知の巨人 荻生徂徠伝  佐藤雅美  2014.8.5.

2014.8.5.  知の巨人 荻生徂徠伝

著者 佐藤雅美 1941年兵庫県生まれ。早大法卒。85年『大君の通貨』で第4回新田次郎文学賞、94年『恵比寿屋喜兵衛手控え』で第110回直木賞

発行日           2014.4.30. 初版発行
発行所         角川書店

初出 『小説 野性時代』201211月~20141

館林の綱吉(翌年5代将軍に)に仕えていた父の方庵がお暇を願い、江戸に戻った直後に江戸御構(おかまい=江戸から退去させる刑罰)となり、一家で京都を目指そうとするが、母方の親戚の説得で上総の長柄郡本能に逼塞。母親(32)は、旗本に繋がる家の出だったが、転居直後に没
転居時、方庵54歳、兄助之丞18歳、伝次郎(徂徠)14歳、弟小次郎7
既に徂徠は漢文が書け、『四書大全』も読破
京に上って学問で身をたてようとしたが、父親から、そのためにはまず本を読めと言われ、江戸で手に入れられる本を片端から読みまくる
13年後に江戸御構を解かれるが、父と兄弟は地元に残り、徂徠のみ学問を目指して江戸で学塾を開く
江戸では、所縁のあった三田の長松寺に宿をとり、増上寺近辺の豆腐屋の裏に2間の長屋を借りて、増上寺の学僧相手に漢文を舌耕(ぜっこう)する
『詩経』の魯頌(ろしょう)の巻の「閟宮(ひきゅう)」の編に「徂徠之松」とあり、徂徠の幼名が双松(なべまつ)であるところから、徂徠と号した
最初から漢文を従頭直下(しょうとうちょっか)といって、返り点や捨て仮名を付さずに上から下に真っ直ぐ読むという教育基本方針を堅持
売りは、南総での猛勉強時代に作った字書で、何百という漢籍から語原をあまねく引いた大部の力作。字の意味の似たものを集めてそれぞれの違いを解説する独特のもの
武田信玄の家来に武川衆と言われた一族がいたが、徳川の時代になってそれぞれ伝手を頼って徳川家に仕える ⇒ 柳沢氏の6代目が4代将軍家綱に仕え、その弟は館林の綱吉に仕えたが、その息子の保明(やすあきら)が家督し、綱吉が将軍になると綱吉に従って本城に入り、綱吉の寵愛を受けて15年後には72千石の大名となり、武州川越に城を持ち、奥の役人の最高位である側用人でありながら、表の役人である老中格にもなっていた
増上寺の大僧正が保明に、門前に風変わりな儒者がいるがお抱えにしないかと徂徠のことを持ちかける。保明は、館林時代に荻生姓の御薬匙がいたことを記憶していたのと同時に、徂徠が上総出身というのを聞いて、保明の上総の東金出身の母に尋ねたところ、方庵をよく知っていた
保明は、綱吉に方庵の息子を取り立てるとお伺いを立てたところ、綱吉も方庵のことを思い出し、召し抱えることになる
元禄931歳の時、徂徠は保明に召し抱えられる。御馬廻で15人扶持(75)
豆腐屋の裏に借家、貧しさを見かねた豆腐屋が援助していたお返しに、2人扶持を豆腐屋に与えた話が、『徂徠豆腐』と題して講談や落語にもなりやがては浪花節にもなる ⇒ 落語のサゲは、しきりに恐縮する豆腐屋に向かって徂徠は言う、「何を申すやら。そなたとは切らずの縁ではないか」 古今を通じて学者が、それも大学者が、講談はともかく落語や浪花節の主人公として語られた例は、徂徠以外にはいない
時は朱子学が真っ盛り。朱子学は、宇宙は理と気から成っているとする高遠壮大な理論に基づくスケールの大きい学問だが、とりわけ「人はかくあるべし」ということを教え、君臣の義、父子の親、夫婦の別、長幼の序、朋友の信の五倫と、仁、義、礼、智、信の五常(ごじょう)”の規範や名分を重視
保明の領内で、貧しさのあまり妻子を捨て、親を捨てて出家した僧が捕まり、親棄ての罪で処罰されようとした際、保明がなんとか穏便に済ませようとして召し抱えていた儒者に知恵を出させようとした際、徂徠が、僧の咎は為政者の仕置きのせいだとして、為政者が反省し、僧には仁政をもって報いるべしと説き、8歳上の保明を満足させた
将軍にとって、東照神君家康を祀る日光東照宮への参詣は、数少ない娯楽の1つだったが、幕庫が空になった綱吉は今日にも日光にも行けず、代わりにやたらに家臣の家に出掛けたが、最も多かったのが保明の屋敷で、18年間に58度に及ぶ
学問好きな綱吉は、御成先でも漢籍の講釈をさせ、徂徠も列席
綱吉は、お気に入りの側近20数人も学問に精通させるため、本来であれば官立の林大学頭の昌平黌に通わせるべきところ、保明に仕えている儒者について学問を学ばせた
徂徠は、31歳の時その中の1人の妹を嫁に迎える
綱吉の生母の桂昌(けいしょう)院は、家光との間に綱吉をもうけるが、早くから綱吉に学問を励ませただけあって、本人も学問好き、徂徠も儒者同士の議論の競い合いに加わる
綱吉の気紛れから、方庵が71歳だというのに奥医師に取り立てられ、徂徠も加増
元禄14年、綱吉は、保明に松平の称号と綱吉の偏諱を授け(へんき=貴人の名前の通字でない方の字をもらうこと)、保明は吉保と名乗る
徂徠は、従頭直下を主張しながら読み方は自己流だったため、本来の「唐音(または華語)」を新たに吉保が雇い入れた儒者から学ぶ
江戸の儒者で最も勢いが良かったのは木下順庵(元禄11年歿)、弟子に新井白石、室鳩巣等の「木門の五先生」がいた
綱吉には子供が出来ず、早逝した兄の綱重の息子で甲州藩主の綱豊を後継に指名(6代将軍家宣)、綱豊の去った甲州を、初めて徳川一門以外の柳沢吉保に与える
徂徠は、字書の作製とか、「崎陽之学」(唐音の学習)への没頭とか、これまでのほとんどを言語学者として生きてきたが、本当は学者を目指
していたのに、何をやればいいかが分からなかった
40歳の時、妻に死に別れ
43歳の時、綱吉薨去
明暦の大火(1660)の後、幕庫には385万両あったものが、20年で130万両に激減、綱吉の日光参詣(10万両かかる)もままならなかったため、貨幣の改鋳を行い、古い慶長小判2枚の金を溶かし新しい元禄小判3枚を作り、益金5百万両を幕庫に入れたものの、自身の続く浪費に加え、元禄12,3年と続いた凶作による減収の補填、元禄16(1703)の地震復旧とあらかた費消、さらに富士山噴火(1707)の追い打ちで、幕府は全国から平等に100石につき2両を徴収、40万両を掻き集め、うち16万両を降灰除去作業に使う。全国平等に徴税したのは後にも先にもこの時だけ
家宣の代になって、吉保は邸内の学校閉鎖を命じられ、徂徠も吉保から扶持米を受けながら自活の道を探す。吉保は老齢を理由に引退し、下屋敷のあった六義園で余生を送る
漢籍を読む場合、返り点や送り仮名を使って読む方法を「和訓」といい、吉備真備がつとめて雅な言葉を使って和語に訳したものに過ぎないが、何か高邁な訓詁のように尊重された
魚を取る筌(ふせご)とウサギをかける蹄(わな)は獲物を獲れば不用の物となる。そこで荘子は、目的を達するまでの手段を「筌蹄(ようてい)」といい、転じて、手引き、案内のことなどをも「筌蹄」というようになったところから、徂徠は自らの辞書を出版するに当たり、『譯文筌蹄』と題した
