須賀敦子の方へ  松山巌  2014.12.16.

2014.12.16.  須賀敦子の方(ほう)

著者 松山巌 1945年東京生まれ。東京藝大美術学部建築学科卒。作家・評論家。『乱歩と東京』で日本推理作家協会賞、『うわさの遠近法』でサントリー学芸賞、『群衆』で読売文学賞、小説『闇のなかの石』で伊藤整文学賞など。2012年建築学会文化賞受賞。『須賀敦子全集』刊行に際して、詳細な年譜を作成

発行日           2014.8.30. 発行
発行所           新潮社

初出 『考える人』 2010年秋号~2013年春号

斜体は、須賀敦子の文章から

第1章        父譲りの読書好き――2010年冬・東京谷中、2009年夏・ローマ
須賀敦子にとって森鷗外の作品は日本文学の中で特別な位置を占め、さらに『澀江抽斎』はその核心にある気がしたので、須賀敦子のことを辿るにあたって、彼女が読み彼女が綴った文章に登場する本をまずは頼りにして、今一度彼女のことを振り返ってみたい
父・豊治郎に、「鷗外は史伝を読まなかったら何にもならない。外国語を勉強しているのはわかるが、それならなおさらのこと。『澀江抽斎』くらいは読んどけ」と言われた
読んでみてますます父に頭が上がらない気持ちだったという
五百(いお)という女性の骨太の描き方に強い感銘を受けたのは2度目に読んだとき。こういう知的な女性は、それまでの日本の文学には出てこなかった。五百にはかなわないと思った。そういう人物を、遊女ばかり出てくる江戸文学の時代に組み込んでくれた鷗外に、感謝する気持ちだった
須賀の祖父が築いた会社の東京支店を任されていたのが、後の母の義兄で、豊治郎の教育係でもあった関係から、武家の娘が商家に降嫁して両親が結婚
澀江五百の生き方は、武芸はともかくも須賀敦子のその後の人生を思い起こさせる
須賀と初めて会ったのは、1991年麻布十番の中華料理店で、『文學界』編集長の呼びかけで集まった忘年会の席。須賀が『ミラノ 霧の風景』で女流文学賞をとった後で、ゲストとして呼ばれていて、たまたま隣に座った。日本近代の上下水道史に名を残した須賀工業を建築家として知悉していたことから話が弾む。それから4か月後、2人とも毎日新聞の書評委員となって再び顔を合わせてから、親交が進む
ナタリア・ギンスブルグの本を2冊訳しているが、ナタリアが母の影響で親しんだプルーストの文体を参考に自分の文体を練り上げたことを知り、また留学中父から贈られてきた鷗外の『即興詩人』を読んで、鷗外が欧米の言語の複雑なシンタックスの重層性にもがきながら奥行きのない情緒的な文体に流れようとする日本の文学語に厚みと拡張の高さを持たせようとしているのを読み取り、いずれの日にか自らの文章を綴る未来を夢見た
ナタリアこそ、人生の挫折と孤独も味わった上で須賀が漸く出会えた、現実の澀江五百に思える

