辰野金吾  河上眞理・清水重敦  2015.6.22.

2015.6.22. 辰野金吾 美術は建築に応用されざるべからず

著者
河上眞理 1963年千葉県生まれ。美術史家。ヴェネツィア・カ・フォスカリ大学大学院博士課程修了。現在、京都造形芸術大准教授
清水重敦 1971年東京都生まれ。建築史家。東大大学院工学系研究科博士課程単位取得退学。現在、京都工芸繊維大准教授。工学博士。『建築保存概念の生成史』で建築史学会賞、日本イコモス奨励賞受賞

発行日           2015.3.10. 初版第1刷発行
発行所           ミネルヴァ書房(日本評伝選)

建築界の礎を築き、東京駅や日本銀行本店など日本を代表する建築作品を設計したことで知られる辰野金吾。ヨーロッパで学んだ「美術建築」という考え方をどう日本に根付かせようとしたのか。新たな資料を元にその足跡を丹念に辿りなおし、従来とは異なる辰野像を提示する

はじめに
辰野の没後、記念事業として辰野家に贈呈するために肖像画を描いた松岡壽と辰野との関係は、これまで注目されることはなかったが、ここにこそこれまでに知られてこなかった新たなと言っても過言ではない辰野像を投影するための鍵がある。その鍵とは、2人を結びつけていた「美術建築」と言う思想
辰野の美術への関心は、卒論で建築装飾について考察せざるを得なくなったことに発しているが、ヨーロッパ留学においてその課題解決の方法論を様々な側面から学ぶ中で、この「美術建築」概念と出会う。この考え方は、留学時代の師で19世紀イギリスを代表するゴシック・リヴァイバル期の建築家で自らを「美術建築家」と標榜したウィリアム・バージェス(182781)から学んだものであり、辰野の建築観を醸成する土台となった
留学時代のスケッチブック『辰野金吾滞欧野帳』の発見等の新たな資料から、これまでの評伝にはなかった辰野像と揺籃期の日本の建築界の姿を見つめ直してみる

第1章        辰野金吾という人
仇名の「辰野堅固」は、建築に向き合う時の真摯な態度から作り上げられたイメージ
もうひとつが「辰野おやぢ」で、家族や同級生、教え子に対しては慈愛に満ちた内の顔
辰野の身に大きな変動が訪れたのは、同年生まれの高橋是清との出会い ⇒ 唐津藩が新設した洋学校「耐恒寮」に入学するが、そこに英語教師としてきたのが高橋
藩校は1年で閉校となるが、帰京した高橋を追うように辰野も東京へ、以後折々に接する
藩校出身の繋がりで東京の私塾で英語をしていたが、工部省が工学士官育成のための学校を創設することになり、辰野が応募

第2章        工部大学校における造家学の修学
1873年入校。31名中最下位の私費通学生、追加募集で官費生に合格
2年の予科ののち造船学を志望したが、教師と反りが合わず、あまり人気のなかった造家学に転科、専門の外国人教師もいない鬼っ子のような存在だった
専門課程1年目の試験では材料力学や測量ではトップの成績
1877年ジョサイア・コンドル着任 ⇒ 来日直前に新人建築家の登竜門であるソーン賞受賞。4年目の後半にして漸く建築学の専門家による授業を受ける
大変な勉強家で、卒業時は首席 ⇒ 各学科の首席はお雇い外国人に代わって教授となることを目的に、欧州への官費留学が命ぜられた。1期だけで途絶えるが、同期生10人の中には化学科の高峰譲吉がいる
首席卒業について、通説ではコンドルの強い推薦によるとあるが、コンドルの評価は卒業設計でも卒論でも同じ唐津藩祐筆の家に生まれた曽禰達蔵の方が遙かに勝っていて、辰野には才能の片鱗も見えていない平凡なものであったが、卒業成績は6年間の総合評価で判定されたため、実力が広く認められた結果だった
曽禰が、卒業後も工部大学校助教授としてコンドルの補佐役を務め、後には三菱に入社してコンドルの下で設計に従事したので、回顧談はコンドルへの尊敬の念に溢れているが、辰野は自身の言葉でコンドルのことをほとんど語っていない ⇒ 辰野にとって建築とは何よりも工学であり、コンドルが持ち込んだ芸術的側面には、この時点ではそれほど傾倒していなかったと思われる

