明治東京畸人傳  森まゆみ  2015.3.23.

2015.3.23. 明治東京畸人傳

著者  森まゆみ 1954年文京区動坂生まれ。作家、地域誌編集人、市民運動家。早大政経卒。84年季刊の地域誌『谷中・根津・千駄木(愛称「谷根千」)を創刊。生まれ育った町に拘っているように見えて、実は無類の旅好き

発行日           1999.7.1. 発行       1999.7.25. 2
発行所           新潮社(新潮文庫)

初出 1996年 新潮社刊

谷中・根津から千駄木――。かつてこの地を目茶目茶面白いヤツが歩いていた!
お雇い外国人教師ベルツ、最後まで丁髷(ちょんまげ)だった老舗薬局の主人、チベット潜入の河口慧海、本妻と愛人を行き来した詩人サトウハチロー、混血の小唄の名手春日とよ、そして昭和恐慌に発展した倒産銀行頭取ヂエモンなど、精力的な聞き書きから甦る25のユニークな人生行路。こんな生き方もあるんだよな・・・・・。

1.    エルウィン・ベルツの加賀屋敷十二番館
1849年南ドイツのビーティヒハイム生まれ。1876年来日、東京医学校のお雇い教師となって、内科を教え、1905年の帰国まで30年近くを過ごす。東宮(大正天皇)の侍医。岩倉具視の最期に立ち会い、片脚を飛ばされた大隈重信を診たほか、鍋島直大、大山巌等貴顕のかかりつけ。多くの弟子を育て、日本の風土病を研究し、転地療養のため草津温泉や大磯を発見。大流行した化粧水「ベルツ水」にも名を残す
来日以降の見聞は、『ベルツの日記』に詳しいが、そこには本郷や下谷の情景も生き生きと描写されている
旧幕時代の前田家の加賀屋敷、上野の寛永寺を接収して教育・文化施設に用いようとした政府は、そこにまずお雇い外国人を分宿させた
按摩も加賀屋敷だけはご免と言ったのは、屋敷内に何カ所も空井戸があったから ⇒ 毒殺を恐れて、しょっちゅう井戸替えをしていた
有名だが資料があまりない根津の郭 ⇒ 学生の町に風紀上好ましからずとして、1888年洲崎に移転
1883年頃、不忍池の周りを埋めて競馬場とした
ある日、シュミット・村木・眞寿美さんという人から連絡があった。花・ベルツの伝記に取り掛かっているという。ミュンヘン在住で、「ドイツ人の医師と結婚した私は、花さんと同じ異文化間コミュニケーションの悩みを持つのでひとごと地は思えないのだ」ということで、花に関する情報協力の依頼だった。鹿島卯女の「ベルツ花」は先駆的労作だがやや顕彰に過ぎるので、これにない新しい女性像が描かれるのを期待してお手伝いすることにし、一緒に湯島、本郷を歩くが、すでに昔を偲ぶよすがは少なかった
このことを『谷根千』に載せたところ2つ反応があった。1つは花の元で家事手伝いをしていた女性の身寄りから、もう一つはベルツの人力車夫をしていてベルツの子を貰い受けた人のひ孫、つまりベルツのひ孫からで、日本人離れした彫の深い顔立ちに見え明治が急に近くなった気がした

2.    横山松三郎の池之端通天楼
写真師。明治初年の草創の洋画家・文六と同一人物。1836年千島生まれ。日本写真の祖・下岡蓮杖に弟子入り。1868年不忍池のほとり池之端仲町(なかちょう)七番地に写真館「通天楼」を開設、横山画塾も併設
モノクロの写真に絵具で彩色する「写真油絵」を考案、写真と油絵の出会いだった

