国連と帝国  Mark Mazower  2016.1.18.

2016.1.18. 国連と帝国――世界秩序をめぐる攻防の20世紀
No Enchanted Palace 
The End of Empire and the Ideological Origins of the United Nations 2009

著者 Mark Mazower 1958年ロンドン生まれ。オックスフォード大で古典学と哲学を専攻。ジョンズ・ホプキンス大で修士号、オックスフォードで博士号。現在コロンビア大教授。ギリシャを中心とするバルカンの専門家であるにとどまらず、20世紀ヨーロッパ史の世界的権威。『フィナンシャル・タイムズ』紙、『インデペンデント』紙などの寄稿者

訳者 池田年穂 1950年横浜市生まれ。慶應大名誉教授。専門は移民論、移民文学、アメリカ社会史。

発行日           2015.8.5. 初版第1刷発行
発行所           慶應義塾大学出版会

序章
国際連合設立の際の国連憲章、特にその前文は、世界人権宣言やジェノサイド条約とともに、ナチズムとの戦いの中で確立された新たな世界秩序の基本命題を証するもの、とみなすことができる。あるいは、国連の創立者たちが決して換金するつもりのなかった約束手形であるとも読み取ることができる
1940年代半ばといえば、人権について語ることは、重要な政策立案者にとっては、しばしば無策でいるための、そして真剣に介入に踏み切るのを「避ける」ための方便であった
現代の人権保護運動は、早めに見積もっても1970年代より前に遡ることはない
本書では、関連し合う2つの歴史上の定説に異議を唱えたい
1つ目は、アフロディテが泡から生まれたのと同じ様に、国際連合は第2次大戦の中から生まれたのであり、純粋であって、大戦前の失敗作の国際連盟とのいかなる重要な繋がりにも毒されていない、というもの
2つ目は、国連が何よりアメリカのものであり、公開の討議の場でも秘密の話し合いにおいても他の国々はほとんど役割を果たしていないところで生み出された、というもの
著者としては、国際連合は国際連盟から始まった国際機構の歴史の本質的には続きの章であり、国際連盟を通じて「帝国」という問題や、イギリス帝国のとりわけ最後の数十年間の話だがそこで生まれた「世界秩序」というヴィジョンと結びついていたのだと、描写したい
後に反植民地主義を穂右折したために不都合な事実が曖昧にされたが、もともと国際連合は国際連盟と同様に帝国の産物であり、少なくとも当初は、維持すべき植民地を抱えた諸帝国から、帝国防衛の適切な機構とみなされていた。第1次・2次のブール(ボーア)戦争に遡るイギリス帝国の中心で20世紀初頭に生じていた、国際秩序とか共同体とか民族とかについての議論に端を発する既存の考え方や機構が原点
本書が、国際連合や戦後世界秩序のイデオロギー面での前史について厳密に精査した結果を提示しているのは、そうした観点に由来している
本書は、イギリス帝国末期における著名な政治家で南アフリカのヤン・スマッツに始まってインドのジャワハルラール・ネルーで締める。ブール戦争の余波の中でスマッツによって提唱され、1946年から50年代半ばにかけての一連の政治的な動きの最中にあったネルーによってはっきりと覆された「帝国主義的インターナショナリズム」の考えの消長を明確にするものは、その間の彼らの国際連合体験による
中間の章は、中堅どころの思想家の著作を紹介
2章で扱うのは、戦間期のインターナショナリズムの理論家の中でおそらくもっとも著名なアルフレッド・ジマーンで、国際協調を支持するリベラルが折々の結末に幻滅しがちである理由を的確に説明している
古代ギリシャ、ヘーゲル、世俗化したキリスト教を難なく混ぜ合わせた「文明」とイギリスのリベラリズムの価値観を信奉、善意ある人間ならばそれ以外のイデオロギーを選択することはありえないと信じていたが、彼の未来に向けた賭けは、ファシズムの出現によって破綻したため、その代わりを若い民主主義国家だったアメリカ合衆国に求め、新たに世界に対する責務を負うよう教え込もうとし、自由の指導者としての自覚を促し、国際連合をその偉大な目的を達成する手段とみなすよう説得した
3章では、19401年代半ばに焦点を当て、2人のユダヤ人社会科学者、法曹家のラファエル・レムキンと人口統計学者のヨゼフ・シェクトマンの戦時思想を探求し、2人の戦争についての分析が、民族自決、国際法、マイノリティの権利に対する大戦後の姿勢――新しい国際機構の活動に反映することになる姿勢――が急激な変貌を遂げたのにどのように貢献したかを説明する
著者の出発点は1つの疑問から  自国で人種差別をしている南アフリカの政治家スマッツ(首相・元帥)が、国連憲章の感動的な前文の起草に貢献したという事実
スマッツの見解は、彼の生きた時代を特徴づける道義的公正さに溢れていたし、実際に、より高い道義性に訴えることこそが、国連憲章の前文への彼の主たる貢献であった
ますます民族主義的になる時代に、帝国を擁護し適応させるための機構として発足したものが、第3次対戦を防ぐというほとんど忘れ去られた目標を超えての実態ある戦略的目標を欠いた、世界中の国民国家のクラブと化してしまった。第2次大戦終結後の権力構造は手つかずのままにしておきながら、国連は、現在までのところは徒労に終わっているが、時代のニーズ応える政治的なレゾンデートルを求めている

