ナディア・ブーランジェ  Jerome Spycket  2015.12.19.

2015.12.19.  ナディア・ブーランジェ名音楽家を育てたマドモアゼル
Nadia Boulanger 1987

著者 Jerome Spycket スピケ フランスの声楽家(テノール歌手)、音楽学者、作家。1928年生まれ。2008年没。『クララ・ハスキル』『サンソン・フランソワ』『ユーグ・キュエノー』など、数々の音楽家の評伝を刊行

訳者 大西穣(じょう) 暁星高校卒、国際基督教大卒。哲学専攻。バークリー音楽大学作曲家卒。ニューヨークのStoneなどに自己のグループで出演。帰国後はコンポーザー/ピアニストとして活動

発行日           2015.9.15. 初版第1刷発行
発行所           彩流社

20世紀音楽への偉大なる貢献者
夭折した天才作曲家の妹リリへの想い
ストラヴィンスキーやラヴェル、ポール・ヴァレリーらとの交流
ディヌ・リパッティやコープランドといった若き才能の育成
クラシック界の錚々たる顔ぶれに彩られたマドモアゼルの生涯

若き才能をいち早く見出し、その個性を鮮やかに引き出したナディア・ブーランジェ。もしも彼女がいなかったら、タンゴのアストル・ピアソラも存在していなかったかもしれない
「ブーランジェは、『これこそあなたの分野です。交響曲などやめて、タンゴにあなたの力を注ぎなさい。』と熱心に告げた。そして彼はやがて、タンゴの王となったのである。ピアソラは、ナディア・ブーランジェを自分の第2の母親だとよく語っていた」


まえがき
伝記ではない。伝記に必要な詳細は、いまだベールに包まれている。フランス国立図書館に預けられた書類は2009年まで未公開。本書は、ナディア・ブーランジェという伝説的人物のことを、数人の登場人物といくつかの出来事をもとに鮮やかに回顧していく試み
音楽への造詣と、並外れた指導力によって有名になった
20世紀の最初の75年間、数え切れないほどたくさんの若き音楽家たちが、彼女のピアノの周りに集まり、いまだかつて知らなかった宇宙への扉を、彼女は厳しさと熱意とで開いてくれた


