現代の建築家  井上章一  2015.8.7.


2015.8.7. 現代の建築家 



著者 井上章一 1955年京都府生まれ。京大工・建築学科卒。同大人文研助手を経て、現在、国際日本文化センター教授



発行日           2014.11.25. 発行

発行所          エーディーエー・エディタ・トーキョー



初出 GA JAPAN 110129 2011.5.2014.7.(隔月刊)



ささやかな前口上

ヨーロッパの古い年には、歴史的な建造物が立ち並ぶ。そうしたところで、いわゆるモダニズムの建造物に出くわすと、押しなべて貧相に見える。コルビュジエとてその例外ではない。それ故、彼は、途中から白く軽やかな見てくれを捨て、内外装を打ち放しのコンクリートで荒っぽく仕上げるようになり、よりダークで重々しい構えを打ち出す建築家になったのではないかと想像する

日本の現代建築を振り返り、いま建築家たちがどこに向かおうとしているのかを考える。そんな文章を、古い建築にもこだわりつつ書いていくつもり



年代順

  • 妻木頼黄(よりなか)(18591916) ~ NYの設計事務所に、大蔵省技師
  • 長野宇平治(18671937) ~ 日銀技師、銀行建築
  • 伊東忠太(18671954) ~ 工科大、辰野の弟子、長野と同期
  • 武田五一(18721938) ~ 帝大、茶室建築
  • 松室重光(18731937) ~ 帝大(武田と同期)、古社寺保存
  • 渡辺仁(18871973) ~ 日本趣味建築、ファッショに阿った建築家
  • 村野藤吾(18911984) ~ 建築の経済面に通暁、商品価値を高める
  • 吉田五十八(18941974) ~ 太田胃酸の家、京風数寄屋を東京に
  • 吉田鉄郎(18941956) ~ 逓信省技師
  • 堀口捨巳(18951984) ~ 分離派建築会、茶室建築、数寄屋造
  • 坂倉準三(19011969) ~ 東大文、コルビュジエそのもの
  • 谷口吉郎(19041979) ~ ナチズムや伊ファッショに近い、明治村初代館長
  • 白井晟一(19051983) ~ 京都高等工芸卒、西洋風建築を地方都市に
  • 前川國男(19051986) ~ 一中、一高、東大(谷口と同期)、木造住宅の量産化
  • 丹下健三(19132005) ~ 東大都市計画教授、スケルトン建築
  • 篠原一男(19252006) ~ 東工大(清家の弟子)、住宅は芸術だとして機能に優先
  • 菊竹清訓(19282011) ~ 圧倒的な造形力
  • 黒川紀章(19342007) ~ 建築を社会的な制度設計に拡大、メタボリズム提唱
  • 磯崎新(1931) ~ 東大(丹下の弟子)、ハイ・アートに留まる
  • 安藤忠雄(1941) ~ 建築は独学、打ち放しのコンクリートを表現に生かす







  • 長野宇平治(18671937) ~ 「建築の解体」にさきがけて

1927,8年の国際連盟の競技設計に、古典的な様式建築の図案で立ち向かっている

辰野に見込まれて日本銀行に入って15年間建築技師を務め、退職後独立して12年に事務所を開き多くの銀行建築を手掛けて、古典様式の扱いに自信を抱いていた

西洋建築の正統的な教育は工科大学(のちの帝国大学)で始められ、帝国大学で建築を学んだ建築家は、折り目正しい西洋の様式に従い、和洋のけじめがあいまいな造りには手を染めようとしなかった中で、初めて和洋折衷の建築を建てた帝大出の建築家が長野で、旧奈良県庁舎は彼のデビュー作。大学の方針に抵抗を示してクラシックを嫌がった長野に辰野教授が目をかけ、日銀の建築を任されていた辰野が長野を日銀に引っ張った

日銀の仕事を通じて、迷いのない古典主義者となり、その形式とともに歩む後半生を送る

独立以後の長野の仕事はおおむね銀行建築に終始するが、気儘になされたと思える形態操作は、一定の様式の中で繰り広げる多様性を設計の拠り所とし、「奇抜」なゴシックへの憧れを長野なりにクラシックの中で活かした結果

建築形式の解体期に、幾何学的な図形が建築の原型として浮かび上がるが、もっとも単純な立方体が亀裂の入りだした古典形式に代わって浮上 ⇒ オフィスビルの容量がどんどん膨らむ要求をいずれ古典の形式では支えきれなくなることに気付いた長野が求めたのも立方体だった

晩年の作には、古典主義の殿を務めながら、次なる時代への形式を模索してもがく姿が痛々しくみられる



  • 伊東忠太(18671954) ~ ロマンティックにアラベスク

墨田区の横綱公園にたつ震災祈念堂(現東京都慰霊堂、30年建立) ⇒ 25年のコンペで当時はやっていた西洋建築の型に基づくデザインが1等となったが、被災者の声に沿わないとして、審査員の1人だった伊東が、世人の見慣れた寺院の構えに改めさせた

ニューヨークのグラウンド・ゼロでも、建築家たちはコンペでモニュメントたり得るビルの提案を選択したが、アメリカの市民社会、とりわけテロで亡くなった人々の遺族が嫌がり、建築界からのアイディアは却下された

祈念堂では、伊東は表の形を整えつつ、内部の造作ではユーラシアの西側に広がった平面形式を取り入れ、当時の建築界の流れを反映させている

1902年 ユーラシアへの旅に出る ⇒ 東大では教授になる前に欧米に留学するのが決まりとなっていたが、伊東は初めて欧米以外への留学を申し出る。ユーラシア全域の中で日本建築のことを考えようとした

1889年 工科大学の造家学科入学(長野は90年入学) ⇒ 辰野金吾からクラシックの決まり事を叩き込まれ、ゴシックに流されることを戒められたが、伊東は辰野の前任のコンドルのゴシックとイスラムに注力した「装飾法」の授業も受けており、卒業設計ではゴシックの教会を描いている。クラシックから解き放たれることを志したロマン主義が伊東ほど響きあった建築家はいない

西洋と日本の架け橋を目指したコンドルを最もよく体現したのが伊東



  • 吉田鉄郎(18941956) ~ 保存をめぐる政治学

旧東京中央郵便局の庁舎を設計(31年竣工) ⇒ 吉田のいた逓信省営繕課の最盛期を示す作品。何の変哲もない建築のように見えるが、00年代中ごろに日本郵政が建て替えのために解体を言い出したとたんに建築学会や建築協会がこぞって昭和の戦前期の代表作として保存するよう訴え、鳩山総務相が悪乗りした

小泉の構造改革の象徴だった郵政改革に反旗を翻す鳩山が、民営化の目玉としての庁舎建て替え阻止に動き、結局庁舎の3割ほどを残すことで決着 ⇒ 鳩山に建築がわかるはずもなく、建築史的な見地では全くなく、単に郵政票の取戻しが目的

大阪中央郵便局も吉田の設計(39年竣工) ⇒ 東京同様解体の対象であり、建築学会は東京同様吉田を、機能主義を唱えたモダンデザインの代表格として位置づけ、その作品の保存を要望したが、全面的に解体された

70年代からの様式建築に対する保存運動では、スクラップ・アンド・ビルドのイデオロギーで、機能主義のモダンデザインが悪役になっていたのに、掌を返したような観がある

実際の吉田は、モダニストとは無縁、地道な安全運転の建築家が手掛けた質の高い作品が東京大阪の中央郵便局



  • 渡辺仁(18871973) ~ 様式の黄昏をのりこえて

戦前の建築界では、コンペを勝ち抜く常連として知られた

銀座の旧服部時計店(32)、日劇⁽33年⁾、第一生命館(38)等、建築界という枠を超え、広く知られた建築を手掛けたが、同時代はもとより後世の同業者たちは渡辺を評価していない ⇒ 理由は、上野の旧東京帝室博物館(37年、現東京国立博物館)にある。基本的には古い西洋風だが、「日本趣味を基調とする東洋式」というコンペの要綱に従って、屋根の形で和風も表そうとしたところに特徴があって、それがコンペで選ばれた背景になっているが、一方で瓦屋根嫌いの啖呵を切って、あえて落選案を発表して脚光を浴びた前川國男のようなモダンデザイン派の建築家もいた

