旅と草庵の歌人 西行の世界  久保田淳  2015.3.29.

2015.3.29. 旅と草庵の歌人 西行の世界

著者  久保田淳 1933年東京生まれ。日比谷高、東大文卒、同大学院、助手、白百合女子大助教授を経て、現在東大教授。文学博士。専攻は中世文学・和歌文学。『新古今歌人の研究』『新古今和歌集全評釈』『西行全集』など著書あり

発行日           1988.11.20. 第1刷発行
発行所           日本放送出版協会

この作品は、NHK市民大学テキスト『西行の世界』(1984.79.)を基に書き改めたもの

西行は中世の直前に世を去った王朝歌人。彼は、王朝和歌の心と言葉を吸収しつつ、自らのものとしていった。しかし、保元・平治の乱、源平の動乱を目の当たりにし、深く仏道に思いをひそめた彼の裡をくぐり抜けると、王朝の心と言葉はもはやそのままではありえなかった。ここに中世歌人としての西行が現れることになる
草庵にあって旅を想い、花と月を詠む歌人。その歌と旅の時代を後づけ、新西行像を描く

l  旅・花・月の歌人 西行
西行は、芭蕉や良寛とともに、日本の古い詩人の中でも特に人気がある存在。その人気は、作品とともに、その潔い行動、生き方への共感や讃嘆の念に基づくものだろう
芭蕉ほど、作品そのものを冷静に、深く細かいところまで、読み込んではいない
西行は、潔い行動の代償として約2000首の歌を得た。彼が歌いたかったものは、訴えたかったものは何であったのか、その機微に迫るためには、我々も執拗でかつ貪欲でなければならないだろう

第1章        鴫立つ沢の秋の夕暮――行脚と草庵
心なき身にもあはれは知られけり 鴫立つ沢の秋の夕暮 (新古今和歌集)
前が寂蓮法師の、さびしさはその色としもなかりけり 真木立つ山の秋の夕暮
後ろが定家の、見わたせば花ももみじもなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮
3夕の歌」と呼ばれ、名歌の誉れ高いもの
古畑のそばに立つ木にゐる鳩の友呼ぶ声のすごき夕暮れ (新古今集) のほうが西行の秀歌だとする見方もあるが、本人は前者を自負していたことは確かであり、定家は西行に詠むことを勧められた『二見浦百首』という作品群の中で、西行のこの歌を念頭に詠んでおり、西行の晩年に交渉のあった寂蓮も以上の2人の「秋の夕暮」の歌を熟知したうえで、自らも最も心を打たれた秋の夕暮の風景を描いてみせたものであり、西行の歌が他の2種に影響を及ぼしていることも疑いない
西行の「心なき」の歌は、それぞれ中世の美意識の1典型たり得る、異なった2つの風景――海浜と深山との――を生み出すきっかけを作っているし、藤原俊成によって「『鴫立つ沢の』といへる、心幽玄に、姿及びがたし」と評せられている
『西行物語』という一代記では、鴫立つ沢は大磯の海岸近い一地域とされ、歌枕として、後世の文人の訪れる場所となっているが、真偽不明
『金色夜叉》のお宮の松が熱海の海岸に存在するのにも似た心理で、西行の著名な歌の詠まれた具体的な場所を西行の旅先のどこかに特定しようとして生じた名所であり、歌枕なのだろう。本当のところは、西行の歌をいきいきと思い返すきっかけや触媒の役割を果たせば十分なのだろう。事実を穿鑿すること自体が野暮であり、それほどさように西行は旅の歌人、それも日本の各地を巡った歌人、漂泊の詩人という印象を与え続けてきた
鎌倉中期の女性作家、阿仏尼の『十六夜日記』にも旅人としての西行が捉えられ、中世後期の連歌師たちや江戸の俳人たちが描いた西行像も旅人としてのものだし、上田秋成の『雨月物語』でも諸国を行脚する西行を絵巻さながらにさびさびと描く
一方、『新古今集』や『山家集』を読めば、草庵にじっと籠って独り呟くという趣の作も多く、旅の生活に明け暮れしていたのではなさそうだということに直ちに気づく
西行に関心を示した作家の1人、島崎藤村は、そのような草庵生活者としての西行に惹かれるものがあったらしく、吉野の西行庵を訪れて、1893年『訪西行庵記』を残している
旅路と山家・山里住まい(山居)とが作家の主な契機だったと考えられるが、両者は截然とは切り離せない
我々のうちには素朴な現実尊重の傾向があり、自己の体験を絶対的にするところから出発して、文学や芸術に関しても、ともすれば現実体験に即したものを良いとし、そうでないものを絵空事、虚構として斥けかねない。そのような立場からは、西行は容認され、高く評価されてきたし、定家の文学との対比において、西行の文学はその「現実性」のゆえにかなり高い評価を与えられてきた。定家の歌には、中国の文献を典拠としたものが多く、作者の現実生活を直接的に反映したものではない
だが、現実偏重に基づく評価は、実は見当違い ⇒ 2人の違いを現実性の有無によって説明することは出来ない。敢えて言えば、現実に対する関わり方、その表現の仕方が違うと言うべき
伝記や生活に関わるような詞書を持たない「題しらず」の歌や簡単な題詠の歌を読み込まないと西行の歌はわからない