第2章        激しく辛い追悼――2010年秋・兵庫県西宮市、小野市、東京東中野
『ミラノ 霧の風景』は、日本オリベッティの広報誌に『別の目のイタリア』と題して連載されたものだが、冒頭に書き下ろしの一篇『遠い霧の匂い』を加えたが、デビュー作だけに強い思いを込めた ⇒ その後も連載の文章をそのまま本にすることは無かったが、第1作だけに驚くほど加筆訂正をし、推敲にほぼ1年をかけた。これこそ須賀の文体宣言
須賀の文章を感傷的だという人もいて、彼女の作品がしばしば「追憶のエッセイ」と銘打たれたところから来る印象といえなくもないが、彼女の障碍を辿れば、情緒的感傷的というには余りにも厳しい変化が、その折々に彼女を襲い、しかもその厳しさに必死で耐え、その度に新しく生き直すために自分の道を切り拓いてきた。感傷的だの情緒的だのと言った生き方はしていない
あらためて読み返すと、彼女のどの文章にも激しく辛い追悼の思いが込められていることが判る ⇒ 『ミラノ 霧の風景』のあとがきも夫ペッピーノが好きだったサバの詩が引用され、「いまは霧の向こうの世界に行ってしまった友人たちに、この本を捧げる」と結ぶ
同じ追悼の思いは、続いて書き下ろされた『コルシア書店の仲間たち』でより構えが大きくなり、続く『ヴェネツィアの宿』『トリエステの坂道』を含めた4作品こそ夫への追悼
須賀自身、一言づつ考えながら喋るけれども、実に話し好きで、話題は様々に飛び、辛辣な皮肉も冗談も交えたが、会話は陽気で、何よりも無邪気な笑顔があった。だから、彼女の作品を孤独と追憶の代名詞のように語ることにも強い違和感がある
彼女の脳裏には新約聖書『ルカ福音書』があったのでは ⇒ キリストが磔刑の3日後にエマオで復活したが、この地名こそ須賀が夫の死後、自らの再生を願って活動したエマウス運動の名の由来であり、改めて文章を綴ることで彼女には、死者の記憶と自分の再生を求めたのではなかったか
東中野 ⇒ オリベッティ広報誌の編集長・鈴木敏恵の自宅。鈴木は文化学院の戸川エマの私設秘書。コピーライターの草分け。70年広報誌創刊、須賀の翻訳ものを連載

第3章        『ぴったりな靴』を求めて――2011年新春・東京麻布十番
5作目の『ユルスナールの靴』(96年、『文藝』への連載開始は94)の書き出しは明るい印象で、「ぴったりな靴」を求めて新たにもう一歩踏み出そうとしている
本に熱中し、熱中すればするほど、周囲の波長に合わずに脱線する、小学生の須賀はそんな女の子だった
高等女学校に進学した後は、アン・モロウ・リンドバーグの『北から東洋へ』(本当の書名は『東方への空の旅』)に感動。結婚後自らも飛行士となって夫と共に千島に不時着、日本人に救助された体験を綴ったもの。アンの行動力とともに、アンの日本語への感性に感嘆 ⇒ 私を、自国の言葉を外から見るという初めての経験に誘い込んでくれた

第4章        『匂いガラス』を嗅ぐ――2011年春・東京麻布、大阪中之島、2010年秋・東京雑司ヶ谷
戦後の焼跡で子供たちが競って拾い集めた透明なガラスを「匂いガラス」と言って、実際はアクリル樹脂の破片で戦闘機の操縦席を覆う風避のために開発されたもの。それを題材にしたエッセイを綴って病床の須賀に送ったところ、須賀から彼女の「匂いガラス」にまつわる思い出を綴った手紙が来た
91年から『国語通信』に連載を始めた『遠い朝の本たち』は、彼女の戦時戦後の体験、記憶、自身の内面の流れを別の姿で見ることができる作品。94年まで続くが、単行本は死後に刊行。連載終了から4年も単行本化を進めず、ゲラが出来たときは病床だった
読書遍歴を綴ったものだが、混乱の少女時代に選んで熟読した本だけを対象として、自らの過ごした時代を語っている

