ニュルンベルク裁判  芝健介  2015.8.18.


2015.8.18. ニュルンベルク裁判



著者 芝健介 1947年生まれ。東大大学院社会学研究科博士課程(国際関係論)修了。東京女子大現代教養学部教授。ヨーロッパ近現代史(ドイツ現代史)



発行日           2015.3.26. 第1刷発行

発行所           岩波書店



「筋書き通りの勝者の裁き」「ナチスの犯罪を暴いた画期的裁判」――毀誉褒貶相半ばし、いまだ評価の定まらないニュルンベルク裁判。米英仏ソ4か国がナチス主要戦犯を裁いたニュルンベルク国際軍事裁判とその後の米軍主宰の12の「継続裁判」とをあわせ、その実態を描き出すとともに、先行する第1次大戦後のライプツィヒ戦犯裁判から戦後ドイツにおける受容のあり方までを辿り、未曽有の戦犯裁判の全体像に迫る



はじめに

  • いま何故、戦争犯罪、戦犯裁判史を問題にするのか――戦犯裁判と犠牲者

20世紀の戦争と戦争犯罪にかかわった戦争犯罪裁判に対する歴史認識、実態理解が果たして十分見直されて、現在の戦犯裁判と裁判への理解に生かされているかという問題が1つの大きな焦点となる

「勝者の裁きにすぎない」という批判の基底には、勝敗のいかんを問わず裁かれるべきものが裁かれていないという厖大な犠牲者の怨嗟が依然渦巻いている

  • 従来の戦犯裁判研究の動向と問題点――本書の狙いとアプローチの特徴

不十分に終始してきた実態研究の反省に立って、ニュルンベルク裁判の全体構造と展開を、歴史的脈絡に据え直して具体的に捉え返すことにより、新鮮な輪郭の裁判像を提示することを目的とする



  1. 忘れられた戦犯裁判

第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約では、連合国がドイツ皇帝を訴追すること、犯罪行為ゆえに訴追された者を軍事裁判にかける連合国の権限をドイツが認めるとしたが、ドイツ軍部高官のみならず世論までも条約履行拒否の声が広範に拡大、戦犯引き渡しを実行できる国内機関がないとしてドイツ政府には不可能であり、代わりに国内の刑事訴訟手続きにかけることを約束、連合国側も引き渡しを強行すればドイツを危機的な政治的不安定化、さらにはボルシェヴィキ化の大混乱に導きはしないかという恐れからドイツの申し出を受け入れる

ドイツは、国民議会で「戦争犯罪・違法行為追及法」を制定、ライプツィヒ国事裁判所(最高裁)がドイツ法によって可罰性を判断した

主要な判決は、捕虜虐待と病院船の撃沈などを対象に、最長4年まで

判決が欠落させた重大な問題の1つは、上からの命令を発する軍指導部の刑事責任を問わなかったこと

国際法に違う違法な戦闘行為についてその個人の刑事責任自体を問うという原則そのものは、ライプツィヒ裁判で世界史的に初めて確立されたと言える

従来は、捕虜に対して刑事責任を問うことは敵国の報復措置を招きかねないとして訴求せず、敵国の処罰権から自国兵士を守るためには、他国兵士に対する赦免で代価を払うのが一般的であり、講和条約が恩赦を伴うことと相通じるものがあった



  1. ニュルンベルク国際軍事裁判(IMT)への道

1928年 不戦条約により、戦争違法化原則が確認される

大戦後、最初の戦時国際法への取り組みは、空襲、毒ガス、潜水艦に対する規制から始まる

国際軍事裁判成立への道は、本国がナチ体制の暴虐に晒されたヨーロッパ中小諸国のロンドン亡命政府が戦犯追及裁判を要求したことによって本格的に始まる ⇒ 42年セント・ジェームズ宣言で、仏蘭伯ポーランドなど9か国が参加

43年 米英他も加わって連合国戦争犯罪調査委員会設立合意

45.5.2. ロバート・ジャクソン米最高裁判事・元司法長官(18921954)がトルーマン大統領によって、ニュルンベルク国際軍事裁判における米首席検察官に任命される ⇒ ジャクソンはしばしば「ニュルンベルク裁判の設計者」と称される

