冬を待つ城 安部龍太郎 2015.10.4.
2015.10.4. 冬を待つ城
著者 安部龍太郎 1955年福岡県生まれ。90年『血の日本史』でデビュー。『彷徨える帝』『関ヶ原連判状』『信長燃ゆ』『恋七夜』『下天を謀る』等、歴史時代小説の大作を次々と発表。05年『天満、翔ける』で中山義秀文学賞、13年『等伯』で直木賞。「隆慶一郎が最後に会いたがった男」との伝説を持つ歴史文学の第一人者
発行日 2014.10.20.発行
発行所 新潮社
序章
1593年 朝鮮征伐の兵を率いた石田三成は、平壌から撤退してきた小西行長の軍勢を見て、漢城の防備を一層強化しようとしたが、人足不足で一向にらちが明かない。光成が秀吉に奥州から人足を徴用せよと進言したのに、蒲生氏郷が九戸(くのへ)城の九戸政実の計略に嵌って勝手に和議を結んで兵を引いたため、徴用できなくなったことが響いている
第1章
長兄政実
1590年 秀吉が小田原城攻めに際し、奥州の諸大名に参陣を求めたが、対応は2つに分かれ、戦後の奥州仕置きにより、伊達政宗が不法に占領していた会津42万石を没収して、寵臣の蒲生氏郷に与えたほか、家の存続と知行を認められた大名たちも検地と刀狩りをして秀吉が命じる通りに統治をするよう強要された
南部信直は、北部奥州7郡の知行を認められ、一門の有力者に南部家への臣従を迫り、その証として、それぞれの居城を破却し、妻子を人質として差し出せと指示したため、一門衆から強い不満の声が上がる
新年に臣従の証として南部家に参賀を要求されたが、真冬は冬籠りの熊(山親父)を起こすので移動しないという習慣に従って九戸家は拒否 ⇒ 冬籠りの城の居心地の良さを支えているのが、先祖代々受け継がれた心
九戸家の4男・政則は、仏門に入って勉学に励んでいたが、7長兄・政実に還俗させられ、久慈家に婿養子となって、久慈川の北に位置する男山に築かれた平山城に住む
仕置きによって所領を没収された地では一揆が頻発、一部は九戸家に頼る
第2章
兄弟4人
九戸家の次男・実親(さねちか)は、南部家代々の当主の娘を妻にしているので、信直とは相婿。南部家中でも重きをなす存在
三男・康実(やすざね)は、斯波氏の婿養子となるが、義父の死後後継者と争いになり、信直を頼って出奔、南部はこれを好機と見て斯波氏を亡ぼし、康実にその所領を与える
南部家先代・晴政には後継がないまま、信直を長女と妻合わせ婿養子とした後、側室に男子が誕生したため、信直を廃嫡しようとしたが、信直が南部家の重臣の支持を集めて抵抗したため、晴政は信直を討ち果たそうとする
信直は難を逃れたが、その間晴政は九戸政実を重用、次女を実親と妻合わせて両家の結びつきを強めたところから、両者の深刻な対立が始まる
1582年 晴政が急死。政実は後継を当主としたが、直後に暗殺されたため、信直と実親との間で後継争いとなるが、信直が実力行使に出て、南部家譜代の重臣たちも支持、実親もそれに従って南部家を支えてきた
第3章
南部信直
1591年元旦 南部居城への参賀に政実は、一旦は弟たちに説得された同行することを応諾したが、当日は大雪で、病気を理由に欠席
弟たちが間に入って、政実と信直の面談が実現。政実は南部の家臣と領民を守るため、九戸家を実親に譲るとまで宣言し、改めて南部の当主を決め直し南部を1つにまとめようと訴える ⇒ 秀吉の朝鮮出兵に当たり、朝鮮の冬の寒さを考え、人足は奥州から集めることが予想され、その場合は奥羽2州の村々が根絶やしにされ兼ねないことを政実は恐れていた
第4章
政実挙兵