ナディアの貴族的なもの全般への嗜好、威厳を帯びた振る舞いを維持することへの絶え間ない欲求は、明らかにロシア貴族だった母親の血筋によるもの
母親は、サンクトペテルブルクでのコンサートの指揮に来ていた43歳も年上の父親に魅了され、声楽を学んでいたことから、父親が声楽の教授をしていたコンセルヴァトワール(パリ国立高等音楽院)に入学し、ついには結婚に至る
1885年 娘が誕生するが、翌年死去
1887年 ナディア誕生。生まれたその日から、母親が亡くなる日まで、2人一緒の生活が48年続く  身体の芯まで、音楽に対するアレルギー反応を示す
1893年 妹リリ誕生
1895年 父親がコンセルヴァトワールを退職、ナディアに対して最初の音楽教育を施す
母親の厳しい規律と特訓によく応え、97年にはソルフェージュで1
1899年 聖体拝領を受けるが、ことに晩年に、自らを修養し続けるという並外れた精神力の源泉を宗教に見出していたのは明らか
1900年 父親他界
音楽的成長の速さは驚異的、1901年にはガブリエル・フォーレの作曲クラスを受講。フォーレは彼女の能力に絶大な信頼を寄せ、自身の代理としてマドレーヌ寺院のオルガンを任せた
1904年 オルガン、ピアノ伴奏、フーガ、作曲のすべてで1等賞を独占
1905年 自らの教室を開講  有名なグループレッスンの始まり。第2次大戦開始まで続く
ナディアの才能を認めて支援したのが著名なピアニストで音楽界のドンだったラウール・ブーニョ  彼の紹介でナディアの教室は生徒が急増、ブルジョワ家庭の子弟にとって優雅な自己実現の場だったパリ女子音楽院のピアノ教師にも採用
1910年にはコンセルヴァトワールの伴奏クラスの教師にも応募したが、年齢、性別、突然の名声、ブーニョの仰々しいサポートとナディアの自信過剰がたくさんの障碍を生み出し、面接すら受けられなかった  正規に門戸を開くのは35年も後のこと
厳格でピューリタン的なスタンスの中にも、社交的な面もあって、ブーニョのルートはもとより、交際範囲を広めていった
1910年 ストラヴィンスキーの《火の鳥》がオペラ座で初演。衝撃を受けたナディアは数日後に作曲者と出会い、ほぼ一生を通じて続くことになる崇敬の念を抱く
同年リリが突然作曲に人生を捧げると決心、ナディアが教えると瞬く間に成果を上げ、12年にはコンセルヴァトワールに入学、病の発作で中断されながらも13年には19歳で女性として初のローマ賞の1等賞を受賞
ナディアは、ブーニョがピアノのソリストとして参加するオーケストラ、ラ・ロッシュ=シュル=ヨンで指揮者としてデビュー
13年 ナディアとブーニョはロシアでのジョイントコンサートに招かれるが、ブーニョの体調が悪化、ラフマニノフに代役を依頼するも断られ、以降ナディアは彼を許すことがなかったばかりか、記憶から彼の名前は抹消され弟子たちにもナディアの前でラフマニノフの名前を言うことを許さなかった。その年のうちにブーニョは死去
1次大戦の勃発とともに、2人姉妹は慰問活動に注力、「仏米コンセルヴァトワール委員会」の実行委員として中心的役割を果たす  この時の活動が、10年後にアメリカで格別な経歴を築きあげるきっかけになった
18年 リリ死去。享年2430歳に満たずして夭折した作曲家に対して特別な才能があると断言することは難しいが、彼女だけは例外。ナディアはリリの作品を広めることを聖なる使命として、自らの人生の一部を捧げる
人を撥ねつけるような厳しさのあるナディアの習慣的な態度は、驚き、不安、そしてショック反応を引き起こしたのは事実。情が深く、それ以上に知的、さらには知的である以上に多くの信条があった。慎み深いが謙虚ではない。好き嫌いに関して全く揺るぎなかったのは彼女のあらゆる面においても当てはまり、そのため彼女の「仲間」に入ることができなかった人々は排除されたために、決して彼女を許すことはなかった