第5章        戦時下に描く『未来』――2011年夏・川崎市登戸、東京白金
須賀は、庄野潤三の『夕べの雲』をイタリア語に訳し66年刊行。登戸の庄野家の庭に、刊行の翌年須賀自らアツコ・リッカとして植えたブナの木があり、庄野家では「リッカさんの木」と呼んで愛でていた。庄野は2年前に没 ⇒ 小説を呼んで以来ずっとイタリア語に訳せたらと思った。この中には日本の本当の一断面がある。日本の香りのようなものであり、本当であるがゆえに、日本だけでなく世界中どこでも理解される普遍性を持っていると思った。友人たちの顔を思い浮かべながらこの作品を読んでもらったら、どれだけの果てしない「日本を説明しようとする」仕事の助けになるだろうかとも考えた(翻訳の2年後『日本のかおりを訳す』と題して日本経済新聞に寄稿した文の一節)
『夕べの雲』は、多摩丘陵に住む作家一家の日常を綴ったものだが、須賀が「本能的に訳してしまった」というのは、すぐにもなくなってしまう今を楽しく嬉しく生きようとする主人公の覚悟に共感を覚えたからではないか
敗戦直後の気持ちを書いた貴重な文が、『読書日記』という、新刊本をエッセイ風に書評した連載の中にある ⇒ 同年輩の人が、戦争の記憶がこびりついているので今でもサツマイモを食べないと顔をしかめたので、私は思わずサツマイモを庇った。私は小さいとき好きじゃなかったので戦争中はまたサツマイモかと思って食べていたけれど、最近になって美味しいと思う
妹・良子さん提供の、終戦直後に徴兵されていた叔父たちが戻って家族そろった写真が挿入されている ⇒ 軍服帯刀姿の榮一氏も端に立つ
須賀は、終戦の年の10月、父親とともに東京に戻り、再開した聖心女子学院高等専門学校の英文科に入学
476月、両親の縁遠くなることを慮っての反対を押し切って堅信の秘跡を受ける(洗礼も同年) ⇒ 「仏さんも神さんもおなじでっしゃろ。どうせ神さんはひとつやから」という祖母の言葉が後押しした
自分の頭で、余裕を持ってものを考えることの大切さを思う。50年前、私たちはそう考えて出発したはずだったのに

第6章        『曲がりくねった道』の入口で――2011年晩夏・東京白金
須賀の蔵書は没後、日本語の書籍はフィレンツェ大学文学部に寄贈、洋書はイタリア文化会館に寄贈収蔵
48年、新制女子大学設立に伴い、専門学校を3年で卒業、大学の英文科2年に編入

第7章        遠い国から来た人間みたいに――2011年冬・東京広尾
聖心のキャンパスは、久邇宮家の土地が国庫に接収された後、大映に売却され、聖心が買収したもの。進駐軍から譲り受けたカマボコ兵舎が教室であり寄宿舎となった
その後新築された1号館、修道院、講堂などすべて、竹腰健造の設計
須賀が著者への手紙の中で、建築史家になろうと思ったときがあったと綴っていたり、大学で教会建築史を履修したりしていたのは、多分に父の影響 ⇒ ライト以前の帝国ホテルの設備を祖父が施工、建築史の上でも祖父の名は知られていた。父もライト設計の帝国ホテル改修の際設備を受け持つ。祖父は安井武雄を敬し、共にアメリカに渡り建築を勉強した仲間。安井の義理の息子で安井事務所を継いだ佐野正一と父が友人であり、妹の良子の娘が正一の息子で現事務所社長の吉彦に嫁ぐ
卒業間近になって、自分で選んで入信したカトリックの理想と現実のギャップに突き当たり、学生一人一人を厳格に、しかし丁寧に育てるという校風が鬱陶しくて、一日も早く学校の枠から逃れたいと焦っていたが、それでいて関西の家に帰るのも、重く息苦しく思えて、死ぬほど嫌だった。6年近い寄宿舎生活で日本の現実をはっきりと眺められなくなっていた(父が外に女を作ったことのほかに、家に戻ったら花嫁修業を強制されることなどが背景にあった)
大学時代の奉仕活動を通じて、施設と家族という2つの異なる世界の融合を考えた ⇒ 理想的な施設を目指すより、その施設に送られるはずであった赤子や身障者を、自分たちで抱え込み、共に生きていくような場を社会に増やしていきたい
「思いやり」という「施し」や「おもらい」に繋がる封建時代的な人間関係を思わせる言葉にはなじめない。何か独りよがりの匂いの抜けきらない「やさしさ」や「思いやり」よりも、他人の立場に身を置いて相手を理解しようとする「想像力」の方により魅力を覚える

