軽井沢物語  宮原安春  2016.6.28.

2016.6.28. 軽井沢物語

著者 宮原安春 1942年長野県戸倉町生まれ。早大露文中退。ノンフィクション作家。『誇りて在りー「破戒義塾」アメリカへ渡る』で第20回埼玉文芸賞

発行日           1991.4.18. 第1刷発行
発行所           講談社

プロローグ
ü  標高1000mのリゾート
気象の変化が激しい
霧が深く、湿気がひどい。冬は寒く、土地は火山灰地で痩せている
霧の発生回数は、昔に比べて減っているとはいえ、年間150日以上
聖パウロカトリック教会は、遠藤周作著『薔薇の館』の舞台

ü  真夏のピーク人口は15万人
面積 15,600ha 内半分は国有林、 課税対象土地 6,000ha
課税対象土地の所有者 町内の個人25.4%、法人3.7%、町外の個人38.9%、同法人32
5,500世帯、人口15,000人、別荘11,500件、会社寮341、学校寮116、ホテル等宿泊施設の収容人員16,700、真夏のピーク人口15
リゾート軽井沢が注目を浴びる契機となったのは1987年のリゾート法(総合保養地域整備法)で、大型開発プロジェクトが日本全土で動き出したから  農地法、自然公園法などによる開発規制や国有林野の利用などをリゾート開発に限って緩和
北原白秋、堀辰雄、立原道造、室生犀星、川端康成、水上勉、中村真一郎等が軽井沢を舞台にしたフィクションやエッセーを書いているが、町の実像や社会学的考察を描いたものはない
駅から雲場池に向かう別荘地の一画にある外人墓地の墓碑銘からその裏の潜むドラマを通じて、リゾート軽井沢の歴史を解き明かそうとする

第1章        異人たちの夏
軽井沢に日本人として初めて別荘を建てたのは八田裕二郎(裕次郎は誤記)1893年のこと。1849年福井県生まれ。松平春嶽の下、18歳で英国に留学、維新政府の下でも海軍の勉強に再渡英。さらに東伏見宮のパリ留学のお付き武官として随行。海外生活が長くノイローゼになり海軍大佐で勇退。群馬の霧積温泉で保養中、牛肉が出てきたので問い質したところ、軽井沢に異人が多くいるので手に入ると言われ、異人に興味をもって軽井沢宿に向かい、異人たちとの交流に居心地の良さを感じすぐに別荘建設
5厘で300坪購入。明治末の旧軽井沢の坪単価は35(東京の銭湯が13)
現在は国土法に基づく地価監視区域に指定され、坪800万との噂もある
旅籠つるやの長男・佐藤孝一著『かるゐざわ』(1912)
1886(明治19)が避暑地元年。別荘の嚆矢は1888
最初に滞在した外国人は18家族。アメリカ人12名、英国人37名の計49
188384年 中山道のある碓氷峠より南側に車用の国道建設
1884年 私鉄の日本鉄道会社が上野~高崎間に開通、翌年横川まで延伸。日本海側からは88年に直江津~軽井沢間開通。軽井沢~横川はレールの上を馬車が走る鉄道馬車
碓氷峠は太平洋側と日本海側の分水嶺、両文化の合流地点
外国人が求めたのは、日本の高温多湿の夏を凌ぐための土地で、8月の平均気温20.2℃という軽井沢の冷涼な気候は恰好
江戸時代末期に参勤交代が無くなって以降衰亡の一途を辿り、明治20年前後は疲弊の極にあった。最後に賑わったのは78年の天皇巡幸のときで、長野県庁に借金をして宿舎を建てる
軽井沢宿は、中山道の18番目。沓掛、追分とともに「浅間根腰の3宿」と呼ばれた
軽井沢に最初に足を止めた外人はジェームズ・メイン・ディクソン(18561933)。スコットランド生まれ。8092年在日、工部大学校の官雇の英語教師から文科大学教授
ディクソンは英文学科の生徒だった夏目金之助に『方丈記』を英訳させている
