クロイツァーの肖像  萩谷由喜子  2016.7.

2016.7. クロイツァーの肖像 日本の音楽界を育てたピアニスト

著者 萩谷由喜子 音楽ジャーナリスト・評論家。文京区生まれ。日舞、邦楽とピアノを学び、立教大卒後、音楽教室を主宰する傍ら音楽評論を志賀栄八郎に師事。専門研究分野は、女性音楽史、日本のクラシック音楽受容史。90年代から音楽誌、新聞に演奏会

発行日           2016.4.10. 初版発行
発行所           ヤマハミュージックメディア

プロローグ ~ わが恋は実りぬ
1951.9.30.付け読売新聞文化欄のトップの見出し「わが恋は実りぬ。巨星クロイツァー氏 日本女性と結婚」
ナチスによってドイツ国籍を剥奪されたため、ロンドンに住む現夫人との離婚手続きに手間取り、日本政府によって国籍が回復されてようやく愛弟子で藝大講師をしていた織本豊子(35)と結婚を発表

第1章        ロシアのレオニード・クロイツァー
84年 サンクトペテルブルクにて誕生
父親は法律家で大学教授
ユダヤ系ドイツ人とされるが、本人にはユダヤ人という自己意識は希薄、終生ユダヤ教の信徒ではなく、生活習慣にもユダヤ人の日常の戒律は見られない
才能のある幼年、青年時代を過ごしたが、ペテルブルク音楽院に入ったのは高等教育を終わった01年、16歳の時。アネッテ・エシポフという高名な女性教師に指示してピアノを学ぶ。同門下からは2歳上のシュナーベル、7歳下のプロコフィエフが巣立つ
作曲と音楽理論をグラズノフに師事、同門下からは22歳下のショスタコーヴィチが巣立つ
05年 音楽院卒業。コンサート・ピアニストとして活動開始。デビューは、9歳年長の作曲家ラフマニノフがグリンカ賞を受賞した記念演奏会で、受賞曲であるピアノ協奏曲2番を演奏して満場の喝采を浴びる
同年、新人ピアニストの登竜門であるルビンシテイン国際ピアノ・コンクールで4位入賞。優勝者はバックハウス、2位がバルトーク・ベーラ
81年即位したアレクサンドル3世が反ユダヤ主義で、熾烈な弾圧政策を敷き、息子のニコライ2世の時代にはユダヤ人を対象としたポグロムに発展、0506年頃頂点に達する
06年 さらに徴兵の危険が迫り、それを避けるためにも一家でドイツ移住を決断

