皇后考  原武史  20115.4.1.

2015.4.1. 皇后考

著者 原武史 1962年東京生まれ。明治学院大教授。専攻は日本政治思想史。1998年『「民都」大阪対「帝都」東京――思想としての関西私鉄』でサントリー学芸賞、2001年『大正天皇』で毎日出版文化賞、08年『滝山コミューン1974』で講談社ノンフィクション賞、『昭和天皇』で司馬遼太郎賞

発行日           2015.2.4. 第1刷発行
発行所           講談社

初出 『群像』2012.9.2014.8.


神功皇后の昔には、まだ中天皇(なかつすめらみこと)に類した名称はなかったが、実際は中つ天皇として威力を発揮した。皇后とは中つ天皇であり、中つ天皇は皇后である(折口信夫『女帝考』)

第1章        序――ある詔書をめぐって
26.10.21. ある証書が御名御璽の脇に摂政名を添えて公布
南北朝時代に南朝の天皇だった後村上天皇の皇子・長慶天皇を98代天皇として正式に認める内容で、前日の枢密院会議の決定に基づく
明治以降、歴代天皇を確定する作業が進められ、1870年には、壬申の乱で敗れた大友皇子やを弘文天皇としたのをはじめ、奈良時代と鎌倉時代に政変のため退位させられた天皇にも、それぞれ淳仁天皇、仲恭天皇の諡号(おくり名)が贈られている
1910年には、国定教科書が発行され、南北朝を対等に扱い、両朝の正閏(せいじゅん)軽重を論ずべきでないと説明したことを機に南北朝正閏論争が起こり、翌年天皇の直際により、南朝を正統とすることで決着
北朝の天皇に代わって、後醍醐天皇、後村上天皇、後亀山天皇を歴代に数え、長慶天皇については継続審議となった
この詔書によって神武から大正までの皇統が確定し、皇統譜令が公布され、皇室の正統な戸籍が作成され、図書寮に尚蔵された ⇒ 大正天皇が第123代と決まる
翌日、裕仁は宮中三殿で「報告の義」を行う。当日官庁や学校は臨時休業日
同時に、神功皇后を皇統から外すこと、即ち15代天皇としては認めないことも意味した
この決定を実質的に下したのは、24.3.7.帝室制度審議会の調査機関として宮内庁に設置された「臨時御歴代史実考査委員会」だった ⇒ 委員会の総裁は審議会総裁の伊東巳代治
委員会への諮問事項は、以下の3
   神功皇后を皇大に列すべきか否か ⇒ 否
   長慶天皇を皇大に列すべきか否か ⇒ 可
   四条天皇の女御他3人の女王の取り扱いを皇后とするべきか否か ⇒ 否
詔書には②の結論のみ書かれているが、委員会の結論は①②がセット
1909年刊行の『尋常小学日本歴史』では、後の応神天皇の摂政であった神功皇后は事実上の天皇と見做され、歴代天皇の一覧表にも在位が記録されていたが、実在自体が疑わしいとの説もある
神功皇后について記す重要文書は、『日本書紀』と『古事記』
前者では、気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)、後者では息長帯比売命(読みは同じ)、大帯比売命(おおたらしひめのみこと)などと表記され、仲哀天皇の妃、応神天皇の母、開化天皇の子孫でもあるため、天皇と血は繋がる。170269