生涯にわたって狂信的とも見えるほどの友情、愛情、そして忠誠心を生じさせ、彼女の人生において重要な役割を演じたのが、ヴァルター・ダムロッシュエドモン・ド・ポリニャック  ダムロッシュはニューヨーク・シンフォニー・オーケストラの指揮者で、サン=サーンスの交響曲3番ではナディアがオルガンを演奏したが、ナディアの才能に衝撃を受け訪米を促す。戦後の荒廃したフランス音楽界を積極的に支援、パリにアメリカ人若手音楽家のパリ留学の受け入れ窓口となったフォンテーヌブロー・アメリカ音楽院の前進を創設、ナディアも和声学の授業を任され音楽教育における変革を推し進める
ナディアは、1919年アルフレッド・コルトーがコンセルヴァトワールを辞して設立したエコールノルマル音楽院でオルガン演奏、和声学、対位法、そして後には音楽史を任されるが、生徒の個性を引き出す彼女の教授法はたちまち人気を博す
フォンテーヌブローでの最初の生徒の中にアーロン・コープランドがいた  ナディアがロシア生まれの指揮者でモントゥー去りし後のボストン交響楽団を指揮したいてクーセヴィツキーを紹介、若き作曲家にとって最も重要な出会いとなる一方、コープランドのナディア賛美は衰えることなく、アメリカにおける最も有能な広報担当者となった
フォンテーヌブローは数世代にもわたり、若きアメリカ人音楽家にとってデビューの最初の拠点として強力な切り札となり、バリュー通りのアパルトマンは一種の聖地となった
終戦後の数年間は、精力的な活動が加速化、それが生涯を通して猛烈な偏頭痛に悩まされる契機となった
この頃服装が過激に変化、それまでの真面目なスーツ姿が突然鮮やかな模様のドレス姿に代わり、この頃の写真には輝く瞳と丸みを帯びた若々しい体型を持ち、微笑みの絶えない、間違いなく幸せな女性が写し出されている  何が彼女をそうさせたのかは未知数だが、数年もしないうちに母の死とともに再び暗い覆いが被さり、永遠の闇となる
20年 ナディアはまだ作曲を続けていた。リリが亡くなったとき作曲の筆を折ったという神話を、自らも作り出していたが、いくつかの作品は残されているものの、多岐にわたる活動の中から選択を迫られていたのは事実で、演奏者としてより指揮者としての役割に傾いていったし、教師としての情熱が高まり、教授法の才能は開花する一方、作曲家としての才能はあまり目立たなかった
24年 ダムロッシュの努力が実を結んで、ナディアが初訪米  皮切りは、すべての偉大なオルガン奏者が演奏したいと望むフィラデルフィアのワナメーカー・オーディトリアムにある巨大なパイプオルガンの演奏だったが、本当のデビューを遂げたのはダムロッシュ指揮のニューヨーク・シンフォニー・オーケストラとの共演で、ヘンデルのオルガン協奏曲、コープランドの交響曲、リリの≪ある兵士の埋葬のために≫を演奏した時で、批評家は激賞。2か月に及ぶ演奏旅行は大成功裏に終わり、ニューヨーク上流社会の社交界が競って彼女を招待したが、これが二面的な彼女の生き方の原点となり、彼女を嘲笑する人々が必ず批判する点となった。彼女は最も過激な専門性を露(ママ)にしながら、同時に上流社会の応接間に強い関心を抱いていた
その後もアメリカ音楽界との関係は緊密で、多くのアメリカ人音楽家がフォンテーヌブローから巣立っていき、彼らの多くはナディアがアメリカの現代音楽に霊感を与えたと認めている
37年に2回目のアメリカ旅行が実現するまでの13年間は、彼女の「パン屋さん」(ブーランジェという名前に掛けて学生がつけた呼び名)は音楽教育に関して最も由緒ある国際的名声を得た「クラブ」となったことは間違いない
学生であっても音楽のみならず宗教についても月並みな考えの人々は相手にせず、個人的な生活にまで入り込んで自分にとって精神的源泉であり強固な確信であるカトリック信仰の道へ向かわせようとしたが、音楽面では個人的影響を及ぼすことは拒絶、自ら定めた本質的な距離を踏み越えることは決してなかった  ピアソラが54年にナディアのもとに来た時、彼の労作にはちっとも感心しなかったが、長い時間にわたって彼の演奏を聴いた後、「これこそあなたの分野だ」と熱心に告げた結果、彼はやがてタンゴの王となり、ピアソラ自身もナディアを自分の第2の母親だとよく語っている
