クリミア戦争  Orlando Figes  2015.5.31.

2015.5.31. クリミア戦争  上・下
Crimea : The Last Crusade  2010

著者 Orlando Figes 1959年生まれ。英国におけるロシア・ソ連史研究の第一人者。ロンドン大バークベック・カレッジ教授

訳者 染谷徹 1940年生まれ。東京外大ロシア語科卒。ロシア政治史専攻

発行日           2015.2.20. 印刷               3.5. 発行
発行所           白水社

序言
クリミア戦争は、2つの世界大戦の陰に隠れて、相対的に小規模な戦争と見做されてきたが、19世紀の一大事件であり、当時経験した最大の戦争
損失は膨大 ⇒ 75万人の兵士が戦病死、内ロシアが50
地域社会も巻き込んだ「全面戦争」
最新の工業技術が動員された近代戦の最初の例 ⇒ ライフル銃、蒸気船、鉄道、通信技術、軍事医学
戦闘の現場に戦争報道記者と戦争写真家が登場した最初
古い騎士道精神に則って戦われた最後の戦争
戦争の開始は、1853年オスマン帝国とロシアの軍事衝突で、ドナウ川下流域のモルダヴィア公国とワラキア公国が舞台。次いでカフカス、黒海沿岸全域へと拡大、54年英仏墺の参戦で主戦場がクリミアに移る
各国の資料を幅広く利用して、各大国が参戦に至る経緯を当時の地政学的、文化的、宗教的背景を含めて解明しようとする試みは、言語の如何を問わず、本書が初めて
歴史の巨大な転換点としてのクリミア戦争の再評価を試みたが、その影響は現在に及ぶ
クリミア戦争は、歴史の重大な分水嶺 ⇒ イタリア、ルーマニア、ドイツなどの新しい国民国家の誕生に道を開く一方、ロシア人は西欧に対して根深い遺恨を抱く
これまでの歴史学では、クリミア戦争の要因である宗教的動機は軽視される傾向があったが、フランスに後押しされたカトリック教会ないしローマ教会と、ギリシア正教会との間に発生した聖地紛争、即ち、エルサレムの聖墳墓教会とベツレヘムの降誕教会の管理権を巡る争いこそがクリミア戦争の出発点であり、ロシア皇帝にとっては戦端を開くための十分な理由だった

第1章        宗教戦争
カトリックと東方正教会の対立抗争激化の背景 ⇒ 鉄道と蒸気船の出現で大衆的な団体旅行が可能となり、パレスチナを訪れる巡礼者が急増、キリスト教各派が自派の巡礼者の便宜を図るために現地での宗教活動を活発化させる
最大の勢力はロシアで、ロシア人の熱烈な聖地信仰は、観光旅行的色彩の濃いカトリック教徒にとってもプロテスタント教徒にとっても異質なもの
聖地を巡る問題がロシア人の信仰の根幹にかかわる重要問題であることに無関心だった西欧の観測者は、ロシアの進出が西欧の各派教会の権利を脅かしつつあるという側面にのみ注目、ロシアによってパレスチナが征服されることを恐れた
最も敏感に反応したのがフランスで、宗教上の権益問題を話し合うための合同委員会を発足させたが、トルコはカトリックと正教会の対立関係に乗じて巧みに両派を天秤にかけていた
ロシア帝国は当時の列強の中で最も宗教性の強い国家で、全ての問題を宗教のフィルターを通じて解釈する宗教国家。モスクワは「第3のローマ」であり、キリスト教東方教会にとって残された最後の首都。オスマン帝国内のキリスト教徒をイスラムから解放し、コンスタンチノープルを奪回して東方キリスト教世界の首都に復帰させることこそ、ロシアの神聖な使命だった
1783年 ロシアによるクリミア併合 ⇒ トルコにとっては、オスマン帝国がイスラムの土地をキリスト教徒に奪われた最初であり屈辱そのもの
1787年 トルコがロシアに宣戦布告

第2章        東方問題
1453年 トルコがコンスタンチノープルを征服して以来、ビザンチン大聖堂がモスクに転用された ⇒ 大聖堂(バジリカ)から全ての鏡を取り外し、屋上の十字架を撤去、代わりに4本のミナレット(尖塔)を建て、祭壇と聖画壁を取り払い、壁を飾っていたモザイク画を漆喰で塗りつぶした
1848年 擁壁工事の点検中にロシア人建築家が偶然漆喰の下のモザイク画を発見、スルタンもその鮮やかな色彩に感銘し、全ての復元を命じたため、モスクが本来はキリスト教の大聖堂であったことが明らかとなる
14世紀の建国以来、オスマン王朝が統治の正統性の根拠としてきたのは、イスラム教を布教するためには絶えざる聖戦が必要であり、聖戦に勝利すれが領土が拡大するという論理だったが、オスマンの歴代支配者の多くは宗教上の原理主義者というよりも、実利主義的な政治家で、異教徒に対しては宗教的な隔離支配政策(ミッレト制度)を取った ⇒ 最大のキリスト教ミッレトが東方正教会で、最高権威であるコンスタンチノープル総主教は密かにロシアの支援を得てギリシャ帝国復活の理想の実現を期していたが、ロシアはギリシャ人による総主教の支配を嫌い、さらにはスラヴ系の正教徒も独自の立場でトルコの支配に抵抗しようとしていた
クリミア戦争の前夜には、オスマン帝国は「ヨーロッパの病人」と言われるほどに衰退
ロシアの勢力拡大に対し、英国が脅威を察知し、東方問題に対し独自の政策を追求し始める ⇒ ロシアの保護下に大ギリシャ帝国を復活させようとする動きに対抗して、独立のギリシャ国家を創設しようとした。1832年ロンドン会議で、列強諸国の保障のもとに近代ギリシァ国家が成立
東方問題の根本原因はスルタンを頂点とする支配体制の腐敗であり、英国は自らの軍事支配下に取り込もうとしたが、イスラム教徒は外国の干渉に対し強く反発

