検証 バブル失政 エリートたちはなぜ誤ったのか  軽部謙介  2016.6.23.

2016.6.23. 検証 バブル失政 エリートたちはなぜ誤ったのか

 著者 軽部謙介 1955年東京都生まれ。79年早大卒後、時事通信社入社。社会部、福岡支社、沖縄支局、経済部、ワシントン特派員、経済部次長、ワシントン支局長、ニューヨーク総局長などを経て、現在同社解説委員長

 発行日           2015.9.25. 第1刷発行

発行所           岩波書店

 「金融緩和の長期化がバブルの要因」と言われるが、具体的には誰が何をやったのか、あるいはやらなかったのか

圧倒的な取材力で独自に入手した日銀や大蔵省、さらにはアメリカ側の公文書、関係者の日記、手記、備忘録、150人に上る関係者への直接インタビュー、部内でのオーラルヒストリーなどで、金融行政の最前線を再現、未公開資料を中心とした第1次資料により、「あの時代」の5WHを生々しく再構成することで、「なぜバブルが生じ、崩れたのか」に迫る

日本型の統治機構の中でどのように政策ができあがってきたのかを検証する本書は、いわば日本のバブル版『ベスト&ブライテスト』(ハルバースタム)である

 

プロローグ

バブル時代に日銀副総裁として、その崩壊時には総裁として立ち会った「平成の鬼平」こと三重野康は、細かな回顧録を残さず12年死去したが、0306年のオーラルヒストリーには応じて、当時の出来事について率直に語っている

副総裁時代、「乾いた薪の上に座っている」と発言、当時史上最低の公定歩合2.5%が23か月も続いたことにバブル生成の責任を認め、利上げが遅れたことに悔いが残ったとして、自らの輔弼の責任を認める

後講釈で言えば、「その後の10年近く概して低迷したのは、金融を強く引き締めて、緩和するのが遅れた」と言われるが、新しい構造変化に日本経済が対応できなかったこと、企業が変化に対応するという前向きな努力を怠っていたということが原因

三重野の前任が澄田。彼の人生観を規定していたのは短期現役士官として入った海軍での体験。バブルを発生させた戦犯と言われるが、「在任中の金融緩和策は適切な処置だったが、資産価値が上がることの意味をもっと早くとらえて手を打つべきだった」と後に述懐し、あれだけ珍重だった銀行が、別動隊まで作って貸し込んでいるとは思わなかったと悔やんでいた

この報告は、バブルの生成・崩壊に寄与したと言われる日銀の金融政策、大蔵省の銀行行政に焦点を当てている

 

第1章        バブルの胎動 ~ 日銀はなぜ緩和を続けたのか

1985.9.22.
プラザ合意
1985.12.28. 
株価13,113円で大納会。年間上昇率13
1986.1.24.
円高が進み200円突破
1986.1.29.
公定歩合0.5%引き下げ、4.5%に
1986.3.7. 
公定歩合4%へ引き下げ
1986.3.22.
株価急騰。15,000円台へ
1986.4.1.
都心の地価が年間60%の上昇
1986.4.19. 
公定歩合3.5%へ引き下げ
1986.4.26.
チェルノブイリ原発事故

プラザ合意で決まった円高への押し上げについては、200210円での定着を目論む

米国もドルの急落を恐れ、金利引き下げを渋っていた

中曽根首相が、日本の内需拡大にとって必要だとして日米協調による利下げに言及

円が200円を割ったところで、景気への懸念から、日本は単独利下げに踏み切る

日銀では、臨時政策委員会が開催されたが、旧日銀法では、総裁に全権限があった

実際に日銀内部をまとめていたのは三重野副総裁

後にバブルを生んだ要因の一つとされたマネーサプライの伸びに対し、要注意とされた

アメリカからは、為替安定のためには、国際収支の不均衡是正が急務で、そのためには日独の内需振興とより一層の成長が求められた

米国内の利下げ圧力を抑えていたボルカーに、連銀内で理事たちが反乱を起こしたため、日独との協調利下げの道を探ってアメリカから両国政府への圧力がかかる

結果は、仏蘭も加わった国際協調利下げ

レーガン政権時代、政策遂行は「国家安全保障決定指令NSDD」に基づき、日本の製品輸入の比率が低すぎるとして、エレクトロニクス、木材、医薬品、医療機器などの分野で日本市場開放を迫っているが、そのロジックは、「保護主義ではないが、議会の圧力が強い」というもので、ブッシュ、クリントンと続く日米摩擦の典型的な対日話法となっていく

米上院財政委員会を中心とする54人の超党派の上院議員がレーガンに書簡を送って、日本の巨大な経常収支黒字は国際社会の経済成長に対する脅威であるとし、日本に市場開放、不公正な貿易慣行の廃止、内需拡大を求めるよう迫る

アメリカからの協調利下げの圧力に抗しきれずに、竹下蔵相や澄田が利下げを示唆

円高が止まらず、国内からは円高不況の悲鳴が聞こえるように

4月、米国の利下げ決定に追随する形で、日本も公定歩合を3.5%に引き下げ、実質的に戦後最低水準に

澄田は、特に地価の高騰の裏に銀行の無茶な貸し出しがあるとの指摘を受け、「金融機関は節度ある融資態度を維持せよ」と発言しようとしたが、利下げと同時では矛盾するため中止

