なぜ国々は戦争をするのか  John g. Stoessinger  2016.3.19.

2016.3.19. なぜ国々は戦争をするのか  上・下
Why Nations Go to War      2011, 2008, 2004

著者 John g. Stoessinger (ストウシンガー)
カリフォルニア州のサンディエゴ大学の世界外交特任教授。ハーヴァード大学で博士号を取得、以後ハーヴァード、マサチューセッツ工科、コロンビア、プリンストン、ニューヨーク市立、テキサス州サンアントニオのトリニティの諸大学で教鞭をとった。1970年にはアイオワ州のグリンネル・カレッジとスイスのアメリカン・カレッジから名誉博士号を授与されている。1963年にコロンビア大学のバンクロフト賞を受賞した、The Might of Nations: World politics in Our Timeほか数多くの著書がある。1967年から1974年までは国際連合の政治部副部長の任にあった。また米国外交評議会の会員でもある。

監訳 等松春夫 1962年米国カリフォルニア州生まれ。政治学者。防衛大学校人文社会科学群国際関係学科教授、国際関係学博士(D.Phil.)。筑波大学(西洋史)卒業後、早稲田大学大学院(政治学)入学。オックスフォード大学(政治学)へ留学。玉川大学文学部講師、助教授、同大学経営学部助教授、准教授、教授を経て200910月より現職。専門は国際関係史、政治学

訳 比較戦争史研究会 
菅原健志 神戸大大学院国際協力研究科学術研究員
加藤博章 国立公文書館アジア歴史資料センター調査員)
白石仁章(外務省外交史料館課長補佐)
野村佳正 1等陸佐:防衛大学校防衛学教育学群教授)
小数賀良二 2等空佐:防衛大学校防衛学教育学群准教授)
安達勝也(1等空尉:航空自衛隊美保基地)
栗原靖 2等海佐:防衛大学校総合安全保障研究科前期課程)
齋藤大介 2等陸佐:防衛大学校総合安全保障研究科後期課程)
篠崎正郎 3等空佐:航空自衛隊幹部候補生学校教官)
関博之 3等海佐:統合幕僚監部指揮通信システム運用課)
源田孝 空将補(退) 防衛大安全保障・危機管理教育センター長
西澤敦 2等空佐 防衛大防衛学教育学群准教授

発行日           2015.10.7. 初版第1刷印刷           10.14. 発行
発行所           国書刊行会


紹介
第一次世界大戦から9.11を経て今世紀のイラク、アフガニスタンにおける戦争まで、指導者たちが戦争へと踏み出す「真実の瞬間」を、政治学のみならず、心理学、哲学などの方法論まで駆使して探った異色の戦争論。第二次世界大戦下、「日本のシンドラー」杉原千畝のビザで一命をとりとめるという稀有な経歴をもつ国際的な政治学者の、混迷を深める国際社会理解に必読の代表作がついに邦訳なる。

序章
本書は、長年に及び戦争がもたらしてきた悲惨を新たな角度から考察するもの
従来の説は常に戦争の問題に於ける人間の本質に欠けていた。人々が制御することができない明らかな力が、「根本的な」原因と祭りあげられているが、戦争を実際に始めるのは人々であり、伝統的な書物では、この人間的個性の面が正しく顧みられることはほとんどなかった。本書の構想は、戦争という機械的な力の背後にある人間性の真実を知りたいという著者の欲求から生まれた
この第11版では、12の戦争を事例研究として取り上げるが、いずれの事例においても最も関心を持ったのは、指導者たちが戦争へと踏み出す「真実の瞬間」だった
いったいどの瞬間に戦争を行うという決定が不可避になったのか、誰がその決定に責任を負っており、そしてそれはなぜか、大参事は避けられたのか
何か現代の戦争に共通の心理を明らかにしただろうか
本書が、戦争の遂行についていくばくか独自の見解を提示することで、現代の戦争を巡る混沌に何らかの秩序をもたらすことを望む。そしてそのような洞察が、人類が戦争から解放される第1歩であると筆者は願ってやまない


第1章 鉄の骰子(さいころ)――第一次世界大戦
世界を永久に変えた大惨事を引き起こした指導的な人々の性格を描こうと試みる
大戦が始まった当初、各国の指導者たちはその戦争を数週間単位でしか考慮しておらず、ドイツ陸軍参謀総長のモルトケ以外は、すぐにでも終わるものと考えていた
戦争に至る決断は人間がした以上、開戦が不可避とする見方は誤りで、ほとんどの場合、政策決定者は自己欺瞞に囚われ、恐怖に慄きながら、他者への想像力が際立って欠如
1次大戦を出発点に導き、一線を超えさせてしまった重要な出来事は以下の4
   オーストリアのセルビアに対する強硬策に、ドイツが支持を確約したこと  オーストリア皇太子の暗殺を君主制に対する重大な脅威と信じたドイツ皇帝が、オーストリアに白紙の支援確約の言質を与えたため、オーストリアを向こう見ずな大博打に売って出させるほど大胆にしてしまった。ロシア皇帝を気の合う同じ君主とみなしたドイツ皇帝のロマン主義的思考が、差し迫った危機における柔軟な対応を難しくした
   オーストリアがセルビアへ最後通牒を発し、セルビアの回答を拒絶したこと  オーストリアの老皇帝の無能な取り巻きが皇帝の意思を無視して強硬な最後通牒を発し、セルビアの一部留保の回答を拒絶して宣戦布告に踏み切った
   ドイツが仲介して、オーストリアの抑制に努めたこと  オーストリアがドイツの支援を背景に、簡単にセルビアを落として短期で終戦すると思われていたが、セルビアがロシアに支援を要請、ロシアの感情的な外務大臣がオーストリアによるロシアへの挑戦と受け止めて立ち上がったために、慌てたドイツ皇帝がロシア皇帝に親書を送り仲介に立ち上がる
   ドイツのロシアへの宣戦布告と、ドイツによるルクセンブルクとベルギーへの侵攻により81日に全面戦争が勃発したこと  ところがセルビアに軍を派遣したロシアの行動を見て騙されたと早とちりしたドイツ皇帝は、イギリスからのドイツの軍事行動が「前代未聞の大参事」になるとの警告すら、英国らしいいかさまだと勘違いして、先制攻撃に打って出る決断をし、ロシアに撤兵の最後通牒を発し、ロシアが拒否するとすぐにドイツは総動員令を発する
大戦争勃発直前の最後の時期に明らかになった恐ろしい事実は、すべての関係国で軍事計画や行動予定が硬直化していたこと  どの国も何年も前から周到に準備し、先制攻撃の機会を狙っていたため、ドイツもすぐにベルギー経由フランスを叩こうとした
あらゆる国家において、相手の状況に立ってみて考える想像力が全く欠けていた
危機に関与した際の人間の凡庸さには驚くばかり。傲慢、愚鈍、軽率そして虚弱。自らのエゴを守るほうを優先する風潮がヨーロッパ中に満ちていた
1914年のクリスマスには、英独両軍兵士が無人地帯で歌を歌いサッカーに興じたが、終わるところ試合に戻っていった。開戦後数か月はまだ広く行き渡っていた騎士道精神が、どちらの陣営においても隅に追いやられた結果、奈落への道が開かれた

