京都ぎらい  井上章一  2016.7.12.

2016.7.12. 京都ぎらい

著者 井上章一 1955年京都府生まれ。京大工学部建築学科卒。同大学院修士課程修了。国際日本文化研究センター教授、同副所長。専門の建築史、意匠論のほか、美人論、関西文化論など日本文化について広い分野にわたる発言で知られる。著書に『現代の建築家』(『個人』『図書館 201515-08 現代の建築家』参照)

発行日           2015.9.30. 第1刷発行
発行所           朝日新聞出版(朝日新書)

あなたが旅情を覚える古都のたたずまいに、じっと目を凝らせば。。。。。
気づいていながら誰にもあえて書こうとしなかった数々の事実によって、京都人の恐ろしい一面が鮮やかに浮かんでくるに違いない。洛外に生まれ育った著者だから表現しうる京都の町によどむ底知れぬ沼気(しょうき)。洛中千年の「花」「毒」を見定める新・京都論である

まえがき
洛外で暮らすものが眺めた洛中絵巻ということになろうか
洛外の人間による批判的な言論を封じてきた。それだけ、洛中的な価値観が大きくのさばる町だった

1.    洛外に生きる
私が生まれたのは右京区の花園、育ったのは同じ右京区の嵯峨
行政上、京都市に入っていても、洛中の人からは京都と見做されない地域がある、洛外の地は京都扱いされてこなかった
生まれ育ちは京都市だということに、わだかまりを覚えるのはそのため
しょうもない拘りだが、こういうことで私を自意識の病へ追い込む毒が、京都という街にはある。京都が周辺住民にもたらす葛藤は、また格別。本書は、京都ならではの、街によどむ瘴気を語ることから始めたい
大学時代、町屋の研究で杉本家住宅を訪ねた際、9代目の当主・故杉本秀太郎氏と面談して最初に言われたのが、「君、どこの子や」で、嵯峨から来たと答えると、「昔、あのあたりのお百姓さんが、うちへよう肥をくみに来てくれたんや」と告げた。初めて会った洛中で暮らす名家の当主から、いきなりいけずを言われた
洛中の人々はみな、中華意識が強い
西陣(上京区)生まれの故梅棹忠夫氏も、「あの辺は言葉づかいがおかしかった」と言って、杉本の弁を擁護
嵯峨も、今でこそ京都市の右京区に編入されているが、かつては京都府愛宕郡に属し、しゃべり方も京都弁とはいくらか違って愛宕訛りと言われた
ところが、中京(なかぎょう)の新町御池で育った友人に言わせると、「西陣のやつが京都を代表しているとは、西陣風情のくせに生意気や」となり、嵯峨のことをどう見ているのかと考え、30数年来の友情が音を立てて崩れたように感じた
中京に住む適齢期を逃しそうになった女性が、「とうとう山科の男から話があったんや。もう堪忍してほしいわ」というので、「山科のどこがあかんのか」と聞くと、「東山が西のほうに見えてしまうやないの」と説明してくれた
プロレスラーが、出身地の京都に帰ってきたとリングでアピールした途端、「お前なんか京都とちゃうやろ、宇治やないか」とブーイング攻めに遭ったという。宇治出身者が京都出身を僭称するだけ客席は苛立った
自分には京都人としての自覚はなく、京都流に言えば「よそさん」

京都の町衆は、しばしば日本人のよそさんを、外国人並みに捉えてきた。東京や大阪資本主義の店を「外資系」だと、陰で言う
メディアの京都びいきも、洛中の人々をつけあがらせている。特に首都圏のメディアがひどい。大阪は近くにいて上げ底のカラクリを見透かしているせいもあって、京都を敬っていないどころか、京都を見くびる度合いは大阪が一番強い
洛外生息の劣等感が執筆の原動力となっていることは間違いないが、嵯峨にいたときは亀岡を見下し、宇治に住んだ時は城陽を相手にすまいという感情が湧いてきて、京都人たちの中華思想に汚染されたと分かり、自己嫌悪に陥らざるを得ない
いわゆる郷土教育を、小学校の3,4年で受け、京都についてのあれこれを教わり、京都の人間として育てられたが、長じて出会った洛中の人々は、寄ってたかってこれを打ち壊そうとする。祇園祭は、洛中の町衆の営む祭りで、嵯峨の田舎者は関われないというように
洛中の京都人が、洛外者を侮り、しばしばいけずな物言いを投げつけるのは、差別とは違って、「ハゲ」「デブ」「ブス」の類で、許される範囲内とされ、褒められはしないが、いちいち咎めるほどのことでもない、と考えられている
嵯峨の老人たちは市中へ出掛けるとことを、「京へ行く」とよく言っている
リオでは、ゴキブリやシロアリなどの害虫駆除の会社の大手に「KIOTOキョオト」というのがあり、ゴキブリといえば「キョオト」と言われるまでに広まっている。20年ほど前に創業者が日本人から害虫駆除薬の成分を教えられ、それが圧倒的な効果を発揮した所から、日本人にあやかって日本的な名前の代表として「キョオト」と言う社名にしたという。ほかにも同じような業務の会社で「トヤマ」とか「ナガサキ」とかいう会社もあって、西洋人のエキゾチシズムから、日本の地名が害虫に立ち向かう者に好まれているようだ

