しんがり 山一證券 最後の12人 清武英利 2015.2.15.
2015.2.15. しんがり 山一證券 最後の12人
著者 清武英利 1950年宮崎県生まれ。立命館大経済卒。75年讀賣新聞入社。青森支局を皮切りに社会部記者として警視庁、国税庁などを担当。中部本社社会部長、本社編集委員、運動部長を経て、04年読売巨人軍球団代表兼編成本部長。11年専務球団代表兼GM・編成本部長・オーナー代行を解任。現在はジャーナリストとして活動
発行日 2013.11.13. 第1刷発行
発行所 講談社
プロローグ 号泣会見の真相
創業100年の節目に社長になった野澤正平は、「焼き芋社長」と陰口を叩かれていた
農家の4男坊、畑いじりが趣味の朴訥な人柄
野澤を田舎者だと軽んじる気配が社内ににじんでいた
97.11.22. 日経が、山一自主廃業、負債3兆円のスクープ
2,600億円の簿外債務の存在が、更生法の適用を困難にした
簿外債務の真相究明と、24兆円の預かり資産を顧客に返す会社の清算業務のために「後軍(しんがり)」として残った12人の物語
1章
予兆
94年 江東区塩浜に業務監理本部の入るビルを建設 ⇒ 稼げない者の掃き溜めとして「場末」と呼ばれる
97.3. 36年高卒の嘉本常務が本部長として赴任
97.4. 証券取引等監視委員会の特別調査課が、総会屋小池隆一に対する利益供与事件に関し立ち入り調査に踏み込む ⇒ 89年一勧による無担保融資をもとに4大証券の株主となった小池の求めに応じて、証券各社が利益供与を行っていたのが、野村の内部告発で明るみに
社内の臭いものに蓋をする雰囲気に、嘉本は自ら社内調査を開始
記者会見で漸く利益供与を認めた野村は、酒巻前社長が商法違反と証取法違反で逮捕
2章
不穏
利益の不正付け替えが行われたシンガポール現法に入った社内監査が、不正をもみ消したとの疑いが浮上、社内調査の結果重大な法令違反が発覚
それでも社内上層部には楽観論が支配、地検が本社に踏み込むに至っても行平会長は、相変わらず「違法行為はない」と言い張る
97.8. 会長、社長交代 ⇒ 消去法で、事件に無関係の役員の中から選ぶ
3章
倒産前夜
山一で総会屋や暴力団との絶縁の最前線にいた顧客相談室長が刺殺、次いで顧問弁護士岡村の自宅で妻が刺殺
地検の強制捜査が入り、三木前社長他が逮捕
直後に、嘉本は常務から2,600億円の含み損の存在を告げられ、当局への報告をするよう指示される ⇒ 利回り保証に伴う飛ばしによって発生したもの
証券局長に報告したが、当初は支援を約束した局長だったが、直後に「自主廃業」の決断を迫る ⇒ 会社更生法の適用可能性も探るが裁判所は門前払い
2週間前には三洋証券が経営破綻、更生法の適用を申請して業務継続を目指す
大蔵省の対応と簿外債務の存在はすでに外部にもリークされ、飛ばしを不良債権と断定する若手役員からの情報開示の要求も社内を不穏な空気にした
4章
突然死
日経のスクープは3連休の初日、北拓破綻の5日後
11.24. 社長が自主廃業を発表、涙の記者会見となる
業務監査本部が清算業務と、不正取引の真相解明に向けて動き出す ⇒ 最後になってけじめの表舞台に登場、社内の注目を集める
5章
しんがりの結成
もともと事法は、山一の稼ぎ頭で、監査の埒外、トップですらブレーキを掛けようとしなかった部署だった
調査委員会は、社内の各部署からのボランティアの集まりで総勢8人+外部弁護士2人
6章
社内調査
社内調査に対して、秘密裏に協力を申し出る者もいて、飛ばしや利回り保証の証拠が続々と集まってくる。地下金庫に保管されていた対象となった株券も発見される
91年 証券業界の損失補填問題浮上を機に、通達で禁じられていた損失補填が証取法でも明確に禁止されるようになった
