フランクリン・ローズヴェルト  Doris Kearns Goodwin  2014.9.29.

2014.9.29. フランクリン・ローズヴェルト
No Ordinary Time 
Franklin and Eleanor Roosevelt: The Home Front in World War II      1994

著者 Doris Kearns Goodwin NY州ブルックリン生まれ。コルビー・カレッジ卒後、64年ウッドロー・ウィルソン・フェローシップを得て、ハーヴァード大で行政学を学び、博士号取得。ジョンソン大統領時代ホワイトハウス・フェロー(6768)に選ばれたことがキッカケで大統領の知己を得る。フェロー終了後もホワイトハウスで働き、大統領との交流が続き、その縁で大統領の回顧録執筆を手伝い、大統領評伝作家としてデヴューし、数々の賞を得た。報道番組にコメンテーターとして出演、メディアでも活躍。ボストン・レッドソックスの熱烈なファンで、チームのロッカールームに足を踏み入れた最初の女性ジャーナリスト
夫は、ジョンソン政権及びケネディ政権のスピーチライターやアドバイザーとして知られる作家のリチャード・N・グッドウィン
本書は、ピュリツァー賞(歴史部門)、ハロルド・ワシントン文学賞、ニューイングランド・ブックセラー協会賞、アンバサダー・ブック賞、『ワシントン・マンスリー』誌ポリティカル・ブック賞を総舐めにしたニューヨーク・タイムズ・ベストセラーであり、グッドウィンの代表作

訳者
砂村榮利子     東京都生まれ。東外大英米語学科卒。都立大人文科学研究科修士課程修了。現在首都大学東京非常勤講師
山下淑美 山口県生まれ。津田塾大卒。都立大大学院博士課程単位取得退学。3月まで大学非常勤講師

発行日           : 2014.8.10. 初版発行
発行所           中央公論新社


アメリカ史上、唯一四選された大統領の決定版評伝。大恐慌からの再建と第二次世界大戦を指導したFDRの素顔と浮気に悩む妻エレノアとの愛憎やホワイトハウス、米国民の実情を克明に描く。上巻は中立からの方針転換、日米開戦へ。ピュリツァー賞受賞作。
第二次世界大戦の勝利を目前に!大統領の見果てぬ夢とは?欧州や太平洋で激戦が繰り広げられる中、社会活動に専心する妻エレノアの尽力により、マイノリティの支持を得たFDRは史上初の四選を果たすが、最期の時が刻々と迫っていた。図版多数収録。ピュリツァー賞受賞作。

上巻: 日米開戦への道
序章 
アメリカの国内戦線が戦局にいかなる影響を与えたか、戦争がアメリカの生活の様相をいかに変えたかはそれほど知られていない。本書は、フランクリンとエレノア・ローズヴェルトの生活と、第2次大戦中にホワイトハウスの公邸部分に彼らとともに起居した友人や同僚たちとの交友関係を通して語られる、1940.5.ヒトラーによる「まやかしの戦争」終了から45.12.に終わる戦時下のアメリカの物語
大戦中のローズヴェルトのホワイトハウスは、親しい人々だけが出入りする小さなホテルに似ていた ⇒ 次々と訪れては時に何年も滞在する客たちに占領されていたが、共に仕事をし、共に寛ぎ、共に国政の多くの部分を担う友人や仲間を常に身辺に置いておきたいという大統領の要求を反映したもので、絶え間ない宿泊客を通してローズヴェルトは麻痺による身体的制約に対抗した。こうしたホワイトハウスの拡大家族はまた、フランクリンとエレノアが、結婚生活の不完全さを、修復は出来なくとも、少なくとも隠蔽することを可能にした。2人の結婚は1918年エレノアが、フランクリンとルーシー・マーサーの関係を発見したことによって修復不可能なまでに変質していた。疎外感と顧みられない要求の大部分は、他人によってしか満たされ得なかった
フランクリンが国内の人々をいかに指揮してきたか、国内戦線を統率する力こそ軍事的勝利の必須条件であり、戦時下の4年を通じてストライキ、暴動、人口過密や混乱、不当利得行為、闇市場、偏見、人種差別などの問題を抱えながらも、彼はアメリカ国民をただ1つの大義の下に結集させた
ローズヴェルトのリーダーシップを理解することはその国民を理解することであり、彼は彼らの強さと脆さを鏡に映し出し拡大して見せてくれた
エレノアも、旧い体制がはびこるならばこの戦いは勝利に値しないと主張、一貫して国内の民主主義実践に邁進、公民権運動や労働運動の先頭に立つ。ファーストレディに与えられてきた形式上の役割の殻を打ち破り、政府の仕事を得、そして失った、初めての大統領夫人であり、心から信じる大義のためにその役割を利用することができる「その時代で最も影響力のある女性」
4852年 国連代表
アメリカという国とそれを指導した一家に共通のテーマは、大義は多大な困難を経てこそ達成されるという認識・確信であり、その確信に導かれて、その国と大統領一家は共に艱難辛苦を乗り越え、想像すらしなかった数々の偉業に向かって進む

第1章        決戦の時が来た
40.5.9.深夜、駐ベルギー米大使からの電話でドイツの電撃作戦再開を知らされる
ローズヴェルトが、自らの居室の夜間の施錠を拒否したのは、幼時に叔母が火だるまになって死んだのを見た恐怖が、半身不随となって増幅されたため
39歳で病に襲われるまでは華やかな活動の人だったが、1921.8.カナダのニューブランズウィック州の一家の避暑地カンポベロ島でのこと。高熱と急激な麻痺に襲われ、当初はポリオと気づかず必死に動かそうとしたが、29年ニューヨーク州知事に、次いで33年大統領に就任したときには永久に歩行不能となった ⇒ 麻痺により、彼の尊大さや独善性、皮相さは影を潜め、精神と感受性の幅が広がって、優れた集中力と深い自己認識を身につけて試練から戻ってきた
大統領就任以来、常に重い金属製のギブスで下肢を固定していたので、立ち上がるだけでも表情が一変するほどの力仕事だった
エレノアは身長6フィート、幅の広い口元は大きな前歯のせいで美しいとは言えず、キラキラした青い目の魅力も格好のよくない顎のために減じられていた
大統領には批判的な富裕層も、夫人に対しては友好的で、世論調査でも67%がその活動に好意的で、大統領支持を上回る ⇒ より遍く民主主義を現実のものとするため、私たちがいま手にしているものと引き替えに何が私たちに課されているのかを常に心に止めておかねばならない、と一貫して主張
エレノアの社交担当秘書だったマーサーと夫とのロマンスを知ったのは189月、海軍次官補だった夫がヨーロッパ戦線から帰国した直後に、荷物の中からラブレターの束を発見したときで、夫に離婚を認めると告げたが、彼はそれを望まないばかりか、母親から離婚すれば勘当すると脅かされ、二度と会わないことと寝室を別にして夫婦関係を終えることを約束。その日からエレノアの自己充足の手段を自由に求める生活が始まる
エレノアの代わりにローズヴェルトの身の回りを公私に亘って仕切ったのは、個人秘書のマーガリート・(ミッシー)・ラハンド。労働者階級の出身、苦学して秘書養成学校を出、20年副大統領候補となったローズヴェルトの選挙運動に関わり、エレノアに才能を認められてフランクリンの手紙類の整理を手伝ったのが一家との関わりの初め。1年後フランクリンがポリオに罹患して、ミッシーの仕事の範囲が急拡大。エレノアが政治の世界で夫の代理として駆け回る間、ミッシーは子供の世話を含め主婦の雑用をすべて引き受け。ホワイトハウスでは大統領の居室の真上の3階のスイートを居室に
1935年 一連の中立法により、ヨーロッパのいざこざからの孤立主義を強める
1937年 ローズヴェルトのシカゴでの「隔離演説」 ⇒ 折に触れてそうした大勢を占める意見の方向転換を試みた努力の1つで、集団安全保障を重視する介入主義者には歓迎されたが、孤立主義者から弾劾を仄めかされたため撤回。有権者を置き去りにして先走ったウィルソンの轍を踏まないため
40年春時点で、米陸軍の軍事力は世界で18位、軍需産業はほとんど存在しない状況
ローズヴェルト政権の秩序のなさ、彼の裏表ある言行や何かと先延ばしにする傾向は、権威が分断され、競争が日常化し、政権内に不安と混乱が生じはしたが、相反する意見が存在することによる利点を与えた ⇒ 対立を通してこそ問題は解決するとの信念
メディアとの関係を重視、8085%の新聞社が常にローズヴェルトと対立していたにもかかわらず、現場の記者とは個人的にも親交を結んで良好な関係を維持したお蔭で、彼に対する取材は概ね十分で公平なものになるという逆説が成立。「ニュースの材料を提供することと、自分がニュースそのものになるという、絶妙だが単純なトリックを用いて、ローズヴェルトは新聞社のあからさまな敵意の裏をかき、報道機関を自分が公の場において指導力を発揮するための最も有効な手段の1つに変えた」
エレノアの個人秘書がマルヴィ―ナ・トンプソン(愛称トミー”)、フランクリンがエレノアに、自分が治める国民を理解するために必要な草の根の情報を収集するために自分の「目と耳」になることを依頼、エレノアと一緒に全国を行脚
電撃作戦再開の翌日、イギリスのチェンバレンが分列評決による不信任決議で辞任、チャーチルが首相に就任 ⇒ 予てよりローズヴェルトは、チャーチルがヒトラーの脅威に対し多勢に無勢を顧みずに警告を発していたことを耳にして、尊敬の念を抱いていた。2人は数多くの戦時往復書簡を交換しているが、その最初のものは39.9.チャーチルが海軍大臣として初入閣した時の祝電で、お互いの間に豊かな友情の種が植えられ、将来見事に開花する

第2章        BBガンを構えた数人の坊やたち
ローズヴェルトの指導力にとって何よりも重要な要素は、自分自身とアメリカ国民に対する信頼であり、将来への明るい力を相手に伝える並外れた能力があった
再開最初の議会演説で大統領はナチスの脅威に対し国民の注意を喚起し、愛国心に火をつけ、リンドバーグ大佐は政権が「国防ヒステリー」を引き起こしたとして非難、一部の孤立主義者から喝采を博すが、議会は債務限度の引き上げを可決し、戦争準備へと舵を切ることに成功
早々に軍事大演習が実施されたが、訓練不足から来る事故死者の増大と、装備の不足は眼を覆うばかりであり、ドイツが電撃戦の先鋒として空軍を投入したことを知って衝撃を受けていたし、戦車の不足についても今なお馬の優位性を信奉する高官がいて機甲部隊の格上げに反対していた ⇒ 米軍は「BBガンを構えた数人の坊やたち」レベルと揶揄
最初の仕事は軍需産業振興だったが、実業界は大統領がニューディールの初期から社会保障制度や組織労働者に示す熱心な支持を実業界への背信行為と見做して、敵意を示す。まず35年に商工会議所が正式に大統領と袂を分かつが、大統領は両者の関係に細心の注意を払いながら両者を結び合わせる努力を続け、ニューディール政策が定めた労働条件や最低賃金等を維持しながら実業界の協力を取り付けることに徐々に成功していく
エレノアは、大統領が戦争に勝つために合衆国内の様々な勢力を統合する必要があることは十分理解していたが、大資本による独占的支配という旧秩序が温存されるくらいなら、この戦争は勝つに値しないと強く主張

