薔薇の名前  Umberto Eco  2015.3.1.

2015.3.1. 薔薇の名前 上・下
Il nome della rosa  1980

著者 Umberto Eco Wikipedia参照
本書は、イタリア・ストレーガ賞、フランス・メディシス賞受賞

訳者 河島英昭 イタリア文学者、東京外国語大学名誉教授。
東京生まれ。福島県立白河高等学校卒業後、学資のため三年間働き、東京外国語大学イタリア語科を卒業、同大学副手、助手、専任講師、助教授、1960年からチェーザレ・パヴェーゼ全集の半ばを翻訳、1960年代後半にローマ大学に留学、1979年、東京外大教授。イタリア文学の研究、翻訳に業績をあげ、1988年、『ウンガレッティ全詩集』でピーコ・デッラ・ミランドラ賞1990年、ウンベルト・エーコ薔薇の名前』の翻訳で日本翻訳文化賞1991年、BABEL国際翻訳大賞日本翻訳大賞、2006年、『イタリア・ユダヤ人の風景』で読売文学賞受賞。イタリア文学研究センター主宰。ほかにカルヴィーノモラヴィアの翻訳も多い。
ダン神曲 〈地獄篇〉』を、口語詩体で一歌ずつ岩波書店の月刊誌「図書」で、20056月号から20086月号まで連載した。続編〈煉獄篇〉は、同誌20111月号から連載開始した。第三篇〈天上篇〉まで完訳すれば岩波で刊行予定である。

発行日           1990.1.25. 初版               90.3.10. 3
発行所           東京創元社

1968年 メルク(オーストリア、ドナウ河畔)のアドソの手記を入手 ⇒ ベネディクト修道会の歴史に貢献したことで知られる1600年代の碩学がメルクの僧院で発見した14世紀の手記を忠実に復元したもの
手記は7日に分かれ、各1日がそれぞれの典礼時刻に合わせて区分されている
必ずしも厳密に守られていなかったが、それぞれの定時課の意味するところは以下の通り
(北イタリア11月末の日の出午前7時半前後、日没午後440分前後を基準とする)
朝課(深夜課)          深夜2時半~3
讃課(古くは朝課)    夜明け刻限に合わせて、午前5時~6
一時課                  7時半頃、日の出直前
三時課                  9時頃
六時課                  正午(冬期に修道僧が畑で労働をしない僧院では食事の刻限)
九時課                  午後2時~3
晩課                    4時半頃、日没時(夜の闇が降りきらないうちに夕食をとる)
終課                    6時頃(7時までに修道僧は就寝)

1日 
l  一時課
ウィリアムとアドソが山上にあるベネディクト会派の
僧院に到着、僧院長に封印をした皇帝の書状を手渡す
l  三時課
僧院が提供してくれた朝食を2人でとった後、僧院長が来て、数日前に起こった細密画家の修道僧の転落死事件の真相究明を頼まれる
夕食後は閉ざされることになっている文書館の建物の断崖の下で遺体が発見
ウィリアムは、キリスト教世界で最高と言われた文書館への立ち入りを求めるが、最上階の文書庫だけは拒否される
l  六時課
イタリア半島では、聖職者の権利が他のどこの国よりも際だって強く、他のどこの国よりもその権力と財力が誇示されてきたため、少なくともこの2世紀来、清貧を旨として生きる人々の間に宗教運動がおこり、腐敗堕落した司祭たちに論争を挑んで、秘蹟さえも拒否し、自立した共同体に結集しようとしたため、君侯からも皇帝からも都市国家の執政官からも同時に妬みを買ってしまった ⇒ 聖フランチェスコが現れて、教会の戒律に矛盾しない形で清貧の愛を広めたため、教会も原初の宗教運動の厳格な習慣へ立ち返る要請を受け容れ、聖職者たちの間に芽生えていた無秩序の要素を忽ち浄化し去った
ところが、フランチェスコ修道会も規模拡大とともに富裕層を周辺に惹きつけ、強大な権力機構となって俗事に深く関わるようになると、内部から多くの者が再び往時の清貧へ修道会を立ち返らせたいと思うようになる
1316年 ヨハネス22世が教皇に選ばれると、異端教徒に対する容赦ない迫害が始まり、反対派は次々に火刑に処せられる
l  九時課の前
見事な菜園を見学して、そのままつながっている厨房へと入る
l  九時課の後
2階に上り、東塔を出て広々とした写字室に向かう。そこには古文書学僧、熟練の装飾画家、写本装飾家、写字生などの机と書見台が並ぶ
死んだ画家が仕事をしていた机は、素晴らしい出来栄えの薄い羊皮紙の最後の1葉が留められたままになっていた
「お前たちは最後の日々を無駄に過ごそうというのか! 最後の7日を虚しく費やすな!
l  晩課
ガラス細工僧との会話から、文書庫にまつわる奇妙な噂を聞き込む
l  終課
全員がそろって沈黙のうちに晩餐を済ませると、修道僧たちは終課の政務に就き、全ての出入り口の扉を文書館長が閉め、内側から閂をかける

