ワールドカップで国歌斉唱!  いとうやまね  2016.8.22.

2016.8.22. ワールドカップで国歌斉唱!

著者 いとうやまね ともに熱狂的サッカーファン。扱える言語、歌える国歌は数知れず
いとうみほ コピーライター。武蔵野美術大卒後、外資系マーケティング会社でアートディレクター。独立後フリーライター、デザイナーとして活動
山根誠司 コピーライター。東大卒後、エンジニアとして研究者生活。その後フリーライター及び講師として活動

発行日           2002.5.31. 第1版第1刷発行
発行所           ベースボール・マガジン社

第1章        カンピオーネ We are the champions-my friends
ü  フランス 『ラ・マルセイエーズ』
歌詞が過激で、これまで何度も詞の改正が議論されてきた。1989年の革命200周年や92年アルベールビル五輪の際など
1792年 革命軍工兵大尉ルージュ・ド・リールによって作詞作曲。革命に介入した西欧諸国に対し宣戦布告した年、ストラスブールの市長の依頼でつくられた軍歌で、原題は「ライン軍のための軍歌」だったが、マルセイユから来た義勇軍がこの歌を歌ってパリに入場して一躍有名になったところから『ラ・マルセイエーズ(マルセイユ軍の歌)』と呼ばれるようになった。95年第1共和政政府により国歌として宣言
ナポレオンとナポレオン3世の時代には禁止されるが、革命とともに復活、正式に国歌として採用されたのは1875年の第3共和政成立の時
Marchons, marchons         マルショーン、マルショーン
Qu’un sang impur             カーン サン アルビュール
Abreuve nos sillons           アー ブルーヴ ノショーン

ü  イタリア 『マメーリの讃歌』
作詞者ゴッフレード・マメーリはイタリア統一戦争に義勇軍兵士として参加した詩人で、従軍中に作詞しただけに祖国統一の情熱と強気がみなぎる
作曲者はミケーレ・ノヴァロ。詞の内容に興奮し一晩で書き上げ、あっという間にイタリア各地に広がり、仏墺介入への抵抗の曲となっていった
19世紀半ば、ガリバルディ率いる義勇隊「千人隊(別名赤シャツ隊)」が革命を支援、マメーリもそこに属していた。統一の主軸になったのはトリノを首都とするサルディニア王国。中南部を統一したガリバルディ部隊がそれをサルディニア王国に献上し、1861年サルディニア王国のエマヌエーレ2世が「イタリア王」を宣言し統一が成立
正式に国歌となったのは1948年、共和国発足の1年後

ü  アルゼンチン 『オイー・モルタレス!
作曲は、当時アルゼンチン在住のスペイン人ブラス・パレーラ、作詞は詩人のプラーネス(後の大統領)
原題は『愛国行進曲』
1808年 スペインがナポレオンに侵略されたのを機に独立運動が起こり、2年後の「5月革命」を経て16年「リオ・デ・ラ・プラタ(銀の川)連合」として独立
アルゼンチン国旗はその時の革命軍の帽章のデザインから来ている
1900年 スペインに対する怒りや軽蔑的表現が多かったところから歌詞を見直し
南米の国家は一様に長いが、アルゼンチンはその最右翼。9番まであるが、現在歌われているのは1番のみ

ü  ブラジル 「イピランガの岸辺は聞いた」
アルゼンチンほどではないが長大で、言葉も多く変拍子もあり難しく、まともに歌える選手は少ない
イピランガはサンパウロ郊外にある丘。1822年ドン・ペドロ1世が独立を宣言した聖地。ポルトガルがナポレオンに征服された際、ポルトガル王はブラジルに逃れ、ブラジルとの連合国を樹立、リオを首都として自由貿易や国土開発などにより一気に繁栄させる。ナポレオン没落後、ポルトガル王は本国に戻りブラジルはまた植民地に格下げされるが、統治を任された皇子は本国からの独立を狙い、ペドロ1世として初代皇帝に就く。息子のペドロ2世の半世紀に及ぶ統治の後は共和制に移行
作曲はリオ生まれのダ・シウバ。帝政時代の国歌を共和制に替わった際、詩人ドゥケ・エストラーダが作詞し直したもので、国歌として承認されたのは1922年の独立100周年の時