第3章        ハドソンに遡る
フランスの降伏寸前の状況下、ローズヴェルトは自国の再軍備が先か海外での連合国支援が先かという選択を迫られ、反対の渦巻く中支援を強行 ⇒ 合衆国が所有する唯一のB-17高性能戦略爆撃機(愛称「空飛ぶ要塞」)52機のうち12機までを割いたり、生産が需要に追いつくまでに最低2年かかると言われた75ミリ砲も支援物資に加えた
フランス軍が事実上崩壊、イギリス陸軍もダンケルクで孤立状態に陥ったが、いまだ謎とされるヒトラーの3日間の進軍停止命令によって「奇跡のダンケルク」として知られるようになった大脱出劇が可能となったことも、アメリカの支援出動への後押しとなった
40.6.10. 大統領は、息子のヴァージニア大学ロースクール卒業に合わせて式に出席、演壇に立って自らの決断を国民に告げる ⇒ その朝ムッソリーニ参戦のニュースが入り、仏首相のメッセージにあった「短刀を握った手が隣人の背中にそれを突き刺した」との表現をそのまま使ってその日のイタリアの行為を非難するとともに、アメリカの連合国支援の方針を国民の前ではっきりと示し、理解と協力を求めた
40.6.14. ドイツ軍パリ侵攻。5日後にローズヴェルトは「参戦以前における最も毅然とした態度」で、陸海軍から迫られたイギリスへの援助打ち切りと艦隊の太平洋から大西洋への移動の要請を拒否。閣僚メンバーを一新、イギリスへの軍需物資引き渡しを拒絶した陸軍長官の後任に73歳で歴代大統領のもとで陸軍長官や国務長官を務めてきた共和党保守派のスティムソンを、海軍長官には67歳の共和党元大統領候補のノックスを指名、いずれも共和党の孤立主義的傾向に敢えて異を唱える熱烈な介入主義者で、ローズヴェルトの決断の実践を強力に後押し
ハドソン上流にあるハイドパークの実家に戻って休息 ⇒ フランクリンは自ら「私の中にあるものは全てハドソンに遡る」と好んで口にした。難産から1人っ子となり、母親の愛情を一身に背負って成長
ローズヴェルト家は、大昔に織物、不動産、西インド諸島の砂糖を主とする貿易によって財産を築いた裕福な特権階級で、父親はまたいとこと結婚、死別後第4従兄弟に当たるシオドア・ローズヴェルト家のセイラと再婚しフランクリンをもうけるが、フランクリンが8歳の時父親は心臓発作で倒れ、寝たきりで10年後に死去。セイラは全ての愛情をフランクリンに注ぎ、片時も離れることが無かった
フランクリンの捉えどころのない態度は、決して打ち破ることのできない彼の行動パターンとなる ⇒ 母親を傷つけずに自立を果たそうとする努力が、彼がホワイトハウスに持ち込むことになった、狡猾でありながらも打ち解けた魅力、秘密を好む傾向、策略の巧みさといった特徴の多くを彼の中に育んだ
フランクリンが第5従妹のエレノアと恋に落ちたときは、エレノアは何とか引き離そうとしたし、フランクリンが母親から離れられずにいることが、長年のうちに彼らの結婚生活を蝕む大きな要因となる

第4章        ここに居るとつぶされてしまいそう
ホワイトハウスが戦時体制に向けて舵を切ると、エレノアの社会改革への役割は棚上げとなり、存在感の喪失に悩む
エレノアの父親は、シオドア・ローズヴェルトの弟。特権階級にあった一族の中での競争に耐えられず、社交界の花と結婚するが、間もなくアルコール依存症が昂進して死去、母親も娘の美しいとは言えない外見に本能的に尻込みをしながらジフテリアで早逝、母方の祖父母に引き取られ厳しく育てられた ⇒ 寄宿学校に入って才能が開花
フランクリンに出会って世の中が一変、結婚後6人の子供を作るが、家庭に留まることを強いられたエレノアは、自身の苦痛に満ちた子供時代の記憶があまりに辛いものであったため、母親の務めにはほとんど喜びを抱かずに取り組み、その自信のなさはフランクリンを驚かせた
エレノアがようやく自分のアイデンティティを見出したのは、16年に最後の子どもが誕生した後、夫の不倫発覚による夫婦の危機を経験した後のことで、公的な活動を行う本当の才能が備わっていたことに気付く
戦時体制下の喪失感を克服したのは、ヨーロッパからの難民児童にアメリカの門戸を開くための運動に出会ったとき
ローズヴェルトは、ドイツからのユダヤ人難民の受け入れにも陰で働きかけ、40年までで10万余を受け入れ ⇒ 反ユダヤ主義は大統領夫妻が育った隔離された世界の本質的部分に存在していたが、ユダヤ系が政権の上層部のほぼ15(総人口比では3)を占めるほど突出していたため、偏狭な人はニューディールをジューディールと呼び、ローズヴェルト自身がユダヤ人であると言い立てた(祖先の1人で初期オランダ移民にユダヤ系がいた)
ユダヤ人移民の増加とともに、アメリカの世論調査でも反ユダヤ主義が増殖するとともに、外国人に対する被害妄想も蔓延、政権も外国人移民枠を絞らざるを得なくなる
エレノアの働きかけが功を奏して、若干ではあるが移民の枠拡大に動く ⇒ 自分にはまだなすべき重要な務めがあり、他の人たちに感謝してもらえるのだと信じ始めていた

第5章        国家の一大事(No Ordinary Time)
ローズヴェルトは、後継者を育てる気持ちはあったが、その余裕がないまま、自身も再選への意志を明確にしないまま大統領候補指名の党大会に臨む ⇒ 大統領は党大会を欠席、全国委員長が立候補を表明していたが、突然会場に「我々にはローズヴェルトが必要」との大音響の叫び声が流され一気に3選への流れが加速。その熱気から過大なことを約束させられることを懸念した大統領は大会場に行くことを拒否、代わりにエレノアを行かせる
副大統領候補でもローズヴェルトは党と対立。ローズヴェルトは連合国への援助の熱心な支持者だったヘンリー・ウォーレス農務長官を選ぶが、党のボスは党生え抜きから選ぶべきとして最近共和党員から鞍替えしたばかりのウォーレスに反対。党大会に姿を現さないばかりか、副大統領候補も押し付けようとするローズヴェルトの傲岸さに代議員たちの苛立ちが最高潮に達したところで、エレノアが登場、「国家の一大事に際し、国のための我々が一丸となって為しうる最良のこととは何か、ということだけに考えを集中すべき時であり、副大統領候補についても大統領本人の判断を尊重すべき」と言い、会場の称賛を呼び混乱した事態を収拾。ローズヴェルトが、ラジオで指名受諾演説を終えたのは深夜過ぎ

第6章        私は曲芸師だ
大統領は、自らも曲芸師と言い、ボールを幾つも宙に放ってはそのまま浮かせておく絶妙な曲芸を繰り返し披露したが、40年の夏の徴兵制実施と、駆逐艦のイギリスへの贈与ほど、その腕前が試されたことはなかった
議会の承認なしには軍需物資を外国政府に引き渡すことは出来なかったが、大統領は軍の最高司令官として、イギリスの海軍基地貸与の見返りとして50隻の駆逐艦譲渡を強行
共和党の大統領候補は、67%の支持を得た本命のニューヨーク州地方検事トーマス・デューイを6度の投票で逆転したウェルデン・ウィルキー。若い頃は民主党員でウィルソンの熱烈な支持者だったが、巨大電力会社の社長になってTVAと根本的に相容れないことに気づきニューディールに反発。政治経験も組織もなしに党大会に乗り込んで指名を獲得
ウィルキーも指名受諾演説では、孤立主
義的気分からの離脱に賭け、徴兵制に加えて連合国への物的支援を支持
8月にはナチスの侵攻から、スウェーデン王子の娘でノルウェー皇太子妃とその子供たちをハイドパークに救出
民間企業を軍事生産向けにシフトさせるため、新たな資本支出の5年での償却を容認した結果、軍需品調達のための重要な契約の3/4は大企業56社に集中

第7章        彼女にはまったくお手上げだな
エレノアは、南部出身の祖母を通じて見聞きしてきた黒人の差別された状況改善に積極的な役割を果たしたため国中の非難を浴びていたが、ローズヴェルトもより寛大で理想主義的な人道主義的な価値観の信奉者でもあったところから妻の言動を容認、大統領に苦情が持ち込まれても、「彼女にはお手上げだな」と言って受け流していた
ローズヴェルト以前には、黒人はいまなおリンカーンの党に忠誠を尽くし共和党候補者に投票するのが常であったが、36年以降歴史的転換を見せ決然としてローズヴェルト連合に加わる
40.9. 数十年後に開花する公民権運動の誕生 ⇒ 当時、軍隊での差別と隔離の撤廃という課題が黒人の間での主要な関心事。強烈な逆風の中で若干の譲歩を認めさせる
次いでエレノアが注力したのが、国務省の大反対に会いながら進めた難民救済事業
エレノアは、4人の息子たちの期待外れの職歴と4人で計18回という結婚の失敗に落胆、自責の念に駆られる。子供たちの育ての親となったのは祖母のセイラで、エレノアのことを母親の本分をわきまえてはいるが他に大事な仕事のある母親として記憶
40.10.徴兵順序を決めるための抽選実施 ⇒ 2135歳の全ての男が登録され整理番号を付され、1つの番号で全国6000人が無作為に抽出される。選挙を控え、大統領は「徴兵されても外国の戦争に送られることはない」と保証、その後何年にもわたって彼を悩ませることになる
投票直前の世論調査では両候補が拮抗していたが、全国各地で労働者、黒人、移民の票が健闘、54.7vs44.8%とローズヴェルトの辛勝。1916年以来最小の得票差で3選が実現

第8章        民主主義の兵器工廠
ドイツのイギリスに対する軍需物資の優位性は拡大しつつある反面、イギリスはアメリカに発注した物資への支払資金が枯渇 ⇒ 大統領は、後に「武器貸与法」として知られる計画、即ちイギリスに武器や軍需物資を無償で送り、終戦後に現物返済してもらうことにして、大統領の炉辺談話で国民にその考えを示す。「民主主義のための兵器工廠」演説として知られる。世論調査では軍需物資支援には過半数が賛成したが、参戦には88%が反対
評論家は、大統領の狡猾さ、率直さの欠如、気紛れに人を試すこと、恩義に欠ける傾向などを嘆く。彼の頑迷さ、虚栄心、時折見せる執念深さ、単に相手を喜ばせるために同意する癖などの性格上の欠陥が、広く議論された。「権力が人に与える不遜さ」や「人の意見を聞かずに独断に走る」悪癖、決断に疑問を投げかける人々を「利己的とか臆病、または芯が腐っているとか愚鈍」などと決めつける「短絡的な確信」が目立ってきた
武器貸与法の勝利を通じて、ローズヴェルトはアメリカ国民の教育にも成功 ⇒ 拮抗していた国民の賛否は、賛成61%まで上昇。一方、ヒトラーは宣伝工作員によるアメリカ攻撃開始を指示

第9章        通常営業
41年はストライキの当たり年 ⇒ 航空機産業を始めとして労働者の組織化を巡るストが頻発、フォードのリヴァー・ルージュ工場でも38年の歴史上初のストライキ勃発、人種対立が絡まって問題が複雑化したが、最終的にローズヴェルトの裏工作が実って労働者側が勝利。一方で、国防産業における不当なストライキに対しては断固対処
41.5. 大統領がラジオを通じて無制限の国家非常事態宣言を発令 ⇒ 放送開始以来最高の視聴率70%。人気コメディ番組が3035%で驚異的とされていた

第10章     偉大な時を生きていた
41.6. ミッシーが卒中発作で倒れる ⇒ 10か月でホワイトハウスに戻るが半身不随のままで、故郷の姉の下に帰り、44.7.脳梗塞で死去、享年46
軍隊は黒人に門を開き始めていたが、急速に拡大する防衛産業における黒人雇用は進まず、雇用の門戸開放を要求する大統領令に署名、民主主義への信頼感を国中で復活させる
41.6. ドイツのロシア侵攻で、ロシアからも軍需物資援助の申し出
41.8. チャーチルが訪米、ローズヴェルトと初の直接面談 ⇒ 最初の話題は、太平洋で攻撃性を強めている日本の姿勢にどう対処するかを中心としたものだったが、ヨーロッパでの戦いも含めた戦略上の約束よりも、ナチス後の世界平和の原則を大西洋憲章として宣言したことで後世に記憶される。両国は、領土の拡大を求めず、関係国の国民の意志と一致しない領土変更は行わないこと、国民の自らの政府の形態を選ぶ権利を尊重、自由貿易のために貢献、武装解除と全体的安全を保証する恒久的な制度のために努力することを誓約。日曜朝プリンス・オブ・ウェールズ艦上での合同礼拝は感動的で、2人の信頼が1つになった瞬間