第2章 バルバロッサ――ヒトラーのソ連侵攻
ヒトラーは権力の頂点に立ちながら、究極的な破壊の計画にも手を染めていたが、なぜこのような自殺的な攻撃を採用したのか。だれも信用しないスターリンがなぜヒトラーを信頼したのか。多数のドイツ兵があたかも従順な小学生のようにヒトラーに従ってロシアという破滅が待つ場所へと向かっていったことをどう説明したらよいのか
ヒトラーのソ連への攻撃は、独りよがりな子供のようなひたむきな考えから生まれたもので、ソ連を徹底的に破壊し尽すというもので理解困難
一方で、最も猜疑心が強く、最も狡猾で、疑い深いスターリンは、最も合理的ではないヒトラーの合理性を信じていた  いくらヒトラーといえどまずは最後通牒を突き付けてくるであろうから、合理的な対応が可能だと考えていた
1924年 『わが闘争』の中で、ヒトラーは「生存圏」を東方に獲得する野望を記述。敗戦後のドイツが左右両極に分裂した時、ヒトラーは共産主義者を唯一の現実的で重大な障碍とみなし、最大の敵ユダヤ人の次に置き、共産主義者への憎悪にとり憑かれた
スターリンの領土拡張の態度が自身にものと同じであることを知ってヒトラーの怒りはさらに増大、際限のないスラヴ民族への蔑視が、結局彼の経歴における最大の失敗となる
4011月 世界規模で露独日伊の4強国がそれぞれの権益を分割すべきと申し入れたソ連の領土拡張意欲を確認したヒトラーは、英国との戦争を一時中断して翌年5月を準備完了期限とした対ソ・バルバロッサ作戦の基礎となる極秘の訓令を下達
期限直前になって、ムッソリーニのギリシャ侵攻の失敗から救援部隊を派遣せざるを得なくなったことと、より影響の大きかったのはユーゴで親ドイツ政府に対するクーデターの成功で、ヒトラーはそれをスラヴ民族からの個人的な侮辱とみなし、バルバロッサ作戦の開始を4週間延期してユーゴ占領に費やした。個人的な報復のためのこの4週間の延期によって、厳寒のモスクワを前にドイツはソ連を殲滅する機会を失うが、ヒトラーはこのことを死の直前に認識し、ベルリンの総統地下壕の中で「私の4週間を返せ!」と叫んだという
ドイツの攻撃は完全な奇襲だが、スターリンが奇襲攻撃はありえないと思い込むようにヒトラーが仕向けたためだけではなかった
ヒトラーの私的で個人的な事情がソ連との戦争に大きく影響している  ソ連侵攻命令の直前にヒトラーがムッソリーニに宛てた手紙の中で、「ソ連との友好関係が私の全人格、私の信念、私の使命を崩壊させかねなかった」と述べていることからもわかる
侵攻命令が出た622日は、ナポレオンのロシア侵攻から約130年の記念日
スターリンが攻撃の兆候があるこという情報を大量に入手してたにもかかわらず、どのようにしてヒトラーが完全な戦略的かつ戦術的な奇襲を達成し得たのかは難問
ソ連にとって悲惨な戦争の幕開けの最大の理由は30年代の大粛清で、国家の防衛より自己の権力の保持を重視したため、赤軍の将校はドイツ軍よりスターリンを恐れ、単にスターリンの命令を実行するだけの組織に成り下がっていた
もう1つの原因は、39年にスターリンがヒトラーと手を結んだこと。スターリンは、英国の世界支配が、騙され続けてきた他国の愚かさのせいだとし、反英的になっていて、英仏の資本主義勢力よりもヒトラーに信を置いていたのは疑いがない
スターリンの英米に対する過剰な猜疑心こそ、416月の厄災の謎を解く鍵がある
英国が独ソ戦を起こさせようとしていると信じ込み、戦争生起の蓋然性に関する英国の情報はすべてそのような企てとみなして無視。イデオロギー的偏見から、チャーチルの警告よりヒトラーを信用。同様に米国からの警告も無視
スターリンは3つの根本的過ちを犯した。①イデオロギー的な偏見で盲目的になっていたので根拠ある英米の情報を信じられなかった、②ヒトラーが基本的に独ソ関係を合理的に考えると見做しており、ヒトラーのソ連に対する非合理的で無慈悲な嫌悪という本質を理解で見なかった、③最後に恐るべき真実が明らかになったときスターリンはそれの意味することがあまりにも恐ろしかったので結果を直視できなかった
ヒトラーが攻撃した時、スターリンは意思沮喪の状態に陥り精神が破綻、周囲がスターリンを目覚めさせようと試みたが、生気を取り戻した時には正規軍の2割が失われていた
如何にしたら、ヒトラーのようにドイツ国民を窮地に陥れ、彼らを取り込み、そしてソ連との戦争という大災厄に国民を道連れにできたのか。ドイツ人に対するヒトラーのカリスマ的な魅力は、ドイツ人の民族心理における権威主義的な構造によって最も適切に説明され得る
ナチズムは、父権に抑圧された若者の主体性を栄光のドイツ民族という形象に結びつけることによって若者を自己不安から解放し、共通の未来という形象を共有させた結果、ドイツ民族がヒトラーとの破滅的な紐帯を解く唯一の方法は、苦杯を最後まで飲み込み、彼とともに破滅の底へと赴くことだった
一方のスターリンは、ヒトラーに助けられた。ヒトラーのロシア人を人間以下に貶めようとするヒトラーの政策に対し、ソ連軍兵士は生存をかけて戦うようになり、初めてそれに気付いたスターリンが言い出したのが「大祖国戦争」で、人々に共産党への忠誠ではなく、国家への忠誠を求めた
ヒトラーが戦争に完全に敗北したのは、彼が愛を誓ったドイツのあらゆるものやあらゆる人々を侮蔑していたことにある。最終的には、大失敗や粛清にもかかわらずスターリンが勝利したのは、国民に彼が祖国を存続させようとしていることを認識させたから。ヒトラーは破滅が明らかになるまで何度も過ちを繰り返した。その一方、スターリンは最初の失敗から学び、最後の勝利へと人々を導くことができた。スターリンは狂気に押し流されなかったが、ヒトラーは狂気に屈した

