捜索者 西部劇の金字塔とアメリカ神話の創生  Glenn Frankel  2016.1.25.

2016.1.25.  捜索者 西部劇の金字塔とアメリカ神話の創生
The Searchers The Making of an American Legend  2013

著者 Glenn Frankel ニューヨーク生まれ。1973年コロンビア大卒。79から20年間『ワシントン・ポスト』紙に勤め、同紙の南アフリカ支局長、エルサレム支局長を歴任。89年イスラエルと中東問題の一連の報道に対してピューリッツァー賞を受賞。06年からスタンフォード大、10年からテキサス大でジャーナリズムを教える傍ら、フリーのジャーナリスト兼作家として活動。

訳者 高見浩 1941年東京生まれ。出版社勤務を経て翻訳家に

発行日           2015.8.30. 発行
発行所           新潮社

プロローグ
19549月、ジョン・フォードは、『ミスタア・ロバーツMister Roberts』撮影のためいつものフォード一家を引き連れてミッドウェイ島のアメリカ海軍基地にいた。いざ撮影が始まると、ほとんどすべてが裏目に出る。その原因は、意外にもワーナーの重役たちの意向に反して若い海軍士官に起用した49歳の盟友ヘンリー・フォンダにあった。撮影の初日からフォンダはフォードの撮影法や、撮影の進めかたに疑問を持ち、プロデューサーが空気を和まそうと間を取り持ったが決裂、お互い殴り合いとなってしまう。先に手を出したフォードが、直後に謝罪してその場は取り繕ったが、以降2人の関係が元に戻ることはなかった
数週間後、フォードは胆嚢炎の緊急手術を受け、作品はほかの人が代わって完成させるが、いざ公開してみると大ヒットとなり、ジャック・レモンが初のアカデミー助演男優賞をとる。作品賞、録音賞でもノミネートされたが、フォードもフォンダも作品の出来には飽き足らず、お互いに対しても不満が残った。それ以降フォンダは一度もフォードの作品には出演しなかった
『ミスタア・ロバーツ』の失意から抜け出したフォードは当時60歳、肉体的にも精神的にも参っていて、健康状態は最悪、仕事の面でも、興業的には成功したものでも、自身満足のいくものはなかった
それでもフォードはまだ終わっていなかった。『ミスタア・ロバーツ』の屈辱がもたらした監督業の危機を乗り越えるにあたって彼が目を向けたのは、自分の最もよく知る、そして最も愛するジャンル、すなわち西部劇。40年前、映画の創世記にハリウッドに来て以来、フォードが一貫して愛してきたのは西部劇で、監督業に進出して以来撮ってきた西部劇は50本近い。お気に入りの俳優であると同時に、しごきの対象でもあるジョン・ウェインは、フォードの容赦ない、注文の多い指導によって、アメリカ人の誰からも愛される西部劇のスターになっていた
そしていま、フォードの人生最大の危機に際して、長年の友人にしてビジネス・パートナーでもある製作者、メリアン・C・クーパーは、フォードが断るはずがないと踏んだプロジェクトを提案した。それが『捜索者』
『捜索者』は、開拓時代のテキサスを舞台にした虜囚の物語。原作者アラン・ルメイ。1836年、東部テキサスで9歳の少女がコマンチ族のインディアンにさらわれた事実に基づいていた
コマンチ族の襲撃者は、少女の父、祖父、伯父を殺し、少女を含む5人の若者を拉致。その少女シンシア・アン・パーカーは略奪者たちに育てられ、コマンチの戦士の妻となって3人の子供産む。事件後シンシア・アンの伯父ジェイムズ・パーカーは8年にわたって若者たちを捜し続ける。若者たちの中には自らの娘レイチェルもいた。やがて救出された4人の中に、シンシア・アンの姿はなく、彼女は24年間コマンチとともに暮らし、60年アメリカ騎兵隊と準軍事組織のテキサス・レインジャーズがコマンチの集落に残虐な奇襲をしかけた際に奪還されて、白人の親族の下に戻された。コマンチ族の家族と離れ離れになったシンシア・アンは、その後世間からも忘れられ、みじめな境遇の中で死去。が、彼女の息子、騎兵隊の奇襲時に難を逃れたクアナは、その後コマンチ族の最後の偉大な戦士となり、やがてはインディアンと白人の和解の使徒となる運命をたどる。彼は残存していたコマンチ族が生き延びるよう腐心し、死んだ白人の母親の魂をわが身に甦らせて、先住アメリカ人と白人間の平和と理解の増進に努めた。パーカー家の2つの家系――テキサス人の家系とコマンチ族の家系――は今も家族会で遠い祖先の遺産を敬い、最近に至ってはお互いの家系の行事にそれぞれの代表を送り始めている
シンシア・アンの物語は、何度も繰り返し語り直され、各世代の人々によってそれぞれの望みと感性に見合うよう変更され、想像し直された結果、事実と虚構が入り混じって、白人による西部獲得にまつわる基本的なアメリカ神話の1つとなった
1954年、ルメイによる原作は、小説の舞台を現実の出来事の30年後でコマンチの勢力が衰え始めていたテキサスに移し、他の虜囚の事件の要素も付け加え、小説の焦点も囚われの少女から、7年の歳月をかけて捜索した伯父と、彼女の、もらわれっこの兄に移した
作品は当時最良の西部小説の1つとされ、一読したフォードは面白い作品になると確信したが、古典的な西部劇のお馴染みのテーマを重んじる一方で、それを貶めてもいる。主人公は、西部劇のヒーローらしい美徳と神秘的カリスマ性のすべてを備えているが、同時に人種偏見に縛られ、復讐慾に凝り固まっている。彼の行動を駆り立てているのは"憎悪であり、白人の性的な純潔を犯された姪を殺すという、遠い中世の中東で行われたいかなる名誉の殺人よりも苛烈で歪んだ殺人が目的
フォードは、神話を創造して、それを自在に操ることを好むストーリーテラー。観客の心の底に根付いた価値観をいったん肯定しておいてからそっと打ち砕くことによって、神話に挑戦するようにもなったが、『捜索者』においてその創造力の頂点を極めた
公開当時はあまり注目されなかったものの(アカデミー賞のどの部門にもノミネートされていない)、近年その評価は高まる一方で、現在ではハリウッド映画史上屈指の名作という評価が定着。スピルバーグやジョージ・ルーカス、スコセッシらに代表される実力は映画作家グループに大きな影響を与えるとともに、ポストモダンの内向的な西部劇群の先駆者でもあった
ヘミングウェイがすべてのアメリカ文学の源流を探ると、『ハックルベリー・フィン』に辿り着くと喝破したように、現代のすべてのアメリカ映画の源流をたどると『捜索者』に辿り着くとまで言われている
偉大なフォードの才として目に映るのは、神話と真実を渾然と融合させてしまう異能ぶり

