西太后秘録 Jung Chang 2015.6.29.
2015.6.29. 西太后秘録 近代中国の創始者 上・下
Empress Dowanger Cixi ~ The
Concubine Who Launched Modern China 2013
著者 Jung Chang ユン・チアン
1952中華人民共和国四川省宜賓市生れ。文革の最中の60年代、14歳で暫く紅衛兵を経験した後農村に下放されて農民として働き、「はだしの医者」、鋳造工、電気工を経て四川大学英文科の学生となり、後に講師。1978年イギリス留学、ヨーク大学から奨学金を得て勉学、1982年言語学博士号取得。中華人民共和国からの留学生でイギリスの大学から博士号を取得したのは初めて。
一族の歴史を克明に描くことで激動期の中国を活写した『ワイルド・スワン』(祖母・母・娘と3代にわたる女性を軸に19世紀末から20世紀後半までの中国を描いた革命経験を通した自伝)の原著(英文)は1991年イギリスで発行され、各種文学賞を受賞、全世界で1000万部以上を売り上げた。
数々の新資料から独裁者・毛沢東の生涯に光を当てた『マオ・誰も知らなかった毛沢東』(夫
ジョン・ハリディとの共著)とともに世界40か国で翻訳され、累計5百万部の大ベストセラーになっているが、2冊とも中国国内では出版禁止
『06-06 マオ-誰も知らなかった毛沢東』参照
訳者 川副智子 翻訳家。早大文卒
発行日 2015.2.10. 第1刷発行
発行所 講談社
彼女が進めた近代化とは、国の老化、貧窮、蛮行、絶対権力と決別することだった。彼女は中国人には未知の人道主義や公正や自由を中国に取り入れた
- 嵐の時代の妃 (1835~1861)
- 皇帝の側室 (1835~1856)1852年 定期的に実施されていた后妃選定制度により、16歳の娘が側室の1人に選ばれた ⇒ 満洲族で最も古く最も高名な氏族の出身満洲族は、もともと万里の長城の北東に住んでいたが、1644年農民の叛乱軍によって明朝が倒された後、万里の長城を越えて侵入し反乱軍を平定して中国全土を支配下に置き、新王朝「大清」を樹立、北京を首都として明の3倍の規模の帝国建設に着手数で劣勢の満洲族は、当初は荒っぽい手段を用いることも多く、目に見える最大の服従の印として、漢族の男子に満洲族の辮髪を強要。都では漢族を内城から追い出していくつもの壁と門で両者を隔てた時の経過とともに抑圧が弱まり、両者の敵対意識は次第に薄れたが、社会的地位の高い仕事は依然として満洲族に集中、両族間の結婚も禁止され、交流はほとんどなかった文化・政治の両面では漢族の制度が採用され、領土の隅々まで触手を広げた清政権の要職に配されたのは漢族の官僚たちで、科挙に合格した少数のエリートから選抜国の重要事項は絶対君主の皇帝がすべて一人で決定世界最大の広さを有する王宮だった紫禁城の西の一角で慈禧太后誕生慈禧の一族は代々高級官僚の家柄、慈禧も何の苦労もなく幼少時代を過ごし、1世紀もの間漢族の女たちを苦しめてきた纏足とも無縁、男尊女卑はあったものの知識階級の子女として、漢語の読み書き、書画、囲碁、刺繍、裁縫など、若い婦人のたしなみとされる教養を身につける。学習能力が高かったうえに持ち前の直観力が鋭かったアヘン戦争の結果巨額の賠償金を賦課された上に、国庫からの巨額の公金横領が発覚し、過去に遡って官僚組織に罰金の支払いが課され、慈禧の曽祖父も対象とされたため、一家の生活は一変、11歳の慈禧もアルバイトに駆り出されたが、その時の慈禧の奮闘ぶりが一家の語り草となった1850年 皇帝崩御により19歳で病弱の息子・咸豊(かんぽう)帝が即位、后がいたが、満洲族か蒙古族の中から新たな后が選定されることになる慈禧の顔で最も印象的なのは、表情豊かなキラキラした目 ⇒ 数年後官僚を引見する際に突然目をキラリと光らせ、存分に威力を発揮させるが、慈禧の下にいて猛烈ぶりで知られた袁世凱ですら、慈禧の眼差しだけは自分を怖気づかせると告白しているが、后選定でもこの目が咸豊帝の興味を引いた慈禧は、皇妃8階級のうちの第6級の側室の1人に選ばれたに過ぎない当時の清は、太平天国の乱に代表される暴動の続発で混乱・疲弊56年 慈禧が男児を出産、咸豊帝にとっては初の皇子
- アヘン戦争から円明園炎上まで (1839~1860)皇子の誕生で、慈禧は貞(てい)皇后に次ぐ地位に駆け上がる自分の妹を皇帝の異母弟の1人・醇親王に嫁がせる1800年以降、清朝政府はアヘンの密輸と栽培と吸飲を禁止1839年 道光帝の指示により林則徐が広東の外国船に対しアヘンの引き渡しを求めて船を包囲、英国財産に対する清国の暴挙に対し、以後2年にわたって英国が中国南東部の沿岸地帯を攻撃、砲艦を持たない貧相な装備の清国は敗退、42年の南京条約により巨額の賠償金を支払わされると同時に、鎖国も解除、開港された都市には欧米人が住み着く46年にはキリスト教布教団の入国禁止令も解除、後の中国の変貌に果たした役割は重大56年 アロー号事件(第二次アヘン戦争) ⇒ エルギン卿(パルテノン神殿の彫刻の一部「エルギン・マーブル」を切り取って英国に持ち帰った伯爵の息子)率いる英・仏連合軍が、鎖国解除後も執拗に対外強硬論を進める清朝政府を撃破18世紀初頭にイエズス会修道士の設計で建設された西欧式の壮麗な複合宮殿・円明園が略奪の後焼き討ちされ、フランス軍でさえ「無防備な田園風景」を破壊するものとして加担を拒否
- 咸豊帝死す (1860~1861)60年 北京条約締結により講和成立 ⇒ 最も得をしたのはロシアで、1発の銃弾も撃つことなしに黒龍江以北の領土と太平洋に面した港湾都市ウラジオストックを手に入れた61年 咸豊帝崩御 ⇒ 遺言によって慈禧が産んだ皇子・載淳(さいじゅん)に帝位を継承させ、臨終に立ち会った8人の大臣による摂政制が敷かれた
- 中国を変えた政変 (1861)皇帝の生母にすぎなかった慈禧が、1661年康熙帝即位の際の先例に従って、貞皇后と並んで皇太后の称号を手に入れる ⇒ 貞皇后が「慈愛」と「安寧」を意味する「慈安」と称し、慈禧が「慈愛」と「歓喜」を意味する「慈禧」を選ぶ慈禧は慈安と手を組んで政変を起こす ⇒ 対外強硬派の8人の大臣に対し、先帝から両皇太后がそれぞれ預かった非公式の印章を幼帝の名で発する詔書の権威づけに使用することを説得、さらに先帝の弟で対外柔軟派の恭親王を抱き込み8人を罷免する詔書を出したばかりか、8人が先帝の遺言を捏造したとして告発、1人を処刑、2人を自死、残りの5人を追放処分とした恭親王も慈禧の鮮やかなやり方を支持して国政を任そうとし、英国特命全権公使も慈禧の手腕に驚嘆 ⇒ 幼帝の摂政となった皇太后の一覧が作成され、あくまで幼帝が成年に達するまでの暫定的なものという認識で支持が広がる61年 載淳が即位し同治帝となるが、国事の決定は両太后が直接行うこととされた
- 垂簾聴政(すいれんちょうせい) (1861~1875)
- 近代化への長い道のりの第1歩 (1861~1869)慈禧の最初の動きは対外政策 ⇒ 西欧諸国との友好関係の樹立皇帝が官僚たちを引見する際、御簾の後ろには必ず2人の皇太后の姿があり、かんりょうたちは威厳に満ちた慈禧の存在感に圧倒された最終決定はいつも慈禧が下すが、官吏による反対意見を奨励、優れた人物は迷わず重職に登用し、自らの統治能力の不足を補った慈禧の対外協調路線に対し、列強も同調 ⇒ 英国の助言を受け入れ、外国の将校に中国兵の武装と訓練と指揮を任せ、それを中国政府が統轄する形をとり、外国人部隊の支援もあって、10年以上続いた太平天国の乱を平定 ⇒ 慈禧は異例の漢族を登用したが、その双璧が李鴻章と曽国藩。常勝軍を率いたイギリス軍将校チャ-ルズ(チャイニーズ)・ゴードンはこの時の功績によりトラファルガー広場に像が建てられ、チャーチルもゴードンを「キリスト教徒の模範的な英雄」と呼び、「彼の名は忘れ得ぬ多くの理想と結びついている」と言った。欧米人の考え方を知るうえで慈禧がゴードンから受けた影響は計り知れない清の平和回復は慈禧に議論の余地なき権威を与え、欧米との貿易がもたらす関税収入により国庫の歳入も大幅に膨らむ「自強」(中国を強くする)のスローガンの下、西欧式の近代的な軍隊組織と軍需産業の確立を目指す
