ベルリン危機1961  Frederick Kempe  2014.11.20.

2014.11.20. ベルリン危機1961 上・下 ケネディとフルシチョフの冷戦
Berlin 1961: Kennedy, Khrushchev, and Most Dangerous Place on Earth             2011

著者 Frederick Kempe ソ連占領下となったドイツからアメリカに移住してきたドイツ人の両親のもとに1954年ユタ州で生まれる。06年より、外交政策シンクタンク「アトランティック・カウンシル」の会長兼CEO。それまで30年近く『ウォール・ストリート・ジャーナル』で記者、ベルリン支局長、コラムニスト、エディターとして活躍。89年ベルリンの壁崩壊を特派員として目撃

訳 宮下嶺夫 1934年京都市生まれ。慶大文卒

発行日           2014.6.10. 印刷               6.30.発行
発行所           白水社

序言             ブレント・スコウクロフト
61のベルリン危機は、62年のキューバ・ミサイル危機以上に、45年の大戦終結から91年のドイツ統一、ソ連解体までの時代を形作るうえで、より決定的だった
ベルリンの壁構築こそが、冷戦を深刻化し、その後30年もの相互敵視を生み、我々を独特の習癖、行動様式、疑念の中に閉じ込めた
ベルリンは、冷戦時代の最悪の瞬間であり、壁が作られた後、ソ連とアメリカの戦車が砲口を向け合った時は、ミサイル危機よりも一層危険な状態だった。キューバの場合、発生して数日の時点で、ロシア側は実際には我々を瀬戸際まで追い詰めないだろうという極めて明確な兆候があったが、ベルリン危機にはそういう感覚はなかった
本書は、あの時期を真に理解するうえで決定的な貢献をしている
当時の両者の動きに疑問を投げかける
1つは、アメリカ大統領のリーダーシップについて。ケネディは、戦争よりは壁がましだと言ったが、2つ以外に選択肢はなかったのか
もう1つは、決定的時期において、相手国指導者の行動を規定している相手国内部の諸事情をもっと明確に理解していたら、より良い結果を生み出していたかもしれない
これ等設問の提起は、過去を理解するうえでも未来を展望する上でも適切なことであり、オバマの第1期においても特別にタイムリーなヒントや警告が含まれている。それは、オバマもケネディ同様、敵対者により巧みに対応することを目指す対外政策を掲げて、一見手に負えない紛争の下に潜むものをより信頼し得るものとして理解することこそ、紛争をよりよく解決する道であるという信念を持ってホワイトハウスの主となった人物だから
当時、フルシチョフのスターリン主義との決別が我々に雪解けの最初の可能性をもたらしたかもしれないまさにその時に、あの一連の出来事が、冷戦を、極限の凍結状態に戻してしまったことだけは、議論の余地がない


序章 世界で最も危険な場所
1961.10.27. 21:00pm チェックポイント・チャーリーを挟んで、米軍のM48パットン戦車10両とソ連軍のT54戦車10両が至近距離で対峙
その2か月半前の813日、東ドイツ軍と警察がソ連の支援を受けて、有刺鉄線や警備詰所からなる最初の一時的な障壁を作り上げ、それが西ベルリンの周囲110マイルに張り巡らされようとしていた
ケネディは、1916年以来最も僅かな票差で対ソで劣後を許した共和党アイゼンハワー政権を破り、「アメリカを再び動かそう」と言うスローガンを掲げて年初から世界の舞台に登場。アメリカ史上最も若い43歳の大統領は、アジソン病によるアドレナリン不足と戦傷によって悪化したときに耐え難いほどの腰痛に悩まされていた
就任直後から、ビッグズ湾侵攻事件、ウィーン首脳会談でフルシチョフに出し抜かれるなど、いくつかの自損的失策によって傷つく
フルシチョフは、ケネディとは正反対の生い立ち、経歴を持ち、スターリン死後はそのやり方を否定、改革への意欲と西側との関係改善の意欲を持つ一方、権威主義、対決主義の習性を持ちながら、西側との平和的な共存と競争を通してこそソ連の利益は最もよく増進できるというのが彼の確信
終戦以降、東ドイツからの脱出は3百万に達し、東ドイツ国家の最も有能で活動的な人々が失われていた。同時に、フルシチョフは11月の党大会を控え、ベルリン問題に決着をつけなければ政治的に失脚する恐れが大きかった
ケネディ、フルシチョフ双方のドイツ人立役者たちの闘争も好対照 ⇒ ウルブリヒト率いる東ドイツは破綻しつつある人口17百万の国家、一方のアデナウアーは急速に台頭しつつある60百万の経済大国
ウルブリヒトにとって、61年は国の存亡をかけた死活的重要性を持つ年
アデナウアーにとっては、85歳の年齢とともに、左派勢力の代表である西ベルリン市長ブラントとの戦いが喫緊の課題であり、ケネディにはソ連と渡り合う度胸と気骨が欠けているとの懸念を持っていた。ケネディも前任者たちが過度に信頼してきたとしてアデナウアーを敬遠しようとした
1部は、これら4人の主演者を紹介
2部は、危機の進行状況の描写
3部は、8月の夜間国境閉鎖作戦と劇的余波を引き起こしたワシントンの優柔不断とモスクワの果断を叙述