3.    池之端仲町二十七番地守田宝丹(ほうたん)翁事跡
不忍池の南を巡って栄えたのが池之端仲町。1628年頃、東叡山門前町屋として起立し、上野御本坊、即ち輪王寺宮の御用を足した。長井堤とも呼ばれた。江戸時代から繁華な通りで、現在も100年がとこ続く老舗が多い。蕎麦の蓮玉庵、上野の薮、鰻の伊豆栄、帯紐の道明、櫛の十三やなど、なかでも古いのが1680年から続く「宝丹」こと守田薬局
昔、薬は警察の管轄で、万能薬「宝丹」はその官許第1号。宣伝ビラの全戸配布やPR誌のはしり、歌舞伎のセリフにも入れてもらったり、パブリック・リレーションズの先駆者
逸話も多い ⇒ 信仰心厚く、慈善事業にも貢献、最後の丁髷保持者、宝丹流と称する変わった書体も有名
川柳「宝丹は日本一を三つ占め」 ⇒ ①正直真法、②古銭、③薬宝丹
宝丹翁の「三脈術」 ⇒ 災害予防法。左手で左右の奥歯の下の動脈を診て、右手で左手の脈を診、三所の波動の平均を得る。これがいつもと変わらなければ無事安穏の兆し
下谷3奇人の1

4.    山口半六の東京音楽学校奏楽堂
1890年 新設の東京音楽学校の講堂兼音楽専用ホールとして、構内に完成
東叡山寛永寺の境内は、維新後大学医学部の病院の候補だったが、オランダ人医師ボードワンが、かくのごとき幽邃の地を病院にとはもったいない、日本初の公園を作るべきと献言して、1873年芝増上寺跡、浅草寺跡と並んで公園に指定
日本初のコンサートホール、1929年日比谷公会堂が出来るまでは洋学(?)のメッカ
1972年の取り壊し決定に対し、「救う会」が結成され、台東区長が引き取り手となって都美術館の空地に移築保存、長い両翼が切り取られた
設計は山口半六(1858~年) ⇒ ヨーロッパで建築を学んだ最初の日本人、パリに学び、学校建築に多く携わる
客席380、中央がかまぼこ型に盛り上がり、その下に水平に金属のつなぎ梁が渡されたヴォールト天井が特徴。ステージ下が共鳴用の部屋で、天井と併せ近代建築で初めて音響効果を苦心した ⇒ カーネギーホール並みの音響効果と評判
パイプオルガン復元運動 ⇒ 名工シュルツェの作。1851年ロンドン万博に出展

5.    駒込林町 悲運の久野久(ひさ)
東京音楽学校の第1回卒業生・幸田延の愛弟子が久野久。1886年生まれ。1906年同校卒業。191025年在任、助教授・教授。ドイツ留学中に奏法を全否定され自殺。享年38
兼常清佐の随筆『音楽と生活』(杉本秀太郎編)に詳しい

6.    木村熊二・鐙子(とうこ)の谷中初音町二丁目二番地
1885年 九段下に明治女学校というキリスト教系の学校創設 ⇒ 発起人に木村夫妻他
鐙子は、翌年コレラで急逝。享年39.1908年廃校。津田梅子、幸田延、島崎藤村らが教授陣に、生徒に羽仁もと子、相馬黒光、野上弥生子らがいた
熊字を継いだ校長が巖本善治で、女性の地位向上と啓蒙を目指して『女學雑誌』を創刊、その別冊から明治女学校教員を中心に『文學界』が生まれ、その誌上に樋口一葉の『たけくらべ』が載る
木村は、幕臣で彰義隊の敗残組。渡米して宣教師として帰国、谷中初音町に学塾を開く
鐙子は、昌平黌で熊二の恩師だった佐藤一斎の孫、経済学者の先駆・田口卯吉の姉
女学校は、鐙子が受洗した下谷教会婦人部が母体。幸田露伴の父・成延も娘に先んじて
教会員だったという
熊二は、鐙子の死後小諸に移り、小諸義塾を開き、藤村を招く。藤村は6年を共に過ごす