武内宿禰と図った三韓征伐(『古事記』では新羅のみ)も、史実とは見做し難い
仲哀天皇と応神天皇の間には70年近い大空位時代が存在
皇后のあり方は、天皇に比べてはるかに多様。皇后が建てられなかったり、逆に2人の皇后が並立したり、配偶者でもないのに皇后になったり、死後に皇后を追贈されたり、皇后ではなく中宮と呼ばれたりした
1869年 明治天皇の女御となった美(はる)子が中宮を経て皇后になると、中宮職は皇后宮職に改められた。中宮の称号が廃止、皇后に統一されたのは1889年皇室典範の発布による
神功皇后に匹敵する有名な皇后は、後に天皇になった光明皇后(俗称、正式名は光明子(こうみょうし)701760)のみ ⇒ 聖武天皇の妃で、初めて皇族以外からの皇后。仏教に帰依して悲田院や施薬院を設置し、貧窮者や孤児らを救済
天皇嘉仁の原因不明の病気という不測の事態で、皇太子裕仁が摂政になると、天皇が事実上不在となり、代わって皇后の存在が浮上。現実の皇后が、一方で神功皇后に、他方で光明皇后に自らを一体化させながら、「神ながらの道」にのめり込んでゆく時期でもあった
皇后となる女性は人生の途中で天皇家に嫁いでくるために、天皇にはなれない葛藤が生じ、もがき苦しむ中で皇后とは何かという、天皇にはない強烈なアイデンティティの意識が芽生える。血統でアマテラスや神武以来の天皇と繋がっている天皇とは異なり、皇后は努力を重ねて神功皇后や光明皇后のような過去の偉大な皇后と一体になろうとする。さらには女性神であるアマテラスに自らを重ね合わそうとする。天皇の「添え物」どころか、天皇より一層神に近づこうとする
明治以降の皇后が、天皇とともに行うべき重要な行為として、皇居の宮中三殿で行われる宮中祭祀と、天皇の行幸に対応する行啓があるが、その時こそ皇后が先達に近づくための絶好の機会
天皇ではなく、皇后に注目することで、新しい天皇像と皇后像を作り出しつつ、天皇を前面に押し出したはずの近代天皇制の裏で進行しつつあった重大な過程が見えてくる

第2章        神功皇后と神武天皇(1)
明治初期発行の紙幣、起業公債、切手に神功皇后が刻まれ、天皇以上に馴染み深い存在にさせるのに貢献、紙幣は「神功皇后札」という愛称までついた

第3章        神功皇后と神武天皇(2)
1868年 王政復古の沙汰書発出 ⇒ 「復古」のシンボルとして神武天皇を前面に出し、「神武創業」をスローガンとした
1868年 孝明天皇の3回忌より、仏教色が一掃され、神道式の祭儀となり、祭政一致の諸制度を回復させるための「神祇官」が再興され、太政官より上位に据えられた
「歴代皇霊」と歴代天皇の命日 ⇒ 1876年歴代の皇后、皇妃、皇親の霊を合祀。1891年には天皇の勅栽により神武天皇が第1代に確定
1870年 神武天皇の正辰祭である神武天皇祭挙行、1874年以降は43日とし、正式に休日となる
神武天皇を国家的シンボルとして知らしめようとする政府の戦略は必ずしもうまくいかず、神功皇后のほうが明治以前から西日本を中心に遙かによく知られていた。そのため、1871年の「服制改革の詔」では、天皇の服制を洋装の軍服に変える正当性の根拠を、天皇自身が「神武創業」と「神功征韓」に求めた
明治初期の皇后には、天皇にはない役割が課せられる ⇒ 宮中で養蚕を行い、製糸産業を奨励し、女子教育を振興すること
1886年から皇后の服装も洋装となるが、その背後には「欧化」政策がある

第4章        皇后美子・神功皇后・日蓮宗(1)
神功皇后を天皇として認めるべきか否かは、明治初期から問題になっていたが、皇后美子を神功皇后に重ね合せることは周囲が度々言及していたし、孝明天皇20年祭のため京都に向かう行き帰りには海軍好きの皇后が軍艦にも乗り、三韓征伐に擬せられた

第5章        皇后美子・神功皇后・日蓮宗(2)
1879年生まれた第3皇子・嘉仁は、満8歳の誕生日に「儲君(もうけぎみ)」、つまり皇后美子の実子と定められたが、生来の病弱で、皇后は健康回復を図るべく、出雲大社からオオクニヌシの霊代を取り寄せ嘉仁に礼拝させるとともに、孝明天皇の側室で睦仁の生母に当たる中山慶子や、皇太后夙子の弟で後の貞明皇后の父に当たる九条道孝が小石川の大乗寺に祈願していたことから、皇后も日蓮宗に接近、大本山池上本門寺にも祈願して、仏の加護も仰ぐ
嘉仁が百日咳に罹った際、日蓮宗大本山小湊山誕生寺の住職の祈祷によって快癒したのを機に、皇室は日蓮生誕の地として知られた誕生寺(現鴨川市)とも縁を結ぶ
明治以降、天皇が仏教との関係を断ち切って神道の「祭主」になろうが、天皇家の外から皇后を迎えなければならない限り、神道以外の宗教が皇室に入ってくることは避けられなかった