第2章        ドイツのレオニード・クロイツァー
ドイツでは、ヴァイオリニストのアレクサンダー・シュムラーとデュオを組んで、親しくしていたマックス・レーガーの作品普及に貢献
自ら直接知る音楽家の中で真に教養のあった人物として生涯敬愛したのは、幼き日にその謦咳に接したリムスキー=コルサコフとグラズノフ。ニキシュとカール・ムック、トリオを組んだピアティゴルスキーにも一目置いた
ニキシュには、ライプツィヒに滞在した2年間直接薫陶を受けたことが、後の指揮者としての素地を培った
一方、ピアニストは技巧やテクニックの問題だけを強調すると苦言を呈する
11年 モスクワ歌劇場でラフマニノフのピアノ協奏曲2番を指揮して絶賛される。ピアニストはラフマニノフ本人 
作曲家本人による自作自演について、クロイツァーは、「作品に何を表現しようとしたか、如何にそれを表現したかを最もよく承知しているのは作曲家自身なので、一番理想的なのは作曲家自身によって演奏されること。ただ、今までは期待を裏切ることのみがあまりに多すぎた」として、チャイコフスキーの《悲愴》や、サラサーテ、ラフマニノフの例を挙げている
20年 ゲーテの物語詩をテキストに交響的パントマイム《神と舞姫》を作曲。22年に親友だったフルトヴェングラーの指揮で初演、翌年には自身の指揮で再演。ドイツから着の身着のままで脱出する際にもこの出版譜だけは携行した
他にも遺品の中には、《Marussia》という3幕大衆オペラの楽譜があり、クロイツァーの作曲で、手書きの書き込みが見られる。作曲時期は不明だが、ドイツ滞在中と推測される
21年 フルトヴェングラーの推薦により、ベルリン高等音楽院の教授に就任。ピアノ演奏の技法に関する著作や、楽譜の校訂にも取り組み、『ショパン全集』やシューマンの《子どもの情景》などの校訂版はピアノ学習者の勉強の助けとなる
23年 高折宮次(18931963)がベルリン高等音楽院に留学、クロイツァーの薫陶を受ける。腕の自然な重みを鍵盤に伝える重力奏法が主流となり、その代表格がクロイツァーで、高折は自身の限界を知って、次代の日本の若いピアニストを育てるために、クロイツァーに日本に来てもらうことを考える
23年には近衛秀麿も渡欧の一時期をベルリンで過ごし、クロイツァーに私淑したことが、クロイツァーと日本を繋ぐもう1つのパイプとなった
24年 慶大出の笈田光吉(190264)がピアノを学ぶためにベルリンに留学、高折のプライベートな弟子となるが、数年後に帰国してバルトークやプーランクといった同時代の作曲家を積極的に日本に紹介するとともに、自らの笈田塾を開いて絶対音感教育を広め、日本のピアノ教育界に大きく貢献するとともに、クロイツァーを招いてレッスンの場を提供、来日後のクロイツァーを献身的に世話した。笈田敏夫は長男でベルリン生まれ
25年 東京音楽学校からクロイツァー招聘の最初の打診に対し、クロイツァーは弟子のレオニード・コハンスキ(学校の公式文書ではヨセフ・カガノフ)を派遣。一旦ヨーロッパで活動後53年に再来日、武蔵野音大で教鞭。最初の時の弟子が井口(澤崎)秋子(基成の夫人)・愛子(基成の妹)、川上徹太郎、戦後の弟子が北川暁子、中村紘子、舘野泉

第3章        クロイツァーの来日
31年 初来日。近衛、笈田の懇請で、世界漫遊の途次立ち寄り  東京放送局スタジオから演奏を電波に乗せ、近衛指揮の新交響楽団の定期でソリストを務め、大阪の朝日会館、日比谷公会堂東京でのリサイタル、マスター・クラスなどをこなす。音楽界への貢献により天皇陛下から銀杯1組を下賜される
31年 ベルリンのクロイツァーに弟子入りしたのが澤崎秋子(後に井口基成と結婚して井口姓に)
同年 東京音楽学校校長が渡独して招聘するもギャランティで折り合わず、代わりにレオ・シロタが「傭外国人教師」となる
33年 ナチスの政権獲得により、クロイツァーは公職を追われ、亡命先にアメリカか日本を検討。同年、ベルリン・フィルを指揮するために渡独した近衛の勧めもあって、34年日本に来る
35年 3度目の来日で永住。東京音楽学校は講師の席しかなかったので、クロイツァーが拒否、笈田の私塾でマスター・クラスを持つ
新響と近衛の喧嘩別れから、日本放送協会が新響の楽員を個人採用することになり、同時にクロイツァーを嘱託雇用
新響は、近衛の後任の指揮者として、ベルリンのユダヤ文化協会管弦楽団の指揮者だったヨーゼフ・ローゼンシュトックを招聘。34歳でマンハイム国立歌劇場の音楽総監督に招かれるほどの実力の持ち主だけに、抜群の指導力を発揮して新響は飛躍的にレベルアップ
ローゼンシュトックもまたナチスの反ユダヤ主義政策の犠牲者で、ベルリン国立歌劇場での地位を前に公職追放に遭い、急遽ユダヤ人音楽家のみを雇用したオーケストラと歌劇団を結成していた
クロイツァーは、新響との共演を自ら企画していたが、新響側はローゼンシュトックに操を立てなければと、クロイツァーの企画を一旦承知しながら出演拒否を通告、裏の事情を知らされなかったクロイツァーは名誉棄損と損害賠償の訴訟まで起こす騒ぎになり、さらには間に入った人の行き違いから、ドイツ時代から旧知だった2人の間柄にもひびの入ることとなり、戦争で敵性外国人が公的活動を規制されるまで新響の公演は全てローゼンシュトックが指揮し、協奏曲のソリストも井口基成、原千恵子、朝吹文子、レオ・シロタ、草間(安川)加壽子ら8人に限定された。音楽家の世界は想像以上に狭隘で、競争、嫉妬、反目、排斥は珍しいことではないが、せっかく国際級のピアニストを抱えながら、クロイツァーが新響と共演することはなかったのは何とももったいなかった