第3章        ロシアの脅威
英国内に反露的風潮が高まった背景には、インド権益への脅威やトルコへの親近感、さらにはロシアの圧政に抵抗し自由を求めて立ち上がったポーランドへの支援等がある

第4章        「欧州協調」の終焉
1851年 ハイド・パークでロンドン大博覧会開催
1851年 フランス第2共和制大統領ルイ・ナポレオンがクーデターで独裁者となり、翌年には第2帝政に移行、新たな皇帝の出現が他の欧州列強を脅かす存在に ⇒ フランスが民族の自尊心を回復するために戦うべき相手は、自由の敵ロシアであり、パレスチナの聖地問題をカトリックに取り戻すためのロシアとの紛争は、48~49年の革命で左右に分裂したフランス国内世論を再統一する絶好の機会

第5章        擬似戦争
1853年 オスマン帝国はロシアに対して宣戦布告 ⇒ ロシアのドナウ両公国(モルダヴィアとワラキア)からの撤退を要求するが、実際は戦争準備も不十分なまま15日間の猶予つきで、その間に国内に吹き荒れるイスラム大衆の戦争熱・革命熱を冷まし、英仏両国の介入を期待した疑似宣戦布告で、英仏が自重を促したにもかかわらず、トルコ軍が侵攻を開始
ロシアのニコライ1世は、自らの宗教上の信念に従ってバルカン半島の正教徒を守り、ロシアの国益を増進する既定路線を進む

第6章        ドナウ両公国を巡る攻防
1854年 トルストイがサンクトペテルブルクとモスクワでの自堕落な貴族生活に嫌気して砲兵旅団に入隊、最下位の士官としてドナウ戦線に配属され、一度ならず捕虜の危険に会うが、大半は現地司令部での社交生活に明け暮れる
英仏艦隊が参戦してオデッサを砲撃、オーストリアも連合国側に参加するに及んでロシアもドナウ両公国からの撤退を決断
コレラの蔓延も戦争終結への決断を早める
ところが、大軍を派遣した英仏にとっては、何も売るところのない終戦となったため、何等かの戦果を上げようとクリミア半島のロシア軍攻撃を目論む

第7章        アリマ川の戦い
英仏連合艦隊が、クリミア半島の西部に上陸、南下してセヴァストポリを目指す途中、アリマ高原を巡ってロシ軍と対峙
不意を突かれたのと、援軍が得られないままロシア軍は敗退、英仏軍は一気にセヴァストポリに迫る

第8章        秋のセヴァストポリ
軍港は18千の守備隊が守り、劣勢だったロシア艦隊は自らの艦船を港の入口に沈め、英仏艦隊の港内侵入・海上からの攻撃を阻止
両軍一進一退の激しい攻防が続く

第9章        冬将軍
54年の冬は、11月のハリケーンで始まる
夏用の制服しか持たない英軍兵士にとって寒さは厳しすぎ、さらに糧食の供給体制が劣悪で、半島南端の港経由で補給がなされていたが、とても十分とは言えなかった
傷病兵がまともな医療と看護を受けずに苦しんでいるという事実も『タイムズ』紙の戦場特派員報告を通じて初めて英国民に知らされた ⇒ 従軍志願を申し出る善意の女性が多く現れるが、ナイチンゲールもその1
動員すべき豊富な国内資源を有するロシアにとって、冬の数か月は高地で弱体化し、飢えと寒さに震える英仏連合軍を撃破する絶好のチャンスだったが、初戦の敗戦以来ロシア軍の最高指導部は権威と自信をなくし、皇帝も司令官たちへの信頼を失って、開戦への後悔すらし始め、前線への小規模な出撃しか許可を出さなかった ⇒ 海上封鎖されたロシアにとっては雪に閉ざされた陸路を使っての兵站が最大の障碍であり、さらに大規模攻勢に踏み切れない最大の理由はオーストリア軍の脅威だった
2月に戦線が動く ⇒ 連合軍がペレコフ地峡を奪ってクリミア半島とロシア本土を分断することを恐れたニコライ1世が大規模攻勢を命じたが、簡単に撃退され、皇帝も肺炎で急逝