第2章        ラテンの血が騒ぐ La Vida Loca
ü  ポルトガル 『ア・ポルトゲーサ』
大航海時代の栄光をうたったもので、作詞はデ・メンドンサ、作曲はアルフレッド・ケイル。1891年カルロス1世の即位直後に作られ、「革命歌」として広まったため、国は演奏を禁じたが、革命の勢いは増し、1908年カルロス1世が暗殺され、10年には共和国が成立、『ア・ポルトゲーサ』が国歌として承認

ü  スペイン 『ラ・マルチャ・レアル』
歌詞がなく、発祥も不詳で、起源に関する諸説紛々
1770年 国王カルロス3世が元々あった『歩兵の行進曲』を『スペイン王の行進曲』として採用したのが正式な国歌の始まりとされる
フランコ政権で独裁を賛美する歌詞がつけられたが、それを抜いたものが現在の国歌
法的に制定されたのは1981
フランコ時代に「伴奏法」が定められ、1942年著作権登録されたため、60年間は演奏の都度使用料が発生する

ü  メキシコ 『メキシコ合衆国国家』
1810年 クリオーリョ(現地生まれのスペイン人)のイダルゴ神父による独立宣言
3代目の大統領サンタ・アナがコンクールを開催して国歌を作る。歌詞は10番まで
米墨戦争で大敗、領土の半分以上を失った時に出来た
作詞はメキシコ人詩人ボカネーグラ、作曲はスペイン人音楽家ハイメ・ヌノー
1854年 独立記念日前夜に公式に国歌としてお披露目

ü  ウルグアイ 『ウルグアイ東方共和国国家』
前後にコーラスを配し歌詞は11番まであるが、歌われるのは前後のコーラスと1番のみ
歌詞に「オリエンタレス」と出てくるのは「ラプラタ川の東方に住む人」の意で、ウルグアイ人のこと 
1810年の5月革命後、アルゼンチンとは別の道を行き、アルティガス将軍の下で共和制実現のための独立運動に走る。スペインから独立うしたがブラジルの侵略に遭い、アルゼンチンの支援により盛り返し、最終的にはイギリスの調停で1830年独立
現在の国歌はこの戦いの直後に作られた
作詞はモンテビデオ生まれの詩人フィゲロアで、「愛国歌」が1833年国歌として認められたが、曲は特定されず、いろいろな曲に合わせて歌われた
1840年、初代大統領リベラの軍隊の音楽家だったハンガリー生まれのデバリの曲と組み合わせて1848年に国歌となった
フィゲロアとデバリのコンビはパラグアイの国歌も手掛けるが、その数年後には両国間に戦争勃発

ü  パラグアイ 『パラグアイ共和国国家』
土着のインディオであるトゥピー・グアラニ族の住む地域で、現在のパラグアイ人はほとんどグアラニ属とスペイン人との混血で、グアラニの血や文化を誇りにする
ワールドカップの南米予選の対ブラジル戦でチラベルトがロベルト・カルロスに唾を吐いて4試合出場停止になったが、カルロスから「…グアラニ野郎」と許しがたい言葉を浴びせられたための行為だった
公用語もスペイン語とグアラニ語
国歌は1846年、当時のパラグアイ大統領アントニオ・ロペスに寄贈されたもので、3世紀に亘るスペイン支配下の苦悩と独立戦争を歌ったもの
パラグアイの独立戦争は他の中南米諸国より早く、1717年には始まっていた
5月革命後アルゼンチンがパラグアイを併合しようとして抵抗、1811年に漸く独立を果たす
                                                            
第3章        サッカーの母国 No Future?
ü  イングランド 『God save the Queen
スコットランドは『Flower of Scotland』、ウェールズは『Hen Wlad fy Nhadau(祖先の土地)』、アイルランドは『Danny Boy
God save the Queen』は5番まで、ふつう歌うのは1番のみ
作者不詳。初演の記録が1745年との記録あり、世界1古い国歌と言われる
背景には「名誉革命」と「ジャコバイトの反乱」がある
エリザベス1世の後に王位に就いたスコットランド出身のスチュアート王朝が名誉革命を通じて安定王朝を続けたが、一族が滅びてドイツから来たハノーバー朝となったあと、スチュアートの残党がジャコバイトの反乱によって王朝を脅かす
王朝軍が敗れたとの報にロンドンの劇場で毎夜繰り返し演奏されたのが現在の国歌
封印された6番にはスコットランド人を刺激するような一言があり、それが原因でスコットランドは別の国歌を歌う

