的な現象の理解に精力を注いだ結果、光学や液体静力学が発達、中でも天文学が大きな進歩を遂げる
その時代の知識で解明できる問題とそうではない問題とを見極めることこそ、科学の進歩の本質的特徴  量子力学のない時代に電子の構造を解明しようとしても無駄
ヘレニズム期の科学者とそれ以前の自然哲学者の重要な相違点は、「知それ自体のための知識」と「実用のための知識」の区別に拘泥しなかったこと
光の性質は、ギリシャからローマ時代まで長年繰り返し取り組んだ実用的な重要性を持つ研究テーマだが、実験によって法則が発見されたのは1600年代前半
アルキメデスは、「浮体の法則(浮体は、それが押しのけた水の重さとそれ自体の重さが等しくなる深さまで沈む排水量)」の発見や、幾何学的方法を用いて面積や体積を計算
幾何学偏重は、ガリレオ他17世紀の科学革命の時代まで続く
実用面への科学の応用が正しい科学理論を生み出す原動力となったが、医学の実践においては例外で、実験によって効果が立証されていない処置(瀉血)に固執していたし、19世紀に消毒法という科学的根拠のある手法が導入されても大半の医師が積極的に反対した
医学の理論と実践が実証的科学によって訂正されることなくこれほど長く続いたのは何故か。名医が自分の治療法を押し付けるためには権威を守るほかなく、権威を持った人間が自分の権威を損なうかもしれない研究に反対するのは、医学界に限ったことではない

第5章        キリスト教のせいだったのか?
ローマ帝国時代、自然研究は衰退。アカデメイアは閉鎖され、古代の知識は失われる。それはキリスト教興隆のせいか? 議論はあるが、ギボンは「聖職者は理性を不要とし、宗教信条で全てを解決した」と述べた
科学の発見には、自然研究から宗教観念を切り離すことが不可欠だが、物理学においては18世紀までかかったし、生物学においてはさらに長くかかった
現代の科学者の考え方は、「超自然的な存在の介入を想定せずにどこまで行けるか考えてみよう」というもので、超自然的な存在の助けを借りればどんなことでも説明が可能だし、どんな説明も証明不能になってしまう
プラトンの考察は宗教に満ち溢れている  「神が惑星の軌道を定めた」と言い、自然研究の中に宗教の役割を確保することに熱心
ヘレニズムでは、宗教に言及している科学者はいない
ローマ帝国では、ローマの公的な宗教に敬意を払わない者に対しては、時として宗教的迫害が行われた
キリスト教が国教と定められたころ、ギリシャ科学の偉大な業績は終わりを迎える  コペルニクスの様に、キリスト教の教えと科学的発見の衝突もあったが、キリスト教と科学がぶつかったのは、初期キリスト教に蔓延していた、「異教徒の科学は、キリスト教徒が取り組むべき霊的な問題から人の心をそらすものだ」という考え方や、キリスト教が知的な若者に教会での立身出世の機会を提供したことが原因
聖職者らは理性の行使を不要とし、どんな問題でも宗教上の信条によって解決し、異教徒や懐疑論者に永遠の業火を宣告。知性の脆弱と心の堕落を支持し、古代の賢人の人間性を侮辱、教義にとって不快な哲学的探究精神を禁止

第2部        古代ギリシャの天文学
古代世界において最大の進歩を遂げたのは天文学。その理由の1つは、天文学上の現象が地球上の現象よりも単純なこと。古代天文学のもう1つの特徴は、それが有用だったこと。中世を通じて天文学者を悩ませ続けた6,7,8章で述べる問題が、やがて現代科学の誕生へと繋がっていく

第6章        実用が天文学を生んだ
古代エジプト人は、シリウスが夜明け前にその姿を現すときに、ナイルの氾濫がおきると知っていた。農業のための暦として星の運行の法則を知ることから天文学が生まれ、完全な暦を作成するための試みが始まる
太陽の見かけ上の動きを正確に測ることのできるグノーモンと呼ばれる、水平な場所に設置された垂直の棒の発明によって、天文学は精密な科学へと成長し始める  実用のために発明された道具が科学的発見への道を拓く

第7章        太陽、月、地球の計測
アリストテレスは地球が丸いことに気づく。さらにアリスタルコスは観測から、太陽と月、地球の距離と大きさを、完璧な幾何学で推論。数値こそ全く間違っていたが、史上初めて自然研究に数学が正しく使われた
ギリシャ天文学の最大の業績は、地球、太陽、月の大きさや地球からの距離を測定したこと。世界の本質について量的結論を引き出すために数学が正しく使われた初めての例
日食と月食の本質を理解し、地球が球体であることを発見することが必要不可欠で、アリストテレスは、地球が球体であることを知っていた