1833年 イリノイからおよそ200名の男女がテキサスの入植地を目指す。ミズーリでミシシッピを渡り、アーカンソー、ルイジアナを経由。リーダーは農民にして政治家、インディアンと闘う戦士にして剛直なバプテスト派の牧師、ダニエル・パーカー、それを献身的に支えるのが弟のジェイムズ・パーカー
入植の目的は2つ。1つは、自活の道を大地に求める農民たちに肥沃な土地で新たなスタートを切らせること、もう1つは、神との契約を堅固にする新たな方法と手段を見出すこと
パーカー一族は、それより1世紀前、厳しい階級制度に支配されながらも政情不安定なイングランドを逃れてアメリカ植民地に渡ってきた。野放図で学問のない、流浪を好む一族
独立戦争によってイギリスの植民地支配が打ち砕かれ、西洋人の入植を許す門戸が開かれたのを契機に、大西洋岸から内陸に進出していった多くの一族の1
テキサスは、1824年メキシコ政府が外国の移住者に開放した土地で、少数のメキシコ人居住地と北方の敵対的インディアン部族との間の緩衝帯として許可した私有地。30ドルで4428エーカーが取得できた
ダニエルは、他の入植者の多い地域に進み、弟のジェイムズやサイラスは新開拓地を求めて別行動をとる。ダニエルはテキサス共和国内でキリスト教布教に専念、新たな教会を9か所も創立して亡くなる
当初、入植者とコマンチ・インディアンは、互いに相手を慎重に値踏みしながら馬や食料や武器を売買し合っていた
1835年 ジェイムズ一行はグロースベックに40人ほどで砦を築き、インディアンから身を守るためのテキサス・レインジャーズの作戦本拠地として利用したが、その冬の飢えと病気の蔓延を白人入植者のせいだとして扇動されたインディアンが砦を襲う
1936年 メキシコからの独立を画策するアメリカ人開拓者とメキシコ政府との関係が悪化し、アラモの砦がメキシコ政府に制圧され、西部開拓史上名高い男たち、ジム・ボウイー、ウィリアム・トラヴィス、デイヴィー・クロケットなどを含む守備隊全員が殺害
パーカー砦は、メキシコ政府の攻撃からは逃れたが、2か月後にインディアンの襲撃を受け、5人が殺害され、ジェイムズの娘レイチェル母子、叔母、父サイラス・パーカー(ジェイムズの弟)と伯父と祖父が惨殺されるのを目の当たりにした9歳のシンシア・アンと8歳の弟ジョンの5人がさらわれ、インディアンの部族間で分配された
何とか難を逃れたジェイムズ一行は、ヒューストン砦に辿り着き、援軍を募ってさらわれた5人の捜索を始める
レイチェルを拉致したのはコマンチの一族。コマンチはオクラホマからニュー・メキシコまで東西約600㎞にわたる卵型の地域を祖地とする遊牧民
レイチェルは、拉致されてから受けたすさまじい暴行の詳細を、簡潔ながら赤裸に描いた記録を後に残したが、それはやがて、長きにわたるアメリカの伝統の一端に連なることになる。いわゆる虜囚譚は、アメリカという国ならではの、最初の文学ジャンルとなった
虜囚譚の原型は、レイチェルから150年遡るが、一連の物語は新世界の沿岸における開拓者と先住民の争いの本質的な要素を反映
復讐に燃えるジェイムズ・パーカーも、虜囚たちを捜し求める自らの体験を綴った記録を残す
コマンチの5世代にわたって引き継がれ、磨かれ、潤色された口伝えの伝承によれば、シンシア・アンは子供のいないインディアンの夫婦にもらわれ養子として育てられ、若い戦士の妻の1人となる
メキシコ商人によってコマンチから買い取られたレイチェルは、メキシコの支配下にあったサンタ・フェに住む開拓者によって買い取られ、長い過酷な旅を経て、拉致から21か月後にテキサスにいたジェイムズの下に戻る