第11章     まったくの別世界
41.9. 母親セイラ死去。享年86
エレノアは、防衛に社会奉仕を含めるために創設された民間防衛局の副局長として、局長となったニューヨーク市長のラガーディアを補佐。ファーストレディが担当する最初の政府の仕事
41.11. Uボートによるアメリカ船の撃沈が相次ぎ、商船の武装を妨げている中立法による諸制限撤廃を僅差で議会に認めさせたものの、何か劇的な事件が起きない限り議会がドイツに対する宣戦布告を可決する見込みはなかったが、長く待つ必要はなかった ⇒ 真珠湾が大統領のジレンマを解決
41.12.6.午後、東京から日本大使宛の通信文を傍受、ハルの10項目の要求に対する14部からなる回答電報の13部までが入電、翌朝の14部目には交渉打ち切りが告げられ、第2便では午後1時に回答全文をハル国務長官に渡すよう指示 ⇒ 午後1時の期限に重要な意味があると思った情報部はマーシャル大将に太平洋のどこかで早朝攻撃が仕掛けられる時刻ではないかと進言、マーシャルは太平洋各地の米軍司令官に向けて優先送達電報で警戒を指示。電話の盗聴を恐れ時間のかかる民間の電報を選択、マニラからパナマ、最後にハワイに送られたが、ホノルルの電信所に到着した頃には真珠湾への攻撃が始まっていた
ローズヴェルトは、攻撃開始の報に側近が興奮してパニックになる中でも落着いて、太平洋の平和について話し合いをしている最中にいかにも日本がしそうなことだ、と考え日本の裏切り行為への恨みと怒りを示す
ローズヴェルトは、もし開戦になるなら先に戦いの火ぶたを切るのは日本でなければならないと考え、直前にも「我が国にそれほど危害を及ぼすことなく、どうやって日本に最初の一撃を発射させるように持っていくか」と陸軍長官に聞いている。だがその大前提とされたのは、日本の南からの攻撃で、可能性が最も高いのはフィリピンと想定された
とはいえそのために海軍を心から愛したローズヴェルトが、艦隊の心臓部を犠牲にすることなどありえず、なぜ戦艦が並んで繋留されていたのか、油断していて攻撃されるなどという考えを受け入れられなかったが、40年初夏に艦隊の基地にするという決定がなされるまでは小規模基地に過ぎず、装備も訓練も絶対的に不足していたのは事実
128日 ローズヴェルトは議会で、「汚辱にまみれて生き続ける」ことになったこの日を焼きつけ、「日本による正当な理由のない卑劣な攻撃」以来「日米間には交戦状態が存在」していると宣言するよう求め、議会は史上初の女性議員1人の反対(彼女は第1次大戦参戦にもただ1人反対)を除いて宣戦布告を承認
政敵たちも大統領支持を表明、労働組合のリーダーも戦争中のストライキやロックアウト中止を申し合わせる
エレノアはその日の夜行便でロスに飛び、民間防衛局の仕事を始める ⇒ 日系人に対するヒステリーの高まりに対し、忠実な市民に対する根拠のない疑いに警鐘を鳴らし、「公平を保つ」よう注意を喚起
1211日、ドイツが対米宣戦布告
財務省の管轄下にあったシークレットサービス(国土安全保障省管轄下に移管されるのは2002)によって省内に臨時のシェルターが設置

第12章     兵隊ごっこに興じる2人の少年
1222日 チャーチルがローズヴェルトを訪問、「共通の大義に」乾杯し共にクリスマスを祝う ⇒ エレノアにとって、2人が戦況の進展が視覚化できる海図を挟んで作戦会議に熱中する様は、「兵隊ごっこに興じる2人の少年」のように見えた
ローズヴェルトが本能的に最重要だと感じていることは、国民を結束させることで、アメリカ国民の力に内在するダイナミズム、それを動員する方法、利用する方法、またその限界を見極める方法をローズヴェルトほど理解していた人物はいない
一方で、民主主義の弱点である煽られた世論の暴走から身を守ることができないまま、日系アメリカ人を内陸部へ強制移住させるという無分別で容赦のない決定も下している
人種差別主義が「軍事的必要性」と言う主張に油を注ぎ、さらに日系人に奪われた労働市場を取り戻すという経済的な欲望も加わり、政治的に組織化がされていなかった10万人以上の日本人社会に影響を及ぼす大統領令に署名 ⇒ 軍事地域からの排除
エレノアの民間防衛局での社会奉仕活動が戦時下で批判を浴び、辞任せざるを得なくなるが、代わってデトロイトでの新設の公営住宅への入居資格を巡る白人と黒人の対立に巻き込まれ、大統領にも働きかけて黒人国防労働者のための住宅確保に成功
海軍による黒人下士官入隊に対しても、大統領は、全ての海軍将官は合衆国の人口の約1/10が黒人種であり、彼らがアメリカ市民であるという事実を認識する義務があると伝えた結果、海軍の歴史的障壁が崩れ始めた
軍需産業における黒人労働者への障壁の除去についても、公正雇用委員会が動きだし一定の進歩を見る
エレノアは、公民権に対する彼女の進歩的な姿勢への批判の高まりに抵抗して、全国を行脚して発言を続けたが、大統領から公的に反対されることはなかった ⇒ 彼女の主張する進歩がアメリカ社会が動いている大きな流れと一致して、かつ戦争遂行に抵触しないと納得できる限りにおいて、大統領は喜んで彼女の思うままにさせようとした
開戦とともに、アメリカ社会の様相を一変させるほどの自発的な人口大移動が始まる ⇒ 終戦までに15百万人以上が州や郡の境界を越えて移動、国の人口分布図が永久に変わる
1波は、戦時中の造船業の半分以上と航空機製造のほぼ半分を占めた西海岸3州への移動で、加州だけでも2百万以上の増加
2波は、地方から都会への移動で6百万を超え、農業不況が一気に解消したが、都市部では深刻な社会問題を引き起こす
大恐慌による長年の麻痺の後、国民の活気に満ちた大移動は、アメリカ国民は機会を与えられれば課題に立ち向かっていくだろうという大統領の信念を確証した


下巻: 激戦の果てに
第13章     何かご支援できることは?
42.4. ドゥーリトル中佐率いる16機編成のB-25飛行中隊による東京空襲を承認、初めて重装備の爆撃機が航空母艦から飛び立ち、爆撃の成功は国民の士気高揚に役立った
大統領の外交顧問で側近中の側近だった元商務長官のハリー・ホプキンスが結婚、そのままホワイトハウスに住みつく ⇒ 公共事業促進局を拠点に失業者の救済プログラムを作成した頃はエレノアと息が合って、エレノアはハリーの娘をホワイトハウスで母親代わりになって育てたりもしたが、開戦とともに戦争に没入するホプキンスとは距離が出来る
42年夏には、配給制度と価格統制によって、庶民の生活のリズムが破壊 ⇒ 軍用の木綿と羊毛を確保するために、非戦闘員には裾の折り返しのないズボンや膝上10cmの襞のないスカートが強制された。女性のガードルへのゴム使用規制だけは強い抵抗で取り下げ
あらゆる品目が点数によって価格が付けられ、国民は配給切符により一定限度内で購入
新品のタイヤの販売は41年末から禁止されていたが、42.5.からはそれに加えてガソリンの配給も始まる ⇒ ガソリンは不足していなかったが、ゴムを節約する唯一の方法として導入された。ゴム回収運動も進められる

第14章     たまげた、フランクのおやじさんじゃねえか!
42.9. 大統領夫妻は2週間の全国の軍需工場視察の旅に出、各地で圧倒的な人気で迎えられた ⇒ 労働力不足を補ったのが女性、黒人の進出
旅行中、フランクリンはエレノアによりを戻すことを申し入れるが、自分自身の力で1つの政治的力になった経験は、エレノアが長年大切にしてきた夫への想いとは別の自己意識をもたらし、修復は不可能になっていた ⇒ 最初のうちは、エレノア自身の不安やはにかみとは対照的なフランクリンの自信や魅力や社交性ゆえに夫を評価したが、今ではその特質を表面的で欺瞞的と見做すようになっていたし、エレノアの誠実さ、正直さ、高い道義心に魅かれたフランクリンだったが、その特質を堅苦しさや頑固さと見做すようになっていた
エレノアがフランクリンの生活に馴染めないでいたときに、それを穴埋めしたのがルーシー。メリーランド州の創設者を出した著名なカトリックの家系の出身だったルーシーが、家庭の破綻から働かざるを得なくなってエレノアの仕事を手伝うようになり、エレノアにない魅力を備えたルーシーにフランクリンが魅かれ、恋愛へと発展するが、ラブレター事件が発覚、2人は分かれ、ルーシーは裕福な男と結婚、エレノアとフランクリンは結婚生活の立て直しに努力したが、エレノアの心の傷は永遠に消えず、友人にも「許すことが出来ても、忘れることができない」と話していた
エレノアの忘却能力の不足が、フランクリンからのやり直しの申し出を拒絶させる

第15章     反撃開始だ
42.10. エレノアがイギリスを訪問 ⇒ 精力的に歩き回り、イギリス国民の圧倒的な支持を得る
中間選挙は、国内外での戦争行動への大衆の不満を示す中で行われ、投票率は1930年以来最低、前回の1/2に過ぎなかったが、民主党は辛うじて両院でぎりぎり過半数を確保
42.11.からは、コーヒーが15歳以上の1人につき11杯の配給に制限
42.11. 連合軍による北アフリカ侵攻作戦開始、大統領の4男も駆逐艦の砲術将校として参戦 ⇒ 大統領は、国民に初戦の成功を告げ、「反撃開始」とのメッセージを送る
42.12. ヨーロッパのユダヤ人の絶望的な状況が明らかに
ギャラップ調査が、エレノアを「アメリカ史上最も多くの酷評と称賛を与えられた女性」に
戦時生産局による軍需生産優先で、100の大企業が全米製造業の産出高の70%を占める

第16章     こんな偉大な男と会ったのは初めてだよ
43.1. チャーチルとのカサブランカ会談のため極秘旅行へ ⇒ 大統領としてアメリカ史上初めて空路で海外に出掛け、リンカン以来初めて前線の兵士を慰問
ドイツは首脳会談開催の暗号を解読していたことが後に判明したが、「カサブランカ」を「ホワイトハウス」と訳していたために、ヒトラーは会談の場所をワシントンだと思った
スターリンはそれどころではなく参加要請を断る
2戦線の要求に対し、海峡横断よりシチリア侵攻優先というチャーチルの意向を入れるが、チャーチルがローズヴェルトに対してこれほどの影響力を持つことは2度となかった
ド・ゴールとジロー将軍という2つの敵対勢力を会談の場に呼んで、和解を演出
会談後チャーチルは、ローズヴェルトを評して、「本当の親友だ。あの男はずっと先までのヴィジョンを持っている。こんな偉大な男と会ったのは初めてだ」と語る
エレノアは、女性戦時労働者を視察、彼女たちを就労させるための保育所を政府出資で作らせたり、就労時間をずらしたり、銀行や百貨店の営業時間の延長、買い物ヘルパーの雇用等々、便宜を図る工夫を実践
43.3. エレノアの働きかけによって、陸軍内のレクリエーション施設における人種差別撤廃への新たな措置が取られ、陸軍航空隊では黒人戦闘パイロットも誕生
43.4. 日系人の収容
所の不穏な動き視察のため大統領はエレノアを派遣、彼らの創意工夫と忍耐心に尊敬の念を抱いたエレノアの働きかけによって、年末までには収容所からの退去許可を緩和する大統領令が発布され、1/3の抑留者が収容所を去る

第17章     あなたのせいなのです
ワシントンの人工は、40年以来倍増、大半は急激に巨大化していた連邦政府の官僚機構に職を求める女性たち ⇒ GG(government girls)
43.6. アラバマでの人種差別に起因した暴動がデトロイトに波及、エレノアの労働者や黒人擁護の見解に道徳的責任があるとして、新聞も「あなたのせいだ」としてエレノア
を非難
43年夏 アメリカのユダヤ人社会でヨーロッパのユダヤ人のための活動の拡大がみられたが、ユダヤ人救済に関心を示す議員はほとんどいない政治情勢下、大統領もナチス組織の根絶こそが問題の唯一の解決策としてすべての資源を集中していたので、敢えて指導力を発揮しなかった