l  昔せし隠れ遊びに――西行の出身
大勢の作者の歌を選び集めたものを「撰集」といい、個人の歌を集めたものを家集、私家集、家の集などという
西行の家集 ⇒ 『山家集』『聞書(ききがき)集』『(聞書)残集』『西行上人集』など
西行の家は、藤原氏北家を祖とし、将門を討った俵藤太秀郷の8代目が西行。秀郷の別の子供の系統が奥州藤原氏。代々皇居の警備にあたる左衛門尉という武官
母方の祖父も源氏の系統だが、芸能・技能を愛し、さばけた人物であったらしい
平清盛と同年の生まれ。月日、幼名などは不詳。一家は紀の川下流の所領を持ち、地頭としてしばしば所領の権益をめぐり高野山と紛争を起こした

l  君が行幸の鈴の奏(そう)は――官人・佐藤義清(のりきよ)
君がみゆきの鈴の奏は いかなる世にも絶えず聞こえて
崇徳天皇の在世が長く続くことを願って歌ったもの
出家前は鳥羽院の下北面の武士。崇徳天皇の内裏も守護、 行幸に供奉
宮中との付き合い ⇒ 徳大寺左大臣と呼ばれた藤原実能(さねよし)を中心に、その妹で鳥羽院の皇后の璋子(しょうし、待(たい)賢門院)、その子・崇徳天皇や娘・統子(上西門院)のもとに出入りし、待賢門院に仕える歌人・堀河、上西門院に仕えるその妹・兵衛らは、まだ子どもだった西行の憧れ。お互い出家後も行き来があった
仁和寺にも出入り ⇒ 時の御室覚性(おむろかくしょう)法親王は、待賢門院の皇子
持明院家(上西門院の乳母を娶った藤原氏一族)とも親しい
源三位頼政との関わり ⇒ 白河法皇の皇女・宮子(きゅうし)の知人として交わる

第2章        心は春の霞にて――出家・遁世
崇徳天皇の退位が迫った1140年に23歳で出家 ⇒ 時期については諸説あり。出家した理由も不詳
悲恋遁世説 ⇒ 『源平盛衰(じょうすい)記』の記述が根拠。妻子はあった。恩愛の絆を振り切る思いで出家したことは間違いなさそう
政治原因説 ⇒ 親しかった崇徳天皇や待賢門院が、東宮(後の近天皇)やその生母・美福門院得子に圧迫されたのを見かねてとの説だが、卑官の身では身の程知らず
壮年に及んで下級官人の職をなげうって出家した空仁の嵯峨の庵を訪れ、影響を受けた面もある

l  吉野山やがて出でじと――修行の歌
吉野山やがて出でじと思う身を 花散りなばと人や待つらむ
出家後は、近郊を転々とした後、吉野の金峰神社の奥に今も西行庵として残る、孤絶した谷あいに庵を結んで遁世
大峰修行や熊野三山での修行を詠んだ句は、『山家集』にも多い

l  陸奥の奥ゆかしくぞ――初度(しょど)陸奥行脚
正確には不詳だが、30代以前に陸奥国への最初の旅を試みる

l  山深み馴るるかせぎの――心通う人々
吉野山における具体的な生活を詠んだものは少なく、高野山での記述が多いことから、出家後は高野山を生活の本拠とし、そこを起点に諸所を経巡ったようだ
真言の行者には違いないが、僧綱(そうごう、僧官や僧位)を持たない西行は、学僧というよりは聖たちに近い存在で、信仰も真言一筋というより、広く仏教信仰を取り込んだ雑修的なものとの説もある
常盤家の人々 ⇒ 丹後守藤原家・為忠の子供たちで、全員出家し、文学芸術方面で活躍
平家に対する親近感は、平家滅亡の事実に遭遇した晩年にも認められるが、その源は遠い