第1章        ヤン・スマッツと帝国主義的インターナショナリズム
ヒトラーが自死した翌日、スマッツはサンフランシスコ・オペラ・ハウスで、50か国の代表団を前に、第2次大戦を「正義への信念と、人間の基本的権利を保護するという決意」に関わる道徳的戦いと位置づけ、第3次大戦という大きな厄災を避けなければならないと鼓舞した
スマッツは、1909年南アフリカ連邦の「憲法」に当たるものを起草、戦火で荒廃した国家をイギリス帝国に新たに編入するのに尽力。第1次大戦中はイギリス帝国戦時内閣の信頼すべき一員となり、イギリス空軍の生みの親ともなった。191924年首相
イギリス帝国を「世界政府の実験として唯一成功したもの」として大いに賞賛し、それが世界規模に拡大されることを求め、その上に立って国際的協調を通して白人支配の帝国の命を永らえさせようとして、インターナショナリズムという思想を唱える
スマッツの、英米を基軸として、両国が導く国際連盟という考え方に対し、イギリスの政治家たちは、平和時における恒久的なものとして国際的に束縛し合う関係を結ぶことには否定的
人種主義的な文明化の使命を推進  アフリカはじめ「文明化されていない」地域での人種隔離を信奉する一方、ヨーロッパ人を分断するのは、ヨーロッパ大陸の文化的一体性を大きく損ない。それが世界の非ヨーロッパ世界を文明へと導く能力に脅威を与えていると見做して反対した。ヒトラーの出現をヨーロッパの支配的立場に対する由々しき脅威として警戒すべきとしたのも、スマッツの人種主義の故であった
大西洋憲章は、極めて曖昧な文書で、アメリカの主張するヨーロッパ諸帝国の解体への国際公約だとする考えと、ヨーロッパ人は主権を持つのに向いているがそれ以外の人種は無理だというヴィクトリア朝的な考えの再認識だとする考えの両面があった
チャーチルはもちろん後者の立場だったが、40年代初めにはホワイトホールは国家の存続で頭がいっぱいで将来のことまで心配できる状態ではなく、ワシントンのほうが親国際連盟グループが復活して国際連盟をひな型とした新しい国際連合機構設立への細かい点までの議論が進んでいた
スマッツにとっては、新しい平和時の機構に「すべての」強大国の支持を得ることが最重要であり、ダンバートン・オークスでの4か国会談に当たって、「新しい安全保障理事会の常任理事国は拒否権を持つべきだ」というスターリンの考えを受け容れることをチャーチルに働きかける  国連憲章の前文を起草するとともに、自らもサンフランシスコ会議で演説し、国連憲章を「平和のための上質で実際的な手際のよいプラン」と絶賛し、それは「我々の文明を支えるものである社会的・道徳的諸機関の広範なネットワークにより……人類の精神を総動員する」ことで援護される必要がある旨を強調
サンフランシスコ会議に全米黒人地位向上協会の代表として参加したデュボイスは、黒人ながら第1次大戦中は将校に任官され、パリ講和会議にも出席していたが、提案されている国際的な「権利の章典」では植民地化された民族への言及が省かれていると指摘して憤慨
「世界規模の組織にはめ込まれた大国間の同盟」との非難や、「世界はまた有色人種の住む、領土だの勢力圏だのといったものの滅茶苦茶な寄せ集めに戻ろうとしている……略奪を旨とする帝国主義に新しい命が吹き込まれた」との反論はすべて無視された
国連は、スマッツの意図通り世界秩序維持のための力として誕生し、白色人種の成功を裏付ける存在となり、その傘の下でイギリス帝国は文明化の使命をなし続けることができた南アフリカは、アフリカ大陸でイギリス帝国の意を体する活発な代理人となった