第3章        イギリス留学とグランド・ツアー
1880年 イギリス留学 ⇒ ロンドン大学及びロイヤル・アカデミー・オブ・アーツで建築学を修学する一方、キュービッド建築会社で施工を、ウィリアム・バージェスの事務所で設計を学びながら、バージェスから〈美術建築〉の概念、美術家との共同、建築家としての心構えなど、建築哲学の一切を吸収
フランス、イタリアでは、18世紀以降のヨーロッパの知識人が見聞を深める旅行をしたように、歴史的建築物から最新の建築に至る様々な建築を訪れたが、この旅は辰野にとってもグランド・ツアーというべきもの ⇒ イギリスには旅をすることによって教養を積むという考えから、グランド・ツアーという伝統があり、17世紀末に始まり、18世紀以降に良家の子弟の教育を目的として、数か月ヨーロッパ大陸を旅する 
これまでの辰野研究では、留学時代の足跡を追跡できる資料が少なかったことから、あまりその意味や意義が深くは問われてこなかった
09年 辰野事務所の共同経営者葛西の甥の家から『辰野金吾滞欧野帳』発見 ⇒ 勉学の中で気付いたことをランダムに書きとめたもので、グランド・ツアーも含めた留学時代の全期間にわたっている
留学当時のイギリス建築界は、ヴィクトリア朝の中期から後期へと移り変わる頃で、近代に大きく漕ぎ出そうと変化を始めた時期
バージェスの教え:
   原寸図へのこだわり ⇒ 細部を愛したバージェスらしい教え
   日本建築への着眼 ⇒ まずは母国の建築を学べ
   民間の個人事務所の経営への意欲
   〈美術建築〉観
   「辰野式」建築に見られる塔が林立する華やかなピクチャレスクの建築表現

第4章        建築界の造形
1884年 コンドルの後任として工部大学校教授に就任。1902年退官
この間、86年と02年の二度に亘って依願退官 ⇒ 民間の設計事務所立ち上げの夢実現のためと言われているが、奉職が義務付けられた官立の学校を、しかも首席卒業の人物の履歴としては不可解
工部大学卒業生の卒業後7年間の奉職義務に従い、留学から戻った83年には工部省の営繕課に配属。辰野は営繕局長の平岡通義を生涯にわたる最大の恩人と仰いでいる
85年 工部省の廃省により、工部大学校も東京大学に同年新設された工芸学部と合併(実質は吸収された)、文部省に移管 ⇒ 技術官僚によって主導された工部省が政治的に割を喰った格好。辰野も本省を休職となり86年依願退官し、大倉喜八郎らが計画していた建築会社(後の大成建設)に招聘されるが、最終的には独自の「辰野建築事務所」を開設
退官から15日後には帝国大学工科大学教授に嘱託として就任するので、事務所と兼任となる。仕事の大半は澁澤栄一に関係のあるもの
独立当時、東京では近代都市化への改造を目指した市区改正計画と、井上馨外務卿を中心とした太政官・内閣直轄事業となった官庁集中計画が進行中
市区改正計画には、東京商工会のリーダーだった澁澤が強い主張を投げかけていた
辰野の処女作とされる銀行集会所も、澁澤邸もこの計画に沿ったもの
教授としての辰野は、積極的にカリキュラムの改革を推進、新たに開拓した建築学の諸分野の中でも特筆すべきは、日本の風土や歴史を意識した「日本建築学」の創設(89年開講)
西欧建築を軸に据えた造家学全般と体系的に異質な日本建築学を取り込むためにも考えられたのが「美術建築」
日本建築学と共に辰野が教育の中で重視したのが地震の問題 ⇒ 日本銀行本店の設計・建設が契機。建設工事開始直後の91年に濃尾震災が発生、地震への意識が辰野の建築設計の根幹をなすようになる
9802年 第2代工科大学長就任 ⇒ 僅か4年で身を引いたのは、東京大学勢に対して立場の弱さに起因したのではないか
03年 教え子の葛西萬司と共同の「辰野・葛西建築事務所」開設。05年には大阪にも教え子の片岡安(日銀大阪支店の技師、支店長の片岡直温に働きを認められ養子となった)とともに「辰野・片岡建築事務所」開設
教育者として、辰野は建築学を日本の文化と風土の中に根付かせるべく注力し続けたが、その経歴は権力の中枢を突き進むのではなく挫折の連続で、その中から日本の建築界が少しづつ形づくられていく
辰野が作ろうとした建築界の輪郭:
   86年 造家学会設立に尽力 ⇒ 建築家、施工業者、アカデミアの三位一体のものとして工学会から分離独立。98年からは会長
   88年 工手学校開校に尽力 ⇒ 建築界を支える工学各分野の中堅技術者の養成
   議院建築への執念 ⇒ 辰野は終生東京の3大建築の設計を手掛ける意欲を持ち、日銀、東京駅までは設計したが、国会議事堂は官僚建築家で後輩の妻木の領域。辰野はコンペを主張、妻木、辰野が相次いで没したため、最終的には臨時議院建築局が扱う
設計から施工に至る建築に関わる行為全体を日本に根付かせるべく、その土台となる実施主体を総合的に育て上げようとする骨太のものだが、出身母体の工部省なき後、自ら造り上げた民の建築界を背負っていった