日銀が、マネーサプライの伸びの高まりや、過剰流動性の兆しに対する警戒感を強めていくペースは緩やかだった

日銀の俊英たちは、「金融政策運営は、あくまでも各国それぞれ固有の事情に応じて自主的に判断していくべきものだが、今日のように国際間の資金移動が活発化し、かつその中で我が国の地位が格段に高まっている状況下では、他の主要国の動向を無視できなくなっていることも否定できない」とし、「圧力」を「動向」に変えて米国の意向が無視できないことを告白している

85年のプラザ合意で始まった国際協調体制は、国内の経済情勢を見極めて大蔵省にお伺いを立てながら公定歩合を決めていくという伝統的な政策決定のやり方を根底からひっくり返しつつあった

 

第2章        朋友の圧力 ~ 米国はなぜ日本を標的にしたのか

1986.5.4.
東京サミット開幕
1986.6.9.
東証株価終値、初の17,000円台
1986.7.6.
衆参同日選、自民大勝
1986.7.7.
円高進展、160円突破
1986.9.6.
シスコでベーカー・宮沢日米蔵相会談
1986.9.19.
円高対策で3.6兆円の経済対策を決定
1986.9.20.
ウルグアイ・ラウンド決定
1986.10.31.
公定歩合3%に引き下げ。為替安定のための日米共同声明
1986.12.27.
東証大納会、18,701円は年間40%超の上昇

副総裁時代、秘書だった菅野明によると、澄田は寡黙で控えめな印象が強かった

副総裁就任に際しては、前総裁の森永から、長岡次官に対し、たすき掛けの慣行から大蔵出身が2代総裁に続けてなるのは問題なので、前川の次が澄田となるよう指示があった

日本の円高が政治問題化するが、米国に協調介入を申し入れるも否定的、逆に日本の円高恐怖症を強く印象付ける

日銀内部には、7274年に自らが招いた過剰流動性による狂乱物価のことがよぎる

為替相場の安定を最優先に行動する宮沢蔵相にとって、プラザ合意以降進んできた円高についてこの辺りでOKと米国に言ってもらうためには、利下げや財政出動を通じて日本が内需拡大に努力していることを示す必要があった

中間選挙を控えた米国から、選挙前に日本が金利引き下げをするよう圧力がかかる

日本では、低金利の余波で、預金が土地や株、ゴルフ会員権などに流れていく

9月のIMFでの宮沢と澄田の意思疎通の失敗から、大蔵は利下げを前提とした日米共同声明を準備、日銀は押し切られる形で利下げを決定

地価の上昇が激しさを増し、日銀も、金融緩和が1つの要因であることを認めながら、対策については何も議論されていない

三重野は早くから「プリンス」として見られていたが、部下思いで人望が厚く、反対の声にも耳を傾けて判断する人はそういないといわれる。彼の人脈は、一高・東大時代に形成、長岡實も一高の寮で同室。12年逝去

 

第3章        ルーブル合意とBIS規制 ~ バブル本格化の舞台はなぜ整ったのか

1987.1.19.
円高進展、150円突破
1987.1.30.
東証株価2万円台乗せ。3年で2倍に
1987.2.9.
NTT上場、初値つかず
1987.2.20.
公定歩合2.5%に引き下げ
1987.2.22.
為替安定のためのルーブル合意
1987.3.27.
株価22,000円台に
1987.4.1.
地価公示。東京都年54%上昇、一部住宅地で163%の上昇
1987.4.1.
国鉄分割民営化により、JR11社営業開始
1987.4.17.
米、半導体で対日制裁を発動

87年初、米英が銀行監督の新しい手法として自己資本比率規制導入に合意

自己資本比率規制についてはすでにBISで議論が始まっていたが、英米の合意はそれを遥かに超えるもので、多分に薄利多売でシェアを広げる邦銀対策の意味合いが強い

日本を念頭に、株式の含み益は認めるべきではないとされた

宮沢には、何としてでも円高を食い止めねばだめだという信念のようなものがあり、介入に積極的だったが、ベーカー財務長官はドル安容認で動かず

副総裁の三重野は、補正予算と公定歩合を「呼び水」「捨て石」と位置付けていたが、大蔵の意向は、米国に円高阻止を飲ませるために先に日銀の利下げが必要との方向へ

すべては為替のためとなり、何のために政策金利を動かすのか、説明がつかないところに追い込まれていた

自己資本比率規制の議論では、株の含み益をどこまで認めさせるかが焦点

 

第4章        円高阻止 ~ 政策決定はどんなプロセスをたどったのか

1987.4.24.
円急騰、140円突破
1987.4.30.
ワシントンで日米首脳会談
1987.4.30.
86年度住宅着工戸数140万戸と、7年ぶりの高水準
1987.5.3.
朝日新聞阪神支局襲撃事件
1987.5.15.
東芝機械ココム違反事件で行政処分
1987.5.29.
6兆円の緊急経済対策発表