モダンデザイン花盛りとなった戦後には、戦前戦中の「日本趣味」が日本の帝国主義や軍国主義に加担した動きとして排斥され、渡辺には前川を輝かせる悪役めいた役割が押し付けられ、ファッショ的な圧力に阿った建築家というレッテルが貼られてしまう

戦時統制が厳しさを増し、形の良し悪しを問うようなそれは激減した中にあって、モダンデザインも様式建築も「日本趣味」の建築も、同じように逼塞を余儀なくされたし、大日本帝国が国是として和風の瓦屋根を要求したことはなく、帝国陸海軍も建築の「日本趣味」を探ろうとはしなかった

「日本趣味」は、様式建築の躯体に和風の屋根をあしらったものだが、その源流は大正デモクラシーの頃に見ることができる

帝室博物館や第一生命館に、ナチス建築に酷似した設計があるとして、渡辺のことをナチズムに通じる建築家として印象付けようとする動きもあったが、前者の図案を渡辺が提出したのはナチ政権誕生前であり、後者も真似たとされる総統官邸の完成は翌年のことであり、実際にネタ元となったのは繁栄を謳歌したゴールデンエイジのアメリカ建築

「日本趣味」を高まるナショナリズムに重ねつつ論じてきたが、それを「似而非(えせ)日本建築」だとして非難し、自らの途こそ真正な日本的な途であり、東洋の心であり、やがて世界に拡充しまほしき宇宙の姿、だと言い切ったのはむしろ前川のほう

渡辺は、むしろ常連審査員諸氏の顔触れを見て、ついでに日本的なデザインを模索しようとしにすぎず、ファシズムのイデオロギーを建築によって具現しようという高邁な理想を掲げて高まりつつナショナリズムとともに歩もうとする、その勇ましさでは、前川のほうがずっと勝っていた

建築家もまた、近代日本が国是とした西洋化を建築面で果たすべく、国家意思のお先棒を担ぎ、官庁の庁舎や軍の施設を西洋化していく仕事に動員されているが、モダンデザインにくみした建築家たちも間違いなくその末裔であった

渡辺も、戦前期にモダンデザインの住宅を建てている ⇒ 旧原邦造邸(38年竣工、現原美術館)がそれで、バウハウスの形がはっきり見て取れ、渡辺がモダンデザインに向かう道が示され、50を過ぎてなお新時代に飛び込む心意気が感じられる



  • 松室重光(18731937) ~ コロニアリズムと建築家

戦前満鉄は、旅順、奉天、長春、大連でヤマトホテルを経営、いずれも西洋式の建物

大連ヤマトホテルのすぐ隣に立つ旧大連市役所(19年竣工)を設計したのが松室で、大連の関東都督府に勤務する建築家  日露戦争後日本の西洋化を示す舞台とも化していた大連のロータリーの西洋建築の立ち並ぶ中でほとんど唯一和風を残したのは、京都へのノスタルジーか

1894年東京帝大造家学科(武田と同期)卒。京都府に勤務するが、部下の汚職疑念に巻き込まれて辞職。05年九州鉄道在籍。08年大連へ。23年帰国、片岡安の設計を手伝う。30年独自の事務所開設

1897年 古社寺保存法公布 ⇒ 東京の伊東、奈良の岡野貞とともに古社寺保存の仕事に携わる

1900年 ロシア正教から教会設計(現京都ハリストス正教会、03年竣工)の注文 ⇒ 木造での設計が条件



  • 妻木頼黄(よりなか)(18591916) ~ オリエンタリストたちの夢の跡

日本橋の設計をまとめたのは大蔵省建築部勤務の妻木、11年竣工

幕府の旗本の家に生まれ、無意識に明治という時代と文明を憎み続けてきた

明治から見捨てられた江戸的なものに心を寄せたが、その1つが日本橋で、舟からでなくては見えないような橋の裏側にも立派な花崗岩が貼ってあるとして、無駄な費用を使ったと非難されたものの、廃れゆく江戸期以来の水運に思いを馳せ、舟からの見掛けにも心を砕いた結果ではないか

一方で、若い頃から欧米を歩き回った建築家でもある

工部大学校に入学後、コーネル大学に留学、そのままニューヨークの設計事務所に勤務

1886年 官庁街の設計をドイツのエンデ・ベックマン事務所に依頼するが、一緒に働く日本人建築家育成のために妻木を団長とする20名の建築家や大工等の職人たちが同事務所に送り込まれた

当初の案は、日本政府の意向に基づいて、バロックぶくみの古典系で形がまとめられていたが、その後エンデも来日して日本建築史を研究した結果、エンデの個人的な動機でまとめた案が「和三洋七の奇図」 ⇒ 政府が拒否して、ネオ・バロックの古典的な庁舎に落着

この仕事を通じて、西洋建築に日本様式を織り込むオリエンタリズムをエンデから引き継いだものの、官界に君臨しながら政府の意向には沿わないまま、民間の建築に活かす道を探る ⇒ 旧勧銀本店(99年竣工)や自邸



  • 武田五一(18721938) ~ 軽く、うすく、たおやかに

堀内に先駆けて、茶室建築の研究の道を拓く ⇒ 97年の帝大の卒論で茶室論をまとめているが、またその先駆もいた。明治20年代には、行き過ぎた欧化政策に対し国粋保存論が高まり、伝統的な日本文化が顧みられるようになった一環として、茶室語りが増えた

規範性を嫌がる柔らかさがあり、古典主義からずれていく自在ぶりに武田の個性があった

茶室研究へ挑みたくなったのもそのせいで、書院造を解体し兼ねない数寄屋造の、その起源に迫りたかったのだと思われる

古典主義には2つの決まりがある ⇒ 1つは比例配分で、建築の各部を黄金比やピタゴラスの和声比で収まるように割り付けることによって釣り合いの取れた様子を醸し出す。もう1つが古代ギリシアやローマでできた建築形式を守らせようとすること。武田は後者に反発、旧様式のアカデミズムを崩した先駆者ともなる



  • 堀口捨巳(18951984) ~ メディアの可能性ともむきあって

和辻哲郎と同じサロンや茶会に赴く気心の知れた仲で、和辻は自身の墓の設計まで依頼

和辻の『桂離宮―製作過程の考察』が、曲線的な意匠と直線的な意匠が重なり合う様子を皮相的に見て書いただけの「際物的著者」の「書き流し」であり、和辻も「糊と鋏で名を売るジャーナリスト」だとこき下ろした庭園史家を叱りつけている

20年 分離派建築会立ち上げ。岩波を通じて作品集を出版 ⇒ 17年に『漱石全集』の出版で出版界の雄となり、27年の岩波文庫で教養書の一大銘柄となった岩波との関係を、堀口は保ち続け、初代岩波茂雄の墓も設計。岩波の看板執筆者の和辻の墓ともども北鎌倉の東慶寺にある。岩波雄二郎の邸宅も設計

煌びやかな人脈とその維持管理に努めた

20年代末期から日本趣味の建築がはやり出し、和風の瓦屋根を抱くビルが競技設計でも選ばれるようになるが、堀口はそれをまやかしとして嫌い、茶室研究にのめりこむ

時流から身を逸らした人間にしては国粋的で、初期の神社や利休の茶室などを、混じりけのない日本的な美質を表しているとして褒めちぎった

茶室は日本の中だけでなりたった。中国をはじめとするアジア諸国とは、まったく関わらない。そんな日本固有の建築が西洋の尖端的な動向と、実は重なり合う。堀口が捻り出したこの見取図に、脱亜論の典型を読むことはたやすい。堀口の茶室史に、近代日本の知的な縮図を感じ取る所以

