軽井沢取材日記  広川小夜子  2016.6.17.

2016.6.17. 軽井沢取材日記

著者 広川小夜子 新潟県生まれ。中央大文卒後編集・デザインを学び、1972年に東京から軽井沢に移住。79年軽井沢の高原誌『軽井沢ヴィネット』編集長。86年『軽井沢かわら版』復刊。03年『軽井沢新聞』編集長

発行日           2010.8.20. 発行
発行所           軽井沢新聞社

取材を通して見えてきた軽井沢の意外な姿
小さくて大きな町の多彩な出来事

観光客の増加、バブル期の別荘開発、高速道路や新幹線開通など、軽井沢にとって大きな変化があった昭和後期から平成初期。軽井沢の高原誌『軽井沢ヴィネット』の編集長が、慌ただしく取材する様子から、軽井沢の魅力の発見や感嘆が伝わってくる。取材記者ならではの裏話が見えてくるのも興味深い                 (発行所評)

はじめに
軽井沢の魅力に惹きこまれ、夢中で取材を続けて生きた様子は、「軽井沢取材日記」として、17年にわたり『軽井沢ヴィネット』に連載。本書はその抜粋・加筆

第1章        別荘地・軽井沢の歴史を学ぶ
ü  1976年、『軽井沢ヴィネット』創刊号を発行
1970年代に、アンアンやノンノなど女性誌がこぞって軽井沢特集を掲載、町にはアンノン族が押し寄せ、「特権階級の別荘地」から「若者の観光地」へと移行
要因の1つはテニスブーム。塩沢では畑がコートに変わり民宿が増えた
旧軽銀座で水島栄に出会う。東京女子大で文学を学び、『婦人の友』の記者として活躍。80になる現在、軽井沢で一人ラベンダーを育て、手作りの袋に詰めて売っている。彼女のインタビューは2号に掲載

ü  1980年、カラーの表紙になる
この前年辺りからペンションができ始め、お洒落な可愛い宿として女性誌に紹介。最初は4軒のみ
5号目からカラーページ登場、高原ライフの特集として、軽井沢の朝の爽やかさを伝える
翌年にはサイズが倍のB5判に

ü  牛めし屋のおじいちゃんに出会う
東京・銀座8丁目の牛めし専門店満留井の軽井沢店のオーナー。本店を息子に譲り、81年にバイパス沿いに店を新築し移住

ü  19826月 イラストレーター殺人事件
満留井に毎日通っていた自称画家が殺人事件で逮捕された。事件は3年前のこと、業界では名の知れたイラストレーターで画家と同居していた熊沢某が殺害され埋められた
満留井のおじいちゃんは事件の数年後に他界したが、主を失った店は長いこと空家

ü  暖炉の煙突は…
別荘訪問は『ヴィネット』の定番だが、最初は1982年秋号で、深沢紅子
建築家でショーの研究家でもある宍戸實から軽井沢の別荘の特徴を聞く。町全部が別荘地帯で、しかも洋風の別荘群ということに特徴
深沢紅子の別荘は、大正8年の建設、友人の堀辰雄が外国人から譲り受けたハウスナンバー1412で、アトリエとして使用
初期の別荘についている暖炉は、川原石を用い、煙突も土管を使った飾り気のないもの
英国人は、熱帯の植民地にも暖炉を持って行ったというが、軽井沢には明治の頃から英国公使館の別荘があり(現在は滅失)、多くの英国人がやってきた
軽井沢開発の父・ショーも英国聖公会の宣教師
外国人に教わりながら、村の人々が造った暖炉が初期のもので、それまでは軽井沢ストーブというダルマストーブのようなものが佐藤ストーブ店で造られていた

ü  堀別荘が消えてしまう?
1984年 深沢が山中湖の別荘に移り、堀別荘が売却され、取り壊されることに
保存に動いた結果、ちょうどその時、塩沢湖畔に軽井沢高原文庫を作る話が持ち上がり、そこに移築保存することが決まる