徂徠が茅場町に開いた私塾は、「茅」を「蘐」とも書くところから「蘐園(けんえん)」と呼ばれ、徂徠の来る者拒まずの方針もあって後の俊秀が次々と門下に集まる
新井白石一派は、徂徠が古文辞を学び始めたことを聞いて、「風変わりなことをするただの酔狂者」とみて非難、徂徠もまた古文辞が広まらない原因を白石一派による妨害のせいとして白石を「文盲」と罵る
古文辞
中国
の明代に七子派の文人唱導した文章を,従来古文区別して古文辞と称する。後漢末から六朝にかけて盛行した,対偶特色を生かした結果修辞中心内容の乏しくなった駢儷文(べんれいぶん)の弊害を打破するために,隋・唐にかけて,古文復興(古文運動)がとなえられ,唐の韓愈,柳宗元らによって確立し,北宋の欧陽修,蘇洵,蘇軾(そしよく),蘇轍,王安石,曾鞏(そうきよう)らによって継承された。それは四書五経などに見られる聖賢理想根底として,駢儷文の対偶形式と,空疎な内容を改革することを目的としていた。
徂徠は人を誉めこそすれ貶すことはなかったが、今日の泰斗・伊藤仁斎とその息子・東涯、それと白石に対してだけは違った(仁斎に対しては手紙を出したが返事がなかった)
白石の妨害にあって、徂徠は韓使との面会が果たせずに悶々とする
1712年 家宣が在位僅か35か月で死去、跡は4歳の嫡子家継。家宣の政治を仕切っていた白石がますます権力を振るう
48歳で水戸家の医者の娘と再婚
翌年、仁斎を批判した『蘐園随筆』を出版、随所にちりばめた知識は万巻の書を読破しなければ得られるものではなく、その学識の深さと博覧強記に読む者は圧倒され、「世に徂徠あり」と、名は一気に高まった
ただ、徂徠は才能を重んじて序列を作り、徳行を重んじなかった(長幼の序がない)ため、家の中での秩序が乱れた
『蘐園随筆』の1年後に『譯文筌蹄』刊行。徂徠の名を慕って入門してくるものが後を絶たず、徂徠は意気軒高、得意の絶頂にあったが、2度目の妻が産後の肥立ちが悪く死去
妻を亡くして、仕事の上でも意欲をなくした徂徠は、持病の結核を悪化させる
将軍家継は8歳で死去、8代将軍の吉宗は白石を政治に参与させず、徂徠もようやく頭に垂れ込めていた雲が晴れる思いをする
朱子が四書の1つ『大学』にある「格物致知」とは「窮理(物の理を窮める)」と解釈し、学問をする者はすべからく万物の理を窮め、万物に即し、万物の理を手掛かりに知を完成すれば、誰でも聖人になれると説いているのは間違いで、「物」とは聖人の教えであり、「格」とは格(まね)き寄せることで、聖人の様々な教え、具体的な内容を我が物とすることが「格物」であり、具体的な内容が我が物となれば即ち「知」が自然に明らかになる。つまり「知」が至る、「致知」ということになる、というのが徂徠の主張
天の寵霊によって、ある日突然「道」というものがなんであるかを大悟し、新しい世界を獲得、その日から徂徠は机に向かって新たなる書の執筆に精魂を傾け、数か月後に『弁道(べんどう)』なる書を書き上げる
次いで『弁名』を著わし、「道・徳・仁・智・礼・義」など儒教の経典に現れる80ほどの抽象語の意味や概念を厳密に確定、『弁道』と並んで「徂徠学」の基本書となる
両書とも、『学則』の延長であり、入門の士に示すのみとしていたが、『学則』は死の前年刊行され、『弁道』も死後9年して刊行
ただ1人生き残った娘が17歳で急逝
享保5年 門人から孔子の肖像画に賛を頼まれ、()(さい)庚子(こうし)(享保5)(なつ)五月日本国夷人物(にほんこくいじんぶつ)茂卿(もけい)拝手(はいしゅ)稽首敬題(けいしゅけいだい)と書く。日本国の夷人である物茂卿が拝手稽首して敬(つつ)しみて題すという署名が後々物議を醸す。なぜ物(物部)姓を名乗ったのかについては、徂徠がしばしば物部氏の系統であると自称して憚らず、物性を名乗るとともにその際は茂(しげ)る卿(おのこ)を意味する茂卿を字とした。『先王の道』は、孔子以後はまともに伝達されず、徂徠に至って初めて説く者が現れたとすれば、夷人物茂卿は「第2の孔子」でなければならないという自負が現れたものとみることができる
この時「夷人」を名乗ったため、儒者に対する明治政府の贈位の際、頼山陽が従三位、伊藤仁斎、熊沢蕃山、新井白石が正四位に叙されたが、徂徠派は除外
享保5年 『論語徴』脱稿 ⇒ 論語の注釈書。書いていることは全て古文辞に照らし合わせているところから「徴」と名付けた。時に発せられる痛罵が耳に心地よい。孔子についても、地位を得なかったのでその道を天下に行わせることは出来ず、言っていることもせいぜいが『論語』に述べられている程度に留まり、「詩書礼楽」には遠く及ばないと喝破しながらも、『論語』もうまく使いこなせば大いに役立つという
「身体髪膚之を父母にうく。敢えて毀傷せざるは考の始まりなり」とあるが、単に傷をつけるの意ではなく、古文辞に照らしてみると当時は体の一部を傷つける刑罰が一般的だったところから、「身体髪膚」とは体罰で傷つけられる体の一部を指すとの解釈
朱子が『論語集注』を著わして以来、昔のいろいろな儒者の注釈が失われてしまったが、徂徠は仏書まで参照を広げることにより古義を掘り起こすことが出来た
清朝の儒学は、明朝までの朱子学一辺倒の時代と違い、考証学が全盛だったため字義には喧しく、多くの学者が、「物茂卿の『論語徴』に言う云々」として徂徠の説を引いている
清朝の学者たちが徂徠の学説、特に『徴』の解釈の価値を高く見たことは、日本の儒者に反対者が多いことと対照的
これをもって徂徠は「経学」の著作から手を引く ⇒ 徂徠学の確立
吉宗の代になって、将軍から「治道」の要諦を聞かれ、「楽礼制度」の導入を説き、新しい制度によって世の中を作り変えるべきとした
明代に大租洪武帝の肝煎りで作られた郷村の教化、防犯を目的とする教えに『六諭(りくゆ)』があり、清朝になってからも欽定として各省に頒布し、庶民教化の一助としたが、その解釈書である『六諭衍義』を入手した吉宗は、庶民教育に活用しようと幕府お抱えの儒者だった室鳩巣に訳させるも、俗語(白話)の解釈を知らなかったため、徂徠にお鉢が回ってきた ⇒ 翻訳の具体的なやり方についてのやりとりから、吉宗が徂徠の力を認め、異例の服地下賜となり、徂徠の文名をさらに高める
その後も吉宗から何かと尋問があり答えている
吉宗の財政面での改革成功のもととなった足高制度も、幕府の公式記録には載っていないが、徂徠の発案という ⇒ 役職ごとに役高を決め、禄が足りないものは不足分を足してお役を勤めさせる。人材発掘に有効
吉宗の私的秘書のような立場の人から度々召し抱えるとの意向が伝えられたが固辞
昔に返ることが最善・最良の策であるとするなど、復古的な提言が多く、吉宗の考えに近いところもあった
吉宗は徂徠の実力を認め、公儀に召し抱えるとともに、官学の学長とでもいうべき林家の当主や白石と同等に叙爵しようとしたが、俗っぽい名誉なんか求めるべきではないという儒者としての矜持に加え、5百石をもらう柳沢家にも大恩がある手前、徂徠としては辞退するほかなかった
享保13年、前年末から患った浮腫が悪化して死去 ⇒ 吉宗から薬が下賜されたというが、これも異例のことであり、吉宗は徂徠の死を甚く惜しんだという

