白い航跡  吉村昭  2016.8.15.

2016.8.15. 白い航跡 上・下

著者 吉村昭

発行日           91.4.1. 第1刷発行
発行所           講談社

上巻 慶応4(1868)13日、薩摩、長州、土佐、芸州各藩の倒幕軍の砲撃によって戦端が開かれた鳥羽、伏見の戦いは、戊辰戦役として全面戦争に拡大した

奥羽越列藩同盟の抵抗を撃退するため、新政府軍は3手に分かれて北上。高木は平潟(現・北茨城市)に集結した薩摩藩小銃九番隊付きの医者として参戦
慶応2年、医師を志した兼寛は、長崎で7年間蘭方医学を学んだ石神良策の門下に入る。蘭方医でありながら漢方医学にも優れた点を認めた石神は、長崎で覚えた英語の初歩も伝授してくれた
若松城の落城で一旦兼寛も東京に引き上げ、横浜の軍陣病院の頭取になっていた石神を訪ねる。病院にはウィリスという英人医師が最新の西洋医学に基づく治療を施している
ウィリスは、1837年アイルランド生まれ、エジンバラ大卒後、1861年駐日英国公使館付き医官として来日。翌年遭遇した生麦事件とそれに続く薩英戦争で活躍、その後薩英関係の進展とともにウィリスは薩摩藩士との交流を深め、鳥羽、伏見の戦い以降その存在感を高める
兼寛は鹿児島に凱旋後、更なる医術の勉強に励むため、故郷の日向を離れ薩摩藩が創立した開成所(後に造士館に併合)の洋学局に入学。授業は英語で行われ、オランダ語の時代が去り、西欧の学術を吸収するには英語が必須であるのを知る。西洋医学と言えばオランダ医学を指していたのもすでに過去の
ものとなっていた
明治2年、新政府は医学校取調御用掛を設け、本格的な医学校を創設するための調査を始める。幕府が、西洋医学の学校兼病院だった長崎の医学所を主宰するオランダ陸軍1等軍医のボードインに海軍病院設立の支援を依頼したのを引き継いでもらおうとしたが、新政府が旧幕府の昌平黌を昌平学校と改め、その中にある医学校兼病院はウィリスが主宰、石神が取締りとして運営を司っていたため、ウィリスは薩摩藩が引き受け、新たに設置された医学院を主宰させた
明治3年、兼寛はウィリスの下で研鑽を積む
ウィリスは、薩摩藩内の漢方医の巻き返しにあって不遇な面もあったが、熱心に治療に取り組む  当時最も多い病気は性病。皮膚病では皮膚を清潔に保つように指導したり、患者の栄養状態好転のため牛肉を煮て食べることも勧めたり、牛の屠殺処理を改善したり、不純な飲料水と不完全な排水設備の改善を訴えたりした。さらには難産で死亡する妊婦を救うため胎児を取り出す器具を横浜から取り寄せたりした
明治2年、陸海軍を総理する兵部省が設置され、薩摩出身の川村純義が海軍掛の総括者となり、付属の医務機関である軍医寮の責任者に石神が就任。イギリス海軍の制式を採用
ウィリスは、薩摩藩主の侍医の娘と結婚までするが、明治15年に帰国。その後シャムに8年勤務するが病を得て帰国、そのまま病没。不幸な末路を辿るが、夫人も二度の再婚に敗れ、日本に母を探しに来て帰化した息子に支えられて生きた
廃藩置県で、薩摩藩は鹿児島、都城、美々津の3県となり、藩校は文部省の管轄下に置かれる
石神の推挙で、兼寛は軍医寮から発展した海軍病院の委員になり、24歳のとき英学者で外務省高官の娘と結婚
海軍病院で目立つのは脚気患者で、入院患者の3/4近く、これといった治療法もないままに重症患者は心臓疾患を併発して死亡していた
陸軍は、戊辰戦争で幕府側についた佐倉順天堂創設者佐藤泰然の次男松本良順が順と名を改めて軍医の最高指導者となっており、配下には門下生の石黒忠悳がいた
文部省の医学教育部署としては医務局が新設され、大村藩士で長崎で西洋医学を学び、欧米の医学制度を視察してきた長与専斎が初代局長に就任。文部省、陸・海軍省の医務機構が整備された
文部省、陸軍省はドイツ医学を全面的に採用、海軍省はイギリス医学を受け入れ
明治6年、毎年初夏になると脚気患者が激増するが、その患者の解剖をした記事が横浜の新聞に載ったのを兼寛が目に止める  脚気の原因は心臓病によるものと論じられたいたが、解剖の結果心臓は正常であり、血液の変質が原因ではないかと思われる
鹿児島でも脚気患者は多かったが、ウィリスもお手上げで、日本の風土病とされただけで、病因も治療法も不明のまま放置されていた
明治8年、英国留学、セント・トーマス病院に入学。英語の素養が役立ち、成績優秀者として明治10年にはクリニカルクラークに任命、さらに首席となる
実地に即した教育で学力は着実に向上する一方、貧しい家の患者への無料の医療行為が西欧諸国で行われていることにも関心を持つ
さらには、看護婦の存在と、医師の協力者となって動くその資質の高さにも驚く  セント・トーマスの看護学校の創設者はナイチンゲール。クリミア戦争の功績から彼女のもとに寄せられた多額の基金によって1860年に創設
兼寛は、外科、内科、産科の医師の資格を得るとともに、明治12年には同病院附属医学校の最高外科賞牌と金賞牌を手にし、名実ともに医学校で最も秀れた医学生となる
イギリス外科学校のフェローシップ免状を授与されたが、それは外科医の最高の栄誉とされる学位で、医学校の教授になる資格も得た

下巻 115日、汽船は、横浜沖に投錨した。兼寛はトランクと洋傘を手に甲板に出て横浜の家並みを見つめた。無事に留学を果たして帰国した満足感と同時に、母、長女、義父を失った悲しみが胸に迫った
明治13年、帰国。中佐待遇で海軍病院長に就任
日本の医学界は、海軍を除きドイツ医学一色だったが、ドイツ医学は基礎医学に優れ特に細菌学に目覚ましい業績を上げていたが、実証主義を基本とする臨床医学に優れたイギリス医学にも多くを学ぶ必要があった
病院長の職務の傍ら、脚気の研究を進める  欧米には見られず、東洋のマレイ半島、シナ、ジャバ、日本に見られ、特に日本に多い。元禄年間江戸で大流行し「江戸わずらい」と俗称された。都会に多く、激症脚気の流行した京都では短期間に死ぬので「3日坊」とも言われた。将軍家でも3代家光、13代家定、14代家茂が重傷の脚気にかかり、心臓麻痺で死亡
明治11年、天皇の内意を受け、脚気病院を設立。洋方、漢方共に参加して研究を競うが、原因を突き止めることはおろか治療法も見出せないことが分かり病院は閉鎖へ
明治9年、ベルツは脚気を微菌によるもの、つまり伝染病説をとっているが推測の域を出ない
兼寛は、過去の罹病状況を調査、海軍総兵員5000人前後の1/3が罹患、特に大流行した明治10年には総員1552名中延べ6344名が罹患、同じ者が年に4回以上も脚気に侵されていることを知って愕然
季節との関係や、配属部署による差異、衣類、食物、住居との関係も検討
北海道方面を行動していた軍艦で134日の航海中、脚気患者が53名発生し、内49名が死亡するという悲惨な事実を精査した結果、季節性も気温との関係もないと断定
海外への練習航海で、現地寄港中には何事もなかったのに、帰航途中から脚気患者が急増していることに注目、寄港中は洋食を口にし、帰路は和食になったことが原因ではないかと思い、海軍全体の脚気発生状況と食事との関連に焦点を絞って調査
海軍病院の入院患者は水兵に限られ、士官は極めて少ないことに注目、水兵の食物が極めてお粗末なことを知る。水兵は、米飯を多くとり、副食は僅か。雑穀を食べるのに慣れていた地方出身者が多く、海軍に入って白米を口にできるのを喜んでいた