第1部        主演者たち
第1章        フルシチョフ――せっかちな共産主義者
60年初頭のフルシチョフは、国内問題では2年連続の農業生産の減少に苦しめられ、対外政策では西側との平和共存方針が、ソ連のロケット弾によるアメリカのスパイ機撃墜で頓挫、最大の懸念は2つに分割されたベルリンの悪化しつつある状況
フルシチョフは、現米政権を嫌うとともに、次期共和党候補のニクソンの反共主義を警戒、撃墜されたスパイ機の乗員の解放要求を拒否することで大統領選ではケネディに味方していると言っていた

第2章        フルシチョフ――ベルリン危機の展開
58.11. フルシチョフは、アメリカの核兵器独占を克服した勢いで、ベルリンの西側部分の完全解体と中立化、すべての軍隊の撤退を宣言して、西側を挑発
59.9. フルシチョフのアメリカ訪問 ⇒ まだ実験段階にあったワシントンにノンストップで到達できる唯一のツポレフ機で飛ぶ。アイスランドからニューヨークまで飛行ルートに沿ってソ連の船が並び、万一に備えた。会談場所キャンプ・デーヴィッドへの招待が特別な栄誉であることを知らずに政治犯収容所的なところだと誤解し躊躇った。ベルリン問題と軍縮を議題にパリ4か国首脳会談に合意
60.5. ソ連の地対空ミサイルが米スパイ機を撃墜 ⇒ 米ソ両国の雪解け気分は終焉
アメリカは隠蔽しようとしたが、フルシチョフは墜落と乗員生存の事実を発表
60.9. フルシチョフは、国連総会出席のためアメリカを再訪するが、アメリカの受け入れ姿勢は打って変って冷淡、フィリピン代表がソ連は東欧を併合し諸国民から自由を奪ったと非難の演説をしたことに抗議して、片方の靴を脱いでテーブルを叩くという、国連史上未曽有の行為をやってのけた
60.11. 史上最大規模の共産党大会 ⇒ 世界18か国の党代表を招集、毛沢東が公然とフルシチョフの対米平和共存路線を批判。フルシチョフも54年初の訪中以来毛沢東を毛嫌いし、半年前には両者の不仲が決定的なものになっていたが、フルシチョフが力づくで毛沢東を抑え込んでいた
東ドイツのウルブリヒトも、公然とフルシチョフの宥和策に反抗、西ドイツに信任状を出す西側外交官に対し、東ベルリンに入る際には東ドイツの許可を求めるよう要求、2人の男の間の緊張は高まるばかり