第6章        皇太子妃節子の孤独(1)
1900年 九条節(さだ)子が輿入れしたときはまだ15歳 ⇒ 直前に定められた皇室婚嫁令に基づく初めての神前結婚式で、多くの宮中祭礼と同様、明治以降に作られた伝統
本命は伏見宮禎(さち)子で、気品を備え皇后も会って婚約まで行ったが、健康上の理由から解消したこともあって、節子が通った華族女学校の学監・下田歌子は、式当日の毎日新聞にも、「これといって取り立てて申すべき花々しい御事などなかりしが、未来の国母として些かも欠点を有し賜わざる御方」と消極的な評価をしている
小柄で弱々しかった皇后美子の反面教師として、皇子の産める健康な女性が望まれたものだが、逆に言えば健康以外は眼をつぶったということで、「妾腹の子」、華族出身もあるが、最大の問題は容姿そのもので、黒姫と呼ばれるほど地肌の黒さはそれだけで失格
嘉仁が禎子と破談の後密かに心を寄せていたのは、鍋島伊都子、後の梨本宮守正妃
節子の生い立ちにも原因 ⇒ 生後4年まで高円寺の豪農・大河原家に里子に出され、武蔵野の豊かな自然の中を遊びまわって育つとともに、信心深かった養母の影響を強く受けたことから観世音菩薩を礼拝し続ける

第7章        皇太子妃節子の孤独(2)
明治期の皇太子は、現在よりも遙かに行動の自由が確保されていた
嘉仁も、結婚後も自由に出歩く。極端な洋風好み、頻繁に鍋島家を行き来
1901年 裕仁誕生 ⇒ 皇太后との違いを示しただけでなく、健康上の理由から禎子との婚約を解消させた政府の判断も正しかったことになる。禎子も結婚したが子どもはない
裕仁は生後70日で川村伯爵家に預けられ、節子は子育ても出来ず、外出がちの嘉仁とも行動をともにせず、宮中のしきたりや女官からのきびしい躾を受けながら、こもりがちの生活を送っていたが、精神的落ち込みは、第2子を懐妊してからひどくなる
皇太后の意を受けて動いたのが下田歌子で、節子を励ますために、神功皇后の文武にわたる功績を説いたが、それを聞いた節子は、妊娠という体験を通して始めて神功皇后と繋がっている実感を持つことが出来た ⇒ 同年節子は「神功皇后」と題して和歌を詠んでいる

第8章        団欒と大病と(1)
1902年 第2子・淳宮(あつのみや、雍仁)誕生 ⇒ 節子と同じ誕生日
1903年 大阪開催の内国勧業博覧会に久しぶりに夫妻で揃って出席、睦仁にはなかったことで一夫一婦制のよきモデルを演じる
1905年 第3子・高松宮(宣仁)誕生 ⇒ 青山離宮内の東宮仮御所に隣接した皇孫仮御所に、里子から戻った兄宮たちと同居、節子はその寂しさを歌に詠む。13年有栖川家最後の親王逝去に際し、有栖川宮の旧宮号である高松宮を名乗り、有栖川宮家の祭祀を継承
里子制度に強く反対していたベルツは、1905年帰国直前に宣仁を抱いた節子と会って、心配していた節子が沈鬱と興奮の症状から回復されたし、東宮にも家庭生活が良い影響を及ぼしたことは否定できないと言っている ⇒ ベルツは一家が同居したものと誤解
やがて、節子の心の中に小さな変化が現れる。裕仁より雍仁を偏愛し始める。その差を最も早く看取したのは学習院長の乃木で、自刃する直前、信頼していた学習院御用掛の小笠原に遺書を手渡し、善処を依頼している

第9章        団欒と大病と(2)
節子に大きな精神的影響を与えた下田歌子は、06年華族女学校廃止後は学習院教授兼女学部長となるが、自らの政官界著名人たちとのスキャンダルが新聞で取り上げられ、乃木から辞職させられる
1910年頃から、再び節子の体調悪化 ⇒ 嘉仁の女癖の悪さが最大の原因
1915年 第4子・崇仁(たかひと、澄宮後の三笠宮)誕生まで10年以上子どもが出来なかったのも2人の間に何かがあったことを想起させる
1911年 節子が腸チフスに罹患、全快は3か月後 ⇒ 流行だしたのは数年前、葉山滞在中のことだが、近辺で罹患したものはほとんどいない状況から、背景は謎
12年 睦仁急逝