モダンデザインの魅力は、その儚さとともにある。薄っぺらくてお手軽な建築であり、耐久性の欠落こそが危なっかしい美しさを成り立たせた ⇒ 竣工時の輝きを後世に残すために映像記録が欠かせなくなるが、モダンデザインの方向へ先駆的に足を踏み入れた堀口が、作品集作りに拘ったことは大変暗示的。写真の映りやレイアウトに堀口は心血を注いだのも、どこかでモダンデザインの作品の移ろいやすさに気付いていたせいか

ひとかどの男が妾を持つ場合は、数寄屋風の小邸を営まなければならない。それこそが粋人としてのあらまほしき振る舞い、と言われた。俗世を離れるためのしつらいとも

ところが、堀口の数寄屋はモダンデザイン風に加工され、明るく仕上げられすぎている



  • 前川國男(19051986) ~ コルビュジエかラスキンか

新潟生まれ、真砂小学校、一中、一高、東大工建築卒(谷口吉郎と同期)、パリ留学、東京レーモンド事務所、35年事務所開設

藤森照信は1940年代前半の前川について、「京都学派の論理をそのまま採用、間違いなくこの時期右翼だった」という

戦後しばらく、前川は戦前の反動化に歯向かった建築家として語られた ⇒ 日本趣味を押し付ける帝室博物館のコンペにしっぺ返しを食らわせたからで、時流への抵抗者だとみなされた

ところが、戦時下の前川は、当時の全体主義的な勢いに歩み寄っていたことが見て取れる

37年の建国記念館コンペに寄せた説明文で前川は、「所謂日本趣味建築は当時の商業建築家たちを育んだ極端な自由主義的資本主義的建築思潮の生んだ私生児であり、断じて今日国民精神総動員の健康な烈々たる時代の光の下にその成長は絶望である」と言っている

前川は、日本趣味は緊急の度を高める戦時の日本には馴染まない、時局にはモダニズムこそ似つかわしいと色分けしたが、戦後の評価は全く逆で、日本趣味をファッショ的だと決めつけ、モダンデザインを抵抗者に祭り上げている

前川自身も、時局にそっぽを向いた有閑建築として眺めていた同じ建築を、戦後の53年には、「恐るべき国粋主義的建築」と言っている

国家が建築界に和風などの表現を迫ったことはない。当時の国是は戦争と向き合うことにあり、建築の表現などが問われる時代ではなかった。それ故建築家には不満がたまる、そのはけ口ともなったのが建築学会で捻り出した大東亜建設記念営造計画で、前川もコンペの審査幹事を引き受ける ⇒ 1等に選ばれた丹下を、大東亜共栄圏構想を受け入れ持ち上げたとして戦犯呼ばわりする戦後の議論には疑問。丹下案がダントツの1位。団子の中で2等になったのは前川事務所のスタッフ3人による共同提案で、前川がコルビュジエのアトリエにいたころに図面が仕上がっていったムンダネウム計画に酷似

42年の日タイ文化会館のコンペでは、丹下が1等、前川が2等、前者が神殿造風、後者が書院造風の外観で、どちらも和風の傾斜屋根をいただく伝統的な構え。すべての入選案があられもなく日本色を溢れさせている ⇒ バンコクに建設予定で、国を挙げてのプロジェクトであり、審査員には伊東忠太ら大御所が選ばれ、日本の伝統的建築様式を基調とすることが決められていた

帝室博物館のコンペをフラットルーフで押し通したことが輝かしく語られ、フラットルーフへの拘りがファシズムへの英雄的抵抗だと持ち上げられるが、前川は必ずしも傾斜屋根を退けていない ⇒ 木造住宅の自邸⁽41年竣工⁾には立派な屋根を付けている

ただ、帝室博物館の逸話を、前川は後々まで慈しんだようで、晩年の弘前市の緑の相談所や国会図書館新館に傾斜屋根をかけたのは、渋々認めたということになっている

前川が敗戦後にまず挑んだのは、木造住宅の量産化 ⇒ 量産化しうる工業製品で建築を組み立てることに拘ったが、建築部材の工業化と量産化こそモダンデザインの目指す目標の1

52年竣工の日本相互銀行本店は、その記念碑的作品だが、量産化まで行っていなかったアルミサッシのカーテンウォールを使ったものの継ぎ目の処理がわからず、モルタルで埋めたため雨水が防げずに、結局アメリカから高価なコーキング・コンパウンドを買ってすべてやり直した ⇒ 前川がすべての出費を負担、コストダウンを目指しながらかえって高くついた

60年代の高度成長期に部品の量産化が可能となるにつれ、前川も拘りをなくしていく

前川に工業化への意欲が見え始めるのは、37年の建国記念館のコンペ辺りからで、日中戦争の始まりとともに総力戦体制となり、統制経済による量産化や生産力の増強が叫ばれ、前川もこの掛け声に乗ったのだろう。戦時下の前川は国策工場の設計もこなしていたし、量産化へと向かう前川の情熱は総力戦体制になっても育まれ、国民精神総動員の志を戦後になっても抱き続けた

前川のモダン建築は、実際の現場ではうまくゆかないことが出てきてその限界に悩み始め、70年代からはコンクリートを焼き物の打ち込みスタイル(タイル貼り)で覆いだす ⇒ モダンデザインより古い時代の建築の美しさを語りだす。クラシックやゴシックには勝てないと公言し始めた。工業化の進展で素材が全く異なる以上、以前の建築と現在の建築とでは同じレベルで考えることはできないと断言

建築自体の耐久性を求め、「建築で一番大切なのは永続性だ」とも言い、コルビュジエの白い家もさっそうと見えるがつくりはお粗末で、フレームの中に積んだブロックを白く塗るだけで、ブロックと躯体の間に必ず亀裂が走ると批判

コルビュジエの建築の中には、実際早くから痛みがひどく、政府のお声がかりでコストをかけて保存、世界遺産にも登録しようという動きがあるくらいで、竣工時の面白さによってメディアの中で生き残る手もあるが、前川は自らの作品が取りざたされすぎることを嫌い、モダンデザインの「闘将」らしくない、結構古い価値観とともにあった建築家かもしれない

66年竣工の埼玉会館は、一種の複合文化施設。多くの部屋を地下に押し込み、焼き物の打ち込みタイルで囲まれた屋上を公開の庭として使う設計。埼玉県立博物館(71年竣工)と併せて、回遊式庭園の日本的な伝統を読み取ることもできるが、自身がのちに同業者の会で語ったところによれば、コルビュジエの影響で、パリやヨーロッパの庭や公園を想い描いていたようで、フランスにあこがれ、パリ暮らしを満喫してきた前川が、日本の地方都市にヨーロッパの空間を持ち込むことを狙ったのかもしれない

晩年の前川は「物を感じさせない」方向へと進む。建築の姿は当り障りのない形に収め、作品を後景へと退けてしまうような仕事ぶりが目に付く。建築作品としてのはったりにはもう気持が向かわなくなったのだろうか、現代建築なんかに力を込めてもしようがない、クラシックやゴシックには到底叶わないのだから。そんな想いも晩年の前川を控えめな建築家にしていったような気がする

58年 ブリュッセル万博の日本館を任され、ヨーロッパに出かけた際、中世以来の景観を保つブリュージュの佇まいに心を打たれる ⇒ 若いころジョン・ラスキンの本に心を奪われ、中世趣味に共感する素地はあったが、後でコルビュジエの感化を受け、モダンデザインで覆われたものの、そこにひびが入れば、もともと心を寄せていた中世趣味が浮かび上がる可能性は十分あった

コルビュジエとの出会いは、結局前川にまわリ道を強いたのか。しかし、コルビュジエに学ばなければ、帝室博物館がらみの名声はあり得ず、東京文化会館(61年竣工)の力技もそのたまものだった



