日本航空一期生  中丸美繪  2015.6.8.

2015.6.8.  日本航空一期生 

著者 中丸美繪(よしえ) 茨城県下館市生まれ。慶大文卒後、日本航空入社。在勤5年弱。97年『嬉遊曲、鳴りやまず 斎藤秀雄の生涯』で第45回日本エッセイスト・クラブ賞、第9回ミュージック・ペンクラブ賞受賞。09年『オーケストラ、それは我なり 朝比奈隆四つの試練』で第26回織田作之助賞・大賞受賞

発行日           2015.1.5. 印刷                1.30. 発行
発行所           白水社

プロローグ
1951.10.25. 羽田空港から国内線定期航路の第1便「もく星号」が大阪経由福岡へ
マーチン202型機で、最新の中型輸送機、ノースウェストからのチャーター機
日本人による会社の設立だけが認められ、羽田飛行場も占領軍管理下、パイロットは正副ともアメリカ人
創業期に在籍した社員を訪ね、日本航空の歴史を調べる

第1章        創業前夜 占領下で
歴代のスチュワーデスは、神話の1ケタ、化石の2ケタ、美貌の百期、知性の二百期、体力の三百期と言われる
最初の募集は51.7.12名、「容姿端麗新制高校卒以上英会話可能東京在住」が条件。応募1300の中から15人を採用
敗戦時、逓信省航空局次長の松尾静磨 ⇒ 九大工卒、甲種合格で飛行連隊に幹候として入営するが1年で除隊後(32?)逓信省航空局へ転職。大阪の飛行場設置に奔走するが戦争激化で頓挫
日本人が初めて空を飛んだのは、ライト兄弟の飛行から7年後の1910年、独仏製の航空機を持ち帰って飛行
22年 日本航空輸送研究所製の輸送機が堺・徳島間に定期航空第1便として国産初のフライト
28年 政府の肝煎りで「日本航空輸送株式会社」設立
31年 わが国初の国営国際飛行場として羽田東京飛行場開場
4512月 GHQの指示により航空局は解体されるが、松尾の働きかけもあって飛行場の維持運営のため電波局の附属機関として「航空保安部」が発足、松尾が初代部長に就任
松尾は次長の大庭哲夫とともに、将来を見据えて操縦士や機関士を積極的に養成
49年 第2次吉田内閣に新設された貿易庁の初代長官・白須次郎が、米国航空会社に日本の国内事業を任せる案を出され、日本に乗り入れしていた外国航空会社7社のうち6社が共同出資して「日本国内航空会社」を設立したが、米政府がオープン・スカイ・ポリシーを取っていたことと併せて50年の朝鮮戦争勃発により、自国内の輸送は自国会社が行うべきということになり、藤山愛一郎の音頭で「日本航空株式会社」設立、運航は白州の「日本国内航空」が請け負い、営業だけではあったが純国内の会社が航空事業を開始
新会社の中心として、松尾が請われて専務に就任

第2章        日本航空創立 旅行会社のような民間会社
51年 日本航空創立 ⇒ 初代社長は、日銀国際派の代表で元副総裁の柳田誠二郎
51.8.27. 日航機最初の飛行 ⇒ 機体はフィリピン航空からのチャーター機DC3「金星号」で、羽田から伊丹経由福岡まで
51.10.25. 国内線第1便 ⇒ 座席利用率は74%、札幌便が人気

第3章        「もく星号」事件から自主運航へ
52.4.9. 羽田発福岡行きの301便が大島上空で消息を発つ。三原山に激突し乗客乗員全37名死亡 ⇒ 風雨の強い悪天候の中、計器飛行は米軍航空管制センターの管理下にあり、かつアメリカ人パイロットの不慣れも手伝った事故で、原因究明は不徹底のまま終わったが、これが結果として日本航空の自主運航のきっかけを作ることになる
安全第1を徹底するならば、自らの手で全てを賄わなければならないと主張、講和後の自主運航に向けたパイロットや整備士の養成に奔走

第4章        ナショナル・フラッグ・キャリアとして
52.10. 日本航空による自前運航開始
53.8. 国際線運航を念頭にした「日本航空株式会社法」成立。特殊法人として、旧日本航空の業務を引き継ぐ形で国際線の免許も取得。初の日本人パイロット誕生。翌9月に国際線用期待が到着するが、アメリカ側の乗り入れ認可が下りず、実現したのは翌年2
安全を第1とした松尾が社員に訓示したのは、「臆病者と言われる勇気を持て」






日本航空一期生 中丸 美繪著 敗戦で失った「空」取り戻した人々
2015.4.5. 日本経済新聞
 敗戦後、日本は航空にかかわる事業を禁じられた。運航や製造はおろか、教育や研究までもご法度となり、すでにあった飛行機は軍用のみならず民用も破壊された。
 そうやって失われた「空」を取り戻そうと日本航空を立ち上げ、発展させた人たちの奮闘を描いた、ノンフィクションだ。後の日航の姿からは想像もできない草創期のパワーが伝わってくる。
 多彩な顔ぶれの中でも魅力的なのは、松尾静磨という人物だ。戦前は官僚として民間資金で大阪に空港をつくり、敗戦後は進駐軍の仕事をしながら航空事業の再開につとめた。1951年に日航が発足した後は経営の中枢で「安全を一番に」と説き続け、有名な標語を生んだ。「臆病者と言われる勇気を持て」
 客室乗務員として日航に勤めたことのある著者は「愛社精神といってもいい」思いを抱いてきたという。だからだろう、先輩たちへのインタビューや様々な資料を通じて紹介されるエピソードの数々は胸に響き、読み飽きない。
 たとえば、客室乗務員の1期生を「エアガール」の名称で募集した際は「容姿端麗」が応募資格だった。「かつてはそんな空恐ろしい条件があった」と、著者は敬意とユーモアをこめて書く。日本の社会が「別の世界のように思える時代」を鮮やかに描き出した一冊だ。(白水社・1900円)


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