28年 パリに滞在した30歳のジョージ・ガーシュインが、既に3年前に≪ラプソディ・イン・ブルー≫や≪ピアノ協奏曲≫を出しながらも、それまでチャンスがなかった徹底的な音楽教育を受けようとナディアの門をたたくが、「自分の音楽を書き続けるべきだ」と説得して、学生として受け入れる特権を拒否
ポリニャック公爵夫人(1865)は、ミシンの発明で有名なシンガーの娘。エドモンと再婚して公爵夫人となり、1901年夫の死後40年にわたってフランスの政治は言うまでもなく、芸術、知性、富の殿堂を築く。ストラヴィンスキーを全面的に支援したばかりではく、莫大な私財を投じ、画家や音楽家の壁をわけ隔てることなく芸術を擁護した偉大なパトロン。パスツール研究所やコレージュ・ド・フランスといった組織への援助、さらには低所得者のための住居建設という慈善事業にも手を出す
ナディアが17年にポリニャック夫人の殿堂に出入りするようになったのは、ストラヴィンスキーの友人だったからで、24年にはオルガニストの常連としてパトロンの音楽活動において欠くことのできない存在のみならず、侯爵夫人にとって最も貴重な友人となる
ナディアは、イーゴリ・マルケヴィッチやリパッティを殿堂に紹介しているが、えり好みの強い扱いは嫉妬や不満の声を生まずにはいなかった
書籍と録音物は、概念を中途半端にする、あるいは全体をとらえるのに邪魔になるといって嫌い、思想は音楽や人生と同様、常に進化の過程にあると信じていたが、周囲に説得されようやくレコーディングに応じる
ナディアの熱心な賞賛者の中にモナコ公子ピエールがいて、彼女の最も信頼のおける友人の1人となるが、戦後は王宮の運営を任され、主要な行事すべての音楽監督として全体を仕切る
35年 母親逝去  服装についての好みを自分自身に反映させるのを禁じ、外見は大きく変貌、黒づくめの神父のようないで立ちで、すべてに簡素な厳格さを備えるようになった
仕事量が急激に増え始め、多くの実力ある巨匠にはあり得ない頻度で演奏会を開き、同時に社交生活も無視しなかったためもあって、体型から丸みが消え鋭角的になった
母の死によって、48歳にして完全な活動の自由を手に入れたナディアに公爵夫人が用意してくれたのは、翌36年のロンドンのロイヤル・フィルハーモニック・オーケストラとの関係確立で、女性として初めてとなるナディアの指揮によるコンサートもラジオ用録音も大成功。プログラムにはフォーレの≪レクイエム≫の初演もあった
37,38年とアメリカで演奏、そのハイライトはボストン交響楽団初の女性指揮者として振ったフォーレのレクイエム≫で、一瞬にして演奏者たちの尊敬を勝ち取る
39年には、ニューヨーク・フィルやフィラデルフィアでも女性初の指揮者として登場、すべてのオーケストラ奏者の胸に潜む女性指揮者への偏見を一瞬にして吹き消した
38年から公爵夫人との関係が冷え込み、第2次大戦の開戦によってロンドンに疎開したまま4311月に客死となった公爵夫人とは二度と会うことはなかった
戦争による動員令がナディアの学生や友人たちを散り散りにさせ
4012月ヴィシー政権から出国ビザを取得、リスボンからアメリカにわたり、ダムロッシュの歓迎を受ける  権威主義的な性格ゆえの優柔不断さや自己満足的な愛国心からすると驚きの決断に見えるが、何が彼女を突き動かしたのかは誰も知りえない
アメリカでも微塵の安らぎも許さないかのように全米各地で働き続け、ヨーロッパに戻ったのは終戦後の461月。ストラヴィンスキーは、フランスの国籍も放棄して米国に永住を決意
パリに戻ったナディアは、最初の不採用以来35年の時を経て、応募することさえなしにコンセルヴァトワールの教授に任命