  • 坂倉準三(19011969) ~ モダンデザインに日本をにじませて

37年のパリ万博の日本館を任され、従来の日本の伝統に則った建物という慣例を破って、鉄とガラスの構成を全面に打ち出すモダンな佇まいのパビリオンを建てさせる ⇒ 日本の当局からはエキゾティシズムへの憤りが噴出したが、パリの建築界は高く評価し、パビリオン間の建築コンクールではグランプリを射止める

当初推奨されたのはモダンデザインの前川案だったが、博覧会協会がエキゾティックな日本色が窺えないことに難色を示し没とし、瓦葺、白壁に日本独特のなまこ壁仕上げを施す案に決定

もともと博覧会の日本館に日本色を打ち出したのは、軍国主義や民族主義に根差した強制ではなく、西洋へ日本を売り込もうとする、幕末明治期以来の商売家に支えられ、西洋人の歓心を買いたいという打算・媚態であり、国を挙げて欧米に阿ろうとする思いこそがこの強制をもたらした

建築段階になってフランス側が様々な条件を付けてきたため、協会は現地事情に詳しい人としてパリから帰国したばかりの坂倉に現場監督を依頼、坂倉は現地の要求に沿うために自らの案を推し進め、協会からは原案にほど遠いと不評だったが、坂倉はそれなりに意を汲んで随所に日本的な造作を施して完成させる ⇒ グリル格子を多用しているが、日本のなまこ壁を活かしたデザインとされる

50年後の懐古でも、50年頃の欧米の建築家が強い関心を示した日本の建築は、桂離宮と坂倉の日本館の2つにほぼ限られていた、と言われる

前川事務所に勤め坂倉の仕事も手伝っていた丹下が半世紀後に両者を比較して、「前川先生はコルビュジエの影響をかなり自分なりに咀嚼して独自の考え方になっていたが、坂倉さんはもっと端的にコルビュジエそのものみたいなところを自分の中に持っておられた」と論評しているように、丹下は坂倉を通してコルビュジエそのものを学んでいる

坂倉は建築設計を日本ではなく、パリで学んでいる ⇒ 東大は文学部卒で、美学と美術史専攻、それゆえに日本の建築界からは傍流扱いされ、それが戦時下の右傾化する時流もあって坂倉をして国粋主義に走らせる

パリでできた洋行経験者とのつながりが坂倉の財産になり、ここを足掛かりとして後に坂倉のビジネスが開花、各界を率いる洋行帰りのエリートたちから仕事をもらう

51年 神奈川県立近代美術館竣工 ⇒ 日本館で試みた手法を、地震の多い日本向けに補強した形で日本にも応用した建築だが、日本館の時も構造的な無理が指摘されていたように、近代美術館でも68年には雨漏りから大幅な改修工事が施され、外観が改悪される

モダンデザインの建築は、現物が残らなくても構わない ⇒ 写真や図面で後世に知れ渡れば建築界の文化遺産として十分価値があるとされるが、坂倉の日本館はその典型例



  • 丹下健三(19132005) ~ ローマへ道はつうじるか

コルビュジエに憧れて建築を志すようになった丹下が卒業後選んだのは前川事務所だが、よりコルビュジエを体現するとして坂倉に傾く

戦時下に民族精神を高ぶらせながら、42年の大東亜建設記念造営計画では神域計画に打って出ると同時に、コスモポリタンな造形に日本の技術を織り込むのが「日本的」だと諭す師の前川を、「日本的建築様式」を作れない「国賊」呼ばわりしている

46年 東大の都市計画講座の助教授となった丹下は、47年には広島の復興計画に自ら突っ込む

日本の木造建築には、柱と梁で構成の妙を現す伝統があり、桂離宮でも書院の広縁を支える部分にうかがえるが、この伝統が丹下の広島平和会館本館では鉄筋コンクリートを桂離宮風に組み上げさせたといわれる ⇒ 丹下は若い頃に「MICHELANGELO頌」という文章を書いており、ルネサンス史の頂に位置づけたことからも、イタリア建築の影響が強く出ていたというべきであり、60年代後半からは世界の都市計画にも関わるが、ヨーロッパでは67年のボローニャを皮切りに専らイタリアからの注文をこなし、それが70年のローマ法王庁からの聖大グレゴリオ騎士賞受賞にもつながり、さらに丹下はローマ・カトリックの受洗にまで踏み切る

丹下の建築作品は、都市的な配慮を伴ってできているといわれ、与えられた敷地と周りの都市環境がどう関わりあうかを常に考え、そのうえで形を塩梅してきた建築家だと見做されることがある ⇒ 52年に指名コンペで選ばれた旧東京都庁舎がその代表例。人々の行き来するピロティと吹き抜けは丹下建築の見せ場であり、そのために3階以上のオフィスの天井が226㎝と犠牲になっている。東京についての都市論が自作のハイライト部分を正当化するために使われた、曰く、「市民が、社会が、そして都市がこういう形を欲しがっているのだ」

建築とはスケルトンそのもの、という発想が徹底していて、インテリアをごちゃごちゃやるのは女々しくはしたない行為だという認識があった ⇒ 大向こうへ見せるところにしかファイトが湧かなかった

20世紀の日本建築を飾る最高傑作とされる国立屋内総合競技場(現代々木体育館、64年竣工)や、東京カテドラル聖マリア大聖堂(同年竣工)など、巨大な吹き抜けに天井からの光の降り注ぐ、気高いと言っていい空間が提案されているが、これも内部があしらえる他の手法を知らなかった丹下の不器用さが、凛とした空間をもたらしたことは幸いであった



  • 谷口吉郎(19041979) ~ ファシズムかナチズムか

前川と同期

43年に亡くなった島崎藤村の記念堂が、47年馬籠に完成 ⇒ 物のない頃に、藤村ゆかりの地元住民の意向にほだされて谷口が設計を引き受けたもの。すべて地元住民の手で作るという意向に谷口が応えるために、あえてモダンデザインを捨てて和風に踏み切る

谷口のデビューは、32年の東京工大の水力実験棟。モダンデザインの手本ともいえる作品だが、戦後の谷口はクラシックの形や日本の伝統を滲ませる方向に舵を切る

藤村記念堂は、専門の棟梁がいなかった分、谷口は日本建築のしきたりから逸れ自由な設計に走っている

38年 ベルリンの日本大使館の設計を手伝う ⇒ 谷口にとっては、ナチス体制の建築をつぶさに見る機会となり、ナチス建築の形式美を肯定する姿勢がその後の作品にも見られる。藤村記念堂や慶応大学三田キャンパスの校舎群がその代表例で、戦後の建築界は谷口をナチズムに近づけて受け止めた

ファシズム体制下のイタリアのモダンなデザインにエールを送っていた

65年 明治村を開村させ、明治建築を保存する野外博物館の初代館長に ⇒ 旧鹿鳴館の解体に胸を痛めたのが動機。ぜいたくを敵として鹿鳴館を解体し総動員へと進む国の方針からは身を背ける心構えを、戦後も持ち続けている。明治村を開くまでに至る行動力もそこに根差していた。イタリアのファシズム建築に憧れ、ドイツの第3帝国様式についても、自らの肥やしとしていた節もあるが、だからと言ってファシストと見做すのは間違っている。建築家としての処世という次元で言えば、日本のファッショ化に背を向けた点では建築家たちの中でも際立っていた



  • 白井晟一(19051983) ~ 民衆的な、あまりに民衆的な

へたくそと見做されやすい人

専門家の目からは、材料と形の多様と不統一、それらの納まりに悪さ、にもかかわらず、盛り上がるような造形意欲、こうした特徴は、素人の建築造形の象徴といったほうがいい、とまで言われた(藤森照信)