サム・ヒューストン将軍に率いられたテキサス共和国は、将軍の進める善隣外交によって、コマンチその他のインディアン部族と友好関係を保っていたが、やがて双方の側の侵略や報復合戦となって、40年に及ぶ血塗られた闘争に発展
テキサス人とコマンチの凄惨な闘争にあって、人質の拉致は越えがたい断層となる。コマンチが白人の虜囚を手放さない限り、平和共存の可能性はなく、コマンチは、テキサス人の女子供の拉致がどんなに深い文明的、宗教的、性的、人種的憎悪をもたらすか遂に理解できなかった。コマンチがごく当たり前のように虜囚に加える残虐行為ゆえに、テキサス人は彼らを人間以下の存在とみなす。残虐行為は文明人の戦争行為ではなく、野獣によるあさましくも原始的な捕食行為で、それを止めさせるには檻に閉じ込めるか殺すしかなかった
コマンチによる略奪・破壊と、それを撃退するテキサス州兵との戦いの応酬が続く
コマンチ以外では、テキサス人との取引に価値を見出す部族もあり、白人の虜囚が身代金と引き換えに家族の下に返された。その中にシンシア・アンの弟ジョンがいて、ジェイムズが身代金を払って買い戻したが、すっかりコマンチに教育されていた。その後もジェイムズはシンシア・アンの捜索に執念を燃やしたが、映画のストーリーとは違って、シンシア・アンが20代になった頃には終焉。その後、シンシア・アンが救出された後でも会いに行くことすらしないまま63年に他界
1846年 シンシア・アンをコマンチの集落で見かけたという情報が出る。解放のための大量の贈り物と大金が提示されたが、彼女自身が共に暮らす仲間から離れたくないと拒否
シンシア・アンが、コマンチの戦士と結婚し、2人の男の子と1人の女の子を生んでおり、その後も白人ハンターと出会ったときにも彼女は白人世界に戻ることを拒絶
1858年 テキサス州知事がテキサス・レインジャーズの増強に踏み切ったが、暴力と残虐行為の応酬は収まらず、レインジャーズの対応はことあるごとに後手を踏んでいた
1860年末の戦闘の際、レインジャーズに抵抗するインディアンの中にいたシンシア・アンとその幼い娘の救出に成功  シンシア・アンがコマンチ訛りの英語で自分の名前を言ったことから本人と確認できたため、伯父のアイザック・パーカーが引き取るが、親族からは同情と好奇心と嫌悪の入り混じった目で見られる
シンシア・アンの娘が63年に病気で夭折すると、シンシア・アンも生きる希望を失って数か月後に世を去る  死亡には諸説あって、いずれも確かではない
彼女の2人の息子のうち1人クアナ・パーカーが生き残り、コマンチの若者として逞しく成長し、やがてコマンチ族を破滅から救う英雄的族長となる  パーカー伝説の次なる主人公となり、新たな世代の偉大な物語の紡ぎ手にもなった
クアナの生涯について、詳しいことはわかっていない。代わって歴史家たちが、神話と明白な虚構がふんだんに混じり合った情報の断片を選り分けることになる  現実の事件のはるか後になって記録されたものばかりで、多くは眉唾物
クアハディは、大平原で白人に刃向かった最後のコマンチ中核部隊
コマンチは、生活の源だったバッファロウを大量に殺されたこともあって徐々に追い詰められ、戦争、疫病、飢餓、そして不毛の高原における逃亡生活の過酷な現実によって激減、19世紀初頭の総人口23万が1877年にはコマンチ1475名、カイオワ1120名、アパッチ344名にまで減った
クアナが白人とインディアンの双方から、保留地で暮らす先住民のスポークスマンとして認められる  コマンチの派遣団を率いて内務長官と面会、内務省は草原のインディアンへの賃貸借を認める
1903年 最高裁は、インディアンの土地所有権は実質的に存在しないと判断
1906年 オクラホマ州南西部の488千エーカーに及ぶビッグ・バスチャー大草原は、細かく分割されて白人たちに割り当てられる