第2章        アルフレッド・ジマーンと自由の帝国
「インターナショナル」という概念は、19世紀初め、ジェレミー・ベンサムが統治の一領域として創り出したもので、政治信条としての「ナショナリズム」がしっかりと広まってインターナショナルな関わり合いに持続的に反映されるのを必要とするようになったのも19世紀末
ジマーンは、戦間期のインターナショナリズムの卓越した理論家で、イギリスが世界中を指導するという道義的イデオロギーと、新しいリベラルなインターナショナリズムとの緊密な繋がりを明確なものとした
ローマがヴィクトリア朝の者たちにとって「帝国」の明らかなモデルでとすれば、自由を求め擁護するのに熱心な「連邦」という考えの基となったのがギリシャ
オックスフォード大で古典学を専攻し教授となったジマーンは、アテナイの勃興を、アテナイの隣国群にとって間違いなく福音だと描き、アテナイの「帝国」を自由の象徴とし、人類が「完璧な国の中の完璧な市民」に最も近づいたものとした
新しい国際体制の地固めを成功に導く鍵は、精神的な変容の過程としての教育にありとし、平和への解決策は、組織の内部を整えることにではなく、「個人の自立を促すための社会教育」にありとした
世界秩序と諸国民の間の安定した関係を築くには、新しい組織や国際法よりも道義的なリーダーシップを必要としていると説き、世界平和は「イギリスの道義的勇気」に基づいていると結論付ける
ジマーンはその著書『第三イギリス帝国』の中で、今日のイギリス帝国のまさに基礎となっている、自由で自発的な協調の意欲ほど効率面でも永続性でも勝る法的拘束力はありえないとしている
2次大戦は、ジマーンの信じていたヨーロッパ復活の可能性を損ない、遂には彼の信奉していたイギリス帝国を衰退させ、代わりに世界にとっての唯一の希望をアメリカ合衆国の指導的役割に期待する

第3章        民族、難民、領土 ユダヤ人とナチス新体制の教訓
ヨーロッパにおけるナチス支配についての戦間期の分析者たちが、マイノリティの権利、民族自決、難民の福祉などの将来にとっての処方箋を、戦争中に起こったことの解釈に基づいていかにまとめたかを掘り下げる
マイノリティの権利保護は、主権国家の内政問題への、国際法による最も差し出がましい干渉を意味した
国際連盟もこの問題に関しては全く無力で、世界的な難民危機は国連の失敗を証するもので、ヨーロッパを再度戦争に陥れようとしていた
新世代のウィルソン信奉者であるローズヴェルトは、ウィルソンは現代政治が人口問題に与えた衝撃から発生した強力な社会的圧力を無視したがために永続的な平和を築けなかったのだ、そう確信していた。そのために、ユダヤ人入植団を送り込めそうな土地を探す秘密のM(migration)プロジェクトを進めていた=「中東にとってのニューディール政策」
シェクトマンは、1941年フランスから脱出してニューヨークに来て、戦略情報局やILO、ユダヤ人問題研究所の支援を得て戦後のユダヤ人移住問題を研究
マイノリティの迫害という現実の犯罪行為を対象とする、新たなずっと強力な法的保護機関を唱えたのが、国際法曹家のラファエル・レムキン。彼も亡命者で、41年合衆国に到着。ドイツのポーランド侵攻の罹災者で、スウェーデンに亡命して教鞭をとっていたが、ヨーロッパ中のナチス占領当局から発せられた膨大な布告を蒐集、豊富なドイツに関する知識をもってアメリカ副大統領率いる戦時経済局の相談役となる
彼は、政治的ないし文化的色彩の強い民族集団を破壊することを指すために「ジェノサイド」という新語を用いた
戦後のニュルンベルク裁判では、合衆国主席検事のアドバイザーを務め、「人道に対する罪」を起訴状に入れさせたが、最終判決では「侵略戦争」という文脈とは別にしてはそれに対し言及しておらず、またドイツによる戦前のユダヤ人迫害については権限内と捉えていないと見えたことには失望

第4章        ジャワハルラール・ネルーとグローバルな国際連合の誕生
国際連盟と国際連合の連続性は、以下に否定しようとも顕著であり、マイノリティの権利に対しては全く異なる姿勢をとっているにもかかわらず、国連は「本質的には第二の国際連盟」であった、というのが真実
46年の国連総会で、激しい反植民地主義的風潮が浮上  イギリス連邦内部の軋轢が顕在化、特にパレスチナ、インド、ビルマの支配がきかなくなっていた
インド人がはじめて南アフリカに移住したのは1860年で、行き先はナタール植民地、砂糖プランテーションでの季節労働者としてだったが、厳しい差別が諍いの種になっていて、間もなくインドのナショナリズムに火がつく