第10章     天皇嘉仁の発病
14年ごろから嘉仁の体調に異変。アルツハイマーではないかといわれるが、最初に発語障碍が出てきたことからそうではないとする見方もあり、詳細は不詳
幼少期の脳膜炎に遠因があるとする説や、天皇としての精神的ストレスも考えられる
それでもなお、三笠宮誕生と同じころ、女官に手をつけて落胤を持ったと言われる
節子は、14年から帝大教授国学者の筧克彦に「神ながらの道」の講義を受け、初めて「神ながらの道」に足を踏み入れる ⇒ アマテラスは超越的な神ではなく、皇后は常に天皇に従う必要はなく、皇后であっても深い信仰心を持てばアマテラスに近づくことが出来、むしろそうすることで、天皇の名誉はますます輝くと説く
天皇の発病との因果関係はないが、発病を最も早く知り得る節子が、皇后なりの危機感から筧の著書に興味を持ち始めたとも考えられる

第11章     もう一つの大礼
15年 即位の大礼が行われたが、その5か月後に節子が大礼で天皇が訪れたところを再訪、即位礼や大嘗祭、大饗の模様が忠実に再現された ⇒ 三笠宮を妊娠していて即位礼に出席できなかった節子の強い希望によるもので、異例づくめ

第12章     皇太子裕仁の訪欧と英国王室
18年 皇太子妃に久邇宮邦彦(くによし)王の長女良子女王が内定 ⇒ 梨本宮妃も候補だったが、節子に大きな発言権があり、嘉仁が可愛がった伊都子の娘として却下したが、結婚にも、さらには皇太子の訪欧にも消極的だったという。良子は気に入っていたが、久邇宮家の振る舞いが皇后の不興を買う
天皇の病状の進行とともに、節子の光明皇后に対する思いが深まり、ハンセン病患者保護へと動く
裕仁は、訪欧を通じて2つの体験をする ⇒ 1つは英王室の一夫一婦制、もう1つがローマ法王との会見で、「カトリックの教理がすでに確立した国体・政体の変更を許さないことから、将来日本帝国とカトリック教会との提携もありうべし」との法王の言葉が強く印象に残る

第13章     九州へ(1)
21年 裕仁が摂政に就任 ⇒ 節子は、帰国後日常生活を洋風に改めようとした裕仁に不満
摂政就任が、(神功)皇后が最初の摂政だったという「事実」を浮かび上がらせ、神功皇后に対する社会的関心を高め、明治初期からずっと燻ってきた問題に再び火をつける役割も果たしたのは確か
節子は、さらに積極的な行動に出る ⇒ 19年頃から、表向きは天皇の平癒を祈願するためだったが、九州の官幣大社香椎宮への行啓が急増。香椎宮は神功皇后の夫・仲哀天皇が死んだ場所で、皇后が天皇の神霊を祀ったところとされる
節子は参拝を通じて、神功皇后の御霊=「皇后霊」という概念を提示、自らを重ね合せる

第14章     九州へ(2)
22年の九州行啓は特に大規模でその模様は、新聞各社が一斉に写真付きで採りあげたこともあって、天皇がほぼ完全に視界から消えた「空白」を、皇后が皇太子とともに埋める役割を果たすとともに、皇后が自らを神功皇后に重ね合せることによって神功皇后の伝説が掘り起こされる
摂政となった裕仁がまず第1に目指したのは女官制度の改革
摂政の2211月の新嘗祭欠席で、節子の怒りが爆発
23年は亥年で、皇太子の結婚という祝賀を控えながら、ともすれば凶事が起こるという古くからの言い伝えを思い起こしていた

第15章     関東大震災
裕仁は年末から麻疹で、歳旦祭や新年宴会は中止、2月には皇族の死去が相次ぎ、4月にはパリ遊学中の北白川宮成久王が自動車事故で死去、夏には現職の加藤友三郎首相を始め政府首脳や側近の死が相次ぐ
節子の神がかり的な行状は、老侍医も恐れさせ、高松宮ですら手紙の中でヒステリックと表現。節子が神と仰ぐのはアマテラス
9月の大震災で、皇太子の結婚は延期
23.12. 虎の門事件 ⇒ 帝国議会開院式に向かう皇太子をアナーキストの難波大助が襲撃した事件。許嫁を寝取られたのが理由とされ、デマにも拘らずかなり広く浸透