ü  別荘の歴史を学ぶ
ショーは、矢ヶ崎の国道沿いにあった廃業した旅籠を買い取って、旧軽の大塚山に移築。コロニアルスタイルが地元の人を驚かす
1910年の大洪水で18戸の別荘が流されてからは、愛宕山腹や万平ホテル周辺の丘に建てられるようになり、多くはベランダが広く玄関はなく、西洋人は朝食も4時のお茶もそこでとる
地区によって特徴がある
旧軽は初期軽井沢バンガローから、ベランダのついた後期軽井沢バンガロー、そしてアメリカ建築の影響を受けた別荘で、1919年頃から野沢組・野沢源次郎の分譲した土地に「あめりか屋」が最新建築のアメリカ式別荘を建てる
千ヶ滝地区は、同じ大正時代に堤康次郎が箱根土地会社として土地を分譲、アメリカ製の木工機械による工場生産で低価格の別荘普及を考える。土地付き500円、100坪の土地に23室の茅葺農家風の建物
新渡戸通りから入ったところには、谷口吉郎設計の画架の森があり、集合別荘のはしり
避暑地・軽井沢100年記念を機に、写真資料集『軽井沢の別荘』を出版
聖パウロ教会の設計で知られるレーモンドの別荘兼アトリエも取り壊しの話が持ち上がったが、塩沢湖畔に移築、ペイネ美術館として活用されている

第2章        軽井沢100年記念
ü  軽井沢100年記念号の取材準備に追われる
軽井沢の中の西欧に惹かれて綴った堀辰雄の『美しい村』
英国留学経験のある八田裕二郎が、軽井沢に日本人第1号の別荘を建てる
ショーの研究家でもある軽井沢会理事の服部禮次郎(当時・服部セイコー会長)が寄稿

ü  1986年ショーの孫、来軽
A. C. ショーのひいおじいさんはトロントの町を築いた人
ショーの来軽は1886
ショーの次男の二女と三女が100年記念に来軽

ü  100年記念の国際親善パーティー
皇太子(現天皇)夫妻を迎え開催

ü  取材する私たちを取材するテレビ局
テレビ朝日の「モーニングショー」が、毎朝軽井沢から1週間生中継することになり、ホテル音羽の森の中庭にセットが組まれた

ü  避暑地の華麗なダンスパーティー
記念イベントの中で、ひときわ華麗で軽井沢らしい雰囲気に満ちていたのが、軽井沢集会堂でのダンスパーティー
1930年前後のアールデコ調のドレスに身を包んだハイソサエティの約100名が参加

ü  100年記念クリスマスパーティー
町主催のパーティーは選ばれた人だけのものだったので、町民誰もが参加できるイベントとして著者らが企画したのがクリスマスパーティー
町の人々が縁ある歴史上の人物に扮装、共に避暑地誕生を祝った

第3章        クリスマスの似合う町
ü  冬の軽井沢の魅力は
軽井沢をよく知る人ほど、「軽井沢は冬がいい」という
すべてが凍るので、冷蔵庫は凍らせないためにしまっておくもの
厳しい寒さの中にだけ感じ取れる清々しさこそ、軽井沢の冬の大きな魅力

ü  1983年、クリスマス特集

ü  宣教師さんの家を訪問

ü  国際交流から見えたもの
取材を通して外国人宣教師たちの意外なアイディア、生活文化を学んだが、パンやジャム作り、高原野菜やハーブ、軽井沢彫の洋風家具など今でも生活の中に行かされている
外国人嫌いで有名だった室生犀星が、英国の小さな少女と友情の輪を広げていたことが、『英国の少女』と題したエッセイにある

ü  セピア色の想い出
明治・大正・昭和と軽井沢で夏を過ごした欧米人たちが、日本に与えた影響は多大
そうした人たちが築いた別天地が避暑地・軽井沢であり、その健全な精神が「深夜営業や風俗営業禁止」などに今も生かされている