1886年 ディクソンが亀屋と借家の契約をした後、牧師のアレキサンダー・ショー(18461902)を伴って来軽
ディクソンの俸給が年4,680円、軽井沢の家賃がひと夏12
ショーはカナダ生まれ。イギリス国教会の牧師となり、布教自由化後の最初の宣教師として73年に来日。英国公使館の公式牧師として三田に住んだところから福澤と親交、福澤の私雇外国人として7477年の間英語教師。尾崎行雄も教え子で、洗礼を受けている
1886年築の中山道沿いの家が別荘第1号。大塚(だいづか)山が第2号。土地は、知人の日本人名義になっている
軽井沢の人々は、チップ目当てに異人に群がり、異人のために彼らから食材の作り方を教わって供給した
90年 英国公使の別荘が二手橋そばに建設され、避暑地としてのステイタスが確立

第2章        黒船、山に登る
廃宿で寒村となった軽井沢が、異人によって再び旧時の繁栄を取り戻す
91年夏 外人客に気兼ねして、旅籠、芸者屋が9月末まで歌舞音曲謹慎の申し合わせ
尾崎行雄とテオドラ尾崎(日本名・英子。行雄と同姓だが別人の尾崎と愛人とのハーフの娘。後に来日して英公使夫人秘書に)の娘が相馬雪香
90年の国会開設以来の衆議院議員で、03年からは東京市長を兼務、04年夫人の死去直後にテオドラと知り合い再婚。古くから軽井沢に来ていたテオドラが行雄を誘って軽井沢で夏を過ごすようになる。二手橋から峠に向かう場所に建てた別荘が「莫哀(ばくあい)山荘」(“哀しみのない山荘の意)
行雄の随筆『山荘閑話―軽井沢が好きなわけ』 地質と浅間の噴煙のためか湿気が少なく、広々として散歩区域も広い
頌栄女学校は、外国ミッション(布教本部)の資金に頼らないで、日本人独力でクリスチャン・スクールとして、岡見清致(きよむね)によって設立。岡見家は福澤家とも親しい。ここの外国人教師も軽井沢に別荘を構えた一人
宣教師たちにとって、リトリート(一時退却)に不可欠な場所
93年 碓井トンネル開通、アプト式軌道と新型機関車による列車が走る  外国人の別荘が増え、牛乳のための酪農牧場が雨宮敬次郎や稲垣正直などによって始められ、玉葱または甘藍(かんらん)と呼んだキャベツの栽培もこの年から開始
来軽する外国人の中で主導権を取ったのはショーだが、イギリス国教会(聖公会)ゆえに形式ばっていて、プロテスタント諸派との間に対立、93年には農尾大地震の被災者救済を巡り、施設を造ろうとするプロテスタントのマクネアと、避暑好適の地に相応しくないとショーが反対。次第にマクネアが外国人の中心になっていく
マクネアは、明治学院の教師であり、長老派宣教師。頌栄女学校のキャロライン・アレキサンダーと再婚
近代国家建設に向けた波は軽井沢にも及び、トンネル工事にあたった鹿島組の鹿島岩蔵がホテル建設の必要性を説くなど、都会人が軽井沢の経済、行政に口をはさみだす
94年 日英新条約調印  治外法権撤廃、99年から外国人の国内雑居可能に
旧道通りの亀屋が万平ホテルと改称
94年 「軽井沢会議」開催  プロテスタントの超教派宣教師によるアジア全域対象の国際会議
日本人の華族、学者なども軽井沢に集まりだす
97年 伊藤博文の娘婿・末松謙澄が二手橋そばに別荘『泉源亭』を建てる
94年 私立学校におけるキリスト教教育の禁止令  明治学院は訓令を拒否して尋常中学校の特典を返上、東洋英和は礼拝を廃止、教育内容を変えて存続
日露戦争の間も軽井沢は避暑地として平和に存続、在日外国人に混ざって、米英の経済人が増えているのは、軍需物資の売り込みにやってきた商人で、時局の恩恵を蒙ってホテルなどが繁盛していた  万平ホテルは桜の沢の別棟を建てる
05年 三笠ホテル開業  国立十五銀行(通称華族銀行)の創立者・山本直良。有島武郎の妹と結婚。直純の祖父。93年に父から譲り受けた三笠山の麓の10万坪に、純洋風のホテルを建てる

