天人 深代準郎と新聞の時代  後藤正治  2015.3.14.

2015.3.14.  天人 深代準郎と新聞の時代

著者 後藤正治 1946年京都市生まれ。ノンフィクション作家。90年『遠いリング』で講談社ノンフィクション賞、95年『リターンマッチ』で大宅壮一ノンフィクション賞、11年『清冽』で桑原武夫学芸賞。朝日新聞書評委員(1113)

発行日           2014.10.8. 第1刷発行
発行所           講談社

序章 言葉力
「天声人語」が大阪朝日新聞で始まったのは1904年。大正期に東京でも「東人西人」が始まり、40年東西朝日の題字が朝日新聞として統一された時、朝刊コラムも「有題無題」として一本化、43年「神風賦」に改題、戦後「天声人語」の名が復活
1号は、日露戦争開戦の1か月前で、鳥居素川が勇ましい主戦論を述べる
復活第1号は、荒垣秀雄が開戦への反省を書き、以後18年続く
「天に声あり、人をして語らしむ」の意、民の言葉を天の声とせよ、というのが先人の心だったが、その至らざるの嘆きは尽きない(70周年に際して深代が書いたもの)
深代が担当したのは29か月
速報性ではテレビやインターネットに及ばずとも、その信頼性という意味では、いまも相対的に新聞は最上位にある。手間隙を要する活字メディアは人力の上に成立する。加えて、信頼度を養ったのはこれまでの長い蓄積の所産でもある
信頼というのは間違いを犯さないという意味ではない。人は誰でも間違いを犯す。間違いを小さく小さくしていく努力、そして間違いをした際の謙虚さと誠実さである
メディア全体が大きな過渡期に洗われている。問題は、外側の変化ばかりではなく内側に、つまり紙面の〈言葉力〉にもかかわっているのではないか。言葉の力とは、記者一人ひとりの取材力と思考力と表現力である
深代が力ある言葉の紡ぎ手であったとすれば、どこに由来していたのか。伝説のコラムニストの足跡を辿ることは、〈言葉の復権〉と言う意味で今日的意味があるかもしれない

第1章        浅草橋
深代の父は、神田旅籠町で今も続く喫煙具の店・深代商店を開き、浅草橋(住所は柳橋)の「久月」の隣に移転したときに惇郎が誕生、大学卒業までそこで育つ
温厚で物静か、およそ癖のない人だったが、「野暮」は嫌い。粋な都会風であることを課していた風でもある
コラムニスト・深代にあった特徴の1つは目線の低さ
「個人として自立した自由の民」という意においてリベラリストと言える。それを培ったものは「教養」と「時代」であったろうが、下町という「故郷」が関わっていたように思える
府立三中(両国)3年修了、海軍兵学校(78:最後)、一高(文科丙類)、東大(文→政治学科)
飛び切り上質のユーモアのセンスを持ち合わせたコラムニスト ⇒ 73.10.31.付け、閣議の盗聴テープが手に入ったが、そこでは支持率低迷の挽回策として「ゴルフ庁」創設が議論されていた。前年のウォーターゲート事件を連想させる、もちろんジョークだが、こういった欧米の新聞コラムではよく見かけるエープリルフール的「架空話」は日本のメディアでは馴染が薄く、後に物議を醸す

第2章        青春日記
45.4. 一人で決めて受験し、海軍兵学校入学、長崎分校に配属。戦後三中に復学
深代の特徴の1つは、柔軟さ、幅の広さだったが、そのことは若き日の読書傾向からも垣間見える ⇒ 戦争に唯一反対した政党としての「共産党神話」が残っていた時代、「現代を理解するには何よりもまずマルクシズムを知らねばならぬ。彼に従うにしても、彼を超えるにしても」と日記に書いている
後年、日本における社会主義の先駆、荒畑寒村を論じた天声人語は味わい深い。「イデオロギーの衣装を剥げば中身は寒々として人間が多いと思われる中で、その心がそれに相応しいイデオロギーを必要とした人である」と書いて、結局のところ問題とすべきは「人間」なのだという自身の基底にあるスタンスを披歴
朝日同期入社の親友・涌井の深代評 ⇒ 豊かな情念の持ち主だとして、その一例に「竜治君の死」という1文を挙げる(朝日書評参照)