第10章     大砲の餌食
ニコライの息子アレクサンドル2世は、長い皇太子時代に広く西欧諸国を訪れ、自由主義派詩人ワシリー・ジュコフスキーの影響を受けてリベラルな性向を持ち軍事には全く興味を示さなかったが、同時にロシア民族主義の支持者であり汎スラヴ主義派への共感を隠そう落としなかったので、即位後すぐに和平交渉に入ることはロシアにとって屈辱的であり考えられず、ロシアの「神聖なる大義」と「世界的栄光」を守る為に戦い続けることを宣言
英国の新首相パーマストンも、以前からの対露強硬派の筆頭であり、フランスに対しても対露対決姿勢の強化を要求、単にセヴァストポリのロシア軍の破壊のみならず、黒海沿岸全域からロシアの影響力排除をし、ロシア帝国の支配に抵抗する各地の解放運動を支援しようとしていた
ナポレオン3世はパーマストン構想に基本的には賛成だったが、カフカスを巡ってロシアと争うことについては冷淡。民主主義的な国民国家の集合体としてのヨーロッパを再構築するという大ナポレオンの革命の夢が甦れば、再びフランス国民に戦争への情熱を吹き込むことができるという期待を持ち、クリミア半島のオスマン帝国復帰を期したが、最大の関心事はポーランド独立の回復にあり、ロシアとの間の緩衝国とする構想だった
1855年の最初の数か月は、冬の寒さもあって膠着状態
前年末から始まった半島南端からセヴァストポリの英軍陣地までの鉄道敷設が英国軍の物資補給態勢を著しく改善。世界の戦争史上初の戦場鉄道で、勝敗の帰趨に決定的影響をもたらす ⇒ 復活最後の49日を期して史上最大の砲撃作戦が立てられる
10日間続いた砲撃の最中にトルストイも激戦地要塞の砲兵部隊に転属、軍人として自分にできる最大の貢献は戦争の実態を書き記すことにあると心に決めていた

第11章     セヴァストポリ陥落
激しい砲撃戦のあとは塹壕戦に移行、永遠に続くのではないかと思われるような膠着状態から両軍に厭戦気分が蔓延
9月初め、2度目の冬を回避するため英仏軍の総攻撃開始、町全体が炎に包まれる中、ロシア守備隊も全面撤退を指示。町の火災は数日間燃え続け、1812年のモスクワの大火の再現となる ⇒ セヴァストポリの惨状は目を覆うばかり、さらに英仏軍の略奪と泥酔が始まる
セヴァストポリ陥落後、ロシア皇帝は講和を求めるどころか、正教徒のスラヴ民族を扇動して民族主義的反乱とパルチザン活動を展開させヨーロッパ全土でのロシアの敵と戦う動きに出る ⇒ 手始めがカフカス南方のトルコの要塞都市カルス市の占拠となったが、英国政府は戦争継続、戦域拡大の決意をする
フランスは、クリミアでの打撃が大きく、さらに壊血病、チフス、コレラによる死者の急増で戦争継続が困難となり、ナポレオンは講和に傾く
和平条件を巡り、各国間の思惑が入り乱れ、クリミアの英仏軍は2度目の冬に突入

第12章     パリ和平会議と戦後の新秩序
18562月 パリ和平会議 ⇒ イギリスの強硬姿勢が他連合国の離反を招きかねなかったが、和平条約が成立
クリミア半島から英仏軍が撤収。ロシア軍部隊が各地に復帰、もともと90%を占めていたタタール人が激減、ロシア軍の報復を恐れたための脱出で、人口の2/3がオスマン帝国に移住、代わってロシアはクリミアへの入植者を募るとともにキリスト教化政策を推進
クリミア戦争はトルコ社会のすべての分野に影響 ⇒ トルコは世界に向けて窓を開き、西欧化していった。オスマン帝国への外国投資も大幅に拡大
導入された外国資本は電信システムと鉄道の開発を刺激、新聞を中心とする新しいジャーナリズムの誕生を促す。戦況に関する情報を求める市民の要求に応える形で出現した新しいジャーナリズムは、結果的にトルコの世論ともいうべきものの形成に繋がり、ジャーナリストと改革派知識人を中心として「新オスマン人」と称する緩やかな結びつきのグループが生まれ、60年代に入って一種の政治集団に発展、イスラム教の伝統の中で西欧文明を採用すべきという思想を打ち出し、これが「精神的祖先」となって、やがて「青年トルコ党」が誕生、近代トルコ国家を樹立することになる ⇒ オスマン帝国に対する西欧列強の干渉拡大には断固反対。帝国内各地でキリスト教徒とイスラム教徒の軋轢が高まる
パリ和平条約は、欧州域内の国境線の大幅な変更はもたらさなかったが、国際関係と国際政治の変化に与えた影響は極めて大きい ⇒ 墺露が欧州大陸を支配していた旧来の力の均衡に事実上の終止符を打ち、イタリア・ルーマニア・ドイツなどの国民国家の誕生に道を開く新しい環境を生み出した
尉やぃで懲罰を受けたのはロシアだったが、長期的観点から最も多くを失ったのはオーストリアで、56年以降欧州大陸で孤立化を深める
ロシア人のあいだには、ずっと昔から西欧に対する怨嗟の念が存在したが、クリミア戦争はその怨嗟をさらに深める結果となる ⇒ 特に、英仏がトルコに味方したことはイスラム勢力に西欧列強が肩入れした歴史上初の例として許せなかった
西欧に対する怨嗟を最も強く感じていたロシア人の1人にドストエフスキーがいる ⇒ 社会主義に加担したとして49年にシベリア流刑となっていたが、クリミア戦争では中央アジアで一兵卒として従軍、この戦争を「ロシアのキリストを磔刑にした」戦争であると規定、いずれ復活して東方に向かい世界をキリスト教に強化し続けると、西欧の読者に警告
全ての国際紛争の発端となった場所エルサレムでも564月には戦争終結宣言が出されたが、直後から古い宗教対立が再燃 ⇒ まずは、ギリシャ正教徒とアルメニア正教徒が衝突