- 西欧への初渡航 (1861~1871)1867年 米国初の駐清公使バーリンゲームの帰任に際し、彼の引率で中国初の外交使節団を欧米に派遣
- 宿命の恋 (1869)1869年 同治帝の婚礼の準備のために、慈禧は慣例を破ってお気に入りの宦官を紫禁城外へ派遣するも、反対勢力によって捕らえられ処刑 ⇒ 慈禧が恋をしていた相手だっただけに落胆のあまり体調を崩すが、回復後は脇目もふらずに改革に邁進
- 西欧への怨念 (1869~1871)慈禧の政変に最初から協力した醇親王は、いつの日か異母兄である咸豊帝の西欧列強の排斥の遺志を実現すべく、慈禧に対しても極端な外国人・文化の排斥を提言し、慈禧のやり方に抵抗西欧文化と中国文化の出会いは様々な衝突を生み、西欧人は中国人を「半文明人」と、中国人は西欧人を「洋鬼」と呼んだが、中国人の憎しみが集中的に向けられたのは全国各地に根を下ろしたキリスト教の布教活動 ⇒ 宗教的な反感ではなく、キリスト教の布教が草の根レベルで競争力を持つことになってしまったことが地方の為政者の反感を買ったキリスト教に対する暴動まで起き、特に天津ではフランス領事が殺害され、戦争の危機に陥ったが、李鴻章の優れた交渉力で乗り切ったものの、醇親王は激しく慈禧を非難
- 同治帝の生と死 (1861~1875)同治帝が興味を示したのは歌劇と男色だけで、君主教育を受け入れなかった72年 婚礼の相手は、慈禧が起こした政変の犠牲者の血筋だったが、同治帝が気に入ったために慈禧も認めざるを得なかったもの73年 同治帝が16歳で即位 ⇒ 慈禧の庇護を離れ皇帝の親政が始まり、近代化は頓挫ほどなく政務に飽きた同治帝は、遊蕩に耽る場所として円明園の再建を決めるが、痘瘡に罹り、国政を両太后に代行させた後に75年崩御。后妃も最高の美徳とされる後を追うことを選ぶ
- 養子を通しての支配 (1875~1889)
- 皇帝にされた3歳の子 (1875)慈禧は、妹と醇親王の子・載湉(さいてん、3歳)を咸豊帝の養子として即位、光緒(こうしょ)帝を名乗らせ、両太后が育てると宣言 ⇒ 醇親王から1人っ子を奪ったのは、対外強硬論を始め慈禧の近代化への改革に抵抗したことへの意趣返しでもあった実験を取り戻した慈禧は、再び近代化政策を推し進める
- 加速する近代化 (1875~1889)近代化推進派の中心となったのは李鴻75年 初めての外交官がロンドンに派遣され、欧米の制度や文化の吸収に注力1840年代後半から始まった奴隷貿易によって何十万単位の中国人がキューバやペルーに奴隷として売られていたが、両国との直接交渉により奴隷解放へ日本が台湾を奪取しようとしたのに対抗するため、世界に通用する海軍の創設に邁進欧米式の近代的な産業戦略を進めることによって国を富ますことが「自強」に繋がるとの共通認識のもと、近代化政策を進める ⇒ 郵政局開設による電信網の全土敷設、炭鉱開発、造幣局創設による貨幣制度の改革遅れたのは鉄道敷設 ⇒ 風水によって作られた夥しい数の墓の存在が障碍となったが、89年になって漸く北京‐武漢鉄道開通により鉄道時代に入る中国の生命線たる生糸産業だけは、家内工業を守り通した
- 帝国の擁護者 (1875~1889)新疆の奪回 ⇒ 中央政権の強弱によって何度も蜂起を繰り返していたが、清の従属国として独立させてはという進言に対し慈禧はあくまで清の支配下に置くことを主張、78年には慈禧の強い意志と指示のもとロシアに占領された地域も含め全土の制圧に成功84~85年 清の従属国だったヴェトナムに対するフランスの侵攻に際しても、国境の安全確保を第1とし、一旦は戦端を開いたものの李鴻章による交渉の結果、講和が成立し、慈禧の手腕によって清は欧米列強の尊敬を勝ち取る慈禧政権は、欧米人からも「絶大な評価」を得たが、この時代ほど寛大な朝廷はなく、何かを言ったり書いたりしたことで殺されることはなくなり貧困対策として米や食糧の大量輸入も行っている ⇒ 米国公使も「中国と外の世界との間に横たわる問題を理解し、その問題を孕んだ関係を利用して清朝を強化し、物質的に大きく進歩させた最初の中国人」と言って慈禧を評価したように、慈禧によって中国は自ら招いた孤立に終止符を打ち、国際社会に仲間入りし、その結果国内に利益を呼び込んだ
- 光緒帝、跡を継ぐ (1889~1898)
- 遠ざけられた光緒帝 (1875~1894)71年 光緒帝即位 ⇒ 慈禧の意図は、一族を引き上げるためと、醇親王への報復81年 貞皇后崩御(享年43) ⇒ 慈禧に毒殺されたとの説もあるが根拠はない89年 18歳の光緒帝に慈禧は実弟の娘を無理やり嫁がせ引退を宣言光緒帝は、帝王教育を十分吸収してはいたが、改革は愚か日常の治世にも興味を示さず、清国の統治は古い形式に逆戻り
- 頤和園 (1886~1894)86年 引退前の慈禧は、円明園の再建を目指し、自らの隠居所として、「身も心も癒す和ませる庭園」の意の「頤和園」造営に着手 ⇒ 今日では頤和園が、巨額の造営費を海軍予算から賄ったために日清戦争で大敗する原因を作ったとして、慈禧への激しい非難の根拠となっているが、中国史家の見方では実際はそれほどの費用は掛かっていないし、自らの宮廷費の倹約によって半分は負担していたのが事実
- 引退と解放 (1889~1894)89年 慈禧引退、91年 慈禧は完成した頤和園に転居、国家の意思決定の中心から物理的にも除外引退後は健康も回復し、様々な趣味に手を広げたが、政治に完全に無関心でいることは難しかった
- 日清戦争 (1894)70年代、日本が清国の従属国だった琉球を併合した際には無視した慈禧も、日本による自らの領土だった台湾の侵略は看過できず、また同じ従属国の朝鮮に日本が触手を伸ばすことへも強く抵抗するが、独力で日本を止める力はなかった84年の朝鮮を舞台とした日中衝突で中国が全面勝利して以降、慈禧は海軍の創設・増強に注力、海軍の近代化が一気に加速したが、慈禧の引退とともに停止94年 朝鮮での農民の暴動を契機に日中両国が派兵、暴動鎮圧後も日本は軍隊を増強し、朝鮮の占領から中国への侵攻までを視野に入れるが、光緒帝に危機感はなく、防衛を任されていた李鴻章には兵力増強の援助もないまま、中国史上初の近代戦争に巻き込まれる政権の中枢から隔離されていた慈禧に情報が入ったのは開戦必死の直前だったが、あくまで象徴の役割しか持たず平壌陥落の直前になって漸く光緒帝も慈禧に助けを求め、慈禧の指示で英国に仲介を依頼朝鮮を列強の保護に置くとともに日本に賠償金を支払うという条件だったが、日本軍は越境で応え、遼東半島の旅順に上陸して満洲全土を狙うその間にも慈禧の60歳の誕生日を祝う式典が行われ、列強を呆れさせる再び慈禧が紫禁城に戻って政務に関する情報が直接上がるようになったが、中国が敗北する運命はすでに定まっていた