第8章        惑星という大問題
天動説の大問題は、それが実際の観測と合わなかったこと。プトレマイオスは、単純な幾層もの天球の上に星が乗っているというアリストテレスの考えを捨て、観測結果に合わせるために「周転円」という概念を導入
天球を移動する速度は惑星によって異なるし、速度自体も一定ではない。時には逆行することもある。現代科学誕生の物語の大部分は、惑星のこうした奇妙な動きを説明するために2000年以上にわたって続けられた模索によって占められる
アリストテレスの軽率なミスから、天体の並び順を理論づけるための同心天球説のファイン・チューニングを間違った方向へと導く
奇妙な動きをするために、惑星は時計やカレンダーや方位磁石の代わりにはならなかった。ヘレニズム期以降、惑星はバビロニア発祥の似非科学である占星術に使用された。現代では両者は別物として扱われているが、古代や中世においてはその線引きは曖昧で、「人間界の出来事は、恒星や惑星を支配する法則とは無関係である」という事実が当時はまだわかっていなかった

第3部        中世
科学は古代ギリシャで頂点に達し、その後1617世紀の科学革命までその水準に回復することはなかった。古代ギリシャ人の大発見のお陰で、観測結果と一致する精密な数学的、自然主義的理論によって様々な自然現象(特に光学及び天文学分野の)を記述することができるようになった。光や天空について獲得された知識も重要だったが、どんな事柄に関する知識が獲得できるか、およびその獲得方法について得られた知識は更に重要だった
中世世界にはこれに匹敵するものはなかったが、古代ギリシャの科学の業績はイスラム圏の学術機関やヨーロッパの大学で維持、時には改良され、科学革命の素地が準備された
加えて、古代以来の科学における哲学、数学、宗教の役割についての論争も持ち越された

第9章        アラブ世界がギリシャを継承する
中世初期、西洋が蒙昧に陥った頃、バグダッドを中心にアラブ世界の知性が古代ギリシャの知識を再発見し、黄金期を迎えた。その影響は、「アラビア数字」「アルジェブラ(代数)」「アルカリ」などの言葉に今も残る
古代アラブ人はローマ帝国やペルシャ帝国の周辺地域に住む未開の民として知られていたが、7世紀初めムハンマドが同胞のアラブ人を一神教に改宗させ、メッカとアラビア半島を征服、さらに勢力を拡張する過程で国際的な世界を知り、ギリシャ科学を吸収し始める
アッバース王朝時代(7501258)にアラブの科学は黄金時代を迎えるが、伝統的に2つの流れがあった  1つは哲学にあまり関心を持っていない本物の数学者と天文学者のグループであり、もう1つは哲学者と医師のグループでアリストテレスの影響を強く受け、天文学に対する関心も占星術的な興味だった
アラブ科学の業績は、多数の科学者によって成し遂げられたもの
「代数(アルジェブラ)」も、問題を解くためのルールを指す「アルゴリズム」という言葉も、3種類の数字(ローマ数字、60進法のバビロニア数字、インドから伝わった新式の10進法の数字)を統一してアラビア数字とした数字表記法もアラブ人科学者が考案
地球のより正確な計測や、銀河の存在も明らかにされたが、特に光学の面で物理学に貢献
イスラムでの科学の衰退と宗教の繁栄の関係については、確たることは言えないが、キリスト教世界と同様、神学者たちによって医学書や科学書が燃やされたり、天文台が狂信者によって破壊されたりするなど、イスラム世界でも科学に対する敵意が次第に高まっていったことを立証する事象は多い
現代でも、1979年にイスラム教徒として初の科学分野でのノーベル賞受賞者となったアブドゥッサラームが湾岸の産油国の為政者相手に、科学研究のための出資を要請した際、彼らは技術工学への支援には熱心だったが、純粋科学に対しては、イスラム文化を損なう恐れがあるとして及び腰だったという

第10章     暗黒の西洋に差し込み始めた光
復興し始めた西洋では、アラビア語からの翻訳でアリストテレスの知識が蘇る。だがそれらの命題が教会の怒りに触れ、異端宣告される。後に宣告は撤回されたが、この軋轢は科学史上重要な意味を持った
ローマ帝国の崩壊と共にヨーロッパは貧しい農村と化し、識字能力を持つのは教会だけで、そこで使われるのはラテン語であり、ギリシャ語を読める人間はいなかった
1011世紀にヨーロッパが復興し始め、重要な科学研究が始まるのが13世紀末、成果が出るのは16世紀  都市の大聖堂に付属している学校で幅広い学問が始まり、同時に古代の科学者の著作がアラビア語から翻訳され始めたことが、学問復興の契機となる
翻訳によって最も大きな直接的影響力を及ぼしたのはアリストテレスの著作で、2つの新興托鉢修道会の深刻な対立を引き起こす  大学でも講義の禁止令が出たし、1245年にはローマ教皇からも著作の禁止令が出され、1277年にはトマス・アクィナスの命題と併せ異端宣告された
1325年、異端宣告は撤回されたが、異端宣告はアリストテレス絶対主義から科学を救い、その撤回はキリスト教絶対主義から科学を救ったと言える
14世紀のヨーロッパで創造的科学研究が始まるが、その中心人物はフランスのビュリダンで、科学原理の論理的必然性を認めない経験主義者だが、実験主義者ではない
ビュリダンの弟子オレームが地球自転説を唱える