2.    お坊さんと舞子さん
花柳風俗が下火になる中、京都では花街が若さを保っている
元々宴席で芸を披露して接待するのは男の仕事で、芸のある者=芸者。武芸の達人を武芸者というのと同じ。18世紀中ごろにはその席に女も侍るようになる。上方では彼女たちを芸者と区別して芸子と呼ぶ。江戸では女の芸者=女芸者と命名し、旧来の芸者()には男芸者という名をあてる。上方でも江戸でも男がいなくなって、芸子と()芸者が残るが、国際的には江戸の芸者が広まった
芸妓(げいぎ)は、芸子や芸者を総称する漢語。「げいこ」とルビを振る手もある
祇園や上七軒で大盤振る舞いをしたのは呉服関係の商人で、西陣や室町の旦那衆が芸舞子の街を輝かせていた。東洋のハリウッドとまで呼ばれた太秦の周囲に住んだスターたちも宴席の華やかさを競ったこともあった。それが今は僧侶だという。特に京都では伝統的な花街に限らず、袈裟姿のままホステスクラブに赴く僧侶もいる。他の街では異様に映る光景も京都の店では僧服姿の客を見ても慌てないだけの心構えがある
伝統的な日本文化を今日に伝えるところは、花街だけに限らない。寺院もその役割を果たす機関の1つに挙げられる。同じように、歴史と伝統を歩んでいる。そこで響き合うものがあるから、袈裟姿で着物の芸子に近づいていくのかもしれない
僧侶の世界においても、価値観の西洋化が進んで、舞子よりミニスカートとなると、次に芸舞子の織り成す花柳文化を支えるのは、急増する外国人観光客かもしれない
比叡山に籍を置く僧侶が在阪テレビのコメンテーターをしていたが、好きになった男がゲイだったという女性からの悩み事相談に対し、怒気をあらわに男の外道を非難したことが舌禍となってテレビから消えた。男色の総本山から来た僧侶が稚児愛の歴史を知らないはずはないので、天台宗の先人たちを道から外れたと切り捨てる積りはないはず。男色を知識としては留めていても、もう実感が伴わないようになってきたということではないか
栢木寛照(かやき かんしょう)さんかな?
20年位前までレギュラーでワイドショーのコメンテーターをしてた。
オウム事件の頃、視聴者から寄せられた「オウムの事件は宗教に救いを求めた若者に既存の宗教は応えられなかった。既存の宗教にも反省すべき点があるのでは?」みたいな意見に、生放送で「既存の宗教にも問題があった」みたいな自己批判をしてしもた。
 それからテレビで見ることが無くなった感じ.
日本は高い水準で、聖職者集団の世俗化を達成。超越的な信仰から解放される近代化の度合いでは、欧米を遥かに凌駕して京都の僧侶が一番進んでいる
芸子と戯れている間は、イスラム世界で一途な宗教心がテロリズムをもたらすように、聖なる戦争に向かっていく高邁な心の昂ぶりも起こるまい
仏教の開祖たる釈迦は、釈迦園の王子で、女に囲まれた境遇にうんざりして出家へと踏み切った。仏教は、本質的には女をはねつける男の宗教だと考えるが、その女ぎらいは結局釈迦のハーレム体験に根差している。であれば、少しでも教祖に近づくために自分もハーレムに飛び込む必要がある。京都の僧侶たちが花街に出没するのも、いずれ女に辟易することができる日の来ることを願っているのでは
バブル時代に京都では、舞子が入って来るとディスコでのお立ち台の女が舞子に道を開け、舞子がお立ち台で当時のヒット曲に合わせて体をくねらせた。京都ならではの光景