第4章        大戦前夜
3度目の来日以降、クロイツァーは、逆境にもめげずに、ピアニストとして積極的にリサイタルを開く
織本豊子・孝子の姉妹が入門  成蹊高女卒後トドロヴィッチについてピアニストの道を目指していた豊子は、同じロシア出身のクロイツァーの来日に神経を尖らせていた師の言葉通り、クロイツァーの演奏会を敬遠していたが、内緒で出掛けた演奏会で魅了され、音楽教育の権威だった佐々木幸徳の紹介状をもってクロイツァーの門を叩く
クロイツァーは豊子の演奏を聴いてその才能にほれ込み、すぐに弟子入りを許す
孝子も同時に入門、結婚後も近藤孝子として、姉とともに国立音大の教授として多くの後進を育てる。孝子の門下生には77年ルービンシュタイン・コンクールで3位に入賞した寺田悦子がいる
36年 元東京音楽学校教授で私塾「審声会」を主宰していた幸田延が音頭をとったクロイツァーのマスター・クラス開催
38年 東京音楽学校の「傭外国人教師」ワインガルテンの帰国に伴い、クロイツァーを、最初は「教務嘱託」として、後に「外国人講師」として迎え入れる  駐日ドイツ大使館から外務省にドイツからの逃亡者の雇用取り止めの横槍が入ったものの、文部省が強行したが、外務省の顔を立てて「傭外国人教師」にはしなかったということ
44.3.31.東京音楽学校のユダヤ系教師が全員職を解かれるまで、世に言う「シロ・クロ」時代が続く
クロイツァーは、現在の大学院に相当する研究科の指導を担当
同じ在日外国人でヴァイオリニストのアレクサンダー・モギレフスキー、チェリストのロマン・ディクソンとのトリオ活動にも傾注  2人ともローゼンシュトックと衝突事件を起こしたことで知られる人物で、彼らとトリオを組んだことを快く思わなかったのか、戦後新響改め日本交響楽団の指揮台に復帰してからも、彼は一度もクロイツァーを協奏曲ソリストに招いていない
クロイツァーは、戦後協奏曲ソリストとしても目覚ましく活躍するが、その折の指揮者は自らの弾き振りか近衛が多く、関西ならば朝比奈と共演したが、ローゼンシュトックとの共演はなかった
モギレフスキー事件は37年。新響定期のリハーサルの際、両者の音楽観の違いから喧嘩別れになったもの。いきさつを巡って侃々諤々の大論争が起こったが、コンチェルトである以上、指揮者は伴奏者ということを忘れてはならないという教訓が残る
ディクソン事件は42年。同じくリハーサルでのこと。R・シュトラウスの交響詩《ドンン・キホーテ》だが、主題を一貫して独奏チェロが担当するため、チェロのソリストが事実上の主役。ディクソンがヴィオラのミスを聞き逃した指揮者を糾弾したため、ローゼンシュトックが怒って帰ってしまったため、《ドン・キホーテ》の演奏が不可能になり、演奏会は曲目を変えて開催

第5章        戦時下のレオニード・クロイツァー
4041年 ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全32曲を、ピアニストが分担して演奏、JOAKで生放送するという企画があり、日本人20人とマンフレッド・グルリット、ヨーゼフ・ローゼンシュトックが各1曲、シロタとパウル・ショルツが各2曲担当したのに対し、クロイツァーだけ異例の5曲。クロイツァーが当時日本での最高のベートーヴェン弾きと見做されていたことがわかる。日本人の顔触れは、土川正浩、高折宮次、榊原直、永井進、朝吹文子、水谷達夫、今井治郎、藤田晴子、黒川いさ子、富永瑠璃子、小倉末子、福井直俊、近藤みどり、伊達純、笈田光吉、谷康子、田中光江、井上園子、高木東六、石澤秀子
最後の32曲目の前で開戦となり、ツィクルスは中断
41年 山田耕筰を中心に「日本音楽文化協会」結成、ユダヤ人音楽家排斥の声を上げる
41年 ナチス政権は、国外居住のユダヤ系ドイツ人からドイツ国籍を剥奪
クロイツァーは、暗雲をはねのけるかのようにレッスンに励むが、その最中の42年頃、かつてベルリンで教えた大月投網子の娘・大月フジ子が入門。投網子が留学中にスウェーデン系ロシア人の建築家・ヘミングとの間に設けた娘で、後のフジコ・ヘミング
しばしば演奏会の全収益を献金  入場料45円の時代に1000円の寄附。日本への恩返しの現れだったが、日本政府の返礼は風当たりを強めただけ
44.3.31. ユダヤ系音楽教員の事実上の公職追放
45.5. ドイツ降伏とともに、在日外国人は小石川区関口の天主公教会に軟禁、空襲で焼失後は日本女子大構内に移り、校長の英断でピアノを弾くことができた
46年 阪大病院で緑内障の手術を受けているが、戦時中の過酷な生活の煽りではないか