2
朝の聖書読誦の間に豚小屋から修道僧の死体が見つかり大騒ぎとなる
文書庫に入って迷路のようになった部屋を探索

3
深夜の厨房に人影を見る。相手もアドソに気付いて、1人は逃げ出したが、もう1人は立ちすくみ、それが村の女で、アドソと関係を持ち、初めての経験に恍惚となる
修道僧の中に、何等かの職権によって農民たちと直接の関わり合いを持つことが許され、彼等に厨房の食物を与える代わりに女と交わっていた者がいた
さらに、沐浴所の水槽の中で第3の死体を発見

4
修道院の裏の世界の手引きをし
ていた厨房係を突き止め、彼から裏世界で行われていた悪事の一部始終を聞かされる
一味は、フランチェスコ会派と対立する会派で、村の娘たちとの間の姦淫のほかにも仲間内での男色も行われていた
教皇庁の使節団が到着、盛大な晩餐の後、寝静まるのを待って、ウィリアムとアドソは再び文書庫に忍び込んで、迷宮のようになった部屋の謎を解明に行く
その晩、巡邏の警備隊が密会している修道僧と女を発見して捕える

5
小さき兄弟会派は、キリストが完全な生き方の手本を示すために、また使徒たちがその教えを実践するために、所有の理由にせよ統率の理由にせよ、一切の共有財産を持たなかったことを確認しまた正典の文章から様々にそれが論証できるとして、この精神こそは正統なカトリック信仰の根拠であると決議。一切の所有の放棄は賞讃に値する神聖な決意であり、戦う教会の創設者たちはこの神聖な掟を順守、皇帝を味方につけて教皇側を攻撃
会談は、教皇側とフランチェスコ会との間で行われ、そこにウィリアムが皇帝の代理として参加。それぞれが自分の立場と解釈を主張
正午過ぎ、薬草係の学僧が惨殺体で見つかり、薬の瓶や書類が散乱

6
朝課の務めの最中、文書館長が激しい発作の末こと切れる。手にはサソリの毒を飲んだことを示す黒いあざが残っていた
文書館長は、僧院長になるためのステップとして選任されていたので、歴代にわたって激しい地位争いの対象だった
事情を知り過ぎたウィリアムに気付いた僧院長は、ウィリアムへの捜査依頼を打ち切るが、さらなる殺人を確信したウィリアムは遂に文書庫の迷宮の謎を解き、開かずの部屋に入って盲目の長老を発見する
盲目の長老は、僧院長から僧院の蔵書に秘密を明かすよう迫られ、自ら長年実質的に支配してきた僧院の秘密を暴かられるのを恐れて僧院長を迷宮の仕掛けで殺す
ウィリアムがすべての謎を解き明かしたことを悟った長老は、ウィリアムが見たいと願っていたこの世に唯一残されたアリストテーレスの『詩学』の『第2部』の筆写本を見せる。本にはサソリの毒が塗られ、それを見たものは死ぬ運命にあったが、ウィリアムはそのからくりを知っていたので、用意した手袋をしてページをめくる
全てのからくりが読まれたことを知って長老は、本を取り上げて自らページを破って飲み込もうとする
長老を抑え込もうとして格闘になり、長老はランプを奪って本の山に投げ捨て、一瞬にして本は炎の中に。さらに火は文書館全体に広がり、聖堂も宿坊も業火に焼け落ちる
僧院は33晩燃え続け、ウィリアムとアドソは逃げ出した家畜を捕まえて僧院の土地を離れる
アドソはウィリアムと別れてメルクに戻り、ウィリアムは後に流行ったペストで死去
アドソは後に所属する修道院の僧院長に派遣されて、イタリアへ旅をする機会があり、あの山上の僧院の廃墟を訪れる。廃墟周辺は放置され荒涼としていたが、瓦礫の間に羊皮紙の切れ端を幾つか見つけるが、みな書物の亡霊で、解読は困難
その時集めて持ち帰った不完全なページは、自分に残された生きるべき全生涯の間、片時も離れず私と共にあった。神託を求めるようにして、これらのページと向き合ってきた
この手記を残そうとはしているが、誰のためになるのかもわからないし、何を巡って書いているのかも私にはもうわからない。「過ギニシ薔薇ハタダ名前ノミ、ムナシキソノ名ガ今ニ残レリ」