エピローグ クリミア戦争の伝説と記憶
英国では、セヴァストポリで仏軍の大勝利に匹敵する戦功を達成できなかったとして、失望感が広がるが、犠牲となった兵士を悼み、その英雄的勇気を称えようとして多くの記念碑や銘板が建てられた。最大のものはウォータルー広場に設置された「近衛歩兵連隊兵士の像」、英国が初めて一般兵士を英雄として称えた戦争記念碑で、象徴的意味は大きい
兵士に対する国民の見方に大きな変化をもたらした点で戦争の意義は深い ⇒ 兵士は国の名誉と権利と自由を守る存在であるという近代的な国民意識の基礎が築かれた
戦争指導部で過誤を犯した貴族階級に代わって中流階級が自信を強める契機ともなり、その典型がナイチンゲールであり、国民的英雄として迎えられた
1857年 新たに「ヴィクトリア十字勲章」創設、出身階級と軍隊内の階位を問わず、勇敢に戦って勲功を挙げた軍人に授与される新しいタイプの勲章。62人に授与
英国の国民性にも大きな影響を与えた ⇒ 英国の学童にとって、クリミア戦争は英国が自由を守る為に立ち上がり、熊のような強国ロシアと戦った戦争であり、正義と暴力とが衝突した単純明快な戦い、暴君やいじめっ子から弱者を救済するためにジョン・ブルが駆けつけるという物語は英国民にとって欠かせないテーマとなる。1914年に「小国ベルギー」を守る為に英国がドイツに宣戦布告した時も、1939年にポーランドを守る為にドイツに宣戦布告した時も、クリミア戦争を戦った時とほぼ同様の国民感情が働いていた
クリミア戦争の激戦となった戦場名や、その他戦争に関連する多くの固有名詞が集団的記憶として今日に至るまで残っており、その多くが街路やパブの名称になっているし、戦争直後に生まれた子供の名前にも多く見られる
フランスでも、動員された31万人の1/3は不帰の人となり、その戦争の記憶を留める地名は国内各地に残されている ⇒ セーヌ川のアルマ橋は1856年にクリミア戦争を記念して架けられた
ただ、フランスの国民性に与えた影響はイギリスの場合に比べてはるかに小さく、その後に続く普仏戦争の敗北の影に隠れ、今日ではクリミア戦争はほとんど語られることのない「忘れられた戦争」である
イタリア、トルコでもフランス同様、クリミア戦争の記憶はその後の戦争の陰に隠れた
イタリアでは、戦死した兵士たちの記念碑すら残されていない
トルコでは、動員されたトルコ兵の1/2にあたる12万人が戦死したが、その後の民族主義運動の立場から意図的に国民の記憶から抹消された
イギリスと同様に大きな影響があったのはロシアで、クリミア戦争に関するすべての出来事がその後の国民性の形成に重大な影響を及ぼした ⇒ 敗北は耐え難い屈辱であり、異教徒に味方してロシアに敵対した西欧諸国に対する深い怨嗟は募るばかり。キリスト教の大義のために犠牲を厭わず戦ったという意識が軍事的敗北を精神的勝利に変えた。トルストイの『セヴァストポリ物語』は、いわゆる「ロシア精神」が集中的に具現された小宇宙としてのこの町のイメージを国民の間に定着させた
2006年 ロシアでクリミア戦争に関するシンポジウムが開催され、プーチンが改めてニコライ1世を再評価、クレムリンの大統領執務室の隣の間に肖像画が掲げられた






^クリミア戦争(上・下)オーランドー・ファイジズ著 現代につながるロシアの国際関係
2015/5/3付 日本経済新聞 朝刊
 極めて優れた歴史書だ。いや、近代社会論、宗教・民族の文明論、さらに今日再認識されている地政学の観点から見ても、第一級の書だ。上、下800頁(ページ)だが、国際政治や今日の宗教紛争などに関心を有する読者をぐんぐん引き込む力がある。皮肉だが、プーチンの「クリミア併合」に何か肯定面があるとしたら、5年前に英国で出た本書にわれわれの関心を向けさせたことかもしれない。
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 題名はクリミア戦争だが、内容は19世紀のロシア、欧州、そしてトルコなどイスラム圏を包括した総合的で卓越した近代政治、社会、文明論となっている。本書を読んで驚かされるのは、19世紀のクリミア戦争論が、そのまま20世紀の冷戦時代論、そして今日のロシア・ウクライナ論、イスラム論にも通底しているのを感じさせることだ。換言すれば、歴史や国際政治の表面は大きく変わっても、生地の部分はさほど変わらないということでもある。
 次のような内容の記述がある。――クリミア戦争での敗北後のロシアの関心はアジアに向けられ、戦争が終わっても埋まることのなかった英露間の根深い不信を背景として、ロシア皇帝は大英帝国を相手にアジアをめぐる帝国主義的覇権争いに政策を転換した。クリミア敗戦に対するロシア人の反応は、ひとつは東方進出、他は汎スラブ主義の再興で、西欧に対する怨嗟(えんさ)の念がナショナリズムの爆発を招いた――。この「クリミア戦争」を「冷戦」、「英国」を「米国」、「皇帝」を「プーチン」と置き換えれば、そのまま現代の米露対立とロシアのアジア・シフト、そしてロシアにおけるナショナリズム爆発の説明となる。そして、プーチンがクリミアをロシアの聖地として扱い、彼自身が宗教に傾いているのも、単に政策上の方便ではないことが、本書を読めばよく分かる。
 本書で評者が啓発されたことは、英国やロシアではクリミア戦争で初めて貴族中心の軍から国民重視の軍という観念が生まれ、近代的な国民意識や国家改革の基礎が築かれたという指摘だ。歴史書としては、時代の鳥瞰図(ちょうかんず)と、戦場の微視的な情景などが共に描かれているのが良い。
 かつては一面的に「欧州の憲兵」、反動の象徴とされた戦争遂行者ニコライ1世だが、彼の肖像画がプーチンの命令でクレムリンの大統領執務室の隣に掲げられたと、最後に述べられている。現代ロシアは論じられていないが、著者の問題意識を暗示する。翻訳も優れている。
原題=CRIMEA
(染谷徹訳、白水社・各3600円)
著者は59年生まれ。英国におけるロシア・ソ連史研究の第一人者で、ロンドン大教授。著書に『囁きと密告』など。
《評》新潟県立大学教授 袴田 茂樹