- 中国を没落させた和平 (1895)95.4. 下関条約調印 ⇒ 台湾とその西の澎湖諸島、遼東半島を割譲、2億両の賠償金。台湾は中国に多大の財政的貢献をしていたし、賠償金の額も、過去に2回英仏に支払った戦争賠償金に比べて途方もない金額だったため、中国の知識層が激怒、中国史上にない大反対運動が起こる露独仏が遼東半島の割譲に干渉、日本が賠償金の30百万両上乗せで譲歩慈禧は、条約が清国を破滅させることを思い反対したが、先見の明と反抗心と勇気はあったものの、権限がなかった敗戦の責任も、百害あって一利なしの和平を結んだ責任も若い光緒帝にあるが、彼は力尽きた悲劇の英雄として半ば伝説化され、いずれの責任も慈禧にあるとする不当な非難が渦巻く ⇒ 中国の近代海軍を創設したのは慈禧だが、その海軍費を頤和園建設に使ってしまったとか、60の大寿に夢中で戦争など頭になかったとか、意気地なく融和策を進めたとか、いわれのない中傷が大半、本当の責任は若い帝に重い責任を負わせた政治体制にこそ問題があった。指導者となるべき強い男がおらず、代わりに強い女が一人いただけ
- 中国争奪戦 (1895~1898)終戦後、再び慈禧の頤和園での隠居生活が始まるが、皇太后の意に反して屈辱的な条約を結んだことが明解になるにつれ以前にも増して慈禧の発言権は強まっていった中国という国の大きさに敬意を払っていた列強がそれぞれの要求を強める中、特に日本からの脅威に対抗するためロシアに接近、李鴻章が交渉役に抜擢され、下関条約の汚名を雪ぐかのごとき活躍をし、ヨーロッパではナポレオンやビスマルクに比肩する評判を勝ち取ったものの、実際に実を取った成果はほとんどなく、帰国後は光緒帝からも慈禧からも疎んじられ失脚若い光緒帝は、敗戦の責任論に蓋をするのみで、敗戦から何も学ぼうとせず、子供じみたやり方で責任転嫁を図ったため、褒章と処罰を公平に使い分けた慈禧の権限復活待望論が台頭するが、かつての政治への関心の高さは見せず、遊興にふけっていた
- 表舞台へ (1898~1901)
- 戊戌(ぼじゅつ)の変法 (1898)列強の要求に屈した清国にとって、西洋を模した政治改革は必須となり、慈禧の指導の下光緒帝の名で出されたのが「戊戌の変法」 ⇒ 最優先事項は教育体系、初等から大学までの一貫した教育課程が編成され、北京大学も誕生「野狐」こと康有為の出現で変革は頓挫 ⇒ 因習を打破してのし上がってきた野心家。追従攻めで皇帝の懐にまで潜り込み、自ら孔子の再来を名乗って権力を奪取しようとしたため、皇帝のやり方に口出しを抑えていた慈禧もさすがに看過できず、野狐を皇帝から引き離そうとした
- 慈禧暗殺の筋書き (1898.9.)慈禧に邪魔された康有為は、皇帝を唆して皇帝の直接指揮する軍隊を持たせ、袁世凱を抜擢し慈禧暗殺を謀ろうとするが、袁世凱が事の重大さに愕然として、暗殺計画を慈禧に密告、その瞬間に袁世凱は慈禧の無条件の信頼を勝ち取り、驚異的な出世を約束される慈禧は直ちに動いて皇帝を幽閉、自ら皇帝の「後見」となることを発表慈禧は、皇帝が加担していたことが露見しないよう事件の全貌を隠し、関係者の処分のみを行ったため、康有為一派の主張だけが世に流布し、外国に逃亡した康有為は中国政治改革の英雄として認められイギリスや日本が保護に動き、国内でも自ら作り上げた嘘によって神話化され、その後長く「戊戌の6君子」とまで称えられた ⇒ 暗殺計画の真相が明らかになるのは1980年代になってから
- 光緒帝廃位に燃やした執念 (1898~1900)慈禧の光緒帝に対する恨みは収まらず、後継ぎのできないのを幸い、新たに養子をとって光緒帝の廃位に動く ⇒ 1900年1月指名を受けたのは咸豊帝の異母弟の息子の14歳になる子だったが、列強の公使たちは帝位継承者の指名を認めようとしなかった
- 世界を敵に回して――義和団と組む (1899~1900)1899年初頭尾、列強に後れを取ったイタリアが浙江省の海軍基地の委譲を要求、慈禧が断固拒否すると、イタリアも気圧されて要求を撤回唯一中国の領土を奪っていなかったアメリカは、82年に「中国人排斥法」を成立させ、中国人の誇りを傷つける ⇒ 1943年に廃止され、2012年米国下院が「遺憾」とする決議中国人の反欧米感情は、主に身近にいるキリスト教の布教団に向けられた ⇒ 旱魃で農民の苦しみが増す中、布教団は信者が雨乞いの儀式に参加することすら禁じ、農民のキリスト教に対する不満を倍加させた居留民と信者保護のため、列強は軍隊を使い、さらに対立を煽ることになり、1898年頃からそれに対抗する「正義と協和の挙の結社――義和団」が絶大な人気を博し、多くの民衆が入団 ⇒ 義和団が各地で宣教師を殺したり教会を破壊したりしたため、慈禧は暴動を禁じ抑制する対応をとり、併せて待望の大雪で義和団の勢力は次第に衰える一旦鎮静化しかけたものの、列強による撲滅要求に対し、義和団の暴挙が再発、遂に列強も公使館を守る為に軍隊を派遣 ⇒ 義和団を軍隊として利用すべしとの意見を受け入れて、慈禧も覚悟を決めて列強に立ち向かう決断をし、ドイツ公使が中国軍に殺害されたのを機に連合国8か国に対し宣戦布告
- 苦い戦果 (1900)慈禧は人心掌握が第一と考え義和団を皇軍に統合させようとしたが、義和団は各地で暴徒と化し、コントロールを各地の総督にまかせざるを得なくなり、総督は義和団を封じる一方、北京には列強の軍隊が侵入、慈禧は北京を脱出
- 都落ち (1900~1901)慈禧は、李鴻章を代表に立てて和平交渉を行い、光緒帝を復位させようという野望を抱いていた列強も、周囲の慈禧に対する驚くべき忠誠を見て諦める慈禧の受難を好機と捉えた中に、共和主義を唱えていた孫逸仙(孫文)もいた ⇒ 清朝打倒の使命感に燃え、95年広東で武装蜂起して失敗、ロンドンに逃亡したが勾留、南岸6省での共和主義国家建設を目指し、日本人の支持も得たが、日本が彼に与えたのはごく限られた断続的な支援だけだった慈禧は、西安に避難するが、中国の不動の支配者として君臨 ⇒ 慈禧には、庇護本能と恐怖を同時に掻き立てる――だが憎しみは抱かせない――才能があった。連合軍の首都占領により、却って皇太后の権威は強められ、新たな安心と自信を慈禧にもたらす
- 深い後悔 (1900~1901)エルギン卿が指揮を執った1860年とは打って変わって、連合軍による首都での掠奪は厳しく禁止され、紫禁城ほかに所蔵されていた貴重品は、連合軍によってかなり保全された義和団議定書では、領土の割譲は見送られ、法外な賠償金のみが確定、年間20百万両(15百万ドル)の39年賦、関税率引き上げで支払い原資を確保1901年 詔勅を発布、「欧米に学ぶ」姿勢を明確に打ち出す ⇒ インフラの整備に伴いゴミの山も道路から消えようとしていた欧米諸国も慈禧を指導者として認め、「ロシアのエカテリーナ2世、英国のエリザベスに並ぶ歴史上の偉大な女性支配者」と見做し始めた
- 近代中国の真の革命 (1901~1908)
- 北京への帰還 (1901~1902)1901.10. 西安を発ち、3か月かけて北京へ帰還1901.11. 李鴻章死去 ⇒ 「中国近代化推進の第一人者」とするのは少々過大評価
- 欧米人との友好 (1902~1907)慈禧が北京入りして最初に行ったのは、外国公使の謁見と、公使夫人を通じた友好関係の創出
- 慈禧の革命 (1902~1908)慈禧が死ぬまでの7年間を費やして実行した近代革命によって、国庫の歳入は倍増し、増収がさらなる近代化への投資を可能とした国民生活の向上と、中世的な残虐行為の廃絶を意図した抜本的にして進歩的、そして人道的な改革が実施され、慈禧の慎重な管理の下で、中国社会は血を流さずに思慮深く根本から転換を遂げる最初の革命的な詔勅は、清朝の歴史とともに始まる漢族と満洲族の結婚の禁令撤廃。同時に漢族の纏足の風習も廃止するが、そのやり方は強制よりも説得と促進が主近代的女性教育の導入と女性の差別解放科挙の廃止法体系の抜本的変革国営銀行の創設と、「銀元」を単位とする国内通貨の誕生北京・武漢鉄道の完成と、鉄道網の形成アヘンの国内生産と消費を10年以内に根絶する旨宣言官吏に礼式を遵守させることに関しては、自らの尊厳を維持するために厳格だった