第5章        「美術建築」を目指して
帝大に於ける辰野の建築教育は、フランスの美術アカデミーであるエコール・デ・ボザール的なものだったといわれる ⇒ 芸術としての建築に重きを置いた教育
キーワードが〈美術建築〉⇒ art architectureの訳。辰野が留学していた時期のイギリスで用いられた様式的側面に重きを置いた建築観。人の手が造り出す精度の高い美術的な装飾が施されることで完全性を獲得することを重視
バージェスの代表作カーディフ城こそがその頂点
自らバージェスに教えられて人物画の習得に励んだことに言及しつつ、以下のように後輩を諭した: 建築家たる者、「美術は建築に応用されざるべからず」と「深く心に刻んで」忘れてはならぬ。美術を応用しようとすれば、「必ず人物画を学ばるべきなり」といい、人物画が基本というのは「画法の原則」なので、〈美術建築家〉たる者は、「よくよくそのつもりにて勉め座れば、その目的を過るの恐れなしとせざるなり」
89年 官立の東京美術学校開校(日本画限定) ⇒ 辰野等西洋建築推進者が西洋美術教育の必要性を働きかけ。92年には畏友・松岡壽が講師に入って辰野に協力
辰野の思いは教育界に留まらず、美術界との連携へと向かう
特に、イタリアで松岡と一緒に見た建築と絵画が一体となったフレスコ画に感銘を受け、日本でも取り入れるべきと説いた
実現した代表例が東宮御所(現、迎賓館赤坂離宮) ⇒ 黒田清輝、浅井忠らの画家による絵画、織物や緞帳、大理石装飾や石膏細工、寄木張りの床などで装飾
辰野自身の作品では、品川弥二郎の銅像の台座の設計や、松岡との唯一の共同案件である大阪市中央公会堂がある