徂徠学以後の儒学は、徂徠学に対する批判から始まる。多くの儒者が、儒学が重んじてきた仁義や道徳を蔑にしていると徂徠学を批判する
批判の筆頭は、朱子学の総本山である林家昌平黌で、「寛政異学の禁」が敷かれてあくまで朱子学を守ろうとしたが、仁斎から様々な疑問を投げかけられ、徂徠から追い打ちをかけられてとどめを刺されたかのごとく壊滅的な打撃を受け、失地を回復できないまま細々と生き長らえて明治を迎える
その他の批判者も徂徠を一歩も超えることは出来ず、明治以降の日本人は儒学を捨てた
江戸期250年の間の日本人はこぞって儒学に向かい、知と知を競い合うことに鎬を削り、競い合うことで脳に磨きをかけた ⇒ 明治に入って人文科学や社会科学、自然科学が入ってくると、それらに素早く切り替え、当たり前のように我が物にできたのは、偏に250年に亘って脳や知力に磨きをかけて来たからで、その頂点に立つ男こそ「知の巨人、荻生徂徠」
徂徠と赤穂浪士の処分について、徂徠の具申によるとする説があるが事実は異なる ⇒ 田原嗣郎『赤穂四十六士論』
「梅が香や隣は荻生惣右衛門」を其角の作として喧伝されるのも、実際のところは2年のずれがあり事実ではない