第8章        だれにも話せないこと――2012年春・東京四谷
卒業アルバムの須賀のポートレートにつけられたタイトル”E. de M.” ⇒ “Enfants de Marie”(聖母マリアの子どもたち)の略で、聖心の母体である「聖心会」において、カトリックに入信した学生の中でも、慈善活動や奉仕活動に熱心に参加したものだけに与えられる称号で、授与年を刻んだ銀メダルが授けられる
51.3.聖心卒業 ⇒ 学生代表で英語の謝辞を述べたのが中村(後の緒方)貞子、日本語が渡辺和子(後の岡山ノートルダム清心女子大学長、日本のカトリック界を先導)
父が家を出たのは卒業式の直前。気の動転した母は、須賀に地味な蝋纈染めの着物を着せ、あとから卒業アルバムを見て後悔。須賀もひどく暗い顔をした写っている。誰にも自分の混乱した気持ちを伝えられずに、重圧に潰されそうになって、寄宿舎も授業も荒野になった
そんな須賀の気持ちを受け止めてくれたのが親友の高木重子で、須賀が「なにもかもいやだ」と言ったのに対し、「でも、だいじょうぶよ。私はあなたを信頼してる。ちょっと、ふらふらしてて心配だけど、いずれはきっとうまくいくよ、何もかも」といってくれたのを、いつまでも「ちょっとキザな言葉」として何度も思い出す
親友はその言葉を残して、戒律の厳しい修道会に入ってしまったのも、須賀にとってはショックだった

第9章        新しい生き方に向かって――2012年夏・東京信濃町
須賀の卒論は『翻訳「大司教に死来る」ウィラ・キャザー』 ⇒ 「まともな日本語も知らず、小説を書いたこともないくせに、翻訳などとは、噴飯の至りです」と誰方(どなた)かが云ってをられて、私に云はれたやうな気がした。6年間の英語の勉強に、一応、しめくヽりをつけるやうに云われて、いちばんやりたいと思ったのは翻訳だった。これが私の真の意味での、コメンスメント(卒業式の意)となるやうに祈りつヽ書いた。このやうな大胆な挙に出たのも、私の単なる我が儘かもしれない
当時の聖心の英文科の卒論であれば、英文で、かつ古典文学を取り上げるべきところ、暗黙の約束事を二重に破っていることを「大胆」と表現したもの
ウィラ・キャザーは、20世紀初期のネブラスカ出身のピュリッツァー賞作家。『大司教に死来る』は、フランス生まれの神父がニューメキシコへ司教として赴任した伝記風の物語
大学を出た年の夏、自分の往くべき方向を決めかねてそのために体調を崩していた私は、(カトリック学生連盟で知り合った)友人の誘いにのって信州に出かけた。荷物の中にはサンテックスの『夜間飛行』と『戦う戦士』が入っていた。その中の「人間は絆の塊だ。人間には絆ばかりが重要なのだ」に青えんぴつの鉤カッコがついている。もう一つ、私にとって忘れられない文章がある。人生のいくつかの場面で私を支え続けてくれた。いや、もう少しごまかしてもいいようなときに、あの文章のために、他人には余計と見えた苦労をしたこともあったかもしれない。若い人たちのために引用してみる。「建築成った伽藍内の堂守や貸椅子係の職に就こうと考えるような人間は、既にその瞬間から敗北者であると。それに反して、何人にあれ、その胸中に建造すべき伽藍を抱いているものは、既に勝利者なのである。勝利は愛情の結実だ。…・知能は愛情に奉仕する場合にだけ役立つのである」(『遠い朝の本たち』)