7.    相馬愛蔵・黒光夫妻の駒込千駄木林町十八番地
都会の生活に嫌気がさし、長野の自然の中での生活こそと相馬愛蔵に嫁して安曇野に居を構えるが、ほどなく田舎の風俗習慣に嫌気して、愛蔵とともに上京して新生活を開拓
1901年 新居としたのが本郷団子坂上、駒込千駄木林町十八番地の借家
帝大正門前のパン屋・中村屋を譲り受ける ⇒ 素人玄人の開きの少ない商売として目をつけ、相場に手を出して失敗した店主から700円で買い取り
アンパンのアンをクリームに替えたクリームパン、ジャムをクリームに替えたクリームワップルが大当たり。日露戦後の07年、新開地の新宿に支店を出し、本拠地としていく
黒光は何か心に大きな空白感を抱いていたように思われ、満たされぬものを常に外に向かう情熱とした。その悩みの一因を、黒光の「性」の拒否、愛蔵に別の女性と子供がいたこと、などに求める評者もいる

8.    岡田虎二郎と日暮里本行寺静座会
明治から大正にかけての一時期、知識人を中心に燎原の火のように広がったのが日暮里駅前の本行寺(通称月見寺)で行われた岡田式静座法
岡田は、1872年生まれ。14歳の時、回心にも似た宗教的体験が自然や人間の観察に向けさせる。全力を農業に向け、独自の改良法を編み出す。稲の害虫である二化螟虫の実用的採卵法は全国に普及。小食により血行を促した人間改良を唱え、自身の体験を通じて世の病弱者救済を志す
信者は、皇族から、財界、学者に及び、引力に順応した姿勢として正座する
渡米の経験から、クェーカーの瞑想とほとんど同じだと説く
1920年、過労と腎臓病で急逝、その効力が疑われたが、今も各地で細々と続くという

9.    薮蕎麦発祥の地 団子坂の三輪伝次郎
白山通り、東洋大の前にある薮蔦は、団子坂の薮の暖簾分け
神田連雀町の薮が、団子坂の薮を三輪から名跡を買った
薮のルーツは不明だが、薮御三家と言われる神田、並木、池之端は団子坂が元祖
千駄木蔦屋が正式名称。元武士の三輪伝次郎が町人になって開業
幕末から始まった団子坂の菊人形が東京名物として人を集めるとともに薮も繁盛。店に竹藪があったせいで「薮」と通称された
神田の薮が年に1度、薮代々のご供養をするのが、全国薮の幹事会みたいにもなっている

10. 河口慧海(えかい)の根津宮永町雪山(せつざん)精舎
1866年堺の生まれ。日本人で初めて鎖国のチベットに入国
哲学を学び、本所五百羅漢寺で得度、そのまま住職となるが、寺の俗事に嫌気して僧籍を返上、大乗仏教の原点を極めるため1897年徒手空拳でチベットへ行く(2回通算15)
在家仏教徒の道場として「雪山精舎」を開設、周辺住民から慕われ、日曜学校も併設して、チベットの物語を聞かせた
高村光雲作の木像に慧海が梵字を書いていたり、光太郎が慧海の像を作ったりしている

11. 村山槐多(かいた)の歩いた田端と根津
夭折の画家、詩人。高村光太郎に愛され、「いつでも一ぱい汗をかいてゐる肉塊」として詩に読まれている
1896年横浜生まれ。京都で育ち、18歳で上京、22歳で結核性肺炎で死去
田端文士芸術村に下宿し、赤貧の中で絵を描き続ける
槐多を読んでいると、この世には直覚で書き、また描きながら、独自の眼力で悉く本質を言い当てる人間がいるものだ、と瞠目する