3.    仏教のある側面
歴史と伝統に生きる街に、新しさの輝きを示すところの1つが植物園の北側、北山通り沿いの界隈で、尖端性を売り物とする店が結構並ぶ。安藤忠雄や磯崎新をはじめとする有名建築家の作品も軒を連ねる。その由来は、植物園が占領軍の住区とされたことから、それを目当てとする店が北山通りに現れたこと
北山界隈に磯崎新設計のコンサートホールが95年に出現。氏独特のモンローカーブが壁面に取り入れられている。写真撮影と雑誌掲載の許諾を求めたところ3万円を要求された。建築には肖像権も意匠権もないのに、何を根拠に請求をしてきたのか。ましてや公共建築である。一方、京都の寺の庭などが雑誌に紹介されることも多く、出版社が写真撮影などをする際に寸志を包む習わしがあって、その額が3万円だそうだ
「金銀苔石(きんぎんこけいし)」  写真撮影に際し最もコストのかかる人気4大寺(金閣、銀閣、西芳寺、龍安寺)の総称。1枚の写真利用が20万とも噂される
京都人が鼻を高くするのは、首都のメディアが、彼らをおだててきたせいでもある。京都を美辞麗句で飾り続けたことも、洛中で暮らす人々をえらそうにさせている
寺の拝観料は、宗教的な献金とみなされ非課税だが、来観者は寺の決めた料金をテーマパークの入園料と同じ感覚で支払っているだけで、宗教的な出費だとは思っていない
庭をライトアップして、夜の拝観料を別建てにして、しかも昼夜入れ替え制にしている寺を見ると、ディズニーランドでもそこまで阿漕な商売はしていないと呆れ果てる
京都に住む宗教学者の山折哲雄氏は、路上の托鉢僧に1万円札を施し、僧の慌てぶりを見て、出来不出来を見てとり興じるという
坊主は笑える話をいっぱいもたらしてくれるのは間違いない
寺の非課税収入に対し、市の税務当局も何度か徴税に乗り出している  1956年の文化観光施設税(文観税)。前川國男設計の京都会館はこの税収で建てられた稀有の例。前川はコンクリートの建物を京都に馴染ませる苦労をしたが、拝観料から税が取れた時代の記憶を留める歴史的な遺構でもある。文観税は文化保存特別税と名を変えて、64年に5年に限って延長が認められて幕を引いた。にもかかわらず85年には古都保存協力税(古都税)として再燃したため、多くの寺が拝観停止で抵抗。10か月にも及ぶストライキに市側がねを上げ、仏寺の社会的勢力に負けて徴税は廃止に
ライトアップが始まった契機は、94年の平安建都1200年祭。祭り当局からの打診に寺側がこたえたのだというが、行政も寺と手を携え、京都の観光収入を上げる方向へ、舵を切ったようだ
本能寺で倒れた信長が仏教寺院に寝泊まりしていた意味は、今日的なホテル代わりで、武将をもてなす術として庭園が整えられた。庭の在り方を最初に論じたのは禅僧だが、禅の奥義に庭園美と響き合うものはない。和食が細やかな味を育んできたのも、武将のおもてなしに尽くした寺の精進料理が大きく貢献していたものと想像される