京都の高等工芸(現工芸繊維大)を出たが学んだのは図案、関心はもっぱら哲学で、卒業後のドイツ留学でも哲学を学習し続けた

建築への興味を示したのは33年の帰国後、全くの我流でいくつか知人の住宅設計を手掛ける

最初は、何よりも安く仕上げる力量が受け入れられた

西洋的な建築の構えを、戦後の地方都市に持ち込もうとした ⇒ 秋ノ宮村役場(52年、秋田)、松井田町役場(57)

60年代から作風が変わり、構えがゴージャスになり、貴族趣味とまで言われた ⇒ 親和銀行本店(毎日芸術賞)が代表作だが、白井に言わせれば、一貫して「人民大衆に矜りと望みを与えたい」と願ってきた結果だといい、「いつも民衆のために宮殿を作ろう」と心砕いてきたという



  • 村野藤吾(18911984) ~ 戦時をくぐり、マルクスを読みぬく

京大人文研の旧館は村野の設計。狭くて見苦しかったと評判が悪かったが、1933年に村野が設計したのは、ドイツ文化研究所という小さな社団法人のためで、敗戦後の52年に大学が人文研にあてがったもの

ナチスの政権掌握をきっかけとして起こった話で、村野は設計の際ナチスのハイマート様式を意識していたと、自ら告白している

日本の現代建築には、ル・コルビュジエが大きな影を落としている。前川はコルビュジエのもとで学び、坂倉もその門下生、丹下もあこがれ続けてきたが、村野もコルビュジエに魅入られた一人。宝塚教会(1965)にはロンシャンの影響が窺え、西宮のトラピスチヌ修道院(1966)でもラ・トゥーレットとの類似性は否めない。事実、手本を横において設計していたが、決して写しではなく、完全にネタとは異なった独自の世界になっている

宇部市民館⁽1937⁾は、戦前の村野の代表作だが、そこにもコルビュジエの国際連盟コンペ案のホール平面の影響がみられるほか、36年完成のヴェルナー・マルヒ設計によるベルリンのオリンピック・スタジアムもしのばせる。ドイツ文化研究所の設計でドイツ政府から赤十字名誉賞を得た喜びも、宇部市民館の建築に親ナチ的な意匠を添えさせたと思われる

頂部に瓦屋根をいただく日本趣味建築や、軍人会館に代表されるようないわゆる帝冠様式のようなバーバリズムは、日本ファシズムの建築的な表現だとして、不当な評価を与えられ長らくけなされ続けてきた。村野のドイツ文化研究所も和風の瓦屋根で頂部が覆われており、下手をするとこの建築までファッショ的と思われてしまうが、村野びいきの建築史家はそれを恐れ、日本趣味建築と村野作品を厳しく区分けして、例えば村野の表現にああいう威圧感は漂わないなどと言っていた

ナチズムへの親和性という点では、村野のほうがよほどはっきりしていたことは明らかであり、それは村野びいきの人たちも認めるべき

宇部で村野がナチズムへ示した媚態を否定するために、渡辺仁設計の東京帝室博物館や第一生命館を引き合いに出して戦犯めいたレッテルを貼り、そのため渡辺は戦後に不遇を余儀なくされているが、村野を守りたい一心で他の誰かを貶めるようなやり方は認めがたい

戦前戦時の作品に大阪電気軌道(現近鉄)の橿原神宮駅がある ⇒ 紀元2600年の奉祝事業で、神域が整えられ、駅舎の設営はその整備拡張に伴うもの。大林との指名コンペで、村野の大きな大和棟風の屋根を抱く設計が採用されたが、ナショナリズムからの圧力と記念性を求める施主の要求にあって不本意な設計だといわれるが、実際はモダンな陸屋根に仕上げるより伝統的な日本趣味を押し出したほうが施主には受けるとの状況を村野が見極めて設計したもので、大きな神明造り風の屋根を抱く建築は、その後あちこちで見られるようになり、42年には建築学会で大東亜建設記念営造計画のコンペが開かれた際、勝ち抜いたのは神明造り風の屋根を巨大化させた図案を出した丹下健三で、戦時下の建築史には村野から丹下へと至る大屋根の系譜が潜む

村野と丹下は、作風がずいぶん違うが、そのために対比的に語られることも少なくない

57年 村野設計の読売会館・そごう東京店が有楽町に完成、その数か月前には北側に丹下の旧都庁舎も完成 ⇒ 識者は村野の造形力を認めつつ、商業主義への阿りをなじった。1階も売り場にあて施主側の思惑に応えたことが、街を行き来する人々より経営者のほうに目を向けたと咎められた。特に、都庁舎がピロティで建築躯体を高く持ち上げ、その下を市民に開放して、市民にも心を砕いているかのように見せかけた丹下の手法が輝かしく見え、村野の空間処理が市民を蔑ろにしているとうつった

当時の、特に東京の建築界には、戦中の「ぜいたくは敵」の風潮が強く残存し、コマーシャリズムは悪という思想が根強く存在していたことが影響

インテリアに対する配慮の有無も両者の比較の1つになる ⇒ 建築の骨格を追い求めた丹下に対し、村野は室内のベッド・メーキングも疎かにしない。丹下が57,8年電通大阪支社の設計を手掛けたころ、あまりにもインテリアの意識がないスタッフに対し、村野のインテリアを学んで来いと指示、丹下自身、インテリア意識のないことをチームの欠点ととらえ、村野を敬う気分もあったらしい。当時丹下事務所にいた磯崎も、インテリアにこだわるのは女々しくはしたない行為だという認識がチームの基本的な構えであったと述べており、自身の屋内空間はしばしば伽藍堂の虚無的な広がりを示すことがあるのも、丹下チームからインテリアを否定的にとらえる精神が受け継がれているせいかもしれない

58年 大阪歌舞伎座完成 ⇒ 東側の立面に36個の唐破風をあしらったけれんみあふれる建築だが、そのあくどさが当時の建築界では嫌われた。杮落としに誘われた丹下は村野を前に、「このようなものは村野先生のように力量のある方がやればもつが、そうでなければひどいことになる」とコメントしたが、あまり気に行ってもいないに違いない建築のためにわざわざ時間を割いて大阪までおもむいたのは、村野に一目も二目も置いていたのだろう

平和的な村野を、大東亜共栄圏の夢に走った丹下と同列に並べるなとの声も、村野のひいき筋からは聞こえるが、村野もまた大日本帝国の戦果を心待ちにする良き臣民であったことは彼の日記からも読み解くことができ、「村野は反戦主義者ではない、むしろ逆だ」との声もある

村野が生涯にわたってマルクスの『資本論』を読み続けたことはよく知られている ⇒ 心情的に左翼へ心を寄せたことは考えられるが、建築家としてはおおむね財界人のために働いており、間違いなく資本主義の体制とともにいた

『資本論』に興味を抱いたのは、商品の成り立つからくりに関心があったから ⇒ 建築の商品価値を認め、価値を生み出すためにふさわしい建築の落としどころを終生探り続けたとされる。土地に応じた建築という商品の、その最適解こそが見いだされなければならず、それが見つかれば建築にかかわる仕事の99%は片付く。建築家にできることは残りの1%しかない

村野は、99%を学ぶための、一種のバイブルとして『資本論』に読み耽ったし、それを周囲にも誇示している。建築の経済面にも通暁していることが経営者たちから頼られ、そのことも村野は誇らしげに語っていた

ただ、設計者としての村野は、実費計算通りに必ずしも仕事を進めていない。建設現場での職人仕事を重んじた結果、予算を大きく超過したこともしばしばあり、その際は村野先生の顔は潰せないと思った工務店や建設会社が超過分をかぶっている

いわゆる超高層を、最晩年に至るまで嫌っていた ⇒ 若いころから、摩天楼への反感を示し、それを53年後にも認めている。壁などの肌合いを際立たせる技に秀で、窓や庇の細やかな扱いにも長けていた村野にとって、超高層の高いところは、その味わいが人の目に届かない。経済的な要請が建築のあり方を99%決めてしまうと言いながら、超高層の話はのめないという。1%の村野は、ときに99%の要請を退けてもいた