- 投票! (1905~1908)最も抜本的な改革が、議院内閣制に基づく立憲君主国の設立で、欧米に見劣りしない全国的な選挙制度を導入 ⇒ 06年詔勅発布、08年憲法大綱公布。玉座の神聖が強調されてはいたが、国民の基本的人権他の諸権利は保障された08年選挙法が公布され、国会開設に向けた9年計画を立て具体的な準備に入る
- 叛徒、刺客、日本との水面下の戦い (1902~1908)漢族と満洲族の隔離政策を廃止したものの、慈禧自身も清朝を守ろうとして、満洲族の血統による玉座の継承を望み、他方近代化に目覚めた多くの漢族は満洲族による長年の圧政に不満を爆発させ、各地で武装蜂起が頻発した ⇒ その筆頭が孫文共和主義者がよく用いる戦術は暗殺で、慈禧も何度も暗殺の標的とされた日露戦争で勝った日本が、勢いに乗って韓国を併合、さらに光緒帝を傀儡にしようとして接近。それを防ぐためには慈禧としては、光緒帝の死を願うのみ
- 死 (1908)光緒帝は重篤な病に罹りつつも、逃げ出すことを試みる03年 駐インド英国軍がチベットに侵攻、宗主権を持ちダライ・ラマ13世を支援していた清朝が抗議して、ダライ・ラマによるチベット統治を実現させようとしていた08年夏から慈禧は下痢と高熱に悩まされ、自分が先に死んでしまうと、光緒帝に日本の手が伸びて清国の滅亡に繋がると考えた慈禧は、光緒帝をヒ素で殺してしまう帝位継承は、慈禧が目をかけて帝王学を授けた載澧(さいほう、咸豊帝の弟で慈禧の妹の夫の息子、慈禧の甥)を摂政とし、その息子溥儀を次期皇帝に指名指名の直後、慈禧もまた息絶える3年後、慈禧が懸念していた通り、四川省の鉄道の所有をめぐる騒動が引き金となって清王朝の打倒と共和主義国の建設を唱える叛乱が中国各地で起こる清朝の幕を引いたのは、光緒帝の正室・隆裕皇后 ⇒ 慈禧が遺言で、自分亡き後の国政は摂政が決定するが、有事に関しては皇太后(光緒帝の崩御に伴い皇太后の称号と帝位継承者の決定権を与えられていた)の命に従わなければならないとしており、最後は載澧が摂政を辞任、隆裕が5歳の幼帝・溥儀を退位させ、5族協和の立憲共和国に統治権を返すと宣言エピローグ 慈禧太后亡き後の中国慈禧の遺産の最大のものは、古い中国の近代化 ⇒ 臣民が「公民」となった歴代の指導者に比べて暴君ではなく、穏健な統治 ⇒ 自らの暗殺を謀議した人物以外に政治目的で殺されたのはごく限られた人数真の意味で慈禧の後継者である蒋介石は、第2次大戦で日本と戦い、南京国民政府が日本に蹂躙されたことが毛沢東政権の地ならしとなったが、その陰にあったのはスポンサー兼尊師のスターリン。大戦後民主主義国家への華々しい変貌を遂げた日本とは対照的に、中国は27年に亘る毛沢東の支配によって未曽有のどん底へ突き落され、平時にあって70百万を超す国民の命を飲みこんだ毛沢東の独裁は、76年の彼の死とともにその残虐行為に終止符が打たれるまで続いた。自分の失敗が国や民に損害を与えたことを公に詫びた慈禧とは違って、毛沢東の口から謝罪の言葉が発せられたことはない。慈禧の失敗による損害もそれはそれで深刻なものではあったが、毛沢東が国家に負わせたそれに比べたら何十分の1にも満たない1892年生まれ、慈禧政権下の中国で育ったパールハーバー・バックは、その後も中国に住み続け、50年代にこう言っている。「中国の人々は慈禧を愛していた。現体制に不満の人は心底彼女を怨んでいたが、農民や市井の人々は彼女を崇拝していた。慈禧が逝ったと知ると村人たちは怯えた。これからは誰が私たちを心配してくれるのか? そう言って彼等は泣いた。この言葉こそが支配者に下された最後の審判なのではないだろうか」この100年間、あまりに不当な非難が続いてきた。その原因は、彼女の正確な役割がほとんど知られてこなかったことにある。彼女を憎んだ人々は、彼女を愛した人々より雄弁だったに過ぎない圧倒的な実績、政治に注いだ真摯な熱意、勇気と度胸。どの点から見ても慈禧太后に匹敵する為政者はいまだかつていない。驚くべき女性政治家を称賛せずにはいられない西太后秘録(上・下)ユン・チアン著 推論交え中国近代化への功績を評価2015.4.5. 日本経済新聞清朝末期の半世紀にわたり中国に君臨した西太后(1835~1908年)の生涯を描く評伝である。彼女は、権力欲にかられて中国を衰退させた悪女か、傾きゆく王朝を支えた女傑か。21世紀の今日も評価は分かれる。西太后にまつわる噂話や二次史料は多いが、良質の一次史料は案外少ない。それゆえ、史料に即した客観叙述を身上とする歴史学者は、西太后の評伝を書くのを敬遠する。西太后の伝記を執筆するためには、中国社会の根底に流れるドロドロとしたものを理解する洞察力と、彼女の心情を忖度(そんたく)する作家的な推理力も必要となる。著者は中国共産党の高級幹部を両親にもつ女性ノンフィクション作家で、「文化大革命」で辛酸をなめたあと、海外に留学し、イギリス人の歴史学者と結婚。以来、ロンドンに住む。自身の家族史と現代中国の暗黒面を描いた『ワイルド・スワン』や、中国共産党史観とまっこうから対立する評伝『マオ 誰も知らなかった毛沢東』(『図書館06-06』参照)は、中国では今も禁書扱いだが、中国を除く世界各国で翻訳出版され、累計千数百万部のベストセラーとなった。西太后は、中国共産党史観では、自分の権力を維持するため中国の近代化をつぶした保守反動の悪人とされる。著者は、本書の副題「近代中国の創始者」が示すとおり、西太后にも欠点はあるものの「中国人には未知の、人道主義や公正や自由を中国に取り入れた」と称賛する。なぜ、これほど極端に評価が分かれるのか。どちらが説得力をもつか。それは本書を読んでのお楽しみである。「歴史探偵」を自称する著者は歴史学者ではない。本書でも、西太后が宦官(かんがん)の安徳海に恋していたとか、光緒帝の毒殺を命じたとか、一次史料を欠く小説的な記述が散見される。歴史学者なら諸説を併記するか、言及を避けるところだろう。一方、本書には特長も多い。まず、わかりやすいこと。原書は英語であり、中国史について予備知識のない外国人もすらすら読めるように書いてある。また、欧米人の目から見た清国や西太后についての記述が多い点も、斬新である。著者は、中国社会の明暗両面を肌身で知る中国人だが、言論の自由が保障された外国におり、しかも西太后と同じ女性である。なるほど、こういう見方もあるのか、と感心した箇所も多かった。賛否は分かれるかもしれないが、本書は中国人を理解するうえで有益な本である。原題=EMPRESS DOWAGER CIXI(川副智子訳、講談社・各1800円)▼著者は52年中国四川省生まれ。紅衛兵を経験後、78年英国留学。その後、同国で言語学の博士号を取得。《評》明治大学教授 加藤 徹朝日 2015.4.12.■「悪役」の像崩し、人間性浮き彫り
20世紀初頭までの中国の歴史のなかで、女性が皇帝となったのは武則天(則天武后)しかいない。だが、19世紀から20世紀にかけての清末の時代、事実上の皇帝の座に40年近くも君臨し続けた一人の女性がいた。慈禧太后(じきたいこう)、すなわち西太后である。
従来の評価では、西太后は「悪役」とされてきた。明治維新以来急激な近代化を進めた同時代の日本とは対照的に、離宮である頤和園(いわえん)再建のため巨額の予算を流用して日清戦争の敗北を招いたばかりか、光緒帝(こうしょてい)の支持のもと、康有為(こうゆうい)や梁啓超(りょうけいちょう)により進められた政治改革「戊戌(ぼじゅつ)の変法」も挫折させた。しかし本書によれば、西太后の頑迷なイメージは、彼女の死後に中国を共和制にした勢力によって作り出された虚像にすぎない。「戊戌の変法」を提言したのは西太后であり、晩年には立憲君主制を導入するなど「中華」の伝統から決別しようとしていた。この点では彼女こそが、近代中国の創始者にほかならないというのだ。