第3章        草原の円卓会議
軽井沢が高級リゾートに飛躍していくターニングポイントは09
避暑客宿泊人員調査表によれば、外国人が1,000人を超え、日本人も34名の華族を含め4,000人に達し、宿泊延べ人数は12万となる。外国人は英国496、米国542、ドイツ50、中国23、スイス19、フランス13など15か国にのぼる。別荘150
「娯楽を人に求めず、自然に求めよ」が合言葉で、「万事平民的に振る舞う、即ち、すべての人種、階級の埒を打ち破って、自由に平等に自然に親しみ、人生を楽しむ」
外国人避暑客の大半が宣教師とその婦人、子供たちだったこともあって、いかがわしい職業の女性や店はなく、禁欲的なリゾートとなり、それが逆に付加価値となってリゾートとして高度成長する
05年 長老派宣教師オーガスト・ライシャワー来日、その年から軽井沢の常連で、後の駐日大使エドウィンは10年、東京の明治学院キャンパスで生まれた(BIJ=Born in Japan)
09年 土地や資産に対して課した県税である戸別等級割が、東長倉村の歳費7,000円の時代に3,000円にもなり、別荘族の外国人と日本人が協調して引き下げを働きかけたという。その時の日本代表の一人が帝大医学校学長の青山胤通であり、もう一人が当時帝大農科大学教授兼一高校長の新渡戸稲造。新渡戸は05年から軽井沢に来ていた
10年 台風に伴う大洪水で、川越石川(現在の矢ヶ崎川)、湯川が氾濫。碓井トンネルも崩落。この教訓として別荘が愛宕山中腹へと移動するとともに、保水能力のある樹木を植えたのが今日の鬱蒼と茂る森林となった
04年 プロテスタント超教派のユニオン・チャーチが外国人専用だったので、日本人向けに軽井沢合同教会を設立、メソジスト派が日本人牧師を1年中軽井沢に常駐させた
13年 軽井沢の避暑客たちが「軽井沢避暑団」を結成、緩やかな社交団体からより社会性を持った団体に発展、16年には正式に財団法人として認可
09年 追分に夏の3か月のみの臨時停車場開場
10年 沓掛に駅新設
岩村田の魚商の家に生まれた星野嘉助が生糸商に転じ大成功。04年に沓掛宿の北に原野を入手、湯川の水力を使って製材業を起こす。明治末に赤岩鉱泉の塩坪の湯(現在隣にある塩壺温泉とは別物。現在の塩壺温泉は36年開業)を買収し、13年に神社風の浴場を建てて星野温泉と改名、翌年旅館開業
星野の功績は植林。生糸で儲けた金を山につぎ込む。最初は北海道から持ってきた落葉松を植えたが、根を張らないので、ニレ、ナラ、モミジ、ドングリ、カシなどの広葉樹を植えだす
1次大戦の好景気の煽りから、軽井沢にも外部資本が入り始める
14年 東京の実業家・野沢源次郎  離山から三度山にかけての広い地域(のちに野沢原と名付ける)を取得
18年 堤康次郎による千ヶ滝開発開始  大隈重信の主催する政治評論誌の社長をしていた時、主筆の早大教授・永井柳太郎に勧められて70万坪の沓掛区有の入会地を購入。時に堤28歳。今日の西武グループの原点となる。代金3万円。外に植林組合に6千円支出。資金は大隈の秘書で堤の2番目の夫人となる川崎文の実家に無心。19年には千ヶ滝遊園地株式会社を作り別荘開発に乗り出すが、同年箱根の開発も始めたため、社名を箱根土地に変更
土地100坪に家7坪で500円、家11坪が800円で売り出したが、当初は全く売れず、貸別荘として利用
日本資本主義の発達で力をつけたブルジョアたちが加わる  代表格が朝吹常吉(187719。当時は三越常務、後に帝国生命社長)。父が福澤の忠実無比の弟子で、その姪と結婚、三井財閥の重鎮となる。常吉は長岡外史陸軍中将の娘・磯子と結婚。長岡は10年の軽井沢大洪水の時、高田師団長として軽井沢に工兵隊を送り矢ヶ崎川の石垣を造らせている