第3章        横浜支局
53年 就職難の中、毎日と朝日を受け、超難関を突破して両社に合格
毎日の調書の短所の欄に「妥協性」と記入したが、口頭試問で妥協せざるを得ないことを皮肉って、入社試験に対するアイロニーとして書いたもので、ヒステリックなアスピリン・エイジ(“左翼熱の解熱期という意か)に対する1受験生のささやかなレジスタンスだった
13-02 アスピリン・エイジ』参照
横浜支局に配属され、記者第1歩は警察回りから始まる ⇒ 地検、裁判所、遊軍と回って310か月に及ぶ

第4章        戦後の原点
天声人語は長年の伝統で改行しない。改行すべきところに▼印が来る。1編は原則として5個の▼印を持って構成される、いわば飛び石伝いの文章。深代も、「何事によらず、5つの飛び石でものを考える癖がついた」と言っている
深代の「天声人語」には、強烈な問題意識がある。年月を経ても生き残って来、今後もなお生き残ってゆくであろう問題意識だ。論理の筋が通っていて、説得力がある。ユーモアを交え、わさびがきいている。反骨精神は強いが、人間を見る目は温かい
横浜支局時代に結婚。相手は同支局で県政を担当していた記者・三浦甲子二の異母の妹。後に結婚生活は破綻するが、深代とはおよそなにもかも対極にあった義兄であり下積みから這い上がった労組の活動家・河野一郎を情報源とする辣腕政治記者の影が浮かぶ
ヨーロッパ総局長の頃離婚が決まり、その後再婚するが、人生の躓きが深代のコラムにも何ものかを付与したように思える
深代が可愛がった後輩記者の1人が、社会部を経て夕刊コラム「素粒子」を担当した轡田隆史。夕方になると誘いがかかって、コラム執筆に関わることなどよく話した

第5章        昭和28年組
記者部門の追加募集をした年で、入社数が多く、社の中枢を担う記者たちが多く輩出
天声人語は深代と辰濃和男、編集局長が4(後の社長・中江利忠もその1)
後の論説主幹・松山幸雄は、東京下町育ちは深代と重なる。府立七中(墨田川高)、一高、東大法。振出しは長野、政治部を経て海外が長い
死の4か月前に、戦後30年を振り返って書いた3日連続の天声人語で、極東軍事裁判を振り返り、個人としては賛同しなかったにもかかわらず国策を担ってきた戦争指導者たちの証言を聞いて、「無責任な集団主義は、はたして克服されたのであろうか」と問いかけて締め括っている
深代天人に通底して流れるのは、ある確かな「視点」で、右であれ左であれ、極端を嫌い、排した。均衡を測る精巧なセンサーを宿す、健康な懐疑主義とでもいうべきもの

第6章        上野署
横浜支局の後、本社社会部に戻り、下町の警察署を担当
上野時代のことは、上野署で出会って親交を深めた本田靖春の『警察(サツ)回り』に詳しい ⇒ 深代を「畏友」と表現、読売退社時には深代から密かに朝日への誘いがあった
取り立てて言うほどの足跡は残していないが、無形のものを蓄積した大切な時間帯であったように思える

第7章        特派員
59年 語学練習生として渡英。6か月間中流家庭に下宿して溶け込み、エンジョイした後、ヨーロッパ総局、続いてニューヨーク支局へ

第8章        名作の旅
「世界名作の旅」は、65年に始まった日曜版のシリーズ大型企画。名作文学を素材に、記者が誕生の地を訪ね、自由な随筆としてまとめる。写真に初めてカラー刷りが使われて話題を呼ぶ。深代も書き手の1人として『風と共に去りぬ』ほか10編を担当、書ける記者として認知される契機となる
「通例」や「お上」の決め事を持って自身の判断としない、形容には細心の注意を払う、独りよがりの傲慢さを嫌う――社会部デスクや論説委員時代、深代が保持していた志向は、天声人語の書き手になって以降も一貫して変わらぬものだった
判断の付きかねる事柄に直面して、知の力というものが、集積した情報や知識によって解を見出すものではなく、問いを問いとして保持し、考えることを止めないことによりウェートがあるとするなら、そのことにおいて深代に最も知性的なものを感じる

