軍服を着た救済者たち  Wolfram Wette  2014.9.2.

2014.9.2.  軍服を着た救済者たち ドイツ国防軍とユダヤ人救出作戦
Retter in Uniform  Handlungsspielräume im Vernichtungskrieg der Webrmacht
2002

編者 Wolfram Wette 1940年生まれ。作家。政治学・歴史学・哲学を学ぶ。71年ミュンヘン大で学位取得。91年フライブルクで教授資格取得。7195年フライブルク・イム・ブライスガウの軍事史研究所で歴史を研究し、フライブルク大の歴史ゼミナールで近現代史を担当。ドイツ軍事史の権威。95年以降フリーの作家

訳者 関口宏道 1941年生まれ。東外大ドイツ語科卒。早大大学院文学研究科博士課程修了。マンハイム大、ビーレフェルト大留学。玉川大教授を経て現在松蔭大教授。専攻はドイツ現代史

発行日           2014.5.15. 印刷               6.5. 発行
発行所           白水社


Ø  歴史研究の問題としての国防軍援助者と救済者
ナチ時代の援助者や救済者についてはほとんどわかっていないが、スピルバーグの映画を通して企業家オスカー・シンドラーが、自分の工場でユダヤ人を雇い、機知に富んだ措置によって再三にわたり殲滅部隊の殺人的介入からユダヤ人を守り、数千人のユダヤ人を救済したことが判って以降徐々に明るみに出てきた
戦争反対の見解を公的に表明することは、33年以降のドイツにおいては不可能であり、援助と救済という行動で態度表明するほかなかった
救済者研究は、彼等が痕跡を残さないよう努めたこともあって、非常に困難な資料上の問題を抱えている
救済されたユダヤ人の口頭ないし書面による証言から、00年までに17,500人が「正義の人」としてイスラエルで表彰 ⇒ ドイツ人336人、オーストリア人83人が含まれ、その中には約4045名の国防軍人がいた
本書に記載された兵士たちは、彼等の援助ないし救済の具体的な行為が証明されたという観点から選択され、成果がどうだったかは問わない
動機を解明すると、専ら人道的な考慮からのみなされたわけではないことも分かる
最後に具体的な歴史研究事例に即して、軍服を着た救済者たちによって利用された自由裁量の余地を明らかにしようとする試みがなされる ⇒ 国防軍が個人と良心に対する自由裁量の余地を用意していたわけではなく、勇気と危険を引き受ける覚悟をもって自由を勝ち取り、その行動を専ら上官の命令にではなく、人道性と良心に従わせ、処罰の威嚇や軍事法廷の厳しさにひるむことのなかった兵士のみが自由裁量の余地を持っていた
ベルリン工科大学の反ユダヤ主義研究センターの研究プロジェクトが取り上げた数千人の救済者のデータを収集したが、ほとんどは民間人と女性
1941年の法令により、ユダヤ人に明らかに同情したドイツ人には3か月の拘留刑が科され、禁止令の執行がゲシュタポに委託された
国防軍と反ユダヤ主義の関係では、4210月の軍将校に対する指令で、反ユダヤ主義が国防軍においては職業的義務となった
本書の研究は、国防軍を免責するために考えられたのではなく、国防軍の中に、軍事的服従のほかに個々人が責任を負う人道主義的態度を取る可能性も存在したのだという事実を証明している
援助者と救済者は、権力構造に挑む軍事的抵抗者ではなく、単純にナチズムに抵抗するという形ではない特別の概念を用意した方がいい