4.    歴史のなかから、見えること
洛外の私を京都人に含めてしまう見方は、京都人像としては大変粗雑。そんな荒っぽいくくり方しかできない人に、一般的な京都人論を語る資格はない
天皇家に京都へ帰ってきて欲しいと願う御人が、この街には少なからずいる。皇居はただの行在(あんざい)=宿泊所であって、天皇家はほんの百数十年東京に立ち寄っているだけで、都(みやこ)はまだ京都にあると考える
その根拠は、遷都の詔勅がまだ出されていない点にある。離婚した元妻が、すでに元夫が新しい伴侶と確かな暮らしを営んでいるにもかかわらず、離婚届けが出されていないことのみを取り上げて未練たらしく離婚を否定するのと同じ途に、一部の京都人、京都=首都論者たちは陥っている
江戸城の無血引き渡しを前提とした無血の明治維新革命という歴史語りには、大変な偏りがある。江戸の身代わりとなって流されたであろう会津以北の血を見ていない。江戸開城の前史をなす京都で争乱も見過ごしている、首都だけに光を当てた、江戸東京イデオロギーの賜物に他ならない
幕末の京都を幕府の側から守っていたのは、主に会津の藩士。その置き土産の1つが同志社であり、会津小鉄も幕末京都の会津藩士に出自がある
20世紀半ばごろまで続く歴史も、明治維新の延長上に捉え、維新で解き放たれた民族の雄叫びが、諸外国相手の対外戦争における膨張を後押しした。江戸時代にため込まれたエネルギーが勢いよくあふれ出した。フランス革命で高揚した民族精神が、あとでナポレオンの対外戦争を支えるようになったのと同じような歴史のからくりが、ややゆっくり目に作動したのではないか。日本の近代も残虐な好戦性を伴いつつ、民族精神を高ぶらせていった。そういう点でもフランス革命との通底性を、明治維新以後の歴史に強く感じる
祇園の南にある建仁寺の寺域は、江戸時代には四条まで及んでいた。南禅寺の北西に豪邸が集まるお屋敷街ももとは南禅寺の境内にあった。清水寺も天龍寺も維新までは現在の10倍の敷地だった。いずれも明治政府が寺地の上納を求め
嵐山は元天龍寺の領地、上地した途端に維持管理が出来なくなって荒れたし、鞍馬山も寺の管理から外れて景観がたちどころに崩れ去ったという。寺が山の管理に努めたのは、何よりも林業上の収益が見込まれたからだが、景観上の配慮も当然行き届いていた
京都以外では、寺領を9割まで巻き上げられた寺などなかったろう。江戸時代に広大な土地を与えられていたからこそ起こり得た事態で、明治維新の急進性、革命の徹底性を示す、京都ならではの歴史として書き留めたい
徳川幕府も3代までは結構京都の寺院復興に力を尽くしている。幕府はそうした営みで、自分たちの権勢を京童や、朝廷、公家たちに見せつけた
とりわけ知恩院の再生には注力。元々13世紀、浄土宗の法然が建立。信徒だった家康が途方もない巨殺を設営、境内も押し広げたもので、幕府の力を京都へ思い知らせるための施設の典型。醍醐寺も秀吉の建立であり、とにかく大きな寺は、たいてい応仁の乱以降の、世俗権力による遺構であることをわかって見るべき
京都の寺院建設を支えてきたのは3代将軍までだが、それまでに立ち上がった大伽藍はその後も維持され続けた。それを賄うだけの仕組みを幕府は寺のために整えていた  宗門の本山へ全国各地の浄財を集めるシステム。信者が末寺へよせる末寺銭を一定の割合で自動的に本山へ納めさせる。幕府の宗教政策上の目的で整えられたもので、各宗派の本山が置かれていた京都で、本山に宗門の統制を委ねた見返りとして、金銭面での本山の優位を保障した。幕府も、仏教世界では京都が君臨することを、事実上認めている
江戸初期の寺院建設ラッシュは、現代の公共事業と同様、さまざまな富を京都にもたらす
本格的な和風建築の仕事となれば、京都や関西の職人に軍配が上がる
明治維新は寺の経営を難しくさせ、建物や庭のメンテナンスにはなかなか経費が回せなかったが、拝観料を取り出したことが事態を変えた
「五山の送り火」とは、大文字と左大文字、船形、妙法に鳥居となっているが、以前は「大文字焼き」と呼び習わしていた。1891年大津事件の前、京都に滞在したロシア皇太子をもてなすために大文字山で松明に火をつけて「大」の字を夜間に照らし出したのが始まりなので、元はあからさまに世俗的な見世物であったと見做しうるが、現代は盂蘭盆の行事なので、呼び名も変えさせられたということか