信直の答えは、政実の暗殺未遂と、当主見直しの拒否となり、政実は南部を統一して秀吉の人狩りに対抗すべく信直討伐の挙兵
第5章
計略
康実は政実側についたが実親は信直につく
奇襲、奇策の応酬だったが、政実が信直を追い詰めたところへ実親が信直の救援に駆けつける
第6章
硫黄紛失
政実と実親は戈を交えたが、結局痛み分けとなり、政実は信直を討ちそこなう
休戦中に、政実の陣営から火薬を調合するための硫黄が大量に紛失、容疑を疑われたものが何者かに殺される
第7章
能登屋五兵衛
硝石と鉛の調達ルートだった能登屋も、秀吉の差し金で調達の道を絶たれる
政則は、政実の書状をもって能登屋に真相を確かめに行くが、能登屋から硫黄の調達ルートを聞かされ、それを辿って能代まで入る
第8章
山の王国
奥州は、藤原3代滅亡の後、鉱山の採掘を業とする山師たちが集まって、鉱山を守りながら山の王国を築き上げ、秘密裏に継承されて現代にいたっている
山の王国と南部を繋いでいるのが九戸家
秀吉は、奥州からの人狩りと同時に硫黄鉱山も狙っていたため、政実が立ち上がったもの
山師から硫黄を調達した政実は、一揆勢を従えて再び信直を攻撃
第9章
籠城
突然味方だと思っていた津軽勢が現れ、政実軍に向かってきたが、城を守っていた実親が敵と見間違えて津軽勢に対抗しようとしたため、信直は実親が寝返ったとみて襲い掛かる
実親を救ったのは政則、実親も信直への忠義はこれまでと腹を決めて九戸兄弟一丸となって南部勢に当たる
津軽勢は、秘かに石田三成に唆され、南部・九戸の争いに乗じて南部を乗っ取ることを狙って出してきた。以前から九戸家に下女を忍び込ませて、九戸家内の情報を逐一三成に報告していた
秀吉の援軍派遣として伊達を先陣に総勢15万の軍令を発出、政実は籠城を覚悟
伊達の軍勢は7月には一揆勢の籠る最初の城を落とす
第10章 和平工作
政実の誘いに乗って一揆衆と通じるという失策を犯した伊達政宗の弱みを握っている政実は、政宗に秀吉との和議調停を、城明け渡しと兄弟4人の首と引き換えに領民の保護を頼み込むが、信直の同意が得られず頓挫
本当のところは、政実の時間稼ぎの策略に政宗が乗ってくれただけのことで、政宗とのつながりはまだ切れてはいなかった
第11章 滝名川の戦い
蒲生の先陣が滝名川を渡ったところで、実親の一隊が先制攻撃を仕掛けるが、蒲生勢の鉄砲の威力の前にあえなく退散
第12章 裏切り
康実が、硫黄鉱山の絵図面を盗み出そうとするが、実親に取り押さえられ、それまでの秀吉に通じる裏切り行為をすべてぶちまける
裏切りの根は、幼い頃養子に出された恨みで、吐き出した後は切腹もできず、心を入れ替えて兄弟共に闘うことを誓う
第13章 大軍襲来
秀吉側の大軍を九戸城周辺の狭い地域に押し寄せさせ、その背後の補給路を断つのが政実の戦略であり、氏郷の軍勢はその罠に嵌る
第14章 和議の使者
本格的な衝突を前に、信直に氏郷への仲介を頼むこととなり、政則が和尚を連れて使者に立つ
氏郷から秀吉の真意を聞かされて、人狩りの目的を知った信直は、政実を全面的に支援すべく、氏郷への仲介の労をとる
奥州の大義を守るためには、兄弟4人の首も鉱山もすべて差し出すという政実の申し出に氏郷は感服
先陣の他の大名をも糾合して、和議の条件を詰める方向へ傾く
第15章 生き残る者
氏郷側が出した和議の条件は、4人のほかに侍300の首を差し出すこと
それでは大半の領民が主を亡くすことになるため、代わりに津軽の兵を騙し討ちにしてその首を差し出そうとする