第3章        かかる世に影も変らず――保元の乱と西行
鳥羽上皇は、白河上皇の意向で崇徳院に譲位したが、待賢門院の行状にはとかくの噂もあって、我が子かどうか疑っていたこともあり、白河上皇崩御の後、美福門院に産ませた近天皇に譲位させ、崇徳院は院政の主でもないままに、詠歌に心を慰めていた
1155年 近帝が夭折すると、崇徳院の弟で雑芸今様に熱中していた四宮が後白河天皇として即位、重祚(ちょうそ、復位)の可能性もあった崇徳院の怒りは内攻。摂関家でも同様に深刻な親子兄弟の対立が続く
1156年 鳥羽院の崩御の9日後に保元の乱勃発 ⇒ 崇徳院が源為義・平忠正らの力を得て後白河天皇を襲ったが、予め事態を予測して源義朝や平清盛らに誓文を書かせていた天皇側が勝利
鳥羽上皇の大葬に参った後京に留まっていた西行は、内乱の一部始終を見聞きして歌った歌が、かかる世に影も変らず澄む月を 見るわが身さへうらめしきかな
崇徳院は讃岐に配流され、この後宮廷周辺での和歌の行事が絶える。西行は常盤家の出家した兄弟たちと共に嘆き、女房を介して崇徳院の配所へも歌を詠み送った

l  松山の波に流れて――中国・四国行脚
1167/68(いずれか不詳) 50代の初め、山陽道と南海道への旅に発つ ⇒ 弘法大師の遺跡の巡礼と、崇徳院のご陵への参詣が目的
まず、讃岐に渡って松山の津に崇徳院の行在所を尋ねたが、跡形もなく、虚しく亡くなられた帝を想って詠んだ歌が、松山の波に流れてこし舟の やがてむなしくなりにけるかな

l  如何かすべきわが心――信仰と和歌
西行を案じて世話をしてくれていた西住が先に死ぬ
親しい人の死に遭遇し、無常の思いもいよいよ深まるとともに、哀傷歌が多く読まれる
人々に説いて、真の道、仏道に導き入れようという活動も行っている
仏教思想を和歌に詠むことも、教化の1つの方便と考えら、地獄絵を見て詠んだ句が、
見るも憂しいかにかすべきわが心 かかる報いの罪やありける

l  神路の奥を尋ぬれば――神と国と歌
本地垂迹説が唱えられ、神仏習合・神仏混淆が進む ⇒ 石清水男山八幡宮や熊野三社などは特に進んでいた
伊勢大神宮や賀茂神社のように、強い拒否反応を示す社もあった
西行は、都に生まれ育ったので、賀茂明神が産土(うぶすな)神であり、出家後も賀茂神社詣でを続けており、神官たちとも交友関係を結んでいる
伊勢神宮にも、出家後まもなく詣でており、神主たちとも知り合った
晩年近くには、高野山から伊勢に移り住んでいるが、その時の歌が、
深く入りて神路の奥を尋ぬれば またうへもなき峯の松風 (神路は山の名前)

第4章        花の下にて春死なむ
l  風に靡(なび)く富士の煙の――最晩年
一連の騒乱は1185年、壇ノ浦の戦に敗れた平氏が赤間関の海中に入水して終わる
死に遅れて生け捕りにされた宗盛父子が、鎌倉に護送されて送り返される途中切られて死んだことを伝え聞いた西行は、宗盛の心情に涙している ⇒ 木曽義仲の死を冷ややかに突き放したのとは対照的な、深い同情の息遣いが感じられる
1186年 2度目の陸奥国へ下向 ⇒ 重源の東大寺再興事業に協力して、陸奥の重衡に対し勧進することが目的。その途上で詠んだ歌が、
風になびく富士のけぶりの空に消えて ゆくへも知らぬわが思ひかな
鶴岡八幡宮に参詣し、参り合わせた頼朝に引き留められ、銀の猫を贈られたが、振り切って陸奥に下り、猫も有難く拝領した後門外で遊んでいた子供に与えたという
高尾の神護寺を再興した文覚上人が、出家者であるにもかかわらず歌を詠み歩いている西行を予て快く思っていなかったが、直接会って西行の人間の大きさにいたく感銘を受けたという