訳者による解説
トマス・アクィナスの哲学と中世文化への眼差しは、エーコにおける中心課題
エーコの名を高めたのは『開かれた作品』(1962) ⇒ 野心的前衛芸術論
30年前後生まれの若手文人が結集した63年グループに加わり、67年創刊の反体制雑誌『クィンディチ』の同人となって、先鋭な批評活動を展開。とりわけ文学(芸術)作品の創り手と受け手の関係性に着目、前者が後者へ一方的に意味内容を授与する閉ざされた形態だけではなく、現代においては後者が前者の作品に参加して、可逆的に意味内容を発見する開かれた形態のあることを提示、分析してみせ、エーコの関心は、現代社会のおける伝達の機構や手段の考察、コミュニケーション論、大衆文化・文学論、へと進む
75年 ボローニャ大学哲学部に記号論の講座を創設、初代正教授となり、今日に至る
本書は、エーコの処女小説。世界中で10百万部を超える
全体が7日に別れた体裁は、14世紀の大作家ボッカッチョが『デカメロン(十日物語)』によって確立した枠物語と呼ばれるものだが、『デカメロン』がそれぞれ独立した短編集であるのに対し、本書は死を間近に控えた老修道僧が見習修道士だった若き日に遭遇した7日間の奇怪な物語であり、時間が一方向に流れるという意味では擬似枠物語と呼べる
物語の舞台は中世。アクィーノのトマス(1224/2574)が著わした中世神学の世界を、ラテン語ではなく当時の俗語だったイタリア語によって文学化したのが『神曲』のダンテ・アリギエーリ(12651321)。トマスの神学からダンテの詩学へ、中世ラテン語からイタリア俗語へ、神への祈りと労働によって完結した小宇宙を築く山上の修道院から新興の自治都市へ、中世の知の殿堂であった修道院文書館から新興都市の大学へ、物々交換から貨幣経済へ、このような社会の変革期にあって、キリスト教精神界へ革新の思想をもたらしたのがアッシージのフランチェスコ(1182頃~1226)
中世末期のヨーロッパでは、ローマ(一時期アヴィニョン)の教皇が神聖ローマ帝国の皇帝と世俗権利を巡って鋭く対立。アヴィニョンのヨハネス教皇(在位131634)とバイエルン侯ルートヴィヒ(1287頃~1347)が両陣営の立役者。この対立に割って入ったのがフランチェスコ会で、キリストの清貧を信仰の真理として公に認めさせたが、教皇はこれを異端として断罪。この緊張関係の緩和を期して、神聖ローマ皇帝の戴冠を要求するルートヴィヒの外交特命を受けたのが本書に登場するイギリス人フランチェスコ会修道士だったパスカヴィルのウィリアム ⇒ 創作上の人物だが、コナン・ドイルの『パスカヴィルの犬』に準えて、ウィリアムが名探偵ホームズであり、その弟子の見習修道士がワトソンであり、同様に『神曲』で登場する既知者で導師のウェルギリウスと、未知者のダンテの関係になっている
ウィリアムとアドソの主従が山上の僧院を訪問した直後、教皇側と皇帝を後ろ盾とするフランチェスコ会の会談を前に次々に殺人事件が起こる。ウィリアムは、僧院長の依頼で謎の犯人を追うが、教皇側が殺人犯を捉え、それを口実に会談そのものを破棄する
皇帝特使の任務が失敗したウィリアムは、無償の行為として僧院文書館の迷宮の謎に挑む
その舞台となったのは、アドリア海の港町バーリの西方にあるカステル・デル・モンテの迷宮構造に想を得ている
本書を書いた直接の動機は、78年に発生したモーロ事件で、テロによる暴力の前にイタリアでは「失語症の知識人」が数多くいた
アルド・モーロ(Aldo Moro1916923 - 197859)は、イタリア政治家
イタリアのレッチェ県マーリエ出身。キリスト教民主主義党員となり、第二次世界大戦後にイタリアが共和制国家になって初めて行われた1946選挙国会議員に初当選した。
その後1959リスト教民主主義書記長に就任したほか、数度に渡り閣僚を務めるなど要職を歴任した。さらに1963から1968と、1974から19762回にわたり首相をつとめた。在職中は数度に渡りソビエト連邦などの共産圏への食肉などの輸出などにからめた汚職が噂された。
1978316に、ローマの自宅から車で下院に向かう途中、市内中心部のマリオ・ファーニ通りで二台の車で乗り付けた左翼テロリスト集団の赤い旅団に誘拐された。この時、5人のボディガードがいたがすべて射殺されている。
ローマ教皇を含めたイタリア政界上層部と赤い旅団との間で数度にわたる交渉が行われたものの、モーロと当時対立関係にあったジュリオ・アンドレオッティ首相率いる当時の内閣が、赤い旅団からの逮捕者の釈放要求を拒否した為に殺害され、59日にローマ市内に停めたルノー・4の荷台の中で死体となって発見された。遺体は毛布をかけられたうえ、10発の弾丸を撃ち込まれていた。当局によれば、殺害の実行犯はマリオ・モレッティイタリア語版)だとされている。
なお、モーロ元首相が当時イタリア共産党の議会への復活を画策していたことから、モーロが解放されることにより、冷戦下のイタリアにおいて共産党勢力が勢いをつける(当時イタリアにおいて共産党は2番目の支持率を誇っていた)ことを嫌ったCIAが、アンドレオッティ首相に圧力をかけた疑いが取りざたされた。
モーロ元首相は、「赤い旅団」に監禁されていた時に書いた手紙で「アンドレオッティは悪事を行うために生まれてきた男」と指摘した。
カルロ・アルベルト・ダッラ・キエーザイタリア語版)将軍率いる対テロリズム対策情報機関が辣腕をふるったこともあり、赤い旅団のメンバーはその後大半が逮捕されて裁判にかけられた。モーロ殺害の実行犯とされるモレッティは終身刑の判決を受けたが、1998に夜と週末に刑務所へ戻ることを条件に仮釈放された。
なお、事件後にジュリオ・アンドレオッティによる暗殺事件への関与を暴こうとした雑誌編集者で、元フリーメイソンで破門後も秘密結社として活動を続けていたロッジP2のメンバーのカルミーネ・"ミーノ" ペコレッリCarmine "Mino" Pecorelli)の殺害(1979320)を、アンドレオッティ自らが知り合いのマフィアに依頼したとして、200211月に一度は殺人罪で懲役24年の有罪判決を受けたものの、翌年の10月には逆転無罪の判決が出た。
本書には、読み解くべき物語が重層的に嵌め込まれている。読書経験が豊かなほど、たくさんの物語をこの小説のうちに見出すだろう。それは一輪の薔薇の花に似ている
「いまにして思い当たるのだが、全宇宙が私に向かって、即ち全宇宙とは、ほとんど明確に、神の指で書かれた一巻の書物であり、その中では一切の被造物がほとんど文字であり、生と死を映す鏡であり、その中ではまた一輪のささやかな薔薇でさえ私たちの地上の足どりに付せられた注解となるのだが」 
〈神〉と〈女性〉とを結び合わせて決定的な名前を書きだしたのはダンテであり、その名はベアトリーチェ(恵みを与える者)だったが、『神曲』から半世紀もたたぬうちに、ボッカッチョの『デカメロン』ではベアトリーチェはすでに名を失い、多数の現実の女たちに姿を変えている。両者の中間にあって、大詩人ペトラルカは、アヴィニョンの聖堂の中でラウラに巡り合う。1327年のこと。この年号は、様々な政治的状況を斟酌して、本書の年に選ばれたのだが、エーコがメルクのアドソに託して、イタリア文学の本流である〈愛〉を物語ったことは間違いない