Wikipedia
クリミア戦争: Crimean War: Guerre de Crimée: Крымская войнаKırım Savaşı)は、1853から1856の間、クリミア半島などを舞台として行われた戦争である。

概要[編集]

フランスオスマン帝国およびイギリスを中心とした同盟軍及びサルデーニャロシアが戦い、その戦闘地域はドナウ川周辺、クリミア半島、さらにはカムチャツカ半島にまで及んだ、近代史上稀にみる大規模な戦争であった。
この戦争により後進性が露呈したロシアでは抜本的な内政改革を余儀なくされ、外交で手腕を発揮できなかったオーストリアも急速に国際的地位を失う一方、国を挙げてイタリア統一戦争への下地を整えたサルデーニャや、戦中に工業化を推進させたプロイセンヨーロッパ社会に影響力を持つようになった。また北欧政治にも影響を与え、英仏艦隊によるバルト海侵攻に至った。この戦争によってイギリスとフランスの国際的な発言力が強まりその影響は中国や日本にまで波及した。

背景[編集]

ナショナリズムの台頭[編集]

19世紀中頃に、ナポレオン以後のヨーロッパ社会に比較的長期の安定をもたらしたウィーン体制が各国の利害関係の複雑化などから揺らぎ始めた。やがて広大な領地に異なる文化や宗教を唱える民族を多数抱えるオスマン帝国のような多民族国家では、被支配民族を中心にナショナリズムが台頭するようになった。
中でもボスニアヘルツェゴヴィナは、民族的にはスラヴ系でも宗教的な支配層はムスリムであり、そして被支配層はキリスト教徒が多数であったため、また工業化がほとんど進んでいないこの地域では人口の大多数が封建領主に搾取される貧農であったため、たびたびセルビアモンテネグロの反オスマン運動の宣伝に使われた。
オスマン帝国は、近代化よりもまずはこの地方の安定化を優先させる事を意図して、キリスト教徒の被支配層にある程度の平等を宣言して税制の公正化を図るなど、問題の解決に奔走していた。しかし、1848年からの一連の革命を機に起こした運動が失敗したために、農奴状態の農民がさらに悲惨な状況に追い込まれることを危惧したオスマン帝国は、不安定ではあるが再び支配権が確立された後に、この地域への農業改革(自作農化)を求めた。これに対して支配層のムスリム貴族たちが反対したために、オスマン帝国は1850にドナウ方面軍司令官オメル・パシャを派遣して反対派をサラエヴォから追い出して一時的に秩序の回復に成功するが、蜂起した農民の武装解除には至らなかった。
ロシアとオスマン帝国の直接の対立の発端となったのは、オスマン帝国が支配していたエルサレムをめぐる聖地管理問題であった。フランスのナポレオン3が個人的な名声を得るために国内のカトリック教徒におもねって聖地管理権を獲得すると、正教会を国教とするロシア皇帝ニコライ1がこれに反発した。ロシアは正教徒の保護を口実にしてオスマン帝国全土に政治干渉し、これがモルダヴィアワラキアへの兵力投入につながっていった。

諸国の策略とイギリス外交の不調[編集]

1852モンテネグロ公ダニーロ1英語版は、ロシアとオーストリアの賛同の下に制定した新憲法にオスマン帝国が反対したことを理由に挙兵し、同年にヘルツェゴヴィナ東部で発生した農民反乱を支援してオスマン帝国軍を攻撃し始めた。地の利があるモンテネグロがヘルツェゴヴィナから越境攻撃を繰り返すゲリラ戦を展開する一方、これに苦戦を強いられたオスマン帝国側は、オメル=パシャトルコ語版英語版によってスクタリから武器を買い付けてボスニア人ムスリムに流すことによって対抗した。こうして戦況は次第に泥沼化していった。
モンテネグロはセルビアからの支援を受けて善戦するも、兵力の上で圧倒的に不利なため、185212月にオスマン帝国がアドリア海に艦隊を派遣すると、ロシアからの助言の下に和平交渉の準備に入り、18531月にダニーロ1世の叔父にあたるカラジョルジェ・ペトロヴィチ (Karađorđe Petrovićが使者としてサンクトペテルブルクに赴いて、ロシアにオスマン帝国との仲介を依頼した。
一方で、戦線の拡大を望まないオーストリアもオスマン帝国との講和を打診するものの、2月からの交渉においてオスマン帝国とモンテネグロとの双方が講和に合意するには至らなかった。これに加えてアルバニアで、フランスの支援を受けたオスマン帝国軍の前にモンテネグロが大敗北を喫した。
モンテネグロがこのような危機的状況に陥ったことを受けて、汎スラヴ主義を掲げる体裁上バルカン半島を無視できなくなったロシアは、プロイセンを仲介としてオスマン帝国に使節団を送って双方に停戦を合意させた。この時点でロシア皇帝ニコライ1世はこの問題に関して、オスマン帝国と対立する側に立てば必ず英国やフランスとも対立することになるにせよ、オスマン帝国領を分割することで妥協できると踏んでいた。この認識がロシアの強気の行動を助長することにつながった。しかし、外相カール・ロベルト・ネッセルローデが苦言を呈したように利害関係が複雑化してしまっている以上、いたずらに各国の疑惑を呼ぶような行為は賢明でなかった。
ニコライ1世としては、イギリスについては首相が第2ピール政権で外相として穏健外交を展開したロシア寄りのアバディーン伯だったので、関係は悪化しないだろうと踏んでいた。一方のオスマン皇帝アブデュルメジト1は第二次シリア戦争(第二次エジプト・オスマン帝国戦争)で味方してくれた当時の外相だったパーマストン子爵が内相としてアバディーン政権の閣内にいる限り、イギリスは援護射撃をしてくれるだろうという勝手な期待を抱いていた。
アバディーン内閣は連立政権であるため、首相を支持する一派はロシアに同情的でありながらも、クラレンドン外相やパーマストン内相はフランスと組んでロシアと対決すべしと考えていたために、外交方針が定まっていなかった。本来イギリスは、ロシアとオスマン帝国(フランスが支援)といった関係国を仲裁しうる大国だったにもかかわらず、閣僚間の足並みの乱れから統一した外交政策がとれずにいた。更に選挙法をめぐっても政権内部が分裂様相をきたしていたために、紛争当事国の仲介役をする状態になかった。よって、ロシアとオスマン帝国の両方がイギリスの支援に勝手な期待を抱いたまま、紛争が拡大していった。