5.    平安京の副都心
室町通り(烏丸の1本西寄り)に足利将軍の館があったところから、足利家の支配機構を室町幕府と呼ぶ
西陣の名も、応仁の乱で西軍が拠点としたところに由来する
嵯峨という地名も、嵯峨天皇の名と通じ合う。北嵯峨に離宮をこしらえた
かつての嵯峨では、大覚寺統の上皇たちが政治を司ることもあり、平安京にとっての副都心めいた意味合いがあったが、尊氏によって南朝の勢力が追い出されてからは、地域の性質も変わりだし、政治の舞台としては華のないところとなって、洛中の京都人からは鄙びた村里として眺められるにいたっている。すべては北朝の勝利から始まっている
後醍醐天皇の怨霊を鎮めるために尊氏が設けたのが天龍寺で、亀山殿=後嵯峨上皇の離宮跡に建てられ、嵐山を含む広大な地に一大禅宗寺院を築いたが、鎮魂とは名目で、大覚寺の寺領や南朝側の施設を召し上げるのが目的
梅原猛の法隆寺論によれば、法隆寺は藤原氏によって追い落とされた聖徳太子一族の怨霊を封じる寺としている。怨霊信仰や敗者の神格化は平安時代以降とされる通説を覆す論だが、天龍寺に伝わる伝説がもとにあることは梅原氏も認めている
怨霊信仰は戦国時代以後弱まったとされ、戦国時代を過ぎる辺りから、神観念は変わりだし、勝者が神になろうとする事例が現れる。明治維新政府も慰霊の対象としたのは討幕派の戦死者だけで、敗者を祀ることはしていない
国旗や国歌に伝統を感じる人々のこともいぶかしく思う。いずれも東京が首都になってから浮かび上がった、新出来の象徴でしかありえない。どうして近頃の政権は、ああいうものを国民に押し付けたがるのだろう。現政権の歴史展望が明治より前に届かないのかと、がっかりするが、京都の中華思想を振りかざす手合いと同じようなことを言っている
誰しも似た者同士の中でこそ、自らを際立たせようとするものである

あとがき ~ 七は「ひち」である
小学校では「しち」と教えられたのかもしれないが、現代の国語、中央政府の決める日本語が、七を「しち」にしていると知ったのは40歳代を迎えてから
96年、41歳の時、『戦時下日本の建築家』を刊行した際、なかに七七禁令(194077日施行)を論じた個所がある。贅沢を戒め、建築の表現も縛った規則に言及したものだが、索引を作る段階で、「は」行に分類したところ、編集部が拒否反応を示し、結局中央政府の威光を笠にきる朝日新聞の出版局に押し切られた
京都には七を冠した地名がいくつかあり、京都人は「ひち(古い世代は「ひっちょう」とも)」と呼ぶが、路上で見かけるローマ字表記はみな「しち」に統制されている
北に向かう京阪電車で「しちじょう」のアナウンスが流れて降りると、お年寄りが「なんや、ここ四条とちゃうやないの、まだ七条(ひっちょう)やんか」
関西だと、「し」で始まる数字は、四にしかなりえない。大阪や滋賀の人でも、こういう聞き取りのミスは十分起こりうる
京都の市バスは、このごろ「ななじょう」と言い出した。混同を避けるためだが、地名からは余計に遠ざかっている
本書で、京都洛中の悪口を書き、洛外に育った私の、洛中に馴染めない部分をあげつらってきたが、七の読みに関しては価値観を分かち合うことができる
歴史上の人物などは譲れるが、こと地名だけは、人々が毎日呼び習わしてきたもので、「上七軒」は絶対に「かみひちけん」なのである。本書でも「上七軒」に言及したところ、朝日出版の後裔が「かみしちけん」とルビを振ってきたので、そうするくらいならルビを振らにままのほうがましと言ったら、結局「かみひちけん(ママ)」というルビになった