45.8.8. ヨーロッパ枢軸国の主要戦争犯罪者の訴追及び処罰に関する協定 ⇒ 国際軍事裁判憲章(ニュルンベルク憲章)を伴う

「平和に対する罪」 ⇒ 「武力概念と結びついた侵入」にはソ連が、「無限定の侵略戦争の開始」には英仏ソが難色を示したが、ジャクソンが押し切る

「人道に対する罪」 ⇒ ニュルンベルク裁判における「比類無き革新」という歴史的評価が一般的。当初は戦時国際法上の禁止に該当しないと見做されていた重大な虐待・虐殺を「人道に対する罪」に含めるようになったのは、犠牲者の国籍と密接に連動している。民族性、宗教・政治信条を理由にしてある特定集団全員に対して犯された犯罪として定義



  1. 裁かれた戦争犯罪――ニュルンベルク国際軍事裁判の展開

45.10.18. べ英仏ソ4か国検察陣が起訴状を提出し、裁判が始まる

45.11.20. 被告人がほぼ出そろい、公判開始

起訴状成立過程では、凄まじい綱引き、権力闘争が展開された

24名の被告人が選定されたが、短期裁判終結を前提に、国際社会で悪名の高かった指導者に限定。急いだ選定だったが、基準は不透明。最終的には、開廷前に自殺した1人と、クルップ会長が病重篤として訴追から外された

併せて、親衛隊、突撃隊、陸軍参謀本部、国防軍総合司令部、ナチ党将校団、ゲスターポ、保安部の6つが犯罪「集団及び組織」として挙げられ、法廷で犯罪立証の説明がなされることになった

起訴状の問題点 ⇒ 参謀本部が親衛隊やゲスターポと同列の犯罪組織として追加されたことと、カティンの虐殺について言及した点。前者は米国が主張、後者はソ連が固執、41年にナチがソ連による虐殺とした調査結果を公表しており、挙証責任をソ連に持たせることして挿入された

1訴因 共同謀議

2訴因 平和に対する罪 ⇒ 36の国際条約や協定が64回にわたって侵された

3訴因 通例の戦争犯罪(戦争法違反) ⇒ 虐殺、虐待、強制移送、捕虜虐待、略奪等

4訴因 人道に対する罪 ⇒ 非戦闘員の虐殺等と、政治的・人種的・宗教的理由に基づく迫害

クルップの扱いについては、経済界からの軍事協力が問題とされたものの、立証が難しく、被告人として挙げること自体に問題があった ⇒ 英仏は、クルップの訴追を実質的に断念する代わりに、企業家の犯罪は今後の戦犯裁判で取り扱うという特別声明を出す。この声明によって、ニュルンベルク国際軍事裁判をさらに延長拡大した継続裁判が行われる可能性が初めて出てきた

最初の証人は元オーストリア軍情報将校エルヴィン・フォン・ラフーゼン ⇒ 併合後はドイツ国防軍防諜部に配属されたが、対ポーランド侵略における(ポーランド)民族の政治的「耕地整理」計画とその実行に係る証言は法廷を震撼させた

裁判憲章では証人に対する直接の反対尋問が被告に認められていたが、裁判長は否認

46.9.の裁判終了までに出廷した証人は236名。他の裁判で死刑判決が予想されるような人物が検察側、被告側の双方の証人として出廷したのも国際軍事裁判の大きな特徴。検察側証人として登場したナチの大物としてはオットー・オーレンドルフ(保安部を構築、行動部隊のトップだった際のユダヤ人殺害により、継続裁判で死刑判決を受け絞首)で、即物的証言は裁判に関心を持つ人々の心胆を寒からしめる衝撃的内容。その他にも加害者が証人として出廷したシーンが多いことに驚く