開戦へ[編集]

18532月末にロシアはオスマン帝国に特使を派遣するが、選ばれたのは経験豊かな外交官ミハイル・オルロフではなくオスマン帝国嫌いの軍人アレクサンドル・メンシコフロシア語版英語版だったため、不安になったネッセルローデは方針はあくまでも不戦であると釘を刺した。
3月にイスタンブル入りしたメンシコフは、まずオスマン帝国最大の債権国だったフランスの干渉を退けることに努め、交渉相手がフランス寄りのムスタファ・レシト・パシャである限り交渉には応じられないと頑なに拒否し続けたことから、オスマン帝国側は何度も交渉役を変更せざるを得なくなった。当初から難航が予想されたが、4月にオスマン帝国が領内の正教会信者、つまりスラヴ系民族の生命と財産を保証するのであれば、ロシアは国際的な危機からの安全を保障するという合意が成立した。
ところが、この合意の中にはスラヴ系商人に対する特権の付与なども含まれていたため、完全に蔑ろにされたフランスが猛烈に抗議し、様々な妨害工作を行った。エルサレムを巡る聖地管理権問題はこの一環といわれている。また、この時期にロシアがセヴァストポリ黒海艦隊に戦闘準備をさせ、オデッサで陸軍の大部隊が編成され、海軍のコルニーロフ大佐が突然ギリシャに派遣されたという情報がもたらされたため、駐イスタンブル英国大使ストラトフォード・カニングはフランスと組んでスルタン・アブデュルメジト1世に様々な圧力をかけ、ついには金角湾に軍艦を並べて砲撃を行うなど強引な手段に出たことから、オスマン帝国はロシアの提案を断ることになった。
こうして4ヶ月に及ぶ交渉は失敗に終わり、6月にメンシコフが帰国すると同時にロシアとオスマン帝国は国交を断絶した。この間、オーストリア外相プオルを中心としたウィーンで開かれた国際会議も議定書を作成したものの最終的に失敗に終わった。この4ヶ月後の10月に両国は開戦した。

戦闘の経緯[編集]

バルカンでの戦闘[編集]

18537月、ロシアはオスマン帝国の宗主権の下で自治を認められていたモルダヴィア、ワラキア(現在のモルドヴァルーマニアの一部)に進軍した。あくまでも解放を目的としていたことからロシア側は宣戦布告なしに行ったが、戦闘になることを回避したいオスマン帝国側はドナウ川南岸に軍を進めたものの、再三にわたって撤退勧告を繰り返すにとどめた。しかし、9月に最後通牒も無視されたことから、オスマン帝国軍は10月に宣戦布告なしにドナウを渡河し、ブカレスト郊外の数箇所の前哨拠点を攻撃したことをきっかけに開戦となった。
装備の上で勝っていたロシア軍は、砲兵部隊をドナウ河岸に集中させてオスマン帝国軍の河川艦隊を破ると、勢力を盛り返してドナウを越えて南下した。さらにギリシャ義勇兵が北上し、手薄になっていたオスマン帝国領内のマケドニアブルガリアでロシアの援助を受けた反オスマン帝国組織が叛乱を煽動したため、オスマン帝国軍はバルカン半島で挟撃される形に追い込まれた。この状況に慌てたイギリスとフランスはギリシャに撤退を求めるが、中央政府の権威が大きくないギリシャでは戦線に身を投じる義勇兵が後を絶たなかった。
ついにフランスは巡洋艦を派遣して、ギリシャ義勇兵への武器を積んだ輸送船をテッサロニキで撃沈し、イギリスもアテネの港湾ピレウスを封鎖して圧力をかけたため、ギリシャは義勇兵の援助を打ち切らざるをえなくなった。これにより反オスマン帝国を掲げた叛乱は各地で鎮圧され、特にロシアが力を注いだブルガリアの反対派組織は徹底的な弾圧を受けて壊滅に至り、再び盛り返したオスマン帝国軍がロシア軍をドナウ以北にまで押し戻すが、両軍ともに決定力に欠いたため、戦線は膠着状態に陥った。