第9章        ロンドン再び
深代と親交があった後輩記者――久保田誠一、轡田隆史、小林一喜(ピンキー、後「ニュースステーション」解説者、在職中逝去)
轡田隆史は、深代が社会部デスクの頃からの知り合い。71年天皇皇后ご夫妻の訪欧とミュンヘン五輪の報道要員として深代のいたロンドンへ ⇒ 3大無駄使い。①両陛下訪欧の下調べ、②鯨資源の現況を探るための「南極の海」という長期の取材行、③ウィグル地区の遺跡・楼蘭への日中共同探検隊(轡田が日本側隊長)
弔辞で語られた友人の深代評 ⇒ タブーに挑戦する勇気と筋の通らぬことに妥協しない気骨、人間に対する尽きせぬ興味こそ、深代の真骨頂
〈社会〉に寄り添い、〈素人〉の目線でコラムを書き続けたが、同時に、社会に、また自身が属するマスコミにも迎合するコラムニストではなかった。そこに悪弊と欺瞞と卑劣が潜むとき、それを直截に指摘し、自省を促した。世論の多数派を代弁するのではなく、あくまで1人の個人として思うところを書いた

第10章     有楽町
天人担当となった深代の初めての原稿は、文藝春秋の池島信平の訃報に関連して取り上げたものだが、突然の訃報で予定していたテーマを差し替えたものと推測される ⇒ 「文春カラー」という暖色を守り続けた人。その言葉には、戦前、戦中、戦後の風説を、「死傷率の高い雑誌編集者」として生き抜いた1人の保守的教養人の、正直な批判が込められている
深代と池島の付き合いは、懇意にしてきた後輩記者の久保田の義父だったことから
深代の天人担当は、73.2.15.75.11.1. 最初の2か月は前任の疋田桂一郎と交代で担当、その後単独執筆へ
1章の架空閣議も、田中内閣への手厳しい論評の1つで、二階堂官房長官から厳重抗議が来る。当時の広岡社長の希望を入れて翌日書いた天人の表現は、社長が弔辞でも驚嘆したと絶賛 ⇒ 抗議の全文を紹介した後、「冗談が事実無根であることを確認するには、やはり「あの冗談は冗談でした」というほかない。」とした後、最後を次の言葉で締め括る。「実は米国ジャーナリズムの読み物の1つは、コラムニストたちの時事問題の創作である。大統領や閣僚たちの会話を創り上げたりして、そこに盛られた風刺やジョークで読者を楽しませる。本欄の架空閣議の話は、読者にはなじみにくかった面もあるようだ。」
深代の天人を読むと、モノを至上とする進歩史観への深刻な懐疑主義であったことが判る ⇒ 環境汚染や公害訴訟への痛烈な舌鋒は衰えることを知らない
締めの言葉が際立つものが少なくないが、好例は長嶋が現役引退を表明したときのコラムで、「長嶋新監督は、長嶋選手のいない巨人軍を率いていかねばならない」
深代にとっての社は、終生有楽町。手書き原稿が「漢電」で打ち直され、穴あきテープに記号化され、溶けた鉛が活字を形作るやり方で、およそ90年続き、鉛を使った活版方式は有楽町時代で終わる

第11章     男の心
戦前から活躍した記者で、伝説を持つ門田勲
「素粒子」の執筆で知られる斎藤信也
深代は、先輩に恵まれた人だった

第12章     執筆者
深代と同期で、天人の後任となったのが辰濃和男。東京商大最後の卒業生
129か月に4000本書く。「補佐制度」が設けられ、日曜日はよく他の人が担当、小林ピンキーはその1
69年から35年間、産経新聞の「サンケイ抄」を書き続けた名物コラムニスト・石井英夫(1933)も一目置く ⇒ 警察回りの時代、丸の内署で深代と一緒

第13章     遠い視線
口数の少ない人
1人で歩くことが好きだった ⇒ コラムニストという文業の貯蔵タンクの1つでもある
本質的にそういう稟(ひん)質を宿した人
単に名文家に留まらず、その背後に人生論的なフィロソフィーがあった
天人を書き始めた頃に出会ったのが、『週刊朝日』編集長・涌井に紹介された18歳下の水口義子。離婚成立の翌月74.8.に結婚。1年後に体調の異変に気付く
急性骨髄性白血病で輸血という対症療法以外有効な治療手段なしとの診断で、義子は虫歯からの敗血症として押し通す

終章 法隆寺
広岡社長の弔辞 ⇒ 将来は論説主幹から、専務、社長の可能性も話し合った
宇都宮支局長に赴任して間もない轡田は、宇都宮で一人追悼会をしながら、深代が社長になったとしてそれがどうだというのだ、人を見てモノを言え、と悪態をついていた
絶筆となった天人で聖徳太子を取り上げ、法隆寺を尋ねてみたいと締め括っている