被告人自身が証人として証言することが認められ、46.3.ゲーリングが満を持して証言。麻薬中毒を克服、冴えた弁舌能力を発揮 

46.10. 判決 ⇒ 12名が絞首刑、3名が終身刑、4人が1020年の刑、3名が無罪

2週間後に死刑執行



  1. もう一つのニュルンベルク裁判――ニュルンベルク継続裁判

IMT後の裁判は、連合国対独管理理事会の法に基づき、直接の占領主体各自の独自判断で実施 ⇒ 裁判所は、各占領区の軍政府機関の1部局

4国軍政府下、25万人が勾留、高い比率で死刑判決が下され執行された

IMT後、同じニュルンベルクで開廷され、最も重要な被告人たちを裁いた12の米軍裁判をニュルンベルク継続裁判と言う

被告は185名、ほとんどがIMTで断罪された3つの犯罪組織(SS、ゲスターポ、SD)のいずれかに所属

米検察局の最重要課題は、第三帝国期に行われた無数の国際犯罪に対する最も重大な人的責任がどこにあったのか決定することにあった。犯罪組織に属していただけでは起訴されず、特定の違法行為の責任が問われた

  1. 医師裁判(被告数23) ⇒ 捕虜などの同意もなく行った残虐な医学上の生体実験
  2. ミルヒ裁判(1) ⇒ 中央計画庁長官として強制労働計画に加担していたことと人体実験の共同正犯
  3. 法律家裁判(16) ⇒ 法と正義を破壊し、人を迫害するための司法殺人という残虐行為を追求
  4. ポール裁判(18) ⇒ SS内の経済管理本部長官ポール他による暴力的に拉致し強制労働を強いた行為
  5. フリック裁判(6) ⇒ 鉄鋼王フリック・コンツェルンによる捕虜も含めた外国人の強制労働。戦争法が適用され有罪となった史上初の企業裁判
  6. IG(イーゲー)ファルベン裁判(24) ⇒ 毒ガスなどの武器原料を提供したコンツェルンが、ナチの機械化戦争にとって死活的要素となって戦争遂行を支持
  7. 南東戦線将軍裁判(12) ⇒ 「人質裁判」とも言われ、ナチ占領地域での大量殺戮
  8. SS人種・植民本部裁判(14) ⇒ ナチ人種計画への寄与。ドイツ化の推進と、それを妨げるポーランド人やユダヤ人等諸要因の強制排除・根絶
  9. 行動部隊裁判(24) ⇒ 東部占領地域全てにおけるユダヤ人抹殺
  10. クルップ裁判(12) ⇒ 強制労働以外にも巨大軍需産業が第三帝国の軍事的成功を決定的に助けたとして、「平和に対する罪」が重要な訴因をなした
  11. 諸官庁裁判(21) ⇒ ナチ体制における官僚制をユダヤ人撲滅機構としての機能面から検証しようとした。ドレスナー・バンク頭取も占領地域における経済的略取、強制労働が訴追。判決が個々におかされた実際の犯罪の重大性を、ナチ党に染まっていた程度より重視したことから、判決の公平性については疑問も
  12. 国防軍統合司令部OKW裁判(14) ⇒ 国防軍全体の組織としての犯罪性を追求、反ボルシェヴィズム、反ユダヤ主義、反スラヴ主義に基づく殺害指令を取り上げ、部下の犯罪行動に関する「コマンド責任」については、本間雅晴中将や山下奉文大将の裁判の影響もあって、自らの指令地域において何が行われているか、司令官は常に知っておくことが義務とされた

死刑判決は①④⑨の25



  1. IMTと継続裁判の法理問題をめぐる追加考察と両裁判の比較

裁判に対する異議 ⇒ 「侵略戦争」の定義自体存在しない

    1. 国際犯罪を定義し判定する国際刑事制度は存在しない。事後法禁止原則に抵触
    2. 裁判官構成のアンバランス ⇒ 戦勝国による裁判

平和に対する罪 ⇒ 不法な企図に対する個々人の関わり方をいかに評価するかが難問で、両裁判を通じて深く掘り下げたとはいいがたい結果となった

戦争犯罪 ⇒ 戦争慣習法については新しい要素がもたらされたわけではなかった。空の戦争についてはあまり追及されず、海戦についても潜水艦戦が注目されたが、有罪とまではされなかった

「国際法の主体」としての個人 ⇒ 継続裁判の⑤で取り上げられた問題で、従来の国際法と国内法は分離した2つの外延を持つという二元論に対し、戦争犯罪人処罰要求が急速に強まる中で、私人を含めた個人が「国際法の主体」として承認されるに至った