中曽根訪米を受けて、激化する日米間の経済摩擦問題の解決策を模索

訪米直前には、米政府が半導体をめぐる対日報復関税を一方的に発動すると発表、米議会も対米黒字の削減を日本に義務付けした包括貿易法の修正条項を可決

米国の懸念は、株安、債券安、通貨安のトリプル安であり、金利の引き下げによる経済への刺激で乗り切ろうと考え、日本に対し金利の協調引き下げを迫る

米国の要求に応えるべく大蔵は日銀に利下げを迫るが、経済自体が立ち直ってきたことがはっきりしていたため、日銀としては利下げの理由がない。窮余の策として大蔵が飛びついたのが、日銀の短期金利低下のためのオペレーション(公開市場操作)で、日米共同声明に織り込まれる

首脳会談の共同声明には、「これ以上のドル安は、両国経済の力強い成長及び不均衡の削減に向けた相互の努力にとって逆効果」という文言が入れられ、通貨安定につき協調することで合意

米国の圧力の高まりを苦々しく思っていたのが三重野。国際協調は尊重しつつも、それが葵の御紋のようにまかり通ることには抵抗

中央銀行同士の関係は、行政府同士の関係とはやや異なる独特の雰囲気を持つ。お互いインフレ抑制・通貨価値の維持を命題として掲げ、理論家集団としての自負があったが、80年代後半の日米の中央銀行の関係はあまり良好とは言えず、FRBのある理事は、FRBも含めて米国内には日銀への不信感もあり、「日銀というのは本当にアカデミックな議論をする組織で、もし何か日本に政策的なことを欲するなら大蔵省に言った方がいい」と後に回顧している

87年春には、東芝機械のココム違反が発覚、米連邦議会の議員が議事堂前で東芝製のラジオをハンマーでたたき割るなどの険悪ムードが高まる

財政再建こそ絶対に譲れない一線だとしていた大蔵省が、米国からの圧力に加えて「歳出圧力の国際化」もあって、円高不況の悲鳴に対して、初めて本格的な財政出動に踏み切る

自らを「オールド・ケインジアン」と称し、財政出動の及ぼす波及効果を信じて疑わなかった宮沢の蔵相就任が、省内からの強い抵抗に遭いながらもその流れを決定づける

6兆円の大型補正予算の大義名分は、対外経済摩擦と円高不況の緩和

 

第5章        決起失敗 ~ ブラックマンデーは何をもたらしたのか

1987.6.1.
株価25,000円を突破
1987.6.2.
FRB議長にグリーンスパン就任
1987.6.8.
ベネチア・サミット開催
1987.9.30.
全国の平均地価上昇率9.7
1987.10.19.
ブラック・マンデー
1987.11.6.
竹下内閣発足
1987.12.10.
大蔵省がBIS規制発表。92年末8%が必要
1987.12.10.
円急騰、130円を突破
1987.12.28.
東証大納会、21,564

ベネチア・サミットでは、レーガンが中曽根に、半導体制裁の一部解除と50億ドルの為替介入実施の見返りとして、公定歩合引き下げを再度申し入れ

澄田は講演で、景気が底堅さを示しているとしたうえで、マネーサプライの上昇への警鐘と、金融緩和の副作用としての地価・株価の上昇に言及しているが、のちにバブルを防ぐタイミングの判断を誤ったのは「資産価格の上昇よりも一般物価を重視するという姿勢に固執したことが原因の1つだった」という反省が日銀内には出てくる。物価の上昇は日銀の金融政策の対象だが、地価や株価は関係ないというわけだ

澄田の発言は、今後の金融政策の重点を、それまでの内需拡大と為替相場安定優先から、インフレ警戒にシフトしたと報じられたが、国内は円高不況で大変という中、円高への恐怖感、抵抗感で一貫していて、とても引き締めに転じるようなムードではなかった

BIS規制導入では、日本の主張に各国からの批判が集中

国内の物価は上がらず。なぜ資産価格と物価が乖離したのかは不明。マネーサプライは年率2桁の伸び

金利の低め誘導の意に反して短期金利が上昇し始め、日銀内部では公定歩合引き上げ検討を視野に

FRBは、グリーンスパン就任と同時に利上げに踏み切ったが、日本に対する低め誘導の要請は変わらず

中曽根は、最後のレーガンとの会談で、公定歩合2.5%維持を明言

BIS規制は、自己資本比率は3年後7.25%、5年後8%、含み益算入は45%ということで日英米が合意、最終決着へ

邦銀は、自己資本の増強を図る一方で、それに見合う貸し出しの増加にもストップをかけず、結果的にバブルは膨張する

ブラック・マンデーの直接の引き金は、ベーカー財務長官の西独批判。両国の方向性が違うことが国際協調体制の崩壊を意味するとして市場が敏感に反応したもの。グリーンスパンは緊急声明で、市場への資金供給を約束する

日本の市場は意外に冷静だったが、国際協調体制の維持に協力することとし、日銀内部の利上げへの胎動は完全に止まる

87年のBIS規制をクリアするために邦銀は、8789年に増資等で15兆円の自己資本を積み増し。さらに株価も上昇していたので、88年度末には含み益も加わって主要邦銀の自己資本比率は11%を上回る