第18章     決して忘れられない光景でした
43.8. エレノアは南太平洋へ軍の慰問に ⇒ 兵士には歓迎されたが、将官からは不評
学生運動支援を通じて?親しくなった軍曹が、スキャンダルを恐れて南太平洋へ飛ばされたのに会いに行くことが目的であり、ハルゼー海軍大将は当初反対したが、最後には彼女の献身と責任感を讃美。エレノアが笑みを浮かべながら無残に傷ついた兵士たちのほうに身を乗り出したときの兵士たちの表情を目の当たりにして、「決して忘れられない光景だった」と語る
43.8. ローズヴェルトとチャーチルのケベック会談で、海峡横断の決行日を44.5.1.とし、司令官はアメリカ側から出し、原爆の研究開発作業の共有を約す
41.11. テヘラン会談 ⇒ ソヴィエト政府が初めて合衆国の武器貸与法に関して公式の感謝を表す ⇒ ソ連の車両の2/3と航空機の1/2はアメリカから補給

第19章     心ゆくまで眠りたい
44年の年頭一般教書演説 ⇒ 真の個人の自由は経済の安定と自立なしには存在し得ない年、これまで主張してきた政府の権力に支配されない自由に加えて、政府の援助を受ける自由を強調し、そのための税の引き上げと過度な利益の抑制を訴えたが、議会の猛烈な反発を食らい、政権の提案を形骸化させる予算を承認したため、大統領は拒否権を行使
44.3. 第1子で一人娘のアナがホワイトハウスで、父の公務を支える ⇒ 夫と一緒にシアトルで新聞発行していたが、夫が北アフリカに志願して出征して以来、父の側にいるようになり、同時にペンタゴンに戻ってきた夫と子供とともにホワイトハウスに住む
この頃から大統領の体の不調が始まる ⇒ 軽い咳が四六時中続き、頻繁に頭痛を訴え、手が痙攣的に震え、口述の途中で居眠りする。アナの手配で検査した結果、心臓が肥大でラッセル音がひどく鬱血性の心不全とされ、高血圧(188/105)を放置していたために1年以上生存できないことが判明。ジギタリスという特効薬があったが、当時はまだ適量を測定することは困難
主治医のマッキンタイアは海軍少将、専門が耳鼻科だったために心臓の異常を放置
イースターの休暇で静養、最初の言葉が「心ゆくまで眠りたい」だった
エレノアは、フランクリンの病状を理解できず、特に自ら深く関わった女性や黒人への差別解消等の問題に関して大統領との話が必要な場合は時と所を構わず議論を仕掛け、大統領の癇に障った
44.4. ノックス海軍長官が心臓発作で急死。享年70。戦時内閣の最初の死者

第20章     宙吊り状態で
5月末から6月初旬にかけて、人は皆、「恐れを抱きつつも成功のうちに開始されることを期待しながら侵攻を待つという宙吊り状態で」暮らしているようだ、とエレノアは述懐
侵攻開始は65日とされ、ローズヴェルトもイングランドに飛ぶ予定だったが、健康状態が許さずに断念
66日 ワシントン時間午前0時にアメリカ兵による第1波が海中に飛び込む
侵攻の公式発表は、午前332
44.6. 復員兵援護法を上下院とも全会一致で議決 ⇒ 帰還した復員軍人に、従軍しなかったら得ていたであろう社会的地位、教育、訓練を手に入れる機会を提供することを目指し、住宅購入支援、就職までの間の生活費保障、大学の学費のために年500ドルと生活費年900ドルを提供。平均的な労働者の年収が1000ドル以下、州立単科大学の学費・生活費が453ドルだった時代、大学教育は少数の特権階級だけのものだったが、復員兵援護法により2百万の復員軍人を大学や大学院へ総額140億ドルかけて送り込んだので、40年代末には復員軍人が高等教育機関の男子学生のほぼ50%を占めた。しかも彼等は並外れて学業優秀だった
44.7. ルーシーをホワイトハウスの非公式夕食に招待 ⇒ 気弱になったローズヴェルトが気晴らしにと考え、娘のアナがエレノアに内緒で取り持ち、以後9か月間12回に及ぶ逢瀬の始まりとなる
44.7. 民主党大会開催の直前、4選に向け党の指名を受諾すると公表。副大統領候補の選択は代議員に一任 ⇒ 周囲は、任期満了までは生きられないだろうと薄々感づきながら後継候補を指名しない大統領の真意を推し量り兼ねた
ローズヴェルトの本心は、共和党大会で党内の保守派に敗北していたウィルキーと手を組んで新たなリベラル政党を作ることだったが、秋に心臓発作で急死したため実現せず
太平洋戦の戦略会議のあと、オアフ島の病院を視察、片腕や片脚を失った兵士の全病室を車椅子で回り、自分の体と用をなさない脚を同じ苦しさに直面しなければならない若者たちに見せた ⇒ 見知らぬ人に障碍を見せたのは2度目。最初は36年のこと、ハワード大学の新校舎落成式の際学長に懇請され、不自由な身である学生を勇気づけるため車から降りて演壇まで骨折って歩くところを見せた

第21章     老大家はまだ捨てたものではない
44.8. 西海岸に視察の途中、狭心症発作
44.9. ケベックでチャーチルと会談 ⇒ ドイツと日本の戦後処理について話し合い、原爆製造、対日使用の可能性を両者だけの「最高機密」とすることを約束
痩せ衰えた体を鼓舞して選挙戦に登場、共和党の攻撃に敢然と立ち向かい、『タイム』誌の記者も「老大家はまだ捨てたものではない」と観察
44.11. 前回以上の僅差で4選 ⇒ 一般投票では53.5(選挙人432)vs46%(99)

第22章     猛然に忙しい女(ひと)
エレノアと同様、女性にとって戦争が大きな転換点となり、戦時雇用のピーク時には女性の雇用数が全労働人口の1/3を占め、子持ち既婚女性がその半分を占めた ⇒ 79%が家庭にいるより仕事をする方が楽しいと答え、経済的自立が最も良い点とされた
戦争終結が見えてくると、女性は家庭生活の価値を強調するプロパガンダで激しく責め立てられる
平時経済への円滑な移行を保証する政府の政策は、戦時生産を維持しようとする軍との間で激しい軋轢を引き起こし「戦争の中の戦争」として知られるようになる
エレノアは、大統領の休暇中も、新たな閣僚の人選について、またたまたま会ったユーゴ人の話から、荒廃した国土の絶望的な状況を救うための部隊と補給物資の提供を命じるべきと進言したり、自らの興味を持つことを最優先に動き回る
44.12.  アルデンヌの森でのバルジの戦いでドイツ軍が最後の大反攻、アメリカ軍はベルギー南東部のシュネー・アイフェルにおいて、バターン半島での投降に次ぐ9千名近い史上2番目の大規模な集団投降を余儀なくされ、ドイツ軍は本質的に既に敗北しているものと想像していた人々を重苦しい気持ちにさせたが、大統領は動じなかった ⇒ 陸軍の補充要員要請に対し、ヨーロッパ戦域に全黒人部隊に大々的な招集がかけられた際の反応は驚異的で、多くの黒人兵士が戦務舞台から戦闘部隊へと移動、白人とともにドイツを横断して進軍を続けたとき、偏見は取り除かれていた
ローズヴェルト一家はクリスマスをハイドパークで共に過ごす。その時フランクリンが自分にとってのエレノアの価値について話す。「あんなに猛烈に忙しい女でなかったらと思う。あれほど他の約束が無ければもっと一緒に過ごせた」と言い、フランクリンにとってエレノアは「他に比べようがないほど興味深い女性」だった

第23章     祖国はいいものだ
45年が始まると、大統領の健康状態が家族や友人たちの心を占領
ローズヴェルトの孫の数 ⇒ 「パン屋の1ダース」とは数量の単位で、13を表す英語表現(稀に14)。パン屋がパンの重さをごまかして売っているという噂が流れたのを受けて、1266年にヘンリー3が公布した法律『パンとビールの基準法』では、パン屋が販売するパンの重さを誤魔化していた場合に重い罰則が定められた。個々のパンをまったく同じ重さで焼くことは困難であるし、焼きたてのパンと時間が経ったパンでは水分の蒸発によって重さが変わってしまうことがある。そこで、罰則を畏れたパン屋が、1ダース(12)を購入した客に対して、1個おまけをして13個(あるいは2個おまけして14個)で販売し、重さの誤差や、焼き上がってから時間が経って蒸発した水分の重さだけ軽くなることを予防するようになった
45.1. 就任式を狭心症の発作に見舞われながら辛うじて乗り切った後、ヤルタ会談へ
ローズヴェルトの衰弱と並行して、チャーチルの自慢の活力も衰えを見せ、くどくなって口数の多さが閣僚たちを苛立たせていた
ヤルタ会談での3首脳は、それぞれ異なった優先案件を持っていた
l  ローズヴェルトは、新たな国際機関についての合意形成と、極東におけるロシアの早期参戦 ⇒ 日本侵攻によるアメリカ側の死傷者を1百万とみていた
l  チャーチルは、大英帝国の維持と、1つの大国によるヨーロッパ支配を防ぐこと
l  スターリンは、ポーランド国境、ドイツからの賠償金、極東での他国の領土にのみ関心があり、小国が3大国と対等な1票を持つことはばかげていると暗に国際連合構想を批判
軍事顧問のパー・ワトソンが帰路艦内で脳出血により他界。ヤルタ会談の全ての議論の実質的な中心となっていた外交顧問のホプキンズも重篤で帰路は大統領に同行できず
45.3. 上下両院合同本会議で大統領が会談内容を報告した際、初めて車椅子で通路を進み、自らの障碍について言及 ⇒ 大半の国民は大統領の下肢の麻痺を知らなかったので衝撃
演説の初めにまず、「祖国はいいものだと言いたい」と切り出す
国家奉仕法を提出 ⇒ 戦争終結のために国の人的資源の全てを全面的に動員する権限を認めるものだったが、上院が個人へのこれ以上のコントロールに反対

第24章     皆が涙している
45.3. 大統領はエレノアに、4月末にサンフランシスコで予定されている連合国会議(国際連合の設立を決定)と、その後の英国への返礼訪問と欧州の前線視察への同行を求め、さらにその後には世界旅行に一緒に出掛け、中東で2,3年過ごして砂漠を植林と灌漑で再生させる夢を熱心に語る
3月末、ウォームスプリングズに2週間の休暇に出発 ⇒ ルーシーが訪問
412日午後、昼食にかかるところで、脳出血で倒れ、そのまま呼吸停止
ルーシーはすぐに荷物をまとめて退去、エレノアが代わりにワシントンの講演先から呼び戻される ⇒ 倒れたとき側にいた従姉妹から、アナの手引きでルーシーと会っていたことを知らされ、エレノアはアナを問い詰める
ホワイトハウスでの葬送式の後、柩は列車でハイドパークに運ばれ埋葬された

第25章     新たな国が誕生しつつある
エレノアはホワイトハウスを片付けてニューヨークのワシントン・スクエアのアパートに戻ると、待ち構えていた記者の一団に、「物語は終わった」とだけ言い残したが、彼女にとって新たな1章が始まりつつあった
戦争が終わり、数日後に現場監督が造船所の女性全員を集め、最初の復員船を迎えに髪を下して桟橋に行くよう求め、翌日女性は全員解雇。カイザー造船所でも、2週間でピーク時2千の子どもの世話をした保育所が永久閉鎖。エレノアはそうした流れを食い止めようとしたが無駄だった
製造業での女性の仕事は戦後急速に減少したものの、全体的な女性の雇用率は47年に再び着実に上昇し始め、間もなく戦時の最高値を超える
女性に期待されることが変化したことから離婚も大幅に増える ⇒ 軍隊生活を通じて引っ込み思案の男が強くなったことにも起因
戦争は結束を促進したが、同時に共同体の絆を破壊、人々はこれまで以上に、民族的な結びつきによるのではなく、アメリカ人としての存在証明を求めた ⇒ 外国語のラジオ放送が急激に減少、戦争の前後6年間に2百万人が帰化
戦後の発展の土台が築かれる中で、アメリカ経済は復興というより変貌を遂げ、国の歴史上最大で、ただ1度限りの、下方に向けての所得の再分配が行われ、中産階級の国が生まれた
様々な変化の全体像が理解されるまでには年月がかかるであろうが、エレノアは45年の秋には「新たな国家が誕生しつつある」と確信
エレノアが、夫の残したものの大きさを理解し始めたとき、彼女はまたルーシーがフランクリンの人生に戻ってきたこと、それを可能にしたアナの役割を受け入れた
46.1. トゥルーマンからの要請により、ロンドンで開催される第1回国際連合総会にアメリカ代表団の一員として出席、普遍的人権の分野への新たな旅に踏み出し、人権委員会の長に選出され、世界人権宣言の起草に携わるが、そのことによってエレノアは、「世界で最も称賛される人物」に、そしてその後ほぼ20年に亘ってアメリカの公的活道における重要人物になった
エレノアがフランクリンの理想のために戦い続ける限り、彼は生き続ける