第3章        ケネディ――大統領の教育
アイゼンハワーは、ケネディへの核兵器委譲を懸念
ケンディは、戦争英雄として勲章を授与されてはいるが、11人の乗組員の命を救ったという理由は、不明確な状況の中で彼のPT109が日本の駆逐艦に衝突された後でのことで、アイゼンハワーの軍人仲間は「夜の闇、戦場の霧」式説明には納得せず、むしろケネディに、軍による取り調べは免れたものの、過失があったのではないかとみていた
父親の財力と飽くなき野心が無かったら若いケネディが大統領選を勝ち取ることができたかどうか怪しいものだと思っていた ⇒ 父親はケネディの武勇伝を『ニューヨーカー』誌他に書かせ、息子の政治的キャリアを高めるのに貢献したが、叙勲の2か月後には長男が実験的なハイリスクの爆撃任務遂行中に戦死
60.12.政権移行のための最初の会談以降、アイゼンハワーはケネディに対する見方を修正、一方ケネディは前政権を無為に時を過ごしただけと評価、尊敬するリンカーンとフランクリン・ルーズヴェルト同様、自分も必ず大きな成果を上げてみせると意気込んでいた
大統領選の結果が、50%足らずの得票率で1886年以来の僅差によるものだったことに戸惑い、議会内支持基盤も強くなく(両院過半数を確保していたが、上院で1議席、下院で20議席を失っていた)、最も多く議席を得た南部民主党は対ソ強硬路線を主張、さらには彼の過去についてのマイナス情報のリークを防ぐために、アイゼンハワーの下でのCIAFBIの両長官を留任させるというあまり前例のない決定も行っていた
ケネディもフルシチョフも、国内の状況に押されて、協調よりも対決へと進まざるを得なくなっていた
ケネディは、ホワイトハウスに入る前から、現職大統領としてベルリンを扱う現実と、上院議員としてまた大統領候補として彼が用いたタカ派的レトリックとは別次元のものであることを学びつつあった
就任式当日、世界中から寄せられた祝電の山の上に、モスクワからの就任祝いの贈物が置かれていたことを知るが、それこそ彼の在任中に米ソ関係におけるフルシチョフの最初の先手だった ⇒ しかるべき条件が整えば、偵察機の2名の飛行士を解放する、というもので、意識的にベルリン問題を避けようとしていたケネディをベルリンを巡る米ソ策謀の世界にいざなうことになり、その経験の中で、彼は外見上の勝利もしばしば恐るべき危険を隠していることを急速に学んでいく

第4章        ケネディ――最初の過ち
飛行士の解放提案に加え、フルシチョフは、『プラウダ』と『イズヴェスチヤ』の両紙にケネディの就任演説の全文を修正なしに全文掲載を指示したほか、いくつもの対米規制の緩和を公表
ケネディも、最初こそ積極的シグナルでもって対応したが、フルシチョフの年頭の党内向け秘密演説を両国の冷戦と第三世界が革命に立ち上がることを煽るものとの誤った解釈から、和解のジェスチャーの全てを無価値で信用のおけないものと見做すようになってしまった ⇒ 就任演説から10日後に出された一般教書演説では、一転して国防戦略全体の再検討を指示、フルシチョフにとってはその後相次いで受けた侮辱の最初のものとなる
次なる侮辱は、米国初の大陸間弾道ミサイルICBMの発射実験のニュースであり、加えて国防長官がソ連のミサイル優越性拡大を「愚かなこと」と一蹴
新大統領がモスクワに対する態度を確定する前に会いたいというフルシチョフの願望と要請は踏みにじられ、2人の最初の会談の前にすでに関係をこじれさせていた
その後、ケネディは初めて上級のソ連専門家を招集したが、順序が完全に逆。駐ソ大使のトンプソンは、冷戦の緊張を緩和しようとするスターリン後のソ連側の努力を理解しなかった前政権を批判し、新政権は共産主義と闘う為のより良い非軍事的手法を考え出さなければならないと訴えていたが、ケネディはトルーマン政権の国務長官だった超タカ派のアチソンを引退生活から引き戻す
ケネディは、自ら直接印象を掴むためにフルシチョフとの非公式会談を希望したが、その書簡が届く前にフルシチョフは、侮辱への怒りをこめて「侵略者を地上から一掃するに必要なだけの原爆、水爆を保有している」と演説

第5章        ウルブリヒトとアデナウアー――厄介な同盟者たち
相対立する2つのドイツのそれぞれの建国の父とされる両者は、それぞれに自分の運命を左右している男を基本的に信用していなかった
67歳のウルブリヒトは、冷たく内向的、独自の厳格なスターリン主義を追求、揺るぎない人間不信が彼の指導の特徴であり、フルシチョフのことを対米宥和策によって東ドイツを直接的な危険に晒したとして見下していた。ドイツにとっての第2次大戦の教訓は、国民が選択の自由を与えられたが故にファシストになったというもので、2度と再び同胞に自由意志の類を許してはならないと決意、ヒトラーのゲシュタポ以上に精緻で強力な秘密警察組織によって監視させ、抑圧システムの内側に閉じ込めた共産国家の創設こそが生涯の目的だった
85歳のアデナウアーは、エキセントリックで抜け目なくドイツのカオス的段階の全てを生き抜いてきた老練な政治家。ケネディが前任者たちの持っていた物事を歴史的文脈において捉える態度や政策的経験、ソ連に立ち向かう気骨などを欠いているのが気懸り。ドイツをNATOとヨーロッパ共同市場を通してアメリカと西側に分かちがたく結びつけることによって西側の至る所にわだかまるドイツに対する不信感を除き西側との一体化を実現するため、9月の選挙で首相4期目を目指していた
スターリンは、現在の東ドイツのような半端な国家よりは、むしろソ連圏外であっても、アメリカの軍事的抱擁の外側に存在する、国家的資源を丸ごと所有した統一ドイツを望んでいたが、ウルブリヒトは独自のスターリン主義的な東ドイツを建設しようと奮闘。自らの国家建設にスターリン以上に真剣であったのと同様、自らの創造物を守るのにフルシチョフ以上に真剣であり、自己防衛体制を固めてフルシチョフに立ち向かった
アデナウアーは、ケネディの性的奔放さ、私行の乱脈ぶりに眉をひそめる一方、ケネディが自分に少しの敬意も持っていないことを知っていた。
ドイツ再統一の唯一安全な道は、米ソ緊張緩和を達成し、ヨーロッパの再統合を通して、西側共同体の一部としてのものでなければならないと信じ、スターリンからの「ドイツ再統一、中立化、非武装化、非ナチ化ののち全占領軍撤退」との申し出を一蹴。アイゼンハワーはアデナウアーを、西側がソ連共産主義を封じ込めるに際しての哲学と手段の双方を提供してくれた人として世紀の偉人の1人と称讃