第10章     『思想の坩堝』のなかで――2012年秋・名古屋、東京白金
カトリック学生連盟の活動を通じて2歳下の有吉佐和子を知り、お互いの境遇が似ていることもあって急速に親交を深める ⇒ 60年のローマ・オリンピックで朝日新聞の取材団の通訳をしていた須賀は、取材できていた有吉から、「通訳なんかしてないで翻訳をしなさいよ」とどやされ、有吉の紹介で原稿を持ち込むが取り上げてもらえなかった
聖心と慶應の学生の時代、日本に欧米から思想や文学、美術、映画等多彩な文化が入ってきて、思想の坩堝の中に須賀も有吉も投げ出されたはず。その中で選んだカトリック学生連盟の活動は、カトリック左派の思想が基盤となっていて、須賀がその後イタリアでコルシア書店の仲間と交わるようになる契機ともなっている
須賀の生涯の師 ⇒ 松本正夫。小泉信三の甥、田中耕太郎の妻の弟。カトリック信者。慶應大教授、哲学者。須賀は大学院時代、中世哲学を受講、松本邸に出入り。奇しくも2人は同日帰天

第11章     海の彼方へ――2012年冬・東京三田、兵庫県西宮市、神戸市
52.4. 慶應大学院社会学研究科の2期生として入学するが、1年で中退しパリに留学
入学後すぐにカトリック研究会に入り、松本の謦咳に接する
同年秋、父が家を出て2年経ったところで、須賀が仲立ちとなって2人を引き合わせ和解させる
政府保護留学制度の試験に合格して、53.7.神戸からフランスへ向かう


また、旅にでるために――あとがき
須賀敦子さんが亡くなって16年、全集刊行からも13
没後10年の命日に墓参した際、彼女に呼びかける言葉を失った自分がいて愕然とし、もう一度彼女の作品と生涯に向き合いたいという気持ちが湧いたのが本書の契機
須賀は若き日の自分を綴るとき、詩が好きだっただけに、文章にいくつもの隠喩を忍ばせながら読者に向け、読者が省察するよう語りかける。それをできる限り聴き取る必要がある
また、出会った風景や人たちを描くとき、花の香りや季節の変化、人物の癖や衣服などに目を注ぎ、その場の雰囲気と人物の個性を浮かび上がらせる。こうした細部への拘りは彼女ならではの視線
苦境であれば、かえってすべて基本からやり直す強い意志を持つ。その強靭さを描きたかった
いずれ須賀さんの足跡を辿る旅は再開するつもり