第3章 勝利の誘惑――朝鮮戦争
朝鮮戦争の各段階における判断を個別に捉えて、どこに責任の所在があるのかを明らかにしようとした
506月の北朝鮮による韓国への攻撃の動機はいまだに不詳
本章では、北の攻撃に対する米国と国連の対応に焦点を合わせる
1.    米軍の介入に関する506月のトルーマン大統領の決断及び「警察行動」初期段階における国連の役割
トルーマンは「強いリベラル派の大統領」を信奉、公益よりも権益を重視する傾向の強い議会の強い影響力を警戒、特に対外政策に関する決断は自ら全責任を受け止める姿勢で臨むとともに、国連を実効的に機能させることに意を砕き、「あらゆる手段をもって国連を支持する」と宣言している
戦争勃発の初動対処で最も注目すべき点は、米国が国連を通じて北朝鮮の挑戦に対応すべきとしたことで、即刻安保理を開催し、北朝鮮の行動を「侵略行為」と断定
国民党中国の出席への反発からボイコットしたソ連が欠席のまま、加盟国に軍事的措置をとるよう勧告することを決議
大統領は早々にマッカーサーを派遣して状況を把握したうえで、国連の旗の下に米軍の派遣を決断、国連憲章を護持する先鞭をつける
30か国が人的貢献以外の面で支援
国連も、米軍に国連旗のもとでの指揮権限付与を決定、マッカーサーを国連軍最高指揮官に任命
マッカーサーによる仁川奇襲上陸作戦の成功により北朝鮮軍は敗走したが、38度線まで来て新たな問題が起こる

2.    マッカーサーの部隊の北緯38度線越境
新たな国連決議に基づきマッカーサーは38度線を超え平壌に入るが、中国からの警告を楽観的にしか受け止めていなかった錯誤がその後の軍事的悲劇を招く
マッカーサーの鴨緑江への進軍という決断を理解するために不可欠なことは、中国の国力に対する彼特有の誤認識で、中国のよく訓練された共産軍将兵と、堕落した国民政府軍将兵を同一視していた

3.    中国軍の介入を誘発することとなった米軍の鴨緑江への接近
鴨緑江に向けた米軍の進撃が中国軍の参戦を誘発し、ゲリラ戦で敗北
鴨緑江における災厄は、マッカーサーの自信過剰によって拡大、2年半もの間戦争を長引かせ、多くの死者を出し現代史の中で最も血なまぐさい戦争の1つにしてしまった

4.    広い視野に基づく朝鮮戦争の現代的意義
94年の金日成の死去に伴い、後を襲った金正日とクリントンとの間で米朝合意が締結され、国際的支援によって軽水炉2基を建設することと引き換えに北朝鮮の核開発計画を廃棄するものだったが、その後のブッシュ政権が新たに採用した先制戦争ドクトリンや、北朝鮮を「悪の枢軸」と名指ししたことが、北朝鮮に新たな脅威として認識させ、強硬な姿勢をとらせてしまう

第4章 五幕から成るギリシア悲劇――ベトナム
ベトナム戦争ほど指導者個人の性格が大きな役割を果たした戦争はない。アメリカの5人の大統領が、対インドシナ政策をアジアの現実からではなく、自分自身の恐れと、結局は希望に基づいて立てていたと推測され、それぞれが具体的な政策決定を行うたびに戦争は深刻化し、事態はさらに悪化していった
5人の大統領がそれぞれの方法で明確な政策決定をし、それが戦争をエスカレートさせ、究極の不幸の原因を作ってしまった
(1)        トルーマン
フランスとホーチミンとの間で闘いが始まった45年時点ではトルーマンは、フランスの植民地的野心が原因だとしてホーチミンに同情的だったが、48年以降ギリシャ、チェコと相次ぐ東西亀裂の深刻化によって、トルーマンはヨーロッパにおける封じ込め政策をインドシナにも適用することを決定
ホーチミンをコミンテルンのエージェントとみなし、フランスへの支援を開始

(2)        アイゼンハワー
アイゼンハワー政権は、朝鮮の時と同様に中国の軍事介入を予想し、フランスへの支援を増大させ、戦費の半分まで負担
ホーチミンは、中国人によるベトナム支配に対する本能的な恐怖を身に着けており、本質的には中ソからの独立の維持とベトナムの独立運動の統合との間でバランスをとる均衡政策であったが、一方で中ソ双方から可能な限りの援助を受けていた
中国には、ベトナム軍のために無尽蔵な軍事援助をする余裕はなく、均衡を再構築するために必要な最低限の軍事援助を北ベトナムに対して行っていた
54年のジュネーヴ会議と東南アジア条約機構SEATOの成立によってフランスのインドネシアへの軍事関与は終結し、米国のインドシナにおける軍事プレゼンスが開始
ラオス、カンボジア、ベトナムの3つの独立した主権国家が誕生。ベトナムは北緯17度線を軍事境界とするが、2年後の総選挙で政治的統一が図られることになった
中ソに後押しされ国土の3/4を占めるホーチミンのベトミン軍が選挙で勝利することを共産主義の脅威と感じた米国は、ジュネーヴ条約には参加せず、SEATOを創設してラオス、カンボジアに加え南ベトナムの独立を担保しようとした
南ベトナムの独立を目指したディエム政権を米国が支持、選挙をボイコットしたため、ホーチミンが報復として共産党組織に南ベトナムでのゲリラ活動を開始
アイゼンハワーは、フランス敗北の教訓を無視し、ベトナムという重荷を引き受ける決意をする

(3)        ケネディ
ベトナムへの派遣軍事顧問を大幅に増やす
死の直前までベトナムでの勝利に懐疑的だったが、側近の大半がベトナムを政治面ではなく、軍事面に本質的な問題があると考え、高性能な武器こそがより短期での勝利を担保するとして大統領を動かしたため、それまでの最低限の関与から、決定的かつ直接的な関与へと重大な移行を遂げる
6110月 大統領はジョンソン副大統領に加え特別代表を派遣して現地調査をした結果に基づき多勢の軍事顧問と支援部隊投入を承認、それがその後のベトアムからの米国の撤退を困難なものとする
現地調査では朝鮮における紛争との重要な相違点を無視。挑戦の場合は正規軍が昔から引かれていた国境を越えてきたのに対し、ベトナムでは前線というものが事実上意味をなさないジャングルを利用し、政権転覆をはかるゲリラを敵に回した政治闘争だった
米国の技術、コンピューター的思考の効率性、物量、マネジメントがあらゆる敵に打ち勝つことができるという無邪気な思い込みによる奢りの犠牲がケネディ