後記
ハリー・ホプキンズは、ローズヴェルトの死後政権を去り、トゥルーマンが第二次大戦において連合国を結束させた非凡な能力と称賛して殊勲章(DSM:軍功以外の功績に対して贈られる最高の勲章)を贈られたが、46.1.死去。享年55
ルーシー・ラザファードは、ルーズベルトからの手紙をすべて焼却、48.7.白血病で死去、享年57
戦争中ワシントンに匿われてローズヴェルトと恋仲になったと噂されたノルウェーのマルタ皇太子妃は、45.5.ノルウェー解放後帰国したが、54年肝臓疾患で死去。享年53。皇太子は再婚せず、5691年王位継承、息子のハラルドが現国王
チャーチルは、45年の総選挙で敗れ、不朽の名作となる第二次大戦史を執筆して過ごすが、5155年首相に返り咲き、65年脳卒中で死去。享年90
アナとジョン・ベティガー(0575)は、46年アリゾナ州で新聞を買収したが経営破綻。ジョンは鬱状態となり、49年離婚し翌年投身自殺。アナは再婚(ホールステッド姓)後ガンで死去。享年69
ジョン・ローズヴェルト(1681)は、心臓疾患で死去。享年65。兄弟中唯一公選職につかず投資銀行家。52年共和党に転じ、2度結婚
FDR・ジュニア(1488)は、ガンで死去。享年743期に亘って連邦下院議員。ニューヨーク州知事選に2度出馬して落選。ケネディの選挙戦に加わり、商務次官に。5度結婚
エリオット・ローズヴェルト(1090)は、鬱血性心不全により死去。享年80。家族についての3冊の伝記作品と、エレノアを探偵としたミステリー小説などを執筆。マイアミビーチに転居、市長を務める。5度結婚
ジェイムズ・ローズヴェルト(0791)は、脳卒中による合併症で死去。享年8350年民主党のカリフォルニア州知事候補となるが落選。54年カリフォルニア選出の連邦下院議員となり6期務める。ニクソンと親しく、72年の大統領再選では、民主党内で顕著な役割を果たす。4度結婚
エレノア(8462)は、77歳で死去するまで政治上の重要人物。イスラエルのユダヤ人国家建設の積極推進者、ニューヨーク政治の立役者、民主主義的行動のためのアメリカ人(47)の創立メンバー。ハイドパークに並んだ夫妻の墓には、ただ名前と生存年が書かれているのみ

フランクリン・ローズヴェルト(上・下) [著]ドリス・カーンズ・グッドウィン
[評者]保阪正康(ノンフィクション作家)  [掲載]朝日 20141123   [ジャンル]歴史 政治 
アメリカの苦難、夫妻で乗り越え

 本書によれば、フランクリン・ローズヴェルト元大統領とエレノア夫人は、アメリカの苦難の時期を乗り越えた同志であり、戦友といった関係のようだ。ジャーナリストのジョン・ガンサーがエレノアに「大統領は何を考えているのか」と問うと、「大統領は決して考えたりしない。決断するのです」と答えたというエピソードが紹介されているが、〈考えているのは私のほうです〉との思いがあったのかもしれない。
 ローズヴェルトは、1932年の大統領選に当選して以来、それから4期にわたって当選を続ける。3選時には、175年続いた伝統を破る出来事と評された。大恐慌の克服、ナチスドイツとの戦い、チャーチル、スターリンとの連合国結成、そして日本軍国主義を受けて立つといった20世紀の人類史の動き、アメリカ国内にあっては戦時体制への切り替え(40年にはアメリカ陸軍の軍事力は世界で18位)、公民権運動への理解、女性の地位向上など、この夫妻は誠実に、そしてひとつひとつ丹念に解決の糸口を見つけていく。根底にはローズヴェルトの歴史観や政治観があったにせよ、それを国民に説き、さまざまな場で実践してみせたエレノアの力は大きい。
 本書はあたかもローズヴェルトの評伝のように見えるが、その実エレノアがどのように夫を支えたかを具体的に検証するという意味では、むしろ「ファーストレディー物語」と言っていい。
 ローズヴェルトとエレノアは縁戚関係にあり、10代の終わりにローズヴェルトが2歳下のエレノアを見初めることから人生は始まっている。19405月に、ナチスがフランスなどを制圧するころから、ローズヴェルトの死(454月)までを、ホワイトハウスに住む大統領夫妻の動きを通して、権力内部の人間模様を描いている。当時を知る関係者86人から話を聞き、公式の史料や私信類の提供を受け、2人の恋愛やローズヴェルトの側近たちの考え方や人間像を追う。
 ローズヴェルトは下肢マヒで車椅子生活を送るが、愛人との恋愛の細部にまで筆は及ぶ。さらにチャーチルとの交流を通して歴史観の違いを浮きあがらせる。エレノアに思いを寄せる通信社記者の話なども人間臭く、この率直さが本書の魅力といっていい。
 その半面、ローズヴェルトがそれぞれの段階でどのような決断をしたのか、との歴史的分析は少ない。そこを期待して読むと必ずしも満足感は得られない。しかしローズヴェルトには、「時機を読む優れた才能」があり、エレノアには戦時下での果敢な行動力があった。2人の性格が相俟(あいま)って、時代の指導者足り得たのだろう。
    
 砂村榮利子・山下淑美訳、中央公論新社・上下各4536円/Doris Kearns Goodwin 米国生まれ。ジャーナリスト。ハーバード大で博士号取得。6768年、ホワイトハウス・フェロー。著書『リンカン』『来年があるさ』など。本書でピュリツァー賞を受賞。