l  花の下にて春死なむ――円寂
西行は、伊勢での生活を通じて、伊勢大神宮の本地が大日如来であり、従って大神宮を信仰することは真言行者として何等矛盾しないと確信するに至る
伊勢の御神がこの国の守護神であることを信じ、その御神を喜ばせるために和歌を詠じ、奉納することを思い立つ
東大寺の事業に協力するとともに、都の若い歌人たちを対象に百首歌の勧進も行うが、まとまった形では残されていない ⇒ 定家の「秋の夕暮」の歌もこの百首で詠まれたもの。この百首歌を法施(ほっせ)として大神宮に奉納した後、陸奥へ下って行った
その頃、それまでに詠んだ中から自負するもの144首を選び、それぞれ36番からなる2篇の歌合として編み、1篇を伊勢神宮の内宮へ奉納
1190年 釈尊が涅槃に入られた2月の十五夜の頃、桜の花の下で死にたいと詠んだ翌日死去
願はくは花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月のころ
1201年 後鳥羽院の院宣により、5人の撰者の撰歌にさらに後鳥羽院の監修の目が通って『新古今和歌集』が成立 ⇒ 西行の歌は94首で最も多い
花と月の歌人とも呼ばれる ⇒ 頼朝に詠歌の奥義を問われて、「花月に対して道感の折節僅かに三十一字を作るばかりなり」と答えている。彼の秀歌集『山家心中集』は別名を『花月集』といい、花36首、月36首を表に立てたもの
西行の目は花月のみに向けられていたのではない。荒海にも路傍の草にも向けられ、また、地獄の業風や刀剣の相搏つ響きをも聞き取っている。その世界は醜や悪を包み込んだものであった