第6章        戦後のレオニード・クロイツァー
終戦とともに、茅ヶ崎海岸に住む
田中希代子(193296)も、ヴァイオリニストの父に連れられてレッスンを受けに来たが、当時の交通事情の悪さから継続を断念している。田中はその後安川加壽子に師事が叶い、安川の推薦で戦後初の仏政府交換留学生として、パリ国立高等音楽院で安川の恩師・ラザール・レヴィに師事、52年のジュネーヴ国際で最高位を獲得。クロイツァーとの師弟の縁は短かったが、クロイツァーは当時すでに希代子の将来を予言していた
46年 東京音楽学校に復職  50年まで在任
同年、ローゼンシュトックとシロタがアメリカに去り、クロイツァーと日本交響楽団の共演が再開。22年日比谷公会堂での暗闇のコンチェルトのエピソードは有名。たびたびの停電による中断に業を煮やしたクロイツァーが、暗闇の中で一人、オーケストラ・パートを補いながら弾き始めた
指揮者としても日本交響楽団と共演
16歳のヴァイオリニスト・豊田耕児を高く評価
48年 ドビュッシーの没後30周年の記念演奏会で織本豊子と初の共演。共演者の呼吸を合わせることが難しい《2台ピアノ組曲》の第一ピアノを豊子に弾かせているのは、豊子の力量に信頼を置いている表れ
49年の日比谷公会堂での演奏会で、中学生の小澤征爾がクロイツァーの指揮と演奏を聴く。初めての生のオーケストラ演奏、特にクロイツァーの弾き振りに感激して、指揮者への道を歩む決心をして、親戚の齋藤秀雄の門を叩く
加山雄三も、茅ヶ崎の地元で通学路にあったクロイツァーの家から流れてくるピアノに魅せられて入門を問い合わせたところ、中学生は直接見ることはできないと言って女性教師を紹介されたという
48年 国立音大に「技術最高指導者」として迎えられる  ドイツの音楽院やショパン協会から帰国を慫慂されていたが、すべてを断って日本での仕事を選んだ陰には豊子の存在がある。豊子もすべての縁談を断ってひたすらクロイツァーに敬愛を捧げ、ともに国立音大の教授に就任
50年 バッハ没後200年記念演奏会では、日本交響楽団との共演で、指揮と弾き振りに加え、ソリストたちの指導も担当
51年 自らの在日20周年記念演奏会が読売新聞主催で開催。同年には、大阪に開局した朝日放送ラジオのために記念演奏会のプログラムから放送録音をする
52年 豊子と結婚  年間200回の演奏会をこなし、東五反田5丁目に360坪の新居を建てる。豊子の弟で織本病院の2代目院長となる外科医・織本正慶の長女・凉子(すずこ)を養女とする。凉子は国立音大声楽科に進みソプラノ歌手となる
自分の弟子以外にも、若いピアニストたちに好意的な眼差しを注ぎ、彼らの演奏の首尾を気にかけていた  シロタの弟子の園田高弘も、クロイツァーには反発すらしていたが、温かい声を掛けられているし、田村宏もラジオ放送の演奏に関するコメントを寄せられて感激した
レパートリーを蓄えろというのが口癖で、同じ曲ばかり何度も弾く演奏家を「田舎音楽士」(ドサ回りでいつも同じレパートリーを弾くという意味)と言って怒った
52年 大阪女学院での労音主催の特別演奏会の途中で右手に異常を感じて、演奏会を中止。原因は高血圧で、2か月余りで元に戻る