第4部        科学革命
物理学と天文学は、1617世紀の革命的変化を経て現在のような形をとるようになり、それ以後の全科学の発展に模範を示したと言われるが、ここ数十年の間に、科学革命の重要性に疑問符が付く
科学革命は、精神史をそれ以前とそれ以後に二分するリアルな転換点だったことは間違いない。科学革命以前の科学は宗教や哲学と不可分に結びついていたが、17世紀以降は数学的に表現された、客観的な法則の探求であり、それらの法則が様々な現象の正確な予測を可能にし、その予測を観測や実験結果と比較することで法則の正当性が立証される

第11章     ついに太陽系が解明される
1617世紀の物理学と天文学の革命的変化は、現代の科学者から見ても歴史の真の転換点だ。コペルニクス、ティコ、ガリレオの計算と観測で太陽系は正しく記述され、ケプラーの3法則にまとめられた
科学革命はコペルニクス(14731543)から始まる。太陽が宇宙の中心で、地球も自転しながら、太陽の周りをまわっていることを明らかにしたが、キリスト教指導者からの反対に晒される。聖書の「日は昇り、日は沈み、昇った場所へ急いで戻る」という言葉が引用された
デンマークのティコ・ブラーエ(15461601)は、望遠鏡導入以前の天文学史上最も熟練した観測者であり、数学的変形によって、コペルニクス説を天動説に合う形に書き換えた  彗星の観測によって、アリストテレスの同心天球説の間違いを発見。ティコの最大の功績は、正確無比な観測にあり
ディコの仕事を引き継いだのがケプラー。ケプラーのモデルが現代のわれわれにとって異質なものに感じられるのは、正多面体に基本的な物理的重要性を見出そうとしているからではなく、歴史的偶然に過ぎない惑星軌道という文脈の中で説明しようとしているからで、自然の基本的法則がどのようなものであれ、それが惑星軌道の半径の長さと無関係であることは確か。ケプラーがおろかだというのではなく、当時はケプラーも含め誰も、恒星が土星の天球より外にある単なる光ではなく、それ自体の惑星系を持つ太陽だとは知らなかった。太陽系が宇宙の全体と考えられていた当時、太陽系の構造が自然界の何にもまして基本的なことだと考えるのは至極当然のこと。現代においても、「膨張する宇宙」や、それよりずっと巨大な「多元宇宙(マルチバース)」の存在が想定されており、いまだに人間の認知に基づく推定しかできないものがある。その意味ではケプラーと同じ難局に直面していると言える
神聖ローマ帝国の宮廷数学者になったケプラーは、理論と観測の齟齬から、惑星の軌道は円形ではなく楕円形で、太陽は1つの焦点にあると結論付ける(ケプラーの第1法則)
また、「惑星が移動するとき、太陽と惑星を結ぶ線が一定時間内に描く図形の面積は一定である」(2法則)ことも発見、惑星が太陽に近いときには速度が速くなることが分かる
惑星が好転し続けるのは太陽から放射された力のせいではなく、その推進力を枯渇させるものが存在しないからだが、惑星が恒星間宇宙に飛び出すことなく軌道内に留まっているのは太陽の重力によるもので、当時「離れた場所から作用する力」という概念はポピュラーになりつつあった。魂を基礎とする「物理学」から力を基礎とする物理学への変化は、自然科学と宗教との古代的な混淆を終わらせるうえで不可欠な1歩だった
太陽中心の太陽系モデルが正しいことを観測によって証明したのがガリレオ(15641642)で、望遠鏡の導入によって観測天文学に革命をもたらし、彼の運動の研究は現代実験物理学の模範となる。医学を学んだあと数学教授となり、物体の落下運動の研究を始める。ピサの斜塔から重さの異なる様々な物体を落として実験したという話は興味深いが、それが事実だという証拠はない
倍率を高めた望遠鏡を発明して6つの歴史的な天文学上の発見をする
   月面の凸凹を発見し、月と地球がそれほど違わないことが分かる(1609)
   裸眼では確認できなかった6等星より暗い星を観測
   恒星の形を見極めることができなかったため、恒星は惑星よりずっと遠くにあると結論づけた
   木星にも地球と同じ惑星が4つあり、月と同様惑星の公転軌道面上で公転していることを発見(1610)。発表論文をかつての弟子だったメディチ家のコジモ2世に捧げ、木星の4つの月を「メディチ家の星々」と命名し、メディチ家からは「宮廷数学者・哲学者」に任命された。ガリレオが「哲学者」に拘ったのは、数学者の地位が低くみられていたからだったが、フィレンツェに移ったことで教会の検閲を厳しく受けることになる
   金星も、月と同じように満ち欠けすることを発見(1610)。プトレマイオス説が誤りであることを示した最初の直接証拠となる
   望遠鏡を使って太陽像をスクリーンに投影する方法を発明、太陽表面の観察に成功。『黒点に関する書簡』として1613年に出版
新技術が純粋科学のために大きな可能性を開いた例はいくつもあるが、ガリレオの望遠鏡ほど印象的な結果をもたらした新技術は外にない
学界の反応は、断固拒否から大絶賛まで様々
ガリレオは、公式にコペルニクス説への賛同を表明したが、ローマ教皇からは公式に異端の判決が下り、コペルニクス説の信奉や教えることが禁止された
1633年、ガリレオは異端裁判で地動説の撤回を宣誓するが、終身刑を宣告される。その時、「それでも地球は動く」と言ったという話は作り話だろう。軟禁生活中に物体の運動の研究を再開したが、コペルニクス説を唱える著作が教会の禁書目録から外されたのはそれから200年以上もたった1835年のこと
1979年、ヨハネ・パウロ2世はガリレオの『クリスチーナ大公母への手紙』に言及し、これを「聖書と科学の和解のために不可欠な、認識論的性格を持つ重要な規範」と呼んだ
現在では、瀆神(とくしん)や棄教に刑罰を科しているイスラム教の国々を除けば、宗教上の意見に対して政府や宗教的権威が刑罰を科す権利はないという教訓を学んでいる
コペルニクス、ケプラー、ガリレオの計算と観測によって、太陽系は正しく記述され、ケプラーの3原則にまとめられたが、惑星が何故これらの法則に従うのかという疑問は、1世代のちのニュートンの時代まで待たなければならなかった