事法の立役者延命副社長の秘蔵っ子だった木下元副社長(廃業時常勤監査役)が84年当時からのヘドロの経緯を詳細に話してくれる
7章
残りし者の意地
清算業務 ⇒ 98.2.清算センター発足、漸次支店を閉鎖
次々に発覚する不正と、会社を食い物にした営業に、怒り心頭になるのを必死にこらえて、真相究明に邁進
8章
破綻の全真相
法人本部上げて行平を社長にするために業績を上げるべく暴走が始まる
端緒となったのは、三菱重工業CB事件 ⇒ 86年 4大証券が三菱重工からの依頼で、値上がり確実なCBを政財界や総会屋にばらまいた事件。当時行平は三菱担当の事法本部長、ばらまきの噂が広がり、個人営業を重視する反行平派との社内抗争に発展、行平はロンドンのインターナショナルに左遷され、行平に対抗した筆頭副社長の成田芳穂は、トップからCBの親引け(配分先)リストを外部に漏らした責任を追及され自殺に追い込まれる。地検が事件解明に乗り出したものの、成田の自殺でうやむやに終わる
ほとぼりがさめるのを待って、1年後に行平は代取副社長に復帰、9か月後には社長となるが、その裏には行平派が営業特金を猛烈に積み上げて業績を伸ばした実績がものを言ったことから、行平は復帰を支援してくれた古巣の事法に負い目を感じ、以後事法の暴走を黙認した
三菱重工のCBは、防衛庁のジェット戦闘機導入に絡み、国産か国外調達にするかという問題が取りざたされていた時期の発行
三木前社長の告白によれば、90.2.時点で事法の運用金額は1.8~1.9兆円、含み損は1,300~1,400億円、その詳細は不明で、歯止めをかけようもないほどの破滅的な状況
91年の証取法改正の対応として、含み損を抱えるファンドを顧客に戻そうとしたが全滅したため、子会社に沈めることを決断
簿外債務事件の証取法違反(有報虚偽記載)と商法違反(違法配当)の裁判では、行平が猶予刑だったのに対し三木は実刑、控訴で漸く猶予刑に落ち着く
9章
魂の報告書
株主が役員相手に損害賠償請求訴訟を起こし、社内調査報告書が証拠として採用されていたため、報告書を公表することは自分で自分の首を絞めることだが、それでもあえて公表に踏み切る
三木の証言から、90.2.に始まった東急との利回り保証に基づく損失事件の飛ばしが大蔵省の示唆に基づくものとの確証を得たが、大蔵省が認めないことを調査報告書に書くわけにもいかず、別項として注釈をつけ、大蔵省が黙認したことを暗示する
98.3.31. 全員解雇、最後に残った40の支店閉鎖
報告書公表の直前になって、SESCから、検査結果通知書を引用していることに抗議が来たが、本質は、役所の検査が債務隠しを見抜けなかったことへの批判に対する異議だった
93年の検査で山一の簿外債務の一端を把握して、検査結果通知書に記載しておきながら、追及はそこで終わっていた事実も記載
報告書の公表は4月16日、「社内調査報告書――いわゆる簿外債務を中心として」
5日後に、一部の株主訴訟から嘉本らの分を取り下げる通知が届く
山一證券法的責任判定委員会という山一の新たな調査組織が出来、取締役として損害賠償責任や刑事責任があるか否かをヒアリングして判断し、10人に対する損害賠償請求訴訟の提訴を提言 ⇒ 会社は抵抗したが、朝日新聞にスクープされる
10章
その後のしんがり兵
最後の株主総会を終えて調査委員会は解散
嘉本の最後の仕事は、刺殺された岡村の妻の墓参
嘉本は、ソフトウェア開発会社の営業マンとして再就職
06年から、嘉本は青柳前副社長の評伝を書き始める ⇒ がんで闘病中の本人から、孫たちに残すものとして依頼された。社長候補だったが、損失補填の違法行為を表沙汰にしようとして子会社に左遷された
暴走営業に1人で立ち向かった役員がいたことを知り、心が晴れるとともに、やり残していた自分の調査がようやく終わったことを悟る