Ø  ユダヤ人救済者と「仲間意識」――国防軍における共同体モラルと共同体テロル
軍隊は、「個々人の自由裁量の余地のない機関」として、適応、順化、服従、共同を要求するが、国防軍兵士は、他の軍隊の兵士に比べて際立っている
非道調主義的な行為は、孤独のうちに行動
密告という危険を冒したことは、それが元で引き起こされた軍司法当局の無数の訴訟手続きから推し量ることができる
密告体制が、兵士の美徳でもあった「仲間意識」を骨抜きにしたことが人々に重くのしかかっていた
仲間意識は、部下の教育に次いで軍隊を結束させる不可欠の結合剤であって、部下の教育なしには軍隊は手綱のない抑制のきかない群れに成り果て、仲間意識なしには兵士の生活は耐え難いものとなるであろう
仲間意識は、社交と社会的保護、利他的な援助の用意と情緒的な安全を保証し、軍隊内での抑圧、鍛練、規律、そして嫌がらせを「耐え得るもの」とする心理・社会的通気孔だった
全面的な「民族の魂の団結」のみが勝利を導くという考えがますます強迫観念に憑りつかれたような特色を帯び、民族に有用である者だけが共同体に所属し、それ以外は全て「害虫」として「駆除」されなければならなかった
ユダヤ人は、「エゴイスト」の権化として迫害された
この民族共同体政策の構造の中で、国防軍はあれやこれやの体制批判者に隠れ家を提供したが、仲間意識はそうした体制批判者に不十分な極めて当てにならない保護空間だった
35年 人種法により、ユダヤ人の軍人仲間としての身分を否認
41年 ヒトラーは国防軍指導部に対し、ソヴィエト連邦に対する殲滅戦争を、これからは「団結を旨とする仲間意識的な思想的立場」を離れて戦うよう指示して、これを義務付けたが、それは敵対的な兵士間におけるいわば国際的な仲間意識という「騎士道的」思想に反するもの

Ø  アントーン・シュミット軍曹――ヴィルナの救済者
この人物に関するドイツ人の手になる文書史料はほとんどない
ヴィルナ=リトアニアのエルサレムは、数百年来ユダヤ人の最も重要な精神的中心地の1つで、ここでユダヤの学問、イディッシュ文化と文学が繁栄
39.9. ヒトラー=スターリン条約によって赤軍がヴィルナを占領、多くのユダヤ人がソ連に移送され殺害されたが、41.6.まではポーランドでパレスチナのイギリス委任統治政府の移住許可書が発行された唯一の場所だった
41.6. ドイツ軍が侵攻してヴィルナを占拠したときは花束をもって歓迎されたが、間もなくユダヤ人の迫害が始まる。ゲットーが作られ、他の都市に先だって大量殺害実行
アントーン・シュミット(1900年生まれ)は、ウィーンでラジオ店を経営、いかなる政治団体にも所属せず、信仰心の厚いキリスト教徒で、38年に何人かのユダヤ人知己の海外逃亡を手助け、開戦後召集され、中年組として軍隊の後方部隊に配属され、41年晩夏に敗走兵集合所の主任としてヴィルナに駐留
友人のシュミット評:「決して知的な人間ではなかったが、彼の誰にも負けない個性は人間性だった」
シュミットは、数か月の駐留期間に300人以上のユダヤ人をヴィルナから他の安全な地へ輸送したばかりでなく、多数の「通過証明書」を発行、ユダヤ人らしく見えないユダヤ人はそれをもってゲットーから逃走し鉄道で移動できた
シュミットのことは、戦時中同家に夫婦で匿われた救助抵抗運動のメンバーだった詩人で作家の友人が終戦直後に回想するとともに、1951年ワルシャワのユダヤ歴史研究所が公表したイディッシュ語で書かれた膨大な記録を検証することによって、シュミットのしたことを突き止めた
61年 アイヒマン裁判においてヴィルナのパルチザンの指揮官だった証人がシュミットの援助活動に言及、シュミットが「ユダヤ人大量殺害の全てを統括するアイヒマンという「犬」がいた」と言った ⇒ シュミットに関する証言の間、法廷に沈黙が広がったが、それはシュミットという人間の讃美のために、慣例となっている2分間の黙祷を行うことを聴衆が自発的に決意したかのようだった
421月後半逮捕 ⇒ きっかけは、リダにゲットーが設立された際、ヴィルナからの多くのユダヤ人が生活していたことから、ゲシュタポが拷問した結果、シュミットが逃亡を援助していたことが判明したもの
国選弁護士は、労働力として利用するためにユダヤ人を移送したと弁護して救済しようとしたが、シュミットは弁護士を非難、ユダヤ人を死から救うために移送したと確信をもって述べた結果死刑の判決
4月銃殺刑執行 ⇒ 遺族への遺書では、ユダヤ人殺害の責任を全く存在しなかったリトアニアの軍隊に負わせているが、そう書かなければ遺書は検閲によって破棄されていただろう
シュミット夫人は、夫がユダヤ人を援助したために処刑されたことが明らかになった時、ウィーンの同時代人たちによる非難の中で多くを耐えねばならなかったと、戦後に語る
64年 ヤド・ヴァシェム(ナチスによるユダヤ人大虐殺の犠牲者達を追悼するためのイスラエルの国立記念館)は、シュミットを「諸国民の中の正義の人」の栄誉をもって表彰
68年 映画化『シュミット軍曹』
90年 ウィーンの故郷の都市住宅地域がシュミットに因んで命名