知の巨人 佐藤雅美著 政治と不即不離に生きた儒学者 
日本経済新聞朝刊2014年7月20日付
フォームの終わり
 この伝記の主人公荻生徂徠を「知の巨人」と呼んだとき、著者は、徂徠を思想家と政治家との間でどんな座標を与えるべきかひそかに困惑を感じたに違いない。江戸時代中期に生きた荻生徂徠(16661728)は、儒学を政治学に近づけた学者として知られる。本書も徂徠をたんに思想史の流れの中に位置づけるのではなく、現実政治と不即不離の関係に生きて苦労した人間として描くことに工夫を凝らしている。
(KADOKAWA・1900円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)
(KADOKAWA・1900円 書籍の価格は税抜きで表記しています)
 徂徠が立ち向かったのは、当時としての「現代」の問題であった。年号でいえば元禄・宝永・正徳・享保年間、将軍でいえば五代綱吉から八代吉宗まで、貨幣インフレから緊縮財政のデフレ経済へと、世の色調が対照的に入れ替わった多事な25年間が徂徠の活動期である。徂徠の立ち位置は江戸封建社会が初めて商品経済に直面し、貨幣の力が市場を制覇してゆく過程の入口であった。
 徂徠の父親の方庵(ほうあん)は綱吉に仕えた医師だったが、なぜか綱吉の勘気に触れ、一家は江戸を追放される。徂徠は父に従って房総半島の片田舎で儒学を独学で修め、元禄五年(1692)に江戸に戻った時にはすでに一家の見に達していた。
 気まぐれな専制君主であり、多分に衒学(げんがく)的な学問癖もあった綱吉は徂徠を重宝し、また自分の寵臣(ちょうしん)柳沢吉保に仕官させるなどこの学者を大切にした。この時期の徂徠はまだ幕府教学というべき朱子学を信奉していたが、余人の追随を許さぬ特技があった。「唐音」「華語」つまり当時の中国語の原音言語で儒学の古典が読めたのである。儒学は超時代的な「永遠の」真理を解く教説ではなく、どこまでも特定の歴史の中で生まれた独自の政治の学問である。独自の創見であるいわゆる徂徠学に開眼したのは、晩年の享保年間になってからだった。徂徠学の要点は、朱子学のように修養して道徳的な聖人たることをめざし、その結果、仁政を行うのではなく、理想的な政治は天賦の能力をさずかった聖人が制作した治術の体系だと主張することにある。
 しかし、徂徠学はあまりに原理論的すぎて現実の政治的要請の間尺に合わなかった。時代はすでに八代将軍吉宗の治世になっていた。米価の構造的低落に苦しみ、倹約政策の施行に熱心だったこの権力者にとっては、貨幣経済こそが武家社会の真の敵であり、その根本的な治作は「純粋封建制への回帰」であり、武士の農村土着であるとする徂徠の提言は有難(ありがた)迷惑な意見ですらあった。
(文芸評論家 野口 武彦)