中国、台湾、欧米での史料収集や膨大な参考文献に基づく学説のフォローなど、著者が本書に傾けた精力を否定するつもりはない。だが本書には、これまで「クロ」とされてきた人物を「シロ」に覆そうとするエネルギーが、いささか過剰なように感じられる。例えば、著者は「戊戌の変法」を指導したとされる康有為を、「野狐(のぎつね)」と呼んではばからない。さらにエピローグでは、唐突に毛沢東が言及され、西太后の失敗による損害は「毛沢東が国家に負わせたそれに比べたら何十分の一にも満たない」と断言される。最後にこうした文章を読まされると、本書を書いた真の目的はどこにあったのかという疑念すら湧いてくる。
本書が解明した西太后の人物像は、決して近代中国の創始者に収斂(しゅうれん)されるわけではない。その人物像は、近代日本の皇后や皇太后と比べてみると、実に興味深い。日清戦争では朝廷でただ一人戦争の継続にこだわり、義和団の乱でも奇跡を信じて連合軍に宣戦布告した。これは太平洋戦争における皇太后節子(さだこ)(貞明皇后)の態度に似ていなくもない。光緒帝を幽閉することで皇帝が祭祀(さいし)を行う天壇に行けなくなり、天の怒りを買うのを恐れていたところも、祭祀に執着した節子を彷彿(ほうふつ)とさせる。
西太后は近代化を進めても、自らの前で官吏を跪(ひざまず)かせる礼式を変えるつもりはなかった。運転手が跪かず、座ったままの自動車に乗らなかったのはこのためである。日本の皇室に比べれば、しきたりの壁はあまりに厚かった。本書の面白さは、著者自身の意図に反して、西太后の生身の人間性を浮き彫りにした個々の文章にこそ求められるべきだろう。
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川副智子訳、講談社・各1944円/張戎(Jung Chang) 52年、中国四川省生まれ。紅衛兵を経験後、農村に下放。鋳造工などを経て四川大の講師に。78年に英国・ヨーク大へ留学。著書『ワイルド・スワン』、共著『マオ 誰も知らなかった毛沢東』など。Wikipedia
西太后(せいたいこう・せいたいごう、道光15年10月10日(1835年11月29日) - 光緒34年10月22日(1908年11月15日))は、清の咸豊帝の妃で、同治帝の母。清末期の権力者。満州・旗人(鑲藍旗人)の葉赫那拉(エホナラ、イェヘ=ナラ)氏の出身。慈禧太后(じきたいこう)。老仏爺(ラオフオイエ) 。
中国語では「慈禧太后(Cixi Taihou ツーシー・タイホウ)」ないし「那拉皇太后」、「西太后(Xi Taihou シータイホウ)」。英語では「Empress Dowager(皇太后)」という呼称がよく使われる。幼名は蘭児。
紫禁城内における2人の皇太后の住む場所によって東太后(皇后・鈕祜禄(ニウフル)氏。慈安皇太后、母后皇太后)、西太后(第2夫人。慈禧皇太后、聖母皇太后)と区別して呼ばれた。徽号と合わせた諡号は孝欽慈禧端佑康頤昭豫荘誠寿恭欽献崇煕配天興聖顕皇后。
西太后の名前について[編集]
「西太后」とはもともと咸豊帝の正室であった「東太后」(慈安皇太后)と対になる名称である。皇帝との間に男子を産んだ西太后に対し、東太后は皇帝の正室となったが男子(世継ぎ)を産むことがかなわなかった。それでも儒教の論理や明の洪武帝の祖法のしきたりにより東太后は次期皇帝の嫡母となることが決められており、西太后自身は生涯において皇后になることは出来なかった。咸豊帝崩御に伴い同治帝が即位すると、皇后は皇太后として「東太后」となり、同治帝を産んだ生母も皇太后となり「西太后」と呼ばれるようになったのである。
宮中に入る以前の姓は葉赫那拉で、幼名は「蘭児」。数え18歳で後宮に入ると「蘭貴人」となり、のちに徽号を「懿」に変えた。昇進するにつれ懿貴人から懿嬪、そして男子誕生により皇貴妃(後宮のナンバー2の立場)となったため「懿貴妃」となった。咸豊帝崩御後は「慈禧皇太后」となったが、当時のしきたりではめでたいことや吉兆があるたびに二文字追加されるため、息子(同治帝)の結婚により「端佑」が追加され「慈禧端佑皇太后」となり、同治帝の親政開始で「康頤」が加えられ、その後も吉事の度に二文字ずつ追加されて最終的な諡号は「孝欽慈禧端佑康頤昭豫荘誠寿恭欽献崇煕配天興聖顕皇后」となった。
近年西太后の弟桂祥の曾孫を名乗る那根正が『我所知道的慈禧皇太后』(中国書店、2007年)で西太后の本名は杏貞、隆裕太后の本名は静芬であるという説を提唱してから広まったが、那根正の語る話には矛盾が多く、信憑性には疑問が残る。
- 那根正は『我所知道的末代皇后隆裕』(中国書店、2008年)で桂祥の没年について1928年としているが(63頁)、実際には桂祥は娘の隆裕太后が死去した同年の1913年12月に死去しており、史実と一致しない。『宣統年交旨档』(全国図書館文献縮微複製中心、2004年)宣統五年十一月十八日(1913年12月15日)諭旨によると、(419頁)、死去した桂祥のために清室から五千両が下賜され、長子徳恒を頭等侍衛、乾清門行走とし、次子徳祺を侍衛として用いたとある。
生涯[編集]
后への選抜と皇子出産[編集]
西太后の出生地は不明で、安徽省蕪湖説、内モンゴルのフフホト説、山西省長治説など諸説があるが、近年の学界では北京出生説が有力とされる。西太后の父親だった恵徴は、清朝の中堅官僚で、最終官職は安徽寧池太広道の「道員」だった。恵徴は1853年、安徽省の赴任先で太平天国の乱に巻き込まれ、その心労により同年六月三日(7月8日)に鎮江で病死した。
1852年、数え17歳のとき、3年ごとに紫禁城で行われる后妃選定面接試験「選秀女」を受けて合格。翌年の五月九日(6月26日)、18歳で咸豊帝の後宮に入って「蘭貴人」となった。後に「蘭」から「懿」に徽号を変えており、貴人から懿嬪に進んだ。ちなみに皇后は、咸豊帝の皇子時代から仕えていた鈕祜禄氏(のちの東太后)であった。1856年、咸豊帝の長男(愛新覚羅載淳。咸豊帝の唯一の男子)を生み、その功績により、懿貴妃に昇進した[2]。
政権掌握[編集]
アロー戦争により熱河に逃れた咸豊帝は1861年に崩御した。咸豊帝死後の政治の実権をめぐり、載淳の生母である懿貴妃と咸豊帝の遺命を受け載淳の後見となった8人の「顧命大臣」載垣、端華、粛順らは激しく争った。
懿貴妃は皇后鈕祜禄氏と咸豊帝の弟で当時北京で外国との折衝に当たっていた恭親王奕訢を味方に引き入れた。そして咸豊帝の棺を熱河から北京へ運ぶ途上でクーデターを発動し載垣、端華、粛順らを処刑(辛酉政変:1861年)し権力を掌握した。
北京帰還後載淳は同治帝として即位し、皇后鈕祜禄氏は慈安皇太后、懿貴妃は慈禧皇太后となったが、慈安太后は紫禁城の東の宮殿に住んだため東太后、慈禧太后は西の宮殿に住んだため西太后と呼ばれた。当初は東太后と西太后が同治帝の後見として垂簾聴政を行い、恭親王が議政王大臣として政治を補佐するという三頭政治であったが、東太后は政治に関心がなく、実質的には西太后と恭親王の二頭政治であった。
1874年同治帝は大婚[3]を機に親政を行おうとしたが若くして崩御した。この時代にも、西太后はそりの合わない皇后(嘉順皇后、後に幽閉され死亡した)と皇帝を無理矢理離間する等、依然として権力を握っていた。
同治帝の死因は天然痘、梅毒のいずれか解明されていないが、一説に同治帝は天橋の売春宿へ通うようになり、そこで感染したという説がある。現代中国では天然痘か梅毒か、学者の間でも意見が分かれているが、日本では天然痘によるものであるとされている。