須賀敦子の方へ 松山巖著 痛切な悼みとともにたどる足跡 
日本経済新聞朝刊201410月5日
フォームの終わり
 『ミラノ 霧の風景』(199012月刊)以来、983月の死まで、7年余の「作家」活動にもかかわらず、死後もなお、少なからぬ愛読者をかかえる須賀敦子の足跡を、松山巖は敬愛する友人として、須賀ゆかりの人びとや場所をたずね、遺(のこ)された書簡や写真など資料にあたり、ゆっくり丁寧にたどりなおす。その歩みは、ときに痛切な悼みがもどかしさや苛立(いらだ)ちとなって、歩調を乱すほどに誠実でやさしい。
(新潮社・1800円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)カバー写真:1953年パリ留学を決めた須賀。出発前に親族が集まった会食の席、父から贈られた白いスーツ姿で。新大阪ホテルにて(当時最も格調高かったホテルの1つ。のち大阪グランドホテル、現在リーガロイヤルホテルと改称)
(新潮社・1800円 書籍の価格は税抜きで表記しています)
 ともすれば感傷として片づけられがちな、過去をめぐる須賀のことばに、「強靱(きょうじん)さ」や「意志の強さ」と同居する「陽気」と「無邪気」をあわせみることで、その背後に控える須賀の体験が丹念に描かれていく。
 須賀の父が薦めた鴎外の史伝『渋江抽斎(ちゅうさい)』をめぐる逸話からはじめて、53年7月2日、神戸港からパリ留学に船出する場面で閉じる本書には、須賀の生きた時代と景色が、松山の眼(め)をとおしてよみがえってくる。戦時期の苛酷(かこく)な時代を少女の眼をもって生き抜いた体験が、須賀の作品を位置づけるうえで不可欠であることも、抽斎4人目の妻五百(いお)とシモーヌ・ヴェイユ、ナタリア・ギンズブルグが、ともに「灯台のような存在」として、まだ「自分では言葉を持たない」須賀のなかで指標となることも、後年須賀がイタリアで夫とともにカトリック左派運動に参加する遠因が、52年日本におけるカトリック学生連盟との接触にもとめられるかもしれないことも――これらすべてを松山は、まさしく須賀から学んだ構成法であざやかに描きだす。
 その手法とは、「外面の流れ」とよばれる「テーマが縦糸」、「内面の流れ」とよばれる「友人や家族のなかで成長する過程」が「横糸」となって「物語が綴(つづ)られ」てゆくという、須賀が晩年『ユルスナールの靴』で明確に意識したものだと松山は指摘する。「小説とエッセイの境界」にあるとみなされる須賀の作品は、バフチンにならって小説の始原に遡れば、小説であると規定できるし、それが須賀自身の思いでもあったのではないかと推測する。そして作家須賀の転機を、「低くしかし、ひと声ずつ明瞭に自身の戦時戦後の体験と記憶を語りはじめた」『ヴェネツィアの宿』にみる。
 けれど「須賀の文体宣言」は、すでに『ミラノ 霧の風景』の冒頭「遠い霧の匂い」において読者に手渡されていた。「どの文章にも激しく辛い追悼の思いが込められている」――この指摘が本書(そして遠からず再開される松山の旅)の起点であり終着点なのだから。
(東京外国語大学教授 和田 忠彦)


Wikipedia
須賀 敦子(すが あつこ、192921 - 1998320)は、日本随筆家イタリア文学者。 従兄弟には、考古学者で同志社大学名誉教授の森浩一がいる。 20代後半から30代が終わるまでイタリアで過ごし、40代はいわゆる専業非常勤講師として過ごす。50代以降、イタリア文学の翻訳者として脚光を浴び、50代後半からは随筆家としても注目を浴びた。

経歴[編集]

大手の水道工事業者、須賀工業経営者の家に生まれる。カトリック系の学校に通い、後にカトリックに入信。教会での活動に打ち込みながら聖心女子大学で学んだ後、自分の進路を決めかねていたが、1年後慶應義塾大学、社会学部の修士課程に進学。フランスの神学にあこがれてパリ大に留学するために慶應を中退するも、パリの雰囲気が肌に合わず、次第にイタリアに惹かれるようになる。1954年の夏休みにはペルージャでイタリア語を学び、イタリアへの傾倒を決定的なものとする。26歳の時に一旦日本に戻るが、29歳の時に奨学金を得てローマに渡る。この頃からミラノのコルシア書店関係の人脈に接するようになる。
1960年、後に夫となるジュゼッペ・リッカ(ペッピーノ)と知り合う。この年の9月にはペッピーノと婚約し、翌年11月にウディネの教会で結婚。ミラノに居を構え、ペッピーノとともに日本文学のイタリア語訳に取り組む。しかし1967年にはペッピーノが急逝。1971年にはミラノの家を引き払って日本に帰国する。
帰国後は慶大の嘱託の事務員を務めながら上智大学などで語学の非常勤講師を務める。専業非常勤講師の状況は1979年、50歳になるまで続く。1979年に上智大学専任講師、1981年に慶大にて博士号取得。1985年、日本オリベッティ社の広報誌にてイタリア経験を題材としたエッセイを執筆。以降はエッセイストとしても知られる存在となっていく。1997年に卵巣腫瘍の手術。翌年3月死去。