第6章        建築家辰野金吾
200棟を超える建築を設計 ⇒ 国内外に25棟現存
    初期作品(留学から帰国直後) ⇒ 処女作銀行集会所(85)、兜町の澁澤邸(88)ともイギリス流(パラディアン様式)の中にイタリア志向(ヴェネツィアン・ゴシック)が見え隠れ
    88年に日銀の設計をした中期 ⇒ 日銀本店(8896年、臨時建築局の工事部長となっていた辰野への直接の指名。最初の1年は米欧視察)。本来これ等の様式に見られる躍動感が無く生硬さが感じられるのは、彫の深さが無く石でできた箱のような感じがするのは、辰野時代の建築家に共通する様式への理解の浅さと、辰野自身の造形センスの結果と言われてきたが、実は能美震災に際してすべて石造りでは耐震上危険を感じた辰野が23階には煉瓦を積むことを提案して総裁の逆鱗に触れ、その頃ペルー銀山の経営失敗により路頭に迷っていた高橋是清が日銀に拾われ辰野の下で建築主任として物品購入を担当、高橋の知恵によりレンガの外側に石を貼ることで切り抜けたというエピソードがあった。また当時最新の銀行建築だったベルギー銀行をモデルにしたというのが定説だが、膨大な数の調査を踏まえて設計されたことは間違いなく、特定の建物をモデルにしたとは考えられない。平面計画で最も共通点があるのはイングランド銀行。他の銀行建築も多く手掛けているが、初期ルネサンス志向がより鮮明に表出。ヨーロッパでは様式の持つ重みが失われつつあった
    02年独立後の「辰野式」建築を生んだ後期 ⇒ 赤煉瓦に白色の石が帯状に通され、塔屋が賑やかに林立する外観が特徴。第1作は東京火災保険会社(05年竣工)。代表作が東京駅丸の内本屋(0314年、アムステルダム中央駅を模倣したと言われるが、形や機能構成は似通っているが、古典様式系(東京駅)とゴシックでは明瞭な差があり、辰野はオランダに行ったこともないところから、模倣説は間違い)
「辰野式」のデザインは、クイーン・アン様式の系統に属するもの ⇒ 都市の商業建築や当時勃興してきた郊外住宅における戸建て住宅などで盛んに用いられた。民間建築家として設計に取り組むこととなった後期の辰野の状況によく合致する。併せて日本の気候に適合する面を強調、ハーフ・ティンバー様式(木造真壁建築、半木骨造とも)に着目し多用するほか、和風建築への造詣も深め、書院造を基としている(当時よく用いられた数寄屋造は「脂っこい建物」として嫌い1つも建てていない)
潮湯別館は、12年堺大浜に混浴施設「潮湯」の拡張建物として建てられ、35年河内長野市に移築、現在も旅館南天苑として使われている。大正期らしく中廊下型の平面を持つが、意匠は正統的な書院造り、他の建物と違い西洋建築からの借用は比例にも細部にもほとんど認められない。日本には日本風の特有のものが無くてはならないとし、外国にも例のないものをやってみようとして設計したもの
時代によって作風も変わったが、一貫してルネサンス様式への志向が見られる
金吾が残した辰野家の家訓: 「建築家にはなるな」 ⇒ 辰野にとっての建築家とは、〈美術建築家〉像に象徴される、諸分野を統合する指揮者としての建築家像だったはずだが、現実の建築界は諸分野に細分化され、辰野の追い求めたものから遠ざかるばかり、それゆえに建築のあり方を再び根本に立ち返って見直すべきことを訴えかけて残された言葉




(書評)『辰野金吾 美術は建築に応用されざるべからず』 河上眞理・清水重敦〈著〉
朝日 20155310500
 新資料が明かす建築×アート
 東京駅を設計した辰野金吾は、日本で西洋式の建築教育を受けた一期生だった。本書は、『滞欧野帳』などの新資料を活用し、新しい辰野像を提示する。お雇い外国人の教師コンドルよりも、イギリスで師事した建築家バージェスの影響が強かったこと。また、そこで彼から学んだ建築と美術が一体化した「美術建築」の概念が重要だったことが明らかにされる。実際、辰野は画家や彫刻家と交流し、美術界と関わりをもったほか、大学教育に絵画実習を導入したり、装飾と不可分の様式を学ぶ建築史に力を入れたりしていた。20世紀後半以降も、壁画、パブリックアート、現代美術など、建築とアートの融合は語られてきたが、明治の辰野にまでさかのぼる構図が見えて興味深い。また彼の作品分析において、「これは~様式」というレッテル貼りで終えるのではなく、細部の変容や、比例の効果をていねいに言語化する本書の姿勢にも好感をもった。
 五十嵐太郎(建築批評家・東北大学教授)
    *
 ミネルヴァ書房・2700