第16章     大正の終焉
24年の歌会始では、皇太子が震災を経て「民を憐れむ心」が一層深まったと詠んだのに対し、皇后・節子は大震災を「神の諌め」と受け止め、さらなる「神ながらの道」を踏む決意を新たにしただけで、震災を具体的に窺わせる言い回しはない
24.1. 裕仁・良子の結婚の儀。饗宴は56月に延期
同月、東宮職女官官制制定 ⇒ 皇太子の意に沿った簡素化に対し、現場は不評
大正デモクラシーの高まりに伴う女性参政権運動に対しても、皇后は女性の本分をわきまえないものとして批判的
25年末に天皇が脳貧血で倒れ、以後急速に体調が悪化
26.10.に冒頭の枢密院決定に基づく皇位に関する詔書公布
詔書と同日、節子は遺書を書いている ⇒ 何故かは不明だが、天皇の快癒への祈りが効果をあらわさなかったことを自ら責めて死を持って償おうとしたこと、皇太子の時代到来への峻拒、さらには神功皇后が第15代天皇として認められることを密かに期待していたのがこの日の詔書により幻に終わったことへの失望・衝撃等が考えられる
26.12.25. 嘉仁崩御、享年47.節子は皇太后となったが、1年の喪が明けても喪服を着用、以後51年に死去するまで25年に亘って黒か紫しか着なかったという
大正天皇に寄り添うもう1人の「死者」として振る舞う皇太后の存在は、新たに天皇・皇后となった裕仁と良子にとって、大きな脅威となった

第17章     必ズ神罰アルベシ
嘉仁の死の方に、訪欧中の秩父宮雍仁は留学先からワシントン経由帰国するが、その途中ワシントンで駐米大使・松平恒雄の長女である節子と、お互い見合いとは知らずに会っているが、松平の娘に目をつけたのは皇后・節子。結果的には成功し、28年中に婚約、結婚。皇太后と漢字が同じだったことから、皇太后自身の選定により、伊勢と松平家の出身地である会津に因んで勢津子と改名
良子には内親王ばかりしか生まれず、流産した5人目まで女子、裕仁が皇室典範を改正して養子の制度を認めることの可否を元老に諮問までしたが、結局は様子見となる
裕仁が宮中祭祀を自ら行っているにもかかわらず、皇太后の目からは形式的な敬神に留まると見做され、「真実神ヲ敬セザレバ必ズ神罰アルベシ」と警告、周囲も母子間の親和に重大な影響を及ぼし兼ねないと懸念
33年 漸く皇子・明仁誕生、幼名継宮
皇太后になった節子は、ハンセン病に対する関心を深めていく ⇒ 自らの誕生日を「救癩の日」「癩予防デー」とした。自ら光明皇后を意識するとともに、患者間を中心に皇太后が光明皇后の再来だとする言説が頻出

第18章     元女官長の乱心
27年 皇后宮職女官長に島津ハル(治子)任命 ⇒ 良子と姻戚関係にあり、就任直後に夫の急死で辞職。30年に全国6000余りの婦人団体の上部組織として結成された大日本連合婦人会理事長に就任。36日の地久節(皇后誕生日)を「母の日」とする(5月第2日曜に変更されるのは戦後の48年から)
36年 二・二六事件勃発 ⇒ 秩父宮が皇道派だったこともあって皇太后は首謀者の相沢中佐に同情的。とすれば、天皇の有名な激怒も違った角度から見えてくる
島津は、信仰を通じて天皇よりも高い霊位を得、秩父宮を唯一の正嫡とする「国体明徴維新の道」を説き、不敬罪で検挙