戦後のフランス音楽界の復興を牽引したのはナディアで、コンサート、講演、授業そして審査委員の要請で引く手あまた。48年にはロン・ディボー国際コンクールの審査員を務めたが、その後20年にわたってヨーロッパ中の審査員の仕事をする最初のきっかけであり、49年にはカサドシュの後任としてフォンテーヌブロー音楽学校の校長となり、以後79年まで破綻なく運営。シンガー・ポリニャック基金による音楽活動もナディアが運営
54年には、リューマチで指が動かなくなり、公の場での演奏を諦めるが、敵対的な人々によって取り返しのつかないほど時代遅れだと捉えられていたある倫理観はしっかり保持しながら、音楽が2つの融合不可能なグループに分裂し、調停不可能になることを恐れ、自分が全く孤立してしまうことを望まず、両者に繋がっていようとしていた
彼女の教室には相変わらず生徒が殺到、56年ワルシャワでの第1回国際現代音楽祭に彼女が招聘されたとき、提出されたほとんどの作品が自分の指南した音楽家によって作曲されていたことに気付き、否定しがたい誇りを感じた
64年モナコ公子ピエールの死を報告しがてら、公爵夫人の生誕100年記念のためにストラヴィンスキーに作曲を依頼するが断られ、ナディアはひどく傷つく。すげなく断ったストラヴィンスキーの手紙にその人となりがあからさまになっている。友情に思いを馳せることなく、世話になってきた2人の女性をどうして忘れることができたのか。移住した新しい国でピアニストとして食べていくことは困難で、作曲家として歓迎されるためにナディアが重要な役割を果たしたし、公爵夫人にしても30年にわたって揺るぎない友情、影響力、寛大な心がなかったら今ある彼になり得ていただろうか。それでもなお、ナディアはこの音楽家を深く称賛していたため、彼を拒絶することはできなかった
パリで自作の初演を指揮した際、聴衆とメディアの両方から侮辱を受けたため、今後は二度とパリでは指揮をしないと誓ったストラヴィンスキーとは、68年にパリで会ったのが最後となり、71年の死去の衝撃はいくらか薄められた
57年 70歳の定年でコンセルヴァトワールを強制退職となったが、コルトーがエコールノルマルに戻るよう嘆願し、和声の授業を任され、以降22年間、亡くなるまで学科長として留まる
ナディアは、90歳になるまで旅行をやめなかった  最後の旅は76年のモナコ行き。モナコは彼女にとってポリニャック家との活発な友情によってもたらされた、すべて良きことの永遠の象徴だった。47年以降教会監督に任命され、王族のすべての重要な儀式を執り行う役割を演じる。56年のグレース・ケリーの結婚式も。国王夫妻とは家族同様に扱われた。61年からはモナコの作曲コンクールの審査員を務める
幼いころから知っていたユーディ・メニューインが、イギリスに17歳までの子供の全人教育を目指した音楽学校を設立した時には、メニューインから長い友情を頼りに、子供たち用の音楽学習の体系的な計画を作るよう依頼され、年に数日を過ごすことになる
ロンドンの2大音楽院である王立音楽大学と王立音楽アカデミーでは、定期的にマスタークラスを行うことに同意、6076年に30回以上もドーヴァーを越える旅をする
52年ぶりのロシアでは、ソヴィエト連邦作曲家同盟の書記カバレフスキーと友情を芽生えさせる。封建的で右寄りの、敬虔なカトリック信者のナディアと、完璧に封建的である極左政権の代表の無神論者との奇妙な取り合わせ
67年 80歳の誕生日に女性には極めて稀だったレジオン・ドヌール勲章(グラン・トフィシエ)授与
71年 白内障の手術  術後もすぐに動き始めたために視力の衰えを早める
73年 最後の長旅  遠い昔母親と飛行機に乗らない約束をしたため、長期にわたる出張は余計に困難。モナコもロンドンも76年が最後
77年 大英帝国勲章、アカデミー・ボザール金賞、パリ市大金章
健康悪化のため、数少なくなったレッスンもキャンセルせざるを得ない状況が頻繁に起き始め、視力は回復不可能なレベルになる
79年には死期が近いことを知りつつリリの作品を出版社に売り込み、心底やりたかったことを貫徹した
最後に会ったのはバーンスタインで、死の1か月前。瞬間的に目覚めて彼に語り掛けしがみついた