エピローグ 君はまだ戦っているのか
「最後の12人」が今でも命日に集う
10年後のその席上で、朝日にリークしたのが自分だと1人の委員が名乗り出る
あるメンバーは、転職先でも幹部の不正を見つけてトップに告発するが、握り潰される。残念だったのは、社員の誰もが怒りを共有してくれなかったことだったが、この会ではみんなに励まされた
バブル後の「歴史」 清武英利・佐々木実
朝日 2014年8月26日16時30分
日本経済に深い傷痕を残したバブル崩壊と、それに続く「構造改革」の時代を描いた二つの作品に、今年の講談社ノンフィクション賞と大宅壮一ノンフィクション賞が贈られた。前者の『しんがり 山一證券 最後の12人』(清武英利著、講談社)は自主廃業に追い込まれた真相を最後まで調査した社員12人を、後者の『市場と権力 「改革」に憑(つ)かれた経済学者の肖像』(佐々木実著、同)は小泉政権下で構造改革を推し進めた竹中平蔵氏を追い、昨年の新潮ドキュメント賞も受賞している。2作をあわせ読むと、「歴史」になりつつある、この時代の実像が生々しくよみがえってくる。
彼らを追った元読売新聞記者の清武は「2011年暮れにひとりのジャーナリストに戻ったとき、会社組織の中にあってトップランナーではなく、後ろの列にいて見返りや称賛を求めることなく生きた人を書きたいと思った」。
業務監理本部は社内の不適正行為を防止・是正する「司法部門」だが、証券会社にあっては「場末」と呼ばれ、「営業ができないと烙印(らくいん)を押された社員」の集団とみなされていた。そんな彼らが破綻(はたん)原因の究明にあたる。原因は多岐にわたり、調査も困難を極めたが、関係者への聴取を積み重ね、バブル期から隠蔽(いんぺい)されてきた簿外債務2600億円の真相に迫る。だれが作り、隠蔽してきたのか。
「最初に不正にかかわった人が昇進して、部下に指示をする。その部下が昇進して次々に『背信の階段』を上っていくので関与者は多く、みんなが共犯者となる」。不正に声を上げると「同調しない人間」として排除され、「イエスマン」が再生される。
「声を上げた人がいるはずだと探したら、確かにいた。しかし、同調しない人間はつぶされる。それはどこでも起こりうることだ」
最後に作成した克明な報告書を、清武は「魂の報告書」と呼んだ。「12人は貧乏くじを引いたはずなのに愚痴を言うこともなく、悔いのない人生だと言っているのがとても印象深かった。志操の高い人に出会い、自分自身が救われる思いだった」
小泉政権下で経済財政、金融、郵政民営化、総務の各大臣として「『構造改革』の司令塔役」を果たした竹中平蔵氏は、佐々木が月刊「現代」(2005年12月~06年2月号)に本書の元になる「竹中平蔵 仮面の野望」を書き始めたころは現職大臣だった。
「当時、嵐のようなスピードで変化していく中で、改革者たちは『これで間違いないんだ』という顔をして先導していった。その背景や要因などわからないことが多かったが、時を経て、あの時代をドキュメントであると同時に歴史としてとらえたいと思った」。「現代」廃刊後も書き継いだものを大幅に修正・加筆した。
バブル崩壊後、97年に山一証券などが破綻した金融危機。大蔵省の接待汚職などで霞が関が地盤沈下していくのと入れ替わるように、政権中枢へと接近していく竹中氏。評伝のようにして政治の表舞台に登場してくる過程を描くが、あくまでも書きたかったのは「あの時代」とそこで果たした「竹中氏の役割」だ。なかでも、02年9月30日の金融担当大臣就任から約1カ月後に発表される「金融再生プログラム」(通称「竹中プラン」)が巻き起こした金融界パニックと、03年5月のりそな銀行破綻を描いた第6章「スケープゴート」は圧巻だ。