(4)        ジョンソン
大統領在任期間中におけるベトナムの記録は、大いなる自己妄想と誤解の物語であり、ジョンソンのエゴと頑固さとプライドが、彼の大統領としての地位を破滅させ、あたかも内戦の時代のように米国民を分裂させた
64年統合参謀本部からの大統領に宛てた覚書が、戦争の早期勝利のために、関与の程度を高めることを提言
64年の大統領再選の選挙期間中は、大衆の目を可能な限りベトナムからそらすよう仕向け、652月のベトコンによる米軍兵舎襲撃を機に空爆をエスカレート、ジョンソン自身は爆撃の有効性にある程度疑問を持っていたが、巨大な自我と強がりによって「ローリング・サンダー作戦」と呼ばれた北爆の決定を下す。米国の力が間違った形で濫用されていると警告した人もいたが、大統領の周囲では、国防長官のマクナマラは空爆による勝利を技術的に可能と考え、政策顧問のバンディはそれを知的で立派な考えであるとし、ラスクは歴史的必然とすら考えていた
ジョンソンは、アジア全般に無知であり、敵はベトナムと中国の共産主義勢力と考えたが、その勢力がいくつもの様々な政治的、イデオロギー的な集団に分裂していたという事実を認識していなかったばかりか、植民地戦争が終わっていたことから、当事者の一方が革命の大義を掲げる革命戦争になり得るのだということを決して理解しなかった
軍事力が有効に機能しないと知って、米国のあらゆる伝統的な政治技術を用いてホーチミンを懐柔しようとしたが、爆撃もドル札も効き目がなかった
ホーチミンは、1920年フランス共産党の設立メンバーの1人、共産主義者であると同時にナショナリストであり、決して権力に溺れたり買収されたりしない、普通のベトナム人であり続けた。人格の基礎的な部分において、ホーチミンはジョンソンとは正反対
戦争の緊張が高まるにつれ、ジョンソンは偏執症患者と同様な精神不安定に陥り、根拠のない陰謀への憤りと恐怖に取り憑かれるようになる。1個人が米国の民主主義の中で良かれ悪しかれ巨大な権力を持つことができるということに対する不安は深まるばかり

(5)        ニクソン
「名誉ある平和」による戦争収拾の苦しい手探りが続き、69年米軍地上部隊が撤退を開始したが、戦争の中心的な問題は開戦時と同様、誰がサイゴンを治めるのかということ
69年 パリで和平交渉開始するも、米国民を欺いて北爆も再開、同時にカンボジアとラオスに地上兵力を侵攻させ、共産主義勢力の聖域を破壊しようとした
72年には、米ソ間でデタント(緊張緩和)が進み、取り残された北ベトナムへの爆撃は世界中の非難を浴びる中で激しさを増した後、73年にパリ協定でようやく停戦となったが、結果は20年前のジュネーヴ条約に戻っただけ
75年にはカンボジアでも共産主義勢力が政権を奪取、南ベトナムも、次第に懐疑的となった米議会が軍事支援を否決、サイゴンも共産主義勢力の手に落ちホーチミン市と名称も変更
78年、ソ連の支援を受けたベトナム軍が中国の支援を受けたカンボジアに侵攻し事実上征服したが、カンボジアで行われていた大虐殺は、人道主義的な圧力によってよりも中ソ対立の権力政治的な利益によって終了させられた
20世紀の終わり、世界の共産主義は完全に衰退し、共産主義国として残ったベトナムは、米国との貿易を奨励、ホーチミン市は新たなビジネスの機会を求める米国人で溢れた
ベトナム戦争勃発の原因は見当違いだったということになり、戦闘員と民間人の払った犠牲は無駄となり、国土は荒廃し、死者は生き返らない
ベトナムの悲劇に最も大きな影響を与えたバンディは、判断ミスを認め自身を理解するのに苦しんでいたといわれ、マクナマラも死ぬまで「過ちを犯した」と繰り返し語っていた