第6章        ウルブリヒトとアデナウアー――尻尾が熊を揺らす
ウルブリヒトは、フルシチョフに対する外交圧力を強める傍ら、中国にも独自で接近
アデナウアーも、外相をワシントンに送って、コンゴ、ラオス、ラテンアメリカにおける最近のアメリカの後退が、ソ連がベルリンに関してケネディの決意のほどを試す機会を増大させていると警告
フルシチョフも、アデナウアーに対し、来たるべき選挙で反共産主義キャンペーンに重点を置くとの話を牽制

第2部        募りくる嵐
第7章        フルシチョフの春
フルシチョフは国内各地の農場視察旅行で、醜悪な真実を体験し、無能な役人たちに憤激
59年の訪米で、アメリカ中心部の経済的・農業的基準を目の当たりにして、それと肩を並べるよう地方の共産党にも要求したが、逆にソ連の農業は衰退しつつあった
自らシベリアに世界有数の科学研究センターを創設するという夢も実現とは程遠かった
兵力削減を巡っては、軍首脳連中とは冷ややかな関係になっていた
駐ソ米大使トンプソンは、フルシチョフと会ってケネディからの会談要請の手紙を渡しながら、フルシチョフのベルリン問題への強いこだわりを感じ、「ソ連がベルリン問題を現状のままにしておくと予想される場合でも、我あれが棹証言しておかなくてはならないのは、ベルリンを通しての難民の流出を止めるために、東ドイツが地区の境界を閉鎖することになるかもしれないということだ」と、ワシントンに警告を発し、ベルリンの壁を予想した最初のアメリカ外交官となった
ケネディ政権内では、アチソンの強硬論に国防長官も肩入れして力を増す

第8章        アマチュアの時間
61.3. ケネディは、CIAによって訓練されたキューバ亡命者によるカストロ政権転覆計画にGOサインを出す ⇒ 宇宙飛行成功の1週間後にビッグズ湾で上陸に失敗
61.4. ソ連のガガーリンが世界初の108分の有人宇宙飛行に成功
アチソンは、外交官研修所で若手外交官を前に、キューバでの失敗を「アマチュアの不手際」と酷評、以後ケネディとの直接面談の機会は急減
フルシチョフは、ケネディがキューバで行動に出ることを前もって察知していたが、これほどまでの不手際は予想できなかった。たまたま失敗した日はフルシチョフの誕生日

第9章        危険な外交
フルシチョフは、この優位な状況を活用しようと、首脳会談に積極的

第10章     ウィーン――ちびっこ、アル・カポネに会う
61.5. ケネディ夫妻パリ訪問 ⇒ ドゴールを魅了したのはジャクリーンのソルボンヌ仕込みの教養と流暢なフランス語
61.6. ウィーンのアメリカ大使公邸で米ソ首脳会談開催 ⇒ 初日の議論は両国関係全般と軍縮問題、2日目は場所をソ連大使公邸に移してベルリン問題
ケネディが、事前の忠告を無視してイデオロギー問題を議論し始めたため、フルシチョフの一方的な反論に立ち往生