第12章     科学には実験が必要だ
天体の法則は自然の観測だけでできたが、地上の物理現象の解明には、人工的な実験が必要。球の運動を研究するためにガリレオが作った斜面は、初の実験装置であり、現代物理学の粒子加速器の遠い祖先といえる
人間は、何かをする方法を発見するために、常に実験を繰り返し試行錯誤を重ねてきたが、ここで「実験の始まり」というのは、自然に関する普遍的理論を発見、ないし検証するために行われる実験のみを指す
17世紀になって初めて、物理理論の正しさを判断する際に役立てようとして実験結果を公表するようになった
ガリレオの落体の運動に関する定量的研究は、ニュートンの研究にとって不可欠の前提条件となり、空気圧の性質に関する研究と並んで、現代実験物理学の真の始まりとなった
ガリレオを引き継いで重力加速度を割り出したのはホイヘンス(1629)。土星の観測からタイタンを含む環を発見。「振り子が1往復するのにかかる時間は、振れ幅とは無関係」というガリレオの観察結果に基づき、振り子時計を発明。光の波動説を提唱
当時の科学が、演繹法依存や数学特有の確実性追求といった、数学の模倣から完全に脱却している  幾何学者は不変で議論の余地のない公理によって命題を証明するが、光の波動説では、原理はそこから引き出される結論によって証明され、物事の性質上、他のやり方は不可能だとした(現代物理学の方法を言い表した、考えられる限り最上の表現)
ガリレオとホイヘンスの運動研究において、実験はアリストテレスの物理学を論駁するために用いられた。「自然が真空を嫌う」から「真空は不可能」としたアリストテレス説も、実は大気圧の影響で起きることが理解されたのは実験に基づく
科学者たちは、自然がその原理を偶然明かしてくれるのを待たず、母なる自然からその秘密を力づくで奪い取るために、人工的な環境を巧みに構築するようになった