朝吹と日銀で同僚だった小坂順造(善太郎元外相の父)の妻・花子の両親渡瀬寅次郎・香芽子が明治プロテスタントの代表的人物
花形になったのは徳川慶喜の孫の喜和子(80歳、東京乗馬クラブ理事)で、馬に乗って走り回った。徳川一族が相次いで別荘を建てる
20年 日本庭球協会を設立、常吉が初代会長。翌年デビスカップに熊谷、清水が初出場。慶應の原田武一も全米3位、世界10位の活躍をして日本にテニスブームをもたらす。軽井沢にも、トップ選手たちが来てブームを起こす。熊谷は皇族を指導
18年 通俗夏季大学開校。後藤新平総裁、新渡戸学長  後藤の発案で、単なるカルチャー講座や大学の社会人向け公開講座ではなく、アカデミズムと実業を結びつけることを狙い、16年に夏季大学の必要を説いて長野県を回り、軽井沢と木崎湖に通俗夏季大学が誕生。ハイレベルな専門教育や英語講義が行われ、これらが大正デモクラシーの牽引車となった
後藤新平は、台湾総督府の後南満鉄の初代総裁、さらに鉄道院総裁、拓殖局副総裁と務め、開拓行政の第一人者であり、13年には軽井沢に46千坪を買っているところから、野沢や堤に開発を勧めたのは後藤だった可能性が高い
21年 星野温泉で芸術教育夏期講習会開催  画家の山本鼎が、北原白秋、作曲家・弘田龍太郎などと設立した自由教育協会の主催。児童自由画展覧会に結実
20年 関西学院グリークラブによるコンサート開催  神戸の舶来趣味にロイヤル性を加味した場所として、京阪神に住むブルジョア、知識人たちが東京人以上に軽井沢に対して強い憧憬を持っていた
白樺派文化人によって軽井沢の地名は都会人に知られだしたが、それを大衆にまで浸透させたのも白樺派文化人のスキャンダルによってだった  山本直良の三笠ホテルが白樺派のサロンとして利用されていたが、23年夏有島武郎が別荘で人妻と心中
19年 ゴルフ場建設の動きが始まり、野沢源次郎が野沢原の土地6万坪を提供し、英国人トム・二コルの設計により、国内7番目、9ホールの「軽井沢ゴルフ倶楽部」が誕生
21年 避暑団夏季診療所オープン  避暑団創立者の1人で宣教師のダニエル・ノーマンが結核療養所の開設に奔走した結果実現、3年後に軽井沢サナトリウムと改称
21年 東長倉村が「別荘所有不在者税」を決定し一方的に通告、さらに数年後には不払い者の不動産を差し押さえるに至って、避暑客と地元行政が深刻な対立
23年 東長倉村は軽井沢町に改称
第一次大戦後の成金の誕生で、軽井沢にも土地ブームが起こり、坪1050円に急騰、軽井沢相場という物価高が生じる
内外人が入り乱れて華やかさを増していった

第4章        霧ときどき雷雨
30年 新ゴルフ場建設。18ホール、3年で433千円。当時の軽井沢町の歳入は83千円。雨宮敬次郎が軽井沢駅の南に持っていた土地568千坪を322千円で買い取り、半分を別荘地として分譲。三井信託がつなぎ融資。22万坪が売りに出され、120名が分譲地譲受人名簿に載っている。建設費は土地代を含め57万円。収入が454千円。未分譲土地64千坪、234千円相当が手元に残るが、数年内に売却し、借入金は全額返済。32年に財団法人軽井沢南ヶ丘会を設立、造成したゴルフ場を財団に寄付して新しい軽井沢ゴルフクラブがスタート。会員数209名。入会金100円、年会費40円、コース使用料1
日本人中心のゴルフ場で、分譲地の購入者は皇族、華族、政財界人に限られ、1つの超エリート・ソサエティが作られ、会員であることがステータスシンボルとなった
堤は、千ヶ滝に続いて鬼押し出しの奇岩に注目、その天然記念物保護の名目で前橋営林署から80万坪の払い下げを受ける。さらに20年には南軽井沢(西長倉村発地区)126.4万坪の大規模な別荘用地を買い占め(63,200円、坪単価5)4年後には駅から別荘地まで20間道路を整備して地元をあっと言わせた。地蔵ヶ原と呼ばれた湿地と草原で地元民の入会地だったところ。20間道路も後藤のアドバイス