26代大統領セオドア・ルーズベルトは、人格こそがその人の運命を決するのであり、強者こそが歴史を作るのだと信じていた。インディアンでありながらアングロサクソンの母親の血が流れているクアナは、ルーズヴェルトにとっては英雄的人種賛美にかなった存在で、1903年に初めて両者は知りあい、04年のセントルイス万博でのアメリカ西部の祝典に参加したクアナの国民的名声は盤石となり、05年の大統領就任式に招かれる
1911年 クアナ死去  クアナは、コマンチ側とテキサスの白人側、双方のパーカー一族を融合させようと努力したが、死後にようやく双方が歩み寄り始める。双方の距離を縮めたのは、1936年に行われたテキサスの独立とパーカー砦襲撃のそれぞれの100年記念の大々的な行事で、テキサス州はパーカー砦の復元に資金を提供、双方の親族はこの記念式典に集まり、砦の襲撃と24年後のシンシア・アンの奪還を模擬演技で再現
1952年に至っても、白人のインディアンに対する無知という認識のギャップが、文化的ギャップに比べていかに大きかったかを物語るインディアンの手紙が残されている
1950年 小説家にして映画の脚本化でもあったアラン・ルメイがシンシア・アンが最初に拉致された際の経緯とその後の出来事に関して取材してまわり、パーカー一族が1830年代にバプテスト派の教会を創設した町・エルクハートで、今もなお同地に住むパーカー一族を訪ねる
ルメイの興味の対象は、シンシア・アンが拉致された後8年も彼女を捜し続けたジェイムズで、彼の短期で、復讐慾に燃えた、意地っ張りなところに魅かれた
ルメイが小説で食べていこうとし始めた1920年代の初期には、既に西武小説はジャズや野球やギャング・ノヴェルと並んで大衆文化に定着。アメリカのフロンティアを描いて圧倒的な人気を博したジェイムズ・フェニモア・クーパーの文芸色の濃い小説は、1860年代オレンジ色の背表紙の安価なダイム・ノヴェルに進化、総発行部数は5百万部にも達し、主役も開拓者からカウボーイに代わりつつあった
西部小説の最初の傑作、オーウェン・ウィスターの『ヴァージニアン』は、1902年刊行、セオドア・ルーズベルトに捧げられ、ヴァージニアの男がワイオミングに映って牧童となった物語。町のならず者たちをしり目に、美しい女教師の心をつかみ、彼女を馬の背に乗せ、夕日に向かって遠ざかって行く
ルメイの祖先も開拓者。ハリウッドに移住して、パラマウント社のセシル・B・デミルの下で、人気が急回復して黄金時代に向かおうとしていた西部劇の脚本書きを手伝いながら、アウトドア・ライターとして認められる一方、見応えのあるヒロインを書ける脚本家としての評判も定着。一時期映画の製作と監督もやったが、またフリーの脚本家に戻って書いたのが『捜索者』
時は南北戦争後の1869年、所はテキサス州の北西端。インディアンに拉致された幼い姉妹を奪還しようとして開始された捜索行が全編の主題。コマンチとテキサス人の戦争の最終局面を背景に、もらわれっ子の甥の視点から描いた壮大な叙事詩。圧倒的に不利な状況に直面しても節を曲げない開拓者の、堅忍不抜の精神と崇高なヒロイズムが描かれている
虜囚譚の変形でもある
念入りなリサーチの結果集めた64例の中から、興味深いエピソードを自由に摘み取って、虚構のストーリーを生み出す
ルメイが自らの祖先に捧げた書としても読めるし、アメリカの西部にまつわる神話の最も個人的な代弁としても読める。と同時に、ルメイ自身の苦い精神遍歴の探索の書でもあるだろう