第5章 サラエヴォからコソヴォへ――ヨーロッパ最後の独裁者の戦争
ユーゴ解体の物語は、ヨーロッパ最後の独裁者ミロシェヴィッチが引き起こした戦争の物語
オーストリア=ハンガリー帝国の灰から生まれたセルビア人、クロアチア人、スロヴェニア人の王国はユーゴという1つの国となったが、34年の国王の暗殺、41年のナチスによる占領を経て3つの抵抗運動に発展。クロアチア民族主義者の「ウスタシ」、セルビア民族主義者の「チェトニク」、共産主義者のパルチザンで、ナチスに対してのみならずお互いの間でもそれに劣らぬ残忍さで殺し合った
セルビア人とクロアチア人の混血だったパルチザンの指導者ティトーが45年にユーゴの勝者となり、80年まで独裁が続く。「同胞愛と統一」のスローガンのもと民族対立を抑圧
74年 「ティトー王朝」には6つの共和国と2つの自治区  スロヴェニア(ロシア正教地域)、クロアチア(ロシア正教とカトリック)、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ(イスラームが過半)、モンテネグロ(ギリシャ正教地域)、マケドニア、セルビア(ロシア正教とギリシャ正教が拮抗)、セルビア内のコソボ(イスラーム教徒のアルバニア人が多数派)とヴォイヴォディナ(少数派ながら有力なハンガリー人を含む)2自治区
ティトーの死後、コソボのセルビア人自治区から火を噴き始める
1389年 セルビア人にとって聖地だったコソボがオスマン帝国に征服され、以後5世紀にわたる支配ののち、アルバニア人の支配を覆そうと蜂起、大統領から派遣され紛争の鎮静化を図ったミロシェヴィッチが、コソボの紛争をセルビア民族主義の高揚に利用、その勢いで大統領に就くと、ヴォイヴォディナのハンガリー人も駆逐して2つの自治区をセルビアに併合、次いで自身の生まれたモンテネグロを支配下に収め、ユーゴの半数を握る
セルビア人勢力の拡大に真っ先に反応したのが、最も裕福で自由だったスロヴェニア
90年の共産党大会で、ミロシェヴィッチはスロヴェニア人との対決を断行、スロヴェニアは連邦離脱で対抗したため、ユーゴの解体が始まる
クロアチアでは、有力少数派のセルビア人がミロシェヴィッチの成功に倣って「民族浄化」の蛮行を始めるが、それを指揮したのはセルビア人に狂信的献身を誓うムラジッチ中尉
セルビアに対抗するため、ヨーロッパ共同体ECは、クロアチアの主権を承認
多民族国家のボスニアは、92年独立を宣言、ECも自治州として承認、米国もそれに続くが、具体的な後ろ盾はないまま、カラジッチ率いるセルビア人がボスニア=セルビア共和国の独立を宣言、武力で反抗に出てボスニア人を虐殺、ボスニア人口の1/2が故郷を追われ難民と化したため、国連高等難民弁務官UNHCRも機能停止に陥ったほど。94年になってようやく西欧諸国がセルビア人勢力に最後通牒を突き付け、エリツィン大統領がロシア軍平和維持部隊の派遣を約束したことでカラジッチも迫害を停止したが、国連安保理の遅きに失した対応だけが目立った
94年 米英露独仏連合がボスニアの51%をイスラーム=クロアチア連合へ、49%をセルビア人に与えようと提案。反対するカラジッチをミロシェヴィッチが抑えようとしたが、ボスニアのセルビア人は納得せず。一方、アメリカの指導を得て強化されたクロアチアとイランの武器援助を受けたイスラーム勢力がセルビア人勢力を圧倒するようになり形勢を逆転
95年 米国の善意と支援に頼っていた連合軍だったが、クリントンが突然即時停戦を要求、デイトンに紛争当事国が集められ、ボスニア共和国の再建を目指した和平合意に至るが、まるで現実を反映しない机上の空論だったため、自由選挙も名ばかりで、再建は遠いままに終わる
旧ユーゴ国際刑事裁判所は、カラジッチに国際逮捕状を発行し、国連加盟国に対し入国した際の逮捕を義務付けた
戦争中のセルビア人勢力による虐殺の証拠が積み上がったことが、国際司法裁判所をも動かす
クロアチア人、セルビア人、イスラームそれぞれが民族主義を強硬に主張し、それをボスニアとして1つにまとめるためには米国とNATOの軍事介入しか道はなく、コソボのアルバニア系住民を一掃しようとするミロシェヴィッチの蛮行を止めるためにNATOによる空爆が始まる。主導したのは米国務長官のマデレーン・オルブライト
99年 ミロシェヴィッチの降伏で戦争は終結、ミロシェヴィッチはユーゴ国際刑事裁判所によって国際逮捕状が出されたが、残されたのは3つの国境で百万を超える絶望と汚辱にまみれた難民の群れ
UNHCRの努力で、ようやく難民がコソボに戻りだしたが、祖国は破壊しつくされていた上に強力なブービートラップで市民の死傷者が増え続けた
ブービートラップBooby trap)は戦争における戦術の一種。自陣に侵攻する勢力に対し、撤退する部隊やゲリラ組織が残したり、警戒線に張っておく(トラップ:trap)のこと。一見無害に見えるものに仕掛けられ、油断した兵士(まぬけ:booby)が触れると爆発し殺傷する。また爆発物ではなく、スパイク状のもので殺傷する猟師の用いる罠に類似したものもこれに含まれる。
00年 ミロシェヴィッチは大統領の座を追われ、贈収賄で逮捕された後、ユーゴ国際刑事裁判所に送られ、刑事裁判所に代わる新たに設立された国際刑事裁判所が彼の犯罪を証明しようとしたが、06年心臓発作により監房内で死去
08年 コソボが独立宣言。ユーゴ連邦の解体が完結
同年、カラジッチも隠遁中を逮捕され刑事裁判所に拘留
宗教的、民族的憎悪が恒久的な分離を導く時代となったが、現代史において「一時的な」境界線が永続的になった例は3件、①64年キプロス島におけるギリシャ系住民とトルコ系住民、②53年の朝鮮半島、③54年のインドシナ
米国人はこのような憎悪を過小評価するきらいがあり、文化的な多様性に対する寛容という自らのモデルが輸出できるという希望を抱き続け、それゆえに分離を忌み嫌うが、分離が人工的な統合よりも望ましい場合がある
デイトン合意から15年後、ユーゴから離脱した国々の運命に希望の光が差す。スロヴェニアとマケドニアに民主政権樹立。ボスニアにも復興の兆しがあり、06年にはモンテネグロもセルビアから独立
カラジッチ被告に禁錮40年 ボスニア紛争、元セルビア人指導者
朝日 20163250500
 199295年のボスニア・ヘルツェゴビナ紛争をめぐり、オランダ・ハーグの国連旧ユーゴスラビア国際法廷は24日、集団殺害(ジェノサイド)の罪などに問われた元セルビア人勢力指導者ラドバン・カラジッチ被告(70)に禁錮40年を言い渡した。7千人超が犠牲になった957月のスレブレニツァの虐殺を含め、起訴された11のうち10の罪で有罪とされた。
 旧ユーゴ紛争の最重要戦犯の1人とされる同被告への判決は、東京裁判以来の戦犯法廷として93年に設置された旧ユーゴ国際法廷にとっても節目となる。
 判決は、一般市民らが狙撃の標的になり、38カ月も続いたサラエボ包囲についても被告の責任を認めた。スレブレニツァの虐殺をめぐっては「被告は止めなかっただけでなく、拘束されたボシュニャク人男性らを殺害が行われる場所に移動させるよう命じた」などと断じた。
 検察は2014年秋に終身刑を求刑。被告は無罪を主張し、「セルビア人を殺した者たちが自由になっている」などと国際法廷を激しく批判していた。
 被告は、ユーゴ解体の過程で92年末にボスニアの「セルビア人共和国大統領」に就任したセルビア人勢力の最高指導者。クロアチア人勢力、イスラム教徒が多いボシュニャク人勢力との武力紛争で「民族浄化」を進めたとされる。
 957月に起訴され、紛争後潜伏したが、087月にベオグラードでセルビア当局に逮捕された。
 被告の逮捕は、旧ユーゴ紛争やその後のコソボ独立紛争を経て国際的に孤立を深めたセルビアにとっては、民族主義と決別し、欧州連合EU)加盟交渉へ進む大きな節目になった。
 ただ、ボスニアは紛争後3民族の権力均衡を図り、国が二つの「構成体」に分かれた。その一つ「セルビア人共和国」は今も独立を主張。ドディック大統領は今月20日、「恣意(しい)的な裁判だ」と改めて国際法廷を批判した。
 セルビア国内でも、世論には国際法廷に対し「一方的だ」という潜在的な不満がある。
 (ハーグ=喜田尚)
 ◆キーワード
 <ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争> 1991年から始まった旧ユーゴスラビア解体に伴う紛争で、6共和国の一つだったボスニア・ヘルツェゴビナでは92年からボシュニャク人とクロアチア人、セルビア人の各武装勢力が衝突。10万人以上が犠牲になった。支配地域から他民族を追い出す「民族浄化」が横行。957月には東部スレブレニツァにセルビア人勢力が突入。約10日間で少年を含むボシュニャク人男性7千人以上を殺害した。