64年 関西大学の専門図書館完成 ⇒ 16本の柱に支えられた円形平面の施設だが、当初は図書館側の要望もあって正方形の平面だったものが、設計契約の間際になって村野側が、事務所でこっそり仕上げた現状のものに差し替え、大医学側に旧案を捨てさせている。図書館長の無知に付け込んだ「卑劣な手口」といわれ、さらに動線もまずく、図書館学会では「世界で最も劣等な図書館なりとの定評が確立」し、悪い見本として「関係者は一度必ず見学すべしと言い伝えられている」。新図書館建設の計画に際し、村野から売り込みがあったが、大学は拒否、鬼頭梓に設計を依頼。村野にできることは1%しかないとの口癖が白々しく響く、磯崎の言う「コンプリメント」であったのかとも思われる

施主が気を緩めた隙に乗じ、契約寸前の間合いを狙い、建築家側の本命案をねじ込んだこの逸話に、喝采を送る建築家もいるが、「村野設計研究会」にはその間の事情を調べてもらいたい



  • 吉田五十八(18941974) ~ 数寄屋は明るく、艶やかに

芸大建築(23年卒)

鉄筋コンクリートのビルの中の日本建築という今日的な設計の先駆けをなしたのが吉田

20年代から日本建築へ、中でも数寄屋の改良に取り組み出し、その作風は「新興数寄屋」として囃され、広く知られる ⇒ 背景には関東大震災の教訓がある

従来からの柱と梁の軸組では地震の横揺れに弱いところから、大壁のつくりを奨励

吉田は、大壁の上に見せかけだけのために新たな柱を貼りつける手法を編み出す ⇒ 今は鉄筋コンクリートの上に付け柱のみならず、付け梁、付け壁、付け天井の和風が当たり前になっているのを見ると、吉田の歩みだした一歩には敬服

太田胃酸の家に生まれた下町育ちの江戸っ子、父は普請道楽に生きた人で、東京で京都風の普請をしていたといわれ、吉田も建築は京都風を旨とし、京都の細やかな数寄屋造りに真骨頂があった

36年 杵屋六左衛門別邸が記念碑的作品 ⇒ 奈良でよく見かける大和棟に、京都の聚楽風の壁を取り入れた

大震災が首都東京の都市機能をマヒさせ、文化的な空洞状態になった空白へ吸い込まれるかのように、この時期多くの関西文化が東京を席巻した ⇒ 漫才や上方料理など

関西文化の東漸に押されるかのように、吉田も積極的に京風数寄屋を東京に導入

芸大卒後、私費でヨーロッパに渡り、フィレンツェのルネサンス建築に打ちのめされ、西洋建築で西洋人と張り合うより、身の丈にあった日本建築を極めようと決心

豊かな家で、芸事に勤しみながら、我儘を通してきた吉田は、数寄屋師ともぶつかりながら、「約束」や「しきたり」で縛られない「新興数寄屋」の道を突き進めた

村野や堀口の数寄屋は、大きく「しきたり」を変えずに名工たちの腕に頼っているのに対し、吉田は数寄屋の刷新へ歩み出す ⇒ 大壁を持ち込んだのが画期的で、数寄屋特有の縦軸、横軸の線を極力取り除き、柱を意匠だけの都合で配置する自由を設計者が獲得

一度だけ来日したコルビュジエも桂離宮を始めとする日本建築には、線が多すぎるとして、あまりいい印象は抱かなかった

30年代中ごろから、婦人雑誌で取り上げられるようになり様子が一変、新しい数寄屋のあり方が普請好きの間で評判になり始める ⇒ 吉屋信子邸(36)が転機

吉田が亡くなった翌年、村野藤吾が吉田の死を悼んだ追悼文『吉田流私見』で、俗受けの度が過ぎるとして批判、数寄屋には腕の良さを表に見せないで裏のほうにしまっておく、そんなおくゆかしさも欲しいが、吉田の仕事は素人にも理解できるものでありすぎるということだったが、職人に言わせると、無駄な線を省いたその陰には手数の込んだおさまりがなされているといわれ、必ずしも村野の批判は当たっていない

数寄屋建築に挑んだ建築家は20世紀半ば以降でも堀口、村野、谷口(吉郎)らがいるが、建築界の外では吉田の作風が圧倒的に支持されている ⇒ 普請好みの一般人士をひきつけた。特に料亭や日本旅館が吉田の作風を強く求めた。村野に言わせれば、真似しやすいからだということになるが、一見真似しやすそうな吉田の造作だが、裏面には様々な配慮も施されていた

堀口は、吉田が見せる花柳風の媚態を嫌ったが、それ以外にも深いつながりを持っていた岩波書店の社長が、築地の料亭「錦水」を見て吉田に惚れ込み、熱海の別荘(40年竣工)の設計を吉田に依頼したことも遠因



  • 菊竹清訓(19282011) ~ スカイハウスは、こう読める

「菊竹スク-ル」は、名のある建築家を多勢輩出 ⇒ 伊東豊雄も大学卒後4年在籍

60年代は菊竹が最も輝いて見えた時期 ⇒ 出雲大社庁の舎、東光園、都城市民会館、京都国際会館

圧倒的な造形力には、鬼気迫るオーラがあったが、60年代の終わり頃から表現を和らげ出す ⇒ 都城市民会館の雨漏りが大問題となり、菊竹事務所と鹿島建設が折半で修繕したのが契機(前川も日本相互で雨漏りの失敗をしでかす)、事務所が大きくなりすぎて商業建築に走ったことも一因

「空間は機能を捨てる」と言って、建物の機能を無視してまで、造形の自由を追い求めた ⇒ 66年発表した樹状住宅では、5層ごとに吹き抜けのある空中広場を設けて、失われつつあるコミュニティを回復させてみせると言っているが、市民はそんな広場を欲していない

58年 自邸「スカイハウス」完成 ⇒ 夫婦の主室を正方形平面のワンルームとしてピロティで高く持ち上げ、台所やトイレ等の施設は子供部屋も含めて、交換可能なムーブネットとして主室の外側にぶら下げられている



  • 黒川紀章(19342007) ~ 言葉か、建築か

20世紀終わりごろから社会科学の分野ではアーキテクチュアという概念が浮かび上がる ⇒ 建築の枠を超えた社会的な制度設計一般をさすが、黒川は四半世紀ほど前から口にしており、69年には制度設計を扱う社会工学研究所を設けている

京大を選んだ理由は、京大・西山研の本を読んで、「それまで想像していた美的な世界とは全く違う社会的・政治的側面があることを知り、自分もまた社会改革という言葉に熱い思いを抱いた」からという

メタボリズムの提唱 ⇒ 新陳代謝の意。59年に黒川や菊竹が開始した建築運動で、社会の変化や人口の成長に合わせて有機的に成長する都市や建築を提案

経済の原理が都市を作るのであって、建築家の主体性とか建築が都市を作るという考えは吹っ飛ぶとまで言い、メタボリズムの原理を作って建築家は住まい手の主体性において進めると主張

考え出したのが量産化された製品であるカプセルを組み合わせた建築 ⇒ 銀座8丁目の中銀カプセルタワー(72年竣工)。住み手は自分の都合に合わせて取り外して持ち運ぶことができるとしたが、老朽化も早く、晩年の黒川は元通りにして若返りを図りたいと訴えたが、住民は取り壊しを決める

77年のポンピトゥ・センターや86年のロイズ・オブ・ロンドンの社屋や香港上海銀行本店が完成、テクノ表現主義とでも呼ぶべきスタイルが広がったが、カプセルやパイプを縦横に巡らせた表現という点では黒川もその先駆者の1人といえる