最初のハード・カヴァー版の売れ行きは14千部に達し、各紙からも賞賛され、半世紀以上にわたって増刷を重ねる。『リーダーズ・ダイジェスト』誌が5万ドルで掲載権を買ったほか、アメリカ屈指の大富豪ヴァンダービルト家とホイットニー家の両方の血を引くコーネリアス・ヴァンダービルト・ホイットニーが6万ドルで映画化権を買ったのが注目を浴びる
ホイットニーは、念願の映画製作会社を設立したばかりで、映画製作の経験豊富なメリアン・クーパーがプロデューサーに座り、彼のビジネス・パートナーの1人にジョン・フォードがいた
ルメイは、フォードの独自の世界と暴君的やり方を知っているところから、映画の製作に一切関知しないということで権利を譲渡したため、『捜索者』は完全にフォードのものとなった  場所はモニュメント・ヴァレーのナヴァホ族の居住区であり、テキサスの大平原が舞台の物語を、月の表面のような荒涼たるモニュメント・ヴァレーで撮影するのはナンセンスだが、ウェスタンの製作に関する限り、何人もフォードに指図することはできない
インディアンを描いた最初の映画は、1894年、トマス・エディソンがキネトスコープ(箱の中を覗き見する式の映写装置)のために製作した『スー族のゴースト・ダンス』で、全国のゲームセンターで公開され大ヒット
次が1908年の『銀行強盗』  クアナ本人が出演
ハリウッド初の本格的長編映画は、1914年セシル・デミルの『スコウ・マン』
1939年の『駅馬車』が西部劇の傑作  10年に及ぶ西部劇の沈滞期の後で芸術的にも商業的にもこのジャンルを活性化し、ジョン・ウェインをスターの座に押し上げた記念碑的作品
56年 映画『捜索者』公開、映画評はおおむね好意的だったが、ジョン・ウェインの西部劇の1本として軽く扱われ、そこそこの収益を上げた後姿を消し、1960年代初頭にはテレビという比較的新しいメディアに追放された  2時間という枠内でコマーシャルと共存を余儀なくされ、適当にカットされ、貼り合わされた。フォードは不首尾な結果に戸惑いを隠さず、ジョン・ウェインは驚きと失望を表明したが、2人ともすぐにそれぞれの歩みを再開
フォードは1962年に西部劇の傑作『リバティ・バランスを射った男』を撮り、さらに先住アメリカ人の体験を直視しようとする作品「として『シャイアン』を撮るが、これがモニュメント・ヴァレーで撮った7本目にして最後の西部劇となった  当時の評は芳しくなく商業的にも失敗だったが、ここ数十年にわたって評判が徐々に上向き始めている
フォードが自ら常々言っていたように、一介の西部劇の監督に過ぎないと言われていたが、1970年代に入って、スピルバーグ、スコセッシ、ルーカス、その他同世代の監督たちが上昇気流に乗り始めたころ、彼らは自分の作品に与えた『捜索者』の影響について、嬉々として語り合った
スピルバーグはいまもフォードの祭壇に参詣する
『捜索者』を現代に甦らせていると呼ぶに一番相応しい作品は、スコセッシの『タクシードライヴァー』(1976)
権威ある英国映画協会の機関誌『サイト・アンド・サウンド』の1962年の投票では、アメリカ映画の名作の上位100位にも入らなかった『捜索者』が、10年後には18位に、2012年には7位にランクアップ
08年のアメリカ映画協会の同様の投票では、西部劇部門の第1位に輝いている
この偉大な映画は誰の目にも触れるところに潜んでいて、伝説と忘却のあわいをさまよいつつも、着実に評価を高めている。それを単なるハリウッド製の西部劇の1本としかみなかった世代と同じく、我々もまた、今はその本質を把握していると思い込んでいる。だが、性根の座ったこの映画の両義性には、我々も歯が立たない。我々はその野心と芸術性に頭を下げる。だが、この作品の本当の意味、その真の偉大さと剣呑さについては、正確に把握しきれているかどうか、今なお明言はできない