ü  スコットランド 『Flower of Scotland
同国の人気フォークグループが1974年に出した曲。作者はロイ・ウィリアムソン
スコットランドの花はアザミ。旧王家のエンブレムでもある
侵入してきた裸足のヴァイキングを撃退したのが、アザミのとげとげだった
13世紀後半、王不在のスコットランドにイングランドが侵入、歴代王の戴冠式に使われた「スクーンの石」まで戦利品として取り上げたことに反発したスコットランド人の「反イングランド感情」が高揚
1314年、『Flower of Scotland』のモチーフとなった「バノックバーンの戦い」で、劣勢のスコットランド軍が快勝、軍を率いたロバート・ブルースが国王となる
1707年、連合王国となる
英国国歌の6番には、「反抗的なスコットランド人を叩きのめせ」との1行がある

第4章        ビバ! 中・東欧 Do toho!
ü  ポーランド 『ドンブロフスキのマズルカ』
ユーゴスラビア国歌と同じメロディ
原題は『在イタリアポーランド軍の歌』で、1797年ドンブログスキ将軍に率いられたポーランド軍が南イタリアからポーランドに向けて出発するのを記念して作られた
16世紀にはリトアニアと連合国をなし、穀物の輸出などで豊か、ルネサンス文化も花開いたが、17世紀半ば過ぎからスウェーデンとの戦争や反乱で荒廃、露普墺がつけ込んで国土が分割され国が消滅
ナポレオンの時代にポーランド独立軍はフランスに頼って国土の奪還を図るべくナポレオン軍傘下の南イタリアで蜂起。ワルシャワ公国の設立に成功するが、ナポレオンの没落とともにまた国が消滅。漸く独立を果たすのは1918年で国歌が非公式に認められたが、第2次大戦でまた国が消滅、1948年社会主義国として再生、公式に国歌に
作詞はヴィビッキで将軍の側近、メロディは伝統的なマズルカの1つからとった

ü  クロアチア 『麗しき我が祖国』
ユーゴから分離独立したのは1991年だが、国歌の起源は19世紀
作詞はミハノビッチで、1835年当時の原題は『フルヴァッカ・ドモヴィナ/クロアチアの祖国』で、全14節のうち最初の2節が1番、最後の2節が2番として国歌に
作曲はルニャニンで、ドニゼッティの《ランメルモールの花嫁》の1節をとったとも
作詞当時のクロアチアは、ハプスブルグ支配下のハンガリーの下で自治国をなしていたが、知識人による母国語救済運動の真っただ中にあり、ミハノビッチのクロアチア語による詩もその流れの中で生まれた。クロアチア語は1847年公用語に認定
その後クロアチア語と似ているセルビア語との間で言語統一運動が起こり、「セルビア・クロアチア語」が誕生し、旧ユーゴスラビアが崩壊するまでの公用語となる
1次大戦後、セルビアとクロアチア、スロベニアが合体して王国を作り、国名が「ユーゴスラビア王国」となったがうまくいかず、そのまま第2次大戦でナチスに占領
クロアチアはナチスの下で傀儡政権を樹立、セルビア人、ユダヤ人に対して殺戮を繰り返したことが今でも問題になっている
戦後6つの共和国が「ユーゴスラビア人としての共生」を旗印にまとまるが、次第に民族運動が激化、『クロアチアの祖国』を歌うと逮捕される危険があったため、『監獄行きの歌』と呼ばれていた
経済力の高いクロアチアは独立を狙うが、セルビアなどでは死活問題であり、漸く91年になって独立、国歌が承認されたのはその1年前

ü  ロシア 『聖なる我らが祖国』
旧ソ連時代の国歌の歌詞を変えて引き継いでいる
作られたのは第2次大戦終盤の1943年。スターリングラードの攻防戦に勝利した後、国歌全国コンクールの優秀作品の中から選んだ
作曲はアレクサンドロフ。オリジナルの作詞はミハイロフとエリーレギスタンで、スターリン自ら編集。その後の変更もすべてミハイロフ本人が行っている
ロシアになった際、エリツィンがグリンカの《愛国の歌》を国家にしたが、歌詞もなく不人気で、プーチンになって旧国歌が復活
現在のロシア国旗は1991年に復活したもので、下から赤・青・白となっているが、ロシア人はそれぞれの頭文字をとって「カーゲーベーKGB」と呼ぶらしい