終章
国連が創立時の修辞が繰り広げた目標を達成できないことが多いと落胆すべきではなく、むしろ新たな予見できない状況に直面しながらも何とかしてそれらを克服し、自らを再定義してきたやり方にこそ好奇心を持つべき
国連の時を超える柔軟性と再生能力とは、疑いもなくその欠陥に劣らず顕著なものである





2016.1.13. 朝日
(インタビュー)歴史から学ぶ 米コロンビア大学教授、マーク・マゾワーさん

メモする 相次ぐテロや難民問題に揺れる欧州で、排外的な政治思想が勢いづいているように見える。民族対立や大国の争いに翻弄(ほんろう)されてきたギリシャや中東欧の歴史を専門とする気鋭の歴史家、マーク・マゾワーさんは、国際社会の揺らぎが真の危機を招くと警告する。歴史に処方箋(せん)はあるのだろうか。歴史家の役割とは何か。
 
 ――欧州の2016年をどのようにみていますか。
 「とても深刻です。多くの人が職を失った経済危機に十分な取り組みができていないなかで、難民危機が起きています。二つの危機に隠されたように潜んでいる根深い問題は、欧州の高い失業率をどうするのか、です。欧州連合(EU)は若者に仕えているのか、高齢者に仕えているのか。この構造的な問題から目を背けたままでは結局、解決には至りません」
 ――難民危機の出口もなかなか見えません。
 「欧州にとって難民問題は新しい話ではありません。20世紀の欧州史は難民史と言えるほどです。ロシア革命、第2次大戦、東西冷戦、様々なきっかけで多くの人が移動を強いられました。さらに難民ではありませんが、欧州が復興をとげた1950年代の経済成長は、北アフリカやカリブ地域、インドやトルコからの移民の労働力が大きかった。ただ、今回の危機には独特の難しさがあります」
 ――なんでしょうか。
 「シリアという、欧州の存在感が大きくない地域における戦争から生みだされた難民だという点です。さらに、欧州域内の自由な往来を認めるシェンゲン協定はあっても、域外から押し寄せる難民に備える政策はないも同然でした。急いで対応を進めているとはいえ、そう簡単ではないでしょう」
 「ただ、たとえばギリシャはトルコや中東と、ポーランドはロシアと、それぞれ長いつきあいがあります。異なる国であっても、地層のように織り重なる歴史を共有しています。それを活用して(異なるものも)うまく包摂することがEUの強みであるはずです。(難民危機をきっかけに域外に対し)防御的、内向的になっていることは、長い目でみれば欧州の力をそぐ結果になると思います」
 ――20世紀の欧州の歴史から、何を学ぶべきですか。
 「民主主義のすばらしさよりもその脆弱(ぜいじゃく)さでしょう。民主主義がもろくも崩壊し、独裁政治を許したのが欧州の20世紀でした。だからナチス・ドイツが敗れた45年以降、民主的な欧州をとても注意深く再建してきました。人権や自由を価値として強く意識し、人種差別をタブー視した。もちろん、それでも同性愛者や女性は十分な権利を与えられていないと思うでしょうし、反ユダヤ主義も撲滅できたわけではありません。しかし、社会全体に気を配りながら、リベラルな欧州へとゆっくりと歩みを進めてきたことは確かです」
 「そんな欧州社会の個性が、強い圧力にさらされています」
 ――大衆迎合的な主張への支持が広がっていますね。
 「私は80年代からギリシャの研究を始め、暮らしたこともあります。第2次大戦中にはナチス・ドイツに占領され、多くの人が亡くなった場所です。そのギリシャでも、ナチズムのような思想が頭をもたげています」
 「欧州に限らず、人気を得たい政治家が、移民を禁じよう、追いだそうと言ったり、反イスラム的な発言を好んだりしています。テロの脅威、安全保障上の脅威から国家を守るためにもっと強い監視を、と訴える勢力が各地で支持を集めつつある。冷戦後には『民主主義の勝利』が語られましたが、いま、そんな話は聞かなくなりましたね。共産主義に勝ったのは民主主義ではなかった。資本主義でした。排外的なナショナリズムや人種差別との戦いは何度も繰り返され、終わることはありません」
          
 ――共産党一党支配の中国が、経済力をてこに存在感を増しています。民主主義への脅威にはならないでしょうか。価値観が異なるはずの英独仏など欧州の国々は、経済を軸に関係を強めています。
 「欧州の誰もが、中国の政治モデルに魅力なんて感じていないでしょう。専制政治は流行遅れで、脆弱なものだと思われています。自由と民主主義を脅かす挑戦は、中国からではなく、先ほど述べたような(ポピュリズムや排外的なナショナリズムなど)自らの内部から、もたらされるものです」
          