第6章 神の名をかけた四つの戦い――インドとパキスタン
ヒンドゥー勢力とイスラーム勢力双方の指導者たちの性格を描こうと試みる
彼らにとって宗教戦争とは、1000年も前の十字軍の時代と異ならない現実味を有する
歴史上最も野蛮な宗教戦争は、20世紀に行われたヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の間の戦争
2つの宗教勢力は、宗主国よりもお互いを恐れ、英国に対する独立闘争を別個に行っていたため、47年英国が撤退した時、2つの国家が誕生。それぞれがお互いに蛮行を始める
インド民族運動を大衆運動に変えたのがガンジーだったが、インドの伝統、多数派による支配や大衆の政治参加を強調したことが、少数民族であるイスラーム教徒に自らの信仰の埋没と政治的な将来を暗くすることに対する恐れを抱かせ、インド・ナショナリズムを一体化することに失敗
2次大戦遂行に対するインドの協力の条件として、迅速な独立を約束した英国にとっても、国土の分割は唯一の現実的解決だったが、即3つの問題に直面  ①7百万を超えるヒンドゥー難民のインド流入とそれに匹敵するイスラーム難民のパキスタン流入、②経済圏の分断による対立の激化、③カシミール藩王国の帰属問題
47年 カシミールではヒンドゥー教の藩王独裁に反抗した多数派イスラーム住民の蜂起を機に、藩王に支援を要請されたインド軍が出兵、イスラーム民族を保護しようとパキスタンが軍を派遣して対立。48年国連が介入し和解を勧告、一旦は収まるが以後何年にも亘りカシミールの帰属をめぐる印パの紛争は続く
圧倒的多数が無学文盲の国から一足飛びに進んだ民主主義国家形成へと動いたインドは漸進的な社会主義政策を追求したが、パキスタンは権威主義的な政治システムを採用、陸軍が51年に政府を設立、民主的な手続きを犠牲にして経済発展計画を進める
パキスタンは、最初から西側同盟に結び付けようと腐心、中印国境紛争が始まるとインドの敵に接近し、西側軍事同盟の加盟国であると同時に中国の友好国ともなった
中国と疎遠になったソ連はインドに接近したので、米国は共産主義に対する防衛という表面上の名目で、印パ双方に軍事援助を拡大し、両国は米国製の装備で軍事力を充実させた
65年 2回目の印パ衝突  小競り合いを契機にパキスタン軍がカシミールに侵入、戦力的に優位にあったがインド軍の抵抗にあって膠着状態となり、戦闘が中国を利すると懸念したソ連コスイギン首相の斡旋で休戦へ。単なる一時休止に過ぎなかった
71年 東西パキスタンはイスラーム以外に共通点がなく、一方経済資源の配分は不平等で、西パキスタン人は東のベンガル人とほとんど関係を持たず、米軍の軍事・経済援助も主要な給付を受けたのは西。ベンガルの麻と茶が国家歳入の5070%を占めたが、ベンガルは歳出の2530%を受け取ったに過ぎなかった
70年に東を襲ったサイクロンの被害に冷淡だった西主体の政権に対し、選挙結果はベンガルの圧勝となったため、西出身の大統領はベンガルの政党を弾圧。それに反発したベンガル人はマングローブの中で地方政府を樹立し、バングラデシュと名付けた
西政府の圧力から逃れようとするインド・ムスリムがインド領西ベンガルに流れ込むのを阻止するため、インドは中国との緊密関係を保つパキスタンに対抗してソ連と組むとともにベンガルを支援し、難民が帰郷することを望む
印パの緊張増大に対する米国の関心は、当初米ソ冷戦下の現象という点にあり、パキスタンに接近し、その斡旋で中国に接触、72年のニクソンの訪中に結び付ける
激化した紛争は惨烈な宗教戦争の様相を帯び、徐々に自制が失われ、狂信性や惨烈さの中で闘争の基盤が宗教になってしまった。インドの圧勝に終わり、東パキスタンはバングラデシュとして再出発
74年 インドが核実験実施。98年には印パ両国とも核実験を成功させる
99年 パキスタンの民主主義政治は終わりをつげ、軍政に舞い戻る
01年 イスラーム過激派によるインド国会へのテロを契機として、印パ国境に核を振りかざした緊張が走るが、米国の仲介の労もあって、03年には両国間の正常な外交関係が復活
07年 パキスタンは10年の軍政の後、国内と米国の圧力でムシャラフが大統領を辞任、文民政権に移行したかのように装ったが、民主的支配に完全に関与することはなかった
05年のカシミール大地震の救援活動を通じて両国の協力関係が強まったかのように見られたが、06年以降ムンバイでパキスタンのテロ組織の活動が活発化。08年に3日間続いた残虐行為ではパキスタンの指示の確たる証拠が残されピークに達する(「ムンバイの9.11」と言われる)が、インドの冷静な対応が事態を鎮静化させ、インドの政治的安定と世界での評価が急騰した
西洋の歴史書は、宗教戦争の時代はプロテスタントとカトリックが和解したウェストファリア条約の締結時に終わったと断言するが、より恐るべき兵器を用いてさらに陰鬱な空の下で衰えることなく続いている。ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒が唯一同意したのが核クラブへの加入であり、結果としてさらに熱心な加入希望者たちに道を開いてしまった