12. 福士幸次郎の田端楽園詩社
1889年青森生まれ。19年田端文士芸術村で楽園詩社を主宰。佐藤紅緑方に寄寓、その息子サトウハチローが中学を5回放校になり小笠原の感化院に入れられそうになった時に身元を引き受け小笠原までついて行った
処女詩集『太陽の子』で口語を用いた自由派詩人としての地位を確立
愛弟子サトウハチローとの同居で、貧乏と逸話に事欠かなかった

13. サトウハチローの桜木町と弥生町
1903年牛込薬王寺生まれ。小日向台町小学校、中学は早稲田を皮切りに8校、最も長くいたのが立教、中学から福士と同居、福士の紹介で西條八十に私淑したのが16歳の時
センチな詩人、童謡詩人、「話の泉」のレギュラー、スポーツ界の世話役、体制派文化人といったイメージが世間には強いが、あまり本当のところは理解されていない
社会性は少なくとも抒情の原点に立っており、本当に人間が好きな民衆詩人で、ささやかな庶民の生活、その小さな世界を守ろうとした
新派の座付作者として売れっ子だった父・紅緑の派手な女性関係と、心痛める母の間にいたのがぐれた原因で、父に怒り母を想ったのが、あれほど夥しく生み出された「おかあさん」の詩の原風景
31年初めて所帯を持ったのが桜木町。浅草より上野との縁が深い。37年弥生町に転居(95年まで「サトウハチロー記念館」があった。96年次男の嫁の里北上市に移築、「サトウハチロー記念館・叱られ坊主」として再開)

14. 吉丸(よしまる)一昌の動坂町三百五十七番地
1873年臼杵市生まれ。『早春賦』『故郷を離なるゝ歌』の作詞家
苦学して帝大国文卒。府立三中で国語教師。同校の校歌は吉丸の作詞、芥川龍之介も教えた。地方出身の後輩を修養塾を開設して受け入れるなど人のために尽くした。東京音楽学校教授
16年急逝、享年44

15. 殿様作曲家松平信博の桜木町アオイ横丁
代表作は『侍ニッポン』で詞は西條ヤソ八十、31年同名の日活映画の主題歌として作曲
豊田の松平家の第20代目、家康の本家筋に当たり、その始祖の土地を守って来た名家
徳川氏は在原業平の子孫。松平郷の在原氏の娘を娶って落着く。家康以前を通称松平8代と言い、その3代目の時弟が宗家を継いで、その5代後が家康。兄のほうの末裔が信博
家康が25歳で徳川と改姓する以前からある松平を十四松平といって別格。その後も御三家御三卿以外は徳川氏に生まれた子どもも松平を名乗らせた
維新で無禄となり、東京控訴院の判事となった信英の子が信博。1889年生まれ。攻玉社中(日露戦の勇士・広瀬中佐に因む学校)から海軍兵学校に行くが足を痛めて断念、東京音楽学校で作曲を学ぶ。29年日活に入りサイレント時代の専属作曲家として活躍
一番弟子は、『さくら貝の歌』の八洲秀章
宗家から三葉葵の使用を認められ、屋敷の近くにアオイ金属とアオイ荘があったので、町の人がこの細い道を「アオイ横丁」と呼んで親しんだ

16. 春日とよの上野桜木町二十二番地
桜木町の「春日とよ記念館」は、小唄の名手春日とよ一門の根城
私家版の伝記には、吉井勇が序歌を寄せ、谷崎や久保田万太郎まで序文を寄せている
1881年浅草生まれ。祖父が腕利きの数寄屋普請をする大工だったが行き詰まって函館に流れ着き、そこで娘が日本郵船の仕事をする英国人と一緒になり、生まれたのがとよ
3歳で父と縁を切り、混血といじめられながら、浅草に戻って左褄を取った母の元で芸事に励み、16歳で芸者に。髪型だけは島田ではなく、洋髪で通す