人道に対する罪 ⇒ 戦前の対ドイツ・ユダヤ人迫害問題を取り上げ、自国住民への犯罪行為についても、戦争中の犯罪に限定されずに、国際法違反を問えるとした。人道に対する罪の概念が国際刑法の確固たる部分となって、将来の戦争に対しても重要な阻止要因となると言われ、ジェノサイドについては48年に国際連合での合意となって実現



  1. ニュルンベルク裁判以後のナチ犯罪裁判

東西ドイツによる戦犯裁判 ⇒ 連合国による裁判で有罪とされたのは、20世紀末時点で56万人。西側3か国占領地域で有罪判決を受けたのは5,025名、うち死刑宣告が806名、486名が処刑。ソ連占領区では約122,600+外国人34,700名が逮捕、有罪宣告が45,000名、その1/3がシベリア他へ強制移送、死刑の数は不明

ドイツ国内での、戦勝国による裁判批判の高まりと、冷戦の進行により、戦犯政策は緩和の方向へ進み、減刑・特赦が行われた

管理理事会法が廃棄されたのは56年で、以後はドイツの裁判所によるナチ犯罪の追及が続き、国内刑法を適用する形で、60年代半ばまで年20件前後で推移

各国の戦犯裁判

被併合国

  • オーストリア ⇒ 45.6.制定の戦争犯罪人法により処罰

被占領国(軍政)

  • ベルギー ⇒ 47.9.軍事裁判所権限法制定
  • フランス ⇒ 44.8.戦争犯罪処罰法公布、人道に対する罪を時効不適用に
  • ソ連 ⇒ 独ソ戦開始以降外相覚書により処罰、即決即時執行。個人の直接的責任の立証なしに犯罪組織の構成員というだけで有罪
  • ユーゴ ⇒ 戦争犯罪統計がなく、複雑な民族関係が反映され処罰の全体像は不明
  • 被占領国(民政)
  • デンマーク ⇒ 45年夏の国家反逆罪が40.4.のナチ占領時に遡って適用
  • オランダ ⇒ 裁判終了後も、ユダヤ・メディアが「ホロコースト」を二義的にしか扱っていないとオランダ政府を非難、戦後のオランダの反ユダヤ主義を「リトル・ホロコースト」と呼んだ
  • ノルウェー ⇒ 9万以上が起訴され半数が処罰。戦争犯罪での死刑は15
  • ポーランド ⇒ 有罪の1/3は連合国から引き渡された。IMTに代表を派遣し、その結論とバランスを失した厳しい判決は避けられた
  • チェコ ⇒ 45.6.の大統領布告(のちに法制化)に基づき判決

ドイツ以外の枢軸国

  • ブルガリア ⇒ 44.10.戦争犯罪有責者の断罪法により処罰
  • ハンガリー ⇒ 44.3.連合国と独自に休戦交渉したことが発覚して独軍占領という事態を招き、その後ソ連に降伏、ソ連との講和条約で戦犯追及を義務付けられた
  • ルーマニア ⇒ 開戦後ナチとの国家協定で民族ドイツ人(ドイツ系ルーマニア人)を武装SSに大量提供。アウシュヴィッツのSS監視隊員にはルーマニア出身が多いことは有名。戦時中にヒトラー指令でドイツ国籍を取得、戦後も追及を恐れて帰還しないケースが多い
  • イタリア ⇒ 戦闘行為休止後、自国のファシストを処罰

全体としては、司法的障碍の少なかった対独協力者の裁きが先行、ドイツ人戦犯については、IMTの結論待ちとともに、裁判の合法性等に関する懸念に制約されて遅れ、その間新たな冷戦の状況により追及が緩和され、西独もその状況を歓迎

ドイツ人自身による裁判 ⇒ 継続裁判の皮切りとなった医師裁判と並行して始まる

  • 西部ドイツにおける「安楽死」裁判 ⇒ 4651年に西部占領地区とベルリンで実施され、「安楽死」自体を自然の永遠の人倫法の規範に抵触するとして、命令の如何に拘わらず違法とされ処罰の対象とされたが、その後要件は緩和の方向へ動き、直接関与した医師の中には全く責任を問われなかったケースも少なくなかった
  • 東独の初期戦犯裁判と「安楽死」殺人裁判 ⇒ 戦前(3339)のドイツ国内におけるナチ犯罪の追及は、非ナチ化法の実施をはかった各占領地区総司令官の裁量に委ねられたため、49年東独建国までに出されたソ連軍政当局による処罰は、犯罪組織に属しているだけ有罪とされたものが多く、「反ファシズム」を始めから国是としたことから建国時にナチズムが徹底的に追及・排除されており、その後の自国内での刑事追及に重大な関心を持たなくてもよいはずという論法がしばしば通った