前衛として頭角を現し、万博でもその名を売り、70年代以後ちょっとした銘柄にもなったが、万博後財界とのかかわりを強める中で、黒川紀章=カプセル建築というイメージが定着して企業人からはその建築スタイルが受け入れられなかったところから、70年代中ごろから四角四面の建築へ設計の方針を変えていった ⇒ 福岡銀行本店(75)

メディアへの露出に活路を見出した建築家 ⇒ 54年日本建築学生会議の全国組織ができた時の初代委員長にまだ2回生でなって以来、58年のレニングラードでの世界建築学生会議では議長を務めたのを始め、06年の国立美術館の新館まで、晴れ舞台の主役に収まりたがる、またそのことが絵になる人であり、もともと派手なことが好きだったのだろう

メディアへの露出が営業的な潤いをもたらしたことも間違いなく、先輩たちの前で腰を低くする必要性も早くに無くしていただろう、そのことが建築界では意外に低い黒川評の遠因かもしれない

農村都市計画(60)、ゴッホ美術館新館(98年、アムステルダム)など、建築家としての仕事振りには唸らされるが、物知り気に見える文章を書きながら、結構底は浅そう ⇒ 桂離宮と西翁院を混同し、「桂離宮の澱着席の内部空間ほど離宮ネズミの感覚、あるいはバロックの感覚を表現している例はない」と桂離宮の美をうたいあげているが、「澱着席」などという部屋は桂離宮にはなく、似たような名前では西翁院の「澱看(よどみの)席」があり、混同したうえに名称まで間違えている



  • 篠原一男(19252006) ~ 日本の「虚空」に魅せられて

「住宅は芸術である」の名文句を残す

住み心地や使い勝手の良し悪しを住宅設計の第1条件としてはいけない、何よりも芸術としての高みを目指すべきと説き、建築家は施主からも自由でなければならないとした

機能主義的な建築観が建築界を覆っていた60年代から主張 ⇒ 時代とともに施主のほうが建築家の自由に任せる風潮が出てきている

建築観の分かち合える男たちとは相談ができる、しかし、主婦的なリアリズムに捉われた女たちとは関わりたがらない、そういうホモソーシャルな仕事振りも特徴

50年代半ばに、伝統的な日本の味わいを建築ににじませる「伝統論」が燃え上がったが、その火種は清家清で、障子や畳などがモダンデザインに組み込まれ、54年に来日したグロピウスもそれを褒めちぎったほど、国際的にももてはやされた

東工大で清家に学んだ篠原にもこの時流は届いているが、日本には虚空はあっても「空間」という概念はないと断じてモダンデザインには背を向ける

大学時代は数学に挑んだ研究者で、建築の伝統を初めて意識したのは唐招提寺の金堂の屋根を見て美しかったと思ったとき。古建築の研究を手掛け、建築史への興味が先に来た

「虚空」を日本建築の美質ととらえ、現代建築も「虚空」とともにあろうとし、いまの住宅にあの「虚空」を甦らそうとした

個人住宅の設計に勤しんできたのに、幅木や散りの抽象的な生活感の漂わない処理を行う

そんな篠原に魅かれて、伊東豊雄も菊竹のもとを離れ篠原に近づく

70年代に作風を変えだすが、その後も何度か変えている ⇒ 名声に安住することなく、強い上昇意欲が原動力

86年 ハウス イン ヨコハマは、分裂的な様相を強めた第4の様式を代表する自邸で、キューブの不揃いなぶつかり合いをこれ見よがしに打ち出しているが、最晩年の01年に始めた蓼科山地の初等幾何と名付けられた別荘の設計では第4の様式と通じる分裂振りは窺えず、どちらかといえば伝統的な日本様式ともいえる第1の様式へ立ち返ったかのような気配を感じさせるのは、「名声に餓え」る「若々し」さから解き放たれたからかもしれない



  • 磯崎新(1931) ~ ユーモアにこそ賭ける

師丹下の新東京都庁舎⁽91年竣工⁾を磯崎は批判的に語ってきた ⇒ 60年代までの丹下は、建築で日本という国家を輝かせようとし、国家もそんな丹下を頼もしく思い様々な企画を委ねてきたが、70年代以降経済効果が重視されると、国家の体面を建築に託そうとする意欲は失われ、丹下の志も用済みとなったため、丹下は商業建築家になり下がり、新都庁舎も商業建築を彩る手法で組み立てられている。それを丹下の作品とは思いたくない、というのが趣旨

磯崎も新都庁舎のコンペに参加しているが、その作品は丹下の旧都庁舎に倣って、市民に向けた大きな吹き抜けの空間を提案している ⇒ 丹下が戦後民主主義にふさわしい空間の設営を目指していたと確信、自らもその骨子を受け継いだものというが、一方で、丹下はピロティが欲しくて戦後民主主義を使ったとも批判

磯崎は白井の民衆の建築家であろうとする姿勢を、世間に向けてのお愛想だというが、当人自身が丹下の裏表ある言動を知り抜いたうえで自分の新都庁舎案を民衆にことよせて語っている以上、白井批判はあまりに身勝手

もともと国家の雄姿を建築に託して力強く打ち出そうとするのは、カリスマ的指導者を抱く国家であって、70年代以前の日本にそういう意思があったとは思えない ⇒ 代々木の屋内競技場ですら、建築家の恣意的なデザインで出費の嵩むことには国会でも咎められ、丹下自ら大蔵大臣の田中角栄に直談判して漸く認められたもの

政府の肝いりで営まれた筑波研究学園都市の交流拠点となる施設・つくばセンタービルの設計を頼まれた磯崎は、西洋建築史でお馴染みの表現をふんだんに使う一方で、日本を偲ばせる意匠を徹底して排除、その理由を、国家的なプロジェクトである「生臭い仕事」では国家が要請しているかもしれない貌(かお)を引っ張り出したくなかった」からと言ってい    るが、一方で70年代以降国家が建築の表現を問う立場から退場したと言いながら、7983年のこの仕事では国家から圧力がかけられたかのように語るのは、国家に立ち向かう建築家としての自画像を振りまき、当時の建築ジャーナリズムをも巻き込んで結構大袈裟にヒロイックに振舞いたかったということかもしれない

磯崎は、あれ以来政府からの仕事の依頼が来なくなったというが、それほどの確執があったとは思えない

若い頃には日本の伝統に寄り添う作品も見られるが、60年代後半から離れ始め、西洋の古い様式を追いかけだす。80年代には西洋の歴史様式も取り入れる

マリリン・モンローのボディラインを自分の使う曲線定規に採用するなど、キッチュへ手を出すことはあっても、一線は踏み越えない。ハイ・アートの枠に留まろうとする、斯界での磯崎評はその辺りに落ち着こう

黒川曰く、「磯崎は建築界のエリートで、大衆のことはわからない。だが、自分は大衆の世界に飛び込める。丹下に師事する前に西山研で教育を受けた」からと。70年代の中頃から日本的な表現を探り出していた黒川は、「利休ネずみ」を唱え、江戸建築を再評価せよという掛け声を挙げる。つくばセンタービルには日本らしさがないと磯崎を攻める。一方大衆の建築は西洋的な建築への憧れを露わにしだし、磯崎の歩みはそうした時流とも結果的に通じ合う。黒川のほうが大衆の向かった方向からは背を向けていた。その後の黒川の政財界筋や花柳界との交流の広がりを思うと、結局黒川の言う「大衆」とは政財界筋のことで市井に生きる人々ではなかった。磯崎の目は政財界の大物より大衆社会に向いていたということか

69年から「建築の解体」を唱えだす一方で、近代建築の発生を信じているとも言う。近代建築の枠組みをはぐらかし、茶化すように自分の言葉を組み立てることによって、却って新たな建築の魅力を引き出そうとしていたのではないか ⇒ このような逆説的な言い回しの背景が奈辺にあるのかは不明だが、岸田日出刀との出会いに1つのヒントがありそう。岸田は55年まで東大建築学科教授で、丹下を引き立て助教授にし、戦後建築史では丹下を育てたことで評価される建築家。磯崎は孫弟子として薫陶を受けているが、岸田は孫を可愛がるかのように磯崎に目をかけ、危なっかしく感じつつもそのじゃじゃ馬ぶりに目を細めたという