左褄を取る
芸妓も舞妓も長く裾を引いた着付けをする時は必ず左手で褄を持つ。
芸妓を俗に左褄と呼ぶのはこのとこからきている。
花嫁や太夫は右で持つがこの場合、右に褄の合わせ目がきてそのすぐ奥に長じばんの合わせ目があるので、つまりは手が入りやすい、早く手が着くようにというわけだ。
左手で持てば褄の合わせ目は左、しかし長じばんの合わせ目は右であるから、男性が手を入れようとしても入らない。
芸は売っても身は売りませんよという意味で、芸妓舞妓は誇りを持って左褄を取るのである。

JOAK愛宕山の放送局に生出演して全国に名が広がり、各地の放送局に出向いて弟子をとる。28年には堅気の小唄の師匠となり、春日流を樹てる
34年から桜木町に居を構えて、以後は離れず
芸一筋で家庭も子供も持たなかったが、何千という門人を持った。62年歿、享年82

17. 古賀忠道の上野動物園ひとすじ
1903年佐賀県生まれ。帝大農学部獣医学科卒。皇太子ご成婚記念で東京市に下賜された上野公園の改造を担う人材として白羽の矢が立ち、東京市技師として公園課に就職、32年、28歳の若さで事実上の園長となる。以降57歳の定年まで30年、動物園一筋
36年 寄贈されたばかりの黒ヒョウが脱走したのが最大の事件で罰俸
戦後の食糧難で動物のエサを確保するために、カボチャの種と入場券を交換。さらに抽選で動物の子どもが当たるくじをしたのが人気を呼ぶ(カボチャくじ)
49年、子供たちがネール首相に手紙を書いて、象のインディラの輸入が決まり、象の良い性質を日本の子どもたちに身につけて欲しいとの首相の意を汲んで、古賀は全国を回る移動動物園を組織し、大変な人気を博す
夫人は、大正天皇の侍医として知られる桜木町の土田病院の礼譲
86年歿、享年82

18. 桃川燕雄(えんゆう)の谷中初音町の茅屋(ほうおく)
1888年生まれ。講談師。16歳で桃川実に入門、講釈一筋。天涯孤独。64年歿
安藤鶴夫の代表作『巷談(こうだん)本牧亭』の主人公
その昔、上野寛永寺の門主となった宮様が京から下られて、江戸の鶯は鄙びた音色でさえずるのが嫌だと、わざわざ京から鶯を取り寄せてこの辺りに放したところから、谷中初音町のまたの名を鶯谷という

19. 団子坂の先生・物集高量(もずめたかかず)の大往生
1879年生まれ。85年歿、享年106
祖父が国学者高世、父が帝大国語学の教授で『日本大辞林』編纂者
麻疹(はしか)で足が不自由になり、勤勉な父への反動から遊び好き、東洋大の前身、哲学館の中学部として創設された郁文館中(ここから別れて『パーレーの万国史』を教えた礒江潤が作ったのが京華中)に入学、友人から長谷川辰之助(二葉亭四迷)を紹介されると団子坂上駒込林町の物集家のすぐ近くに住んでいることが判り、以後二葉亭が物集家に出入りするが、08年朝日の記者としてロシアに出掛け帰路インド洋上で客死
大阪朝日の記者になるが、父を手伝って国文学者となる
一回り上の幸田露伴とは江戸っ子同士で気があい、晩年まで将棋を指す仲
大変な艶福家、夫婦そろって鉄火場狂い、競馬狂い
37年 隣の森鷗外邸の失火のもらい火で団子坂の家を失い大阪に移って戻らなかった

20. 山車の行方――人形師原舟月(しゅうげつ)のこと
鎌倉時代の関東の豪族・豊島左衛門尉(じょう)経泰が建立したのが日暮里諏方(すわ)神社で、明治末まで(実際に町を引き回されたのは08年が最後)は谷中や日暮里の町を山車が練り歩いていたが、東京の都市化で市電が走ると電線が邪魔になって山車が出せなくなり、越生に売られ、越生神社の祭りで引かれている
山車の人形を製作したのが名人形師。初代古今亭原舟月。仏像の玉眼を初めて人形に応用した。早大演劇博物館に寄贈された身の丈6尺の「関羽像」が代表作