28年には別荘地に空港を造り、東京との間に航空路を拓く
19年箱根土地に変わった直後に初めて不渡りを出す  東京で目白文化村、渋谷百軒店、大泉学園都市、国立などの大プロジェクトを展開しており、その資金調達の一環として社債を発行していたが、期日に切り替えが間に合わなかったため。24年には土地開発の成功の目途がつき抵当権も解除されたが、30年代になると各地で地方税の滞納が続き、南軽井沢も千ヶ滝も地元から差し押さえを受けるほど、経済的には苦しかった
戦前地元唯一の工務店が後藤工務所。新潟の鉄道大工だった後藤朝吉が、軽井沢駅舎建築のため来軽して住み着いたもので、殆どの別荘を手掛けている
真夏の建築工事中止はその頃から続く伝統
金融恐慌とは無縁の軽井沢  貴族院議員が多く、有閑階級の社交場
民間では、三井財閥が軽井沢に強い影響力を持つ  99年の三井三郎助を初めとして、物産創始者の増田孝
31年 リンドバーグ夫妻来軽、尾崎行雄の莫哀山荘に滞在
32年 駐日米大使としてジョセフ・グルーが着任。以後10年滞日するが、軽井沢で果たした役割も大きい  大のゴルフ好きで、日本の親米派上流階級が競ってゴルフを習いだした
別荘の急増  31年には844戸だったのが、6年後には1454戸と増え、旧道界隈には約200軒の東京の夏季出張店が並んだ
32年頃から造られだした南原の「友だちの村」  軽井沢町出身の政治学者・市村今朝蔵(のちに日本女子大、早大教授)が自らの所有地47千坪に、友人を招いて別荘を建てていった。若手学者だった我妻栄や蝋山政道らが別荘を建てたが、この伝統は現在まで続き、南原には大学教授、文化人の別荘が多く、別荘族の結束は固い
同じような学者、研究者の別荘地帯が群馬県側にもできる  「北軽井沢避暑地」と呼ばれ、法政大学村や「嬬恋避暑地」(中外植拓会社が開発)、「吾妻避暑地」
36年 軽井沢開発50周年祭  外国人中心の「避暑団」と日本人の「軽井沢集会堂」、軽井沢町の共催。パレードの先頭にいるのはガントレットで、立教学院の教師であり、聖歌隊の指導者として著名。パイプオルガンの奏者、山田耕筰の姉・恒(つね)と結婚。恒は英国籍を取得した初の日本女性
38年 国家総動員法成立、軽井沢の避暑外国人に対する警察の監視が強化。ブラックリストは500名を超えた。外国人への迫害も続き、宣教師は苦境に陥り、4010月にはアメリカ政府が極東在住のアメリカ人に対し本国引き揚げを勧告
40年 宗教団体法施行  プロテスタント諸派は大合同して「日本基督教団」結成
41年 「避暑団」と「軽井沢集会堂」が合体して「財団法人軽井沢会」結成  「避暑」は不適切
41年には、英米人に代わって、アジア・オセアニア地域の米英領にいたドイツ人が日本に疎開、疎開先が軽井沢になった。さらに、「敵産管理法」を制定し英米人別荘を没収、大蔵省管轄下において競売に付す
パブリック・コート(現在の軽井沢会コート)は戦時中も閉鎖されず、他では禁止された混合ダブルスも公認だった。ゴルフも新ゴルフ(現在の軽井沢ゴルフ倶楽部)のインの9ホールは終戦直前まで使われていた
43年から、同盟国と中立国の大公使館が軽井沢に疎開、最終的に300名の外交官が滞在、外務省も臨時に出張所を設け外交を行う
江戸英雄も『軽井沢回顧』に、「星野温泉の奥に土地と家を買い、家族を避難させるとともに、家の周囲の落葉松を伐採・開墾して鶏、山羊、蜜蜂を飼った」と書いている
疎開を嫌っていた皇太后(貞明皇后)も、説得されて軽井沢に避難  急遽地下御座所も含め改装され、出来上がったのは810日、実際に疎開したのは終戦5日後の20日で、125日まで滞在