7章 聖地における60年戦争――イスラエルとアラブ諸国
中東に新たな現実を作り出した近年の劇的な諸事件を加える
歴史的な悲劇は、問題のない正しい衝突から生まれやすい。それがパレスチナにおけるイスラエルとアラブ諸国間の戦争の核心であり、ヒトラーによる絶滅の恐怖に怯えたユダヤ人が自分たちの祖国を創生することによって自力救済を試みたのが、ちょうど西洋の植民地主義の試練から脱して、自らの運命を再発見しようとしていたアラブ人が支配していた土地だったために、両民族の国家意識が全面衝突した  双方の正当な意見と正義のための要求との間で悲劇的な衝突が起き、時間が過ぎても和らぐことはなかった
両者の歴史的経緯から生じた問題には解決策はないのだろうが、解決策を提示することは学者の責務
1897年 シオニスト運動発祥。オーストリア人ジャーナリスト・ヘルツル博士の提唱
1914年から慈善家や寄附によってアラブ人地主のいない地域で10万エーカーの土地が購入され、22年からは英国が国際連盟の依頼で委任統治を行う
英国は、一方でユダヤ人と約束をし、他方でアラブに石油と戦略的利益を見出し、板挟みとなり窮地に立ってユダヤ人入植者数の上限を決めようとし、地域の封鎖を試みる
それでも非合法に押し寄せるユダヤ人に対し、アラブ人が徐々に反抗的になり、激しい闘争が始まる
47年 完全に手詰まりに陥った英国が委任統治を放棄、国連に問題を委ねたときにはパレスチナのユダヤ人は50万に達し、その指導者はベン=グリオン
同年、国連が分割案を提示、賛成多数となったが、アラブ諸国は決定に従わないと表明し、時を置かずして武力闘争に発展
48年、ベン=グリオンはイスラエルの建国を宣言、英国の委任統治が終了とともに、両者間の闘争は頻発、激化かつ残忍に。軍事的には停戦状態だったが交戦状態は続く
56年 スエズ危機  パレスチナ戦争で武功を立てたナセルが52年エジプトの大統領に就任、スエズ運河を封鎖に加えイスラエルの唯一の海上出口となるシナイ半島南端のチラン海峡も封鎖、さらに英仏がイスラエルに共通の利益を持つことを知って過去の恥ずべき植民地支配の象徴であり残滓だった運河の国有化を宣言したため、イスラエルと英仏が合同で宣戦布告。同日国連安保理が動いて停戦、わずか1日のために大軍が動く
重要なのは英仏両国の感情的な反応が引き金を引いたことで、最終的な分析の結果、国際政治における主導権は米国の意向に頼らざるを得ないことを理解、すべての争点は軍事力によって情勢を変えようとしたことであり、今やそれは後退の憂き目にあっていた。現実問題として、スエズ危機によって中東における英仏の影響力は終焉を迎え、ベトナムと同様の事態を招く。アラブはナショナリズムによって偉大な勝利を得、ナセルは運河の支配者となる。国連は、平和維持軍として緊急派遣軍UNEFを中東に派遣、イスラエルは撤退
67年 再度両者の関係が悪化、エジプトはUNEFを撤退させ、イスラエルと直接対峙したが、イスラエル側の奇襲によって6日間のうちにシナイ半島からガザ地区、ヨルダン川西岸、エルサレム市全域、シリア国境のゴラン高原を占領、軍事力によってアラブを撃破
73年 国連の勧告を無視して占領地域に居座るイスラエル軍に対し、ナセル死去の跡を継いだサダトはシリアとともに反撃を開始、戦闘が拡大したところで米ソ両国が間に入って停戦、以後中東情勢はキッシンジャーの勢力均衡策によって支配される
78年 イラン国王退位、イスラーム原理主義者が政権を奪取
79年 カーター大統領の中東訪問を機に、イスラエルとエジプトが平和条約を調印したが、エルサレムを「永遠の」首都だと宣言するイスラエルに対し、アラブ諸国はサダトを裏切り者として暗殺し、対立を先鋭化させる
67年のイスラエルによるヨルダン川西岸占領によって追い出されたパレスチナ人がレバノンに移住してきたことで、キリスト教徒とイスラーム教徒のバランスが崩れて内戦状態となったため、シリア軍がイスラーム教徒保護を名目に進駐、それに対抗して82年イスラエルがレバノンに侵攻、米国がソ連の介入を恐れて直接多国籍軍を組織して乗り込み、レバノンをレバノン人に戻そうとしたが、若いレバノンの大統領はキリスト教派閥の代表者としてふるまったため、イスラーム急進派の反感を買い、彼らの自爆攻撃によって多大な損害を発生させる。多国籍軍は手を引き、レバノンは分断、分裂しいまだに悲劇の土地
88年 第1次パレスチナ抵抗運動  ガザとヨルダン川西岸地区のパレスチナ人がPLOを唯一の正当な代表組織だとして、イスラエルの支配からの解放を叫んで立ち上がり、アラブ諸国の支援を得てパレスチナ国家の独立を宣言。国連も承認し、両地域を国連の監視下に置くことを圧倒的多数で決定。アラファトがあらゆるテロリズムの放棄を宣言したことで、米国も受け入れざるを得なかった
93年 ワシントンでアラファトとラビンが和平合意に署名。ヨルダン川西岸とガザがパレスチナ暫定自治政府に返還されることになったが、両者の中の急進派は激しく反発
01年 イスラエルで強硬派のシャロンが就任すると、和平交渉は完全に行き詰まり第2次抵抗運動に拍車がかかる。ブッシュ政権は両者の紛争解決のための「ロードマップ」を約束していたが、アラファトの退陣と穏健派のアッバス議長の登場により05年の最終合意を目指すも、過激派を抑えきれず苦戦
06年 イランが支援するレバノン人ゲリラ集団ヒズブッラーがガザ地区の国境を越えてイスラエル軍を奇襲、数日のうちに急速にエスカレート
中東最大の願いは、アラブとイスラエルの間で、双方の過激派に対して穏健かつ永続的に共闘する、広範かつ強固な協調体制を構築すること

第8章 戦争愛好家――イランとクウェートに対するサダム・フセインの戦争
フセインによる1980年のイランに対する攻撃と、90年のクウェート侵攻を分析
著者は、合理的な説明を超えた究極の悪が存在することを信じる。その1人がヒトラーであり、ミロシェヴィッチとフセイン。古典的な戦争愛好家で、罪なき人々の命を糧にして、終わりのない戦争を必要とする
198088年のイラン・イラク戦争  79年フセインが権力掌握し、紀元前586年にエルサレムを破壊し、ユダヤの民を捕虜としたことで歴史に悪名を残したネブカドネザル王の古代バビロンの再建に着手。フセインが指導するスンナ派とホメイニが率いるシーア派の宗教戦争の中で、フセインは「ジハード」を宣言
個人的な嫌悪もこの戦争の背景にある  ホメイニはイラクで亡命生活を送り、反乱を準備したが、78年フセインにより国外追放された屈辱を生涯忘れなかった
戦闘は前時代的な塹壕戦となり、イランは人海戦術でイラクの塹壕突破を狙う。イランにおいて殉教への執着は、膨大な犠牲者にもかかわらず戦争への支持を維持
8年の戦闘の末、ようやく両者は停戦に合意、20世紀における最も悪逆は紛争が終結したが、国境線の問題を放置したままだったため、近い将来再燃する
90年のイラクによるクウェート侵攻は、ヒトラーの電撃戦を模倣したもので、クウェートの全人口を超えるイラク軍は数時間のうちに全土を制圧、イラクの19番目の州として、クウェートの消滅を宣言したが、対イラン戦争の戦費と復興費用で700億ドルの負債を抱えたイラクにとってクウェートの巨大な油田が目当てだったことは明白
40年以上も前の金日成の韓国侵略を後押ししたような米国の明確な消極性が、フセインを勇気づけるか、誤解させた
同日中に国連安保理が全員一致でイラクに対しクウェートからの即時かつ無条件の撤兵を求める決議  50年の対北朝鮮決議以来初のソ連の拒否権なしに重要な採択が行われた歴史的瞬間
米国はサウジの要請によって軍事支援を実行
航空兵力によってイラクは大打撃を受けた後、テル・アヴィヴにミサイルを撃ち込んだのがフセインの躓きの始まり
フセインが後世に残した恐ろしい遺産は、クウェートにある600もの油井に放火する決断をしたこと。自然環境に長期間与えた結果は表現できない
91年 国連安保理が大量破壊兵器廃棄特別委員会を組織し、隠匿された兵器を捜索し、破壊する作業を開始したが、フセインは執拗に抵抗、国連の査察官のイラク入国を拒否