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久保田 (くぼた じゅん、1933613 - )は、国文学者東京大学文学部名誉教授。東京生まれ。中世文学研究・和歌史研究。
経歴[編集]
·         1956 東京大学文学部国語国文学科卒業
·         1961年 同大学院文学研究科博士課程中退、東大文学部助手
·         1966 白百合女子大学文学部助教授
·         1970 東京大学文学部助教授
·         1979年 「新古今歌人の研究」で東大文学博士
·         1984 東京大学文学部教授
·         1994年-定年退官、名誉教授、白百合女子大学教授
·         2004年 白百合女子大定年 
·         2005年 日本学士院会員
·         2008年 講書始の儀、「西行と伊勢」を進講
·         2013年 文化功労者
·         角川源義賞選考委員
著書[編集]
·         『久保田淳著作選集』全3巻、岩波書店 2004
·         1巻.西行』
·         2巻.定家』
·         3巻.中世の文化』
·         編著 日本文学
·         『日本文学全史 3 中世』(編)学燈社 1978
·         『概説日本文学史』上野理共編 有斐閣選書 1979
·         『古典文学史必携』(編)学燈社 1993
·         『日本文学史』(編)おうふう 1997
·         『日本古典文学紀行』(編)岩波書店 1998
·         中世文学関連書籍
·         『中世文学の世界』東京大学出版会 1972
·         『中世和歌史の研究』明治書院 1993
·         『中世文学の時空』若草書房 1998
·         共著 中世文学
·         『中世の文学』北川忠彦共編 有斐閣選書 1976
·         『和文古典3』(編著)放送大学教育振興会、1987、改題「中世日本文学」 放送大学教材
·         『中世の日本文学-作家と作品』島内裕子共著 放送大学教育振興会 1995
·         『中世日本文学の風景』島内裕子共著 放送大学教育振興会 2000
·         西行関連
·         西行 山家集入門』有斐閣新書 1978
·         『西行 長明 兼好 草庵文学の系譜』明治書院 1979
·         『古典を読む 山家集』岩波書店 1983
·         『西行の世界 旅と草庵の歌人』日本放送出版協会 1988
·         『西行 草庵と旅路に歌う』新典社 1996
·         『西行全集』(編)日本古典文学会 1982
·         『西行全歌集』(吉野朋美共校訂) 岩波文庫 2013
·         新古今和歌集関連
·         『新古今歌人の研究』東京大学出版会 1973
·         『王朝の歌人藤原定家 乱世に華あり』 集英社、1984/『藤原定家』 ちくま学芸文庫1994
·         『藤原定家とその時代』岩波書店 1994
·         『新古今和歌集』(編)桜楓社 1976
·         『新古今和歌集全評釈』全9 講談社 1976-77
·         新潮日本古典集成 新古今和歌集』上下、新潮社 1979
·         『藤原定家全歌集』上下、河出書房新社 1985-86
·         『新後撰和歌集』(編)笠間書院 1996
·         『新古今和歌集』上下、角川ソフィア文庫2007
·         国文学(注解ほか)専門書
·         『建長八年百首歌合と研究 上下』橋本不美男福田秀一共編著 未刊国文資料刊行会 1964-71
·         藤原家隆集とその研究』(編著)三弥井書店 1968
·         千載和歌集』 松野陽一共校注 笠間書院 1969
·         『鎌倉右大臣家集』 本文及び総索引 源実朝 山口明穂共編 笠間書院 1972
·         講座日本文学 平家物語(編)至文堂、1978
·         建礼門院右京大夫集』 久松潜一共校注 岩波文庫 1978
·         中世の文学 今物語 藤原信実、隆房集 藤原隆房、東斎随筆 一条兼良 三弥井書店 1979
·         中世の文学 六家抄 片山享共編校 三弥井書店 1980
·         閑月和歌集 9 古典文庫 1980
·         明恵上人集』 山口明穂共校注 岩波文庫 1981、改版2009、ワイド版1994
·         『鑑賞日本の古典 王朝秀歌選』 尚学図書 1982
·         『完訳日本の古典 とはずがたり 12 小学館 1985
·         千載和歌集 藤原俊成 岩波文庫 1986
·         『合本八代集 川村晃生共編 三弥井書店 1986
·         日本の文学古典篇 百人一首・秀歌選 ほるぷ出版 1987
·         徒然草必携(編)学燈社 1987
·         『新日本古典文学大系 徒然草』岩波書店 1989
·         百人一首必携(編)学燈社 1989
·         古典和歌必携(編)学燈社 1990
·         新日本古典文学大系 後拾遺和歌集』藤原通俊 平田喜信共校注 岩波書店 1994
·         玉葉和歌集 京極為兼 笠間書院 1995
·         新後撰和歌集 二条為世 笠間書院 1996
·         続千載和歌集 二条為世 笠間書院 1997
·         和歌文学大系』全80巻(監)明治書院 1997-
·         新日本古典文学大系 六百番歌合 山口明穂共校注 岩波書店、1998
·         和歌文学大系 俊忠集』 藤原俊忠 明治書院 1998
·         『続後拾遺和歌集』笠間書院 1999
·         新編日本古典文学全 建礼門院右京大夫集 とはずがたり』小学館 1999
·         『鴨長明全集』大曽根章介共編 貴重本刊行会 2000
·         無名抄 現代語訳付き』 角川ソフィア文庫 2013
·         一般書
·         『日本人の美意識』講談社 1978
·         『日本文学の古典50選』岩波ジュニア新書 1984
·         『花のもの言う 四季のうた』新潮選書 1984岩波現代文庫 2012
·         『徒然草』 岩波書店〈岩波セミナーブックス〉 1992
·         『隅田川の文学』岩波新書 1996
·         『柳は緑 花は紅-古典歳時記』小学館 1988、同ライブラリー 1993
·         『野あるき花ものがたり』小学館 2004
·         富士山の文学』文春新書 2004、角川ソフィア文庫 2013
·         「文学に見る女と男・その愛のかたち  泉鏡花夏目漱石
 川崎市生涯学習振興事業団かわさき市民アカデミー出版部 2004
·         「文学と食 アウリオン叢書」(責任編集)、芸林書房 2004
·         「心あひの風 いま、古典を読む 久保田淳座談集」 笠間書院 2004
·         「ことば、ことば、ことば」 翰林書房 2006
·         「歌の花、花の歌」 明治書院 2007。三品隆司・画
·         「旅の歌、歌の旅 歌枕おぼえ書」おうふう 2008
·         「ことばの森 歌ことばおぼえ書」 明治書院 2008
·         「徒然草 物語の舞台を歩く」 山川出版社 2009
·         辞典・辞書
·         『歌ことば歌枕大辞典』馬場あき子共編 角川書店 1999
·         『角川全訳古語辞典』室伏信助共編 角川書店 2002
·         『岩波日本古典文学辞典』 岩波書店 2007
·         『名歌・名句大事典』明治書院 2012