米飯偏重、副食軽視の実態は、幕府以来の海軍の兵食制に基づくもので、当初主食は品給として1日白米6合だが、副食は金給、明治5年からすべて階級に応じた金給となるが、米は一括購入で分担金を支払い、残りを副食に当てることとされたため、水兵は大半を貯蓄に回したり故郷への仕送りに当てたりしていた
水兵の摂取する食品を分析精査した結果、蛋白質が極めて少なく含水炭素(米飯)が遥かに多いことが判明、脚気患者の多発する部署では窒素と含水炭素の割合が、適正値の窒素1対含水炭素15に対し130にもなっている
脚気の研究と並行して、貧しい病人を無料で治療する施療病院の設立を呼び掛け、天皇からもご下賜金もあって順調にスタート、兼寛他が無報酬で治療にあたった。同時に伊藤博文夫人らの尽力で看護婦養成機関も併設。病院施設は後に皇后がその趣旨に賛同して自ら総裁になることを引き受け、名前を東京慈恵病院と改称
明治15年の京城事変の際、派遣された軍艦内の将兵に脚気が多発したことに海軍省内は騒然、兼寛は肉食中心の洋食を実験的に取り入れることを提案。当初は洋食に拒否反応を示した者もいたが、結果は明らかに洋食組の健康状態が良好と判明
明治16年、兼寛は、海軍の兵食制の変更と洋食導入を有栖川宮に直訴、さらには憲法調査で渡欧から帰国直後の伊藤博文から、天皇にまで上奏、自身や天皇家内にも脚気患者が多かったところから、一層努力するようにとのお言葉をいただく
明治17年、海軍兵食の金給制度廃止。同時に食材内容も吟味した練習航海を年初の練習航海と同じ日程で実施、乗組員378名中169名が発病、うち23名死亡した例と比較、333名の健康な乗組員を厳選した結果、行きがけの軽傷1名のみ、多発した帰路では皆無となり、兼寛の主張が正しかったことが証明された。発症者15名のうち8名はいずれも肉を全く食べていなかった
全艦船、兵舎、軍学校等についても、海軍卿からの通達により支給される食物の種類、量が決められた結果、海軍総員5638名のうち年初6か月の発症者は145名で、前年の525名に比し激減。通年でも718名の発症患者のうち死亡8名となり、前年の1236名中死亡51名、前々年の1929名中死亡51名に比べ効果は明白
パンや肉を嫌って規則に従わない者に対しては、米飯に麦を混ぜる方法で対処したが、脚気根絶のためにパン食への切り替えを進めようとするが、経費の増加と兵の食習慣の2点で実行は困難を極める
一方、東大では脚気病菌発見の論文が発表され、陸軍の石黒軍医監も黴菌による空気感染説を主張。生理学者や医学者もこぞって兼寛の主張に反論
明治18年の発症者は、海軍総員6918名中41名で死亡はゼロ
陸軍の兵員数は海軍の6倍強、脚気の発生率こそ海軍の1/10以下だったが、患者数は明治15年が7884名で死亡204名、16年が9935名中235名、17年が10225名中209名、18年が6609名中63名。米が最高の主食であり、それが強兵を作る基本とされた
兼寛の食物原因説には学問の理論的裏付けがないのが説得力を欠いた理由
大阪鎮台の野外演習で多数の兵が脚気症状を示し、急性かつ重篤となったが、それを憂えた大阪病院長が、かねがね監獄の囚人に脚気の発症率が低いことに疑問を持ち、調べてみると主食が白米から麦の混入に切り替えられてから激減したことが分かる。元々囚人には贅沢という理由で切り替えられたものだが、思わぬ副産物となった
病院長の建議により大阪鎮台で麦混入に切り替えたところ、発症率が355.33/1000人から13.21/1000人に激減。それを聞いて半数近くが脚気になっていた近衛連隊でも、軍医長兼陸軍病院長で緒方洪庵の次男・惟準が麦飯に切り替え、広島鎮台でも切り替えが進む
陸軍では石黒が断固として黴菌説に固執、それを支持したのが陸軍からドイツに留学していた森林太郎1等軍医
明治19年は、海軍総員8475名中発症者3名、いずれも軽症。近衛連隊でも発症率は3年前の486.56/1000人に対し29.11人と激減
幕府の医学所で学び、薬学に興味を持ったのが福原で、新政府軍の東京大病院の中司薬となる。さらに海軍病院に移り薬局掛となるが、同時に松本良順の知己を得て西洋薬舗会社資生堂を起こす。大日本製薬の専務取締役となり、銀座に資生堂の調剤薬局と階上に医院も開業。兼寛は福原の紹介で帝国生命保険の創設にも出資参加
明治21年、第1回の博士の学位授与  法・医・工・文・理の5学位計25名で、兼寛も5人の医学博士の1人に選ばれる
陸軍からドイツに留学し、コッホの衛生試験所に入って細菌学を学んだ森林太郎が帰国し、陸軍医学校の教官に就任、早々に兼寛の食材原因説に異を唱え始める
明治22年、不平等条約改正案の不満分子によるテロに襲われて負傷した大隈を、通りがかった兼寛が手当、踵の骨が砕けていて膝から下を切断せざるを得なかった
明治24年、大津事件に関連してロシア皇太子の治療に派遣されるが、ロシア側は謝絶
同年、海軍兵食改善の努力により勲2等瑞宝章
明治25年、貴族院議員に勅選。予備役となって海軍軍医総監を辞任
自ら設立した東京病院の院長に就任。東京慈恵医院の院長を兼任。東京随一の総合病院となり、院内の薬局は資生堂に一任
明治27年の日清戦争でも海軍は米食を避け麦食に徹したため、出動総人員3096名中罹患したのは34名、うち死亡1名に対し、陸軍は白米16合のままで、戦死977名、戦傷死293名に加え、病死20159名。罹患者の最多は脚気で34783名、次いで急性胃腸カタルとマラリア
陸軍の脚気による死者は3944名。朝鮮に行った第1軍は食糧補給が困難で現地の精白しない朝鮮米に粟、小豆などを混ぜて支給、清国に行った第2軍は白米も副食も十分に支給され、台湾征討軍では白米はあったが副食は貧弱。それぞれの死者数は、第1軍が142名、第2軍が1565名、台湾征討軍が2104
出動した兵の10人に2人が脚気患者となったところから、兵食を根本的に改正すべきとの声が高まる。中枢部は依然として森林太郎の陸軍兵食試験で立証されたとして米食に固執したが現場では次々と麦飯が採用され、脚気患者がほとんど見られなくなった
2軍では、現場からの麦飯要請に対し、食料を統轄していた兵站軍医部長が森だったために要請が却下された
明治33年、皇太子ご成婚に伴う授爵では、60人に男爵が授けられ、兼寛の後任の海軍軍医総監・実吉の名もあったが、叙勲はッ海軍の推薦で辛うじて実現したが、医学者としての授爵は東大の意向が強く働くため実現は難しかった。男爵になったのは4年後
明治36年、東京慈恵医院の附属医学校は専門学校令によって、東京慈恵医院医学専門学校に昇格
同年、兼寛の息子がイギリス留学から帰国して慈恵医学校の教授となり、大蔵官僚だった有島の娘と結婚。有島がコレラに罹患した際兼寛が危機を救ったのが縁。武郎、生馬、里見弴の父。娘も慈恵医学校の教員に嫁がせる
明治37年の日露戦争ではさらに悲惨な結果となる。海軍では戦時特別例として白米を除く食料の2割増給を下達したが、白米の上限を厳守したため軽症患者が幾分出ただけで重症患者はいなかったが、陸軍では出動総員110万名のうち戦死者47千名、傷病者352千名、内脚気患者が211.6千名。傷病者のうち死者は37200名、脚気による死者は27800名という驚くべき数字