第9章 新世紀の新しい戦争――米国とイスラーム世界
9.11と、03年のイラクに対する有志連合諸国による予防戦争を取り上げる
クウェートとコソヴォの2つの事例で米国は迫害されているイスラーム教徒を救済しようとした
米国大統領は、2つの基本的な性格のタイプがリーダーシップの形態を特徴づける。1つは聖戦を遂行する十字軍の騎士であり、もう1つのタイプは実務派  前者の代表は騎士はウィルソンであり、実務派はケネディ
ブッシュは、実務派として大統領を始め、次第にフセイン追及が妄念へと硬化するまでに十字軍的な立場へ変わっていったというのが本省の仮説
米国にとって危険な独裁政権は民主主義に転換されるべきであり、必要とあらば武力を用いるという外交政策に転換。武力の中には先制攻撃による戦争という新たなドクトリンの適用も含まれる
02年 子ブッシュは一般教書演説の中で、イラク・イラン・北朝鮮を「悪の枢軸」と名指しで非難  イラクとイランはパレスチナへの支援を強化して米国の注意をそらそうとし、北朝鮮は核不拡散条約からの離脱を宣言(03年発効)して米国を脅迫
02年秋 米議会が対イラク戦争を許可、国連安保理事会も全会一致でイラクに大量破壊兵器の廃棄を求める決議を採択
03年 戦端が開かれ、米英軍は激しい空爆の後バグダードを占拠、軍政を敷く
残されたフセイン支持派のテロによって米兵の殺害が続く
03年末 フセイン捕縛で終戦。投降は誇りと尊厳が重要なイスラーム世界では恥辱にもかかわらずフセインが殉教よりも生き恥をさらすことを望んだのは、生存こそがこの独裁者の核心であり本質だということ。フセインの意図は自身の生存であり、アルカーイダのような西側に対する聖戦などではなかった
時を同じくしてリビアのカダフィーが全ての核、化学、生物兵器の保有を断念し、査察を受け入れることに合意
米国のイラク侵攻について最も驚くべき事実は、ブッシュ政権の誰もが深刻なゲリラの反乱を予期していなかったことで、有志連合軍の死傷者の顕著な増加に直結
05年 イラクへの主権移管に当たり国政選挙を実施したが、少数派のスンナ派は選挙をボイコットしたため、シーア派とクルドが国会を支配。国内では宗派間の憎悪が燃え上がる
06年 内戦へ転落
イスラームの下における法と社会――3つの場面
(1)    アフガニスタンにおけるNATOの戦争
アフガニスタンとイラクはいずれも米軍の信仰によって専制体制が転覆されたが、アフガニスタン場合は米国の支援によって、05年には速やかに指導者が選出され、イスラーム法が政治指導指針として明確に宣言され、さまざまな民族集団を包含した。この成功の理由は、アフガニスタンが統一国家としての長く確固たる歴史があったことと、体制変革と復興が国連の完全な支援を受けていたことにある。一方、イラクには国家としての統一性、正統性がなかった。ただ、米国、国連、NATOによる平和維持軍の執拗なタリバーンとの戦いは続き、パキスタンも加わって地域の不安定化は増している
(2)    09年 イランにおいて根本的な状況の転換がみられる  穏健派の大統領が選出されたが、内部の対立は激化。米国とイランが30年ぶりに直接交渉再開するも、核廃棄には程遠く物別れ状態のまま
(3)    フセインの裁判  捕縛から22か月後に裁判開始。06年死刑執行

イラクは、民主化という米国による壮大な実験の主たる焦点であり続けた  多くの犠牲と負担は、2つの根本的な問いを考えさせる。何が悪かったのかと、事態を正すためには何ができるか
(1)    何が悪かったのか  ①政策に適合しない事実は排除されたこと、②ブッシュの国連に対する根本的な反感と単独行動主義、③自己イメージが肥大化し、都合のいい人材で周囲を固めた
(2)    事態を正すためには何ができるか  統一国家としてのイラクの歴史は怪しげなものであり、この地域を成功裏に統治してきたオスマン時代のように、民族的、宗教的敵意を認識し、それに配慮すること、すなわちそれぞれを別個の主体として統治した形態が参考になる

第10章 なぜ国々は戦争をするのか
ルワンダとダルフールというアフリカの紛争の事例研究を含める
戦争とは病の一種
戦争とは習得された行動であり、それゆえに習得を拒めば遂には放棄することも出来るはず
21世紀の戦争の新しい潮流
(1)    9.11のように、わずかの狂信的なテロリストが超大国に甚大な被害を与えられること
(2)    ブッシュによる先制攻撃ドクトリンを主唱して戦争を決意したこと

戦争を決定するもの  20世紀の戦争はすべて仕掛けたほうが敗北しているが、共通しているのは指導者の誤認識が要因となっていること
闇の奥――ルワンダとダルフール
94年 ルワンダでのジェノサイドによる虐殺  少数民族による圧政からの解放
03年 スーダンのダルフールから黒人を一掃
国連の人権宣言が発表されてから半世紀以上がたっても、いまだにあまりにも多くの人間が国際社会の間隙に落ち込んでいる






なぜ国々は戦争をするのか(上・下) ジョン・G・ストウシンガー著 開戦の過程 指導者軸に分析
 日本経済新聞朝刊2016年1月17
 この本には、タイトルと内容との間に若干のズレがあるかもしれない。国ぐにが「なぜ」戦争をするのか、というよりも、「どのようにして」戦争を始め、拡大し、長期化させてしまうのか、に本書の重点があるからである。
(比較戦争史研究会訳、国書刊行会・各2500円 書籍の価格は税抜きで表記しています)
 著者の結論も、やや陳腐な印象を与えるかもしれない。戦争の勃発にはそれを始めた指導者たちの性格に決定的な重要性があり、彼らの誤認識(ミスパーセプション)が最も決定的な要因である、と著者は結論づけている。たしかに、戦争を始めた直接の要因はそうかもしれない。でも、戦争に至る複雑な過程を考えると、指導者の性格や誤認識が決定的であったと言えるかどうか、疑問の余地があるだろう。
 そうした疑問をいだきながらも、本書を通読してみると、著者の結論に、つい説得されてしまう。それは、著者が取り上げた事例の選択に、理由の一部がある。第1次世界大戦、独ソ戦争、朝鮮戦争、ベトナム戦争、ユーゴ内戦、印パ戦争、中東戦争、イラン・イラク戦争と湾岸戦争、イラク戦争>、といった本書の事例では、例えばヒトラー、ミロシェヴィッチ、フセイン、ブッシュ(子)という指導者の性格がきわめて大きな役割を果たした。
 だが、本書に説得力があるのは、事例の選択だけに理由があるのではない。各事例の描き方が、まことにドラマティックで、迫力満点だからである。どのようにして戦争が始まり、拡大し、長期化したのか、実証的に、かつ綿密に、そしてダイナミックに描写され分析されている。
 論旨明快、しかも著者の国連で勤務した経験と長年の研究とに裏付けられた主張が、よどみなく展開されている。そうした迫力や主張は、第2次世界大戦下でユダヤ難民として苦難の道を歩いた著者の体験にも由来しているのだろう。その意味で読者には、著者の体験を語る「エピローグ」から読み始めることを勧めたい。
 戦争勃発の決定的要因が指導者の誤認識にある、という著者の結論はやや陳腐かもしれないと先に述べた。実はこの結論には、歴史は何らかの必然ではなく、過去の戦争も不可避だったわけではない、歴史は人間の自由意思によってつくられるものなのだ、という著者の力強いメッセージが込められている。
 翻訳は、おおむねこなれた日本語で、読みやすい。監訳者の労を多としたい。ただ、下巻の一部の章に誤訳らしきものが散見され、それだけが残念である。
(帝京大学教授 戸部 良一)


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