第11章     ウィーン――戦争の脅し
ベルリンについては、フルシチョフは「2つの国家が存在する現実からスタートし、東ドイツとの平和条約締結」を主張したのに対し、ケネディは「アメリカが15年もベルリンにいるという事実」を認めさせようとして平行線
ソ連は、東ドイツとの平和条約締結後、ベルリンへのアクセスを巡る東ドイツの主権を侵害する行為に対しては断固たる態度をとると主張、外交交渉では前代未聞の「戦争」という言葉を3回も使って、アメリカが戦争に訴えたければどうぞと言い放つ
アメリカは、お互い他の領域に手を出すことを控えるべきとし、米ソ両国関係の全体的改善を求める ⇒ ケネディは最後の乾杯の挨拶でも、「お互いが賢明であってお互いの領域に留まっていさえすれば、公平な解決策は見いだせる」と強調
会談の結果は、ソ連が一方的に6か月以内の平和条約の締結を主張して終了
ケネディは、帰路ロンドンに立ち寄り、西ベルリンでの西側権益の共同防御について合意

第12章     怒りの夏
ウィーン会議の結果を踏まえ、ウルブリヒトは平和条約締結後は、西ベルリンが「自由都市」となり、ドイツ人の東西間通行がより厳しく規制されると宣言したが、毎日25万人も境界線を越えて行き来するのをどうやって規制するかとの記者の質問に、自ら「壁を造るなど考えていない」と勇み足、初めて公の場で「壁」に言及 ⇒ 翌日、1日の記録としては4770人という最多数の難民流出が起こり、さらにフルシチョフを約束の実行へと追い詰める
ケネディは、帰国後早々に「ベルリン・タスク・フォース」を立ち上げ ⇒ アチソンの強硬論が政権を具体的な軍事行動へと追い詰めていく
フルシチョフは、東ドイツからの大量脱出を止め、経済的崩壊を救うためには平和条約締結よりも東西ベルリンの「穴を塞ぐ」ほうが急務と考えたが、境界線といっても大雑把なものでしかなく、ベルリンの詳細な地図を要求するとともに、4か国の境界線を明確にして、各区域で管理することが可能か検討
1年前に内燃機関産業を中心に復興著しいシュトゥットガルトに亡命していたマルレーネ・シュミット(24)がミス・ドイツからミス・ユニバースに。『タイム』誌は、これほどの美人の亡命を見逃した共産側の不手際を揶揄。ウルブリヒトは、一層の締め付けと脱出者への甘い帰国勧誘で対応しようとしたが、難民の数はエスカレートするばかりで、遂に1か月後には難民の脱出口の閉鎖へと動く

第3部        対決
第13章     「大いなる試練の場」
後年、フルシチョフはベルリンの壁建設の決定を自分一人の手柄にしているが、実際にはウルブリヒトに青信号を与えただけ
ケネディ政権でアチソンの強硬論に反論したのが特別補佐官のシュレジンジャー、法学者のチェイズと政治学者のキッシンジャーの助力を得て、より広範な立場からベルリン問題への解決策を提案
バイエルン生まれで、ナチの迫害を恐れて38年にアメリカに亡命してきたキッシンジャーは、ハーヴァードで教鞭を執る傍ら、政権のコンサルタントとしてケネディのベルリンについての関心の不足とそれゆえのナイーブさを懸念、断固たる態度を示すことこそ最重要課題と進言したが、助言が聞き入れられそうにないことを知って10月には辞任
61.7. ケネディは、ホワイトハウスから初のテレビ演説を行い、核戦争の回避を訴えるとともに、ベルリン問題に対し圧力を加え続けるフルシチョフに対し、西ベルリンを守るための断固たる対応策をとることを明言 ⇒ 西ベルリンを守ることは出来ても、東が自らの地域を塞いでしまうことまでは阻止できないと考えていた
フルシチョフは、ウルブリヒトに閉鎖のGOサインを出すとともに、ワルシャワ条約機構の加盟国に対し、閉鎖に対する西側の経済制裁等の措置に対抗するための協力を求める
圧倒的な西ドイツの物質的優位を前にして難民の流出を抑え東ドイツの崩壊を食い止めるためには封じ込めるしか選択肢はなかった