策に乗った津軽兵が夜襲をかけてきたところを討ち取ろうとするが、その動きに感づいた浅野勢が九戸城に攻撃を仕掛けてくる
終章
九戸城落城から1か月後、政実と政則は出家
実親は、九戸城を死に場所と決め、浅野との戦いで討ち死
康実は、降伏後に領民の安全が守られたかどうかを確認するために敢て政実が、落城直前信直にもとに逃がしたもので、信直もそれを受け入れ、九戸領の差配を任せるとともに、いずれは政実の息子を養子にして家を継がせるとまで約束
信直は、政実が南部を救ってくれたことを感謝する
氏郷も、300の首が九戸一族のものではないことを見破りつつ見逃す
政実と政則は、宮城まで来ていた羽柴秀次の前に連行され、両者とも打ち首になるところを、政則だけは氏郷が命乞いをしてくれる
鉱山の絵図も、氏郷が検地帳にないものは受け取れぬとして、政則がその場所を突き止めに行く
氏郷が受け取りを拒否したのは、秘かに鉱山を手に入れようとしていた三成への反発からかもしれない
冬を待つ城 [著]安部龍太郎 鳳雛の夢 [著]上田秀人
奥州の大義求める苦難の戦い
東北の戦いの歴史は、苦い。「征夷(せいい)」大将軍・坂上田村麻呂の侵攻、源頼義・義家父子による前九年の役、鎌倉武士が大挙して押し寄せた平泉の討滅、豊臣秀吉の「奥州仕置(しおき)(征服)」、錦の御旗を翻す官軍に敗れた戊辰戦争。中央権力は東北の自由を許さず、いつも屈従を強いてきた。このうち、秀吉の「奥州仕置」をテーマにする時代小説が、前後して2冊刊行された。
まず安部龍太郎氏の『冬を待つ城』。天正19(1591)年、秀吉に敢然と反旗を翻し、15万の大軍に包囲されて滅んだ九戸政実(くのへまさざね)(南部氏の一族)を描く。主人公は政実の弟、久慈政則(くじまさのり)。彼の目を通して、九戸城(岩手県二戸市)に立てこもる政実の、どう見ても無謀な戦いの真相が次第に明らかになる。
政実は、私利私欲から判断を誤ったのではない。「奥州の大義」のために命を懸けたのだ。一方で、これを滅ぼそうとする豊臣政権の側にも、特別な思惑があった。普通、秀吉による天下統一の総仕上げ、といわれるこの戦いは、実は朝鮮出兵を見据えてのものだった……。著者による謎ときの秀逸さに、何度もうならされる一冊である。
政実の知名度は高くないが、伊達政宗の名は歴史好きなら誰もが知る。彼の活躍と苦難を描くのが、上田秀人『鳳雛の夢』。生母に愛されず、父と弟を犠牲にしながら、政宗はひとり覇業を歩む。その彼に仕え、親友のように、時に兄のように、支え続けたのが片倉小十郎であった。
二人の夢。それは「奥州制覇」、そして奥州の自立。強大な中央政権が二人の前に立ちはだかる。だが政宗は夢をあきらめない。秀吉・徳川家康、二人の天下人と渡り合いながら、彼はいかにして伊達家を、また東北を守り抜いたのか。周知のように、政宗と小十郎の夢はかなわなかった。けれども著者のけれんのない筆致は、とてもすがすがしい読後感を与えてくれる。
◇
『冬を待つ城』新潮社・2160円/あべ・りゅうたろう、『鳳雛の夢』光文社・2052円/うえだ・ひでと
東北の戦いの歴史は、苦い。「征夷(せいい)」大将軍・坂上田村麻呂の侵攻、源頼義・義家父子による前九年の役、鎌倉武士が大挙して押し寄せた平泉の討滅、豊臣秀吉の「奥州仕置(しおき)(征服)」、錦の御旗を翻す官軍に敗れた戊辰戦争。中央権力は東北の自由を許さず、いつも屈従を強いてきた。このうち、秀吉の「奥州仕置」をテーマにする時代小説が、前後して2冊刊行された。