ナディア・ブーランジェ名音楽家を育てたマドモアゼル [著]ジェローム・スピケ
[評者]細野晴臣(音楽家)  [掲載]朝日 20151122   [ジャンル]ノンフィクション・評伝 
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20世紀の音楽を育んだミューズ

 本書は音楽に人生を捧げ、マドモアゼルと呼ばれた伝説的なフランスの女性、ナディア・ブーランジェの伝記である。著者は声楽家。20世紀初頭から70余年、芸術にとって奇跡の時代に生きたナディアの圧倒的な存在感が、目の前にありありと迫ってくる。
 彼女はロシア生まれの厳格な母に音楽への献身を強要されたが、その運命を従順に受け入れていたようだ。前半はチャイコフスキーやフォーレとの逸話が目を引き、歴史的な音楽家とブーランジェ家との関わりから彼女の才能が芽生えた背景を伝える。
 そして、若くして有能なオルガン奏者として成長した彼女は作曲家や指揮者としても頭角を現すが、女性ゆえか、自身の熱意ほどには認められなかった。サン=サーンスやドビュッシーは、彼女の野心的な行動を戒めてさえいる。
 そんな経緯もあり、彼女は音楽教育者の道に進んだようだが、作曲はやめなかった。1910年、ストラヴィンスキーの「火の鳥」がオペラ座で初演された。ナディアは斬新な音楽に衝撃を受け、この作曲家に対しては生涯、敬愛の念を持ち続けた。
 第1次大戦を境に彼女の音楽教育者としての本領が発揮される。その豊富な知識と閃(ひらめ)きは和声学を超え、ジャン・フランセが「時計職人」に例えるほど、ナディアは的確に「音楽そのもの」を生徒に伝えた。天賦(てんぷ)の才は未来の才能を発見し、フランス現代音楽の潮流を育んでいく。
 戦争をはさみ、米国の音楽家にも霊感をもたらした。コープランド、バーンスタインしかり。その流れはハリウッド映画にも通じていくだろう。ナディアはまさに20世紀の音楽に霊感を与えた「ミューズ」だった。その霊感はガーシュインやルグラン、ピアソラにも及んだ。
 貴重な手紙や写真からは、各界から尊敬されたナディアの飾らぬ姿が伝わる。こんな人物、他に見当たらない。
    