「竹中さんは、何が時代を動かしているのか、この場面で何が大事なのかをとらえるのに敏感だったので、長くその位置にいられたのだと思う。新自由主義とか市場原理主義と呼ぶには留保がいるかもしれないが、彼に象徴される時代は、今後もいろんな角度から検証されるべきだ」(都築和人)
清武英利さん受賞 講談社ノンフィクション賞
2014年7月25日05時00分
第36回講談社ノンフィクション賞が24日、元読売新聞記者の清武英利さんの「しんがり 山一證券 最後の12人」(講談社)に決まった。第30回講談社エッセイ賞は末井昭さんの「自殺」(朝日出版社)。同科学出版賞は大栗博司さんの「大栗先生の超弦理論入門 九次元世界にあった究極の理論」(講談社)が選ばれた。賞金は各100万円。
Wikipedia
概要[編集]
歴史[編集]
以下、歴代社長の業績を中心に記述する。
小池国三[編集]
山一證券は、1897年(明治30年)4月15日に山梨県出身の創業者小池国三が東京株式取引所仲買人の免許を受け、1週間後兜町に小池国三商店を開店したことをもって創業としていた。[1]1907年(明治40年)には小池合資会社に改組した。小池合資は、1909年(明治42年)の国債下引受、1910年(明治43年)の江之島電気鉄道社債元引受など、債券引受業務に証券会社として初めて進出した。[2]
太田の後任として副社長だった平岡伝章が暫定的に社長に就任、さらに12月には専務だった木下茂が社長を引き継いだ。
1961年(昭和36年)には岩戸景気が終焉を告げ、株式相場が7月をピークに下げに転じた。この証券不況で投信解約や手数料収入の低下により山一の経営も悪化を続け、経常損失は1963年(昭和38年)9月期で30億円、1964年(昭和39年)9月期で54億円に上った。1964年(昭和39年)11月に大神は会長となり、日本興業銀行出身の日高輝が社長に就任した。
1964年(昭和39年)8月に大蔵省は検査の結果山一の危機を知ることとなった。メインバンクの1つであった日本興業銀行頭取の中山素平は、興銀同期入社で日産化学工業の社長をしていた日高輝を再建のため山一證券社長に送り込んだ。
山一の経営状態はマスコミの知るところとなったが、大蔵省が在京大手新聞社に報道自粛を要請したため、報道されなかった。ところが、自粛協定外であった西日本新聞が1965年(昭和40年)5月21日朝刊で1面トップ記事を載せた[5]。他の新聞社も同日付夕刊トップで一斉に追随した。翌22日は土曜日で半日営業であったが、山一各支店には朝から投信、株式、債券の払い戻しを求める客が殺到した[6]。
28日午後11時30分、大蔵大臣の田中角栄と日銀総裁の宇佐美洵が記者会見し、「1. 証券業界が必要とする資金は日本銀行が無制限・無担保で融資する。2. 山一證券については興銀、富士、三菱の3行を通じて融資を実施する。3. 今後、証券金融について抜本的見直しを行う。」ことを発表した[7][8]。その後、大規模なリストラを経て、また市況の回復が追い風となり、早くも1969年9月30日に特融を完済した[9]。
植谷の社長在任中に山一の預かり資産は10倍に増えている。しかし、他社も活発な市場で山一以上に業績を上げる中で、営業収入シェアは社長就任時の21%から辞任(会長就任)時には18.8%にまで落ち込んでいた。[10]
1984年(昭和59年)頃から、後に営業特金と呼ばれるものが存在していた。法人の資金を一任勘定という自由に売買して良いという了承の下に預かり、運用するもので、考案者であった永田元雄常務の名前を取って社内では「永田ファンド」と呼ばれていた。