第4章        軽井沢ならではのスイーツ
ü  ルバーブのケーキを求めて
ルバーブを使ったページにしようと企画していたが、その代わりにサロン・ド・リエというお菓子教室のブラックベリーやチェリ―パイのケーキを教わる
いずれも宣教師の家に入り浸って、お菓子作りを教えてもらった成果

ü  不思議なケーキ教室
サロン・ド・リエで作るケーキには不思議な力があって、心の病が治るケーキ
5年ほどしてリエ先生は亡くなる

ü  キャロルとオードリーのカスタード・ルバーブパイ
今でこそ少しは知られるようになったルバーブだが、83年当時は知っている人は少なく、ましてジャム以外の料理法となると、知っている人はなかなか見つからなかった
新軽井沢のベテルハウスでルバーブを使ったパイケーキを作ってもらう

ü  ルツ・ステッカーの玉葱クーヘン
軽井沢駅近くのドイツ人宣教師のステッカーさんの家が会場のケーキ教室
『ヴィネット』への連載は7年間にわたり、21回の連載を重ねる

ü  リンダのスーパー・モイスト・チョコレートケーキ
ドイツ以外のお菓子も紹介しようということになって取り上げたのが、軽井沢で暮らす外国人たちの様々な手作りケーキや料理
その中でユニークだったのが砂糖と小麦粉にマヨネーズをたっぷり入れたリンダのケーキ

第5章        軽井沢秘境探検エピソード
ü  豪雪の座禅窟であやうく遭難…
血の滝。冬は滝の水が凍りついて赤茶色の塊となり、僅か中心部だけに水が流れている

ü  軽井沢大橋の下で事件、発覚
自殺の名所として知られるのが軽井沢大橋、併せてその先の茂沢五輪塔や杉瓜観音などの知られざる史跡も紹介しようとした矢先、大橋の下に不審な衣類等散乱、スワ事件と佐久警察に通報したが、何も発見されず仕舞いでケリ

ü  渋滞から生まれた企画(?本では見出しが欠落?)
『ヴィネット』の秘境探険には知られていないところを紹介  西の露切峡や北の浅間大滝
草軽電鉄の跡を訪ねる旅で、最高地点にある柳川鉄橋を目指す  三笠から鶴溜、小瀬、長日向を通って鉄橋へ。途中から道は全くない
「探検」よりもっと「冒険」に近いということで、『ヴィネット』では「探険」とした
『軽井沢秘境探険』 8598年『ヴィネット』に掲載された秘境探険シリーズ

第6章        作家の別荘を訪問
ü  キツツキが大好きな狐狸庵先生の別荘
1984年訪問。キツツキに突かれて穴だらけ
出来上がった雑誌を届けに行く途中で道に迷ったら、北杜夫の別荘に辿り着く

ü  森瑤子さんをインタビューする
外国で島を買う前は、毎年軽井沢で夏を過ごしていた
1984年訪問。ライシャワー夫人ハルさんの実家の別荘で夏の3か月を過ごす
1993年 死去

ü  軽井沢のテニスブーム
「憧れの軽井沢のテニス」をより身近にしたのは、70年代後半の塩沢のテニス民宿
1959年 1戸あたり1000円~1万円の出資金を集め120万円で人口の塩沢湖を造り、地域ぐるみのスケートリンク経営が始まり、たくさんの観光バスが首都圏から来訪
夏にも観光客を呼ぼうとテニスコートが造られ、65年頃から民宿が次々開業
ブームの勢いは次第に弱まり、テニスはファッションから元のスポーツに戻る
地道に自然との共生を選んだ人が注目され、軽井沢に移り住んだ玉村豊男のエッセイの中にも彼の米作りや農作物がたびたび登場するようになった

ü  ペテン師たち
軽井沢には得体の知れない人たちも次々に訪れる  ニセフォトグラファー、資格のない建築士、自称アーティスト、評論家等々
『家政婦は見た』シリーズを書いている脚本家で柴英三郎を紹介される。その年から追分の別荘で過ごすようになり、軽井沢を気に入ってファッションショーなどのイベントを提案してきたが、何となく胡散臭い感じがしていた