 大西穣訳、彩流社・3024円/Jerome Spycket 1928〜2008年。仏の声楽家。『クララ・ハスキル』など。


Wikipedia
ナディア・ブーランジェNadia Boulanger, 188791619791022)は、フランス作曲家指揮者ピアニスト教育者大学教授)。最高水準にある音楽教師の一人として知られ、20世紀の最も重要な作曲家演奏家の数々を世に送り出した。
生涯[編集]
家庭環境[編集]
実家は代々音楽家の家庭であり、父方の祖母マリー=ジュリー(Marie-Julie Boulanger)は声楽家、祖父フレデリック(Frédéric Boulanger)は、1797年にパリ音楽院在学中に15歳で首席として授賞したことのあるチェリストだった。父エルネスト・ブーランジェ1815-1900)は、パリ音楽院でシャルル=ヴァランタン・アルカンらに師事した後、1835ローマ大賞を受賞したオペラ作曲家であった。エルネストは母校で教鞭を執っており、その後ロシア貴族の娘(キエフ大公ミハエル2世の子孫とされる[1])で門下生のライサ・ムィシェツカヤと結婚している。ライサはエルネストの43歳年下であった[2]2人の間に生まれたのが、長女ナディアと、夭折した次女リリであった[3]
生い立ち[編集]
10歳でパリ音楽院に入学し、オルガンアレクサンドル・ギルマンルイ・ヴィエルヌに、作曲法をシャルル=マリー・ヴィドールガブリエル・フォーレに、伴奏法をポール・ヴィダルに師事した。在学中はオルガンや伴奏フーガで首席になったが、長年の目標としてきた1908ローマ大賞では次点に終わった。その前にも2度ローマ大賞に挑んで最終選抜まで残りながらも、いずれも入選していない。1908年の提出作品は騒動を起こした。声楽のためのフーガという審査団の課題に対して、弦楽四重奏用のを提出したのだった。カミーユ・サン=サーンスなどの反対には遭いながらも、それでも準優勝には選ばれている。一般に入賞者は翌年に賞金を授与されるものだが、ブーランジェの場合にそのような栄誉はもたらされなかった。男だったら1等賞が取れたはずと堅く信じたブーランジェは、翌年も挑戦したが、サン=サーンスのいまだ収まらない敵意もあって、またも失意を味わう。決勝進出者が招かれたコンピエーニュ滞在期間中の母の存在が目立ったこともナディアの望みに悪影響を与えていた。
ナディアは妹リリとの間に興味深い関係を築いていた。6歳年下の生まれつき虚弱な妹の世話を年老いた父親に託されており、作曲を含めてリリに音楽の手解きをしたのもナディアであった。リリが1913年に女性として初めてローマ大賞を突破した時も、姉の手引きを受けていた。ナディアはリリに無条件に愛情を注いだものの、妹の作曲の才能には圧倒されるといつも感じていた。「私に何か確信を持って言えることがあるとすれば、私の音楽は無用だということです」と述べたことがある[4]。ナディアがローマ大賞で準優勝した時、パリ音楽院に入学してから10年の月日が流れていた。リリは入学からわずか1年ほどで、地滑り的大勝でローマ大賞を制したのである。姉妹の父エルネストが1900年に歿したことが、リリが作曲にのめり込む重要な要因になったのだが、今度はリリが1918に急逝すると、ナディアは作曲の筆を折ったのだった。リリは未完成に終わる作品を姉に補筆してくれるように言い残していたが、ナディアは自分の才能は妹と互角ではなく、妹の遺作を適切に処置する能力もないと感じていた。
作曲活動[編集]
ブーランジェの作品は、30曲以上の声楽曲と数々の室内楽曲のほか、《ピアノと管弦楽のための狂詩曲》がある。《狂詩曲》は10年間合作を続けてきたラウル・プニョのために作曲されたが、自信不足や極度の自己批判のために、あまりに数多くの改訂を加えている。プニョとの合作に、連作歌曲集《明るい時刻(Les heures claires)》や歌劇《死の町(La ville morte)》が知られており、後者は1914の上演が計画されていた。しかしながら同年にプニョが他界したためと、1次世界大戦が勃発したために、《死の町》は仕舞い込まれたまま上演されずに終わった。作曲家ナディア・ブーランジェの作品は、クロード・ドビュッシーに大きく影響されており、しばしば非常に半音階的ではあるものの、常に調性に依拠しており、無調には手を付けていない。但し、1938に《ダンバートン・オークス協奏曲》の初演を行うなど、後にはイーゴリ・ストラヴィンスキーの熱狂的支持者となった。
演奏活動と教育活動[編集]
1912に指揮者としてデビューを果たした。主要な交響楽団を指揮し、女性指揮者の先駆けである。ニューヨーク交響楽団ボストン交響楽団ハレ管弦楽BBC交響楽団などを指揮した。アメリカ合衆国に演奏旅行した際には、門人アーロン・コープランドの《オルガンと管弦楽のための交響曲》の初演を指揮している。
1907にパリ女子音楽院(Conservatoire Femina-Musica)において教育活動に入り、その後1920より、アルフレッド・コルトーエコール・ノルマル音楽学校の初代教員に名を連ね、さまざまな教科で教鞭を執った。1921には、フォンテーヌブローアメリカ音楽院で和声法の教授に就任して、新世代のアメリカ人作曲家たちに歓迎された。最終的に1948に院長に昇格している。ロンジー音楽学校パリ音楽院でも教鞭を執った。第二次世界大戦中はアメリカに過ごしてウェルズリー大学ラドクリフ大学ジュリアード音楽院の教壇に立っている。最晩年には視力や聴覚の衰えを来すようになったものの、1979に亡くなるまでほとんど働きづめの晩年を送った。
パリで92歳という高齢で逝去した。歿後はモンマルトル墓地に葬られ、妹リリと同じに葬られている。
指導と門人[編集]
ブーランジェが指導した分野は多岐にわたっており、和声法対位法楽曲分析ソルフェージュスコアリーディング伴奏法(ソルフェージュの応用)などである。しばしば門下生は、ヨハン・ゼバスティアン・バッハの《平均律クラヴィーア曲集》を暗譜することと、しばしばバッハが行なっていたように、フーガ即興演奏できるようになることが要求された。
ブーランジェ自身も、また助手で友人のアネット・ディウドネ(Annette Dieudonné)も門人については記録を遺していない。さらに、ブーランジェに個人指導を受けた人物について消息をはっきりさせることはほとんど不可能である。いずれにせよ世界各国から非常に数多くの学生を集め、ヨーロッパは言うに及ばず、アメリカ合衆国からは600人以上の音楽家がブーランジェの指導を受けており、さらにオーストラリアカナダトルコ極東からも学生を集めた。
1920年代に指導した学生は大半がアメリカ人作曲家であった。アーロン・コープランドウォルター・ピストンロイ・ハリスヴァージル・トムソンらは帰国後に、ブーランジェの指導に基づいて新しい楽派(新古典主義音楽)を確立したのである。ヴァージル・トムソンはかつて、アメリカ合衆国の各都市には、安物雑貨屋とブーランジェの弟子がごろごろしていると言ったことがあるが、たぶんブーランジェとその門人は、頻繁にアメリカ音楽を普及させたので、フランス国内よりもむしろ国外の作曲家に重宝がられたということであろう。ナディア・ブーランジェの指導力は、西側の楽壇のほとんど絶え間なく浸透したのである。
主要な門人一覧[編集]
註記[編集]
3.   ^ ナディアの前に幼少にして亡くなった娘がいるので、正確にはナディアが次女でリリーが三女である。 https://en.wikipedia.org/wiki/Nadia_Boulanger
4.   ^ Pendle, Karen and Robert Zierolf, "Composers of Modern Europe, Israel, Australia, and New Zealand" in Women & Music: A History ed. Karin Pendle, p256


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