1986年(昭和61年)に三菱重工転換社債事件が発生した。三菱重工業の依頼により、値上がり確実な転換社債を総会屋にバラまいたというものである。このバラまき先のリストを投資情報誌『暮らしと利殖』のオーナー生田盛が手に入れ、それを元に山一に揺さぶりを掛けた。困った山一は総会屋の大御所上森子鉄に仲裁を依頼する。上森が示した調停案は、行平次雄を辞めさせるか、成田芳穂を社長にしろというものであった。植谷は悩んだ末、行平を取締役から外し、ロンドンにある現地法人・山一インターナショナルの会長とすることで手打ちとした。
さらに、事件が明るみに出た。植谷自身が酒に酔って経済誌『財界』のインタビューに応えてすべての経緯を話してしまい、それが1986年12月号の記事となったものが、特捜検事であった田中森一の目に止まったのである。田中は成田を呼び出し、政官界を含めた転換社債とカネの流れについて取り調べをしようとしたが、成田はその数時間前に首つり自殺した。その後、田中は嫌気がさして検察を辞め、闇人脈とのつながりを強めた。[11]
1988年(昭和63年)9月、行平は社長の座についた。行平の社長就任と同時に横田が会長に就任した。横田は1991年(平成3年)には健康問題から会長も退任し、2005年(平成17年)3月に亡くなっている。
しかし、1989年(平成元年)5月からの数回にわたる公定歩合引き上げにより、高騰していた株価は同年12月の最高値を最後に暴落を重ねるようになった。また、同年11月には大和證券を皮切りに損失補填問題が発覚した。バブル崩壊により、「永田ファンド」=営業特金は多額の損失を抱えることとなったが、行平は根本的な処理をすることなく先送りを続けた。
1992年(平成4年)に三木が社長に就任した後も、事実上の決裁権限はすべて会長の行平が握っており[12]、山一證券が簿外債務を処理することはなかった。簿外債務は国内で1583億円、国外で1065億円あった。国内の分を飛ばすために、クレディ・スイス信託銀行で特定金銭信託口座を開設し2000億円分の日本国債を購入させている。山一はこれを子会社のペーパーカンパニーへ貸し出しつつ買い戻して、これらの子会社へ損失補填用資金を流した。また、国外の分は外債を損失補填した含み損であり、その外債を山一オーストラリアへ、買い戻す約束で売却したものである[13]。
11月11日、富士銀行から最終回答があった。(1)劣後ローンは富士からは250億円程度が限度で、あとは他行から借り入れてほしい、(2)過去に無担保で融資した分について早急に担保を差し入れてほしい、という内容であった。
翌11月15日土曜日、大蔵省証券業務課長の小手川大助は長野の指示を受けて山一の藤橋企画室長から説明を受けた。なおこの日、山一が主幹事を務め最後まで資金供給を行っていた北海道拓殖銀行が経営破綻している。
11月24日は月曜日だったが、勤労感謝の日の振替休日で休業日だった。午前6時から臨時取締役会が開かれ、自主廃業に向けた営業停止が正式に決議された。午前11時30分には社長の野澤、会長の五月女、顧問弁護士の相澤光江が東京証券取引所で記者会見に臨んだ。記者会見で野澤は「社員は悪くありませんから」と泣きながら発言し、その様子は当時のマスコミによって大々的に報じられた。
破綻の原因とされるもの[編集]
ここでは主に、破綻へ至った原因とされているものについて触れる。
法人営業への注力
もともとは、個人顧客を相手にした証券会社だったが、戦後から法人営業に注力し、大口の物件を取る方針をとっていた。不況時には、企業の投資枠縮小に遭って業績不振に繋がった。また、相手が法人であることから、運用利回り保証や損失補償を迫られ、運用上の足枷が大きかった。
また、一任勘定で発生した損失を引き取らせる事が困難で、それを山一側で引き受けざるを得ない状況に陥った。これが簿外債務となり、破綻の直接の原因となった。つまり不況による法人の弱体化、それによる株の損失が引き金となって自主廃業に追い込まれたのであり、このような経緯から山一の破綻はいわゆる「平成不況」の象徴的事例としてさまざまな場面で引用されることとなる。