  1. 西ドイツにおけるニュルンベルク判決の受容

歴代の西独政府はニュルンベルク裁判の判決を公式には受け入れてこなかった

51年 アデナウアー初代首相のローマ教皇宛の書簡 ⇒ 戦争犯罪で追及・断罪されたドイツ人の問題が、ドイツと諸国民の関係を今なお損ねている。西側諸国がなお1750名のドイツ人を拘束していることをドイツ国民が不当と感じている

主権と再軍備と戦犯問題を抱き合わせにしては議会が通らない

58年 ニュルンベルク裁判の被告は減刑されないまま、かつ、犯罪者登録簿(前科人名簿)に掲載されないまま収容され続ける一方、連邦最高裁は、戦犯に関する外国の有罪判決を認めないことを確認

司法におけるナチ犯罪追及と「過去の克服」 ⇒ 西独司法機構における旧ナチ裁判官の大量残留がナチ裁判全体の追及を停滞させたのは間違いないが、50年代末になって国内世論もその矛盾を指摘し始め、議会が裁判官に退職を勧告する制度を作る

アイヒマン裁判と戦犯問題への西独外務省の対応 ⇒ 60年のアイヒマン逮捕、イスラエルでの裁判、62年死刑執行。イスラエル諜報機関による国家主権侵害にアルゼンチンが抗議、国連安保理事会に提訴。法的論点は被告人の拉致という手段が非合法ゆえに裁判にかける権利の合法性が無効というものだったが、裁判所は犯罪容疑者が裁判に引っ張り出される方法自体には関知しないとした。それ以上に絶滅収容所の実態が改めてクローズアップされ、ニュルンベルク裁判の歴史的意味合いを忘却しようとしていた60年代初めの西独にショックを与え、国内での本格的な自主的戦犯裁判と言える「アウシュヴィッツ裁判」はじめ一連の絶滅収容所裁判開廷を促す決定的な契機を与えた

60年 シュレーダー内相が、ドイツの責任については公的には言及しないことが民主主義体制の安定と切り離しがたいことを確認

戦時外務省のホロコーストに対する犯罪的関わり方、また戦時期の歴史家たちのナチ民族政策への決定的なコミットが明らかにされるのは90年代も末になってからのことで、各分野の機能エリートたちの犯罪が徹底的に解明されるようになるまでニュルンベルク裁判から半世紀以上の時間を要している

63年 「アウシュヴィッツ裁判」開廷 ⇒ 加害者として直接関わった人間は累計で7000人以上とされるが、大半は終戦時地下に潜っていたこと、すでに50年代にはナチの不法の追及さえ不十分だという意識自体なくなりつつあったこと、犯罪要件が厳格に判定されたことから、「現在の法が認めている範囲で最小限レベルの量刑が下され、犠牲者を嘲弄するに等しい軽い刑になった」と言われように、ジェノサイド犯罪は指導者たちの責任であり、被告たちを含め従属者たちは命令を遂行したにすぎないという結論に落ち着く

66年 西独刑法改正 ⇒ 虐殺の幇助(従犯)については低劣な動機を主犯と共有していない場合は量刑軽減を義務付けることとしたため、アイヒマンに象徴される国家保安本部メンバーのような「机上の殺人者」には全く重罪を問うことができず、しかも通常の殺人幇助には20年の即時効が適用されたため、69年には連邦最高裁が捜査手続き中のすべてに停止判決を下す。これに批判的なメディアなどがナチ犯罪の時効について本格的な議論を喚起し、「戦争犯罪と人道に対する罪への時効不適用に関する国際条約」へと結実(70年発効)

ニュルンベルク裁判の評価の転換 ⇒ 70年代後半、社会史ブームが到来した西独では、「時代の証人」に対するオーラルヒストリー的アプローチが盛んになる一方、「克服されざる過去」への沈黙に対して寛容でいられない若者世代の苛立ちも目立ちつつあった