まだ27歳の大学院生に別府高崎山の寺院計画を任せたのも岸田

大分県立医師会館(60年竣工)は磯崎のデビュー作だが、空中に楕円の大きな壁面が浮かぶデザインは豚の蚊遣を思わせるが、磯崎自身も敢てそのユーモアに賭けるべきだと決めたという。美しさよりユーモアを優先した決断は、自分が愛されているという実感の賜物であろう

道化師、トリック・スターとして建築界を生きてゆく、そんな建築家の初心がここにある

実際、この人ほど斯界を賑わせ続けた建築家はほかにいない。道化がいつの間にか王位を射止めたような気もするが、戦後の岸田評は、磯崎を羽ばたかせた点も見落とせない



  • 安藤忠雄(1941) ~ 大阪から世界へはばたいて

大阪の工業高校機械科卒。建築は全くの独学。表現に携わる者がどれぐらいの学歴を経て頭角を現すものなのか、建築界のそれは異様に高い

住吉の住宅が出世作 ⇒ コンクリートの打ち放しで全体を構成で、傘を差さないとトイレにも行けない住みにくいものだが、建築現場の様子にそそられて注文が来たという

安藤自身が下町の長屋世界を行き、そこから羽ばたいた建築家で、初めから文化資本の高いところだけを当てにしてきた建築家とは、立ち位置が違う

日本では、アーキテクトに設計を委ねた住宅が欧米諸外国と比べて抜きんでて多い。自宅を周りから際立たせたがる人が大勢いる社会を日本は作ってきた。安藤はその社会層を関西の下町にまで押し広げた。日本的な趨勢に拍車をかけた建築家の代表的な1

打ち放しのコンクリートを表現に生かしてきた戦後の傾向を最初に押しとどめ、反転させたのが安藤で、70年代の安藤はコンクリートを絹ごしの豆腐とさえ評されるまで美しく磨き上げることに成功、コンクリートの仕上げに関するそれまでの常識を打ち破った

住吉の長屋の前に建てたコンクリート打ち放しの竣工建築を見て、いつ完成するのかと聞いてきた「近所」の声に、「粗いコンクリート仕上げだけでは日本人の繊細な感性には受け入れてもらえない、美しいコンクリートにしなければならない」と考えた結果だという、いかにも町が育てた建築家の面目躍如である

艶やかな打ち放しの壁は汚れやすいこともあって、当初は自分の建てた作品をしばしば見て回り、点検を施してきたが、仕事のスケールが大きくなるにつれ、外壁に占める打ち放しの割合が減ってきた。特に海外で目立つのはコンクリートの磨きぬいた壁を外側からガラスの壁で覆い、ガラス越しに見てもらう「ダブルスキン」という表現で、フォートワース現代美術館(02年竣工)などがその好例

70年代までは商業施設に強い建築家として頭角を現したが、その後の集合住宅でも、公共的な部分を都市に向かって解放し、ささやかな広場を成り立たせようとしたのは、社会的な意義のためと同時に、自分がこしらえた空間のハイライトをできるだけ多くの人に見せつけたいという建築家ならではの野心も預かっていたはず

関西を拠点としてきた安藤は、村野の衣鉢を継いでいるとよく評される。とりわけ関西財界との付き合い振りではそう言われることが多い。村野が長年かかって練り上げた建築家と資本のありようを安藤が踏襲した、とされるが、村野がそごうで施主の思惑を優先させてすべてのフロアを売り場で埋め尽くしたのに対し、安藤は商業施設でありながら施主の意向に反して公共の空間を広く取っていたように、建築の空間造形へ向かう心構えは、ずいぶん違っている

80年代後半からは、動線と関わる吹き抜けをより大きく深くくり抜いて上から光が注ぐ空間を実現させている ⇒ 宇都宮の大谷石採掘場で見た「空間の荘厳さ」に圧倒された結果

通路や階段を始めとする動線の扱いに特徴があり、動線はみな長く、その短縮化を目指す機能主義の建築理論に背を向けてきた ⇒ 見る場所ごとに建築の示す表情が違って映る。この変化を長い動線に沿って見る者に味わわせることを目指している。地中美術館(04年、直島)はその代表例で、建築群が地下に埋められた分、次に出会えるだろう空間への想いはより一層煽られる





あとがき

日本人は、近代的な自我を育んでこなかった、周囲の様子を窺い、空気を読む、そうして自我を押さえつけてしまう傾向が強いと言われるが、こと住宅や都市景観を含め建築の表現を比べれば、西欧の住宅地では大抵の家が街並みの中に溶け込んでいるのに対し、個性的な住宅が多く、建築に関しては日本こそが近代的な自我を発達させてきた

そんな日本社会が現代の建築家を育む温床となり、世界に名だたる日本の建築家はこういう土壌にも後押しされ、のし上がった

20世紀のモダニズムの一つに、機能は形を導き出すという理念がある ⇒ 機能主義

ヨーロッパ」では、古典主義の壁にあって撥ねつけられてきた機能主義が、日本では街中の異物を咎めるどころか、近代化の目印として前向きに受け止めた

モダニズムの前後をまたぐ20名の建築家を十羽ひとからげに、しかも順不同のように扱ったのは、神田の古書店で資料の入手できた建築家を優先したという事情もあるが、日本社会が旧様式とモダンデザイン及びそれ以後の建築を、建築家たちが口にする御託とは関係なく、どちらも周囲からは際立つ耳目をそばだてる建築だと同時代の人々は受け止めてきたという眼差しのあり方をこの本でも受け継いだということ







現代の建築家 [著]井上章一


従来の建築史覆す、勇気ある論

 「現代の建築家」が、1867年生まれの長野宇平治、伊東忠太から始まるのに驚いた。現代建築家は、第2次大戦後という通常の建築史の書き方を井上はなぜ逸脱したのか。
 建築デザインにおいても戦前と戦後とがつながっていることを示したかったのである。戦前を全否定して、戦後は断絶した反転、というのが現代史の大前提であった。しかし、40年体制論をはじめとする「断絶史観」を覆(くつがえ)す論が建築史にもあらわれた。
 従来の建築史は、戦前の悪(あ)しき民族主義が、コンクリートに瓦屋根をのせた和風建築を生み、戦後の民主主義が、コルビュジエ派のモダニズム建築を生んだと説いた。
 井上は正しいはずのモダニズムのリーダーたちの戦前を分析し、彼らこそが国粋主義によっていて、その国家総動員的発想が、戦時下におけるスピードとコストを重視したシンプルなモダニズム建築に直結したと看破する。
 明治以来、日本のエリートは一貫して西洋崇拝であり、それが明治にはギリシャ・ローマ風を生み、西洋の主流が、モダニズムへ転換するのと平行し、日本でもモダニズム建築が主流になったと井上は説く。合理主義と国家総動員の遭遇が転換のバネになったというわけである。西洋崇拝の伝統は、1980年代の磯崎新のつくばセンタービルの、ギリシャ・ローマ風のポストモダニズム表現にしっかりと受け継がれたという指摘は、目からウロコだった。
 戦後建築家は、難解な言説を駆使して、「反権力、反国家の自分」を演出し、建築界はその洗脳下にあった。井上は、その構図自身をくつがえし、日本の建築家は、西洋に追いつけという明治以来の大いなる国家意志を、何者にも強制されることなく、自発的に体現していった「いい子」だったと総括する。日本の現代建築史を覆す勇気ある論である。
    
 エーディーエー・エディタ・トーキョー・3456円/いのうえ・しょういち 国際日本文化研究センター教授。


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