第14章     壁――罠を張る
61.8.13. 「バラ作戦」実行 ⇒ 作戦担当は党中央委員会の保安責任者だったホーネッカー。西ベルリンの周囲96マイル(ベルリン市内27マイル+東ドイツ農村部と西ベルリンの境界69マイル)を固めるための有刺鉄線を用意、陸軍と警察の総力を挙げて、防衛戦に人を配置して障碍物の建設を支援、夜明けまでにすべての交通を遮断
アデナウアー政権に、ウルブリヒトが近々ベルリン中央部を封鎖することを企てているとの情報が入ったものの、境界の閉鎖は不可能として無視された
東ベルリンに唯一支局を認められたロイターに、午前1時過ぎにワルシャワ条約機構加盟諸国から、西ベルリン全領域の周囲に確実な保護手段と効果的管理を構築する、との声明が届き、慌てて至急報を打電
東西ベルリン間の境界を越えて延びる通りが193あり、これまでなんら境界を示すものは設置されていなかったが、午前1時を期して東側によってバリケードが築かれたが、西側でそれを目撃したものはほとんどいなかった
目撃した場合でも、事態を正確に把握するのに時間を要し、国務長官に最初の詳報が届いたのは閉鎖開始から10時間後
朝になって異変に気付いた西ベルリン市民は、東側守備隊に向かって投石したり毒舌を吐いたりしていたが、やがて不満の矛先を、そのような事態から守ってくれなかった米軍へと向ける

第15章     壁――絶望の日々
東ベルリンに住む5万人の越境通勤者にとっては悪夢 ⇒ 仕事を失い、家族と引き離される
24日になって、境界の川を泳いで渡ろうとした男が東ドイツ警官によって射殺され、最初の犠牲者となる
東ドイツは、境界の壁をさらに強固で永続的なものに置き換えていく ⇒ 実際の壁の建設は、西側の反対に遭わないと共産側が確信した13日以降に徐々に進められていく
東ドイツの守備隊の中にも脱走を企てる者がいて、バリケードを築きながら仲間の隙をついて西側に逃亡したが、その後離れ離れになった家族との緊張関係に悩み続け、抑鬱症から自殺に追い込まれたものもいた
1か月後の西ドイツ首相選を控え、アデナウアーは政治的影響を恐れてベルリンを訪問せず、他方ブラントは社会民主党をより国民に受け入れられやすい政治的中道路線に舵を切るとともに、ベルリン市庁舎前の25万の市民に対し、市民の苦悩を共有するとともに東の友人救出のために立ち上がろうと呼びかけ、さらにケネディに政治的行動を起こすよう書簡を送ったことを明らかにして、喝采を浴びる
ケネディも、断固たる態度をとることの必要性を痛感し、ジョンソンとクレイ将軍をベルリンに派遣するとともに、駐留兵員の増強を発表 ⇒ 西ベルリン市民はジョンソンを熱狂的に歓迎
ウルブリヒトは、壁の両側に、後に「死のベルト地帯」として知られることになる、100m幅の緩衝地帯を設け、そこに迷い込んだ西ベルリン市民は銃撃の対象となると宣言、同時に西側の人々が用いることのできる通行ポイントを7つからチェックポイント・チャーリー1カ所に限定
難民の流出はほぼ完全に停止

第16章     帰ってきた英雄
クレイ将軍がケネディの「個人的代表」に任命されてベルリンに派遣されたのは閉鎖から1か月余り後のこと。クレイは1948年当時アメリカ占領地区の軍政長官で、新たな戦争のリスクを冒すとした周囲の猛反対を押し切って、イギリスとともにベルリン空輸作戦を強行したドイツ国民の英雄で、ドイツ国民を餓死するか共産主義の支配下に入るかの選択から救った
共和党の英雄でもあったクレイの任命は、ケネディにとっては政敵からの攻撃を回避しようとする政治的意図からだったが、ケネディへの国民の支持は一貫して70%を超えで続き、それと同程度の支持を得たのはパールハーバー後のフランクリン・ルーズヴェルトとルーズヴェルトの死の直後のトルーマンだけ、しかもそれは長くは維持されなかった
9月の西ドイツ首相の選挙で、アデナウアーは勝ったものの単独過半数を失い、境界封鎖がドイツ政治を再編し、アデナウアーは2度と完全には回復しなかった ⇒ 63年辞任、ブラントは69年戦後初の社会民主党出身の首相となる
9月 ケネディが国連で初の演説 ⇒ 核戦争の脅威を強調し、「全面的かつ完全な軍縮」を呼びかける名演説を行い、フルシチョフからの私的ルートを使った個別会談の要請に公式に応える