第13章     最も過大評価された偉人達
アリストテレスを脱却した新しい科学的方法論を打ち立てたとされる偉人、ベーコンとデカルト。だが、現代の目で見ると、ベーコンの考えには実効性がなく、哲学より科学で優れた仕事をしたデカルトにも間違いが多すぎる
ベーコン(15611626)は、法曹界でキャリアを積んだのち、1621年汚職事件で公職不適格を宣告。極端な経験主義的科学観を表明。新発見は、第1原理からの演繹によってではなく、自然を偏見にとらわれない目で注意深く観察することから直接生まれてこなければならないとするとともに、実用に直接結びつかない研究をすべて非難したが、実用価値のある知識の探求は空理空論の抑制策にはなるが、世界を説明することには、それが実用に直接繋がるかどうかとは無関係に、それ自体の価値がある
17,8世紀の科学者たちは、プラトンやアリストテレスの対極としてベーコンを引き合いに出すが、ガリレオが実験を始めるのにベーコンの助言は必要なかっただろうし、ガリレオより1世紀前にダ・ヴィンチが落体や液体に関する数々の実験を行っており、その実験が科学の進歩に何の影響も及ぼしていないとしても、少なくともベーコンよりずっと以前から実験が広まっていた証拠にはなる
デカルト(15961650)はフランス生まれ、オランダ独立戦争に加わってオランダに永住、その後哲学と数学の研究を始める。自分にとって唯一確実な事実は自分が存在しているということで、その事実は「自分はそのことについて考えている」という観察結果から推論されるとした。アリストテレスの言う、事物は何かの目的をもって存在するという目的論を否定し、あるがままに存在すると言う。神が実在することの根拠をいくつか挙げたが、全て説得力に欠ける。数学を物理学に持ち込んだ主導的人物とされるが、数学的推論の確実性にこだわり過ぎていた
信頼できる知識の真の探究法を見つけたと主張している人物にしては、自然に関する見解には間違いが多すぎる  地球は扁長(赤道より両極を結ぶ周囲長のほうが長い)と言ったり、真空状態はありえないとしたり、光は瞬時に伝達されるとしたり、宇宙は物質の渦で満たされその渦に乗って惑星は回っているとしたり、衝突の際に保存されるエネルギー量に関する見解も間違いなら、自由落下する物体の速度は落下した距離に比例するという見解も間違い
幾何学、光学、気象学では多大の貢献  最大の貢献は、曲線上や面上の点の座標を満たす方程式によって曲線や面を表す、解析幾何という新しい数学的方法を考案したことであり、光学でも光の屈折の理論に貢献、さらには屈折の法則から虹を説明したのは最高の業績
デカルトの死の14年後、著作は禁書目録に加えられた。哲学者には注目されたが、実際の科学研究には大してポジティブな影響を与えていないどころか、確実に1つのネガティブな影響を及ぼした。それは、フランスでのニュートン物理学の受け入れが遅れたこと
純粋理性によって科学的原理を導き出すという、『方法序説』に説かれているプログラムは決してうまくいかなかったし、うまくいくはずのないものだった
後年、科学の進歩をもたらしたのがデカルトの『方法序説』だと称賛する向きもあるが、馬鹿げている
ベーコンもデカルトも、何世紀にもわたって科学研究のルールを決めようとしてきた大勢の哲学者の1人に過ぎない。科学研究はルール通りにはいかない。どのように科学を研究すべきかというルールを作ることによってではなく、科学を研究するという経験から、我々はどのように科学を研究すべきかを学ぶ。我々を突き動かすものは、自らの方法で何かを見事に説明できたときに味わう喜びを求める欲求である