 ――著書「Governing the World(邦題『国際協調の先駆者たち』)」では、国際機関の変遷を通して世界統治のありかたを書いていますね。新興国の台頭でどう変わりますか。
 「現在の国連、国際通貨基金(IMF)、世界銀行、世界保健機関(WHO)といった国際機関の多くは、第2次大戦が終わってから数年でうまれました。米国の経済力が後にも先にもないほど他を圧倒していた、めずらしい瞬間につくられたものです。それでも米国が国連を思い通りに運営できたかといえば、そんな時代は限られていたし、むしろ思い通りにならないと距離を置いたりもしていた。ただ米国は、自らの価値観や影響力をあまりコストをかけずに広げる場として、IMFや世銀などを利用していたのも事実です。そして、それによって自らも利すると考える国々がいるからこそ、機能する仕組みなのです」
 ――そこに中国が挑戦しようとしているのではありませんか。アジアインフラ投資銀行(AIIB)の設立にも動きました。
 「自然な動きです。7080年代にはドイツと日本が偉大なる経済成長をとげましたが、両国とも第2次大戦の敗戦国として政治的に不利な宿命を背負っていました。中国は違います。挑戦を受けている米国をふくめ、どの国もいま、新しいポジションにいます」
 「新しく力を持つ国と権力を分け合う国際機関は生き残り、そうではない機関は競争にさらされる。競争も悪い話ではありません。国連では、中国は安全保障理事会の常任理事国です。彼らはこれを変えようとしませんね。しかし世銀やIMFはどうか。新しいパワーと競うつもりの国際機関は、競争に敗れれば、傍流に追いやられるかもしれません」
 「北京はいまよりもっと重要な場所になるでしょうが、ワシントンはたいへん重要な場所として残ります。欧州は域内で協調できれば、パワフルな存在であり続けます。第1次大戦勃発からちょうど100年だった2014年は、中国台頭と第3次大戦を語るのがはやりました。多くの人は歴史にモデルを探そうとしますが、私は違うと思います。常に新しいポジションが生まれているのです。欧州の時代があり、米国の時代が続いた。いま、それに続く新しい段階にあります。そもそも、誰かが単独で世界を統治できた時代など、実はなかったのです。100年前もいまも」
 ――対抗する勢力が均衡するまで、不安定な時代が続くのでは。
 「異なる発展戦略から、別の成果が生まれるかもしれません。結果は見えていない。私は歴史家として、ギリシャという小さな国の研究を出発点にしているので、ワシントンの視点とは違うかもしれませんね。ひとつのパワーが世界を統治する姿と比べ、多国間の競争と協力は悪いことでしょうか」
 「ほんとうの危機は、国家間の対立そのものよりも、テロリズムや気候変動といった世界共通のリスクに協調対応できない国際関係の隙間をついてやってきます。世界はいま、マネーが自分勝手に駆けめぐるグローバルな資本主義によって富の不平等が拡大しています。政治が取り組むべきは成長よりも、むしろ富の再配分への介入だと思います」
          
 ――歴史家の役割は。
 「政治家はいつの時代も、権力に都合よく歴史を読み替え、利用しようとしたがるものです。時代背景が異なる何百年も前の事例を、あたかも現代に通用する物語として聞かせたがる場合もある。そのときに『間違っている』と声をあげ、ただす役割は非常に重要です。だから、歴史家は権力から独立していなければならない。私の語る歴史を政治家が好もうが嫌おうが知ったことではない、と」
 「欧州各国も二つの大戦について、自国の歴史家に公的な歴史を書かせました。もちろん、なかには良い仕事もあり、私もそこから学びました。しかし、学問の自由と政治の間には、常に矛盾があるものです。私は結果的に自分が間違った判断をしてしまうことがあったとしても、政治からは解放され、自由でいたいと思います」
     *
 Mark Mazower 1958ロンドン生まれ。専門は20世紀欧州史、国際関係史。邦訳著書に「暗黒の大陸」「国連と帝国」など。
 
 取材を終えて
 「サロニカ(ギリシャの都市テッサロニキの別名)」(未邦訳)など多くの話題作を持つマゾワーさんの三つの著作が昨年初めて、邦訳された。日本でもより広く知られるようになるだろう。本棚に囲まれた研究室の壁に、帝政ロシアから英国へ移住した祖父母の写真が飾ってあった。彼もまた、移動する欧州人をルーツとする一人である。(編集委員・吉岡桂子)


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