Wikipedia 
フランクリン・デラノ
・ルーズベルトFranklin Delano Roosevelt18821301945412)は、アメリカ合衆国政治家。姓はローズベルト、ローズヴェルトとも表記[1]民主党出身の第32大統領1933 - 1945)。第26代大統領セオドア・ルーズベルトは従兄(12親等)に当たる。
概要[編集]
世界恐慌第二次世界大戦時のアメリカ大統領であり、20世紀前半の国際政治における中心人物の1人。ルーズベルトのニューディール政策と第二次世界大戦への参戦による戦時経済はアメリカ合衆国経済を世界恐慌のどん底から回復させたと評価される。ラジオを通じて国民との対話を重視した。歴代アメリカ合衆国大統領のランキングでの人気投票でほぼ上位5傑に入るなど、現在でもアメリカ国民からの支持は根強い。その一方、ソビエト連邦の独裁者ヨシフ・スターリンに対する容共的な姿勢を取り、その侵略行為を黙認したことは後に批判の対象となった。中国に対しては日中戦争の際に蒋介石を強く支持し莫大な軍事費の借款を行っていた中国びいきと言われた。
ルーズベルトはアメリカ政治史上で唯一4選された大統領である。初代のジョージ・ワシントン大統領が3選を固辞した故事から大統領は二選までというのが慣例だったが、戦時・有事を理由に1940年・1944年の大統領選に立候補し当選した。後に憲法が改正され(修正第221951年)、正式に大統領は2期までと定められた。また、アメリカ史上唯一の重度の身体障害を持つ大統領でもある。
アメリカ経済の回復は同時に、第二次世界大戦が起こるまでの間、デトロイト市の大工業地帯[要出典]を枢軸国に対する「民主主義の兵器廠」に発展させた。これは戦後、アメリカが国際的な覇権を握る原動力となった。ルーズベルトの平和に対する国際組織の展望は死後に国際連合として結実した。
ルーズベルトの評価は立場で大きく分かれる。リベラル派(自由主義)から見ると、ニューディール政策をはじめとしたケインズ福祉国家的政策の開始は「恐慌への対策を具体化したもの」として評価され、「はじめて本格的な貧困層対策に取り組んだ」大統領として評価される。それまで南部の地域政党的色彩が強かった民主党に「世界恐慌の結果発生した貧困層の救済」という新たな目的を打ち出し、この2つの支持基盤を合わせる事によって「ニューディール連合」と呼ばれる大きな民主党支持基盤を形成してその後数十年に渡る議会における民主党の優位をもたらした。保守派の中でも、ロナルド・レーガンは、ルーズベルトのリーダーシップを賞賛した。他方、小さな政府を唱える保守派はニューディールにきわめて否定的な評価をしており、民主党のニューディール連合を崩すことで1980年代以降の共和党の勢力拡大は成功したといえる。ニューディール政策については、現在でも経済学者の間でその評価は分かれている。
また、最高裁判事の人事への介入による三権分立の民主主義原則への抵触や、大戦中に日系人にのみ強制収容を行った事や、政権期間を通じて行われたアフリカ系アメリカ人の公民権運動に対する事実上の妨害という人種差別的観点から行われた政策は、その立場を問わず大きな批判の対象となっただけでなく、アメリカにおける人種差別の解消を遅らせる要因の1つとなった。この民主党政権としての「貧困層」と「人種マイノリティ」という別々の背景を持ったアメリカ社会における弱者に対する矛盾した態度の解決は、1960年代ジョン・F・ケネディリンドン・B・ジョンソンの政権まで持ち越される事となる。
在任日数4422日は、アメリカ大統領史上最長である。
生い立ちと家族[編集]
1882130日にニューヨーク州北部のハイドパークで生まれる。彼の父親ジェームズ・ルーズベルト(1828 - 1900年)は、デラウェア・アンド・ハドソン鉄道の副社長であり裕福な地主であった。ルーズベルト家[2]1650頃にオランダハールレムからニューヨーク(当時はニュー・アムステルダム)に移住したクラース・ヴァン・ルーズベルトに始まるユダヤ系といわれる。1788にアイザック・ルーズベルトがポキプシーで行われたアメリカ合衆国憲法制定会議のメンバーとなり、それは曾々孫であるフランクリンの大きな誇りとなった。
18世紀にルーズベルト家は「ハイドパーク・ルーズベルト」家(19世紀には民主党支持となる)と「オイスター・ベイ・ルーズベルト」家(共和党支持)の二つに分かれる。オイスター・ベイの共和党員であった第26代大統領のセオドア・ルーズベルトはフランクリンの従兄であった。両家は政治的な違いにもかかわらず、親交が続いた。[3]
フランクリンの母親サラ・デラノ(Sara Delano 1854 - 1941)は、フランスプロテスタント教徒(ユグノー)であり[4]、デラノ一族は阿片戦争の頃から中国とアヘンを含む貿易を手広く行って財を為していた[5]。フランクリンはサラが生んだ唯一の子供(大変な難産)であり、ジェームズは再婚で、フランクリンが生まれたとき54歳と高齢(すでに長男ジェームズに息子、つまり孫がいた)であった。サラはフランクリンの幼少時のみならず、生涯、支配的な影響を与えた[6]
この時代の富豪の子弟の例に漏れず、フランクリンは家庭教師の手によって教育を施された。同世代の子供と交わる機会はほとんどなかった。14歳の時、名門グロトン校に入学を果たしたものの、寄宿舎生活にはなじめなかった。 1904ハーバード大学1908にはコロンビア大学ロースクールを卒業。大学時代のフランクリンは学内紙の編集長を務める活躍ぶりを見せる一方で、セオドアも会員名簿に名を連ねていた名門クラブ『ポーセリアン』への入会に失敗している。
1908にウォール・ストリート法律事務所での仕事を引き受ける前、1905聖パトリックの祝日にセオドア・ルーズベルトの姪(弟の子)のアナ・エレノア・ルーズベルトと結婚した。この結婚式には、大統領セオドア・ルーズベルトがエレノアの父親代わり(実父はすでに逝去)に出席した。6人の子供をもうけ、4番目の息子エリオットはのちに作家となった[7]
19111011日にフリーメーソンに加入した[8][9]
初期の政治経歴と海軍との関係[編集]
1910年の州議会議員選挙でダッチェス郡から州上院に出馬。同郡では1884年以来民主党からの議員を選出していなかった。選挙では地滑り的勝利で当選する。191111日に議員に就任し、彼は民主党を支配していた「タマニー・マシーン」に対する「反対分子」グループのリーダーとなった。連邦上院議員選挙が1911116日、民主党幹部会議と共に始まり、二つの派閥の争いのため74日間行き詰まることとなる。331日にジェームズ・A・オゴーマンが選出され、タマニー派の候補ウィリアム・F・シーハンを打ち破ることでルーズベルトは目的を達成し、ニューヨークの民主党においても名声が高まった[10]
1913年、ウッドロウ・ウィルソン大統領によって海軍次官に任命。ジョセファス・ダニエルズ海軍長官の下で同職を務め[11]、海軍の拡張に尽力し、海軍予備役部隊を設立した。中米およびカリブ海諸国への干渉のために海軍と海兵隊を派遣した。1920年の大統領選挙において、副大統領候補のルーズベルトは海軍次官として1915年にハイチに課した憲法を起草したと主張した[12]
ルーズベルトは生涯を通じて海軍への愛情を育んだ。彼は海軍予算を承認させるため議会のリーダーとその他の政府の各省と交渉した。潜水艦の導入と、ドイツ潜水艦による連合国船団への脅威に対抗する戦力導入の熱心な支持者であった。そして、ノルウェーからスコットランドまでの北海に機雷を敷設し、機雷原を作り上げるよう提案した。1918年にはイギリスフランスを訪問し、アメリカ海軍の施設を視察した。この訪問で彼は初めてウィンストン・チャーチルと面会した。191811月に第一次世界大戦が終了すると、ルーズベルトは復員業務を担当し、一方海軍の完全解体計画に反対した。19207月、ニューポート・セックススキャンダルに関連した報道で海軍次官を辞職し[13]、副大統領候補として大統領選に出馬した。
1920年民主党全国大会でルーズベルトは副大統領候補に選出され、大統領候補、オハイオ州知事ジェームズ・コックスと共に選挙戦に突入した。しかし両候補は共和党ウォレン・ハーディングに大敗。ルーズベルトは政界から引退しニューヨークで弁護士業を始め、新たに結成されたニューヨーク・シビタンクラブに加わった[14]
ニューヨーク州知事から大統領選まで[編集]
1920年代、ニューヨークで態勢を立て直し、ニューヨーク市のタマニー派との対抗馬としてその名を馳せたものの、1922年のニューヨーク州知事選ではアルフレッド・E・スミスを支援し、自らのいとこである共和党候補のセオドア・ルーズベルト・ジュニアと対抗した[15]1928年大統領選でスミスは大統領候補に指名され、ルーズベルトに自分に代わって州知事選挙に出馬するよう依頼した。スミスは自らの地元でも共和党のフーヴァーに敗れ、大統領選で大敗したが、ルーズベルトは知事に当選、改革派知事としてルーズベルトは多くの新しい社会計画を行った[16][17]
こうしてルーズベルトは民主党の主要候補となり、1932年の大統領選に出馬する。現職のフーヴァーの劣勢が明らかだったため、指名戦は激しい争いとなった。アル・スミスは何名かの有力者によって支持されたが、ニューヨーク民主党はルーズベルトが支配した。ルーズベルトは新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストやアイルランド系アメリカ人コミュニティの指導者であるジョセフ・P・ケネディ、カリフォルニアの有力者ウィリアム・マカドゥーとの個人的な関係を持ち、その支援を自らの全国的な支援運動に組み込んだ。テキサスの指導者、ジョン・N・ガーナーがその支持をルーズベルトに行うとし、ルーズベルトはガーナーを副大統領候補に指名した。選挙戦は「三つのR - 救済、回復および改革」[18])の綱領で世界恐慌と戦うとして行われ、そのスピーチの中でニューディール”(新規まき直しの意味)の用語を使用[19]1932年の選挙における勝利後の1933215日に、ルーズベルトはフロリダ州マイアミで暗殺されそうになった[20]。暗殺者はシカゴ市長アントン・J・サーマクを殺害した。
大統領職[編集]
世界恐慌に対しては有効的な対策を取れないまま大統領職を退いた前任のハーバート・フーヴァーに対し、「ニューディール政策」と呼ばれる、政府による経済への介入(積極的な経済政策)を行なった。テネシー渓谷開発公社、民間植林治水隊(Civilian Conservation Corps, CCC)、公共工事局 (Public Works Administration, PWA) 公共事業促進局 (Works Progress Administration, WPA) 、社会保障局 (Social Security Administration)、連邦住宅局 (Federal Housing Administration, FHA)などを設立し大規模公共事業による失業者対策を行うなど、ケインジアン的な政策であった。ほか団体交渉権保障などによる労働者の地位向上・社会保障の充実などの政策を行った。ルーズベルトが就任した1933年以降、景気は回復過程に入り、実質GDP1929年を上回った1936[21]大統領選挙では当時の一般投票歴代最多得票率(60.80%)で再選を果たした。しかし、1937年の金融・財政の引き締めによる景気後退[22]もあり、結局任期の1期目と2期目である1933年から1940年の期間には名目GDP[23]や失業率[24][25]1929年の水準までは回復しなかった。
その後194112月の第二次世界大戦への参戦による史上最大の軍拡、軍需経済、戦時経済の著しい増大[26]によってアメリカ経済は完全に回復し、失業者も激減した。近年では太平洋戦争が無くても成功したのではないかという意見と、最初から太平洋戦争の開戦が無ければ成功しえない政策であったという意見(ミルトン・フリードマンら)がある。アメリカ合衆国政府が公開している経済統計によると、アメリカ合衆国の実質GDP1929年を上回った年度は1936[21]、名目GDP1929年を上回った年度は1941[23]、失業率が1929年を下回った年度は1943年である[24][25]
なお前政権における清算主義金融政策からの脱却、管理通貨制度の確立[27](市民に金貨、金塊の保有禁止を命令)は、現在では大方の立場から有効な政策であったと認められている。
炉辺談話
当時最も浸透していたメディアであったラジオ放送を通して演説し、直接国民に訴えかけるスタイルを重視した、メディアを巧みに利用した大統領として知られている。ルーズベルトの行った毎週のラジオ演説は「炉辺談話 fireside chats」と呼ばれ、国民に対するルーズベルトの見解の発表の場となった。それはルーズベルトの人気を支え、大戦中のアメリカ国民の重要な士気高揚策となった。
内閣[編集]
職名
氏名
任期
フランクリン・D・ルーズベルト
1933 - 1945
1933 - 1941
1941 - 1945
1945
1933 - 1944
1944 - 1945
1933 - 1936
1936 - 1940
1940 - 1945
1933 - 1934
1934 - 1945
1933 - 1939
1939 - 1940
1940 - 1941
1941 - 1945
1933 - 1940
1940 - 1945
1933 - 1939
1940
1940 - 1944
1944 - 1945
1933 - 1945
1933 - 1940
1940 - 1945
1933 - 1938
1939 - 1940
1940 - 1945
1945
1933 - 1945