第7章        最後の年
53年 盟友モギレフスキー死去。戦時中から腎臓病を悪化させていた
53.6. 全快記念リサイタル
クロイツァー門下の3俊英と言われたのは、松原緑(大賀典雄夫人)、井内澄子、大内喜代子で、いずれも20歳そこそこの若いピアニスト
53.10. 青山学院でのコンサートの途中で再び倒れる。軽い脳貧血と診断されたが、2日後に容態が急変して死去、享年69.国立音大の音楽葬で送られる。遺骨は松戸の八柱霊園に

第8章        クロイツァー(織本)豊子の37
54年 クロイツァー豊子独奏会  夫のピアニズム継承の覚悟を示す
89年末 体調を崩して演奏会を中止
90年 体調回復を待って、元気なうちに演奏を残しておこうと録音する
4か月後、胃がんの悪化で逝去。享年74
奇しくも豊子と同じ37で未亡人となったクララ・シューマンが、その後40年間世にあって、夫の作品の最大の解釈者、伝播者として晩年までひたすらに演奏活動を継続。彼女のたゆまざる歩みが、後のシューマンの評価の1つの礎となったが、クロイツァー豊子の後半生の歩みもクララのそれとどこか重なる
姪で養女のクロイツァー凉子は、声楽科と器楽科を擁するベルトーン音楽院の院長として後進の育成に携わりながら、定期的にリサイタルを開催、歌う時も常にピアノの和声感覚や伴奏ピアノのニュアンスを念頭に置くという。音楽院の事業の一環として伯母から引き継いだ大泉の豊子の居宅に「クロイツァー豊子音楽サロン」を設け、上質の音楽を身近で楽しむことのできるアット・ホームなサロン・コンサートも主催
今後、クロイツァーの名前とピアニズムの受容、評価が更に進むためには、まだ日の目を見ない音源の復刻や膨大数存在すると言われるピアノ・ロールの行方探索、交響的パントマイム《神と舞姫》、オペラ《Marussia》等作曲家としてのクロイツァー作品の精査、すでに復刻された録音の再発売実現など、まだまだ課題も多い
2代の女性が彼の音楽の燈火を守ってきたことは、今後のクロイツァー研究に少なからず寄与するに違いない

エピローグ ~ クロイツァーの遺産
頭での理解を超えて、魂の奥底で音楽を感じ取ってほしい、とクロイツァーは言う
62年 「クロイツァー記念会」設立  70年から国立音大大学院ピアノ科専攻修了生の最優秀者に「クロイツァー賞」を授与、後日藝大、武蔵野音大も加えられた。毎年「クロイツァー賞受賞者による演奏会」開催、各大学院の受賞者3人が競演
1人のピアニストを記念する自主組織が半世紀近くにわたって脈々と運営され、後進ピアニストを顕彰する活動を継続している例を他に聞かない

あとがき
クロイツァーの名前と出会ったのは、03年上梓した幸田姉妹の評伝を執筆中のこと
一般のピアノ学習者にオーケストラとの協演など夢物語だった36年に、幸田延は3名の若い女性に海軍軍楽隊オーケストラとの協演をさせ、大成功を収めた。それに驚きの声を上げたのがクロイツァーだった
引き続き日本のクラシック受容史を辿り、日本人として初めて海外のメイジャー・コンクール(ジュネーヴ国際)で最高位を獲得したピアニスト・田中希代子の評伝の取材中、クロイツァーとの接点が見つかり、不思議な運命の糸を感じた。このとき田中とクロイツァー豊子の交流秘話を披露してくれたのが凉子で、05年田中の評伝を発刊した後、凉子からクロイツァーのことを書いてほしいと依頼される
何度も暗礁に乗り上げていた矢先、ローザンヌ音楽院教授から、ロマン派レパートリーの演奏法研究プロジェクトを立ち上げ、クロイツァーの音源を求めているとの連絡があり、その要望に応えたところ、他にもクロイツァー資料があれば手に入れたいとの要望があった。ヒトラーの野蛮極まりない人種政策と残虐な戦争さえなければ、ヨーロッパの第一級のピアニストとして順風満帆な音楽人生を歩み、音源や自著作品をはじめ多くの資料がベルリンに残されたであろうクロイツァーの手掛かりは、今や、ヨーロッパには皆無といってよく、彼が終生の地とした日本に求めるよりほかはない。それならば、手に入り得る限りの資料からクロイツァーの人生を再構築し、音楽業績を詳らかにして、どなたにもわかりやすく読んでいただける評伝をまとめることは、日本人物書きの使命ではないか
SPレコード研究の世界的大家でコレクター、かつ、クロイツァーのディスコグラフィを残して亡くなられたクリストファ・N・野澤からは、クロイツァーの貴重な音源を聴かせていただいた。その膨大なレコード・コレクションと蓄音機の名器の数々は藝大附属図書館に遺贈されている