日銀の権限の1つとされた邦銀に対する窓口指導は、47年に導入され91年に廃止されるまで続くが、邦銀の高収益貸出資産の積み上げこそがBIS規制への対応に資するとしてボリューム指向を強めたのに対し、日銀はその動向を指摘するのみ

90年代の株価暴落とともに、自己資本比率規制は、単なる便宜的なメジャーから、結果的に金融システムの不安定さと経済への影響を増幅させてしまうギロチンとなった

BIS規制の最後の交渉で45%を勝ち取った当時の大蔵省銀行局審議官の千野忠男は、凱旋将軍のように迎えられたが、08年他界、生前BIS規制には「猛烈に心が痛む」と上司に告白。右肩上がりを信じたツケが回ってきたことを指しているのだろう

制度として埋め込まれたこの規制は金融危機を自動的に進化させる促進剤の役割を果たすが、官僚たちがそんなことを予想だにもせず、大蔵省にいた政治家が何か警告を発したという記録は全く残っていない

日本の景気はブラック・マンデーをものともせずに拡大、マネーサプライも2桁の伸びを示す一方、利上げの根拠となり得る卸売物価や消費者物価は落ち着いていた。市場の崩壊を恐れるあまり、先行きの物価上昇懸念や資産価値の急膨張に対して次の有効な一手に転じるチャンスをつかみかねている間にも、ブラック・マンデーで一時休止していたバブルが再び膨らみ続けた

 

第6章        「端緒」はいずこに ~ 日銀はなぜ動かなかったのか

1988.3.3.
東証株価、ブラックマンデー以前の水準を回復
1988.4.1.
地価公示、東京圏は68.6%と過去最高、地方にも拡大
1988.6.18.
朝日新聞がリクルート疑惑をスクープ
1988.6.19.
米国との牛肉、オレンジ自由化交渉決着
1988.12.7.
株価3万円台に
1988.12.9.
宮沢蔵相、リクルート事件で引責辞任
1989.1.7.
昭和天皇死去
1989.1.20.
ブッシュ大統領就任
1989.4.1.
税率3%の消費税導入
1989.5.30.
公定歩合3.25%に引き上げ

88年初、景気は大きく上向き、株価も戻る

経済面でもたつく米国は、竹下新政権に対しても、巨額の貿易黒字への批判をもとに、構造改革のスピードを上げろと要求、現行の政策スタンスの維持と低下しつつある短期金利が実現されるよう努力と続けることが日米首脳間で合意され、当面の利上げは再び封じられた

日銀が組織として「本当に危ないと思うようになった」時期は88年秋。地価の上昇が地方にも波及するに至って、本格的に手を打たないといけないという議論が強まる

貿易黒字が減らずに、米国からスーパー301条の適用対象にされかねないところから、通産省からは利上げなど論外と言われ、リクルート事件への対応で手一杯の官邸も金融政策は二の次とあって、日銀は動けず

大蔵省は、894月導入の消費税で頭がいっぱい。導入の成功までは波風を立てるなと日銀に対しても釘を刺した

8811月 澄田が上智大学から名誉経済学博士号を授与され、その答礼のスピーチで、インフレとの戦いにおいて、「端緒に抵抗せよ」という原則を忘れてはならないと言う。元々はドイツ人牧師が言って、丸山真男が広めた言葉で、ナチスの勢力伸長を止められなかった反省に基づく表現。最初の段階での対応が一番重要だという意味

日銀は、利上げの代わりに短期金融市場改革を持ち出す。金融政策の誘導の重心を、公定歩合から市場金利に移そうとするが、大蔵の抵抗に遭って実現せず

89年に入ってようやく日銀から大蔵に利上げが打診される

三重野は後に「こんなに悪くなるとは思ってなかった」と自分の見方が甘かったと反省すると同時に、「日本の金融機関の経営者というのは、まだその時でもみんなで渡れば怖くないということだった。あれは非常に日本を毒した」と横並びで過剰な融資をしていた銀行を批判している

危ない、危ないと思っていても、何もしなければ危機感を抱いていないのと同じだ。金融機関を責めるのは自由だが、この時期日銀は一歩も動かなかった。三重野には悔いが残ったかもしれないが、普通の企業や人々がバブル崩壊の後遺症で苦しむとき、残ったのは悔いではない。政策失敗で発生した損失とその責任の所在に対する恨みや不信感だ

80年代後半の邦銀のニューヨーク進出ラッシュは凄まじいものがあり、当時米国市場ではやっていたLBO融資には邦銀が軒並み名を連ねていた

日銀では、さすがに予防的引き締めに踏み切るべしとの意見が強くなる

89年初、1月に120円台半ばだったものが4月には130円台に落ちてきた

同時に物価も上昇トレンドに転じ、市場金利も上昇に

日銀で新たに総務局長となった福井が、澄田の顔を立てろと大蔵にねじ込んで利上げが実現。三重野も、大蔵の事務次官経験者も遅すぎたと反省するが「政策は結果」であり、日銀も本気でやろうとしていたとはとても言い難い

ブッシュ・海部間で、日米構造協議開始  為替調整の主要目的は不均衡の縮小であり、日本はそのために円高の苦難に耐え、内需拡大のために超低金利を維持してきたが、日米の貿易収支不均衡の縮小傾向は衰えつつあったため、新たな対策を模索するためにアメリカが提案してきたもの