最高裁判所判事
·         ハーラン・F・ストーン(最高裁長官, NY194173 - 1946422
第二次世界大戦への参戦[編集]
1910年代から1930年代の戦間期のアメリカ海兵隊は、独立した戦闘能力を維持するために小規模な師団的な部隊を大隊単位で恒常的に設置するようになり、中米カリブ海諸国に派遣されていたが(バナナ戦争)、1927ニカラグアで始まったサンディーノ戦争で、アウグスト・セサル・サンディーノ将軍率いるゲリラ部隊に苦戦し、1933に大統領に就任したルーズベルトは、ニカラグアと他の中米諸国から海兵隊を撤退させ、軍事占領を解く代わりに、キューバにはバチスタ政権ニカラグアにはソモサ政権などのアメリカ合衆国の傀儡政権を樹立して間接的に支配する政策に転換し、ドミニカ共和国トルヒーヨ政権のようにすでに樹立されていた傀儡政権に対する支配を継続した。ルーズベルトを支持する人はその政策を軍事占領を解いたことを論拠にして、傀儡政権による間接支配政策は論拠にせずに善隣外交スペイン語版英語版)と表現している。193312月、海軍長官命で艦隊海兵軍が創設された[28]。これは、海兵隊に長期遠征から敵海軍基地の奪取という任務の変化をももたらした[29][30]
ルーズベルトは就任してから1937の隔離演説発表まで、表面上は日本に協調的姿勢を見せて日本と中国間の紛争には一定の距離を置く外交政策を取っていた。[31]
1939に始まったヨーロッパにおける戦争に対しては、当初イギリス寄りではあったものの、武器援助以外には基本的には介入しない政策を取っていた。これは、第一次世界大戦に参戦した経験からヨーロッパの戦争に関わるのは極力避けたいと考えていたアメリカ国民の世論を意識してのことであった。
当時ヨーロッパ戦線においてアドルフ・ヒトラー率いるドイツ軍に、イギリス本土上陸寸前まで追いつめられていたイギリスウィンストン・チャーチル首相や、日中戦争下にあった中華民国蒋介石総統の夫人でアメリカ留学経験もある宋美齢が、数度にわたり第二次世界大戦への参戦や日中戦争におけるアメリカの支援、参戦をルーズベルトに訴えかけていた[32]
当時のアメリカ政府としては、イギリスや中華民国に対し、多大な支援を行っており、特に多額の戦債をつぎ込こんだイギリスが負けることは避けたかった。だが、大統領だったルーズベルトも選挙では、戦争に介入をしないと宣言をして当選しており、参争したくても出来ない状況にあった。ルーズベルトはモンロー主義に閉ざされていたアメリカ国民に対し、「欧州やアジアの戦争はアメリカに関係ないという人たちがいる。しかし戦争を引き起こしている者にアメリカにつながる大海原の支配権を渡すわけにはいかない」とラジオで諭している。
隔離演説から参戦まで[編集]
隔離演説[編集]
1937年には、最高裁改革の失敗や労働争議の頻発、景気後退、さらにはまたルーズベルトと同じ民主党の保守派議員が、ニューデュール阻止のために共和党との超党派ブロックを結成するなどして、ルーズベルトは孤立し、議会に対する影響力を低下させており[33]、その様子はまるで「まったく棄てられた指導者」であったといわれる[34]
1937830日、中国は国際連盟に対して、日本の行動は不戦条約および九ヶ国条約に違反すると通告し、措置 を取るよう提訴した。96日にはルーズベルトは「世界の政府間の平和のためにアメリカが先頭に立って 大掃除をする準備ができていることを公にする」とヘンリー・モーゲンソー財務長官とハル国務長官に語り[33]1937(昭和12)105日、世界でおこなわれつつあるとする侵略行為を非難するために「病人」になぞらえて隔離演説(隔離声明、防疫演説)(en:Quarantine Speech)をシカゴで行った[33]
「世界の九割の人々の平和と自由、そして安全が、すべての国際的な秩序と法を破壊しよう としている残り一割の人々によって脅かされようとしている。(…)不幸にも世界 に無秩序という疫病が広がっているようである。身体を蝕む疫病が広がりだした場合、共同体
は、疫病の流行から共同体の健康を守るために病人を隔離することを認めている」[35] [36]
演説は直接には特定の国家を名指しすることはなかったものの、一般には従来の棍棒外交をあらためて否定し、ドイツやイタリア、日本などの国家実行を非難するルーズベルトの政策理念を表明する演説と考えられている。演説のなかでは、「宣戦の布告も警告も、また正当な理由もなく婦女子をふくむ一般市民が、空中からの爆弾によって仮借なく殺戮されている戦慄すべき状態が現出している。このような好戦的傾向が漸次他国に蔓延するおそれがある。彼ら平和を愛好する国民の共同行動によって隔離されるべきである」とも語られた[37]。なおハルの証言では、アメリカ国務省が作成した演説原案には「隔離」の部分はなく、演説直前にルーズベルト自身が入れた[38]
1938106日には国務省声明を発表し、中国における日本の行為を、アメリカは九カ国条約とケロッグ-ブリアン条約(パリ不戦条約)違反だとみなし、声明は国際連盟の決議に沿うものとして、日本を明確に名指した[39] [Department of State 1943: 387-388]
隔離演説の反響[編集]
隔離演説はニューヨーク・タイムズやコロンビア大学学長のニコラス・バトラーから賞賛される一方、ウォールストリート・ジャーナルは「外国への手出しをやめろ、アメリカは平和を欲する」という記事を掲載し、またシカゴ・ トリビューンは、ルーズベルトはシカゴを「戦争恐怖の世界的ハリケーンの中心」に変えたと報じ[40]、またハル国務長官もこの「隔離」や「伝染病」というレトリックは無用の反対をもたらしたとして批判した[33]。さらにクリスチャン・センチュリー紙は「もしアメリカが中国のために参戦すれば、その結果はひとりロシアの勝利に終わるであろう」と警告した。挑発的な内容を持つこの隔離演説はアメリカ国内で非難を受け、演説後、6つの平和主義団体が「ルーズベルトはアメリカ国民を世界大戦の道に連れて行こうとしている」との声明を出した。アメリカ労働総同盟は「アメリカの労働者はヨーロッパ、アジアの戦争に介入することを欲しない」との決議を行った。アメリカを参戦させないための請願に2500万人の署名を求める運動も始まった。
日本でこの隔離演説が報道されると、毎日新聞は「米大統領の諷刺演説に應酬率直にわが眞意吐露戦争も已むを得ず」「紛争國隔離を提唱米大統領演説」と題した記事で、朝日新聞は「米大統領獅子吼平和確保に協力せん」と題した記事においてこの演説が日本を指すものとして報道した[41]。また松方幸次郎は日本駐在のユージン・ドゥーマン参事官に対して日本海軍はこれまで慎重論であったが、この隔離演説に対して強烈な反感を抱いていると伝えた[42]
駐米ドイツ大使のハンス・ディックホフ[43]は、演説の直接的なきっかけは、中国での日本の行動にあり、また大統領を悩ませていた黒人問題から大衆の気を逸らせる意図もあるとドイツ本国へ伝えた[44] なおニューヨークタイムズ記者のアーサー・クロックは「隔離声明以来、ルーズベルト大統領は、日本の敵意を煽り、枢軸側へ追いやるために、あらゆる手段を駆使した」としている[45]。スターリンと親交のあったルーズベルトは、ソ連によるフィンランドポーランド、およびバルト三国侵略については黙認していた。
また隔離演説は、アメリカ国民を戦争に順応させるレトリック的キャンペーンの始まりを告げるものであったともいわれる[46]
ブリュッセル会議とパナイ号事件[編集]
中国の国連への提訴と、アメリカ大統領による隔離演説を経て、同年113日から24日にかけて、ブリュッセル会議(九ヶ国条約会議)が開催。日本側は出席を拒否した。アメリカは隔離演説で見せたような挑発的な言明は避け,会議でウェルズ国務次官は「日本を侵略者呼ばわりするのは我々の考えではない。日本を懲罰するのではなく単に意見を交換するだけだ」と述べ[47]、中国を失望させた。
1212日には、日本海軍機が米国の警備船「パナイ号」を爆沈したパナイ号事件が起きるが、アメリカはこの事件をもって開戦とはしなかった。西川秀和はその理由を「日本政府が速やかに賠償に応じたことも一因であるが、アメリカ国民の一般感情が強硬策を求めるまでに沸騰しておらず、 第一次世界大戦後の孤立主義的傾向を完全に払拭するまでに至らなかったことに大きな原因がある」としている[33]。ルーズベルトはパナイ号事件に激怒していたが、隔離演説で予想を上回る反発が世論に起きたため、挑発的な言辞を使用することも報復的な対策をとることもなかった[48]
詳細は「パナイ号事件」を参照
対中支援工作[編集]
ルーズベルトは、1937盧溝橋事件勃発後の日中戦争にあたり、大量の軍事物資を援蒋ルートを通じて蒋介石率いる国民党政権に送り続けた。1939には日本の中国侵略に抗議するとして日米通商航海条約の廃棄を通告し、日米関係は無条約時代に入った。また、クレア・リー・シェンノートが当時は国民党に雇用されていて、シェンノートの指揮のもとに組織されたアメリカの退役軍人を中心としする義勇軍「フライング・タイガース」を1941に中華民国へ派遣させるなどした。なお蒋介石は、1928年からドイツ軍事顧問団による指導を受けていた(中独合作を参照)が、1938に軍事顧問団は引き上げている。また蒋介石の顧問に任命されていたオーウェン・ラティモアは日本軍の中国撤兵を要求する暫定協定に反対するよう蒋介石に助言してもいる。
レンドリース法[編集]
19413月にはレンドリース法(武器貸与法)を成立させ、大量の戦闘機・武器や軍需物資を中華民国、イギリス、ソビエト連邦、フランスその他の連合国に対して供給した。終戦までに総額501億ドル(2007年の価値に換算してほぼ7000億ドル)の物資が供給され、そのうち314億ドルがイギリスへ、113億ドルがソビエト連邦へ、32億ドルがフランスへ、16億ドルが中国へ提供された。
日米交渉から開戦まで[編集]
4月からは日中間の戦争調停と日米間の合意を目指す日米交渉が本格化した。しかし日独伊三国同盟問題や満州国など日米の溝は大きく、交渉はまとまらなかった。当時日本の指導部は日米の国力の差を考え対米戦争に対して消極的であった [49]
しかし、194172日に策定された情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱によるフランス領インドシナやオランダ領東インドへの進駐計画はアメリカとの衝突をも予期したものであった。日本が平和目的であるとしながらも南部フランス領インドシナ進駐をほのめかすようになると、725日に在アメリカの日本資産凍結を行った。しかし728日に進駐が実行され、81日にアメリカは「日本を含む全侵略国」への石油禁輸を行った。第二次世界大戦における自陣営拡大の希望を持つドイツ[50]とイギリスは日米交渉打ち切りを外部から働きかけていた。
817日の野村・ルーズベルト会談において、豊田貞次郎外相は首脳会談による調整を提案したが、ルーズベルトは日本側の態度変更がない限り応じられないと回答した[51]。またハミルトン・フィッシュen:Hamilton Fish III)によれば、近衛首相はルーズベルト大統領との会談を希望したが、すでに対日戦を決意していたルーズベルトは会談の要請を拒絶したという[52]。また在日米国大使のジョセフ・グルーも首脳会談の開催を強く要請したが、ルーズベルト政権は「会談の必要なし」として却下している。
1127日に日本側が最後通告と受け取ったハル・ノートが手交された。日本側は121日の御前会議で対米開戦を正式決定したが、126日にルーズベルトは昭和天皇宛に「平和を志向し関係改善を目指す」親電を送った[53]。しかしこの日は日本側の交渉打ち切り文書である「対米覚書」が野村吉三郎大使に渡された日だった。
1941127(日本時間で128)の日本軍の真珠湾攻撃により太平洋戦争が勃発し、翌日(128)には、「Pearl Harbor Address to the Nation」(=真珠湾攻撃を国民に告げる)として、日本への宣戦布告を議会に求めた(演説の冒頭で「a date which will live in infamy=屈辱の日英語版)」の表現を用いた)。上院は全会一致、下院は1人が反対したのみで、宣戦布告を認めた。その後、ルーズベルトがイギリス首相チャーチルに「我々は同じ船に乗りました、日本は攻撃してきました」と報告した際、チャーチルは手を叩いて喜んだ[54]。その後議会で日本軍の「卑劣な騙し討ち」を非難し、その日のうちに宣戦布告の誓約に署名して日本との戦争に突入した。
対日・対中政策[編集]
中国が経済的・軍事的に弱体化して日本と単独講和をする可能性があったため、ルーズベルト政権は対中援助政策を積極的に行った[55]蒋介石の国民党軍が日本軍に敗北を繰り返し、多くのヨーロッパ諸国やアジア諸地域が枢軸国に占領され連合国戦線から脱落しているにも関わらず、ルーズベルトは中国を戦線からの脱落をさせないために軍事援助の借款や蒋介石のカイロ会談出席と台湾の返還、さらに沖縄の中国による領有を主張し(蒋介石は沖縄領有を断った)、中国の常任理事国入りを強く希望し、米英ソ中が世界平和の維持する「四人の警察官構想」を抱いていた。ルーズベルトは米英の支援を受けた中国軍が中国の日本軍を撃破して、米軍のB29機が中国から日本本土へと空襲、中国軍が朝鮮半島から日本本土に侵攻する対日戦略を想定したが、これは中国の戦力の実態を認識していないルーズベルトがテヘラン会談におけるソ連の役割をカイロ会談で中国に当てはめたようなものであまりにも無理な作戦であった。しかも、ヨーロッパ戦線がアメリカの主要な関心事だったので、中国戦線に十分な物資を割り当てることができず、1942年のビルマの戦いで日本軍によって援蒋ルートが遮断されると、1944年にそれが復活されるまでの間は物資輸送は空輸に頼らざるを得ず、深刻な物資不足に陥った。また、中国は列強のソ連とは軍事力も工業力も経済力も大きく隔絶していた。
アメリカが参戦して以降、ルーズベルトは外交政策について国務省をほとんど頼らず、ハリー・ホプキンスのような個人的特使や大統領付軍事顧問であるウィリアム・リーヒなどとだけ相談して物事を進めてしまったため、国務省はルーズベルトが描いている戦争の遂行、終結についての構想を全く知らされていなかった[56]
カイロ会談で米英中は対日戦継続を宣言したが、ルーズベルトの期待に反して1944年の大陸打通作戦で中国国民党軍は日本軍に大きな打撃を受け、軍事的考慮よりも政治的考慮を優先したルーズベルトの対中政策は統合参謀本部から強硬に批判され[57]、アメリカ側は対日戦略をアイランド・ホッピングに変更した。
ルーズベルトの対中姿勢は理想的であったが、チャーチルとスティルウェルの対中姿勢は現実的であった。チャーチルは、中国を対日軍事拠点とする事、蒋介石をカイロ会談に出席させる事、台湾を中国に返還する事に反対し、さらにスターリンに対してと同じく中国へも常任理事国入りするのを反対した。回顧録では「(カイロ会談の時)蒋介石は権力の絶頂に立っていた。アメリカ人の目には彼は世界第4位の国の指導者であり、新アジアのチャンピオンだった。私はこういったものは過剰であって、中国の戦闘能力にしても未来の地位にしても疑問に思っていた。
これ以外にも、歴史家や野党の共和党議員などからは、「ルーズベルトは日本軍の真珠湾攻撃についての情報を前もって入手しており、アメリカが第二次世界大戦に参戦する理由づけとしてそれを看過した」と主張がなされることがある(真珠湾攻撃陰謀説)。 また、阿片戦争の頃から中国とアヘンを含む貿易を手広く行って財を為した母方の祖父の影響で、ルーズベルト本人が幼い頃から中国文化に深い愛着を持ち、中国人に対して同情的かつ友好的な考えを持つ親華派であることを明言し[58]、その中国を侵略している日本人に対しては強い反感を抱いていたことは周知の事実である。
「人種改良論者」[編集]
ルーズベルトの人種観、特に異人種間の結婚に対する考えはやや一貫性のないものである[59]。太平洋戦争会議(Pacific War Council)では、「人類は、均等な機会が与えられるのならば、うまく混ざるだろう。(戦後は[引用者註])我々が知っているような人種差別は軽減されて、世界の国々は人種のるつぼのようになるだろう」と語る一方で[59]、駐米イギリス公使ロナルド・キャンベル(Ronald Hugh Campbell)との私的な会話では、ルーズベルトは、スミソニアン博物館の研究者による、日本人の頭蓋骨は「われわれのより約2000年、発達が遅れている」という見解を紹介した上で、「人種間の差異を重視し、人種交配によって文明が進歩する」などと語り、「インド系やユーラシア系とアジア人種、欧州人とアジア人種を交配させるべきだ。だが日本人は除外する」、「日本人が敗北した後は、他の人種との結婚をあらゆる手段を用いて奨励すべきである」などとキャンベルに語ったという[59][60]
この様な自らの人種差別的感情と、第二次世界大戦以前からのアメリカにおける日本人に対する人種差別的感情を背景に、194112月の対日開戦後には妻・エレノアからの反対をも押しのけて、大戦中にアメリカ国内とアメリカの影響下にあったブラジルメキシコペルーなどの中南米諸国において、ヒトラーのユダヤ人強制収容と同様の日系人の強制収容政策を推し進め、自由を束縛するとともに財産を放棄せざるを得ない状況に追い込んだ。
原子爆弾の開発政策(マンハッタン計画)[編集]
ルーズベルトは、1939年にレオ・シラードアルベルト・アインシュタインのからの書簡を契機に、原子爆弾の開発計画であるマンハッタン計画を推進した。1941にイギリスからユダヤ系科学者オットー・フリッシュルドルフ・パイエルスの記した核エネルギーの兵器応用のアイディアを伝えられ、核兵器実現の可能性が高まると、19426月、ルーズベルトは国家プロジェクトとしての研究着手を決意する。プロジェクトの実施にあたっては「陸軍マンハッタン工兵管区」と名称が付けられた組織が行うこととなった。責任者はレズリー・リチャード・グローヴス准将が19429月に着任した。
連合国首脳との会談[編集]
ルーズベルトは、大戦中に数度にわたり他の連合国首脳と会談している。 1943114には、イギリスのチャーチル首相と会談するためフロリダ州マイアミからモロッコカサブランカに出発した。彼は飛行機で外国を訪問した最初のアメリカ大統領になった。 会合は124日に終えたが、会談最終日にルーズベルトは第二次世界大戦の趨勢に重大な影響を及ぼすことになる「枢軸国との一切の和平交渉を拒絶し、無条件降伏を唯一の戦争終結とする。」という原則を表明した。 これは戦争の終結が条件付き講和という方法が遮断されていて無条件の降伏しかないならば、枢軸国は敗戦濃厚となっても休戦という決断は取らないで必然的に破れかぶれで戦争の継続を突き進む可能性が高いと考えられて(実際にドイツはそうなった)、弊害の方が大きいとしてチャーチルはじめ反対意見が少なくなかった。 またチャーチルはイタリアを枢軸国側から離脱するよう誘うためにも、枢軸国一律に無条件降伏を要求することは同意していなかった。 しかしこうした重大な政治的、軍事的要素をはらむ問題にも拘らず、ルーズベルトは事前に国務省から意見を聞いたり、チャーチルから承諾を得たりすることも無しに、独断で連合国首脳の総意であるかのように記者会見でコメントした。 これは当時、アメリカ世論がルーズベルト政権に対して「戦争の早期終結のため枢軸国勢力と安易に取引するのでは?」と不信感を抱いており、ルーズベルトはこの疑惑を払拭する何らかの意思表示をする必要性から無条件降伏の原則を発表した。 ルーズベルト政権に疑惑が生じた背景には、その前年の1942に米英軍が実施した親ドイツ姿勢ヴィシー・フランス支配下の北アフリカへの上陸作戦(トーチ作戦)において、ナチス・ドイツのフランス国内でのユダヤ人迫害政策に加担していた、ヴィシー・フランス軍司令官フランソワ・ダルランとルーズベルト政府が秘密裏に休戦交渉していたことが露見して、アメリカのマスコミから「ルーズベルトはファシズム勢力と妥協した」と激しく非難されていた経緯があった[56]
同年11月にはエジプトのカイロで行われたカイロ会談において、中華民国蒋介石総統とチャーチル首相とアジアにおける戦後処理について話し合った。その後チャーチル首相とともにイランテヘランに移動してソ連ヨシフ・スターリン書記長と会談。
19441014、ルーズベルトは日本の降伏を早めるために駐ソ大使W・アヴェレル・ハリマンを介してスターリンに対日参戦を提案した[61]。同1214日にスターリンは武器の提供と南樺太千島列島の領有を要求[62]、ルーズベルトは千島列島をソ連に引き渡すことを条件に、日ソ中立条約の一方的破棄を促した。また、このときの武器提供合意はマイルポスト合意といい、翌45年に米国は、中立国だったソ連の船を使って日本海を抜け、ウラジオストクに80万トンの武器弾薬を陸揚げした[63]
194524日から11日にかけて、クリミア半島のヤルタで、ルーズベルト、チャーチル、スターリンによるヤルタ会談が開かれた。 会議では大戦後の国際秩序や、またソ連との日本の領土分割などについても話された。ヤルタ会談ではこれが秘密協定としてまとめられた[64](ヤルタ会談#極東密約(ヤルタ協定))
この会期中29日に開かれた英米軍事会議においてルーズベルトは、チャーチルから「戦争が1年でも半年でも短縮されるならば意味がある。」としてドイツ、日本との戦争終結に際しての降伏条件に何らか緩和するように提言された。それに対しルーズベルトは「そうした考えは、世界情勢に無知であり、今なお自国に有利な譲歩を得られると考える日本人に、そのような条件緩和を行うことが有効だとは思えない。」と一蹴し、あくまでも無条件降伏を要求し続けるとの姿勢を固持した[65]
そしてヤルタ会談においてルーズベルトは、ドイツ降伏後も当分の継続が予想された対日戦を、降伏条件を緩和することなしに早期に終結させるため、スターリンに対し千島列島南樺太のソ連への割譲を条件にドイツ降伏後3ヶ月以内の対日参戦を要求した。
勝利を目前にした死[編集]
ルーズベルトは共和党候補トーマス・E.デューイに勝ち、1944117日に先例のない4選を果たした。しかしながら肖像画の制作途中、1945412の昼食前に脳卒中で死去し、副大統領ハリー・S・トルーマンが大統領に昇格した。その後5月にはドイツが降伏、8月には日本が降伏して第二次世界大戦が終結する目前の死であった。[66]
その他[編集]
·         1911ニューヨーク州のホーランド・ロッジNo.8フリーメイソンに入会[67][68]
·         1921810カナダキャンポベロー島英語版)の別荘でリオを発症する。その後遺症により、下半身がほとんど麻痺し日常生活には車椅子を常用していた(彼が実際に罹患したのはギラン・バレー症候群であったと推測する症状比較研究がある[69]。それによれば、彼の症状の8項目のうち6項目についてはギラン・バレー症候群の症状との整合性が高く、2項目についてはポリオとの整合性が高かったという。しかし彼の脳脊髄液は採取されなかったので、断定はできない)。生前は車いすの姿をマスコミに見られるのを非常に嫌ったため、訪問先の植木や立ち木のカムフラージュのための植え替えなどを神経質なまでに指示した。また、マスコミもあえて積極的に報道しなかったため、TV時代の現代では考えられないことだが、ルーズベルトが健康を害していることは米国民にはほとんど知られなかった。実際、彼の車椅子姿の写真は2枚しか知られていない。
·         2001年に米国の身障者協会の運動で、ワシントンに車いす姿のルーズベルトの銅像が立てられた。
·         ルーズベルトの肖像は、国の10セント銀貨に採用されている。
·         ルーズベルトは切手収集家としても有名であった。そのため在任中に発行された多くの切手について、郵政当局に発行の要望を提案、これを実現させるのみならず、(歴代大統領肖像図案の普通切手、国立公園切手、枢軸国に占領された国の国旗切手など)デザインの選定やシリーズの構成にまで関与した。切手収集家のためのサービス向上にも熱心で、切手カタログへの図版掲載に柔軟に対応できるよう法改正を進めた(これ以前は、たとえモノクロであっても切手の一部しか掲載することはできなかった)ほか、切手発行初日に特別の消印を使用させるなど、様々な施策をとった。個人的な趣味が行政に影響を与えたが、切手や彼が導入した施策は内外の切手収集家により、現在でも高く評価されている。またモナコで戦後発行された彼の追悼切手には切手を整理する姿が描かれている。
·         推理小説の大ファンでもあり、ベーカー・ストリート・イレギュラーズの会員であった。また、彼自身が思いついたプロットでSS・ヴァン=ダインらが『大統領のミステリ』と題するリレー長編を執筆したこともある。
·         ハーバート・フーヴァーは自著『Freedom Betrayed(裏切られた自由)』においてルーズベルトのことを「日本との戦争の全てが、戦争に入りたいという狂人(ルーズベルト)の欲望だった」と、手厳しく批判を重ねている。