Ø  ヴィルム・ホーゼンフェルト大尉(1895)――ワルシャワの救済者
映画『戦場のピアニスト』のモデルとなったヴウァディスワフ・シュピルマンを助けた
ワルシャワで住んでいた家が、40年ゲットーの中心に囲い込まれ、後に両親、姉妹はトレブリンカで殺害されるが、シュピルマンだけは自らの評判のお蔭で移送の直前この運命から逃れ、ゲットーで露命をつないだ後逃亡に成功、44年晩秋飢餓状態で食料を漁っているところをホーゼンフェルト大尉によって発見された
シュピルマンは、回想録『奇跡の生還』で、彼が発見され救助された状況を描いている
ホーゼンフェルト大尉は、40年にワルシャワ要塞司令部に所属、それまでにもユダヤ人やポーランド人を保護、偽造書類を与え、42/43年スポーツ担当将校としての権限によりワルシャワの国防軍スポーツ施設で雇用
ホーゼンフェルト大尉は、軍曹として召集された後将校となり、突然捕虜収容所の建設を命じられた際、隷属状態に置かれた捕虜の中でも尊厳を持ち続けるポーランド人を発見して、この混沌の中で援助を差し伸べることにより引き続き彼等の生存を可能にしようという強力な意思を呼び覚まされた
占領地にいた農民を家畜用貨車に詰めて移送する場に遭遇した際には、こっそり食料品を差し入れ、彼等と話をすることで何が起こったのかを知り、ドイツ人として恥ずかしく思うとともに、自分が無力であるという惨めな経験をした
上官も公正な援護射撃をしてくれたし、援護してくれる部下もいた
98年 娘が床下から母親が残した日記や手紙の束を発見して初めてホーゼンフェルトの人物像が浮かび上がる ⇒ ホーゼンフェルトは家族とやりとりした手紙類をすべて保管し、44年晩秋軍事郵便で家族に送り返しているが、これらの手紙のやりとりが検閲当局の目に留まらなかったのは謎
ソヴィエトの捕虜となり、50年に軍事法廷で禁固25年の判決を受け、4年以上の捕虜生活を送る

Ø  カール・フォン・ボトマー大佐(1880)――疑わしきは国際法に則って
ボトマー大佐は、軍歴を幼年学校の生徒隊で開始、11年陸大卒、参謀本部勤務して第1次大戦に従軍。戦後の一揆に賛同して引退に追いやられ、偽装した国境守備隊に所属、ナチ発足後は批判的に見ながら、補充将校として積極的な軍務にはついていない
4043年野戦司令部に駆り出され、ユーゴへの侵攻作戦に加わり、占領支配が一層先鋭化する状況の中に身を置く。特に41年のセルビアでの暴動鎮圧への国防軍最高司令部からの殲滅指示に対し、セルビア駐在の軍司令官は、戦時国際法(1907年ハーグ陸戦協定における地上戦の法律と慣習に関する協定)に則った対応を決意、司令官が直後に事故死した跡を継いで、国際法の慣習を尊重することなしに抵抗者や現地住民を殺害すべしとの命令を拒否、証明される判決に基づいてのみ銃殺を命じることができるとした。その報告を聞いた上官は、ただ命令の件は解決済みとしてそれ以上の指示もなく、また軍司令官本部への通報もなかった
幾度となく書面で警告され、非難され、そして自分の「誤った見解」を指摘された後、43年末除隊したが、地元民からは非常に残念がられたという ⇒ 彼の行動を見て見ないふりをしてきた上官が、これ以上庇いきれなくなって解任した
46年ユーゴの軍事顧問団によって逮捕され、様々な収容所を転々とした後、慌ただしくまとめられた資料によって死刑判決を受ける ⇒ 判決文が残ってない以上、起訴理由に関して詳細なことは不明