平時には、各部隊で麦飯を採用していたため脚気患者は皆無に近かったが、戦時となると中枢部の定めた規則に従って白米を支給したため、明らかに麦飯を廃した白米一辺倒の主食が原因としか考えられなかった
明治38年、陸軍内での脚気の流行をマスコミが取り上げたこともあって、ついに寺内陸軍大臣名で白米6合のうち2合を麦で支給する旨の訓令が出される
明治39年、米コロンビア大の招きで日露戦争の軍陣衛生について全米各地で講演。脚気撲滅に関する論文が欧米で高く評価された結果であり、ローズヴェルト大統領にも謁見、コロンビア大やフィラデルフィア医科大学から名誉学位を贈られる。英国でも各地で講演、名誉学位を授与
明治41年になってようやく陸軍大臣のもとに森を会長とする脚気病調査会が発足
明治44年、帝大教授の農芸化学者・鈴木梅太郎がミネラル、炭水化物、蛋白質、脂肪には見られない新栄養成分を発見しオリザニンと名付ける。ポーランドの科学者フンクも酵母から同じ働きをするものを取り出しビタミンと名付ける。鈴木はオリザニンが脚気治療に効果ありとしたが、医学界では何の反応も示さず
医学界から医学者として認められないばかりか、軽蔑の対象にしていることに苛立ちを感じる一方、自分の見解への理解者だった明治天皇の崩御により脱力感を抱くとともに、わだかまっていた不満が堰を切って流れ出し、自らを螳螂の斧に例え、荒涼とした原野に1人佇む自分を感じた
虚脱状態にあった兼寛を生き返らせたのは、故郷で行った講演に聴衆が感動してくれたことから、同じ様な講演を各学校で行うこととなり、いずれも畏敬の念をもって耳を傾けてくれたこと。講演は国民衛生のみならず精神修養にまで及び、さらには「憂うべき国民の体質」として話すことが多くなった
大正9年、腎臓炎から肺炎を併発し死去、享年72。死後に従2位旭日大綬章授与
大正10年以降、ビタミンBによる実験が行われ、脚気がビタミンB欠乏によるものであることが証明され、細菌説は沈黙。大正14年には脚気病調査会も脚気の原因がビタミンBの欠乏によるものとの最終報告書を出す。森は大正11年に死去していた
大正10年には、外国の医学史専門書のビタミン発見史の項に、「1882年から1886年の間に、高木兼寛が食物を改良して日本海軍の脚気を根絶し、それがエイクマンとグリーンスの実験を導いた」と記され、翌年にはフンクの著書『ビタミン』の中で、1882年に日本海軍の米食を改め脚気を撲滅した経過を兼寛が発表した図表を「甚だしく啓蒙に飛んでいる」と激賞
日本ではオリザニンを発見した鈴木梅太郎によって脚気が消滅したとされたが、海外では兼寛を脚気研究開発の第1人者として、最大の敬意を寄せている
南極大陸に、高木の岬というのがあるが、その地一帯には世界的に著名な栄養学者、ビタミン研究に著しい業績をあげて学者の名が付けられた岬があり、兼寛の業績が認められて名付けられたもの。ただ、日本の極地研究所ではイギリスから知らされるまでその存在すら知らなかった

あとがき
兼寛については『日本医家伝』の中で書いたことがあるが、本人に関する資料は皆無に近かった


吉村昭「白い航跡」 東京・築地
わが海軍は 脚気のために滅亡します
2016.8.13.
 日本経済新聞 夕刊
 旧大日本帝国海軍は明治の初め、東京湾を埋め立てた築地で産声をあげた。今の築地市場、国立がん研究センター中央病院などを含む広大な敷地に本省、兵学寮(兵学校)、軍医学校、経理学校などが立ち並んでいた。
移転を控えた築地市場には未明から灯がともる=写真 伊藤航
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移転を控えた築地市場には未明から灯がともる=写真 伊藤航
http://www.nikkei.com/content/pic/20160813/96959999889DE2E4E2E1E0E3E7E2E3E1E2EAE0E2E3E49097E282E2E2-DSKKZO0603224013082016BE0P00-PB1-2.jpg

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 海軍の軍医に高木兼寛(たかきかねひろ)がいた。幕末の戊辰戦争に薩摩軍の軍医として従軍した高木は、自分が学んだ従来の医学では負傷者を治療できない無力さを痛感し、誕生間もない海軍に入る。
 そのころの海軍と陸軍は、脚気(かっけ)という見えない敵を抱えていた。「症状は足がだるく疲れやすい。手足がしびれ、動悸(どうき)がし、食欲不振におちいり、足がむくむ。さらに病勢が進むと歩行も困難になって視力も衰え、突然、胸が苦しくなって心臓麻痺(まひ)を起して死ぬ」。ビタミンB1の欠乏による脚の抹消性神経炎だ。
 本作品で吉村は、原因不明だったこの病気と闘い、ついに海軍から脚気を駆逐する高木の壮絶な人生を追った。
 明治161883)年、太平洋を往復する練習航海に出た軍艦が帰港した。「三七八名中一六九名が脚気におかされ、しかも二三名が死亡した」「海軍省の高官たちは、顔を蒼白(そうはく)にして黙りこんでいた」。いかに強力な艦隊をつくろうと、将兵が脚気に倒れ、戦闘力を失えば、もはや海軍ではない。
 英国に留学し、最新の臨床医学を学んでいた高木は白米に偏っている兵食が原因と考えた。統計や疫学調査の結果がその仮説を裏付ける。上官を説得し白米に麦を混ぜ、おかずを多様にした結果、海軍から脚気患者は姿を消す。
 しかし学理や細菌学を重視するドイツ医学を採用した陸軍と東京帝国大学は、脚気細菌説をとって高木に立ちはだかる。日露戦争における傷病者の中で死亡した3万7200人のうち、脚気患者が2万7800人を占めたにもかかわらず、陸軍は細菌説を捨てない。その先頭に立ったのがドイツ留学組で陸軍軍医総監となる森林太郎(鴎外)だった。後の成り行きは書くまでもないだろう。
 1935年に開業し、世界最大級の水産物取扱高を誇る築地市場の下には、明治人の苦闘の歩みが埋もれている。市場は豊洲への移転計画が大詰めを迎えた。その跡地では、どんな新たな物語が紡がれるのだろうか。
(特別編集委員 野瀬泰申)
19272006) 作家。東京生まれ。10代で母、父が病死、兄が戦死した。学習院高等科時代に肺の手術を受け、療養を経て学習院大学に入学、同人誌に作品を発表し始める。何度か芥川賞候補になり66年、「星への旅」で太宰治賞を受賞した。
 当初は冷徹な筆致の中に詩情が漂う作風だったが、66年の「戦艦武蔵」で感情を交えない硬質なノンフィクションという新たな領域を確立する。
 続く「高熱隧道(ずいどう)」「神々の沈黙」「陸奥爆沈」「関東大震災」などのドキュメント作品により73年、菊池寛賞を受賞する。さらに79年に「ふぉん・しいほるとの娘」で吉川英治文学賞。妻は作家、津村節子。
(作品の引用は講談社文庫)




Wikipedia
高木 兼寛(たかき かねひろ[ 1]嘉永291518491030 - 大正9年(1920413)は日本海軍軍人、最終階級は海軍軍医総監少将相当)。医学博士男爵東京慈恵会医科大学の創設者。脚気の撲滅に尽力し、「ビタミンの父」とも呼ばれる。当時日本の食文化では馴染みの薄かったカレーを脚気の予防として海軍の食事に取り入れた(海軍カレー)。
略歴[編集]
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/ff/Kanehiro_Takaki_bronze_statue.jpg/200px-Kanehiro_Takaki_bronze_statue.jpg