近衛文麿も、最後まで軽井沢と東京を往復、東久邇内閣に副首相格で入閣、マッカーサー会談で憲法改正の意向を示唆され、自らの使命として憲法調査に取り組んでいた。最後の来軽は1127日。自らの「政治的遺書」として『近衛公手記』を口述筆記させる。126日に逮捕令が出て、11日に東京へ戻り、巣鴨に出頭すべき16日に服毒自殺
近衛の死は、特権階級のリゾート軽井沢の終焉を告げるもの

第5章        リゾートへの道
軽井沢の持つ魅力は、息の詰まるような新緑の美しさ、それが放つ生命力、そして自分の中にその感動を取り入れ、神の恩恵と感じること
45.9.15. 最初のアメリカ軍の先遣隊が軽井沢着。さらに1030人が進駐し、軍事施設を接収
軽井沢にいた外国人、特にBIJが、連合軍の中で活躍
日本政府に没収された外国人所有の別荘は、元の所有者に返却され、大蔵省から買った居住者は別荘に残されていたものを勝手に消費したとして横領と見做され、何人かは逮捕されて沖縄の米軍刑務所へ送られた
占領軍にいた別荘族は、軽井沢にいる日本の友人たちを訪ね当て、食糧をもって再会を果たす
新円切り替えで、軽井沢は闇取引の中心となる  ブルジョアたちが高価な衣類、家具、調度品などを食糧に交換
表の顔は、占領軍の滞在で、第8軍司令官・アイケルバーガー中将が軽井沢を占領軍のレストセンターにしようと言い、46軒が供出された。ホテルを冬仕様に改装しテニスコートがスケート場となって冬季利用も始まり、オールシーズン型リゾートに変貌
来栖三郎一家が、軽井沢で米国人と日本人の要役を果たす  ニューヨーク総領事だった15年に米国人女性と結婚、36年に軽井沢に別荘を建て、44年以降は居を移す。戦後2人の令嬢は通訳として県軽井沢事務所で働く。48年脳溢血、54年死去。姪が駅前の油屋旅館の女将
43年 フランス人画家ポール・ジャクレーが万平ホテルのすぐ前に疎開。米軍兵士が発見して、東京で個展開催。東京外大の仏語教師の父に連れられて来日、日本の公立小学校に入る。黒田清輝に師事、浮世絵に影響を受け、ゴーギャンのタヒチの女ばりのエロチックな線を使う。115ドルの版画が占領軍の人たちの間で飛ぶように売れ、浮世絵工房まで増設、あっという間に億万長者に。敷地入口に「若禮」と刻んだ石の門柱が今も残っている
マッカーサーは熱心なクリスチャンで、日本の民主化の精神的な核としてキリスト教を注入しようとした  片山哲はクリスチャンで、師・安倍磯雄の薫陶を受けキリスト教民主主義を実践したところから、片山内閣が誕生した時には大歓迎。マッカーサー自身はイギリス国教会(聖公会)に所属していたが、カトリック、プロテスタントを問わず、宣教師の復帰、来日を勧奨
特に食糧難の時代にあって、宣教師による救援活動が始まる  ララ物資と呼ばれ4651年の間、アメリカ政府の主食放出と相俟って、飢えてモノ不足に喘いでいた日本を救う。ララはアジア救済連盟LARAの略で、超教派の宣教師が連合した世界教会奉仕団が、ここを窓口として救援物資を送ってきた
天皇が米国の対日教育使節団長に直接依頼して、皇太子の家庭教師としてクエーカー教徒だったバイニング夫人が選ばれ、46年から4年間滞日。軽井沢で避暑生活を送る
結核診療所を作ったノーマンの息子・ハーバートは、羽仁五郎に師事してた後ハーバードで博士号を取得し歴史家となっていたが、終戦後GHQに勤務の後、極東委員会カナダ次席代表となり、さらに駐日カナダ代表部主席(公使)として赴任。マッカーサーが占領政策理論をノーマンの著書に求めたという