多才な音楽家クロイツァーに光
戦後日本で教育・作曲・指揮 記念公演や評伝で再評価
日本経済新聞 「文化」 2016.6.25.
フォームの終わり
 第2次世界大戦前後、日本を拠点に活動した世界的ピアニストのレオニード・クロイツァー(18841953年)。今年に入り、彼を顕彰する公演開催や評伝刊行が続き、教育、作曲、指揮など多彩な仕事ぶりが明らかになっている。根底にあるのは日本にクラシック音楽を根付かせようとした気概と情熱。現代の音楽家もその精神を受け継ごうとしている。
晩年のクロイツァー()と妻の豊子=クロイツァー凉子提供
 「当時は未熟で理解できなかったが、今思えば理論と感情のバランスが取れた指導だった。先生は時代を先取りしすぎていた」。東京音楽学校(現・東京芸術大学)でクロイツァーから指導を受けた95歳の現役ピアニスト、室井摩耶子はこう振り返る。
感情表現説く
 クロイツァーは教育者として非常に厳しかったといい、弱音記号のピアニシモの弾き方を巡り、ものすごいけんまくで怒られたのを室井は覚えている。「私も含め、当時の日本人は譜面通りに弾くのが精いっぱい。先生は音の微妙なニュアンスや感情表現、リズムの本質など『音楽文法』の大切さを教えてくれた」
 そんな彼の日本での業績をたたえて1962年に結成されたクロイツァー記念会は、彼と縁の深い東京芸大、国立音楽大学、武蔵野音楽大学の優秀な学生に「クロイツァー賞」を与え、毎年受賞者による記念演奏会を開催。7月10日に東京文化会館(東京・上野)で開かれる今年の公演は40回目の節目だ。
 今回は演奏会とともに、クロイツァーが長年外出時に持ち歩いていた練習用の無音鍵盤など遺品の数々を会場に展示。10月には、東京芸大でクロイツァーの演奏をSP音源で聴ける企画もある。記念会会長でピアニストの植田克己は「先生の指導は日本の音楽の基礎を築いた。若い学生にもその存在の大きさをかみしめてほしい」と話す。
 作曲家としての側面にも光が当たっている。4月に評伝「クロイツァーの肖像」(ヤマハミュージックメディア)を刊行した音楽評論家の萩谷由喜子は執筆の過程で、国立音大が保管するクロイツァーの遺品からパントマイムを伴う音楽劇「交響的パントマイム『神と舞姫』」の譜面を確認。この曲は22年、指揮者フルトヴェングラーによって価値を認められ、ドイツで初演された。
 ほかにも、3幕オペラのフルスコアらしき楽譜も見つかった。これまでクロイツァーの作曲家としての業績はあまり知られていなかっただけに貴重な資料だ。「戦後すぐに亡くなったため弟子や関係者が少なく、彼の功績を語り継いだり、資料を整理したりする機会がこれまであまりなかった。戦後70年が過ぎ、ようやくそうした機運が出てきた」(萩谷)
 クロイツァーはラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」をラフマニノフ本人のピアノ演奏で指揮するなど、欧州では指揮者としても高く評価された。公演記録などから日本でも指揮者として演奏会にたびたび出演していたことがわかり、萩谷の著書で詳述されている。
地方でも演奏
 新交響楽団(現・NHK交響楽団)を創設し、「日本のオーケストラの父」と言われる指揮者の近衛秀麿とドイツで親交を結び、ナチスの迫害が強まると近衛の助言により来日。萩谷は「亡命先に日本を選んだのも、指揮者活動が期待できるからだった」と話す。
 戦後の混乱期に演奏家として地方公演を催し、一流の音楽を広めた功績も明らかになってきた。亡くなる約1カ月前に岡山市の百貨店「天満屋」が開設した新ホールで演奏。その時に使ったとされるピアノが岡山市内で保管されており、最近の調査で本物と確認された。調査に携わったくらしき作陽大学特任教授の瀧井敬子は「製造番号からして高品質のピアノ。クロイツァー自身が精選したのだろう」と話す。
 ピアノは保存状態がよく、調律により使える状態に回復。クロイツァーの功績を後世に残そうと今年7月にはこのピアノで当時の演奏会プログラムを再現した2枚組CD「クロイツァーの記憶」も発売される。若手ピアニストの川崎翔子、佐野隆哉がベートーベンやショパンなどの計10曲を手分けして弾いた。「クロイツァーはこの重厚なプログラムを1人で弾き切った。地方に音楽を届けたいという熱意が感じられた」と佐野は言う。
 クロイツァーは厳しく音楽に向き合ったが、演奏を離れると笑顔や冗談を絶やさない優しい人柄だった。姪(めい)でソプラノ歌手のクロイツァー凉子は「彼が深い愛情を注いで日本の音楽界に残したものは、私も含めた後世の音楽家が受け継がなければいけない」と語る。
=敬称略
(文化部 岩崎貴行)
 レオニード・クロイツァー ロシア生まれ。父はユダヤ系ドイツ人。サンクトペテルブルク音楽院で学び、その後渡独しベルリン高等音楽院教授に就任。ナチスドイツの迫害に遭い、1935年以降は日本に亡命し永住。東京音楽学校やその後身の東京芸術大学で教壇に立つ傍ら、演奏家としても幅広く活動。52年教え子のピアニスト織本豊子と結婚。翌年69歳で死去。