高木兼寛の銅像(宮崎県総合文化公園)
薩摩藩郷士・高木喜助兼次の長男[1][2][3]として日向国諸県郡穆佐郷(現・宮崎県宮崎市[ 2])に生まれる。通称は藤四郎。穆園と号す。18歳のときから薩摩藩蘭方医石神良策に師事、戊辰戦争の際には薩摩藩兵の軍医として従軍した。明治2年(1869)、開成所洋学局に入学し英語西洋医学を学ぶ。明治3年(1870)、薩摩藩によって創設された鹿児島医学校に入学すると、校長のイギリス人ウィリアム・ウィリスに認められて教授に抜擢された[4]
明治5年(1872)、海軍医務行政の中央機関・海軍軍医寮(後の海軍省医務局)の幹部になった石神の推挙により一等軍医副(中尉相当官)として海軍入り。海軍病院勤務の傍ら病院や軍医制度に関する建議を多数行ない、この年に大軍医(大尉相当官)に昇進。
軍医少監(少佐相当官)であった明治8年(1875)、当時の海軍病院学舎(後の海軍軍医学校)教官のイギリス海軍軍医アンダーソンに認められ、彼の母校聖トーマス病院医学校英語版)(現キングス・カレッジ・ロンドン)に留学。在学中に最優秀学生の表彰を受けると共に、英国外科医・内科医・産科医の資格と英国医学校の外科学教授資格を取得し明治13年(1880)帰国。
帰国後は東京海軍病院長、明治15年(1882)には海軍医務局副長兼学舎長(軍医学校校長)と海軍医療の中枢を歩み、最終的に明治16年(1883)海軍医務局長、明治18年(1885)には海軍軍医総監少将相当官。海軍軍医の最高階級)の役職を歴任した。
明治21年(1888)日本最初の博士号授与者(文学法学工学医学4名)の列に加えられ、医学博士号を授与された。さらに日露戦争麦飯の有効性が注目されていた明治38年(1905)には、華族に列せられて男爵位を授けられた。この時、人々は親愛と揶揄の両方の意味をこめて彼のことを「麦飯男爵」と呼んだと伝えられる(死去の直後に従二位勲一等旭日大綬章追贈された)。
明治25年(1892予備役となったが、その後も「東京慈恵医院」「東京病院」[ 3]等で臨床に立ちつつ、貴族院議員、大日本医師会会長、東京市教育会会長などの要職に就いた。1914(大正3年)31日に退役した[5]。大正9年(1920年)413日、自邸内で散歩中に脳溢血を起こして倒れ、死去した[6]
長男は医学者の高木喜寛、次男は医学者の高木兼二。
栄典[編集]
医学・看護教育[編集]
高木は日本の医学界が東京帝国大学医学部・陸軍軍医団を筆頭にドイツ医学一色で学理第一・研究優先になっているのを憂い、英国から帰国後の明治14年(1881)、前年に廃止された慶應義塾医学所初代校長・松山棟庵らと共に、臨床第一の英国医学と患者本位の医療を広めるため医学団体成医会と医学校である成医会講習所を設立する。当時講習所は夜間医学塾の形式で、講師の多くは高木をはじめとする海軍軍医団が務めた。成医会講習所は明治18年(1885)には第1回の卒業生(7)を送り出し、明治22年(1889)には正式に医学校としての認可を受け成医学校と改称した。
さらに明治15年(1882)には天光院に、貧しい患者のための施療病院として有志共立東京病院を設立、院長には当時の上官である海軍医務局長・戸塚文海を迎え自らは副院長となった。そして徳川家の財産管理をしていた元海軍卿・勝海舟の資金融資などを受け、払い下げられた愛宕山下の東京府立病院を改修し有栖川宮威仁親王を総長に迎えて明治17年(1884)移転、明治20年(1887)には総裁に迎えた昭憲皇太后から「慈恵」の名を賜り、東京慈恵医院と改称して高木が院長に就任した。
一方、ナイチンゲール看護学校を擁する聖トーマス病院で学んだ経験から、医療における看護の重要性を認識し、その担い手となる看護婦の育成教育にも力を尽くした。陸軍卿・大山巌の夫人・捨松ら「婦人慈善会」(鹿鳴館のバザーで知られる)の後援もあって、明治18年(1885)日本初の看護学校である有志共立東京病院看護婦教育所を設立し米国宣教師リードらによる看護教育を開始。明治211888)年には昭憲皇太后臨席のもと第1回卒業生5名を送り出した。
この3つはそれぞれ後に東京慈恵会医科大学東京慈恵会医科大学附属病院慈恵看護専門学校となり現在に至っている。
兵食改革と脚気論争[編集]
当時軍隊内部で流行していた脚気について海軍医務局副長就任以来、本格的にこの解決にとりくみ、海軍では兵食改革(洋食+麦飯)の結果、脚気新患者数、発生率、及び死亡数が明治16年(1883)から同18年(1885)にかけて激減した[12](詳細は「日本の脚気史」を参照のこと)。高木は、明治17年(1884)の軍艦「筑波」による航海実験も行ってこの兵食改革の必要性を説いた。この航海実験は日本の疫学研究のはしりであり、それゆえ高木は日本の疫学の父とも呼ばれる[13]。その後、いわゆる海軍カレーが脚気撲滅にひと役買ったとも言われている[14]
明治18年(1885年)328日、高木は『大日本私立衛生会雑誌』に自説を発表した。しかし、高木の脚気原因説(タンパク質の不足説)と麦飯優秀説(麦が含むタンパク質は米より多いため、麦の方がよい)は、「原因不明の死病」の原因を確定するには、根拠が少なく医学論理が粗雑だった。このため、東京大学医学部から次々に批判された。とくに同年7月の大沢謙二(東京大学生理学教授)による反論の一部、消化吸収試験の結果により、食品分析表に依拠した高木の説は、机上の空論であることが実証された。その大沢からの反論に対し、高木は反論できず、海軍での兵食改革の結果をいくつか公表して沈黙した。のちに高木は「当時斯学会に一人としてこの自説に賛する人は無かった、たまたま批評を加へる人があればそれはことごとく反駁の声であった」と述懐している。当時の医学界の常識としては、「食物が不良なら身体が弱くなって万病にかかりやすいのに、なぜ食物の不良が脚気だけの原因になるのか?」との疑問をもたれ、高木が優秀とした麦飯の不消化性も、その疑問を強めさせた。このように高木の説は、海軍軍医部を除き、国内で賛同を得ることがほとんどできなかった[ 4]
一説には、海軍軍医部は、日露戦争の戦訓もふまえ、海軍の兵食(洋食+麦飯)で脚気を「根絶」したと過信してしまったのではないかとの見解もある[15] しかし現実には、高木とその後任者たちのような薩摩閥ではなく、東京大学医学部卒の医学博士・本多忠夫が海軍省医務局長になった大正4年(1915(大正4年)12月以後、海軍の脚気発生率が急に上昇した。これは脚気患者が増えたためであり、昭和3年(1928)に1,153人、日中戦争が勃発した昭和12年(1937)から同16年(1941)まで1,000人を下まわることがなく、12月に太平洋戦争が勃発した昭和16年(1941年)は3,079人(うち入院605人)であった[ 5])。 一説には、その理由として、兵食そのものの問題(実は航海食がビタミン欠乏状態)[ 6]、艦船の行動範囲拡大、高木の脚気原因説(タンパク質の不足説)が医学界で否定されていたにもかかわらず、高木説の影響が残り、タンパク質を考慮した航海食になっていたこと、「海軍の脚気は根絶した」という信仰がくずれたこと[ 7]、脚気診断の進歩もあって見過ごされていた患者を把握できるようになったこと(それ以前、神経疾患に混入していた可能性がある)、などが原因とする見解もある[16]