第14章     革命者ニュートン
ニュートンは過去の自然哲学と現代科学の境界を越えた。その偉大な成功で物理学は天文学・数学と統合され、ニュートン理論が科学の「標準モデル」に。世界を説明する喜びが人類を駆り立て、ここに科学革命が成った
ニュートン(16421727)は変わり者。生地周辺の狭い地域から出たことがなく、潮の満ち引きに多大の興味を持っていたのに海にさえ行ったことがなかった
ニュートンの業績が、彼以降の現代科学の基礎となる。特に偉大な研究対象は光学、数学、力学
光学分野での最大の貢献は色彩理論。デカルトが解明できなかった「虹の色」を説明。プリズムを使った実験によって、白色光の屈折によってできたすべての色の光を再統合し、全ての色の光が混ざると白色光になることを確認。色収差を防ぐために反射望遠鏡を発明。現在の主要な光学天体望遠鏡は全てこの望遠鏡の子孫といえる
ライプニッツとともに、お互い独自に微積分法を発見。ニュートンのほうが10年早い(不可分法といった)が、公表したのはライプニッツの功績
公表を決意することは、科学的発見というプロセスにおける決定的な要素。公表するという行為は、「この研究結果は正しい。よって、他の科学者の利用に耐えられる」という論文執筆者の判断を意味する。だからこそ、現在では、科学的発見の功績は通常それを発表した人のものとされる
微積分法を最初に発表したのはライプニッツだが、それを科学に応用したのはニュートンで、ライプニッツは哲学者として高く評価され、また偉大な数学者ではあるが、自然科学には何ら重要な貢献はしていない
ニュートンの運動と重力の理論は、歴史に最大級の影響を与える  166566年、ペストの大流行の期間に文明の歴史のターニングポイントがある。このとき、惑星を軌道に留めているのが重力(遠心力)によるもので、その力は軌道中心からの距離の二乗に反比例するに違いないと推論。さらに、月をその軌道に留めている力は物体を地球表面に引きつける力と同じものであり、同じ量的法則に支配されていることを証明し、アリストテレス以来物理学の考察を束縛してきた天空と地球の区別を取り払った
16867年、『自然哲学の数学的原理(通称『プリンキピア』)』出版  物理学史上もっとも偉大な著作。物質の量、運動の量の定義に始まり、運動の3法則を示し、天体の運動にも同じ重力理論を持ち込み、宇宙のあらゆる物体(粒子)は「その質量の積に比例し、互いの距離の二乗に反比例する力で引きつけ合う」という万有引力の法則を確立
造幣局長官となりイギリスの貨幣制度改革を取り仕切る
イギリス国教会の秘蹟を拒否したにもかかわらず、ウェストミンスター寺院で国葬
ニュートンの研究を模範として、18世紀後半までには物理学は宗教から完全に切り離された
数学と物理学の因習的な対立がニュートンの理論の普及にとって大きな障碍となったが、次々にその正しさが証明され、物理理論の規範と可能性を示す強固なモデルとなった
後世にまで残る科学理論や科学的手法とは、科学研究の在り方に関する既存のモデルに適合しているか否かに関わらず、ある現象を見事に説明した時に覚える喜びを提供するものである
ニュートンの理論に拒絶反応を示したデカルトの信奉者やライプニッツの実例は、科学を実践する際の教訓を示す  多くの観測結果を見事に説明する理論を、考えもなしに否定してはならない、という教訓。その理論がうまく機能する理由を考案者自身も正しく理解していない場合もあり得るし、科学理論はいずれうまく機能する理論の近似理論だったと判明するものだが、それらは決して誤りではない。その教訓が軽んじられた一例が、1920年代に物理理論の全く新しい枠組みである量子力学が誕生した際、アインシュタインやシュレーディンガーなどの考案者自身が容認しがたい結果を示したきりそれ以上の理論を研究しなかったが、そのために193040年代にかけて達成された固体・原子核・素粒子物理学における偉大な進歩に彼らは参加できなかった
ニュートンの太陽系理論は「標準モデル(著者の提供した用語)」  部分的あるいは全面的に間違っているかもしれないが、その重要性は、それが確実に正しいことにあるのではなく、それが膨大な種類の宇宙論的データに共通の集会場所を提供していることにある
ニュートンの絶対的時間及び空間の概念を否定したアインシュタインの一般相対性理論も、実際にはニュートン力学の正しさを証明するもの  ニュートン理論が、光速よりずっと遅い速度で運動する物体に関して有効性が増す理論であることが証明され、アインシュタインの理論の近似理論と見做すことができる
現代科学は、超自然的存在の介入、あるいは人間的価値の入り込む余地のない、無機質なもの。目的意識を持たない。確実性に対する希望もあたえない
謎多き世界に直面して、人類はいつの時代にも説明を模索してきたが、たいていの場合満足のいく結果には至らなかった。ほんの時たま何かの現象を説明する方法を発見し、その説明が適切で多くのことを解き明かせるときには、発見者は強い満足を覚えた
世界は我々にとって、満足感を覚える瞬間という報酬を与えることで思考力の発達を促すティーチングマシンのような働きをしている
目的を気にかけず、確実性の追求をやめることを学んだ。喜びを与えてくれる説明は、決して確実なものではないから
設定した条件が人工的であることを気にせず実験することを学んだ
理論がうまく機能するかどうかの手掛かりを与えてくれ、それがうまく機能した時には喜びを増してくれる、一種の美的感覚を発達させた
人類の世界の理解は蓄積していくもの。その道のりは計画も予測も不可能だが、確かな知識へとつながっている