日銀特融の経験
1964年(昭和39年)から1965年(昭和40年)の証券不況に際して、銀行出身者の日高を社長に迎え、リストラを行っていた。これが報道機関や顧客には山一の危機と映り、取り付け騒ぎを起こした。不安を解消するために日銀特融を受けて会社組織の再編を行ったが、その直後にいざなぎ景気が到来し、特融を早期に返済することが出来た。
この経験が、あと少し頑張れば自力で再生できたという記憶を残した。バブル崩壊に際しても、しばらく持ちこたえれば日本景気が上向いて業績も回復し、簿外債務、含み損も消せるという期待に繋がり、損失を適正に処理することを躊躇させた。
銀行出身者の排除
銀行出身者の経営陣がリストラを行った事が取り付け騒ぎ、そして特融を受けざるを得ない状況へ追い込まれた原因と見る向きから、社内には銀行出身者を快く思わない風潮が蔓延し、排除する動きに繋がった。これは、山一が破綻に瀕した際に、銀行の積極的な支援を得られない要因ともなった。
法令違反
運用利回りの保証、損失補填、一任勘定については、1980年代末より批判が高まり、1991年(平成3年)に法律で禁じられた。しかし、表向きはこれらの行為が無くなっても、裏では一任勘定が継続され、含み損を抱え込んだ。後にこれらは簿外債務として山一の子会社に移された。これらの債務は決算の度に飛ばしで隠蔽されており、粉飾決算を行っていたことにもなる。
また、総会屋を中心とする相手に対する不正な利益供与についての捜査も行われ、証券業界がダーティーな印象を持たれた。粉飾決算の件も含めて違法行為を行ったとみなされたため、特融を受けての再生は認められず、自主廃業を選択せざるを得なかった。
東京大学出身者を中心(滅びの遺伝子 山一證券興亡百年史: 鈴木 隆)とする一部の社員が、会社としての指揮命令系統やコーポレート・ガバナンスを無視して重大事項を専断していた。そのため、一般社員や取締役の一部の者ですら知らないところで膨大な簿外債務が生み出されていった。
その後[編集]
自主廃業発表後、顧客保護を理由にあわただしく無担保の日銀特融が実施された。日銀特融はピーク時で1兆2千億円にのぼった。
翌1998年(平成10年)3月4日、行平と三木の元社長2人、ならびに元財務本部長の3人が、最大2,720億円の損失を隠して虚偽の有価証券報告書を作成したという証券取引法違反の容疑で東京地検に逮捕された。行平と三木にはさらに、粉飾決算の容疑がついていた。2000年(平成12年)3月に、行平と三木に有罪の判決が下された。初審で執行猶予が付いた行平は判決を受け入れたが、実刑判決だった三木は控訴し、控訴審では執行猶予となっている。
自主廃業発表以降事務処理を進めたが、1998年(平成10年)6月の株主総会で解散決議に必要な株主数を確保できなかったことから自主廃業を断念せざるを得なくなった。そのため破産申立てをすることに方針を転換し、1999年(平成11年)6月2日に東京地方裁判所より破産宣告を受けた。
破産宣告後の手続は、債権者の多さや、海外資産の整理に手間取ったために長引いたが、最終的に2005年(平成17年)1月26日の債権者集会をもって終了した。同年2月に破産手続終結登記が行われ、名実共に「山一證券株式会社」はこの世から消えた。小池国三による創業から107年あまりが経過しての終焉であった。
山一の元株主が中央青山監査法人(当時中央監査法人)に損害賠償を求めた訴訟の判決で、大阪地裁(本多俊雄裁判長)は、「監査法人は通常実施すべき手続きで監査しており過失はなかった」として請求を棄却した[14]。
社員・子会社[編集]