麦飯を推奨していた高木が再評価されるのは日露戦争後であり、また脚気と食事の関係に着目した取り組みの延長線上にビタミンの発見があった。 欧米においては高木の業績に対する評価はきわめて高く、フィラデルフィア医科大学コロンビア大学ダラム大学から名誉学位を授与されており[17]、ビタミン、栄養学に関する著名な書物の多くで高木の業績が詳しく紹介されている[18]
貧民散布論[編集]
高木は都市衛生において「貧民散布論」を提唱している。「下等貧民ノ市内ニ、住居ニ堪ヘサルモノハ、皆去リテ田舎ニ赴クベシナリ」[19]という、東京から貧民を追放しようという今日からみれば非人道的なものであった。それに対して人道的立場から反対したのが、海軍の兵食改革を批判する陸軍軍医・森林太郎(森鴎外)であった。
その他の功績[編集]
  • 宮崎神宮の社殿の大造営を行った中心的な人物でもある[4]。明治31年(1898)に神武天皇御降誕大祭会を設立しその幹事長に就任、神武天皇が祭神である宮崎宮を、豪華な社殿に大改装するために全国から寄付を集めた。これは毎年恒例である宮崎神宮大祭(神武さま)をスタートさせるきっかけにもなった。
  • 南極大陸南緯6533分・西経6414分に高木岬があるが、これは彼の名にちなんで付けられた地名である。
  • 海外での脚気業績に対する高木の評価は高い。「独創を尊び成果を重んする西洋医学からみると、高木の『食物改良による脚気の撲滅』は、発想の独自性と先見性、成果のすばらしさから、まさしく画期的な業績であった。ビタミンが広く知られた後には、さらにその先見性が高く評価され、ビタミンの先覚者と位置づけられている。」(山下(2008) p.454-455)
  • 明治22年(1889)に大隈重信来島恒喜が投じた爆弾により負傷した直後に現場を通りかかり、大隈の最初の処置を行った。その後に駆け付けたエルヴィン・フォン・ベルツ佐藤進伊東方成岩佐純池田謙斎らとの協議により右足の切断を決定した[20]
脚注[編集]
注釈[編集]
1.   ^ 「けんかん」とも呼称される(有職読み)。
2.   ^ 昭和の大合併前の東諸県郡穆佐村、昭和の大合併後から平成の大合併前までは東諸県郡高岡町
3.   ^ 有志共立東京病院とは別に高木が退役後設立した個人病院。高木の死後社団法人東京慈恵会に経営が移り、戦後東京慈恵会医院(東京慈恵医院の後身)と共に現在の東京慈恵会医科大学附属病院となっている。
4.   ^ 陸軍においても土岐頼徳、堀内利国のように、少数ではあるが陸軍当局に異を唱えて麦飯を奨励した人はいた。堀内は麦飯を拒否する石黒、森、大沢らの姿勢を「実験がはっきり成功しているのに、その学理がはっきりしないからといって実行しないのは、水がなぜ火を消すのかわからないといって火事に水を使わないようなものではないか」と批判している。松田(1990)P.106
5.   ^ 1941(昭和16年)の海軍は、脚気患者3,079人(うち入院605人)のほか、脚気が混入しやすい神経疾患も、神経痛1,907人(395人)、神経衰弱501人(378人)、抹消神経麻痺117人(59人)、その他の神経系疾患689人(141人)であった。山下(2008)460頁。
6.   ^ 1890(明治23年)に改正された「海軍糧食条令および糧食経理規定」以後、とくに1900(明治33年)以後の改正兵食に問題があった。1917(大正6年)には、麦飯での麦比率が25%まで低下し、肉・魚・野菜も減っていた。しかも、嗜好食用として給与された現金で、兵員は渇望する白米を買っていたという。
7.   ^ 「海軍の脚気は根絶した」という先入観により、脚気を見落としていた可能性がある。たとえば、昭和40年代後半、神経学会で原因不明の「急性特発性神経炎」の症例が報告され、「新病あらわる」という騒ぎになった。しかし、よく調べると、単なる脚気であった。神経内科の一流の専門家が脚気と気づかなかったのは、すでに「脚気はない」という先入観があったため、とされる。山下(2008)、443-444頁。

吉村 (よしむら あきら、1927昭和2年)51 - 2006平成18年)731)は、日本小説家
東京・日暮里生まれ[1]学習院大学中退[1]1966『星への旅』で太宰治賞を受賞[1]。同年発表の『戦艦武蔵』で記録文学に新境地を拓き、同作品や『関東大震災』などにより、1973菊池寛賞を受賞[1]。現場、証言、史料を周到に取材し、緻密に構成した多彩な記録文学、歴史文学の長編作品を次々に発表[1]日本芸術院会員。小説家津村節子の夫。
目次
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経歴[編集]
生い立ち[編集]
東京府北豊島郡日暮里町大字谷中本(現在の東京都荒川区東日暮里)に生まれる。父吉村隆策、母きよじの八男[2] 父は、百貨店寝具店への卸売や、鉱山などに納入するふとん綿製造する工場と綿糸紡績の工場の経営をしていた[3]。昭が生まれたとき、吉村家の事業は順調に推移していた[4]。家は平屋建てで物干台がついていた[4]。住み込みの工員もいて、母は大家族の料理をあつらえた[5]
吉村家には文学的な雰囲気はなかったが、兄たちの中では三番目の兄英雄が、昭が中学校に入る頃から小説に興味をいだいたらしく芥川賞直木賞受賞作の単行本などを買って読むようになった[6]
学生時代[編集]
19344月、東京市立第四日暮里尋常小学校へ入学[7]
19404月、私立東京開成中学校に入学した[8]。在学中に、家庭教師(東大法学部3年生)の指導で岩波文庫などの古典日本文学などを読むようになり、読書の楽しみを知る[9]。また、中学2年生のとき『ボートレース』と題する作文が校内雑誌に掲載された[10]寄席通いを好んだが、戦時下にあり補導員の目をかいくぐりながら、鈴本演芸場人形町末広神楽坂演芸場へ通った[11]肋膜炎や肺浸潤で欠席が多かったが、19453月、戦時特例による繰上措置のため卒業できた。しかし教練の成績が悪かったため上級校に進学できず、予備校生活を送る。
1944に母が子宮癌で死去し、194512月に父が癌で死去する。1946旧制学習院高等科文科甲類に合格するも、両親が亡かったため将来の就職のことを考えて理科志望に転じ、学習院の入学式には出席せず、岡山市第六高等学校理科を受験したが失敗、再び予備校に通学する。1947、旧制学習院高等科文科甲類に入学する。岩田九郎教授に師事して俳句を作る。
194815に喀血し、同年917東京大学医学部附属病院分院にて胸郭成形手術を受け、左胸部の肋骨5本を切除した。この大病がもとで旧制学習院高等科を中途退学する。療養生活を経て、19504月、新制学習院大学文政学部文学科に入学する。文芸部に所属し、放送劇を書く。この頃から作家を志望するようになる。一方で部費捻出のために大学寄席を催し、古今亭志ん生を呼んで好評を博した。
1952、文芸部委員長になり、短篇を『學習院文藝』改称『赤繪』に発表する。川端康成梶井基次郎に傾倒する。同年711、岩田の紹介で他の文藝部員4人と先輩にあたる三島由紀夫に会い、河出書房版の『仮面の告白』署名入り単行本を贈られた。