家族[編集]

·         父親 須賀豊治郎 日本の近代的な上下水道を事業化した須賀工業の須賀家を継いだ。文学的素養があり、敦子は影響を受けた。
·         母親 万寿 実家は豊後竹田の武士であったが、大阪に出てきた。
·         叔父 藤七、栄一、保 
·         夫 ペッピーノ
·         妹 良子
·         弟 新(あらた)

年譜[編集]

·         兵庫県芦屋市生まれ(出産病院は大阪市)、西宮・東京で育つ。東京では俳人原石鼎の隣家に住んだ。小林聖心女子学院(途中で数年聖心女子学院に通う)を卒業後、聖心女子大学に進学。
·         1951聖心女子大学第一期生として文学部英文科を卒業(同大第一期生には中村貞子=緒方貞子、後輩に正田美智子=皇后美智子がいた)。卒論代りにウィラ・キャザーを翻訳。
·         1953慶應義塾大学大学院社会学研究科中退。政府援助留学生としてパリ大学2年間学ぶ。
·         1955NHKフランス語班常勤嘱託。
·         1956光塩女子学院英語講師。翻訳活動開始。
·         1958ローマ、レジムンディ大学聴講生。
·         1960ミラノ、コルシア書店勤務。個人誌「どんぐりのたわごと」創刊。
·         1964年 夫ジュゼッペ・リッカと協力して、夏目漱石森鷗外樋口一葉泉鏡花谷崎潤一郎川端康成中島敦安部公房井上靖庄野潤三などをイタリア語訳。
·         1971慶應義塾大学国際センター事務嘱託およびNHKイタリア語班嘱託。
·         1972、慶應義塾大学外国語学校イタリア語講師。
·         1973上智大学比較文化学科および大学院現代日本文学科非常勤講師。以後、京都大学イタリア文学科・聖心女子大学英文科・東京大学イタリア文学科・文化学院でも現代イタリア文学などを講じる。
·         1981、「ウンガレッティの詩法の研究」で文学博士
·         1982、上智大学外国語学部助教授(のち比較文化学部日本語日本文化学科教授)。以後カルヴィーノアントニオ・タブッキウンベルト・サバなどを日本語訳。
·         1989ナタリア・ギンズブルグ『マンゾーニ家の人々』翻訳でピコ・デラ・ミランドラ賞。選考委員は加藤周都留重人芦原義信
·         1991、『ミラノ 霧の風景』で女流文学賞山田詠美『トラッシュ』と同時受賞)。選考委員は瀬戸内寂聴田辺聖子阿川弘之大庭みな子佐伯彰一。また講談社エッセイ賞も受賞(伊藤礼『狸ビール』と同時受賞)。選考委員は丸谷才一井上ひさし大岡信山口瞳
·         1994、地中海学会賞。
·         1998、心不全により69歳で死去。

主な作品[編集]

·         『ミラノ 霧の風景』(白水Uブックス
·         『コルシア書店の仲間たち』(文春文庫・白水Uブックス)
·         『ヴェネツィアの宿』(文春文庫・白水Uブックス) ISBN 978-4163479705
·         『トリエステの坂道』(新潮文庫・白水Uブックス)
·         ユルスナールの靴』[2]河出文庫・白水Uブックス)
·         『本に読まれて』(中公文庫
·         『遠い朝の本たち』(ちくま文庫
·         『地図のない道』(新潮文庫
·         『時のかけらたち』(青土社
·         『イタリアの詩人たち』(青土社)
·         『こころの旅』(角川春樹事務所
·         『霧のむこうに住みたい』(河出書房新社
·         『塩一トンの読書』(河出書房新社)

全集[編集]