第17章     核のポーカー
フルシチョフとケネディの間に私的な文書のやりとりが始まり、フルシチョフも最大限アメリカの意に沿うよう、対米強硬路線を抑えつつあり、戦争の脅迫を繰り返すことはなくなり、西ベルリンの独立性を維持すると約束
61.10. 第22回ソ連共産党大会 ⇒ 西側のベルリン問題解決への意向を忖度して年末までに東ドイツとの平和条約を調印するという約束を取り下げる一方、月末までに新たな水素爆弾の実験を終えると明言
ケネディはこれに応えて、自らの核兵器情報の一部を公表することによって米側の核優位性を分からせ、フルシチョフの虚仮脅しを暴く挙に出ることを決意

第18章     チェックポイント・チャーリーの対決
ウルブリヒトは、フルシチョフの条約締結延期に憤慨、ソ連の指示に反して独自で国境の検問を強化し、西側からの通行にバリアを築く。一方、クレイは戦争勃発を極度に警戒する駐留米軍とは別個に独自でバリア突破へと駒を動かし始める
61.10.22. 西ベルリン駐在米国大使館のトップ公使夫妻が東の劇場に向かった際、検問所で身分証明書の提示を拒否、通行を阻む東側警備陣に対し、クレイは軍隊を仕向け、大使館員の乗った車を護衛して東ベルリンに侵入 ⇒ 駆けつけたソ連の係官が東の警備体制の過ちを陳謝する一方、ソ連ゾーンへの米軍武装兵士の侵入について抗議。翌日、東ドイツ政府は、ベルリンに入る際には、制服を着用した西側同盟国軍人以外の全ての外国人に身分証明書提出を義務付ける法令を発する
ケネディは、フルシチョフとの対話に向けて同盟諸国の賛同を得ようとするが、特に独仏はケネディの対応を生ぬるいと非難
22日の騒動以降、米軍の戦車10両が、米側文民公務員の車を護衛して東ベルリンに送り込むため、定期的にチェックポイント・チャーリーに集結、5日後にはソ連軍もそれに呼応して10両の戦車を僅か100mを隔てて対峙させる ⇒ 特に米軍側の前線は、壁建設を黙認した後悔から、一触即発の意気込みが強かった
ソ連の出方を見て、米側も態度を軟化、制服以外の文民による東ベルリン訪問を自粛、ソ連も1日で戦車を撤収 ⇒ ケネディとフルシチョフの間の非公式な連絡ルートを通じたやりとりが奏功。1つはロバート・ケネディとソ連スパイとの接触、もう1つはトンプソン駐ソ大使経由のルート
冷戦中の最も危険な瞬間が呆気なく過ぎ去ったが、この危機の余波は、劇的で長期的なものになる ⇒ 1年後にはキューバ危機となって世界を震撼させ、その後30年に亘り世界の情勢を衝き動かし続ける

エピローグ――余波
壁建設黙認という不手際を選択したケネディのもたらしたリスクは、1年後の同時刻に2つの象徴的な出来事として顕在化
1つは自由を求めて壁に向かって走り出した2人の青年に守備隊が発報、1人は無傷で越えられたがもう1人は射殺 ⇒ 市民の怒りが共産側の非人道性を糾弾するとともに、手をこまねいているだけの米軍の無力さに抗議したが、その後30年に亘って続く冷戦的分裂と、それに伴い失われた多くの人命を象徴
もう1つが、ソ連戦による核ミサイル関連諸機器のキューバ港荷揚げ開始 ⇒ フルシチョフの決断のベースとなったのは、ベルリン問題におけるケネディの弱腰と不決断な態度
ベルリンの壁崩壊、ドイツ統一、ソ連圏瓦解を知った今、ケネディの当時の判断を、実際に果たした役割以上に功績を見出そうとする傾向があるが、精緻に検討するとそれは寛大に過ぎるというべき
議論の余地のないのは、ケネディの態度が東ドイツ指導者たちに、彼らの国の難民の流出を止めることを許したこと
ケネディ自ら、「災厄の連続以外何も示すものが無かった」として任期当初の8か月余りを振り返っているが、これこそ無定見、不決断、政策的失敗によって特徴づけられる期間だったことを十分自覚していたことを言い当てている
ケネディ政権第1年目の不決断の代表例は、4月のピッグズ湾
常にソ連に1歩遅れていた。東ドイツによる壁建設は、完全なる不意打ちではあったが、対応への機会と時間があった時点で、国境閉鎖の作業を妨害しないことを選択したうえ、経済制裁等で罰しようとしなかった
キューバに関して、ケネディが一転して強硬な態度に出ることを決断したのは、自分が柔軟に出ることはますますフルシチョフを強硬にするだけだと、漸くにして学んだから
ケネディが、大統領として最初で最後にベルリンを訪れたのは636月。西ベルリン市民の圧倒的な歓迎を受け、市庁舎の前で、彼が海外で行った最も感動的で力強い演説を行う ⇒ 自由世界と共産主義世界の間の大きな問題は何なのかを理解しない人がいるが、そういう人にはベルリンに来てもらいましょう。すべての自由な人々はどこに住んでいようとベルリン市民です。Ich bin ein Berliner. 民主主義は不完全ではあるが、未だかつて一度も自国民を囲い込んでおくために壁を建設したことはない。大統領就任後初めて、ドイツ再統一の権利について言及、これこそドイツ人が戦後18年の善行を通して勝ち得た権利であり、ベルリンが、ドイツ国民が、そしてヨーロッパ大陸がいつの日か統一されるであろうことを確信する
この冷戦の物語が良い結末を迎えたのは、ケネディが、自分が前年ベルリンにおいて選んだ危険なコースを、キューバにおいて廃棄したからこその結果
ケネディが廃棄できなかったのは、彼が無為に立ち尽くすうちに建設されてしまった壁。自由の国の指導者たちが手をこまねいているとき、自由のないシステムがどのようなことをやってのけるかを象徴的に示す構造物として、30年に亘り存在した。そのイメージは歴史の続く限り消え去ることはない