創作に熱中して講義を受けなくなった上、必修科目である体育の単位を取るだけの体力がなく、さらに学費を長期滞納していたため、19533月、大学を除籍となり、三兄の経営する紡績会社に入社するも、同年10月末に退社した(ただし大学については後に学費を追納した上で寄付金を納め、除籍ではなく中退扱いとなった[12])。115、文芸部で知り合った北原節子(後年の小説家津村節子)と結婚する。
作家として[編集]
繊維関係の団体事務局に勤めながら、丹羽文雄主宰の同人誌『文学者』、小田仁二郎主宰の同人誌『Z』などに短篇を発表する。
19582月、短篇集『青い骨』を自費出版する。6月、『週刊新潮』に短篇「密会」を発表して商業誌にデビューする。
19591月、「鉄橋」が第40芥川賞候補に、7月に「貝殻」が第41回芥川賞候補に、1962「透明標本」が第46回芥川賞候補に、同年「石の微笑」が第47回芥川賞候補になるも受賞を果たせず、1965に妻の津村節子が受賞した。この間に、受賞の知らせを受けて自動車で駆けつけると間違いだったということが起きている(『私の文学漂流』より)。
1966に『星への旅』で第2太宰治賞を受賞する。長篇ドキュメント『戦艦武蔵』が、『新潮』に一挙掲載されたことでようやく作家として立つことになった。1972、『深海の使者』により第34文藝春秋読者賞を受賞する。1973、『戦艦武蔵』『関東大震災』など一連のドキュメント作品で第21菊池寛賞を受賞する。
1979、『ふぉん・しいほるとの娘』で吉川英治文学賞を受賞する。1985、『冷い夏、熱い夏』で毎日芸術賞を、『破獄』で讀賣文学賞および芸術選奨文部大臣賞を受賞する。1987日本芸術院賞を受賞する。1994、『天狗争乱』で大佛次郎賞を受賞する。1997年、日本芸術院会員になる。2003年に妻の津村節子も会員となる。
日本文芸家協会理事、日本近代文学館理事、日本芸術院会員(19971215付発令)、2004年から2006年まで日本芸術院第二部長。
晩年[編集]
2005春に舌癌と宣告され、さらにPET検査により膵臓癌も発見され、20062月には膵臓全摘の手術を受けた。退院後も短篇の推敲を続けたが、新たな原稿依頼には応えられなかった。同年730夜、東京都三鷹市の自宅で療養中に、看病していた長女に「死ぬよ」と告げ、みずから点滴の管を抜き、次いで首の静脈に埋め込まれたカテーテルポートも引き抜き、数時間後の731午前238分に逝去、79歳没。遺稿「死顔」は、『新潮 200610月号に掲載された[13]。墓所は新潟県南魚沼郡湯沢町の大野原墓苑。
作風[編集]
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初期の作品は死をテーマにした緻密な光景描写の短編小説が多く、そのなかで『星への旅』は太宰治賞を受賞した。その後、『戦艦武蔵』がベストセラーとなり、歴史小説作家としての地位を確立した。歴史小説では、『戦艦武蔵』にも見られるように、地道な資料整理、現地調査、関係者のインタビューで、緻密なノンフィクション小説(記録小説と呼ばれる)を書き、人物の主観的な感情表現を省く文体に特徴がある。NHKの『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』をはじめ、TV番組の原作や題材に用いられることも多く、題材も江戸時代から現代(昭和中期)までの事象や人物を対象としていた。
また、海を題材にした歴史小説を多く書いており、徹底した史実調査を行っている。『戦艦武蔵』に端を発する、近代日本戦史を題材とした「戦記文学」というジャンルを確立したのは吉村であるとも言われており、史実と証言の徹底的な取材と検証、調査を基にした事実のみを描いていたが、1980年前後を最後として近代以前の歴史作品に軸を移すようになった。これを吉村は自筆年表で「多くの証言者の高齢化による死」を理由に挙げている。事実を見すえた実証的な作品が書けなくなったことで、戦史を書くことはなくなった。1980年以降に次々と発表されたものは、近代以前の俗に歴史ものと呼ばれる作品群であったが、磯田光一は「彼ほど史実にこだわる作家は今後現れないだろう」と言っており、フィクションを書くことを極力避け、江戸時代のある土地の特定年月日における天気までも旅商人の日記から調査して小説に盛り込む、ということまで行っている。ただ、『ふぉん・しいほるとの娘』に関しては余りに創作部分が多く、近年のシーボルト研究の中で現在は完全なるフィクション本として扱われている。また、当時の文壇では珍しい速筆の作家としても知られていた。あるとき、吉村と池波正太郎が「ぼくたちはいつも原稿が早いので、それが当たり前になって編集者がありがたがってくれない」「そうそう、だから原稿料も安い」と話したことがある[14]。担当編集者が締め切り日に彼の自宅に赴くと、必ず金庫の中には完成した原稿が用意されていた。
人物[編集]
学習院大学にて文芸部委員長を務めた際には、同人誌発行のため奔走した。同人誌の費用を賄うために落語研究会を発足させ、五代目古今亭志ん生らを招いて興行を行っていた[15]。当初は学習院側から講堂の使用許可が下りなかったため、院長の安倍能成の自宅を訪ねて直談判し、使用許可を取り付けている[15]。興行のチケットは文芸部の部員が販売したが、部員の一人が皇太子明仁親王にまでチケットを販売していたため、興行当日には明仁親王も観客として来場した[15]。なお、日本の大学において落語研究会が設置されたのは、このときが初めてだとされる[15]
病魔に侵された晩年を、いわゆる尊厳死の形で終えたことは関係者に大きな衝撃を与えた。夫人は「本人は考えた上でのことだろうが、家族にとっては突然のことだった」と振り返っている。
没後の2011年に発生した東日本大震災の後、「三陸海岸大津波」が再評価され、新たに多くの読者を獲得したことが話題となった。
家族・親族[編集]
吉村家[編集]
戦国時代の武将福島正則の家臣吉村又右衛門宣充(のぶみつ)は吉村家の始祖と言い伝えられてきた[16]。主家没落後又右衛門は浪人になった[17]桑名藩主となった松平定綱は彼を寛永20年(1643)に名目は五千石、実質は一万石で招いた[18]。吉村又右衛門宣充は慶安3年(1650)に没し、桑名顕本寺に葬られた[18]。今も顕本寺に墓があり、桑名市指定史跡となっている[18]。その後の吉村家は本家、分家の二家系とも松平家の家老として代々勤めた[18]
吉村昭の一族は、福島正則が広島を去り、越後の配所へ流されるとき、広島を去って富士山麓の比奈に定住したと言い伝えられてきた[19]。ここに帰農して農耕に従事し、地方の豪族として村を治めた[19]。長学寺所蔵の「過去帳」によれば初代は萬右衛門宗感、二代は萬右衛門理安、三代は萬右衛門久甫、四代は萬右衛門浄底、五代は萬右衛門、六代は権右衛門日儀、七代は権右衛門日持、八代は萬右衛門日宣、九代は権右衛門、十代は権右衛門、十一代は萬右衛門、十二代は権右衛門とつづく[20]。昭の父の隆策家は三代目の久甫の家から分家したものである[21]。久甫には浄底、重兵衛、知恵の三兄妹があった[21]。四代目を浄底が継いだ[21]。知恵は二代目萬右衛門の三男利左衛門日行を婿養子に迎えて分家した[21]。この利左衛門が隆策家の初代である[21]。その後二代目から六代目までは利左衛門を引き継いで名乗った[21]。七代目は儀左衛門、八代目は利八、九代目は昭の父隆策である[21]。二代目の利左衛門、六代目の利左衛門、七代目の儀左衛門は養子で六代目と七代目は比奈の叔父吉村郡一家から養子にきた[21]