Ø  ラインホルト・ロフィ少尉(1922)――殺人行為の拒絶
42年 上官によるユダヤ人老人の銃殺命令を拒否、キリスト教徒であり、それは出来ないと答えたが、上官との衝突は何らの影響も残さなかった
41.10. 国防軍に召集、44.4.東部戦線で攻撃命令が無意味な犠牲を意味するとして拒否したことを密告されて逮捕 ⇒ 死刑宣告は即時「保護観察」部隊への引き渡しに変更され、前線に立たされ重傷を負って野戦病院に収容されるが、ソヴィエト軍によって病院列車に乗せられ西へと移送、6月中旬ザクセンで停まったままになった列車から抜け出して歩いて故郷に戻る
以後、故郷でシニアの高校教師として生活 ⇒ 「勇気と市民的勇気は学ぶことができる」と題する講演を行っている

Ø  エーリヒ・ハイム軍曹(1896)――ポーランドとベルギーの戦争捕虜援助者
ポーランド・パルチザンを密かに支援していたハイム軍曹は、ドイツ諜報部から送り込まれてパルチザンに偽装していた秘密諜報員の罠にかかって44.9.逮捕、45.2.絞首刑
1次大戦では予備狙撃兵として従軍
37年 ホモセクシュアルな性向の嫌疑で有罪
39.9. 召集、捕虜収容所に投入され、ポーランドの衛生兵と親密になり、44.9.の逮捕までその関係が続く。捕虜収容所の勤務を通じて、親ポーランド的立場は一般的に知られ、ポーランド人捕虜の外界との交信を取り持ったのみならず、44.9.に予定された集団脱走の計画を上官に報告しなかったばかりか、武器と地図調達の手伝いをした
逮捕から死刑判決までの期間が長く、判決から死刑執行までが数日しかなかったことは、判決までの長期間ひどい拷問を受けたと推測せざるを得ない
戦争捕虜とのホモセクシュアルな関係を維持する一方、捕虜に対し誠実に対応し、職務上の義務違反を冒してまで援助した
秘密諜報員とは知らずに、ヒトラー暗殺やワルシャワ蜂起の弾圧を嘆いたのも命とりに

Ø  ヴィリ・シュルツ大尉(1899)――ユダヤ人救済者にして脱走者
国土防衛軍士官だった父親の後を追って、警察経由国防軍に入隊、戦後は再度召集されるまで税官吏等の公務員
40年 空軍に入隊、42年白ロシア(ルテニア)の首都ミンスクに派遣 ⇒ ソヴィエト最大のゲットーがあり、殲滅行為が行われていた
ユダヤ人監督の立場にいたシュルツ大尉は、労働力調達の立場にもあって、その権限を利用して、ひと目惚れしたユダヤ人の少女を集団の指導者として雇用、2人の恋愛関係は仲間内でも黙認
2人で撮った写真は、シュルツが軍事郵便で姉妹に送り、戦後アメリカの親戚の許に届く。少女は80年代にソヴィエトを後にして親族探しの旅に出、フロリダの従姉妹のところでその写真を発見し持ち帰る
42.7. ジェノサイドが激化したゲットーの最も暗黒の1日では、200人を超す女性を管理塔に匿い、43.1.対ソ戦の初の敗北を契機に愛人とその姉妹を救助するためにあらゆることを開始
43.3. さらなる前線への転属命令を機に愛人と仲間計4人を乗せて車で脱出、パルチザンに救出されるが、その直前に25人の若者の逃走を支援 ⇒ 大尉逃亡の報道を聞いた親衛隊長官ヒムラーは即刻ミンスクのゲットーを強制収容所に変え、秋までには全員殺されるか絶滅収容所に送られた
計画的なユダヤ人絶滅を目前にして動揺したナチ最高幹部さえあちこちに見られた ⇒ ミンスクの管区指導者もその1人 ⇒ ユダヤ人でもドイツ系の絶滅には反対したが、パルチザンによって暗殺
シュルツと愛人は、モスクワに連行され、シュルツは赤軍にとって戦術的価値を認められ対ドイツ宣伝部に回されたが44年末髄膜炎で死去
早くからゲットーに囲い込まれた人たちへの同情的態度で知られ、同僚の証言によれば、ナチ国家に対する見解には何ら否定的なものは含まれていなかったが、繰り返し不平をもらし、特にスターリングラードの大量殺害は1人の指導者と1つの理念によってのみ引き起こされたものであり、無責任であると述べていたという
ミンスクの軍事法廷が事件を扱ったが、自分たちの兵士としての基本原則に執着していたため、シュルツの動機を見つけ出すことは出来ないまま、「現実離れしたもの」とした
法廷は、愛人の虜になっていたという証拠も、故意に逃走したという証拠も上げられずに、軍服の着用が「原則」禁止されるとし、正規の懲戒手続きによって俸給の1/3を天引きするとしただけ。判決は45.1.でシュルツの没後、「官吏としての権利を失った」とだけ