·         『須賀敦子全集』 全8+別巻、河出書房新社、2000年~2001年 
·         河出文庫でも刊行(2006年~2008年)、但し別巻は未刊。
1.  ミラノ霧の風景、コルシア書店の仲間たち、旅のあいまに
2.  ヴェネツィアの宿、トリエステの坂道/エッセイ19571992
3.  ユルスナールの靴、時のかけらたち、地図のない道/エッセイ・19931996
4.  遠い朝の本たち 本に読まれて 書評・映画評集成
5.  イタリアの詩人たち、ウンベルト・サバ詩集ほか
6.  イタリア文学論 翻訳書あとがき
7.  どんぐりのたわごと 日記
8.  書簡 年譜 ノート・未定稿 初期エッセイほか
9.  別巻、対談・鼎談(199298年)

翻訳書(日本語訳)[編集]

·         インド夜想曲 アントニオ・タブッキ著(白水社
·         遠い水平線 アントニオ・タブッキ著(白水社
·         逆さまゲーム アントニオ・タブッキ著(白水社
·         供述によるとペレイラは…… アントニオ・タブッキ著(白水社
·         島とクジラと女をめぐる断片 アントニオ・タブッキ著(青土社
·         ある家族の会話 ナタリア・ギンズブルグ著(白水社
·         マンゾーニ家の人々 ナタリア・ギンズブルグ著(白水社
·         モンテ・フェルモの丘の家 ナタリア・ギンズブルグ著(筑摩書房河出書房新社
·         なぜ古典を読むのか イタロ・カルヴィーノ著(みすず書房、河出書房新社)
·         ウンベルト・サバ詩集(みすず書房

関連書籍[編集]

·         KAWADE夢ムック 追悼特集 須賀敦子 霧のむこうに』 河出書房新社1998
·         KAWADE夢ムック 須賀敦子 ふたたび』河出書房新社、2014
·         大竹昭子『須賀敦子のヴェネツィア』 河出書房新社、2001
·         大竹昭子『須賀敦子のミラノ』 河出書房新社、2001
·         大竹昭子『須賀敦子のローマ』 河出書房新社、2002
·         岡本太郎『須賀敦子のトリエステと記憶の町』 河出書房新社、2002
·         岡本太郎『須賀敦子のアッシジと丘の町』 河出書房新社、2003
·         稲葉由紀子『須賀敦子のフランス』 河出書房新社、2003
·         神谷光信『須賀敦子と9人のレリギオ カトリシズムと昭和の精神史』 日外アソシエーツ2007
·         季刊誌 考える人 2009年冬号 書かれなかった須賀敦子の本』 新潮社2009
·         『須賀敦子が歩いた道 とんぼの本』 芸術新潮編集部編、新潮社、2009
·         湯川豊『須賀敦子を読む』 新潮社、2009年、読売文学賞受賞
·         『須賀敦子 静かなる魂の旅』 河出書房新社、2010年(BS朝日放送のドキュメンタリー3部作を再編集したDVDブック)
·         三田文学 2014年冬季号(No.116) 特集-須賀敦子』 慶應義塾大学出版会2014
·         松山巖 『須賀敦子の方へ』 新潮社、2014年 ISBN 978-4-10-370002-9

関連番組[編集]

·         『イタリアへ須賀敦子 静かなる魂の旅 第1話 トリエステの坂道』(初回放送 2006115日、BS朝日テレビマンユニオン
·         『イタリアへ須賀敦子 静かなる魂の旅 第2話 アッシジのほとりに』(初回放送 20071118日、BS朝日、テレビマンユニオン)
·         『イタリアへ須賀敦子 静かなる魂の旅 最終話 ローマとナポリの果てに』(初回放送 20081115日、BS朝日、テレビマンユニオン)
·         ETV特集『須賀敦子 霧のイタリア追想 ~自由と孤独を生きた作家~』(初回放送 20091018日、NHK教育

脚注[編集]

1.  ^ 松山[2014:119に家族の写真がある]
2.  ^ 「きっちり足に会った靴さえあれば、じぶんはどこまでも歩いていけるはずだ」という有名な文で始まる作品。


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