ü  本物のオーラか、怪しげなオーラか
日本放送作家協会で電話番号を確かめて電話すると、本人が出て、偽物の跋扈を承知していたので、軽井沢で偽物の立ち回り先をチェックしてみると、相当の被害が出ていた
軽井沢では、うわべの話だけにのせられないよう、本物と偽物のオーラを見極めることが大切

ü  1987年 フランス、ベルサイユへ
軽井沢の別荘族の「動」の部分を探るため、1年の大半をベルサイユで過ごす朝吹登水子をフランスに尋ねる
前年末、ベルサイユ宮殿の所有地にある樹木博物館友の会が設立され、朝吹も日本代表として創立メンバーに加わり、軽井沢の大山桜を送る
国際舞台で活躍しながら、時間と距離を超えて毎夏訪れる軽井沢の魅力とは…・

ü  大輪の薔薇の花、散る
05年朝吹の訃報
2次大戦前にフランスに留学、一旦帰国後、50年に再度渡仏、オートクチュールのデザイナーの資格を取得。サガンの『悲しみよ、こんにちは』の翻訳で翻訳家としての道を歩む。サルトルやボーボワールとの親交を深め、日本人として初めてカンヌ映画祭の審査員になるなど、日仏の懸け橋として活躍、00年にはレジオン・ドヌール勲章受章

第7章        新幹線開通後の軽井沢
ü  軽井沢町で再びオリンピック
1964年 東京オリンピックの総合馬術競技が軽井沢で開催
1998年 再びオリンピックの会場に。夏冬のオリンピックが同じ町で開催されるのは史上初。初めてカーリングがオリンピック種目となった
公式カーリング競技にはスコットランド民謡《アメージンググレース》が必ず演奏される
開会式は風越公園アリーナ

ü  興奮の渦! タイブレーク
日本がドイツに勝って、準決勝進出を決めるタイブレーク(予選リーグで準決勝進出チームが確定しない場合の順位決定戦のこと)出場が決まり、タイブレークは入場無料で満席に
スキップ同士の闘いとなり、僅か数cmの差でアメリカに惜敗
男子の優勝はカナダを破ったスイス。女子はカナダ

ü  2つ目の姉妹都市・ウィスラー
1999年 長野オリンピックを機に、カナダのウィスラーと姉妹都市に
ブラジルのカンボス・ド・ジョルダンと姉妹都市関係があった  高原の町という共通点があるだけで、経緯などは不明だし、軽井沢の人々すら知らなかった
国際的避暑地として、特定の都市との姉妹都市提携を拒否してきたが、カナダ側からの提案で実現  ウィスラーは、オリンピック優勝スキーヤーが国際的なスキーリゾートとして計画的に開発を進めてきた町

ü  ウィスラーのリゾート戦略
政府と市が観光産業開発支援協定を締結、観光客に心地よく感じてもらうことを考えて計画的に造成が進む
軽井沢がウィスラーに学ぶべきことは、「リゾートとしての誇り」

ü  A. C. ショーのふるさとを訪ねて
ショーの出身地は、彼の曽祖父が造った町トロント

ü  100年前のティーカップ
ショーの次男の娘(84)を訪問。ショーゆかりのティーカップで紅茶を飲む

ü  軽井沢へ移り住む
97年新幹線の開業を機に、首都圏の通勤圏になり、99年には約500世帯増加

ü  なかなか見えない旧徳川圀順(くにゆき)別荘
99年 角栄の別荘を町に寄附する話が持ち上がる。本は水戸徳川の子孫、圀順が大正9年に建てた洋館、米国で建築を学んだ樋口信助設計、あめりか屋建築の別荘の中でもひときわ豪華な特別注文建築として有名
町も保存に動き、調査費を計上する一方、移築場所も特定したが、突然中止の申し入れがあり、眞紀子とも連絡が取れなくなった
ロッキード事件絡みの税金未納の差し押さえ対象になっていたことが判明、その行方が心配