同治帝は子供を残さずに死去したため、後継問題が持ち上がった。通常、皇位継承は同世代間では行わないことになっている。この場合名前に「載」の字がある世代は、皇帝候補者とはなり得ない。しかし、自身の権力低下を恐れた西太后は、その通例を破り、他の皇帝候補者よりも血縁の近い妹の子(父は醇親王奕譞)載湉(さいてん)を光緒帝として即位させた。そして再度東太后と共に垂簾聴政を行い、権力の中枢に居続けた。
1881年、45歳の東太后が突然死去した。公式発表は病死であった。民間はもとより清朝高官にも公然と懐疑を表した者は多いが、脳卒中と考えられている。また1884年、清仏戦争敗北の事後処理に際し、開戦に危惧を表明していた宗室の実力者恭親王奕訢へ責任を被せ、失脚させた。
東太后の死去と恭親王の失脚により、西太后は清朝において絶対的な地位を確立した。1887年光緒帝の成年に伴い、3年間の「訓政」という形で政治の後見を行う事を条件に、光緒帝の親政が始まる。1888年には自身の姪を光緒帝の皇后(のちの隆裕皇太后)に推挙している。
日清戦争以後[編集]
同治、光緒両帝の在位期間、西太后は宮廷内政治に手腕を発揮する一方、表の政治においては洋務運動を推進する曽国藩、李鴻章、左宗棠、張之洞ら洋務派官僚を登用した。洋務運動がある程度の成果を上げて清朝の威信が回復した期間は同治中興と呼ばれる。
しかし洋務運動は1895年の日清戦争により挫折する。清朝の敗北は北洋艦隊の予算不足により、艦船は整備されたものの操練が遅れていたことが主要因とされている。北洋艦隊の予算の不足については、1885年から始まった頤和園の再建と拡張に伴う予算が不足気味となったため、予算を内務府へ数百万両ほど流用した[4][5]事や西太后の大寿(60歳)を祝う祭典で多額の出費[6][7]をした事が影響している。なお、北洋艦隊の予算不足の原因については、満洲周辺におけるロシアの脅威に備えるために陸軍に経費を充当した可能性や、海軍費を広東水師(海軍)の増強の方に充てた点が指摘されている。[8]。
日清戦争の敗戦と光緒帝の実質的な親政開始に伴い西太后は政治から身を引くことを表明したが、朝廷への上奏のうち重要印がある物は総て西太后の元へも回され、また光緒帝の発言や動向を宦官に報告させ、重要施策についての懿旨を単独で出すなど依然として権力を持っていた。[9]
変法自強運動と戊戌の政変[編集]
日清戦争の敗北後の光緒21年(1895)、技術的な改革にすぎない洋務運動ではなく、体制的な改革を推進する変法運動が起きた。変法派に共感する光緒帝は明治維新に倣って政治・行政制度の改革を目指した変法派の康有為・梁啓超らを登用して、1898年に体制の抜本改革を宣言した。これを戊戌の変法(別名戊戌維新、変法自強運動、百日維新)という。
西太后は当初改革を見守る姿勢をとっていた。しかし、急速かつ急進的な改革に対して親貴や軍機大臣を含めた守旧派高官や[10]改革派を含む官僚層の間に不満が高まっていった。[11]多くの官僚・士大夫は康有為の孔子改制説などに賛同せず、馮桂芬や張之洞のより穏健な改革論を支持した。変法運動は支持基盤があまりなく、広い支持を得ることはできなかった。[12]もともと張之洞と康有為は西洋文明の精神は中国古典のなかに示されているという附会論者であり、「中学は体であり、西学は用である」という中体西用論をとっており、康有為の思想は洋務派の思想と大差はなかった。[13]だが、康有為の孔子改制論や孔教国教化運動は当時の知識人からは「異端邪説」と見られ、守旧派や穏健改革派のみならず光緒帝の側近である帝党派大官の翁同龢、孫家鼐や変法派内部[14]からでさえも反発を受ける結果となった。[15]
西太后の再々度の訓政を願う機運が醸成されると、西太后は寵臣の栄禄を直隷総督兼北洋大臣に任命して首都近郊の軍と北洋軍を統括させ、光緒帝側もこれに対抗して改革に好意的な袁世凱を候補侍郎に抜擢して新建陸軍の練兵事務に当たらせた。西太后はクーデターを計画していたが、変法派も軍権を握る栄禄を殺害して西太后のいる頤和園を軍隊で包囲するクーデター計画を立て、譚嗣同は袁世凱を訪ね計画に参加するように持ち掛けた。袁世凱は栄禄と面会した際、西太后派のクーデター情報を知ると、変法派によるクーデター計画が既に露見していると思い、保身のため栄禄に変法派の計画の詳細を密告した[16][17][18]。西太后は宮中に乗り込み無血クーデターにより政権を掌握し、変法派の主要メンバーを処刑、さらに光緒帝を拘束して中南海の瀛台(エイダイ)に幽閉し、三度目の垂簾聴政を開始した(戊戌の政変)。この結果、康有為や梁啓超といったリーダー格は日本へ亡命したが、康有為の弟や譚嗣同を含む6人が処刑された。彼らを「戊戌六君子」という。わずか3か月あまりで西太后は権力の座に返り咲いたことになる。 西太后は権力の座に返り咲くと、光緒帝を廃立すべく、端郡王載漪(さいい)の子溥儁(ふしゅん)を大阿哥に擁立した(己亥の建儲)[19]。ただ光緒帝の廃立は諸外国の反対により実行できず、西太后の意のままにはならなかった。清朝内部においては並ぶものなき権力者でありながらも、列強国には譲歩せねばならないことが多く、彼女は憤懣を蓄積させていった。これが後の義和団支持へとつながっていくことになる。
新説[編集]
台湾の学者・雷家聖の説[20]では、戊戌変法の間、日本の前首相・伊藤博文が中国を訪問していた。当時、在華宣教師・李提摩太(ティモシー・リチャード Timothy Richard)は、伊藤を清の顧問にして権限を与えるように変法派リーダーの康有為にアドバイスしていた。[21]そこで、伊藤が到着後、変法派の官吏は彼を重用するよう上奏した。そのため、保守派官吏の警戒を招き、楊崇伊は「日本の前首相伊藤博文は権限を恣にする者であり、彼を重用するのは、祖先から継承した天下を拱手の礼して人に譲るようなものだ」と西太后に進言した[22][23]。西太后は9月19日(旧暦八月四日)に頤和園から紫禁城に入り、光緒帝が伊藤をどう思っているかを問い質そうとした。
伊藤は李提摩太と共に「中、米、英、日の“合邦”」を康有為に提案すると、それを受け変法派官吏の楊深秀は9月20日(八月五日)に光緒皇帝へ上奏、「臣は請う:我が皇帝が早く大計を決め、英米日の三ヵ国と固く結びつき、“合邦”という名の醜状を嫌う勿かれ」。[24]もう一人の変法派官吏の宋伯魯も9月21日(八月六日)に次のように上奏した。「李提摩太が来訪の目的は、中、日、米および英と連合し“合邦”することにあり。時代の情勢を良く知り、各国の歴史に詳しい人材を百人ずつ選び、四カ国の軍政税務およびすべての外交関係などを司らせる。また、兵を訓練し、外国の侵犯に抵抗する。……皇帝に速やかに外務に通じ著名な重臣を選抜するよう請う。例えば、大学士・李鴻章をして李提摩太と伊藤博文に面会させ、方法を相談し講じさす」。[25]あたかも中国の軍事、税務、外交の国家権限に外国人を参画させる内容である。西太后は9月19日(八月四日)に紫禁城へ戻り20-21日に報告を受けると、クーデターにより復権を果たし、変法自強運動を鎮圧した。
この新たな研究に対しても反論が出されるなど、戊戌変法をめぐる西太后の評価については論争中である。しかし、これまでの戊戌変法の解釈・評価と関与した人物への評価について、更なる研究の必要性を求めることとなった。
義和団の乱とその後[編集]