Wikipedia
『薔薇の名前』(イタリア語原題:Il Nome della Rosa)は、ウンベルト・エーコ1980に発表した小説。1327教皇ヨハネス22時代の北イタリアカトリック修道院を舞台に起きる怪事件の謎をフランシスコ会修道士バスカヴィルのウィリアムとベネディクト会の見習修道士メルクのアドソが解き明かしていく。
映画化作品(1987年)については映画「薔薇の名前」を参照。
構成とあらすじ[編集]
物語は、もともとラテン語で書かれ、フランス語に訳されたメルクのアドソの手記を「私」が手にし、その真偽を疑いながらも内容を明らかにし、イタリア語で出版したという形式をとっている。
舞台はアヴィニョン教皇庁の時代、フリードリヒ美王の特使としてバスカヴィルのウィリアム修道士が北イタリアの某所にあるベネディクト会修道院を訪れる。ウィリアムはかつて異端審問官としてそのバランスのとれた判断が高く評価されていた。物語の語り手である見習修道士メルクのアドソは、見聞を広めてほしいという父親メルク男爵の意向によってこのウィリアムと共に旅をしている。
ウィリアムの本来の目的は、当時「清貧論争」と呼ばれた、フランシスコ会とアヴィニョン教皇庁のあいだの論争に決着を付ける会談を調停し、手配することにあった。ところがその修道院において、両者の代表の到着を待たずに奇怪な事件が次々と起こる。二人は文書館に秘密が隠されていることを察知し、これを探ろうとするがさまざまな妨害が行われる。修道院内で死者が相次ぎ、老修道士がこれは黙示録の成就であると指摘すると、修道士たちは終末の予感におののく。
やがてフランシスコ会の代表と教皇側使節一行が到着するが、論争の決着は付かず決裂する。教皇使節と共に会談に訪れていた苛烈な異端審問官ベルナール・ギーが、修道院で起こっている殺人事件は、異端者の仕業であるとして、異端審問を要求した為、事態は、まったく異なる方向へと進行して行く。ウィリアムはそれでも、事件の秘密解明に全力を注ぐことを決意する……
物語の背景[編集]
物語は7日間にわたって進行し、章として聖務日課(教会の祈り)の時課が用いられている。主人公アドソとその師ウィリアムの関係は、あくまで探偵小説にあらわれる探偵とその助手(シャーロック・ホームズワトソン博士など)という定式のフォーマットを踏んでいる。また、ウィリアムの出身地がバスカヴィルであることから『バスカヴィル家の犬』が連想されるが、この例にあるように作品は無数の書物の記述への言及と参照を行っている。ボルヘス的な書物と知の迷宮世界への参照と言えるが、そのボルヘス自体に対し、「迷宮図書館」とか、その図書館に大きな影響力を持つ修道士たちの長老、盲目の師ブルゴスのホルヘなどの登場人物設定を通じて参照が行われている(ホルヘ・ルイス・ボルヘスはアルゼンチンの国立図書館の館長で、盲目となった人物で、さらに「迷宮図書館」を主題とした作品がある)。
物語自体は殺人事件の真相を解明するというシンプルなものだが、その背景に、喜劇について論じた詩論とされるが伝来しておらず、本当に存在したのか論争があるアリストテレスの『詩学』の第二部や、当時の神学論争(普遍論争など)や、フランシスコ会における清貧論争とそこから発生した異端論議、神聖ローマ皇帝とアヴィニョンに移った教皇の争い、当時のヨーロッパを覆っていた終末意識などが複雑にからみあっている。また、実在した有名な異端審問ベルナール・ギードミニコ会士)や同じく実在したフランシスコ会カサーレのウベルティーノの登場などによって、複雑な知と言説の模様を造っている。聖書キリスト教神学からのさまざまな形での引用が多いことも本書の理解を難しくしているが、逆に言えばそれらについての知識が増えれば増えるほどさらに面白く読むことができるということもある。
また本書はキリスト教の歴史と笑いの関係について問題提起した書でもあり、この本を受けてキリスト教と笑いに関する多くの書籍が出版された。
登場人物[編集]
枠物語
わたし(ウンベルト・エーコらしい。たまたま、中世の写本を不思議な巡り合わせで入手する)
主人公(師と弟子)
バスカヴィルのウィリアム(フランシスコ会修道士、元異端審問官、アドソの師)
メルクのアドソ(ベネディクト会見習修道士、ウィリアムの弟子、記録本文の筆者)
ベネディクト会修道院の修道士たち
フォッサノーヴァのアッボーネ(修道院長)
レミージョ・ダ・ヴァラージネ(修道士、厨房係)
サルヴァトーレ(助修士、厨房係の助手)
マラキーア・ダ・ヒルデスハイム(修道士、修道院の文書館長)
ベレンガーリオ・ダ・アルンデル(修道士、文書館長補佐)
ザンクト・エンメラムのセヴェリーノ(修道士、薬草係)
ニコーラ・ダ・モリモンド(修道士、ガラス細工師)
アデルモ・ダ・オートラント(修道士、細密画家)
ヴェナンツィオ・ダ・サルヴェメック(修道士、古典翻訳が専門)
ベンチョ・ダ・ウプサラ(修道士、修辞学が専門)
アリナルド・ダ・グロッタフェッラータ(最長老の修道士)
ホルヘ・ダ・ブルゴス(盲目の老修道士)
アイマーロ・ダ・アレッサンドリア(修道士)
ピエートロ・ダ・サンタルバーノ(修道士)