マルチメディア[編集]
フランクリン・ルーズベルトが登場する作品[編集]
映画[編集]
·         ルーズベルト物語 - ルーズベルトの伝記映画。ラルフ・ベラミが演じた。
·         パール・ハーバージョン・ヴォイトが演じた。
·         アニー
·         私が愛した大統領
脚注[編集]
1.   ^ フランクリン自身も米国人一般も/ˈroʊzəvəlt/二重母音で発音する。日本では、綴りに引かれて/ˈruːzəvɛlt/長母音で発音してしまう例が多い。
2.   ^ ルーズベルト家のもともとの姓はRozenvelt ローゼンヴェルト, 英語で 'field of roses'の意
3.   ^ ジェームズ・ルーズベルトはオイスター・ベイの一家の集いで妻に出会い、またフランクリンはセオドア・ルーズベルトの姪(この姪は後の妻・アナ・エレノア・ルーズベルトとは別人)と結婚する予定であった。
4.   ^ 彼女の祖先は1621にマサチューセッツに移住したフィリップ・デ・ラ・ノイ(Philippe de Lannoy)であった。その彼女の母親ライマンはアメリカの非常に古い家系のうちの一つの出身であった
5.   ^ 東久邇日記
6.^ フランクリンは後に友人に生涯、母親を恐れていたと語っている。
7.
·         アナ・エレノア・ルーズベルトAnna Eleanor Roosevelt...母親と同名 190653 - 1975121日)
·         ジェームズ・ルーズベルトJames Roosevelt 19071223 - 1991813日)  海兵隊士官としてマキン奇襲などに参加。
·         フランクリン・デラノ・ルーズベルト・ジュニアThe first Franklin Delano Roosevelt Jr. 1909318 - 1909111日)
·         エリオット・ルーズベルトElliott Roosevelt 1910923 - 19901027日)
·         フランクリン・デラノ・ルーズベルト・ジュニアThe second Franklin Delano Roosevelt Jr. 1914817 - 1988817日)
·         ジョン・アスピノール・ルーズベルトJohn Aspinwall Roosevelt 1916313 - 1981427日)
·         愛犬・ファーラ(他、犬を数匹飼っていた) ファーラはフランクリンの死後も、車のクラクションを聞いては主人が帰ってきたと思ったらしく、立ち上がったという。
·         愛人・ルーシー・ページ・マーサー・ラザーフォード(Lucy Page Mercer Rutherfurd 1891426 - 1948731)  元エノリア・ルーズベルトの個人秘書。1918年以前にフランクリン・ルーズベルトの愛人になる。フランクリン・ルーズベルトの急死時(1945年)も付き添っていて最期を看取った。
10.^ 1912年の州議会議員選挙で再選されたが、海軍次官の職を引き受けるため1913317日に議員を辞職した。Smith, FDR, pp 51-98
11.^ 1914年、連邦上院議員選挙の民主党予備選挙でタマニー協会の候補ジェームズ・W・ジェラードに敗れる。
16.^ そして、フランシス・パーキンスハリー・ホプキンスから助言を受けた。
17.^ 1930年の再選のキャンペーンでは、ルーズベルトはニューヨーク市のタマニー協会の協力を必要とした。しかしながら、共和党の対抗馬チャールズ・H・タトルは選挙の争点としてタマニー協会の不正を取り上げるが、ルーズベルトは70万票以上の差をつけてタトルに勝利、2期目を務めることとなったWhitman, Alden (1976610). “Farley, 'Jim' to Thousands, Was the Master Political Organizer and Salesman”. The New York Times. p. 64
32.^ ただし、ルーズベルトが参戦を望んでいたのはアメリカの権益・領土に直接害が及ばないヨーロッパ戦線であり、ハワイフィリピンなどの、アメリカ領土や植民地、中華民国内の租界などのアメリカの利権に直接被害が及ぶ可能性の高く、(ヨーロッパと太平洋の)2つの戦線で戦うことになる対日開戦には消極的であったとも言われている[要出典]
52.^ ハミルトン・フィッシュen:Hamilton Fish III)は「非常な平和愛好者である首相の近衛公爵は、ワシントンかホノルルに来てもよいからルーズベルト大統領と会談したいと、繰り返し要望していた。彼は、戦争 を避けるためには、米国側の条件に暫定協定の形で同意する意志があったが、ルーズベルトは、すでに対日戦、およびその帰結としての対独戦を行うことを決意 していたというだけの理由で、日本首相との話し合いを拒否した」としている。ハミルトン・フィッシュ『日米・開戦の悲劇』PHP文庫、1992
69.^ What was the cause of Franklin Delano Roosevelt's paralytic illness?Journal of Medical Biography. 11 : 232-240,2003




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