第15章     エピローグ:大いなる統一を目指して
ニュートン以後、さらに基本的な1つの法則が世界を支配していることが分かってきた。物理学は、量子理論で様々な力をまとめ、化学、生物学も組み入れた。大いなる統一法則を目指す道のりは今も続いている
ニュートンは、自然界には重力以外の力が存在しることを理解していた  磁力、電気の引力、さらには微小な距離にしか到達しないために観察を免れてきた力があるかもしれない
量子力学の確立に伴い、化学が物理学の枠組みの中に組み込まれた
生物について語るとき、目的論を避けて通ることはできず、生物学は目的論的原理の上に成り立つという見解が長い間当然視されてきた  生物学と他の科学との統一は、19世紀半ばのダーウィンの自然淘汰による進化論によってその可能性が開かれた
最終的に遺伝の法則と突然変異出現の法則が発見されたことによって20世紀に「現代進化論」が誕生し、自然淘汰による進化論はより確固たる基礎の上に築かれることとなった
遺伝情報がDNAという二重らせん構造の分子によって伝達されることが解明されたことによって、ついに現代進化論は化学に、ひいては物理学に裏付けられることとなった
こうして生物学は、物理学に基礎を置く統一的自然観を化学と共有することになった
生物の現在のありようには物理法則だけに従ってそうなったのではなく、そこには無数の歴史的偶然が関わっている
生物学の一般的原則は、歴史的偶然とともに基本的物理法則によって成り立っているという考えを還元主義という
全科学の統一枠に収めることが原理的に不可能な現象に遭遇するかもしれない
天空の物理学と地上の物理学はニュートンによって統一された。電気と磁気の統一理論が開発され、それで光を説明できると分かった。電磁気の量子理論が拡張されて弱い核と強い核力を包含するようになり、化学と生物までもが物理学を基礎とする統一された自然観に組み入れられた。さらに基本的な物理理論へと、我々の発見する幅広い科学法則はこれまで還元されてきたし、今も還元されつつあるのだ



解説 なぜ、現在の基準で過去を裁くのか                大栗博司
個々の科学的事実の発見の歴史ではなく、科学の方法それ自身の発見に重点を置いていることが特徴。人類がいかにして科学の方法を習得したのかを明らかにしている
科学の方法が確立する以前に自然を探求していた人々の間違いを、遠慮なく指摘している
観察や実験によって自らの理論を正当化すべきだとは考えなかったと断定
経験主義的科学観の父とされるベーコンは「極端」で、その著作から影響を受けた科学者がいたとは思えない
近代合理主義の父とされるデカルトも、ベーコンよりマシとしつつ、信頼できる知識の真の探求法を見つけたと主張する割には間違いが多過ぎると断罪
現在の基準で過去を裁くことは「ウィッグ史観」と呼ばれ、歴史学の研究では禁じ手ゆえ、本書は刊行と同時に歴史学者から激しい批判を浴びる
ワインバーグは、自然界の最も基本的な法則を解明しようとする素粒子物理学において、素粒子の間に働く弱い力を説明する理論を構築し、「素粒子の標準模型」の基礎を作った。その功績によりノーベル賞受賞。その他にも宇宙の「ダーク・エネルギー」の存在を予言し、現在の正統な研究の対象の基礎を開く
本書発刊への批判は、「歴史とは過去をそのものとして理解しようとする学問であって、現在の基準で過去の行為を裁いてはいけない」というもの
著者は、「科学の進歩に貢献した思考法は何だったか、発展を妨げた思考法は何であったかを反省する必要がある」と反論
科学の方法が、自然界の法則を解明することに大きな成功を収めてきたことは、客観的事実。自然界の仕組みを理解しようとした過去の試みを批判的に振り返り、科学の方法がどのように発見されたのかを理解することに意義がある
「科学」の基本とは、自らの理論を観測・実験によって検証し、それによってさらに理論を発展させていくこと




科学の発見 スティーヴン・ワインバーグ著 「不遜な試み」偉人読み直す
2016.6.12. 日本経済新聞「書評」
フォームの終わり
 科学の歴史を説いた本は数あれど、本書のように読む人の感情をゆさぶるものも珍しい。
http://www.nikkei.com/content/pic/20160612/96959999889DE2E1E7E2E6E1E7E2E3E3E2E4E0E2E3E49F8BE4E2E2E2-DSKKZO0350436011062016MY6000-PN1-1.jpg
 といっても発見のエピソードに感動という話ではない。人によっては「なんだこれは!」と怒るだろうし、反対に「よく言ってくれた!」と快哉(かいさい)を叫ぶ人もあるだろう。実際本書の刊行後、科学史家との間で論争が起きたりもしている。無理もない。なにしろ本書は、著者がいうように「不遜な歴史書」なのだ。著者は理論物理学の泰斗でノーベル賞受賞者のスティーヴン・ワインバーグ。歴史家ではない。
 では、どんな本か。古代ギリシャから現代へと至る科学の流れを大きく俯瞰(ふかん)したオーソドックスな構成。各パートでは天文学と物理学を中心に、世界を理解しようと挑んだ人たちが自然をどのように説明してきたかを検討している(原題は『世界を説明する』)。そこではガリレオやニュートンといったよく知られた人だけでなく、必ずしも有名ではないが重要な人物の仕事にも目が向けられている。鳥の目と虫の目を併せもつ書き手にしか著せない逸品といってよい。
 いったいどこが「不遜」なのか。歴史を遇する態度が見所(みどころ)だ。普通、歴史研究では現在の価値観で過去を裁定すべきではないといわれる。例えば、望遠鏡がなかった古代人の宇宙観を、現代人の立場から裁いてよいものだろうか。ごもっとも。
 ところが本書はまさにその禁じ手をとる。その結果、西洋学術に多大な影響を及ぼしたアリストテレスをはじめ、新しい科学の方向を示したとされるベーコンやデカルトなども「過大評価された偉人」とバッサリ斬られて形無し。登場する科学者たちは、のきなみ同様の観点から評される。そんなことしちゃっていいの!? と心配になる一方で清々(すがすが)しささえ感じられてくる。
 ただし早合点は禁物だ。この本は確かに科学の歴史を扱っている。だが歴史研究が目的ではない。著者はあくまでも、過去との比較を通じて現代科学の特徴を浮かび上がらせようとしているのだ。つまり、自然を理解する際、確かめようもない推測ではなく、観察や実験に基づいて客観的に検証する現代科学の発想は、そもそもどのように編み出されてきたのか。その次第を見てみようというわけである。
 科学の歴史はしばしば成功や発見の連続として書かれる。だが先人に学ぶことがあるとすれば、彼らが世界を説明しようとしてどんな試行錯誤や失敗をしたかであろう。この点に(ちょっと強めの)光を当てる本書が面白くないわけがないのである。
原題=TO EXPLAIN THE WORLD
(赤根洋子訳、文芸春秋・1950円)
▼著者は33年米国生まれ。理論物理学者。「ワインバーグ=サラム理論」を編みだし、79年にノーベル物理学賞。
《評》文筆家・ゲーム作家
山本 貴光