国際協調に名を借りた利下げは、いったい何のためだったのか。経常収支不均衡を内需拡大という政策手段で解消しようとしたこと自体、そもそも正しかったのか

 

第7章        総量規制への道 ~ 地価上昇はなぜ止められなかったのか

1989.6.2.
竹下内閣総辞職、後任に宇野外相
1989.6.4.
天安門事件
1989.8.9.
宇野内閣総辞職、海部内閣発足
1989.10.11.
公定歩合3.75%に引き上げ
1989.10.27.
地価抑制のためにノンバンク融資規制を通達
1989.11.9.
ベルリンの壁崩壊、冷戦終了確認(122)
1989.12.17.
三重野総裁就任
1989.12.25.
公定歩合4.25%に引き上げ
1989.12.29.
東証大納会、38,915(年間上昇率29)

国土庁から大蔵省に、地価高騰対策として金融面でも手を打つべきとの要請が入る

「地価を抑えろ」というのが政治の合言葉になってきた

大蔵省も86年以降、地価の上昇に対し、銀行に「土地関連融資の取り扱いについて」同じく「厳正化について」と通達を出しているが、個別指導する気持ちはなく、むしろ特定の業種への融資を規制することは銀行行政がやるべきことではないという原則論が強かった

日銀の「窓口指導」も邦銀のノンバンクを使った迂回融資で有名無実に

10月 閣議の席上、国土庁長官が橋本蔵相に事前の通告もなしに、銀行の土地関連融資が地価高騰の原因の1つだとして、金融機関の指導を徹底するよう要望

全国銀行勘定における不動産関連融資は、75年に対前年比7.2%増の71,644億円だったものが、81年以降は毎年2桁の伸び、86年は35.1%、88年は12.5%増の367,421億円に達していた

銀行の規制に加えて、ノンバンク規制も俎上に上るが、直接規制する方法がなかった

大蔵省は初めて、銀行の対ノンバンク融資規制を盛った通達を出すが、「不動産向け融資の高い伸びは止まらなかった」と、対策に効果がなかったことを後に認めている

株価の騰勢も収まらない中、大蔵省全体で経済政策運営の転換を議論したことはなく、個々の政策にはめっぽう強い大蔵も、バブル全体の絵を描く機会はついぞなかったし、政治家を含めた政権全体が総合的に検討を進めるというようなこともなかった

89.12. 三重野は総裁就任にあたって、地価の上昇に金融が片棒を担いだことを率直に認めるが、澄田は戦後有数の息の長い景気拡大を実現したことを金融面から適切な措置が取られたことによるとし、大きな判断は誤っていなかったと自負して退任していった

公定歩合の再引き上げとの読売のスクープに対し橋本蔵相が激怒し、白紙撤回させると失言した事件もあったが、1週間遅れで実施

ほとんどの日本人が、この繁栄は今後もずっと続くと思っていた

 

第8章        崩落へ ~ 俊英たちはなぜ見抜けなかったのか

1990.1.9.
株価下落、38,000円を割る
1990.2.23.
株価下落、35,000円を下回る
1990.3.20.
公定歩合5.25%に引き上げ
1990.3.22.
株価、3万円を割り込む
1990.3.27.
大蔵省が不動産融資規制を通達
1990.6.28.
日米構造協議決着
1990.8.2.
イラク軍がクウェート侵攻
1990.8.30.
公定歩合6%に引き上げ
1990.10.1.
株価一時2万円割れ

89年末時点で銀行の不動産業向け融資が前年比14.1%増、総貸し出しの伸びが10.9%だったので、10月の対策にもかかわらず、不動産業向けに金が流れているのは明らか

4月の地価公示で、地方の地価高騰が明らかになることが確実となり、自由化路線を進める銀行局としては逆行することに抵抗があったものの、政治家からの圧力もあってやむを得ず総量規制に踏み切る  最終的に動いたのは海部首相。地価問題は最重要の経済テーマになっていて、海部から橋本蔵相に何等かの手を打つよう指示が飛んだ

23月と株価が急落、一部エコノミストが「よかったと言われた内需は、実はバブルに過ぎなかった」というコメントをしている

319日 東証は史上3番目の下げ幅となる1353円を記録

翌日、予防的引き締めの総仕上げとして公定歩合1%引き上げ

総量規制  不動産業向け貸し出しについては、公的機関に対する貸出を除き、その増勢を総貸出しの増勢以下に抑制することを目途とするとともに、不動産業、建設業、ノンバンクの3業種に対する融資の実行状況を報告させる

総量規制に躊躇し続けた銀行局で、この通達が「効きすぎる」ことを懸念した幹部はいなかったが、この通達はその後の地価急落の主犯とされる

折悪しく、先行指数が3か月連続で50%を割り込み、景気全体も先行きが怪しくなってきた

8月にはイラクのクウェート侵攻により、原油価格が急騰

金利は長短とも上昇したが、一般物価は安定

三重野には、石油ショックの時引き締めが遅れたためにインフレを招いたとの反省があり、今回はなるべく早く利上げをやっておこうとして、5か月前に総仕上げと言っておきながら、さらに0.75%引き上げる