Wikipedia
辰野 金吾 (たつの きんご、18541013嘉永7822- 1919325 は、日本建築家である。
工部大学校(のちの帝国大学工科大学、現在の東京大学学部)卒業。工学博士、帝国大学工科大学学長、建築学会会長。設計の頑丈さから「辰野堅固」と呼ばれた。帝国大学では後進の指導にも励み、伊東忠太長野宇平治武田五一中條精一郎塚本靖野口孫市、大沢三之助、関野貞らの人材を輩出した。 帝国大学総長渡邉洪基(渡辺洪基 の意向を受け、工手学校 工学院大学 の創立(明治20年)を推進し、運営にも尽力した。
東大仏文科で小林秀雄三好達治らを育てたフランス文学者・辰野隆は息子である。

経歴[編集]

·         1854年(嘉永7年)肥前国(現在の佐賀県唐津藩の下級役人・姫松蔵右衛門とオマシの間に次男として生まれる。姫松家は足軽よりも低い家格であった。
·         1868年(明治元年)叔父の辰野宗安の養子となる。
·         1873年(明治6年)工部省工学寮(のち工部大学校、現在の東大工学部)に第一回生として入学。
·         1875年(明治8年)二年終了後に、造船から造家(建築)に転じる。
·         1877年(明治10年)ロンドン出身のジョサイア・コンドルが造家学教師に着任。
·         1879年(明治12年)造家学科を首席で卒業(同期生に曽禰達蔵片山東熊佐立七次郎)。
·         1880年(明治13年)英国留学に出発、コンドルの師であるバージェスの事務所やロンドン大学で学ぶ。
·         1883年(明治16年)日本に帰国。
·         1884年(明治17年)コンドルを解雇した後、工部大学校教授に就任。
·         1886年(明治19年)帝国大学工科大学教授、造家学会(のちの日本建築学会)を設立。
·         1887年(明治20年)工手学校(現工学院大学)の設立に参加。
·         1898年(明治31年)帝国大学工科大学学長。
·         1902年(明治35年)工科大学を辞職。
·         1903年(明治36年)葛西萬司と辰野葛西事務所を開設(東京)。
·         1905年(明治38年)片岡安と辰野片岡事務所を開設(大阪)。
·         1910年(明治43年)国会議事堂(議院建築)の建設をめぐり、建築設計競技(コンペ)の開催を主張。
·         1919年(大正8年) 国会議事堂の設計競技で審査員を務める。当時大流行したスペインかぜに罹患し死去。

主な作品[編集]