1900年に義和団の乱が発生。義和団は「扶清滅洋」を標語に掲げ、当初国内にいる外国人やキリスト教徒を次々と襲った。清朝内には義和団を支持し、この機会に一気に諸外国の干渉を排除しようとする主戦派と、義和団を暴徒と見做し、外国との衝突を避ける為討伐すべきという和平派が激しく対立した。義和団は勢力が拡大するに連れ暴徒化、無差別な略奪を繰り返すようになるが、清朝内部では次第に主戦派が優勢となり野放しとなった。ついにはドイツ公使や日本公使館員が殺害されるという事態になり、諸外国は居留民保護のため連合軍を派遣。当初義和団を優勢と見た西太后は主戦派の意見に賛同し、諸外国に対して「宣戦布告」した。西太后はこのとき「中国の積弱はすでに極まり。恃むところはただ人心のみ」と述べたという[26]。しかし、八ヶ国連合軍が北京へ迫ると、西太后は側近を伴い北京を脱出、西安まで落ち延びた。この際、光緒帝が寵愛していた珍妃を紫禁城内の井戸へ投げ捨てるよう命じた。
義和団の乱の処理を命じられた李鴻章と慶親王奕劻は、諸外国に多額の賠償金と北京への外国軍隊駐留を認める代わりに、清朝の責任は事件の直接首謀者のみの処罰ですませ、西太后の責任が追及されないようにした。そのため西太后は1902年に北京に帰還し、これまで通り政治の実権を握り続けることができた。
義和団の乱終結以後、遅まきながら民衆・知識人の間に起こる政治改革機運の高まりを察知した西太后は、かつて自らが失敗させた戊戌変法を基本に、諸所の配慮(中央に於ける立法権の未付与、責任内閣制の阻止)を加えた、いわゆる「光緒新政」を開始した。1905年には5人の大臣を日本と欧米に派遣し政治制度を視察させたが、李鴻章ら五大臣の奏摺した「中央の上級官吏を政務にも参与させ議院の基礎とする旨、また地方の名望家を政務に参与させ地方自治の基礎とする旨、責任内閣制の準備及び冗官整理を含めた新官制、併せて立憲の準備とする旨」の奏摺を保留、1906年に官制の変更(冗官の廃止統合と地方官制の追認)と9年後の立憲制への移行を宣言する「預備立憲」上諭を下した。
1908年光緒帝が崩御した翌日、西太后も72歳で崩御した。西太后は死の前に溥儀を宣統帝として擁立し、溥儀の父醇親王を摂政王に任命して政治の実権を委ねた。しかし、西太后の死からわずか3年あまりで清朝は辛亥革命によって倒されてしまう。
光緒帝毒殺[編集]
2003年から2008年に掛けて行われた法医学者などによる遺体の科学分析の結果、遺体の頭髪から経口致死量を上回る残留砒素(推定投与量ではなく残留砒素が致死量を超過)が検出され、国家清史委員会は光緒帝が毒殺されたと結論づけた。
光緒帝のカルテ(病案)は1000件を超えているが、時期の解る記録のうち1898年9月の戊戌政変以前は76件で、900件前後は瀛台幽閉以後に集中している。また、光緒帝崩御前年の1907年7-8月、新御医に力釣が就き一人で診ていた期間は10年の中で唯一快方していた記録が見られる、9月以降に他の御医が光緒帝へ関わり始めると容態は元へ戻り、力釣も数ヶ月でお役御免となっている。
誰が光緒帝を殺害したかについては様々な議論があるが、決定的な証拠は無く不明のままである。西太后殺害説、袁世凱殺害説、李蓮英殺害説、崔玉貴殺害説などがあるが、中国第一歴史档案館編研部主任の李国栄氏によると、西太后、袁世凱、李蓮英のいずれにも可能性があるという[27]。
西太后犯人説をとる『崇陵伝信録』では、死期が近づいた西太后が光緒帝が自分よりも長生きしないように毒殺したとしている[28][29]。李蓮英犯人説をとる徳齢の『瀛台泣血記』では西太后の威を借りて横暴を極めた宦官の李蓮英が報復を受けることを恐れて毒殺したとしている。袁世凱犯人説をとる溥儀の『わが半生』では、戊戌政変で光緒帝を裏切った袁世凱が光緒帝が復権して報復を受けることを恐れて毒殺したとしている[30]諸説いずれも決定的な証拠は無いため、犯人は特定されていない。
西太后に関する俗説[編集]
西太后については、民間に多くの逸話が伝えられている。たとえば、
- 西太后は、下級官吏の貧しい家に生まれ育った。
上に挙げた例は根拠のない流説であると判明している。(加藤徹『西太后』中公新書2005年を参照のこと)
宮中の西太后[編集]
西太后が嫉妬深いというのは俗説であり、かつてのライバルであった咸豊帝の側室たちは危害を加えられることなく後宮で生活している。前述の麗妃は咸豊帝の唯一の娘栄安固倫公主を生んだ後、咸豊帝の没後も後宮で静かな余生を送っている。同治、光緒朝には麗皇貴妃、麗皇貴太妃に加封され、1890年に54歳で死去した。荘静皇貴妃と諡号され、清東陵にある咸豊帝の定陵の妃園寝(側室達の墓)に葬られている。なお栄安固倫公主は咸豊帝の唯一の娘として東太后と西太后にかわいがられ、妃の生んだ娘であるが皇后の娘に与えられる固倫公主を授けられている。また、東太后と西太后は恭親王奕訢の娘を養女として宮中で育て栄寿固倫公主とした。
一方で西太后は権力への執着が強く、同治帝が西太后の推す慧妃ではなく東太后の推した阿鲁特氏を皇后とした事を忘れず同治帝の崩御後に阿鲁特氏を死亡させ、また光緒帝に親政を促した寵姫の珍妃を殺害させるなど、自分を脅かす可能性のある人物を排除している。
注[編集]
- ^ 光緒17年2月16日付、総理海軍事務・奕劻の奏文中に、毎年30万両を流用している「頤和園自開工以来、毎歳暫由海軍経費内騰挪三十万両、抜給工程処応用。」という一文がある。王道成「颐和园重建之谜」『历史档案2007年第3期』p129-130
- ^ また頤和園への流用によって海軍衙門の経費が不足したため、260万両の借銀(海軍巨款)を各地から徴収し李鴻章の直隷からも20万両が供出されており、この分からも一部が頤和園建設へ回されている。王道成「颐和园重建之谜」『历史档案2007年第3期』p130-131
- ^ 日清戦争に注ぎ込まれた費用250万両に対して、西太后の60歳の慶典には各衙門合わせて541万6000両が費やされ、頤和園の拡張には約500~1000万両が費やされたと推定されている。李嵐、『光緒王朝』、中国青年出版社、〈清宫档案证史书系11〉、p133-136
- ^ 「清が圧倒的優位であったはずが、なぜ日清戦争では日本海軍が優位になったのか。この点についてはさまざまな説明がある。典型的な説明は、北洋艦隊の予算の大部分を西太后が頤和園の造営費に充当したため、新造艦の購入、艦船の補修などができなかったというものである。この説明は一見わかりやすいが、真偽のほどは不明だ。一八九〇年代前半の海軍預算の不足については、満洲周辺におけるロシアの脅威に備えるために陸軍に経費を充当した可能性や、海軍費を広東水師(海軍)の増強に充てていた点も重要だ。この広東水師の新造艦船もまた日清戦争に参加して日本海軍に撃沈されている」川島真(東京大学総合文化研究科国際社会科学専攻准教授)『近代国家への模索1894-1925』6-7頁、シリーズ中国近代史②、岩波新書、2010年
- ^ 「…多くの官僚・士大夫も、康有為の唱える孔子改制の説など経学上の新奇な意見には全く賛成できなかった。このころ、より穏健な改革論として、先にみた馮桂芬『校邠盧抗議』や、張之洞『勧学篇』が朝廷の命で印刷・普及されたのは、康有為の学説についていけない人々の存在を暗示している。結局のところ、この戊戌の年の変法運動は、光緒帝を後ろ盾とするだけで、支持基盤があまりなかったというほかない。」吉澤誠一郎(東京大学大学院人文社会系研究科・文学部准教授)『清朝と近代世界19世紀』219頁、シリーズ中国近代史①、岩波新書、2010年
- ^ 「…康有為も戊戌奏議の中で、科挙制度の改革に触れて次のように語っている。「中学は体であり、西学は用である。体がなければ立たず、用がなければ行われない。二者はあい需(ま)ち、一を欠くも不可なり。」これは、張之洞が周知の『勧学篇』の設学で述べた「旧学を体となし、新学を用となし偏廃せしめず」と寸分違わぬ表現である。もし『勧学篇』のこの語をもって張之洞を中体西用論者と目するのであれば、同じ理由で康有為も中体西用論者と見なされるべきであろう。二人の中学/西学または旧学/新学に対するスタンスは、形式的に見て驚くほど近接している。…前述したように康有為の中学に対する基本的立場は、経書の精義に西洋「政教」の原型が提示されているというものであった。この点において康の議論は洋務的附会論者と大差はない」村田雄二郎(東京大学総合文化研究科教授)「第十章康有為と「東学」―『日本書目志』をめぐって」、村田雄二郎、孔祥吉『清末中国と日本―宮廷・変法・革命』288-289頁2011年8月、研文出版