Wikipedia
レオニード・クロイツァーLeonid Kreutzer, ロシア語: Леонид Давидович Крейцер Leonid Davidovič Krejcer, 18841883説もある)113 サンクトペテルブルク - 19531030 東京都)はドイツ日本で活躍したロシア生まれのピアニスト指揮者。ユダヤ系ドイツ人を両親に持つ。ロシア語読みではレオニート・ダヴィードヴィチ・クレーイツェル。妻は門下生だった、クロイツァー豊子(旧姓・織本)。養女のクロイツァー涼子はソプラノ歌手。
略歴[編集]
ショパン全ピアノ作品の校訂版(音楽之友社)、『装飾音(1948大化書房)などを著作するとともに、ピアノ曲など作品も残している。
日本が生んだ世界的指揮者の小澤征爾は、日比谷公会堂で、クロイツァーがピアノを弾きながら「皇帝」を指揮したのを見て、指揮者になる決心をした。
昭和24年に東京芸術大学の声楽科に入学した大賀典雄は、クロイツァーの授業(ピアノ科以外の学生にも門戸が開かれていた)をたびたび見学しており、当時クロイツァー門下生だった松原緑と後に結婚することになる。[2]
YMO細野晴臣の母方の祖父である中谷孝男は(中谷は国立音楽大学音響工学科講師で、ピアノ調律でもあった)、クロイツァーのマネージャーだったこともある。
のちの俳優加山雄三1951頃、家が近所だったため指導を望んだが、クロイツァーは別のピアノ教師を紹介した。加山の両親にピアノに対する熱意が無く、『見栄』で習わせようとしたことにクロイツァーが気を悪くしたためと伝わっているが、クロイツァーの体力的な問題もあったのかもしれない[?]。なお、これをきっかけに加山自身はクロイツァーが紹介した女性教師の下で本格的にピアノを始め、のちに弾厚作としてピアノ協奏曲を作曲するまでになった。
門下生[編集]
脚注[編集]
1.    ^ 現在、「「レコーディングの夜明け」~ジュリアス・ブロックのシリンダー録音集」に収録。
2.    ^ 『レオニード・クロイツァーその生涯と芸術』(山本尚志著、音楽之友社発行)推薦文より。


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