ü  トルコ 『独立行進曲』
トルコがヨーロッパサッカー連盟UEFAに加盟したのは1962年。以降、ドイツが大量の移民を受け入れ始めたこともあって急速に西欧化
詞のモチーフは191922年の祖国独立戦争
1次大戦の惨敗の後国を立て直そうと立ち上がったのが、後に「アタチュルク(トルコの父)」と呼ばれるムスタファ・ケマル。解放軍を組織し国民会議を召集。作詞者のエルソイも議員の1人。1921年公募の中から国歌として議決された
114音節で韻を踏む格調の高いもの、原詞は10番まであって独立への強い意志と誇りが感じられる逸品
メロディは3年後に決定し8年使われたが、その後大統領交響楽団の指揮者でもあった新進作曲家ウンギョル作の現在のものに変更
1923年、共和国宣言し、連合国から主権を回復
アタチュルクの法改正により、全ての人が宗教と信仰の自由を与えられ、自分の意志に反して宗教上の儀式への参加を強制されない。イスラム国なのに酒も自由

第5章        ダークホースだなんて言わないで neigh, neigh
ü  ドイツ 『ドイツ連邦共和国国家』
作曲はハイドン。元々1797年オーストリア皇帝に捧げた《皇帝四重奏》の第2楽章がベース。オーストリア国歌となり、1922年にドイツ国歌へと受け継がれ、ナチスに利用されたこともあったが、現在も「ドイツ統合の象徴」として歌い継がれる
作詞はファレスレーベン。ロマン主義の詩人で1841年発表の『世界に冠たるドイツよ』がベース。大国オーストリアの圧力の下で、自由と国家団結を求めて立ち上がった知識層の1人。特に1番は連邦国家の統一と共和制への希望を歌う
元々3番まであるが、現在公式に認められてるのは3番のみ
1番が歌われないのは、ドイツの国域の広すぎる表現があるため
2番は、「ドイツの女性、ドイツのワイン…の伝統を保ち続けよう」との歌詞
1949年、西ドイツ成立の際、国歌として3番のみが採用
1991年、東西統一後、ワイツゼッカー大統領が国歌として正式に認証

ü  アイルランド 『兵士の歌』
エリザベス1世の父ヘンリー8世が自ら離婚するためにローマ・カトリックをやめてイギリス国教会を創設するが、信心深いアイルランド人は納得せず反発したために、1540年イングランドによる植民が始まる。特に多くの入植があったのが北アイルランドのアルスター地方で、いまだに両者の紛争が続いている
ピューリタン革命でも、クロムウェルがアイルランドを侵食
1800年にはイギリスの一部に編入。さらに大飢饉が襲う。その前後の民族運動の中にあった「ニュー・ロスの戦い」が現在の国歌『兵士の歌』のモチーフ
19世紀末、独立運動と相俟って始まる「文化復興運動」を掲げる団体の1つ「ゲール語同盟」の1員だったのが作詞者のカーニー。後に所属した独立の原動力になる組織「オリバー・ボンド1798クラブ」という活動家集団のための革命家として1907年作詞
作曲者ヒーニーともそのクラブで知り合う
「ニュー・ロスの戦い」は1798年、イギリス軍に奪われたニュー・ロスという町の奪還を目指して戦った勇敢な兵士たちの戦闘前夜の詞。2000人以上が死んで失敗に終わる
1916年のイースター蜂起では義勇軍の行進曲として歌われ、自治領の権利を得た後1926年正式に自治領国歌として承認。完全独立はまだあと

ü  カメルーン 『団結の歌』
作者は3人の師範学校生。作詞はアファム、作曲はバンバとニャッテ・ンコー
ドイツの保護領だったが、第1次大戦後東カメルーンはフランスの、西はイギリスの委任統治領に
国歌は、フランス統治下で作られたので仏語、カメルーンの自由と団結を願う内容
2次大戦後はそれぞれ信託統治領となり、57年カメルーン人による「立法会議」が生まれ、国旗、国歌、通貨を制定
60年、東カメルーンが「カメルーン共和国」として独立したのを皮切りにアフリカ17か国が一斉に独立し「アフリカの年」と呼ばれる。西は61年独立するが、その際住民投票により北部(イスラム教圏)は隣の英語圏のナイジェリアに、南部(キリスト教圏)は独立してカメルーン共和国と連邦国家となった
当初の国旗の2つの星は東西の2地域を象徴していたが、連邦共和国でも同じ2つ星の旗を使う
72年、連邦制から1つの「カメルーン連合共和国」となり、その3年後現在の1つ星の国旗となり、84年に国名も「カメルーン共和国」となる
現在国歌には、英語圏の人たち様に英語バージョンもある