93年 国連安保理事会がハーグに旧ユーゴ国際刑事法廷を設置、統一ドイツに司法的支援を求め、有罪判決を受けた被告の刑執行を引き受けたことは、ニュルンベルク裁判に対して旧西独がとってきた態度とは全く異なるもの

この裁判の本質が内戦における犯罪を認定し、平時における人道に対する罪を確定するという新領域へ踏み込んだものだけに、国際刑法の妥当領域を、これまでの国家間の戦争による攪乱状態への適用から、犯罪的な内政という重大な現象形態にも拡大適用することが可能となり、いわば「第2世代の国際刑法」と言われ、ハーグの法廷もこの裁判がニュルンベルクの伝統に連接していると明言しており、内戦犯罪を認定した判決は、ヨーロッパ人権条約を「ニュルンベルク(附帯)原則」の延長線上に位置付けるものとなった

98年 ローマにおける法史上初の常設国際刑事裁判所創設国際条約調印に際してもドイツ連邦政府が積極的に関与 ⇒ ドイツ国内でも、「人道に対する罪」の犯罪構成要件を受け入れることにより、管理理事会法を独刑法に導入しないとした初期連邦共和国の決定を修正

10年 ニュルンベルク裁判所の600号法廷の上に新たにメモリウム(記念博物館)開設

ドイツ政府がニュルンベルク裁判を、「ナチ・ドイツにおける法の倒錯・異常状態に対する応答」であったと踏み込んで意義付けた

敗戦直後は、ナチ犯罪者を訴追することを正当と評した人が78%だったが、連邦共和国発足後の50年秋には38%に下落、過去の「忘却」ないし「駆逐」への願望が圧倒的になる。しかし50年代後半には、過去は「清算」されていないとする小さな批判の芽が形成され、以後様々な議論を随伴しつつも過去に向き合う態度は紛れもなく戦後の重要な政治文化、文化的アイデンティティになっていった



おわりに

戦争犯罪裁判について、どれだけ犠牲者の無念や遺族の悲嘆に応え得たのか、そうした惨禍を繰り返さぬためにどれだけの効果を実際挙げ得たのかという痛切な問いが現在まで投げかけられ続けている

過去の戦争、戦争犯罪、戦争犯罪追及裁判を総合的全体的に正確に把握することが、ますます切実で重要な課題になってきている

国際軍事裁判所憲章、特に3つの戦争犯罪概念(平和に対する罪、狭義の戦争犯罪、人道に対する罪)や、「上からの命令を根拠にした免責」をめぐる原則等が「ニュルンベルク原則」と称されるように、IMTの諸要素が基準となって東京裁判にいろいろな形で重要な影響を及ぼした事実自体は無視できないが、東京裁判からの影響も無視しえない

裁判に関する正確な歴史認識が共有されていないのは問題で、可能な限り正確な戦争犯罪裁判像を次の世代に伝えていくことが我々の責務





ニュルンベルク裁判 [著]芝健介
[評者]杉田敦(政治学者・法政大学教授)  [掲載] 朝日 20150628   [ジャンル]歴史 国際 

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「勝者の裁き」と平和への意義

 今夏、問い直される日本の責任。しかし、しばしば比較されるドイツの歩みを、われわれはどれだけ知っているのか。ナチス裁判に加え、協力者への裁判も詳述した研究書と、ドイツの学者による入門書が相次いで出版された。
 戦争犯罪を問う前例は、第1次大戦後にすでにあったが、第2次大戦後も、関係諸国の思惑が激突する中で、紆余曲折(うよきょくせつ)があった。イギリスのチャーチル首相らはドイツ将校の即時銃殺を主張し、裁判が当然の前提ではなかったというのは興味深い。
 軍事裁判が不公平な「勝者の裁き」だという不満はドイツでも渦巻いたが、米政治家スティムソンによれば、「釈放するか、即決処罰するか、裁判手続きをおこなうか」という三つの選択肢しかなかった(ヴァインケ著)。検事を務めたジャクソンは、裁く側の「われわれも歴史に裁かれることになりましょう」と、その覚悟を述べたという(芝著)。
 印象に残ったのは、裁判へのドイツのかたくなな姿勢だ

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