戦時中の国策会社である食糧増産株式会社は、終戦直後に武蔵野鉄道、西武鉄道と合併して西武農業鉄道となり、翌年西武鉄道に改称。461月堤は公職追放に。その間東京の土地を買いまくり、それを転売して儲け、さらに臣籍降下した宮家の土地を買い漁る。さらに軽井沢町でも根津家の110万坪を買収、堤の開発した土地は300万坪となって軽井沢町の6.4%に匹敵。現在でも6.68%を占め、課税対象地に限って言えば17.3
旧ゴルフの敷地65千坪の所有権が、47年に神田清から鹿島守之助ほか2名に移転  米軍が接収し、放牧場として使われ、いつ解除になるか不明のまま登記されている。実際の解除は48年で、買収後1年でゴルフ場が再開できた。株主会員による任意団体「旧軽井沢ゴルフクラブ」を発足させ、直接経営にあたった
マッカーサーによる民主化政策に対し、日本を反共の砦としようとする勢力が台頭。ノーマンがマッカーサーの占領政策転換を批判したことを根拠にソ連のスパイだとの疑惑が持ち上がり、50年カナダ政府は急遽ノーマンを召喚。ノーマンはサンフランシスコ講和会議にカナダ代表団首席随行員として出席
51年 軽井沢国際親善文化観光都市建設法制定  1つの町が国によって国際親善都市として定められた珍しい例。外資獲得が狙いだったが、事業の執行が町長に一任され、139億円の巨大プロジェクトが描かれたものの、税源の当てがなく机上の空論に終わる
講和条約によって、占領軍の撤退が決まり、米軍の駐留地は日米行政協定に委ねられ、軽井沢の米軍レストセンターも廃止となり、接収していた別荘やゴルフ場などが続々と返還
日米行政協定合同委員会が軽井沢町に、「米軍山岳冬季学校」なる名前の演習地建設を要望、町長と町議会議長は指定懇願の陳情書を出したが、町民からの強い反対運動が起こり、最終的に東大地震研究所への悪影響懸念がネックとなって米軍が要望を取り下げ  市民運動によって米軍基地反対が成功した珍しい例
57年 ノーマンがカイロで自殺  カナダでは潔癖が証明されたが、FBIとアメリカ議会は虚偽の証言や事実の歪曲も交えて追及の手を緩めず。53年にニュージーランド駐在高等弁務官(大使)56年にはエジプト駐在大使兼レバノン公使。56年のスエズ紛争解決のためにピアソン外相を助けて奔走。ピアソンは平和監視の国連緊急軍の創設と派遣を提唱、実行した功績により翌年ノーベル平和賞受賞。解決した翌年の死であり、ノーマンにとっては軽井沢の解放的な環境下、ラディカルな雰囲気で育ったことが命取りになった?
56年の『経済白書』では、「もはや戦後ではない」と言われ、軽井沢も避暑客の中心が戦前の特権階級とは明らかに異なってきた
1000戸の別荘のうち、外国人が200戸。半数は宣教師などのキリスト教関係者で残りが在日米軍将校、外交官、商人など
政治家では鳩山一郎が中心。戦時中を軽井沢で過ごすが、公職追放後もそのまま籠り、さらに病気で倒れて療養。多くの政治家が軽井沢に集まりだし、保守政治家の夏の拠点となる
ベストセラー作家の登場と、彼らによる文壇ゴルフが軽井沢にやってくる
古くからの別荘族も戻る
皇族も、皇太子と義宮は千ヶ滝プリンスに毎夏滞在、清宮は2485別荘に、三笠宮は2177別荘に滞在
リゾートが上流からミドルクラスへ、そして大衆化へと進む
一番変わったのは、戦後急成長した企業のトップクラスの別荘が増えたこと。軽井沢に別荘を持つことが一流企業の象徴となった
58年から日本生産性本部の「トップセミナー」開催
会社寮の急増、学校寮も増える
かつて軽井沢に滞在したイギリス人女性によれば、軽井沢は「精神を落ち着ける空間であり、それゆえすべての生あるものの尊さを知る洞察まで身に着く」とまで書いているが、日本式リゾートに変化した軽井沢をどう見ているのだろうか



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