Ø  大尉フリッツ・フィードラー博士(18861969)――ホロデンカの善人
64年 イスラエル国家から、「諸国民の中の正義の人」の表彰を受ける
戦後、ベルリン自由大学の英語の教師
教職から、第1次大戦では予備役将校として入隊、病に倒れて鉄十字章を手に帰還
言語学者で英語におけるアメリカ語法を研究、自然愛好家、当初から徹底してナチ嫌い
39年 予備役中尉として再入隊、高齢のため戦闘部隊ではなく軍政に投入され、41.9. ホロデンカ(現ウクライナ)の地区司令官に ⇒ ユダヤ人が住民の40%、ポーランドの一部だったが、39年ロシアに占領され、41.6.ハンガリー軍が占領したが、すぐにドイツ軍に交代
41.11. 大量殺戮開始 ⇒ フィードラーは、賛同する部下2人と共に200名以上を匿い、親衛隊との軋轢から42.5.ロシアに左遷され、ホロデンカのユダヤ人はゼロに
救済された歯科医が、戦後労を厭わずフィードラーを探し出して、表彰に繋がる
フィードラーの娘が国防軍最高司令官カイテル将軍の娘と友人で、大量殺戮開始直後にカイテルの息子がフィードラー家を訪問している ⇒ 真意は謎のままだが、親衛隊の殺人行為の際にフィードラーが取った態度に関係があったかもしれず、将軍がフィードラーを保護するような影響を及ぼしたと考えることができるかもしれない
フィードラーの救済行為は、地区司令部の他の職員たちなしには可能ではなかった ⇒ 親衛隊の犯罪を断罪する点で一致していた

Ø  カール・ラープス軍曹(18961979)――青少年運動に魅せられた救済者
41年 クレナウ(アウシュヴィッツから20)に配属、43.2.ポーランド系ユダヤ人の集団を徒歩で脱出に成功させた体験と快感がラープスの救済行為を加速させる
当初、合法的に生活していたユダヤ人の生活を改善、一連の強制労働を緩和し、ユダヤ人を移送から外した。避難所として宿舎を用意し、現物給付の保証と最終的には具体的な逃亡援助を行っている
ゲシュタポ内部の命令構造を理解、人里離れた場所に堅牢に囲まれた土地を確保し、強制移住の際には逃亡センターとしてその土地を提供
親衛隊によって逮捕される直前に手をまわして他の部署に転属されたが、クレナウに住み続けて救助行為を継続
戦後の書簡で、「成果を上げる抵抗運動は、その意思と能力があれば可能だった」と述べ、自分の市民としての生活と家族の生活を危険に晒すこととなった道徳的な確信に支えられて、援助への決心をしたことを示唆
自らのナチズムへの留保的な態度のために繰り返し差別され、左遷によって建築家としての仕事を続行することを妨害されるが、この強制的転属がナチ党の中で決定的な権限を握っている人間全員に対する抵抗の覚悟を強めた
生涯市民的青少年運動と連帯を感じていた
グライダー好きが嵩じて、空軍に召集されたが、空軍スポーツ同盟の委員長の地位を利用して同盟所属のユダヤ人を寛容に扱っていることを非難されていた
45.1. 赤軍の侵攻から逃れてアメリカ軍に投降、戦後の非ナチ化審査では、救済の明確な証拠によって罪責免除され、49年公的な職場に復帰
71年以降、自らの人道的な行為の承認を求めて、生存者の証言を集める ⇒ ドイツでの叙勲と、ヤド・ヴァシェムの表彰、イスラエルの大学の博士号を求め、72年連邦共和国第一級功労賞授与、ヤド・ヴァシェムも死後の80年に「正義の人のメダル」を授与。「諸国民の中の正義の人」のメダルでなかったのは自ら動いたことが影響?