捜索者 グレン・フランクル著 傑作西部劇をめぐる史実探る
2015/10/11付 日本経済新聞
フォームの終わり
 老練のジャーナリストが、ある日ふと、むかし好きだった映画について本を書こうと決める。ねらいは映画史上の隠れた傑作への、気さくでしゃれたオマージュ。ところがいざ制作の内幕を調べ始めた彼は、次々にでくわす発見や新事実に驚嘆し、ついに6年の歳月をかけた探究の末に大著をものすることになる。それが本書、ジョン・フォード監督の映画『捜索者』と、その歴史的背景をめぐる探索行の成果である。
(高見浩訳、新潮社・3400円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)
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(高見浩訳、新潮社・3400円 書籍の価格は税抜きで表記しています)
 歴史とはいうものの本書が語るのは映画史の枠にはとうてい収まらない。
 『捜索者』は幼い姪(めい)をさらったコマンチ族の追跡と復讐(ふくしゅう)に果てしない執念を燃やす冷酷残忍な主人公をジョン・ウェインが演じた異色の西部劇である。が、原作は開拓時代の史実をもとにしており、先住民制圧の血塗られたアメリカ史のなかでも虐殺とレイプと人種混交の最暗部にまで深く関わっているからだ。
 これが『捜索者』をアメリカ人より早く「傑作」と評価したフランスの批評家や日本の映画マニアなら、巨匠入魂の映画術への作家主義的賛美だけでよいかもしれない。しかし著者は先住民圧殺の歴史的恩恵に浴してきた白人社会の自覚ある一員。その立場からすれば『捜索者』のような、明らかに重苦しい過去に言及した物語をただ愛(め)でるわけにはいかないのだ。
 しかし本書の美点はそんな史実を史実としてまっすぐ探究し、かつ映画を映画としててらいなく愛するという仕事への健康な意欲に貫かれているところだろう。
 さらわれた白人の少女はやがて子を産み、その子は長じてコマンチ最後の偉大な戦士として白人との停戦の橋渡しをつとめることになる。他方、開拓期を終えて近代化へと進む社会は西部劇という名の大衆説話に伝説化された自己像を見るようになり、これがフォードやハワード・ホークスのような職人肌の手で「アメリカの神話」へと磨き上げられたのである。
 著者は「ワシントン・ポスト」の南アとイスラエル特派員として中東戦争報道に従事した元新聞記者。いまはテキサス大のジャーナリズム科で教鞭(きょうべん)をとる身だが、本書に見られるのは単なる取材力を越え、一次資料にまで当たり直しながら根気よく事実の発掘につとめるバランスのとれた教養人の知性だ。
 アメリカ流の「実学」とは日本でいう「人文社会系」の教養教育の精華を十分に吸収したところでこそ大きく花開く――と、そんなことまでふと連想させる、懐の深い好著である。
(立教大学教授 生井 英考)