そのころ、日銀による銀行検査で「恵川」に対する4000億の貸出が浮かび上がり、バブル崩壊に伴う腐臭が漏れ始めていた

 

エピローグ

この後、イトマン事件、4大証券による損失補填、富士銀行架空預金事件などの不祥事が次々に明らかになり、90年代半ばには金融機関の破綻が続く

信金信組から始まった混乱は、次第に住専などのノンバンクや地銀に至り、9798年には「絶対つぶれない」と思われていた都市銀行や証券会社が相次いで破綻

その後のデフレは日本を縮小させ、結果的に四半世紀にわたる経済の急変動で多くの国民が痛めつけられた

大蔵省は9512月に、総務審議官武藤敏郎の下に「バブル経済総点検のためのプロジェクトチーム」を作ってバブルの総括を行う

「バブルの生成・崩壊と金融行政」と出した報告書の冒頭の「総括」では、「資産価格の急激かつ大幅な変動が国民生活に及ぼす影響について、的確な認識が不十分だったのではないかと反省される。特に金融行政については、市場機能重視の行政への転換が遅れたこともあり、金融機関のリスク管理に対する意識が希薄化していた一方、当局の検査・モニタリングについても効果的な事前のチュック機能を必ずしも十分に果たし得なかったことは反省しなければならない」とし、日銀についても「当時の金融政策は、学者、ジャーナリズム、国会からむしろ支持され、あるいは後押しされた政策である。したがって現時点で、これらの政策につきそういう方面から当局が責められる筋合いはなかろう」と正直に書いている

バブルを加速させたとの批判があった6兆円の財政出動に対して、「国会を経ている以上過去の政策の是非を取り上げることは不適当」との主計局の論理には疑問を禁じ得ない。黒海を通ったものであろうとなかろうと、国民生活に甚大な影響を与えたものであるならば、日本型の統治機構の中でどのように政策が出来上がってきたのかを検証することは意味があるはず

一般的にバブルの発生要因は以下のようになることが多い  日銀の低金利が長く続いた。地価上昇を加速する税制・規制にバイアスがかかり、東京への一極集中が続く。金融自由化が進み金融機関による貸し出しが活発化したのにリスク管理が遅れた。自己資本比率規制が導入された。日本経済の先行きに強気の期待が高まった。国民の間には自信が芽生え、現状へのユーフォリア(陶酔)が生まれた

日銀の独立性への疑問は、98年に新日銀法で様変わりとなり、13年からは時の権力者が信じる経済政策を体現した人物がトップに座っているが、政府との間に適切な距離を保っているのか、物価上昇という目標を達成するのはいいが金利急騰などのリスクは誰がどうやって取り除いていくのか、異次元緩和の副作用が顕在化する時アラームは鳴らされるのか、バブル時と相似形にならないという保証はない

米国の一極主義を押し返せなかったことも大きい。国際的視野や、日米安全保障と言ったことも考えながらも、したたかに対応しないと、米国に偏している日本の外交の姿勢は変わらず、「歳出圧力の国際化」といった回路もまだ生きている以上、同じ轍を踏みかねない

日本の統治機構が全く変わっていないというのも問題。特に経済政策の司令塔が明確でないという根本的な欠陥が解決されていない

8889年に主計局長、90年次官になった小粥正巳は、後に部内ヒアリングでこう話している。「バブルの崩壊を予見し、それがせっかく軌道に乗りつつあった財政再建を再び振出しに戻すような、極めて大きな経済への後遺症を引き起こす危険があると考える洞察力がなかった。せいぜいバブル税収がいつまでも続くはずがないという想定、その程度で終わってしまったということが、いまになって大変不明だったと思う」

日本の「ベスト・アンド・ブライテスト」の頂点に立った者が不明を恥じるほどの事態は予見不可能だったのか、あるいは、日本の「ベスト・アンド・ブライテスト」は事態の展開を予見できなくても頂点に立てる程度のものなのか

この問いが、これからも繰り返される可能性は小さくない

 

 

 

検証 バブル失政 軽部謙介著 当局者の迷いを肉声から再現

日本経済新聞 2015/11/1
 為替の調整を通じて世界的な国際収支の不均衡を直そうとする1985年のプラザ合意で、日本経済は円高の大波にもまれた。日本に内需拡大を迫る米国、圧力を日銀に投げ渡す大蔵省(現在の財務省)。長引いた金融緩和や不動産マネーの制御の遅れはバブルの膨張と崩壊を招いた。その「バブル失政」を当局者の肉声をもとに検証した。
http://www.nikkei.com/content/pic/20151101/96959999889DEBE1E7E2E7E1E4E2E1E3E3E2E0E2E3E79F8BE5E2E2E2-DSKKZO9350537031102015MY7000-PN1-1.jpg
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 著者は通信社の解説委員長。80年代後半の大蔵省をはじめ日米の財政・通貨当局の取材に携わり、その経験と人脈を生かした。三重野康・元日銀総裁らが残したオーラルヒストリー、日米政府や日銀の内部記録、ボルカー元米連邦準備理事会(FRB)議長らとの個別インタビューから、意思決定の現場を再現した。
 度重なる日銀の公定歩合引き下げ、邦銀の伸長をけん制する国際決済銀行(BIS)規制、不動産融資への総量規制の導入といった場面で「誰が、いつ、何を考えたのか」を掘り起こした。経済や市場の変調を感じながら適切な手が打てなかった政策当局者の弁明や反省の言葉もちりばめられている。
 8590年の膨張期に絞った検証ではバブルの全体像は語れないかもしれない。だが、時を経てこそ入手できる記録や証言を丹念に集めた本書は30年前の日本の迷いを生き生きと描き出している。(岩波書店・2800円)