クリミアでの戦闘とイギリス首相の交代[編集]

セバストポリの陥落
ロシアの過大な要求に不満と懸念を抱いたフランスとイギリスだったが、本格的に参戦するつもりはなかった。ところが185311月、黒海南岸の港湾都市シノープで停泊中だったオスマン帝国艦隊が少数のロシア黒海艦隊に奇襲され、艦船のみならず港湾施設まで徹底的に破壊されるというシノープの海戦が起きたため、状況は一変した。
これは黒海艦隊の偵察に気づいていながら、イスタンブルに援軍を要請する以外に何も行わなかったオスマン帝国側の明らかなミスだったが、あまりにも一方的な攻撃だったため、各国のメディアはこれをシノープの虐殺と報道した。これにより、イギリスでは世論が急速に対ロシア強硬論へと傾き、フランスとともにオスマン帝国と同盟を結んで1854328、ロシアに宣戦布告した。イギリスがヨーロッパへの大規模な遠征軍を編成したのはナポレオン戦争から第一次世界大戦までの100年の間でこの1度だけだった。
当初、同盟軍は軍隊を黒海西岸のヴァルナ(現在のブルガリア東部)に上陸させてオデッサの攻略を目指したが、突如としてオーストリアが国境線に部隊を配置して同盟軍のルカン山脈以北への進軍を阻止したため、攻撃目標はロシア黒海艦隊の基地があるクリミア半島の要衝セバストポリへの変更を余儀なくされた。
しかし、主力のイギリス・フランス軍ともに現地の事情に疎く、クリミア半島に部隊を移動させた直後から現地の民兵やコサックから昼夜を問わず奇襲を受け、フランス軍にいたっては黒海特有の変わりやすい天候について調べていなかったため、停泊中の艦隊が嵐に巻き込まれ、戦う前からその大半を失っていた(この後、フランスでは気象に関する研究が盛んになる)。
ロシア軍は指揮の面で不備が多く、アルマの戦いロシア語版英語版では地の利があるにもかかわらず、実戦経験豊富なフランス外人部隊と戦闘犬を擁するスコットランド連隊の前に敗れてセバストポリへの進軍を許してしまった。一方、同盟軍は情報の重要性に気を配らなかったことから、フランス語の堪能なロシア人士官が化けた偽指揮官たちによる攪乱工作により、バラクラヴァの戦いインケルマンの戦いロシア語版英語版では辛うじてロシア軍を退けるも被害が著しく、セバストポリを前にして立ち往生する羽目になった。ロシア軍は英仏艦隊から直接セバストポリを砲撃されないよう湾内に黒海艦隊を自沈させ、陸上でも防塁を設けて街全体を要塞化したため、同盟軍は塹壕を掘って包囲戦を展開する以外に手がなく、イギリス軍は化学兵器(一説では亜硫酸ガスではないかといわれている)まで使用したが、予想外の長期化により戦死者よりも病死者の方が上回り、戦争を主導したイギリス国内でも厭戦ムードが漂っていた。最終的に、サルデーニャ王国ピエモンテに駐屯する精鋭15000人を派遣して同盟軍に与したことにより、街は3日に及ぶ総攻撃の末にナヒーモフコルニーロフも戦死し、1854928から始まったセヴァストポリの戦い: Sivastopol Kuşatması-セバストポリ攻囲戦、: Оборона Севастополя-セバストポリ防衛戦)は1855911に陥落を見て決着した。
しかし、この時点で既にイギリスでは戦費の過剰な負担が原因で財政が破綻し、アバディーン内閣は国民の支持を失う。政権を支える庶民院院内総務ジョン・ラッセル卿の辞任が引き金となって内閣は総辞職、外相時代に辣腕外交ぶりを発揮していたパーマストン内相が後を継いでいた。

終戦へ[編集]

セバストポリ陥落直後にザカフカースの要衝カルス要塞がロシア軍の前に降伏したことから、事実上の戦勝国はなくなった。パーマストン首相はもう少し戦争を継続してイギリスに有利な状況で終わらせたかったが、フランスのナポレオン3世が世論を受けてこれ以上の戦闘を望まなかった。フランスの陸軍を頼りにしていたイギリスは、単独ではロシアと戦えなかった。結局両陣営はともに、これ以上の戦闘継続は困難と判断した。
時を同じくしてロシアではニコライ1世が死去し、新たに即位したアレクサンドル2は、かつてのオスマン帝国の全権特使でありロシア軍の総司令官であるメンシコフを罷免した。こうして同盟国側と和平交渉が進められていった。もっとも、明確な戦勝国のない状況で始められたパリでの講和会議は、戦争終結に貢献したということで発言権を増したサルデーニャ王国のカミッロ・カヴールのロビー活動によりハプスブルク批判に終始し、結局は大まかなところで戦前の大国間の立場を再確認するにとどまり、開戦当初に掲げられたポーランドの解放やバルカン諸国の安全保障などは完全に無視された。
こうして1856330にオーストリア帝国とプロイセン王国の立会いの下で、パリ条約が成立した。多くの歴史学者が認めているように、この戦争で産業革命を経験したイギリスとフランス、産業革命を経験していないロシアの国力の差が歴然と証明された。建艦技術、武器弾薬、輸送手段のどれをとっても、ロシアはイギリスとフランスよりもはるかに遅れをとっていたのである。