第6章        ホスト国の憂鬱 together
ü  韓国 『愛国歌(エグッカ)
大韓民国成立の1948年に国歌として誕生
4番まである詞は、韓国の美しい自然を称え、平和な国を願う、穏やかな作品だが、内には韓国民とともに越えてきた困難と戦いの歴史がある
作詞者は不詳、朝鮮王朝の高宗皇帝の時代から存在
日清戦争後の1896年、「大韓帝国」として完全独立を示すため「独立門」を建てた際の起工式で歌われたのが現在の愛国歌の元になった歌詞のついた歌
その歌にはスコットランド民謡《Auld Lang Syne》のメロディがついていた
キリスト教が朝鮮に入ったのは1784年、その後の弾圧を経て、1876年鎖国が解けるとプロテスタントが広がり、教会が運営するミッションスクールには「西洋への扉」として知識人や学者たちが集まり、真っ先に行われたのが賛美歌に韓国語の歌詞をつけること。最初は翻訳が主だったが、次第にオリジナルの詞をのせるようになる
1910年、日本による韓国併合で、エッケルト作曲の大韓帝国国歌は禁止されたが、地下では対日抵抗の歌として歌い継がれる
現在の曲は、安益泰(アン・イクテ)。日本の国立音大卒後ヨーロッパで指揮者として活躍中。1935年の作曲で、在外韓国人の間に広まり本土にも秘密裏に逆輸入され、45年の独立とともに事実上の国歌となる

ü  日本 『君が代』
作曲者は特定されているが、作詞者及び歌詞の解釈や歴史は諸説ある
明治初期、天皇の関西行幸の際、海外では国家が演奏されるのが通例ということから、急遽海軍のお抱え英国人音楽教師に作曲させ、歌詞に選んだのが薩摩琵琶歌集の中の『君が代』で、最も古い資料としては古今集第7巻の賀歌の中にあるものがオリジナルとされている
出来が不芳だったところから、宮内省雅楽課に作らせたのが現在の国歌
作曲者は、公的には楽長の林広守とされるが、実は息子の林広季と奥好義の合作
そのメロディに和声を付けたのがドイツ人音楽家のエッケルト
和歌に曲をつけて雅楽風に編曲した「催馬楽(さいばら)」や、漢詩に曲を付けた「朗詠」辺りが『君が代』の源流
「さざれ石」は実際に存在する。学術名「石灰質角礫岩」で、岐阜県春日村の「さざれ石公園」に祀る岩が天然記念物になっている。平安朝の文徳天皇(在位85058)の皇子・惟喬親王の命で良材を求め、春日村の岩を探し当てて詠んだのが古今集に詠み人知らずで発表された歌。身分が低かったために詠み人知らずとされたが、この歌が認められ、石に関連して藤原朝臣石位左衛門と改名

第7章        裏ワールドカップ
ü  オランダ 『ヴィルヘルムス・ファン・ナッソー』
15番まである長い国歌、通常は1番のみ歌う
内容はオランダ独立戦争(80年戦争)16世紀スペインのハプスブルグ家の支配からプロテスタントのオランダが反発。オラニエ公が暗殺された後、スペインの無敵艦隊が敗れたのを機に1609年独立を勝ち取る
建国の父は、ドイツの名門ナッソー家出身のオラニエ(オレンジ)家のヴィレム
ユニフォームのオレンジ色もここから来ている
作詞はマルニクス。15番のそれぞれの頭文字を繋げたものが題名になっている
作曲者は不詳。フランス軍歌とか民謡とか諸説あり