評・宮部みゆき(作家)

『検証 バブル失政』 軽部謙介著

20151221 0525分 Yomiuri Online
·        http://www.yomiuri.co.jp/photo/20151214/20151214-OYT8I50025-N.jpg
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あの時代の「謎」を解く

 一九八五年九月、日米英独仏五カ国の蔵相会議(G5)で、日本の円や西独(まだベルリンの壁が存在していた)のマルクの価値を高め、国際収支の不均衡を是正しようと決定した。これがいわゆる「プラザ合意」である。
 現代ミステリーを書いていて、二〇世紀末を間近にしたこの国を覆った黄金色の幻――「バブル経済」について説明する必要があると、私はいつも、判で押したようにこのプラザ合意が出発点だと書いてきた。でも本書を読むと、プラザ合意はカードが配られた段階に過ぎず、本当のマネーゲームの始まりは八七年二月の「ルーブル合意」の方だったのだとわかる。つまり、プラザ合意の段階でもう少し慎重に先行きを読み、経済政策の方向を変えていれば、その後の地価高騰や金余り現象が起こることはなかったのだ。これがまず最初の転轍機(てんてつき)で、その置き場所が間違っていた。だから著者は、きっぱり「失政」と断じている。
 何かというと「バブルの傷跡」と書いてきたくせに、私はバブル経済の原因も経緯もきちんと把握していなかった。自分の体験したことや、当時のニュースをもとに、わかったような気分でいただけである。ただ、言い訳がましいけれど、あの時代を生きた方々の大半は、私と同じような感じではあるまいか。今後はさらに、忘却の霧に覆われて全てが曖昧になってゆく。
 本書は、その霧のなかに道標を残すべく著された貴重な資料的価値を持つ歴史書だ。バブルという「事変」の謎を解くミステリーでもある。当時の大蔵官僚と日銀マンの対立と葛藤を描く人間ドラマでもある。タイトルだけ見て、政治関係の専門書だと素通りしてはもったいない。
 「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と持ち上げられたあの時代の日本が強く正しくて、今は弱体化しているのではない。あれはこの国の失敗だったのだ。本書に引導を渡してもらって、ようやく区切りがついたような気がする。
 かるべ・けんすけ=1955年生まれ。79年、時事通信社入社。米・ニューヨーク総局長などを経て解説委員長。
 岩波書店 2800円
20151221 0525 Copyright © The Yomiuri Shimbun