文藝春秋 20166月号に著者と福岡伸一の対談あり


(書評)『科学の発見』『科学の経済学』『科学の曲がり角』
朝日 2016730500
 ■「科学とは何か?」への挑戦
 科学とは何か? それはどのように発展し、その知識にはどのような特徴があるのか?
 ノーベル物理学賞を受賞したワインバーグは、科学知識そのものに注目し、いわば科学を「内側」から眺めてその軌跡をたどる。古代ギリシャからイスラム世界を経て、ヨーロッパで花開いた科学的思考と方法の特徴は、仮説を立て、それを実際に検証し、その過程を数理的な手法で記述することだと彼は言う。科学革命以前の知的活動はこれらの特徴を満たしておらず、科学とは呼べないと一刀両断に切り捨てる。そして、ガリレオやニュートンによる近代西洋科学の勝利を高らかに謳(うた)い上げる。
 現代科学の生産する知識が、客観的・普遍的で汎用(はんよう)性が高いのはワインバーグの言う通りだ。しかし、科学の進歩の原動力を真理を発見したときの喜びにのみ帰しているのは、説得力に欠けよう。どのような知識に喜びを感じるかは、人により時代によりさまざまだからだ。
 ワインバーグとは対照的に、科学の営みを「外側」から眺めたのが、ステファンの本である。ここでは科学的知識の性質には注目せず、その知識生産活動の特徴が経済学的に分析される。教科書的な内容と文体だが、科学知識の財としての特徴や、研究費助成の効率的なあり方、基礎研究が経済成長に寄与する傾向など、興味深い論点が挙げられている。訳者解説では日本の科学活動の現状が海外との比較で分析されており、その衰退ぶりが歴然と示されている。
 さて、科学を「内側」から見るのと「外側」から分析するのとは、相反することではない。オーセルーは、両者を橋渡しすることで、科学活動をより深く知ろうとした。対象は、デンマークの偉大な物理学者ニールス・ボーアが1930年代から40年代にかけて、みずからの研究所をどのように経営したのか。手堅い科学史的作業が明らかにしたのは、研究資金を拠出する財団の方針転換と、ユダヤ人迫害によるドイツ人研究者の国外脱出という科学以外の出来事が、ボーアの知的関心に影響して研究所の運営方針の転換に至ったということだ。
 つまり、科学は内側の論理だけで進むのでもなく、外側の動向だけで形成されるのでもない。「内」と「外」の絶えざる相互作用が科学を形作っていく。
 とはいえ、ひとつの研究所のみに注目するという手法では、ワインバーグやステファンのようには科学全体を大づかみにできない。オーセルーの主張がどの程度普遍性を持っているかも、さらなる検証が必要だろう。
 科学とは何かという難問へのアプローチは、まだまだ群雄割拠の状態が続きそうだ。
 評・佐倉統(東京大学教授・科学技術社会論)
     *
 Steven Weinberg 33年生まれ。79年にノーベル物理学賞受賞▽Paula E.Stephan 45年生まれ。全米経済研究所リサーチアソシエイト▽Finn Aaserud ニールス・ボーア・アーカイヴ所長


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