山一本社所属の従業員や店舗の大多数は米国の大手金融業メリルリンチが設立した「メリルリンチ日本証券」に移籍・譲渡された。その後同社のリテール部門が三菱UFJフィナンシャル・グループとの合弁企業である三菱UFJメリルリンチPB証券に移管された後、三菱UFJとメリルリンチの合弁解消に伴い2014年現在は三菱UFJモルガン・スタンレーPB証券となっている。
子会社のその後については以下の通りである。
太平洋証券
山一證券投資信託委託
山一信託銀行
山一投資顧問
フランスの大手金融業・ソシエテ・ジェネラル傘下に入り「SG山一アセットマネジメント」に改称。2004年、りそなアセットマネジメント(旧東京投信→あさひ東京投信。元は東京証券傘下)を合併し「ソシエテジェネラルアセットマネジメント」に再改称。元子会社の中では「山一」の名前を最後まで残した。
山一情報システム
山一證券経済研究所
丸万証券
内外証券
数少ない証券子会社の内の一社。旧丸万証券を被合併させた東海丸万証券(※前述)へ救済合併。
丸宏証券
山一證券の商標権は、2007年(平成19年)に元社員が取得した。その元社員は6年後(2013年)を目標に山一證券を復活させたいとしていた(日経スペシャル ガイアの夜明け(テレビ東京系)2007年12月18日放送より)。2011年(平成23年)4月、元社員によりIBS山一証券株式会社として山一の名称が復活した[15]。2014年11月現在、「山一證券」の商標は、2014年7月にIBS山一證券社長の名義で出願がされた状態になっている[16]。
その他[編集]
『山一證券史』1958(昭和33)年刊。創業60周年記念刊行。前編「わが国における証券市場の発達」・後編「山一證券史」からなる。約1,400頁。
『山一證券年表』1985(昭和60)年刊。1958(昭和33)年から1984(昭和59)年まで。
『山一證券の百年』1998(平成10)年刊。編集・山一證券株式会社社史編纂委員会、発行・山一證券株式会社。約466頁。「社内調査報告書-いわゆる簿外債務を中心として-」添付資料一部割愛して全文所収。もともと『山一證券百年史 普及版』として編纂されたものを自主廃業決定後に出版したものであるが、非売品扱いでISBNも取られていない。
脚注[編集]
5.
^ 再建策を前面に立てた記事ではあったが、消息筋という断りの後で財務状態を書いている。負債総額は約600億円で、銀行借り入れが260億円としている。富士銀行と水野繁大蔵省証券局課長補佐の明らかにした1965年3月末における状態は、資本金80億円に対して赤字が282億円であった。内訳は、疎開株実損69億円、手持株評価損109億円、関係会社格式プレミアム損29億円など。なお、自粛協定に参加したのは、朝日新聞、読売新聞、毎日新聞、日本経済新聞、産業経済新聞、東京新聞、共同通信の7紙と、NHK、日刊工業、時事通信の3局であり、この中の何者かが西日本新聞へ協定の存在をもらしたという。 草野厚 『山一証券破綻と危機管理』 朝日新聞社 1998年 P 114,132
6.
^ この取り付け騒ぎで28日までに解約された運用預かり及び投資信託の合計は177億円に達した。 前掲『山一証券破綻と危機管理』
P 154 なお、運用預かりとは、顧客に売った金融債を引き渡さずに有償で借用し担保に用いる行為をいう。
8.
^ 日銀特融が「無制限」との発表は騒動の収拾を狙ったものであり、出席者の間では違った合意がなされていた。特融は3行経由であり、それぞれについて80億円までと決められていた。7月、これは130億円に引き上げられた。 前掲『山一証券破綻と危機管理』 P 164-165
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