京都ぎらい 井上章一さんに聞く
古都の選民意識、笑いに 屈折した愛、さらす
2016.4.23. 日本経済新聞「こころ」

 ありがちな「麗しい古都」礼賛にはするまいと思った
 京都市中心部の「洛中」の気位の高さを笑い飛ばす著書「京都ぎらい」が20万部を突破し「新書大賞2016」に選ばれた。
 「東京のメディアが褒めそやす京都案内本、雑誌やテレビ番組の京都特集――。私もBS放送で、ある女優さんと嵐山かいわいを散策する番組に出演したことがあります。何でも語っていいと言われていたので、率直にしゃべった。ところが実際にはかなり割愛されていました。あいにく制作側が意図する『麗しい京都』のイメージにはそぐわなかったのでは」
 「京都にまつわる情報の洪水のなかでこの本など破片の一かけくらいの存在でしょう。世論に訴える力などなく、そもそも京都好きの観光客が買っているとは思えない。実際、最初に売れ出したのは大阪でした。『京都はお高くとまったえらそうな街』と思っている空気があり、胸中を代弁してくれたとみられたのかもしれません」
 「執筆のきっかけは京都で趣味のプロレスを観戦したときの体験。試合に先立ち、京都府出身の悪役レスラーがリング上から京都に帰ってきたことをアピールした。すると『お前なんか京都ちゃうやろ、宇治やないか』『宇治のくせに京都と言うな』というやじが飛んだ。ああ、またか。排他的な意識がこんなところでも。ぼく自身、嵯峨(京都市右京区)育ちの宇治市住まい。こうした狭い了見に繰り返し遭遇してきた。かねてなじみの編集者から『京都の本を書かないか』と打診されていたので『麗しい京都』ものにはしないが、それでもいいかと聞くと『かまいません』と。それで決心しました」
 宇治も世界文化遺産の平等院や萬福寺などを抱え、風光明媚(めいび)な名所旧跡に事欠かない京都有数の立派な観光地だ。
 「しかし洛中のなかには『自分たちと一緒にしてほしくない』と、京都を名乗るのに非寛容な人もいる。よそからするとこうした重箱の隅を突つくような感覚が、不思議に思えるかもしれません。しかしちっぽけな違いにこだわる何かが、この街にはある」
 著書では毒の利いた爆笑エピソードを重ねて、洛中から同心円状に広がる序列めいた綾(あや)が京都に横たわっていることを浮かび上がらせた。
 「どうでもよさそうな差異にこだわって他人をからかい、あなどる。そんな一種の中華思想、選民意識を笑いのオブラートに包んでさらけ出しました。『京都を敵に回すような本書いて、あんた京都に住みにくくなるんやないか』と心配してくれる人もいますが『あいにく京都に住んでませんから』といなしています」
 序列の綾(あや)への関心にこたえる残った聖地が地域ネタ
 「漫才の世界では髪の薄い人や肥満した人、背の低い人が笑いの標的だった。現実には身体的特徴を笑いものにされると当人は傷つくものです。身体的特徴は笑いのネタから外すのが妥当だという良識、常識が根を下ろしてきた。一方で、人はどこか序列や差異への関心を捨てきれない。その残された対象が地域ネタなのではないか。『この地方ではこんな不思議なことがなぜか常識になっている』。そんなことを面白おかしく取り上げるテレビのバラエティー番組が人気だという。この本が売れているとしたら、そんな気分に通じる背景があるのかも」
 洛中の人が洛外を見下すという構図を笑い話として紹介しながら、井上さん自身、同じワナに陥っている自分に目覚めることがある。
 「京都市の西隣に亀岡市があります。子供のころは父と亀岡のプールに出かけるのが楽しみで、ずっと親近感を抱いてました。ところがあるとき、亀岡市出身の人に『井上さん、嵯峨育ちですか。じゃあお隣ですね』と声をかけられた。まてよ。確かに嵯峨のある京都市右京区と接してはいるものの、亀岡は山を越えた先。それに引き換えこちらはあくまで京都市の一角。それを一緒にされるなんて……という思いが頭をもたげてきました。そこではたと気がついた。これって、周囲を見下したがる、あの意識と根が同じではないか。皮肉っていた中華思想に、いつの間にか自分が染まっている」
 愛郷心や郷土愛は自己愛の肥大化したもの。それ自体は自然な感情かもしれないが、両者の最小公倍数が、ともすればねじれた愛国心になりかねない。ネット上に横行するバッシングや街頭でのヘイトスピーチを生み出す根底に、こんな自己愛がひそんではいないか。
 「人間の中には、自分を優位において、劣位の人を見下そうとする傾向がどこかあります。人はみな平等であるという公教育になじんでいながら、そんな感情にいつしかとらわれているのでは。そう自問しながら、私は京都近郊で暮らしています」
 「この本を平積みにした京都のある書店で、販促文句に『ほんとは好きなくせに』と書かれているのを見かけました。意地悪な京都本を書いたつもりが、実質は京都礼賛になっている。ちょうど阪神ファンがぼろくそにタイガースをけなしつつ、実は愛情をもっている。それと同じ京都への屈折した心情を言い当てているかもしれません」
(編集委員 岡松卓也)

 いのうえ・しょういち 1955年生まれ。京都市出身。京大工学部卒、同大学院修士課程修了。京大人文研助手を経て国際日本文化研究センター教授。建築史・意匠論が専門。通念の生い立ちを読み解く手腕に定評がある。主著に「つくられた桂離宮神話」「美人論」「関西人の正体」「日本に古代はあったのか」ほか。








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