訳者あとがき
ケネディの未熟さ、ナイーブさを表す「ちびっこ」の原文は、Little Boy, Blue。イギリスの伝承童話に出てくる青い上着を着た羊番の男の子



ベルリン危機1961(上・下) フレデリック・ケンプ著 冷戦下、「壁」めぐる最も危険な瞬間 
日本経済新聞朝刊2014年8月10日付
フォームの終わり
 冷戦時代、ベルリンは東西対決の最前線の都市であり、ベルリンの壁は冷戦の象徴であった。第2次世界大戦末期の米英仏ソ協定により、戦後ベルリンは分割占領・統治と相互アクセスが容認されていたが、冷戦の開始とともに、東ドイツの中で陸の孤島と化した西ベルリンを防衛することが、西側、とくにアメリカの最重要課題となった。一方西ドイツの自由と繁栄に憧れ、西ベルリンを経て脱出する東ドイツ国民は戦後300万人を数え、1961年夏には週に1万人に達した。ソ連と東ドイツの指導者は東ドイツ、ひいては東ヨーロッパの共産体制の崩壊を阻止するために、劇的な措置を取る必要があった。フルシチョフは最終的に61年7月初旬、東ドイツ政府が提案した「境界の閉鎖」計画を承認した。8月13日早朝にベルリンの壁の建設が始まり、東西ベルリンの人と交通の相互往来は遮断されたのである。
(宮下嶺夫訳、白水社・各3200円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)
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(宮下嶺夫訳、白水社・各3200円 書籍の価格は税抜きで表記しています)
 本書はこのベルリンの壁をめぐる米ソの対立と交渉、米ソとそれぞれの同盟国との確執、ケネディ、フルシチョフら個性豊かな政治指導者の言動を豊富な1次・2次資料をもとに再現する。読者は著者の臨場感溢(あふ)れる筆致を通じて、半世紀前の重大な国際危機を体験するであろう。とくに1027日夜、米ソ現地軍がベルリンの境界線を挟み、互いに数十輌(りょう)の戦車を繰り出し、至近距離で対峙した事件は冷戦期を通じて「最も危険な瞬間」であった。米ソは危機のエスカレーションに対し、核兵器を使う用意があった。
 著者が描くケネディは、ソ連と東ドイツの一方的行動を傍観する無策で弱腰な大統領である。ケネディが西ベルリンの地位と西側のアクセスが維持される限り、ソ連の措置を黙認する意向であることを内々に伝え、壁をめぐり断固とした対応を取らなかったことが、フルシチョフに誤った認識を与え、それが翌年春に彼がキューバに核ミサイルを導入する決断の背景にあった。ベルリンで押し込まれたケネディはキューバでは強い態度をとり、フルシチョフに譲歩させたことで、ようやく失地を回復したのである。著者によれば、その意味で61年のベルリン危機と62年のキューバ危機は一体であった。
 幸い、ベルリン危機は核戦争に発展することなく収束した。著者の批判にかかわらず、危機の平和的解決をめざしたケネディの判断は間違っていなかった。国際危機にあって政治家の責任、指導力、識見とは何かを改めて考えさせる大著である。
(立教大学教授 佐々木 卓也)


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