「辰野金吾博士 作品集成絵図」後藤慶二1916
·         銀行集会所 (1884年/現存しない)
·         工科大学本館 (1888年/東京都/現存しない)
·         英吉利法律学校(現・中央大学)校舎 (1888年/東京都/現存しない/1887年締結の「英吉利法律学校新築約定書」は日本初近代的建築契約書とされる)
·         日本銀行本店 (1896年/東京都中央区/重要文化財)
·         日本銀行大阪支店 (1903年/大阪府大阪市
·         日本銀行京都支店 (1906年/京都府京都市/重要文化財/現・京都文化博物館別館)
·         第一銀行京都支店 (1906年/京都府京都市/現・みずほ銀行京都中央支店/レプリカ再建)
·         浜寺公園駅 (1907年/大阪府堺市/登録有形文化財)辰野金吾が設計した初の鉄道駅舎
·         第一銀行神戸支店 (1908年/兵庫県神戸市/外壁保存/現・みなと元町駅
·         国技館 (1909年/東京都墨田区/のち日大講堂/現存しない)
·         日本生命九州支店 (1909年/福岡県福岡市/重要文化財)
·         奈良ホテル (1909年/奈良県奈良市
·         岩手銀行本店本館 (1911年/岩手県盛岡市/重要文化財/現・岩手銀行中ノ橋支店)
·         松本健次郎邸 (1911年/福岡県北九州市/重要文化財/現・西日本工業倶楽部会館)
·         朝鮮銀行 (1912年/大韓民国ソウル特別市/現・韓国銀行
·         万世橋駅舎(初代) (1912年/東京都千代田区神田/関東大震災で焼失)
·         日本銀行小樽支店 (1912年/北海道小樽市/現・日本銀行旧小樽支店金融資料館)
·         大阪教育生命保険 (1912年/大阪府大阪市/現・結婚式場 オペラ・ドメーヌ)
·         安田製釘所 (1912年/福岡県北九州市/現・安田工業八幡工場、鉱滓煉瓦で作られた施設の中では最大級の面積を持つ)
·         日本銀行福島支店 (1913年/福島県福島市/現存しない)
·         二十三銀行本店 (1913年/大分県大分市/登録有形文化財/現・大分銀行赤レンガ館
·         中央停車場(現・東京駅) (1914年/東京都千代田区/重要文化財)
·         武雄温泉新館・楼門 (1914年/佐賀県武雄市/重要文化財)
·         日本生命京都支店 (1914年/京都府京都市/登録有形文化財/現・日本生命京都三条ビル)
·         百三十銀八幡支店 (1915年/福岡県北九州市/市指定有形文化財/現・北九州市立旧百三十銀行ギャラリー)<
·         霊南坂教会旧会堂 (1917年/東京都港区赤坂/現存しない)
·         大阪市中央公会堂 (1918年/大阪府大阪市/実施設計/重要文化財)
·         明治専門学校本館 (1920年/福岡県北九州市/現存しない)
·         南天苑本館 (1913/1935年/大阪府河内長野市/文化庁登録有形文化財
建物名の後の「重要文化財」は国指定の重要文化財を示す。
·        
旧日本銀行小樽支店

·        
旧岩手銀行本店本館

·        
日本銀行本店

·        
みずほ銀行京都中央支店

·        
日本銀行大阪支店

·        
大阪市中央公会堂

·        
旧大阪教育生命保険

·        
浜寺公園駅

·        
奈良ホテル本館

·        
旧第一銀行神戸支店

·        
松本健次郎邸

·        
旧日本生命九州支店

·        
中央停車場(現東京駅丸の内口駅舎)

·        
武雄温泉楼門

·        
旧二十三銀行本店

·        
旧朝鮮銀行本店

·        
明治専門学校(現九州工業大学)旧本館の模型

逸話[編集]

·         唐津では、のちに首相となる高橋是清に英語を学んだ。さらに高橋の後を追って上京し、工学寮に入学している。
·         相撲好きで子のを相撲部屋に入門させた。のちに旧両国国技館を設計したのも辰野だった。
·         辰野が得意とした赤煉瓦に白い石を帯状にめぐらせるデザインは、ヴィクトリアン・ゴシックに影響を受けたもので、辰野式建築(たつのしき けんちく)として知られる。明治から大正にかけて多くの建築家がこれを模倣した。現在でも台湾総統府として使用されている旧台湾総督府庁舎はその代表作の一つである。
·         東京駅の設計を任された時、万歳をした。万歳をしたのは生涯で、日露戦争で日本が勝利した時と、臨終の床の3回だけであり、「辰野金吾の三大バンザイ伝説」として後世に伝わっている(美の巨人たちテレビ東京系列〉、2015228放送より)。

家族[編集]

·         :秀子
·         :須磨子(鈴木梅太郎に嫁ぐ)
·         :隆(フランス文学者)




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