パチーフィコ・ダ・ティーヴォリ(修道士)
フランシスコ会士と教皇庁代表
ミケーレ・ダ・チェゼーナ(フランシスコ会総長)
ウベルティーノ・ダ・カサーレ(フランシスコ会修道士、聖霊派の指導者)
ニューカッスルのヒュー(フランシスコ会修道士)
ベルトランド・デル・ポッジェット(枢機卿)
ベルナール・ギー(ドミニコ会修道士、異端審問官)
その他
娘(谷間の村の娘)
「薔薇の名前」とは何か[編集]
この小説の原題は、イタリア語で「Il Nome della Rosa」で、英訳すると「The Name of the Rose」である。薔薇(rosa)にも名前(nome)にも定冠詞が付いている。小説は、その最後が、/stat rosa pristina nomine, nomina nuda tenemus./ というラテン語の詩句で終わっている。これはモーレーのベルナールの説教詩の一行で、小説の最後の部分では、ベルナールの詩の句が幾度も引用されている。
もっとも単純には、「薔薇の名前」とは、メルクのアドソの初恋の相手で、生涯の唯一の恋人となった、この小説の主要登場人物中でただ一人、名前が明記されていない農民の少女の名前のことだと解釈されている。しかし、最後の一行の詩句が、非常に多義的な意味を持つことから、様々な解釈が行われている。
ラテン語の詩句は、形式的に直訳すると、「以前の薔薇は名に留まり、私たちは裸の名を手にする」というような意味であるが、ベルナール自身の詩のなかで象徴的な意味を持っており、さらに小説のなかでも、多義的象徴的意味を持っている(この詩は、ヨハン・ホイジンガ『中世の秋』に引用されており、その詩の全体がどういうものかは、『中世の秋』(日本語版は堀越孝一訳で、新版・中公クラシックス2冊)で、知ることができる)。
「薔薇の名前」と普遍論争[編集]
エーコの小説のなかでは述べられていないが、フランシスコ会教皇庁の争いは、フランシスコ会総長チェゼーナのミケーレ他幹部が、論争に決着を付けるためアヴィニョンを訪れるが、教皇庁側の対応に疑問を抱いた彼らが、一夜にしてアヴィニョンを逐電し、ドイツ(当時の神聖ローマ帝国領)へと逃れるに及んで最終的に決裂した。このとき、逃走した者のなかには、当時の普遍論争において、唯名論の側の立場に立つ筆頭の論客として知られた、オッカムのウィリアムも含まれていた(この後、教皇庁はミケーレを解任し、フランシスコ会に新しい総長を選出させ、結果、二人の総長が並立するという事態になる)。
オッカムのウィリアムは、論理思考における「オッカムの剃刀」で良く知られているように、近代合理的な思考、経験的科学的な認識論を指向していた。従って、オッカムのウィリアムが、またバスカヴィルのウィリアムのモデルだとも言える。
普遍論争とは中世に存在した、実在するのは何かという哲学議論で、簡単には、事物(レース)について、その類観念つまり類のエイドス(形相)が実在しているというのが、「実念論」の立場で、これに対し、オッカムのウィリアムなど「唯名論」の立場では、実在するのは個々の事物(レース)であって、類の普遍観念つまりエイドスは、「名(nomen)」に過ぎないという考えであった。
この事物の類観念と個々の事物の関係を、「薔薇(rosa)」という事物または類観念で考えると、薔薇という類の普遍観念が実在するのか、または普遍観念つまりエイドスは「名前」に過ぎず、実在するのは個々の薔薇であるのか、ということになる。オッカムは後者の立場である。
「その薔薇のその名前(Il Nome della Rosa)」とは、「その名前」が普遍観念で実在か、「その薔薇」こそが具体的事物で実在で、「その名前」は形式に過ぎないのか。バスカヴィルのウィリアムは唯名論の立場で、後者である。しかしメルクのアドソは晩年に至って、師の教えに反し、「その名前」が実在である、つまり実念論の立場に転向した趣旨が小説の「最後の頁」で示唆されている。
/stat rosa pristina nomine, nomina nuda tenemus./ という小説最後のラテン語の詩句が、ここで中世の普遍論争の文脈に置かれることになる。また、時代錯誤であるが、作者エーコは、バスカヴィルのウィリアムに20世紀分析哲学の思想に類似した内容を語らせており、ヴィトゲンシュタインの言葉の引用に似た表現が登場する。分析哲学は、中世普遍論争の問題を20世紀において継承した思想である。
エーコの小説の「枠」を外した事実上の「始まり」の部分は、「初めに(原初に)、言葉があった( In principio erat verbum.)」(『ヨハネ福音書11節)であり、「最後」は、筆写室に手稿を残してアドソが部屋を後にするという説明であり、そして、最後の最後に、上のラテン語の詩句が置かれている。「原初の薔薇(rosa pristina)」とは何で、「裸の名前(nomina nuda)」とは何か、作品は、言葉実在の関係をめぐり、記号と世界の秩序の関係をめぐり、壮大な「薔薇の名前」の物語を築いている。
日本語版[編集]
『薔薇の名前 (上下)』 河島英昭 東京創元社1990