深代コラム「今なお光る」 作家・後藤正治、「天声人語」筆者の生涯描く
朝日 201411111630
写真・図版
 朝日新聞のコラム「天声人語」を担当し、46歳で早世した深代惇郎(ふかしろじゅんろう)(192975)の生涯をたどった『天人 深代惇郎と新聞の時代』(講談社)を、ノンフィクション作家の後藤正治が執筆した。名コラムニストとして名高い深代だが、死後40年近い今取り上げたのは、近年元気がない新聞に言葉の力をもう一度かみしめ、信頼を取り戻して欲しいという思いからだという。
 深代は53年に朝日新聞社に入社。東京本社社会部次長、ヨーロッパ総局長などを経て、732月~7511月に天声人語を担当したが、急性骨髄性白血病のため46歳で死去した。
 深代の天声人語は死の翌年に本になった。難しい言葉を使わず、文章にユーモアと趣がある。それでいて庶民の目線を失わず、権力に迎合しない。
 「コラムを数本読むと止まってしまい、一気に読めない。寝っ転がって、色々考えたくなる本」
 閣議の盗聴テープが手に入ったとするコラムでは、時の内閣の支持率低迷の打開策として、大臣らが「ゴルフ庁」設立を論じあう、という架空の話を書いた。翌日、官房長官から「事実無根」と抗議を受けると、今度は「冗談が事実無根であることを確認するには、あの冗談は冗談でしたというほかはない」と皮肉を交えて記した。
 病気で苦しみ服毒自殺した母親を追い、小学5年の男児が自殺した事件を取り上げた回。「どう想像しても、持っていき場のない救いのなさが黒々と心に残る。『みんなが親切にしてくれへんかったせいや』という竜治君の遺書が、読む者を打ちのめすのだ」とやり場のない感情をそのまま書いた。
 深代の生涯を追おうと思ったのは、ノンフィクション作家の柳田邦男に書いてもらった自著の解説文に、文章の品格を意味する「文品(ぶんぴん)」という言葉を見た時だ。思い浮かんだのは深代のコラム。あの知性を生んだのは一体何だったのか。3年かけて当時親交のあった記者ら数十人に取材した。
 「下町出身ということや、よき家庭で育ったこと、正義感の強さなど、様々な要因が合わさっているが、私生活では苦労もあり、それが深さ、優しさ、慈しみなどの視線を養ったのかもしれない」
 近年、新聞がネットメディアなどに押され、ジャーナリズムの中心軸としての地位が揺らいでいるのも動機という。活字メディアは記者の手仕事があって初めて成り立つ。その重要性は変わらないのに、紙面から感じる言葉の力が弱まっていると感じるのはなぜか。
 「今なお光り続けている言葉を、毎日紡ぎ出していた記者がいたことを伝えられれば」(渡義人)


Wikipedia
深代 惇郎(ふかしろ じゅんろう、1929419 - 19751217)は、日本の新聞記者。
東京出身。海軍兵学校第一高等学校東京大学法学部を卒業し、朝日新聞社に入社。社会部時代には、読売新聞社本田靖春と、同じ警察担当記者として接点があった。
ロンドン、ニューヨーク各特派員。東京本社社会部次長、1968年論説委員(教育問題担当)を経て、1971年ヨーロッパ総局長(ロンドン)、1973年論説委員、同年215日から1975111日に入院するまで「天声人語」の執筆を担当。日本のマスコミ史上、最高の知性派の一人といわれたが、46歳で急性骨髄性白血病で死去。
§参考文献[編集]
深代惇郎『深代惇郎の天声人語』(朝日新聞社 1976、帯の文章にドナルド・キーン'Homo sum, humani nihil a me alienum puto'(私は人間であり、人間と関係のあるものなら、私に関係しないものはない)を引用して「彼は人間の現象に限りない関心を示し、計りがたい愛情を抱いて書き続けた。『天声人語』は立派な文学であり、彼の記念碑である」と書いている。)
深代惇郎『続 深代惇郎の天声人語』(朝日新聞社 1977
深代惇郎『深代惇郎 エッセイ集』(朝日新聞社 1977
深代惇郎『深代惇郎の青春日記』(朝日新聞社 1978
深代惇郎『天声人語8』(朝日新聞社 1981 - 深代惇郎分集成
深代惇郎・柴田俊治『記者ふたり 世界の街角から』(朝日新聞社 1985





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