西行(さいぎょう)、元永元年(1118 - 文治62月1611903月31)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士僧侶歌人 父は左衛門尉佐藤康清、母は監物源清経女。同母兄弟に仲清があり、子に隆聖、女子(単に西行の娘と呼ばれる)がある。俗名は佐藤 義清(さとう のりきよ)。憲清、則清、範清とも記される。出家して法号は円位、のちに西行、大本房、大宝房、大法房とも称す。
勅撰集では『詞花集』に初出(1首)。『載集』に18首、『新古今集』に94首(入撰数第1位)をはじめとして二十一代集に計265首が入撰。家集に『山家集』(六家集の一)『山家心中集』(自撰)『聞書集』、その逸話や伝説を集めた説話集に『撰集抄』『西行物語』があり、『撰集抄』については作者と目される。

生涯[編集]

秀郷流武家藤原氏の出自で、藤原秀郷9世孫。佐藤氏は義清の曽祖父・公清の代より称し、家系は代々衛府に仕え、また紀伊国田仲荘預所補任されて裕福であった。16歳ごろから徳大寺家に仕え、この縁で徳大寺実能公能と親交を結ぶこととなる。保延元年(113518歳で左兵衛尉(左兵衛府第三等官)に任ぜられ、同3年(1137)に鳥羽院北面武士としても奉仕していたことが記録に残る。和歌故実に通じた人物として知られていたが、保延6年(114023歳で出家して円位を名のり、後に西行とも称した。
出家後は心のおもむくまま諸所に草庵をいとなみ、しばしば諸国を巡る漂泊の旅に出て、多くの和歌を残した。
出家直後は鞍馬山などの京都北麓に隠棲し、天養元年(1144)ごろ奥羽地方へ旅行し、久安4年(1149)前後に高野山和歌山県高野町)に入る。
仁安3年(1168)に中四国への旅を行った。このとき讃岐国善通寺香川県善通寺市)でしばらく庵を結んだらしい。讃岐国では旧主・崇徳院の白峰陵を訪ねてその霊を慰めたと伝えられ、これは後代に上田秋成によって『雨月物語』中の一篇「白峰」に仕立てられている。なお、この旅では弘法大師の遺跡巡礼も兼ねていたようである。
後に高野山に戻るが、治承元年(1177)に伊勢国二見浦に移った。文治2年(1186)に東大寺再建の勧進を奥州藤原氏に行うため2度目の奥州下りを行い、この途次に鎌倉源頼朝に面会したことが『吾妻鏡』に記されている。
伊勢国に数年住まったあと、河内国弘川寺大阪府南河内郡河南町)に庵居し、建久元年(1190)にこの地で入寂した。享年73。かつて「願はくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ」と詠んだ願いに違わなかったとして、その生きざまが藤原定家慈円の感動と共感を呼び、当時名声を博した。

出家の動機[編集]

友人の急死説
「西行物語絵巻」(作者不明、二巻現存。徳川美術館収蔵)では、親しい友の死を理由に北面を辞したと記されている。
失恋説
·         源平盛衰記』に、高貴な上臈女房と逢瀬をもったが「あこぎ」の歌を詠みかけられて失恋したとある。
·         近世初期成立の『西行の物かたり』(高山市歓喜寺蔵)には、御簾の間から垣間見えた女院の姿に恋をして苦悩から死にそうになり、女院が情けをかけて一度だけ逢ったが、「あこぎ」と言われて出家したとある。
·         瀬戸内寂聴は自著『白道』の中で待賢門院への失恋説をとっているが、美福門院説もあるとしている。
·         五味文彦『院政期社会の研究』(1984年)では恋の相手を上西門院に擬している。

評価[編集]