Ø  中尉アルベルト・バッテル博士(18911952)とマックス・リートケ少佐(18941955)――親衛隊との対決
国防軍軍人が武器の使用も辞さない脅かしによって、親衛隊の殺人行為を阻止した事例
82年に生存者の証言からバッテルは「諸国民の中の正義の人」として表彰、上官だったリートケもヤド・ヴァシェムの「正義の人通り」において表彰
プシェミシル(ガリチア西部、東部戦線の補給基地)42.7.に起こった歴史的事件
元々国防軍と親衛隊は、ユダヤ人労働力を巡って対立していたが、プシェミシルで具体的に移送が開始された際、移送する1万人から国防軍で働く労働者として数百人を救済
ユダヤ人評議会の委員長が大学の友人だったことあって、個人的にも友好的な援助の手を差し伸べた
バッテルはナチ党員だが、ユダや住民とも付き合い援助していた
41.6. 国防軍地区司令部配属。42.9.左遷、疾病届を出して43.3.除隊、弁護士に戻るが、終戦直前、国民突撃隊の設置に参加、終戦時はナチ党員だったためにソ連の特別収容所に6か月拘束後解放。非ナチ化された後も、党員だった経歴が災いして死ぬまで弁護士資格は許可されなかった
リートケは、大戦間はジャーナリストで、勤務先の新聞がナチスによって統制されるのを経験。39年ポーランド戦役から軍務につき、45.5.ソ連の戦争捕虜となる。ソヴィエト軍事法廷によって、地区司令官だった過去から「特別危険な犯罪者」として特別監獄へ送られ、たらい回しされた後55年重度の心臓病で死去
国防軍内部では、服務規定に従っての制裁のみで、罰則による制裁の威嚇はなかったため、バッテルもリートケも厳しい処罰はな句、ゲシュタポに移行する危険性のあったさらなる取調べもその後の戦争の推移によって成果のないまま終わる
バッテルのような反抗的な国防軍将校に親衛隊は直接介入することは出来なかったが、直後にヒムラーの指示に従って親衛隊の徹底的な調査対象となり、党裁判所へ提訴
結果として2人の将校は別の戦場に移され、懲罰的な遠征としての前戦出撃命令ないしはそれと比較し得る制裁はなかった
戦後バッテルはこう総括した。「反ユダヤ主義を最も厳しく断罪し、ユダヤ人援助に命を懸けた」と
国防軍側の介入は、あくまでユダヤ人強制労働者の労働潜在力に依存した戦争経済的かつ有益性の観点からであって、必ずしも人道的介入と解釈されるわけではない
国防軍における集団的団結も救済行動に影響を与えた

Ø  ハインツ・ドロッセル中尉(1916)――ベルリンのユダヤ人救済者
39年 ベルリン大法卒とともに一兵卒として召集、意に反して終戦まで前線で戦争を体験
45.2.負傷してベルリン郊外に避難していた両親の家に休暇で戻っていた際、隣に隠れて暮らしていた両親と親しくしていたユダヤ人一家に助けを求められ、ベルリン市内に匿う
休暇を過ぎた後も原隊には戻らず、ボヘミアにいる補充部隊を目指すとして脱走兵であることをカモフラージュして終戦を迎える
ベルリンでは43.3.以降ユダヤ人として合法的に生活することは出来なかったにもかかわらず、5,00010,000人が「地下に潜伏」したものの、終戦時に生存したのは1,423
終戦後、ユダヤ人一家はアメリカに移住し、娘婿は著名な物理学者になる
ドロッセルは、裁判官となり、81年引退後は青年期のロシアでの捕虜生活の回想録を書き自費出版するが、戦後も互いに交流のあったユダヤ人一家の著名な物理学者が序文を書く
それが表に出て、2000年ドロッセルは「諸国民の中の正義の人」顕彰を受ける
救済者の動機の研究結果によれば、70%は数分のうちに決断し、80%は事前に他人と相談せずに決断したことが明らかにされ、そうした行動の動機付けとなる人間性は、救済者の個性と生活様式に備わっているものであること、即ち教育によって与えられるに違いない
ドロッセルは、入隊後フランス戦で身近に「殺人の残酷さ」を体験した後、東部戦線に移動してユダヤ人大量虐殺の目撃証人となり「殺人の共犯者」であることを認識
一兵卒だったときにも、ロシア人捕虜を脱走させたり、軍内部でも保護観察部隊に配属された際は経験豊かな法学士として同僚兵士の無罪と罪軽減のために弁護したりして、しばしば成功している