21. 露伴が谷中にいた頃――五重塔の話
1957年 谷中天王寺の五重塔全焼 ⇒ 目白の洋裁店の職人とお針子が不倫の清算をするためにガソリンをかぶって火をつけた
1791年の建立。懸垂式の心柱で、高さ1118寸。寛永寺、増上寺、浅草寺と並んで江戸4塔の1つ。日蓮が佐渡から許されて帰る途中草庵を結んだ。最初の党は1644年建立、1772年目黒行人坂火事(「めいわく」年の大火)で焼失
露伴が谷中に来たのは、朝日に入社した頃で1890年暮れ
毎日五重塔を見ながら、腕利きの良かった出入りの大工から近辺の古い大工たちの話を聞いているうちに塔の物語の構想が膨らむ
実際の塔の再建もなかなかの難工事で、途中思わぬ大嵐のため新築中の塔が倒壊、最初からやり直しとなり、予想外の借財が出来、寺は負債の返済に苦労したという
朝倉文夫や松下幸之助らが塔再建を試みたが実らず。建築費が嵩む上に、現在は都有地なので宗教物である塔は建てるのが難しい

22. 白秋の墓――天王寺墓畔吟
17年 本郷区動坂町三百六十四番地に第2の妻江口章子(あやこ)と住む ⇒ 僅か7,8か月だが、極貧の暮らし。小田原「木莵(みみずく)の家」へ転居
26年 小田原から戻ってきたのが下谷区谷中天王寺町十八番地。朝倉邸の2軒隣
住まいを「天王寺墓畔」として、歌集を出している
白秋の号は、中学の頃文学仲間と同人誌を作る時、引き当てたのが「秋」で、全員頭に「白」の字をつけることになっていたので「白秋」となった。寂しげな名だが、実際の白秋は九州柳川の出身で、目も鼻も顔も丸く情熱的な南方系の顔立ち

23. 川端康成――駒込林町雨戸のおまじない
駒込千駄木林町は、11年に駒込林町と簡略化されたが、その昔上野寛永寺の薪取り場で千駄木御林(おはやし)と言った。1日千駄の木を切り出すというのでこの名がついた
明治になって雑木林が切り開かれ、おいおい住宅地となり、明治10年代に帝大が本郷にまとまって、学者や芸術家、華族が住むようになるが、昭和初期まではタヌキやイタチが出るようなところで、狸坂、貉(むじな)坂などの地名が残る
大正時代の林町名物は下宿屋、寮生活の一高生が帝大に入って賄い付きの下宿に住んだ
下宿人の1人が川端康成で、31年早大入学時下宿先の雨戸全部に、泥棒除けのおまじないの意味で、「五大力菩薩」と大書したが、10枚のうち1枚だけが犬小屋の雨除けにかけてあり、残りは処分されていた
仲間から「引越しマニア」と仇名されるほど転々としていたが、大半は家賃が払えなかったもの
戦争直後は下宿屋が払底し、戦争未亡人となった家では間借りする学生を置き、下宿人とお嬢さんの間でロマンスが芽生えることも少なくなかった。特に、用心も兼ねて、尾久にボート部の合宿寮があったためにボート部の学生を下宿させ自己防衛していた
29年 大森から上野桜木町に戻り、35年鎌倉に移るまで住む。谷中でもよく引越し
桜木町時代の川端は、犬を飼うことと、夜になると浅草に行くことの2つだけが仕事で、界隈には川端の特異な風貌を覚えている人が多い
34年 初めて越後湯沢に行き、『雪国』の執筆を開始。急に多くなった客のために菓子をたくさん買うので、和菓子屋の「喜久月」から「お宅様、何の御商売ですか」と聞かれたそうだ。客と一緒に川端は甘いものを食べすぎ急逝糖尿病のようになった。便利過ぎて客が多過ぎるというので、鎌倉に越した