- ^ 両者(康有為と張之洞)の決定的な差違は、経書から読み取るべき「精義」をどのように解釈するか、という点にこそあった。いうまでもなく。康有為においてそれは『春秋』に込められた微言大義であり、孔子の託古改制の教えであり、また三世進化の理論であった。周知のように日清戦争前から萌芽を見せていたこの孔子改制説に最も鋭く反発したのは張之洞であった。清末中国において初めて体系的な中体西用論を開示したとされるその『勧学篇』(一八九八年)が、ほかならぬ『孔子改制考』の刊行直後に著されていることはきわめて重要な意味をもつ。…彼(張之洞)が最も懸念していたのは、康党による尊孔保教や保種合群(学会活動)の高まりであった。張之洞の眼に、それらはすでに保国という大前提を逸脱しかねないものとして映っていた。康有為らの保教・保種運動が保国会の結成というかたちをとって突出しようとしていたとき、彼はどうしてもこれに反駁せずにはおれなかったのである。とくに彼が畏れていたのは、保教運動を支える託古改制なる「異端邪説」が士人の間に浸透することであった。実のところ『勧学篇』は『孔子改制考』への理論的反駁の書にほかならなかった。…附会説に戻っていえば、康有為は他の誰よりも西学の中国古典への附会を徹底させたといえるだろう。『日本書目志』按語にも示されるとおり、彼は「中学即西学」といった論理を展開していたのであり、西学はそのまま中学に連続しうるものと理解されていた。ここで興味深いのは、彼の変法論が従来の洋務論を超えて附会説を徹底化させてゆくことで、現実における政治改革の主張が一層ラジカルになっていったという逆説である。これは古今の復古イデオロギーが例外なく抱えるイロニーというべきであろうが、張之洞らの穏健改革派が終始警戒し反発したのも実にこの点にあった。康有為の幾多の新政建議の中で、中央官界に大きな衝撃をもたらしたものが二つある。一つは制度局の開設であり、一つは孔教の国教化であった。周知のように、前者は「祖宗の法は変えるべからず」とする守旧派からの徹底的な抵抗に遭い、新政の挫折をもたらす直接の原因となった。また後者の主張も、実際には変法派内部ですらほとんど支持を得られぬまま、「保教」のスローガンだけが空転を続けることとなる。彼の孔子改制説がそれまで新政に比較的同情的だった帝党派大官(翁同龢や孫家鼐ら)の離反を招く原因となったことはよく知られている。光緒二十四年五月には「厳禁悖書」を上奏した孫家鼐と歩調を合わせるようにして、湖南巡撫陳宝箴(湖南における変法運動のパトロン的存在であった)までもが『孔子改制考』の焼却を願い出ている。康有為の孔子改制説がいかに矯激な政治的主張として受けとめられたか想像に難くない。限度つきとはいえ、光緒帝の新政に一定の承認を与えていた西太后が、結局クーデターによって百日維新を葬り去ったのは、孔教国教化の主張と結びついた制度改革の「危険性」を敏感に察知していたからにちがいない。村田雄二郎、孔祥吉『清末中国と日本―宮廷・変法・革命』289-291頁。
- ^ 戴逸(中国人民大学清史研究所所長)によると、袁世凱は西太后がクーデターにより訓政再開を画策している事を知ると、変法派のクーデター計画が露見していると思い、保身のため栄禄に変法派のクーデター計画の詳細を密告した。それにより多くの変法派の逮捕と処刑を招き(当初逮捕令が出ていたのは康有為と弟の康広仁のみだったが、袁の密告後に譚嗣同などいわゆる戊戌六君子が逮捕されることになる)、結果的に袁世凱は変法派を裏切っている。袁世凱は変法派を密告した功績により栄禄の信任を得て、栄禄の入京後に署理直隷総督に任じられ、新建陸軍の費用として4000両を与えられるなど、栄禄に重用された。戴逸「戊戌変法中袁世凱告密真相」『江淮文史』2010年6期
- ^ また、栄禄がその時点で西太后のクーデター決行と訓政開始の腹積もりを知っていた事と袁世凱が変法派のクーデター計画を密告する様子は、陳夔龍『夢蕉亭雑記』(巻二)にも記されている。「八月初三、袁深知朝局将変、惘惘回津。文忠(栄禄)佯作不知、迨其来謁、但言他事、絶不詢及朝政。袁請屏退左右、跪而言曰・・・袁知事不諧、乃大哭失声、長跪不起。文忠曰:“君休矣,明日再談。”因夤夜乗火車入京,晤庆邸,請見慈聖,均各愕然。越日,奉朱论以朕躬多病,恭請太后訓政,時局为之一変。首诏文忠入辅。慈聖以袁君存心叵測,欲置之重典。」
- ^ 近年発見された譚嗣同の友人畢永年が残した『詭謀直紀』には、変法派が栄禄を殺害し、西太后のいる頤和園を軍隊で包囲する計画が書かれており、変法派によるクーデター計画があったことは間違いない。戴逸「戊戌変法中袁世凱告密真相」『江淮文史』2010年6期
- ^ 雷家聖の学術的な研究成果は、「戊戌変法時期的借才、合邦之議:戊戌政変原因新探」(『歴史月刊』181期,台北:歴史月刊社,2003)、『力挽狂瀾:戊戌政変新探』(台北:萬卷楼,2004)、「書評:茅海建戊戌変法史事考」(『漢学研究』23卷2期,台北:国家図書館漢学研究センター,2005)、「失落的真相:晚清戊戌変法時期的合邦論與戊戌政変的関係」(『中国史研究』61,大韓民国:中国史学会,2009)などがある
- ^ 宋伯魯「掌山東道監察御史宋伯魯摺」,『戊戌変法檔案史料』,北京中華書局,1959,p.170.「渠(李提摩太)之來也,擬聯合中國、日本、美國及英國為合邦,共選通達時務、曉暢各國掌故者百人,專理四國兵政稅則及一切外交等事,別練兵若干營,以資禦侮。…今擬請皇上速簡通達外務、名震地球之重臣,如大學士李鴻章者,往見該教士李提摩太及日相伊藤博文,與之商酌辦法。」
- ^ 溥儀は、当時宮廷に仕えていた李長安という宦官から「光緒帝は前日まではぴんぴんしていたというが、薬を一服飲んだとたんにいけなくなったと」と聞いたという。そして、後にその薬は袁世凱から贈られたものと知ったとしている。また溥儀は、西太后が幼い溥儀を皇位につけたのは、幼い皇帝のもとで自分が引き続き政治を行うつもりだったからであり、「(西太后は光緒帝の死亡時に)自分の病状が再起不能なほど重篤だとは考えていなかった」はずだとして、自分の死期を悟り光緒帝を毒殺したという説を否定している。愛新覚羅溥儀著、小野忍、野原四朗監修、新島淳良、丸山昇訳『わが半生』上巻、大安出版、1965年、20頁。
西太后を題材にした諸作品[編集]
小説
- 『Empress Orchid』 Anchee Min著 Bloomsbury Publishing PLC (2005)
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戯曲
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映画
- 『慈禧西太后』(1940年、演:譚蘭卿)
- 『西太后與珍妃』(1964年、演:李湄)
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ドラマ
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舞台
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