まず安部龍太郎氏の『冬を待つ城』。天正19(1591)年、秀吉に敢然と反旗を翻し、15万の大軍に包囲されて滅んだ九戸政実(くのへまさざね)(南部氏の一族)を描く。主人公は政実の弟、久慈政則(くじまさのり)。彼の目を通して、九戸城(岩手県二戸市)に立てこもる政実の、どう見ても無謀な戦いの真相が次第に明らかになる。
政実は、私利私欲から判断を誤ったのではない。「奥州の大義」のために命を懸けたのだ。一方で、これを滅ぼそうとする豊臣政権の側にも、特別な思惑があった。普通、秀吉による天下統一の総仕上げ、といわれるこの戦いは、実は朝鮮出兵を見据えてのものだった……。著者による謎ときの秀逸さに、何度もうならされる一冊である。
政実の知名度は高くないが、伊達政宗の名は歴史好きなら誰もが知る。彼の活躍と苦難を描くのが、上田秀人『鳳雛の夢』。生母に愛されず、父と弟を犠牲にしながら、政宗はひとり覇業を歩む。その彼に仕え、親友のように、時に兄のように、支え続けたのが片倉小十郎であった。
二人の夢。それは「奥州制覇」、そして奥州の自立。強大な中央政権が二人の前に立ちはだかる。だが政宗は夢をあきらめない。秀吉・徳川家康、二人の天下人と渡り合いながら、彼はいかにして伊達家を、また東北を守り抜いたのか。周知のように、政宗と小十郎の夢はかなわなかった。けれども著者のけれんのない筆致は、とてもすがすがしい読後感を与えてくれる。
◇
『冬を待つ城』新潮社・2160円/あべ・りゅうたろう、『鳳雛の夢』光文社・2052円/うえだ・ひでと
Wikipedia
九戸城(くのへじょう)は、岩手県二戸市福岡城ノ内[1]にあった日本の城である。後に盛岡へと移るまで南部氏の居城となり福岡城と改められたが、九戸城と呼ぶのが普通である。別名「宮野城」。国の史跡に指定されている。
中世の平山城で、主に南部氏の一族である九戸氏が居城した。正確な年は不明である[2]が、九戸氏が九戸城を築城し移ったのが、『系胤譜考』では7代目光政のとき、『奥南落穂集』では12代目信実の代という。また、11代目(『奥南落穂集』の代数では14代目)政実が二戸を加増されて移ったとされる説もある。
西側を馬淵川、北側を白鳥川、東側を猫渕川により、三方を河川に囲まれた天然の要害で、城内は空堀によって、本丸、二の丸、三の丸、若狭館(わかさだて)、外館(とだて、石沢館とも)[3][出典 1][出典 2]松の丸などの曲輪群を形成し、本丸の一部には東北最古の石垣をもつ。東北地方では有数の規模であったが江戸初期に廃城となった。
以前から城主・九戸政実は、南部一族内の石川(南部)信直と対立し抗争していたが、南部宗家相続争いで九戸氏を差し置いて惣領を継承した南部信直に対し天正19年(1591年)兵を挙げる。これは、南部信直が豊臣秀吉から領地安堵をとりつけていたため豊臣政権への反乱とみなされた。 陸奥国では他にも大規模な一揆など起きており、秀吉は豊臣秀次を総大将に浅野長政、蒲生氏郷や関東、奥羽の諸将を鎮圧軍として派遣する。鎮圧軍は一揆を平定しながら北進し、9月2日約6万の兵で九戸城を包囲、助命の約束で9月4日に降伏開城させた。しかし約束は反故にされ政実はじめ主だった首謀者は処刑され、城内に居た者は女、子供構わず撫で斬りにされて皆殺しされた。
この乱は、秀吉による天下統一の総仕上げとされるが、天下の豊臣軍が攻め倦んだ末に謀略、反故、撫で斬りといった史実は歴史書から抹消されたともいわれる。二ノ丸跡の発掘調査で、首を刎ねられて刀傷を負った、女性を含む複数の人骨が発掘されている[6]。この後、九戸氏の残党への警戒から、秀吉の命によって居残った蒲生氏郷が九戸城と城下町を改修し、南部家の本城として南部信直に引き渡されて三戸城から居を移し、九戸を福岡と改めた。しかし領民は九戸氏への思いから九戸城と呼び続けた[6]。