文政8年(1825)生[21] - 慶応4年(18688月没[21]
家業の豆腐屋とともに米屋を営んでいたが、十七歳の時山で怪我をし足が不自由になった[21]。店の前には豪農の渡辺家があり、儀左衛門はその米の取扱いをするようになった[21]。慶応4年(18688月、海辺の得意先に掛取りに出掛けた時、三人の暴漢に襲われ殺害された[22]。吉村昭はこの曽祖父殺害の事実を調べるため静岡に出かけたが、詳細はわからなかったという[22]
1903(明治36年)2月没[24]
利八は「其の人となり信義に厚く、商才に秀いで、苦境に処して屈せず卓論不羈の風格があった[21]」。1903(明治36年)224日、憲政本党森田勇次郎をかついで衆議院議員の選挙に奔走していた利八は急死した[24]
  • 祖母・てる(静岡県富士郡吉原町依田原、土屋豊次郎の妹[24]
1939(昭和14年)4月没[25]
1891(明治24年)2月生[24] - 1945(昭和20年)12月没[26]
吉村昭の少年時代、家は家父長と呼ばれる父親を中心に営まれた[27]。その権威は絶対的なものだった[27]1901(明治34年)4町立沼津商業学校に入学した[28]。あまり勉強好きではなかったようで、父利八の死後学校に行かなくなった[28]。青少年時代の隆策は極道息子だった[28]。母てるが甘やかして育てたせいといわれている[28]。秘かに不動産の権利書を持ち出し、金に換え、遊興にふけった[28]。隆策の酒と女と博打で吉村家は没落していった[28]。「富士郡で一、二」といわれた製綿業者で、職人を三十人以上も使っていた家業は傾いた[28]。生まれ故郷を捨てることを決意した[28]。このとき隆策25歳だった[29]横須賀市若松町に綿屋を開いた[29]。生活は貧しかった[29]。五男敬吾が生まれて三ヵ月後に夜逃げをするように横須賀市を去り、東京府北豊島郡日暮里町元金杉千百五番地の貸工場に落ち着いた[29]。日暮里は田畑のなかに点々と家屋が建っている新開地だった[29]。綿の打直しの仕事はたくさんあった[30]1919(大正8]4月、田宮惣左衛門から百二十五の地所を借り、住宅十一坪五合、工場三十八坪、綿機三台、電動機一台をそなえた家が新築された[31]。「吉村製作所」の看板をかけた[31]1932(昭和7年)からは日暮里町四丁目二番地で綿糸紡績業を営み、東洋商業学校を卒業した長男利男に管理させた[5]
母の父亀次郎は母きよじを厳しく躾た[32]。祖父の躾は母を通して吉村昭に伝えられた[32]
利男[2]
1911(明治44年)9月生[28] -
武夫(実業家・花嫁わた社長、郷土史家[33][2]
1912(大正元年)12月生[29] -
英雄[2]
1914(大正3年)6月生[28] -
政司[2]
1916(大正5年)12月生[29] - 疫痢で生後八ヵ月足らずで亡くなる[2]
敬吾[2]
1918(大正7年)4月生[29] - 1941(昭和16年)8月戦死[2]
健造[2]
留吉[2]
1923(大正12年)6月生[2] - 1923(大正12年)6月没[2]。留吉は誕生した日に亡くなる[2]
  • 姉・富子[2]
1924(大正13年)7月生[2] - 7歳の夏、疫痢にかかり亡くなる[2]
1928(昭和3年)6月生 -
  • 長男
  • 長女
受賞等歴[編集]
なお1997年に第1司馬遼太郎賞に選出されたが辞退した(受賞者は立花隆)。
主な作品[編集]
  • 密会(日活映画化 1959年/再刊 講談社、1974年、のち文庫化)
  • 少女架刑 (南北社 1963年)(翻訳:仏)(演劇化 2006 仏)(演劇化 「諏訪会」2009 日)
  • 孤独な噴水 (講談社 1964 のち文庫、文春文庫)
  • 星への旅(太宰治賞 (筑摩書房 1966 のち新潮文庫)
  • 戦艦武蔵 (新潮社 1966 のち文庫)(翻訳:英)
  • 水の葬列 (筑摩書房 1967 のち新潮文庫)
  • 高熱隧道 (新潮社 1967 のち文庫)
  • 殉国 陸軍二等兵比嘉真一 (筑摩書房 1967 のち角川文庫、中公文庫)
  • 海の奇蹟 (文藝春秋 1968 のち角川文庫)
  • 大本営が震えた日 (新潮社 1968 のち文庫)
  • 零式戦闘機 (新潮社 1968 のち文庫)(翻訳:英)
  • 彩られた日々 (筑摩書房 1969年)
  • 神々の沈黙 心臓移植を追って (朝日新聞社 1969 のち角川文庫、文春文庫、「消えた鼓動」ちくま文庫)
  • 海の壁 三陸沿岸大津波 中公新書 1970年、「三陸海岸大津波」中公文庫、文春文庫)
  • 戦艦武蔵ノート (図書出版社 1970 のち文春文庫、岩波現代文庫)
  • 陸奥爆沈 (新潮社 1970 のち文庫)
  • 細菌 (講談社 1970 のち文庫「蚤と爆弾」、文春文庫)
  • 空白の戦記 (新潮社 1970 のち文庫)
  • めっちゃ医者伝 (新潮少年文庫、1971 「雪の花」文庫)
  • (新潮社 1971 のち文庫)
  • 鉄橋 (読売新聞社 1971年)
  • 逃亡 (文藝春秋 1971 のち文庫)
  • 背中の勲章 (新潮社 1971 のち文庫)
  • 密会 (講談社 1971 のち文庫)
  • 日本医家伝 (講談社 1971 のち文庫)
  • 精神的季節 (講談社 1971年)
  • 海の史劇 (新潮社 1972 のち文庫)
  • 青い骨 (角川文庫 1972年)
  • 総員起シ (文藝春秋 1971 のち文庫)
  • 関東大震災(菊池寛賞)( 文藝春秋 1973 のち文庫,ISBN 416716941X
  • 深海の使者 文藝春秋読者賞 (文藝春秋 1973 のち文庫)
  • 下弦の月 (毎日新聞社 1973 のち文春文庫)
  • 海の鼠 (新潮社 1973 魚影の群れ」新潮文庫、ちくま文庫)
  • 冬の鷹 (毎日新聞社 1974 のち新潮文庫)
  • 一家の主 (毎日新聞社 1974 のち文春文庫、ちくま文庫)
  • 患者さん (毎日新聞社 1974 「お医者さん・患者さん」中公文庫)
  • (筑摩書房 1974 のち中公文庫)
  • 北天の星 (講談社 1975 のち文庫)
  • (文藝春秋 1975 のち文庫)
  • 産業魂 対談茂木啓三郎の人と経営 (日本能率協会 1976年)
  • 海軍乙事件 (文藝春秋 1976 のち文庫)
  • 漂流 (新潮社 1976 のち文庫)(東宝映画、1981年)
  • 赤い人 (筑摩書房 1977 のち講談社文庫)
  • 羆嵐 (新潮社 1977 のち文庫)(TBSラジオドラマ、1980年)
  • 亭主の家出 (文藝春秋 19773 のち文庫)(テレビ朝日ドラマ、1978
  • ふぉん・しいほるとの娘(吉川英治文学賞)(毎日新聞社 1978 のち講談社文庫、新潮文庫)
  • 海の絵巻 (新潮社 19784 「鯨の絵巻」文庫)
  • 帽子 (集英社 19789 のち文春文庫、中公文庫)