第19章     戦争と皇太后節子・皇后良子(1)
天皇を「大元帥陛下」とともに「慈母」とする、両性具有としての天皇を強調する言説は、日中戦争以降、母性尊重が強調されるとともに増えていく ⇒ 『国体の本義』でも、天皇の両性具有を明示し、皇后や皇太后の存在を敢えて黙殺しようとした
戦争の長期化とともに、皇后の「慈母」としての強力なリーダーシップが必要となる局面が多くなり、国体イデオロギーとの齟齬を来したが、神功皇后や光明皇后を強く意識していた皇太后もまた、官製のイデオロギーを信奉するはずもなく、齟齬は次第に拡大し、宮中を揺るがす大問題になってゆく
戦争は、皇后の役割にも少なからず影響を及ぼし、戦死者の急増に伴って参拝の回数も増え、皇族妃や王公族妃を各地の病院に派遣し傷病兵を慰問させた
皇太后は、戦勝を期してますます祈祷に注力するとともに、大宮御所に政官界の要人を呼び、直接話を聞いている ⇒ 37年広田内閣成立の際は、全閣僚が御所を訪問、前例のないことながら皇太后に単独拝謁し直接お言葉を賜り、大きな感激を呼び起こした
40年 西園寺公望死去 ⇒ 皇太后に対する最大の防波堤が無くなったことは、皇太后がさらに政治力を強める可能性が大きくなったことを意味
41年 三笠宮婚約 ⇒ 相手は子爵高木正得の次女、辞退するのを留めたのは皇太后
太平洋戦争開始の可能性を恐れて天皇は皇族に疎開を勧めたが、誰一人東京を離れようとせず、漸く皇太后のみ沼津ならということで疎開 ⇒ 結核で御殿場に療養中の秩父宮に近いというのが理由。1年で帰京

第20章     戦争と皇太后節子・皇后良子(2)
日本の政治には、天皇もより上級者であるアマテラスに奉仕するという構造が「執拗低音」として存在し、さらに昭和初期には、アマテラスと天皇の中間に、ナカツスメラミコトとしての神功皇后に傾倒し、自らもナカツスメラミコトたらんとした皇太后がいたところから、皇太后が天皇にとってただの母親ではなく、アマテラスにより近い上級者に当たっていた。皇太后・節子も万世一系のイデオロギーを原理的に否定していたので、裕仁とどれだけ敵対的になっても妥協しなかった ⇒ 裕仁が恐れたのはこの点で、戦争の長期化が皇太后を一層神功皇后に近づけた

第21章     天皇裕仁の退位問題と皇太后節子
裕仁は、戦争責任者を連合国に引き渡す代わりに、自分1人が引き受けて退位でもして納めるわけにはいかないかとご下問、退位後は皇族を摂政にする動きもあった(秩父宮が療養中のため高松宮となる可能性が大)
皇太后も、天皇退位に言及 ⇒ 秩父宮か、さらには自分自身の摂政就任を目論む?
敗戦後の皇太后に、戦勝を信じてアマテラスに祈り続けた面影はなく、財団法人大日本蚕糸会総裁に就任し、将来の経済発展のため蚕糸絹物の生産を奨励し、国産品を大量に製造しなければならないと考えていたが、その背景にはGHQの占領統治によってアメリカの民主主義に染まっていくことへの対抗の意味と同時に、GHQに見守られながら巡幸を続ける天皇への対抗でもあることがやがて明らかになる
皇太后は、天皇に代わる政治的主体となることを決して諦めていたわけではなかった

第22章     皇太后節子の急逝
天皇と皇后の新しい行幸啓のスタイルは、天皇の皇后化、もっと言えば光明皇后化を意味する ⇒ 大元帥でなくなった時代の中で、「女性」化、「母性」化することで新たな正統性を得ようとした
不安定な精神状態にあって、天皇はますます宗教に慰めを見出している。ローマからの枢機卿一行を宮中に招いたのもその一例
皇后は、戦前から幼児教育車でクリスチャンの野口幽香から講義を受けており、キリスト教に多大の関心を寄せていた。自由学園の教育に関心を持ったのもその一端
天皇退位の可能性が断たれた後の皇太后は、蚕糸産業が世界に冠たることに最後の望みをかけ、一層積極的に地方を回る
動き過ぎたのが原因で、50年ごろから不整脈が出始め。1年余り後に狭心症の発作に襲われ、そのまま逝去、享年66.追号(ついごう)を「貞明」としたが、意味は「貞操の徳高く、天地に光明を与えた」という、生前の業績を讃えた謚号(しごう)であり、「皇太后」ではなく「(貞明)皇后」としたのは、生前の最高位としたため。皇后として追諡されたのは神功皇后以来であり、節子は死去することで、光明皇后と同じ「明」が諡号に含まれるとともに、神功皇后に次ぐ正式の皇后となった