ü  チェコ 『私の故郷はどこに』
1834年ハプスブルグ支配下で誕生した国歌
最初の王国が出来たのは7世紀。10世紀にはプラハ中心にボヘミア王国建国。13世紀には神聖ローマ帝国の傘下に入り、プラハはヨーロッパの中心都市として栄える
もともと上流社会にはプロテスタントが多かったため15世紀初頭にフスの乱が勃発、フスは処刑されるが「反ローマカトリック」「反ドイツ的チェコ民族主義」の思想は残る
30年戦争の結果ハプスブルグ支配下となり、カトリック以外の宗教は禁止され、プロテスタントは国外へ
18世紀後半、国のドイツ化に危機感を感じた知識人たちによる民族運動が活発化、特にチェコ語の復興に注力
作詞者のヨゼフ・カイェターン・ティルは、チェコ語復興運動の中心的メンバー。劇作家で散文作家、ジャーナリスト。彼のチェコ語で書かれた代表作の戯曲《靴職人の祝日》の劇中歌『私の故郷はどこに』がそのままチェコの国歌となった
作曲はこの戯曲の音楽を担当したシュクロウプ
1次大戦後の東欧諸国の一斉独立の際、チェコはスロバキアとくっついて独立を果たし、正式に国歌も制定。1番がチェコ国歌で、2番がスロバキア国歌で一緒に歌われたが、1993年両国が分離する際お互い1人立ちした

ü  ユーゴスラビア 『ヘイ! スロベニ』
旧旧ユーゴの国歌は、ポーランド国歌のメロディーと同じ、ややゆっくり目で重々しい
元々バルカン半島にはポーランド移民が多く、ポーランド国歌の替え歌が根付いた
作詞はトマシェク。汎スラブ主義に基づく内容で、19世紀半ばに「スラブ連合の歌」として採用されたが、国によって思惑が違い、共通するのは周りの強国に対し自国を守るため団結しようということ
2次大戦後、王制が廃止され「ユーゴスラビア連邦人民共和国」樹立。スラブ民族の団結を歌う『ヘイ! スロベニ』が国歌として承認
共和国をまとめていたチトー大統領の死去と共に6つの共和国は順次独立、当初のユーゴ(旧ユーゴ)は崩壊、2か国で「ユーゴスラビア連邦共和国」がスタート

ü  ルーマニア 『目覚めよ ルーマニア人』
紀元106271年、ローマ帝国支配下でダキア人やトラキア人との混血が進んだ結果、ローマの公用語のラテン語を用いるルーマニア民族が形成されたところからルーマニアの人々はローマ人の正統な末裔を主張する
15世紀にはオスマン・トルコの、その後はロシアの支配下に入り、ルーマニアの抵抗と独立の歴史が始まる
国歌のモチーフになっているのは、フランスの2月革命の影響で起こった1848年のワラキア公国での革命。隣のモルドヴァ広告と共に独立のために立ち上がる
作詞はロマン派の詩人ムレシャーヌ。作曲はアントン・パン
革命はロシアとトルコにより鎮圧されるが、これを機に統一、近代化への道が開け、1861年には2公国が新統一国家宣言。1881年にはプロイセンから王様を迎え「ルーマニア王国」がスタート
2次大戦は戦勝国側にいて領土を拡大するが、第2次大戦では敗北、王制が廃止され、47年には人民共和国となる
89年チャウシェスクが倒され、新生「ルーマニア」が発足。国歌制定は新憲法制定より1年早い90
平和への長い道のりだったが、どうりで国歌も重くて暗い

ü  チリ 『チリ共和国国家』
作曲はスペイン人カルニセール、作詞は詩人のエウセビオ・リーリョ
カルニセールは、チリ独立戦争時代の人でチリには行ったこともなく、政治犯としてロンドンに亡命中だった
リーリョはサンティアゴ生まれで独立後の人
独立は1808年のナポレオンのスペイン侵略が契機で、独立運動の中心になるのは本国に搾取され続けていた植民地生まれのスペイン人、クリオーリョたち
独立の立役者はサン・マルティン。アルゼンチン生まれのスペイン育ちで軍人、南米の独立運動とともに1812年アルゼンチンに戻り、チリ経由ペルーまでスペイン軍を撃破、1818年チリは独立を果たす
2代目の大統領の時、在ロンドンチリ大使が有名音楽家だったカルニセールに作曲を依頼、1828年完成。詞は反スペイン一色の別の作品
独立後のチリでは民主主義への運動が起き、そこに加わっていたのがリーリョで、1847年に反スペイン色の詞に手を入れ6番まである大作を完成。その後2度ほどマイナーチェンジを経て現在の国歌となったが、歌うのは5番とその後のコーラス





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