ü  文化財として保存された白亜の館
08年 柏崎の田中角栄記念館から、「旧軽の別荘は、角栄記念館分館になる」との連絡があり、分館の看板が掛けられ、改修された内部が披露
06年には滞納税金も完納、翌年には国の登録有形文化財をして指定され、082000万円かけて改修、今後は年に何度かコンサートなどで公開することを検討

ü  大型台風吹き荒れる
019月台風15号接近、すさまじい暴風雨、1日の降雨量が231(cmの間違い?)となって71年の観測開始以来最高を記録、プリンス通りの立体交差や各地の歩行者用トンネルは水没、軽井沢駅は床上浸水
湯川が氾濫、橋も陥落したが、それでも川沿いの宅地造成工事は続く

第8章        浅間山に想う
ü  2次リゾートマンションブーム
平成初期のバブル期の第1次ブームは、殆どが2階建てで国道や大通り沿いにあり、外観も地味で、投資目的が多かったので住む人も少なく周辺住民との摩擦も少なかった
2次ブームは、別荘地の中に、3階建ての大衆向けとあって問題山積
鳩山通りの物件は建築主が県地域開発公団とあって、反対の署名を集めて県と町に提出

ü  2001年 マンション軽井沢メソッド宣言
田中康夫知事の肝煎りで軽井沢町が、マンション軽井沢メソッド宣言を公表
良質な軽井沢の別荘環境は日本の財産であると謳い、マンション事業者に軽井沢町の景観にふさわしい企業責任と高い倫理観を求め、100年以上にわたる軽井沢の別荘環境を次なる200年へと引き継ぐ姿勢を明確にした
あくまで別荘の住民が安心して暮らせる心地よい環境を守るためのものなので、商業地や、あるいは外観デザインが景観を壊さない限りはマンションでも認められる
02年には、自然保護対策要綱を改定、業者に厳しい条件を付け加える  2階建てまで、120戸以上の場合は1110㎡以上

ü  懐かしい映画の上映会
数年前に別荘の人は新たな定住者が中心となって「軽井沢映画友の会」が発足、海外の名作映画を中心に上映会&親睦会を開催
北軽を舞台にした『カルメン故郷に帰る』を上映。日本初の総天然色。草軽電鉄のカブトムシ電車も登場
軽井沢の乱開発への警鐘の意味も込めて上映

ü  "作家・森村桂の復活
04年死去
03年夏、13年ぶりに天皇皇后両陛下が軽井沢を訪問されたのを契機に元気を取り戻し、皇后さまのためにケーキを焼いてお届けした
併せて新連載も復活したが、夏号の『九ちゃん、また、夏が来たよ!』と題するエッセイが遺稿となる

ü  アリスの丘から天国へ
森村桂の葬儀は、アリスの丘で、東京式(軽井沢式は告別式の前に火葬にする)で行う

ü  浅間山はだいじょうぶ
軽井沢を愛した作家・中村真一郎は、軽井沢暮らしを書いたエッセイに『火の山の物語』というタイトルをつける
観光客向けには噴火という言葉は使わず、史実として天明3年の大噴火のことを伝えてきた
00年 火山性地震が400回も起きるに及び、町役場からも臨時火山情報に注意するよう御触れが出て、火口4kmまでを立ち入り禁止に
峰の茶屋にある東大地震研究所の浅間火山観測所が常時監視
現在の観測・研究では、噴火する何日も前から変化がわかるので、防災情報に従って避難すれば、生命に関わることはない

ü  20049月、ついに噴火
火山活動度が2から3(山頂火口で小~中噴火が発生)に引き上げ
マスコミの報道により観光客のキャンセルなどが相次ぎ、軽井沢の経済に大きな損失

ü  見えていなくても見る山
噴火は1973年、1983年以来21年ぶり
軽井沢町では火山灰が少し降っただけだったが、北軽の火口から4km以内では石が飛んできたという
軽井沢で暮らす人にとって、浅間は気にしていなくても気になる存在の山


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