九戸政実の乱(くのへまさざねのらん)は天正19年(1591年)、南部氏一族の有力者である九戸政実が、南部家当主の南部信直および奥州仕置を行う豊臣政権に対して起こした反乱である。近年では「九戸政実の決起」などと称することもある。
経緯[編集]
背景[編集]
南部氏最盛期を築き「三日月の丸くなるまで南部領」と謳われるほど領土を広げた第24代当主・南部晴政が、天正10年(1582年)没すると南部家内は後継者問題で分裂する。それ以前から南部晴政ならび一族内の有力勢力・九戸氏の連衡と、石川信直を盟主とする南長義、北信愛の連合の南部一族間で対立があり、本家である三戸南部家当主を継いだ南部晴継が同天正10年13歳で急死すると、九戸家と石川家の南部本家後継者争いが本格化する。
石川(南部)信直が九戸実親を退けて半ば強引に三戸南部家当主となり南部氏惣領になったことにより、実親の兄・九戸政実は大いに不満を持ち、南部信直との関係は亀裂状態であった。 南部氏は、三戸南部氏を中心とした九戸氏・櫛引氏・一戸氏・七戸氏ら南部一族による連合である「郡中」による同族連合の状況であったが、天正18年(1590年)7月27日の豊臣秀吉朱印状によって、三戸南部氏の当主信直が南部氏宗家としての地位を公認されて近世大名として組み込まれ、それ以外の有力一族であっても宗家の「家中」あるいは「家臣」として服属することを求められたことで、九戸氏は反発し信直と激しく対立する。
奥州仕置と一揆の勃発[編集]
南部信直が兵1000を引き連れ小田原征伐とそれに続く奥州仕置に従軍していた留守中の天正18年(1590年)6月、九戸氏は三戸南部側である南盛義を攻撃する。南盛義は討ち死にし、以後南部家中は緊張状態が続いた。 その頃、秀吉の奥州仕置軍は平泉周辺まで進撃し、大崎氏、葛西氏、黒川氏ら小田原に参陣しなかった在地領主の諸城を制圧して検地などを行ったあと、奉行である浅野長政らが郡代、代官を配置して軍勢を引き揚げた。
奥州仕置軍が各々領国へ帰って行った同年10月から陸奥国各地で、奥州仕置に対する不満から葛西大崎一揆、仙北一揆など大規模な一揆が勃発する。 南部信直は和賀・稗貫一揆に兵を出すが稗貫氏の元居城である鳥谷ヶ崎城で一揆勢に包囲されていた浅野長政代官を、南部氏居城の三戸城へ救出するのが精一杯で、積雪により討伐軍が出せなくなった。
九戸勢の反乱[編集]
情勢が不穏の中で天正19年(1591年)の新年を迎えると、九戸氏は三戸城における正月参賀を拒絶して南部本家への反意を明確にする。 三戸城に配置されていた浅野長政代官が、2月28日上杉景勝重臣で横手盆地西端の大森城に駐在する色部長実に送った手紙には「逆意を持った侍衆がおり糠部地方が混乱状態にあること、当地の衆が『京儀』を毛嫌いし、豊臣になびく南部信直に反感を抱いていること、仕置軍の加勢が無ければ南部信直は厳しい状態であること」などを伝えている。 また同日に南部信直から色部長実に送られた手紙にも「逆意を持った者達に手を焼いているが仕置軍が来るのは必定である」という旨を書いている。
同年3月に九戸方の櫛引清長の苫米地城攻撃を皮切りに、ついに九戸政実は5千の兵を動かして挙兵し、九戸方に協力しない周囲の城館を次々に攻め始めた。3月17日付の浅野長政代官から色部長実への手紙には「九戸、櫛引が逆心し油断ならないこと、一揆勢は仕置軍が下向するという噂を聞いて活動を控えている」ということなどが書かれている。