ウンベルト・エーコ(Umberto Eco193215 - )はイタリアの記号論哲学者小説家中世研究者、文芸評論家で、ボローニャ大学教授、ケロッグ大学およびオックスフォード大学名誉会員。
北西部のアレッサンドリア生まれ。エコ、エコーの表記も見られる。現実の事件に啓示を受け、小説の執筆を開始。1980年に『薔薇の名前』(原題 Il nome della rosa)として発表した。これはフィクションにおける記号論、聖書分析、中世研究、文芸理論などの要素が絡み合った知的ミステリーである。1981年、同作でストレーガ賞を受賞。小説作品はいずれも、世界数十ヶ国で翻訳出版されている。学術書、子ども向けの本、エッセーなども数多く著している。
経歴[編集]
イタリア北部のピエモンテ州アレッサンドリアに生まれる。父のジュリオは会計士だったが後に政府から3つの戦争へ招聘された。 第二次世界大戦中、ウンベルトと母のジョヴァンナはピエモンテの山腹へ避難した。サレジオ会の教育を受けたため、作品中やインタビューなどでサレジオ会やその創設者について言及している。彼のファミリーネームは、ex caelis oblatus (ラテン語で「天からの贈り物」の意)の頭文字を取ったものと一般に信じられている。これは孤児であった彼の祖父が市の職員から名付けられたものである。
13人兄弟だった父に法律家になるよう強く勧められたが、中世哲学や文学を学ぼうとトリノ大学に入学。トマス・アクィナスの美論についての論文を書き、1954年に学位を取得。この時期に信仰が揺らぎカトリック教会から距離を置いた 。その後に国営放送局のイタリア放送協会(RAI)でドキュメンタリー番組のプロデューサーとして勤務した後、トリノ大学でも講義を行った(1956–64)63年グループで親しくなった一団の前衛芸術家、画家、音楽家、作家たちは、その後の作家人生における重要で影響力のある要素となった。博士論文の延長である初の自著Il problema estetico in San Tommaso1956年に出版してからこれは特に顕著となった。この著書はまた、母校での教鞭活動の出発点ともなった。
19629月にドイツ人美術教師Renate Ramgeと結婚、息子と娘をひとりずつ儲けた。ミラノのマンションとリミニ付近の別荘の2つを拠点とした生活を送っている。ミラノに3万冊、リミニに2万冊の蔵書を誇る。1992年から翌年にかけてハーバード大学の教授を務めた(Six Walks in the Fictional Woods)。2002523日、ュージャージー州ニューブランズウィックラトガース大学より名誉文学博士を贈られた。イタリア懐疑論者団体CICAPの会員である。
研究[編集]
1959年に2冊目の著作Sviluppo dell'estetica medievale (中世美学の発展)を刊行した。これによって並外れた中世思想家としての地位を確立し、その文学活動が価値あるものと、彼の父親にも証明した。イタリア陸軍での18ヶ月の兵役を終え1959年にはRAIを後にして、ミラノのBompiani出版社のノンフィクション編集長となった。1975年までこの地位に就いていた。
中世美学に関するエーコの研究が強調するのは理論と実践の区別である。彼によると中世の時代に存在したのは、ひとつには「幾何学的合理性のある何が美であるべきかのスキーマ」であって、他方には「弁証法的な形相と内包」であった。それはお互いをあたかも一枚の窓ガラスのように退け合うのだという。当初は"読者反応"のパイオニアのひとりであったが、時を経てエーコの文学理論は焦点を変えた。
3年の間、エーコは真剣に「開かれた」(オープンな)テクストや記号論についての考えを発展させ始めた。そういった主題のエッセイを数多く執筆し、1962年にOpera aperta (開かれた仕事)を、世に送り出した。その中で論じられているのは、真の文学テクストは一連の意味を持つというより、意味の領域なのであるということ、またそれらは、オープンで精神的にダイナミックで心理学的に研究される分野であると理解されるということである。評価術語学は専門領域ではないのだが、エーコはこのように論じている。読み甲斐のない文学とは、読者の潜在理解力を一面的で明瞭な言葉、すなわち閉じられたテクストに制限するようなものである。その一方で精神、社会、人生の間で最も活動的であるようなテクスト、すなわち開かれたテクストは活気に満ちていて最高のものなのだ。エーコが強調する事実は、単に語彙的な意味を持つ単語はなく、発話の文脈の中で作用するのだということである。これは従来、イギリスのアイヴァー・リチャーズらによって指摘されてきたことだが、エーコはこの考えを言外の意味・含意にまで敷衍した。また発話中の言葉の不定な意味から意味の予測と補完による作用にまで意味の軸を拡張した。エーコがこういった考え方に至ったのは言語学を通してでありまた記号学によるものであって、心理学や伝統的分析を通してではない。後者のアプローチはヴォルフガング・イーザーらのような理論家によるもの、前者は によるものである。本格的な理論を発展させたわけではないが、大衆文化研究にも影響を及ぼしている。