訳者あとがき
「救済による抵抗」を貫いたほんの一握りの軍人も又大部分の兵士たちと同様「全く普通の人々」だったという事実を紹介し、人間としての生き方を考える上で材料にしたい



















軍服を着た救済者たち ヴォルフラム・ヴェッテ編 ユダヤ人救ったナチス将兵の姿
日本経済新聞朝刊2014年7月20日付
フォームの始まり
フォームの終わり
 第2次世界大戦期、ナチス・ドイツがユダヤ人問題の「最終解決」と称して約600万人ものユダヤ人を大量殺戮(さつりく)した。この人類史上最悪の犯罪である「ホロコースト」は存在しなかったと頑(かたく)なに主張するネオナチや歴史修正主義者の運動に対して、1996年に発表された、市井のドイツ国民も自らの意志でこぞって「ホロコースト」に加担したという、「ゴールドハーゲン論」が思わぬ展開をみせたのだった。それは、1961年にエルサレムで行われたアイヒマン裁判を傍聴したハンナ・アーレントの「凡庸な人間だった」というアイヒマン評を彷彿(ほうふつ)させる出来事であったろう。
(関口宏道訳、白水社・2400円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)
(関口宏道訳、白水社・2400円 書籍の価格は税抜きで表記しています)
 ところで、本書は、「国防軍の軍服」を着た将兵が無抵抗のまま縲絏(るいせつ)の辱めを受けていたユダヤ人を救出した事実を詳(つまび)らかにしている。それにしても、個々人の自由裁量の余地のない厳格な機関であり、また反ユダヤ主義がいわば職務上の義務となり、従ってユダヤ人殲滅(せんめつ)機械装置と化していた国防軍において、いかにして、ユダヤ人救出工作が可能だったのだろうか。
 本書によると、国防軍には、兵舎から最前線に至るまでの軍隊の諸機関の機能を弾力的にするために、非公式の人間関係である「仲間意識」というものが制度的に容認されていた。これによって、個々の将兵は、部隊内で情緒的な安定感、愛他主義的支援の心構え、過酷な命令や任務に耐える強靭(きょうじん)な精神、などを涵養(かんよう)していたのだった。
 こうした「仲間意識」の環境の中で「自由裁量の余地」を捻出した「制服を着た救済者たち」が勇敢にも、そして危険を承知で軍の規範に反する救済活動を決意する。だが、この活動は一筋縄ではいかなかった。彼らは、最小限の同僚の暗黙の支援に頼らざるを得なかったからだ。それこそ、ゲシュタポや国防省情報部が牛耳る密告体制と表裏一体であった。はたせるかな、本書に登場する11名のうち、2名が密告のために処刑される。
 彼らは、非人間的な軍国主義の国防軍からの脱走兵、軍改革者、上官抵抗者といった勇敢な「英雄」ではなく、言ってみれば「救済による抵抗」を密(ひそ)かに実践した「凡庸な人間」であった。たしかにほんの一握りにすぎなかったが、時流に逆らってまでも「市民的勇気」を発揮し、幾分なりとも「ホロコースト」を阻止しようとしたのである。「後の世代には、本書を教訓と警告として読んで欲しい」とは、本書の「序」の結びの言葉である。実に重い提言、と言わねばなるまい。
(法政大学名誉教授 川成 洋)



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