もともと南部氏の精鋭であった九戸勢は強く、三戸南部側も北氏、名久井氏、野田氏、浄法寺氏らの協力を得て防戦につとめたが、南部領内の一揆に乗じて九戸勢が強大化し、更に家中の争いでは勝利しても恩賞はないと考える家臣の日和見もあり、三戸南部側は苦戦する。そしてとうとう自力での九戸政実討伐を諦めて信直は息子・南部利直と重鎮・北信愛を上方に派遣、6月9日には秀吉に謁見して情勢を報告した。
奥州再仕置軍の進撃[編集]
白河口には豊臣秀次を総大将に率いられた3万の兵に徳川家康が加わり、仙北口には上杉景勝、大谷吉継が、津軽方面には前田利家、前田利長が、相馬口には石田三成、佐竹義重、宇都宮国綱が当てられ、伊達政宗、最上義光、小野寺義道、戸沢光盛、秋田実季、津軽為信らにはこれら諸将の指揮下に入るよう指示している。奥州再仕置軍は一揆を平定しながら北進し蒲生氏郷や浅野長政と合流、8月下旬には南部領近くまで進撃した。8月23日、九戸政実輩下の小鳥谷摂州は50名の兵を引き連れて、美濃木沢で仕置軍に奇襲をかけ480人に打撃を与え、これが緒戦となった。9月1日には九戸勢の前線基地である姉帯、根反城が落ち、これに抗した九戸政実は九戸城に籠もり、9月2日には総勢6万の兵が九戸城を包囲、攻防を繰り返した。
九戸城の戦い[編集]
九戸城は、西側を馬淵川、北側を白鳥川、東側を猫渕川により、三方を河川に囲まれた天然の要害であった。城の正面にあたる南側には蒲生氏郷と堀尾吉晴が、猫淵川を挟んだ東側には浅野長政と井伊直政が、白鳥川を挟んだ北側には南部信直と松前慶広が、馬淵川を挟んだ西側には津軽為信、秋田実季、小野寺義道、由利十二頭らが布陣した。九戸政実はこれら再仕置軍の包囲攻撃に少数の兵で健闘したが、城兵の半数が討ち取られた(仕置軍・南部側説)。 そこへ浅野長政が九戸氏の菩提寺である鳳朝山長興寺の薩天和尚を使者にたて「開城すれば残らず助命する」と九戸政実に城を明け渡すよう説得させた(当初から和睦と見せかけた蒲生氏・浅野氏の計略説も在り)。九戸政実はこれを受け入れて、弟・九戸実親に後を託して9月4日、七戸家国、櫛引清長、久慈直治、円子光種、大里親基、大湯昌次、一戸実富らと揃って白装束姿に身を変えて出家姿で再仕置軍に降伏する。
浅野、蒲生、堀尾、井伊の連署で百姓などへ還住令を出して戦後処理を行った後、しかし助命の約束は反故にされて、九戸実親はじめ城内に居た者は全て二の丸に押し込められ惨殺、撫で斬りにされ火をかけられた(小田原攻めの際の北条家家臣の忍城の例も多少関連が在ったとも)。 その光景は三日三晩夜空を焦がしたと言い伝えられている。九戸城の二ノ丸跡からは、当時のものと思われる、斬首された女の人骨などが発掘されている[1]。政実ら主だった首謀者達は集められ、栗原郡三迫(宮城県栗原市)で処刑された。
結果[編集]
この乱以後、豊臣政権に対し組織的に反抗する者はなくなり、秀吉の天下統一が完成する。また南部氏はこれをきっかけに蒲生氏との関係を強めており、蒲生氏郷の養子である源秀院(お武の方)が、南部利直に輿入れしている。戦国変わり兜の一つとして有名な「燕尾形兜」は、この時の引き出物として南部氏にもたらされたものである。
また氏郷と浅野長政は信直に本拠地を南方に移すことを勧め、これが盛岡城築城のきっかけとなった。なお九戸政実の実弟の中野康実の子孫が中野氏を称して、八戸氏、北氏と共に南部家中で代々家老を務める「御三家」の一つとして続いた。
コメント
コメントを投稿