Wikipedia
荻生 徂徠寛文62161666321 - 享保131191728228)は、江戸時代中期の儒学者思想家文献学者である。名は双松(なべまつ)、字は茂卿(しげのり)、通称は総右衛門、徂徠と号し(一説では「徂來」が正しいとする)、又蘐園と号した。本姓物部氏。父は5将軍徳川綱吉侍医荻生景明。弟は徳川吉宗の侍医で研究で知られた荻生北渓

生涯[編集]

江戸に生まれる。幼くして学問に優れ、林春斎林鳳岡に学んだ。しかし延宝7年(1679)、当時館林藩主だった徳川綱吉の怒りにふれた父が江戸から放逐され、それによる蟄居にともない、14歳にして家族で母の故郷である上総国長柄郡本納村(現・原市)に移った[1] ここで主要な漢籍・和書・仏典を13年あまり独学し、のちの学問の基礎をつくったとされる。この上総時代を回顧して自分の学問が成ったのは「南総之力」と述べている。元禄5年(1692)、父の赦免で共に江戸に戻り、ここでも学問に専念した。芝増上寺の近くに塾を開いたが、当初は貧しく食事にも不自由していたのを近所の豆腐屋に助けられたといわれている(#徂徠豆腐参照)。
元禄9年(1696)、将軍・綱吉側近で幕府側用人柳沢吉保に抜擢され、吉保の領地の川越15人扶持を支給されて彼に仕えた。のち500石取りに加増されて柳沢邸で講学、ならびに政治上の諮問に応えた。将軍・綱吉の知己も得ている。宝永6年(1709)、綱吉の死去と吉保の失脚にあって柳沢邸を出て日本橋茅場町に居を移し、そこで私塾・蘐園塾を開いた。やがて徂徠派というひとつの学派(蘐園学派)を形成するに至る。なお、塾名の「蘐園」とは塾の所在地・茅場町にちなむ(隣接して宝井其角が住み、「梅が香や隣は荻生惣右衛門」 の句がある)。
荻生徂徠墓(東京都港区)
享保7年(1722)以後は8代将軍・徳川吉宗の信任を得て、その諮問にあずかった。追放刑の不可をのべ、これに代えて自由刑とすることを述べた。豪胆でみずから恃むところ多く、中華趣味をもっており、中国語にも堪能だったという。多くの門弟を育てて享保13年(1728)に死去、享年63
墓所東京都港区三田四丁目の長松寺にあり、昭和24年に国史跡に指定された。