捜索者
原題 The Searchers

ジョン・フォード監督の後期の作品。1956年 アメリカ
捜索者

南北戦争が終わって3年が経った1868年のテキサス。南軍の元兵士イーサン(ジョン・ウェイン)は、放蕩暮らしの末、弟一家の元へ戻ってくる。ところがある日、イーサンの留守中、弟夫妻と甥はコマンチ族の襲撃に遭い惨殺され、姪のルーシーとデビー(ナタリー・ウッド)は連れ去られてしまう。ここから、イーサンの執念の捜索が始まった。
捜索者

映像が詩的で美しい作品だが、内容はアメリカの暗部に触れた、重いものとなっている。白人とインディアンの互いの種族に対する嫌悪感が、血の報復合戦を引き起こす。インディアンの遺体の目を拳銃で打ち抜き「コマンチの信仰では、目のない死人は天国へ行けず、風の中をさまようのさ」と吐き捨てるイーサン。狂気をおびた差別主義者としか思えない。かたやコマンチ族の酋長スカーは、イーサンの前に白人の頭皮の束を突き出す。この二人が19世紀末の、アメリカの白人とインディアンの典型的な像なのだろうか。ジョン・ウェインは「赤い河」でも意固地な主人公を演じていた。あの役と相通じるものがある。

劇中の出来事を並べれば、残虐シーンの連続と言うことになる。しかし、死体や殺戮シーンの描写はない。イーサンが酋長の頭の皮を剥ぐシーンも、映像が途切れる。観る者の想像力を利用して、惨殺や略奪、暴行場面を伝えているのだ。西部劇の神様ジョン・フォード監督の卓越した表現力でもって処理された映像は説得力を持つ。

非情なイーサンは、誘拐されて酋長の妻の一人となった姪のデビー(ナタリー・ウッド)を殺そうと銃を向ける。デビーをコマンチ族と見なしたからだ。どうして、ここまでインディアンを憎むに至ったのか説明があればよいのにと思ったが、アメリカ人の観客に、そのような説明は不要なのかもしれない。おそらく、先住民族問題は誰もが知ることなのであろう。 暗い場面が続いた後、イーサンの意固地さがに溶けて優しい叔父に戻り、どこへともなく旅立つラスト。静かな感動を覚えた。





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