『後鳥羽院御口伝』に「西行はおもしろくてしかも心ことに深く、ありがたく出できがたきかたもともにあひかねて見ゆ。生得の歌人と覚ゆ。おぼろげの人、まねびなどすべき歌にあらず。不可説の上手なり」とあるごとく、藤原俊成とともに新古今の新風形成に大きな影響を与えた歌人であった。歌風は率直質実を旨としながら、つよい情感をてらうことなく表現するもので、季の歌はもちろんだが恋歌や雑歌に優れていた。院政前期から流行しはじめた隠逸趣味、隠棲趣味の和歌を完成させ、研ぎすまされた寂寥、閑寂の美をそこに盛ることで、中世的叙情を準備した面でも功績は大きい。また俗語や歌語ならざる語を歌の中に取り入れるなどの自由な詠み口もその特色で、当時の俗謡や小唄の影響を受けているのではないかという説もある。後鳥羽院が西行をことに好んだのは、こうした平俗にして気品すこぶる高く、閑寂にして艶っぽい歌風が、彼自身の作風と共通するゆえであったのかもしれない。
和歌に関する若年時の事跡はほとんど伝わらないが、崇徳院歌壇にあって藤原俊成と交を結び、一方で俊恵が主催する歌林苑からの影響をも受けたであろうことはほぼ間違いないと思われる。出家後は山居や旅行のために歌壇とは一定の距離があったようだが、文治3年(1187)に自歌合『御裳濯河歌合』を成して俊成の判を請い、またさらに自歌合『宮河歌合』を作って、当時いまだ一介の新進歌人に過ぎなかった藤原定家に判を請うたことは特筆に価する(この二つの歌合はそれぞれ伊勢神宮の内宮と外宮に奉納された)。
しばしば西行は「歌壇の外にあっていかなる流派にも属さず、しきたりや伝統から離れて、みずからの個性を貫いた歌人」として見られがちであるが、これはあきらかに誤った西行観であることは強調されねばならない。あくまで西行は院政期の実験的な新風歌人として登場し、藤原俊成とともに『千載集』の主調となるべき風を完成させ、そこからさらに新古今へとつながる流れを生み出した歌壇の中心人物であった。
後世に与えた影響はきわめて大きい。後鳥羽院をはじめとして、宗祇芭蕉にいたるまでその流れは尽きない。特に室町時代以降、単に歌人としてのみではなく、旅のなかにある人間として、あるいは歌と仏道という二つの道を歩んだ人間としての西行が尊崇されていたことは注意が必要である。宗祇・芭蕉にとっての西行は、あくまでこうした全人的な存在であって、歌人としての一面をのみ切取ったものではなかったし、『撰集抄』『西行物語』をはじめとする「いかにも西行らしい」説話や伝説が生まれていった所以もまたここに存する。例えばに『江口』があり、長唄に『時雨西行』があり、あるいはごく卑俗な画題として「富士見西行」があり、各地に「西行の野糞」なる口碑が残っているのはこのためである。

逸話[編集]

出家[編集]

出家の際に衣の裾に取りついて泣く子(4歳)を縁から蹴落として家を捨てたという逸話が残る[1]。この出家に際して以下の句を詠んだ。
「惜しむとて 惜しまれぬべき此の世かな 身を捨ててこそ 身をも助けめ」

崇徳院[編集]

あるとき(1141年以降)西行にゆかりの人物(藤原俊成説がある)が崇徳院の勅勘を賜った際、院に許しを請うと次の歌を詠まれた(山家集)。
最上川 つなでひくとも いな舟の しばしがほどは いかりおろさむ意」
最上川では上流へ遡行させるべく稲舟をおしなべて引っ張っていることだが、その稲舟の「いな」のように、しばらくはこのままでお前の願いも拒否しょう。舟が碇を下ろし動かないように。
対して西行は次の返歌を詠んだ。
「つよくひく 綱手と見せよ もがみ川 その稲舟の いかりをさめて意」
最上川の稲舟の碇を上げるごとく、「否」と仰せの院のお怒りをおおさめ下さいまして、稲舟を強く引く綱手をご覧下さい(私の切なるお願いをおきき届け下さい)。

旅路において[編集]

·         各地に「西行戻し」と呼ばれる逸話が伝えられている。共通して、現地の童子にやりこめられ恥ずかしくなって来た道を戻っていく、というものである。
·         松島「西行戻しの松」
·         秩父「西行戻り橋」
·         日光「西行戻り石」
·         甲駿街道「西行峠」
·         紀州宇久井村(現在の和歌山県東牟婁郡那智勝浦町宇久井村)での歌
「目覚山下す有らしのはげしくて 高根の松は寝入らざりけり」
·         高野山にて修行中、人恋しさの余り人骨を集めて秘術により人間を作ろうとしたが、心の通わぬ化け物が出来上がったため恐ろしくなり、人の通わぬ所にうち棄てて逃げ帰ったという逸話がある。このように、西行の逸話にはその未熟さを伺わせるものが多く存在する。

伊勢神宮で詠んだとされる歌[編集]

伊勢神宮を参拝した時に詠んだとされる「何事のおわしますをば知らねども かたじけなさに涙こぼるる」[2]という歌があり、日本人の宗教観を表す一例に挙げられる。

源頼朝との出会い[編集]