徂徠学の成立と経世思想[編集]

朱子学を「憶測にもとづく虚妄の説にすぎない」と喝破、朱子学に立脚した古典解釈を批判し、古代中国古典を読み解く方法論としての古文辞学(蘐園学派)を確立した。また、柳沢吉保や8代将軍・徳川吉宗への政治的助言者でもあった。吉宗に提出した政治改革論『政談』には、徂徠の政治思想が具体的に示されている。これは、日本思想史の流れのなかで政治と宗教道徳の分離を推し進める画期的な著作でもあり、こののち経世思想(経世論)が本格的に生まれてくる。

赤穂事件と徂徠[編集]

元禄赤穂事件における赤穂浪士の処分裁定論議では、林鳳岡をはじめ室鳩巣浅見絅斎などが賛美助命論を展開したのに対し、徂徠は義士切腹論を主張した。「徂徠擬律書」[2]と呼ばれる文書において、「義は己を潔くするの道にして法は天下の規矩也。礼を以て心を制し義を以て事を制す、今四十六士、其の主の為に讐を報ずるは、是侍たる者の恥を知る也。己を潔くする道にして其の事は義なりと雖も、其の党に限る事なれば畢竟は私の論也。其の所以のものは、元是長矩、殿中を憚らず其の罪に処せられしを、またぞろ吉良氏を以て仇と為し、公儀の免許もなきに騒動を企てる事、法に於いて許さざる所也。今四十六士の罪を決せしめ、侍の礼を以て切腹に処せらるるものならば、上杉家の願も空しからずして、彼等が忠義を軽せざるの道理、尤も公論と云ふべし。若し私論を以て公論を害せば、此れ以後天下の法は立つべからず」と述べている。

徂徠豆腐[編集]

落語講談浪曲の演目である。「徂徠豆腐」は、将軍の御用学者となった徂徠と、貧窮時代の徂徠の恩人の豆腐屋が赤穂浪士の討ち入りを契機に再会する話。
よく知られる江戸落語では以下のストーリーである。徂徠が貧しい学者時代に空腹の為に金を持たずに豆腐を注文して食べてしまう。豆腐屋は、それを許してくれたばかりか、貧しい中で徂徠に支援してくれた。その豆腐屋が、浪士討ち入りの翌日の大火で焼けだされたことを知り、金と新しい店を豆腐屋に贈る。ところが、義士を切腹に導いた徂徠からの施しは江戸っ子として受けられないと豆腐屋はつっぱねた。それに対して徂徠は、「豆腐屋殿は貧しくて豆腐を只食いした自分の行為を『出世払い』にして、盗人となることから自分を救ってくれた。法を曲げずに情けをかけてくれたから、今の自分がある。自分も学者として法を曲げずに浪士に最大の情けをかけた、それは豆腐屋殿と同じ。」と法の道理を説いた。さらに、「武士たる者が美しく咲いた以上は、見事に散らせるのも情けのうち。武士の大刀は敵の為に、小刀は自らのためにある。」と武士の道徳について語った。これに豆腐屋も納得して贈り物を受け取るという筋。浪士の切腹と徂徠からの贈り物をかけて「先生はあっしのために自腹をきって下さった」と豆腐屋の言葉がオチになる。

主著[編集]

·         『弁道』
·         『弁名』
·         『擬自律書』
·         『太平策』
·         『政談』 岩波文庫、平凡社東洋文庫、講談社学術文庫(抄訳)
·         『学則』
·         『論語徴』 平凡社東洋文庫2巻 

門人[編集]

·         太宰春台
·         服部南郭
·         山県周南
·         安藤東野
·         平野金華
·         住江滄浪
·         山井崑崙

脚注[編集]

2.   ^ 幕府の諮問に対して徂徠が上申したとされる細川家に伝わる文書だが、真筆であるかは不明。



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