人類学活動[編集]
エーコはVersus Quaderni di studi semiotici(イタリアの学術用語で『』として知られる)という有力な記号論ジャーナルを共同創設し、意味論や記号論に関係する学者の重要な発表基盤となった。その機関誌の基金や活動はイタリアを含むヨーロッパ全土において、記号論の影響をそれ自体の学術分野として増大させることに貢献してきた。
ヨーロッパの有名な記号学者のほとんど、すなわちウンベルト・エーコ、アルギルダス・ジュリアン・グレマン英語版)、ジャン=マリー・フロックパオロ・ファッブリジャック・フォンタニユ英語版)、クロード・ジルバーベルグ英語版)、ウゴ・ヴォリ英語版)、パトリジア・ヴィオリはヴァーサス上に論文を発表してきた。記号論の新たな研究展望を扱う若く無名な学者にもまたヴァーサスのほとんど毎号の中に発表する場が与えられている。
1988年にレッジョ・カラブリア大学でアレッサンドロ・ビアンキ校長から建築学の名誉学位を受け、ボローニャ大学で「非西洋人(アフリカ人・中国人学者)の観点から見る西洋の人類学」という一風変わった課程を創設した。このプログラムはアフリカ人・中国人学者の独自基準で定義されている。エーコは、西アフリカのAlain Le Pichonの考えに基づいた異文化国際ネットワーク発展させ、1991年中国の広州において「知のフロンティア」という名の初の会議を開催するに至った。この最初のイベントの後すぐに"普遍探究の誤解"についての欧州・中国セミナーがシルクロードに沿って広東から北京で開かれた。後者は最終的にThe Unicorn and the Dragonという名の本となった。その中で中国とヨーロッパの知識を創造することの疑問について議論している。この書籍に関わった学者は、中国人ではタン・イジーワン・ビンYue Dayunなどがいる。ヨーロッパ人ではフーリオ・コロンボアントワーヌ・ダンシャン英語版 ジャック・ル・ゴフパオロ・ファッブリアラン・レイなどがいる。
洋の東西の相互知識を省察すべく、ボローニャでの会議に続いてマリのトンブクトゥ2000年にセミナーが開かれた。これが今度はブリュッセル、パリ、ゴアでの一連の会議につながり2007年には遂に北京で会議が行われた。北京会議の議題は"秩序と無秩序""戦争と平和の新概念""人権""社会正義と調和"であった。開会講演はエーコが行った。プレゼンテーションを行った人類学者は次の通りである。インド:Balveer AroraVarun SahniRukmini Bhaya Nair。アフリカ:ムサ・ソウ。ヨーロッパ:ローランド・マーティモーリス・オーレンダー。韓国:チャ・インスク。中国:ホワン・ピンチャオ・ティンヤン。有力な法学者や科学者(アントワーヌ・ダンシャンアーメド・ジェバーディーター・グリム)もまたプログラムに参加した。
国際コミュニケーションや国際理解を容易にする対話への興味は洋の東西を問わず、国際補助語エスペラントにも関心を抱いている。
小説[編集]
エーコの創作作品は好調な売れ行きを見せており、多数の言語に翻訳され世界中で楽しまれている。小説はしばしば歴史上の人物や書物に言及し、濃密で難解なプロットは幻惑的な展開をたどる傾向がある。
1980年出版の小説第1作『薔薇の名前』は、14世紀の修道院が舞台の歴史ミステリーであるが、その中でエーコは中世研究者としての知識をふんだんに用いている。バスカヴィルのフランシスコ会修道士ウィリアムが、ベネディクト会の見習修道士のアドソと共に、重要な宗教議論を開催するため設置された修道院での連続殺人を調査するという内容である。エーコは、読者が神学専門家でなくとも内容を楽しめるように、中世の神学論争や異端審問を現代の政治・経済用語へ翻訳することに特に長けている。薔薇の名前は後にショーン・コネリーF・マーリー・エイブラハムクリスチャン・スレータら主演で映画化されている。
この小説の注目すべき事実のひとつは、根底をなす殺人事件が(リチャード・バートンによってアラビア語から翻訳された)『アラビアンナイト』からの借用であるということである。また、バスカヴィルのウィリアムの調査シーンの描写のいくつかは、コナン・ドイルによる19世紀の架空の探偵シャーロック・ホームズの特徴を換骨奪胎している。実際、直接・間接を問わず他作品へ多くの言及がなされている。それゆえ、それがメタテクスト性の作品として作用し読者に「謎解き」をすることを要求することになる。