·         頼朝に弓馬の道のことを尋ねられて、一切忘れはてたととぼけたといわれている。
·         頼朝から拝領した純銀の猫を、通りすがりの子供に与えたとされている。

晩年の歌[編集]

以下の歌を生前に詠み、その歌のとおり、陰暦216日、釈尊涅槃の日に入寂したといわれている。
ねかはくは 花のしたにて 春しなん そのきさらきの もちつきのころ (山家集)
ねかはくは はなのもとにて 春しなん そのきさらきの 望月の比 (続古今和歌集
花の下をしたと読むかもとと読むかは出典により異なる。なお、この場合の花とはのことである。国文学研究資料館 電子資料館において続古今和歌集の原典を実際に画像で閲覧できる。詳しくはそちらを参照。

伝説[編集]

撰集抄』に西行が「人造人間を作ろう」としていた記述がある。鬼の、人の骨を取集めて人に作りなす例、信ずべき人のおろ語り侍りしかば、そのままにして、ひろき野に出て骨をあみ連らねてつくりて侍りしは~
<要約>(西行が)高野山に住んでいた頃、野原にある死人の体を集め並べて骨に砒霜(ひそう)という薬を塗り、反魂の術を行い人を作ろうとした。しかし見た目は人ではあるものの血相が悪く声もか細く魂も入っていないものが出来てしまい高野山の奥に捨ててしまったという記述がある。伏見の前の中納言師仲の卿に会い作り方を教わるもののつまらなく思い、その後、人を作ることはなかった。

関連著作[編集]

·         『山家集 新潮日本古典集成 後藤重郎校注、新潮社
·         『新訂 山家集』 佐佐木信綱校訂 岩波文庫 同ワイド版
·         『山家集』 風巻景次郎校注 日本古典文学大系29岩波書店
·         『山家集』 伊藤嘉夫校註 日本古典全集・第一書房 1987
·         『西行法師全歌集』 伊藤嘉夫編 第一書房 1987
·         『西行全集』 久保田淳 日本古典文学会、貴重本刊行会、1990
·         『新訂増補 西行全集』 尾山篤二郎編著、五月書房、1978
·         『西行全集』全2 伊藤嘉夫、久曾神昇編、ひたく書房、1981
·         『西行物語』 桑原博史訳注、講談社学術文庫 1981
·         『西行物語絵巻』 小松茂美 〈日本の絵巻19 中央公論社
·         『新訳 西行物語』 宮下隆二 選書版:PHP研究所 2008
·         『絵巻=西行物語絵』 千野香織 〈日本の美術416号〉 至文堂 2000

備考[編集]

西行庵(吉野山)
西行庵(善通寺)
·         西行庵 - 西行が結んだとされる庵は複数あるが、京都の皆如庵明治26年(1893)に、当時の庵主・宮田小文富岡鉄斎によって、再建されて現在も観光名所として利用されている。その他にも、吉野山にある西行庵跡が有名である。
·         高杉晋作 - 「西へ行く人を慕うて東行く 我が心をば神や知るらむ」と歌い、東行と号した。ここでいう西へ行く人とは、他ならぬ西行を表している。一方、西行に敬意を払う高杉自身は東にある、将軍のお膝元の江戸幕府討伐を目指した。

西行を題材にした作品[編集]

·         江口
·         西行桜
·         西行
·         西行鼓ヶ滝
長唄
·         時雨西行
·         軍兵富士見西行
文学作品
·         上田秋成『雨月物語』「白峯
·         幸田露伴「二日物語」(全集第5巻)
·         白洲正子『西行』ISBN 4101379025
·         瀬戸内寂聴『白道』ISBN 4062638819
·         辻邦生西行花伝ISBN 4101068100
·         火坂雅志『花月秘拳行』ISBN 4043919050
·         中津文彦『闇の弁慶花の下にて春死なむ』 ISBN 978-4396630164
·         平清盛 - NHK大河ドラマ。主人公・平清盛と出家前の西行(演:藤木直人)が親友だったという設定。本作においては、西行の出家の原因を、待賢門院璋子との愛憎劇によるものとしている。

脚注[編集]

1.   ^ 史実かどうかは不明だが、仏教説話としてオーバーに表現されている面はありうる。
2.   ^ 古来、西行の歌か否か真偽のほどが問われていた歌であるが、1674(延宝2)年板本系統の『西行上人集』に収録されている



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