2015.11.19. Book Navi
本書は1986年から1991年の所謂バブル期における、日本銀行・大蔵省・政府・そして海外を視野に公文書、未公開資料(オーラルヒストリー、手記)、直接のインタビュー等を通して「なぜバブル経済が生じ、崩れたのか」「誰が何を行い、または行わなかったのか」を時系列的かつ詳細にまとめたものだ。
著者の軽部謙介は1980年代後半に時事通信の大蔵省担当の記者だった経歴である。その意味ではその期間の現場に立ち会っていたという人間である。団塊の世代にとっては、バブル経済の発生から崩壊に至る時代はそれぞれの個人史を持っているはずだ。しかし、著者も「『これはバブルだ』と確信して毎日を過ごしていたわけでなく、狂乱や金満を正当化するさまざまな理屈を疑う事なく受け入れ、経済の底流で何が起こっているのかなどは視野の外だった」と書いているように、評者にとっても、金融機関の巨大システム開発プロジェクトのメーカー側の責任者として日夜翻弄されていた時期であり、投資目的の「株」や「土地」を持っていたわけでもないのでバブル経済の高揚感を実感することもなく、差し迫った危機感は希薄だったと記憶している。どちらかと言えば、バブル崩壊後の苦労のほうが生々しく記憶に残っているのだ。
本書は極めて精緻で多くの当事者たちの証言を集めていることもあり、読者としては時として論点の細部に迷い込みがちであった。
バブルの生成の原因と言われている「金融緩和の長期化」という観点から1985年の「プラザ合意」によって円やマルク高への誘導策として先進国間の国際収支不均衡を是正するための為替調整が決定されたところから本書は始まる。この円高によって日本の輸出産業は不況に苦しむ一方、急激な円高に対応するための当時の日米の政府間の交渉、日銀内部の意見対立などを含めて、数次に渉る公定歩合引き下げによる「金融緩和」の経緯と内需の拡大に進む姿を検証している。
次のポイントは1987年以降の日米間の経済摩擦に伴い日本脅威論が高まりを見せ始めたなか、所謂「BIS( Bank for International Settlements)」の「バーゼル合意」によって「金融機関の自己資本規制比率」が決定される。BISとしては当初、株の含み益を自己資本に組み込むことを一切認めない方針であったことを考えると、大蔵省の踏ん張りで45%とはいえ自己資本に算入可能とした妥協案によって邦銀が国際市場から退場させられるという最悪の事態を回避できたものの、それはリスクを内在したままになったということでもある。また、「ブラック・マンデー」を乗り切った後、公定歩合引き上げを19895月まで行わなかった日銀の金融緩和の継続の判断についても著者は批判的な目を向けている。この「金融機関の自己資本規制比率」と「金融緩和の継続」こそが生成されつつあったバブル拡大の背中を押して、まさにピークに向かって疾走していたという見方である。
1989年には日銀総裁は大蔵OBの澄田から日銀プロパーの三重野に交代し、政策を転じて公定歩合の上昇に舵を切った。年末の株価は市場最高値を付けたものの、年明けには株価は下落に転じた。一方、地価は引き続き上昇し続けたことから大蔵省は遅ればせながら「金融機関の不動産関連融資規制・総量規制」を発動する。この政策がバブル崩壊の決定打ともいわれている。
日本のバブル経済を軟着陸させる政策は結果的に失敗し、失われた20年と言われる状況になったわけだが、一連の経緯を読むにつけても実態経済活動の中でなにが起こり、経済の底流にどんな影響を与えるのかについて既知の理論的な範囲でしか想定出来なかったのが、大蔵・日銀の俊英たちの限界であったと著者は見ている。経済を解く方程式は複雑であることは事実であリ、経済政策においては何が良い政策で、何が悪い政策かを判断するのは簡単なことではない。常に外部の要因(国際情勢・エネルギー・災害・国家破綻・気候変動等)で左右される。それだけに、経済政策・金融政策のキープレーヤーである政治とりわけ総理大臣・大蔵大臣を中心とした官邸、大蔵省、日本銀行が各々の思惑を持ちつつ政策決定がされていく姿や、国外(米国)からのプレッシャーによって翻弄される姿が見て取れる。
そこにあらわれてくる各国交渉のしたたかさを見るにつけ、日本の国中では省庁間、省内局間のせめぎ合いや政治家の顔色を観つつ日銀との折衝をするといった行動では総力戦とは言い難い部分でエネルギーが割かれていたと言わざるを得ない。同時に、組織ありきの志向を支える人事制度の問題も見えてくる。本書の捉えている時代を中心とした10年間(1984年から1994)で日銀総裁は澄田・三重野の二人であるが、同じ時期に大蔵大臣は竹下登から藤井裕久まで8名、大蔵次官は山口光秀から斉藤次郎まで8名が名を連ねている。大蔵大臣と大蔵事務次官がほぼ毎年変わっていくという実態は、各種国際会議や会合で毎年顔の変わるメンバーで濃密な対話や信頼が生まれるわけはないし、必然的に責任感も生まれないと思わざるを得ない。
「三重野はこう語っている、『まあ旧法の時代ですし、なかなか自分の思い通りにはいかないこともありましたけども、とにかく私は自分の思ったことは大体やったので・・・』旧日銀法とは戦時立法であり、政府の日銀に対する『一般的な業務指揮権』が定められていた。公定歩合についても『日銀の専管事項』と言っていたものの実質は日銀と大蔵の合議であり、加えて官邸がそこに口をはさむといった状況だった。この中で、三重野が『23ヶ月』にわたる史上最低の公定歩合(2.5%)を続けたことによる『金融政策』としてのバブル生成の責任については認めている。しかし、バブル崩壊後の10年間の日本経済の低迷について金融の引き締め過ぎが原因ではなく、新しい構造に日本経済が対応しなければいけないのに、それが遅れた事、企業が変化に対応するという前向きな努力を怠っていたため」といっている。
なかなか微妙な言い回しではあるが、しっかりと「金融政策」だけで国家経済は支えられないと三重野は言っている。その視点は現在の日本銀行、ひいては黒田総裁について、著者の思いを間接的に伝えていると捉えるのは評者の思い過ごしだろうか。
思えば、1989年、三菱地所によるNYのロックフェラーセンターの買収はアメリカ人にショックを与え、評者の体験で言えば、日本の生保が企画・開発した豪華なゴルフコースの会員権を買う報告を米国本社に伝えたところ「ゴルフ場を買うのか」と確認が来たり、日本興業銀行が大阪の割烹料理屋の女将に貸し込んだあげく4000億円を超える負債の詐欺事件の発生に仰天したりしたものだ。こうしてみるとバブルのシグナルは多々あったのだが、日本が良かれ悪しかれ世界に注目されていた時期において、そのピークを制御することが出来ず日本経済は沈んで行った。
その後、長きに亘りあらゆる業種で業績が低迷しリストラと新卒採用の低下が社会全体を不安な方向に引きずって行ったといえる。しかし、著者があとがきに書いている「大蔵官僚や日本銀行の当事者の多くは、退職後も比較的恵まれた生活を送れた」とするメッセージは蛇足だろうと考える。もし、その点を強く指摘するのであれば本書の視点はまた変わったものになるはずだ。著者は、責任のある立場の人間は「能力のあるなし」ではなく、「プロとして誠実に判断し行動したのか」が問われるのだと訴えていると思うのだが。(内池正名) 



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