  • 星と葬礼 (集英社文庫 1978 のち文春文庫)
  • 遠い日の戦争 (新潮社 197810 のち文庫)(翻訳:英/仏)(テレビ朝日ドラマ、1980年)
  • 白い遠景 (講談社 19792 のち文庫)
  • 蟹の縦ばい (毎日新聞社 19799 のち中公文庫)
  • 熊撃ち (筑摩書房 19799 のち文庫、文春文庫)
  • 月夜の魚 (角川書店 19798 のち中公文庫)
  • ポーツマスの旗 (新潮社 197912 のち文庫)(NHKドラマ、1981年)
  • 海も暮れきる (講談社 19803 のち文庫)(NHKドラマ、1986年)
  • 冬の海 私の北海道取材紀行 (筑摩書房 19805月)
  • 虹の翼 (文藝春秋 19809 のち文庫)
  • 炎のなかの休暇 (新潮社 19812 のち文庫)
  • 歴史の影絵 (中央公論社 19812 のち文庫、文春文庫)
  • 実を申すと (文化出版局 19813 のちちくま文庫)
  • 光る壁画 (新潮社 19815 のち文庫)
  • 戦史の証言者たち (毎日新聞社 19819 のち文春文庫)
  • 破船 (筑摩書房 19822 のち新潮文庫)(翻訳:英Shipwrecks//オランダ//ポーランド/ヘブライ/ポルトガル)
  • 遅れた時計 (毎日新聞社 19824 のち中公文庫)
  • 脱出 (新潮社 19827 のち文庫)
  • 間宮林蔵 (講談社 19829 のち文庫)
  • 月下美人 (講談社 19838 のち文庫、文春文庫)
  • 破獄 読売文学賞 芸術選奨文部大臣賞)(岩波書店 1983 のち新潮文庫)(NHKドラマ、198546日)
  • 冷い夏、熱い夏(毎日芸術賞)(新潮社 19847 のち文庫)
  • 長英逃亡 (毎日新聞社 19849 のち新潮文庫)
  • 秋の街 (文藝春秋 198411 のち文庫、中公文庫)
  • 東京の下町 (文藝春秋 19857 のち文庫)
  • 花渡る海 (中央公論社 198511 のち文庫)
  • 海の祭礼 (文藝春秋 198610 のち文庫)
  • 万年筆の旅 (文春文庫、1986年)
  • 闇を裂く道 (文藝春秋 1987年(芸術院賞)のち文庫)
  • 蜜蜂乱舞 (新潮文庫 1987年)
  • 仮釈放 (新潮社 19884 のち文庫)(翻訳:英//独)
  • 帰艦セズ (文藝春秋 19887 のち文庫)
  • 海馬(トド) (新潮社 19891 のち文庫)
  • 旅行鞄のなか (毎日新聞社 19896 のち文春文庫)
  • 死のある風景 (文藝春秋 1989 のち文庫)
  • メロンと鳩 (講談社文庫 1989 のち文春文庫)
  • 桜田門外ノ変 (新潮社 19908 のち文庫)(映画化、201010月)
  • 月夜の記憶 (講談社文庫 1990年)
  • 幕府軍艦「回天」始末 (文藝春秋 199012 のち文庫)
  • 史実を追う旅 (文春文庫 1991年)
  • 白い航跡 (講談社 19914 のち文庫)
  • 黒船 (中央公論社 19919 のち文庫)
  • 平家物語 (少年少女古典文学館)(講談社 1992年)
  • 私の文学漂流 (新潮社 199211 のち文庫、ちくま文庫)
  • 私の引出し (文藝春秋 19933 のち文庫)
  • 法師蝉 (新潮社 19937 のち文庫)
  • ニコライ遭難 (岩波書店 19939 のち新潮文庫)(翻訳:露)
  • 昭和歳時記 (文藝春秋 199311 のち文庫)
  • 天狗争乱(大佛次郎賞)(朝日新聞社 19945 のち新潮文庫、朝日文庫)
  • 再婚 (角川書店 19953 のち文庫)
  • プリズンの満月 (新潮社 19956 のち文庫)
  • 記憶よ語れ (作品社 19958月)
  • 彦九郎山河 (文藝春秋 1995 のち文庫)
  • 落日の宴 勘定奉行川路聖謨 (講談社 1996 のち文庫)
  • 街のはなし (文藝春秋 19969 のち文庫)
  • 朱の丸御用船 (文藝春秋 19976 のち文庫)
  • 遠い幻影 (文藝春秋 19981 のち文庫)
  • わたしの流儀 (新潮社 19985 のち文庫)
  • 史実を歩く (文春新書 199810 のち文庫)
  • 生麦事件 (新潮社 19989 のち文庫)
  • 碇星 (中央公論新社 19992 のち文庫)
  • 天に遊ぶ (新潮社 19995 のち文庫)
  • わが心の小説家たち (平凡社新書 1999年)
  • アメリカ彦蔵 (読売新聞社 199910 のち新潮文庫)(翻訳:英)
  • 夜明けの雷鳴 医師高松凌雲 (文藝春秋 20001 のち文庫)
  • 島抜け (新潮社 20008 のち文庫)
  • 私の好きな悪い癖 (講談社 200010 のち文庫)
  • 敵討 (新潮社 20012 のち文庫 ISBN 978-4103242291
  • 東京の戦争 (筑摩書房 20017 のち文庫)
  • 見えない橋 (文藝春秋 20027 のち文庫)
  • 大黒屋光太夫 (毎日新聞社 20032 のち新潮文庫)
  • 縁起のいい客 (文藝春秋 20031 のち文庫)
  • 漂流記の魅力 (新潮新書 2003年)
  • 事物はじまりの物語 (ちくまプリマー新書 2005年)
    • 事物はじまりの物語 旅行鞄のなか (ちくま文庫 20142月) (両著を合本)
  • 暁の旅人 (講談社 20054 のち文庫)
  • 彰義隊 (朝日新聞社 200511 のち新潮文庫
  • わたしの普段着 (新潮社、2005 のち文庫)
以下は没後刊行
  • 死顔 (新潮社 200611 のち文庫)
  • 回り灯籠 (筑摩書房 200612月 のち文庫)
  • ひとり旅 (文藝春秋 20077月 のち文庫)
  • 炎天 (津村節子編、筑摩書房 20097月) 句集とエッセイ
  • 歴史を記録する (河出書房新社 200712月) 対談集
  • 時代の声、史料の声 (河出書房新社 20104月) 対談集
  • 真昼の花火 (河出書房新社 20102月) 未刊行小説4
  • わたしの取材余話 (河出書房新社 20092月) 以下は単行本未収録エッセイ
  • 味を訪ねて (河出書房新社 20092月/のち「味を追う旅」 河出文庫)
  • 七十五度目の長崎行き (河出書房新社 20098月 のち文庫)
  • 白い道 (岩波書店 20107月 のち岩波現代文庫)
  • その人の想い出 (河出書房新社 201010月)
  • 履歴書代わりに (河出書房新社 20116月)
  • 人生の観察 (河出書房新社 20141月)
作品集[編集]
  • 『吉村昭自選作品集』 15巻別巻1 新潮社1990-1992年)
  • 『吉村昭歴史小説集成』 8 岩波書店2009年)。幕末維新期の作品を収録
  • 『吉村昭 昭和の戦争』 6 (新潮社、2015年)、語注付き
映像・音声化作品[編集]
映画[編集]
テレビドラマ[編集]
ラジオドラマ[編集]
音声記録[編集]












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