バルト海での戦闘[編集]

クリミアでの戦闘は、北欧においても転換期となった。スウェーデンはロシアからのフィンランド奪回の意図を講じ、参戦を計画した。これはナポレオン戦争以後のスウェーデンの武装中立主義を覆すものだった。イギリス、フランスもスウェーデンの政策を支持し、バルト海に艦隊を派遣した。1854年に英仏艦隊はバルト海に侵攻し、フィンランド沿岸を制圧する。
しかしスウェーデン議会は戦争への介入に消極的で、当初は中立を宣言した。しかしこの中立は英仏にとって有益なものとなり、スウェーデン領であるゴットランドの海港を軍事基地として利用することが出来た。英仏艦隊は、フィンランド領となっていたオーランド諸島に迫っていたため、フランスよりオーランド諸島の占領をスウェーデンに打診したが、スウェーデン王オスカル1は、ロシアが機雷を使用したことを憂慮し慎重な姿勢を取ったため、オーランド諸島奪回の好機は失われてしまった。1855年に入り、クリミアでの戦闘がロシアの敗色濃厚となると、スウェーデンは直接参戦の意思を露にする。
しかし、スウェーデンの参戦は時機を逸していた。セバストポリの陥落とスウェーデンの参戦はロシアに和平を促すきっかけとなり、英仏艦隊はバルト海から撤退した。結局スウェーデンは何の利益を得るところも無く、戦争は終結した。なお、スウェーデン人が主体を占めるオーランド諸島は、列強諸国によるパリ条約において黒海同様、非武装地帯とすることで合意を得たが、フィンランド独立後に帰属問題で揺れ、結局1921にフィンランドの自治領になることが決定された。

太平洋での戦闘と日本への影響[編集]

太平洋側のロシア極東にも戦争は波及した。フランス海軍とイギリス海軍の連合は18548月末、カムチャツカ半島のロシアの港湾・要塞であるペトロパブロフスク・カムチャツキー攻略を目論んだ(ペトロパブロフスク・カムチャツキー包囲戦)。英仏連合軍は盛んに砲撃を行い、同年9月に上陸したが、陸戦で大きな犠牲を出して撤退した。英仏連合は兵力を増援したが、再度攻撃をかけた時には、ロシア軍は撤退した後だった。ロシアの守備隊は1855年の初頭に雪の中を脱出した。
この戦いと並行して、エフィム・プチャーチン海軍中将が日本との開国交渉にあたっていた。プチャーチンは、開戦前にロシア本国を出発し、18538月に長崎に到着。外交交渉に着手していたが、交渉が長引く中で英仏両国との開戦の情報に接し、東シベリア総督ニコライ・ムラヴィヨフとも協議の上日本との交渉を続行。英仏の艦隊との遭遇・交戦の危険を控え、185412月には安政東海地震により乗艦ディアナ号を喪失するも、18551月に日露和親条約の締結に成功している。
クリミア戦争は、直接的ではないが日本にも大きな影響を及ぼした。アメリカだけがこの時期ペリー提督を派遣して日本に対して砲艦外交を展開できたのは、この戦争によって欧州列強の関心が日本を含めた東アジア地域にまで及ばなかったからである。なおこの戦争でフランスでは、政府の命令を受けてパリ天文台台長のルヴェリエという学者が暴風雨の研究を行い、これが今日の天気予報という学問のジャンルの起源になった。

戦争に関わった人物[編集]

·         アルフレッド・ノーベル - 発明家。ロシア軍の機雷設置請負業で財を成した
·         アッバース・ヒルミー - エジプト総督。ムハンマド・アリーの孫でオスマン帝国側に立って参戦
·         アントワーヌ=アンリ・ジョミニ - スイス人軍学者。開戦当時のロシアの軍事顧問
·         ジェームズ・スターリング - 英国海軍軍人。極東のロシア艦隊を攻撃するため来日し、江戸幕府ヴィクトリア女王の親書を渡す
·         フェルディナン・レセップス - オスマン帝国側について参戦したために混乱したエジプトからスエズ運河の建設権を取得
·         ハインリッヒ・シュリーマン - 戦争のための補給物資を扱い、財を成す。その金を元にトロイ発掘を行う
·         パトリス・ド・マクマオン - フランス外人部隊指揮官として参戦。後のフランス第三共和政の下で大統領を務める
·         フローレンス・ナイチンゲール - 看護師として従軍。英国野戦病院で看護活動、「クリミアの天使」とも呼ばれた
·         レフ・トルストイ - 将校として従軍。セバストポリ要塞の戦いに参加。従軍した体験を元に小説「セヴァストポリ物語英語版」を執筆して国家的栄誉を得る
·         エフィム・プチャーチン - ロシア海軍軍人。幕末に条約締結のため来日
·         吉田松陰 - 幕末の思想家。長崎からの密航を計画したが、開戦によりロシア艦が予定より早く引き上げたため失敗し、その後、別件で自首して投獄された
·         マイケル・ファラデー - イギリス人化学者。英国政府から化学兵器の開発を依頼されるが、拒否
·         アドルフ・エリク・ノルデンショルド - 学者探検家フィンランド大公国から追放されたが、1879地理学に名を残す北東航路の制覇を達成した
·         パーヴェル・ナヒーモフ - ロシア海軍司令官

クリミア戦争を題材とした作品[編集]

映画[編集]

·         進め龍騎兵1936年、マイケル・カーティス監督)
·         遥かなる戦場1968年、トニー・リチャードソン監督)



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