第23章     よみがえる光明皇后
葬儀を境に、貞明皇后の「婦徳」が称えられ、「平和主義者」として神話化が図られた
周囲も神格化を進める中、宮中でいかに大きな権勢を振るっていたかを示すエピソードが出てきたり、そのことが大正天皇の命を縮める一因になったり、その懺悔の気持ちが天皇崩御後の「黒衣の人」になったのではということも指摘された
皇太后死去に伴い皇太后宮職は廃止、侍従職に一本化され、漸く階級制度や源氏名が廃止され、お局もなくなり、長々とした挨拶で用いられる御所言葉も使われなくなった
解放されたのは皇后・良子も同様で、皇族会議で「大宮様の御歌集と追憶録のようなもの」の編纂が決まったが、皇后は多忙を理由に取り合わず、歌集だけは1年後に霊前に供えられたものの、「追憶録のようなもの」が編纂されたかどうかは分かっていない
52年には服飾デザイナーの田中千代が皇后の専属となり、同年の第4皇女厚子内親王の結婚のときは長い髪に初めて鋏を入れ、54年の行啓では衿元辺りまで詰めるとともにパーマまでかけている ⇒ 皇太后の重圧が如何に強かったかの裏返し
53年 秩父宮逝去、享年50
敗戦を機に改正された憲法により、天皇制は大きく変わったが、皇后には天皇同様、憲法に規定されない公的行為や私事が認められる。戦前と変わることなく、行啓も行えば宮中祭祀にも出席する。皇后の存在感は昭和期と比べても一層強まっている
東日本大震災では、それを改めて印象付けるとともに、関東大震災を「神の諌め」と捉えて救護所を積極的に回った貞明皇后と現皇后とが重なって見える
象徴天皇制の正統性が、天皇ではなく、光明皇后をシンボルとする皇后によって担われているとも言える。逆に、皇后が十分な役割を果たせなければ、象徴天皇制の正統性が揺らぐことを意味する







皇后考 原武史著 権力のせめぎ合い解く知的挑発 
日本経済新聞朝刊2015年3月22日付
 大正末年の頃のことである。政府は神功皇后を第15代天皇として認めない決定を下す。この決定によって、仲哀天皇(西暦192200年)と応神天皇(同270310年)の間の69年間は天皇不在の大空位時代となる。なぜ政府は大きなリスクをともなう決定を下したか?
(講談社・3000円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)
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(講談社・3000円 書籍の価格は税抜きで表記しています)
 答えを求めて探索を始める本書は、推理小説の謎解きに似るスリリングな展開を示す。そこから浮かび上がったのは、戦う皇后の姿だった。
 神功皇后は身ごもりながら、三韓(新羅・高句麗・百済)を「征伐」した伝説を持つ。この遠い過去の偉大な皇后と一体になって、戦ったのが大正天皇の皇后(貞明皇后)である。ここに先の決定は皇后の戦いに対する政府の対抗手段だったことがわかる。皇后が天皇の代わりを務める拠(よ)り所は失われた。
 それでも皇后の戦いは続く。大正時代が終わる。本書は強調する。「皇太后の存在は、新たに天皇と皇后となった裕仁と良子にとって、大きな脅威となる」
 新しい昭和の時代が始まったはずなのに、ふたりは天皇のようにふるまう皇太后の「呪縛」を受ける。皇太后の存在は天皇の意思を妨げる。アマテラスを信仰する皇太后とキリスト教に傾斜する皇后の対立は昭和の歴史に複雑な陰影を投げかける。
 以上のように皇后の視点から近代日本の歴史空間を再構成する大胆な試みは、賛否両論が強く予想される。推論に推論を重ねた部分がある。論理の飛躍も散見される。仮説でしかないと批判することも可能だろう。
 他方で本書の斬新な分析視角と自在な実証作業は読者を魅了する。
 天皇と皇后が表裏一体の関係だとすれば、天皇の歴史の半面は皇后の歴史である。本書は皇后に注目することで「近代天皇制の裏で進行しつつあった重大な過程」、すなわち天皇の権力に対する皇后の対抗と挑戦の過程を明らかにする。
 史料の博捜は昨年公開された「昭和天皇実録」はもとより、米英の文書館史料に及ぶ。和歌の読解が実証作業の厚みを増す。先行業績に対する言及の仕方は公正で、必要ならば自説を修正することも躊躇しない。行間から著者の自信が溢れ出る。
 書名の『皇后考』が折口信夫「女帝考」の本歌取りであることは、第1章手前の頁(ページ)の引用に明らかである。そうだとすれば、この600余頁の大著は、歴史学と民俗学の境界領域において日本近代史を読み直す知的挑発に満ちた野心作として、天皇制研究に波紋を投げかけることになるにちがいない。
(学習院大学長 井上 寿一)



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