『薔薇の名前』は、ホルヘ・ルイス・ボルヘスへの独創的かつ伝記的な賛辞でもあり、小説や映画の中で彼は、盲目の修道士であり図書館であるブルゴスのジョージとして表現されている。ジョージと同じように、ボルヘスは書物への情熱に身を捧げて禁欲生活を送り、晩年は目が不自由になった。 
1988年出版の小説第2作『フーコーの振り子』も好調な売れ行きを見せた。この小説では、零細出版社に勤める3人の編集者らが、戯れに陰謀説をでっちあげようと思い立つ。彼らが「計画」と呼ぶその陰謀は、テンプル騎士団に端を発する秘密結社が世の中を転覆させようとしているという、巨大で深遠なものだった。物語が展開するにつれ、3人は徐々に「計画」の細部にとりつかれていく。やがて「計画」を知った部外者たちが、3人が本当にテンプル騎士団の失われた財宝を手に入れるための秘密を発見したと信じ込んでしまい、彼らの遊びは危険なものになってしまう。
1994年に第3作目『前日島』が出版された。17世紀を舞台とするこの小説で、海上に停泊した無人船に漂着した主人公の青年は、船べりから見える島を日付変更線の向こう側の「前日にある島」だと考えるようになる。しかし、泳げない主人公は身動きがとれず、自分を現在の境遇に追いやったこれまでの半生と冒険を回想するのに時を費やす。
2000年に第4作目の小説『バウドリーノ』が出版された。騎士バウドリーノは、4回十字軍によるコンスタンティノープル略奪のさなか、ビザンチン歴史学者ニケタス・コニアテスを救う。嘘つきを自称するバウドリーノは、農家のせがれである自分がフリードリヒ1の養子になり、やがて司祭ヨハネの幻の王国を探す旅をするまでの自らの半生を打ち明ける。しかしこの話の至るところで彼はペテンやほら吹きの才能を鼻にかけ、ニケタスは(そして読者も)彼の話がどこまで本当なのかわからなくなってしまう。
2004年に第5作目の小説『女王ロアーナ、神秘の炎』(英訳:The Mysterious Flame of Queen Loana)が出版された。昏睡状態から回復し過去を取り戻す記憶しかなくなってしまった、年老いた古書商人Iambo Bodoniを中心に話が展開する。これがエーコの最後の小説になるという噂があったが、2009年の「ロンドン・ブックフェア」でのインタビューで、自分はまだ「若い小説家」であり、この先ももっと小説を書くだろう、と本人が述べたことで打ち消された[9]
6作目の小説『プラハの墓地』(伊語: Il cimitero di Praga、英訳:The Prague Cemetery)は、201010月に出版[10]された。
エーコの作品が示しているのは間テクスト性、すなわちすべての文学作品にまたがる相互関連の概念である。彼の小説には、文学や歴史への、巧妙でしばしば多言語的な言及が豊富に含まれる。例えばバスカヴィルのウィリアムという登場人物は、修道士であり探偵でもある論理思考型のイギリス人であり、その名はオッカムのウィリアムや(『バスカヴィル家の犬』を介して)シャーロック・ホームズを想起させる。エーコは自らの作品に最も影響を与えた現代作家として、ジェイムズ・ジョイスホルヘ・ルイス・ボルヘスを挙げている(On Literatureによる)。
著書[編集]
小説[編集]
薔薇の名前Il nome della rosa (1980年:上下、東京創元社[11], 1990年)
フーコーの振り子Il pendolo di Foucault (1988年:上下。文藝春秋, 1993年/文春文庫, 1999年)
前日島:L'isola del giorno prima (1994年: 文藝春秋[12], 1999年/文春文庫(上下), 2003年)
バウドリーノ:Baudolino 2000年:上下、岩波書店[13], 2010年)
女王ロアーナ、神秘の炎: La misteriosa fiamma della regina Loana 2004年:岩波書店[14], 未刊・2015年予定)
Il cimitero di Praga 2010年)
学術著書[編集]
記号論(上下[15]岩波書店, 1980年/岩波同時代ライブラリー, 1996年/講談社学術文庫, 20139月・10月)
開かれた作品(青土社, 1984年、新装版1997, 2011 ほか)
トマス・アクィナスにおける美学的問題(卒論)


記号学(きごうがく、英語semiology)は、言語を始めとして、何らかの事象を別の事象で代替して表現する手段について研究する学問を指す。記号論(きごうろん、英語:semiotics)ともいう。

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