24. 円朝・谷根千めぐり
811日は円朝の命日。全生庵を開基した山岡鉄舟について円朝が参禅したため三崎坂のこの寺に墓があるが、自ら建立の際の発起人でもあった
墓石の横には辞世の句が刻まれる 「耳しひて 聞き定めけり 露の音」
業界の集まりである円朝忌に対し、平成になって町が中心になり「円朝まつり」を開く
1839年湯島に生まれた円朝の人生そのものも谷中や根津と関わりが深く、自作落語の中でこの辺りの坂や橋や、寺や路地を事細かに説明してゆく ⇒ 『怪談牡丹燈籠』の舞台は三崎坂の下にあった新幡随院法住寺。坪内逍遥がこれに序を寄せている
円朝の口述本は、逍遥や二葉亭四迷の言文一致に大きな影響を与えた
最後の高座は1899年。一生居を転々とした。享年62

25. 渡辺治右衛門(ぢえもん)て誰だ
不忍通りの東側を流れる藍染川を、根津権現と反対側に上野に上っていく道があいぞめ大通りで、その辺一帯を明治の財閥渡辺治右衛門が買い上げて居住。突き当りの山をあかぢ山と言い、上る道もあかぢ坂と言った
初代は明石から上京して海産物問屋・明石屋治右衛門商店を開く ⇒ 明石の治右衛門ということで略称「明治(あかぢ)」と呼ばれた
9代目が遣り手で膨大な資産を所有(東京で5番目の地主)、第二十七国立銀行を創設、後に渡辺銀行と改称。姉妹行として零細預金者向けのあかぢ貯蓄銀行も設立
9代目夫人・婦んが隠居して住んだのが下谷真島町で、緑風荘と呼ばれた。099代目没後は一族の要として君臨。堅い一族の結束を作り上げる
鈴木商店が食い物にしていると噂された台湾銀行を政府が救済するとして衆院予算委員会で追及された片岡蔵相が、渡されたメモに記載された渡辺銀行決済不能を口走る ⇒ 実際は渡辺銀行が日銀に泣きついた後資金手当てが出来て交換決済をしていた。預金の25%もの借入金があり、不良銀行の筆頭で、倒れるべくして倒れたにもかかわらず、蔵相の失言を口実に渡辺銀行は支払い停止できるとむしろ喜んだ。翌日渡辺、あかぢ両銀行には預金者が押し寄せたが預金者には1銭も戻らないどころか、他の銀行へドミノ倒しのような影響を及ぼす
大震災から漸く立ち直ろうとする矢先の取り付けで、町中急に火が消えて暗くなったというような、悲喜こもごものエピソードがある
渡辺には、自らの土地を利用して理想の郊外型住宅を営むという夢があり、07年頃出版されたハワード著『田園都市』に興味を持った資本家たちが、三菱は大和ムラを、東急の五島は田園調布を作ったように、渡辺も16年に西日暮里駅の開成学園を含む1.7万坪に日暮里渡辺町というのを造る ⇒ 秋田の佐竹侯の下屋敷で3万坪の聚楽園という名園があったが、明治に入って荒れ放題となって通称「佐竹ヶ原」と呼ばれ、火葬場のあった場末の町に、道が碁盤の目状に通り、ガス水道電気の完備した近代的な素敵な住宅街で、野上弥生子が『所有』で書いているように夫妻はここに住んだ。総戸数300程度。32年荒川区が出来て編入され、現在は日暮里9丁目

26. 路上の肖像――あとがき
本書は、かつてこの町に姿を見せた、気になる人たちの路上の肖像
「畸人」というのは、尋常ではない、素敵な面白い生き方をした人で、本書を書いたのも、「かしこき人の世に知られざるををしむ」という心持ちから
どの人をとってもその心地よい生き方に元気づけられる


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